欲楽の生活は「苦」を招き、禁欲の苦行も理想を達成する道ではない。
釈尊は、この両極を離れた中道こそ道諦としての真理であると説かれます。
この中道の人格完成のための実践方法を八正道と言います。
1 正見
「正しく眼の無常を観察すべし。かくの如く観ずるをば是を正見と名く。
正しく観ずるが故に厭を生じ、厭を生ずるが故に喜を離れ、貪を離る。
喜と貪とを離るるが故に、我は心が正しく解脱すと説くなり」といわれる。
われわれが身心のいっさいについて無常の事実を知り、自分の心身を厭う思を起こし、
心身のうえに起こす喜や貪の心を価値のないものと斥けることが「正見」
(samyag-dRSTi, sammaa-diTTi)である。
このように現実を厭うことが正見であるなら、人間の日常性を否定する消極的なもののように思われる。
しかし、その日常性の否定は、真実を積極的に追求することから生まれるから、
かえって真実の認識の完成である。
この意味で「心解脱」といわれ、正見が「四諦の智」といわれる。
この正見は、以下の七種の正道によって実現される。
その点で、八正道は、すべて正見である「智慧」の活動してゆく相である。
八正道は全て正見に納まる。
2 正思惟
正思惟(samyak-saMkalpa, sammaa-saGkalpa)とは、出家を思惟し無瞋を思惟し、
無害を思惟することである。このうち「出家を思惟する」とはパーリの原文では
「ネッカンマ・サンカッパ」(nekkhamma saMkappa)であって、
「nekkhamma」とは「否認」「否定」の意味だから、日常的なもののいっさいの否定をいう。
財欲、色欲、飲食欲、名誉欲、睡眠欲等の「五欲」にまつわる、
人間の日常生活の否定であり、それを思惟することが正思惟である。
この五欲の心の否定は、具体的には無瞋の思惟、無害の思惟である。
いわば瞋恚の心や害心のすがたを、ありのままの姿で思惟し、
これを捨てることを思惟するのである。
自己本位にふるまう人間の行動や、独善的な人間の行為を、
思惟によって明らかにして、これを否定するのである。
このように正思惟とは、自我的立場を否定して、
無我こそ自己の真実であると見きわめることである。
この立場の転換に人間生存の転換がなされる。
しかし、それが「正思惟」である限り、このような生の転換も観念的である。
そこで、次の「正語」と「正業」が説かれ、
正思惟の中に示される行動への意志が実行されるのである。
3 正語
正語(samyag-vaac, sammaa-vaacaa)とは、妄語を離れ、綺語を離れ、
両舌を離れ、悪口を離れることである。
4 正業
正業(samyak-kalmaanta, sammaa-kammanta)とは、殺生を離れ、
不与取を離れ、愛欲を離れ、愛欲における邪行より離れることをいう。
この二つは正思惟されたものの実践である。
妄語・綺語・悪口・両舌を離れること、これは人格の破壊を斥けるものであり、
殺生・偸盗・邪婬を離れることは人間人格の尊重である。
5 正命
正命(samyag-aajiiva, sammaa-aajiiva)
「邪命を捨てて、正命によって命を営む」とか「如法に衣服、飲食、臥具、
湯薬を求めて不如法に非ず」といわれるのは、
如法な生活それが正命であることをあらわす。
これは、まちがった生活を捨てて正しい生活を営むことであり、
常に無明を滅する方向に動いてゆく生活である。
したがって、それは人間の日常性に根差している価値を追求する生活を否定するものである。
この点、「正命」はこのようにすべき生活として求められつつあるものである。
6 正精進
この「正命」の生活は、ひたすらな努力の中にのみ得られる。
このひたむきな努力の生活、それが「正精進」
(samyag-vyaayaama, sammaa-vaayaama)である。
「未生の悪、不善法の不生のために欲を生じ、勤め精進し、心を摂し努力する」
「常に行じて退せざるを正精進という」というのは、これをいう。
これが、やがて四正勤(ししょうごん)として、すでに起こった悪不善を断ずる努力、
未来に起こる悪不善を生こらないようにする努力、
過去の善法の増長への努力として説かれるようになった。
7 正念
このような「正精進」に示される現前の事実的価値追求への否定の努力は、
主として過去の集約として与えられた、身体的なものに対する否定である。
このような立場から「身にありて身を観察して住し、熱心にして正しく理解し、
精神を集中し、明瞭な心と精神集中と、専一なる心とをもって、
如実に身体を知る」と説かれるのが「正念」(samyak-smrTi, sammaa-sati)である。
現にあるものとしてでなく、あるべきものとしての「正命」が実現されるのは、
身体における日常的なものが克服されることによってである。
それが「身の観察であり、精神を集中して如実に知る」ことである限り、
真に身体的なものの克服とはなりえないで、やはりイデア的であることを免れない。
これを身体的なものとして、生活自身において克服するものそれが「正定」である。
8 正定
「心は不乱に住し、堅固摂持し、三昧一心に寂止す」と説かれる。
これは心身一致の禅定において正しい智慧を完成することである。
この「正定」(samyak-samaadhi, sammaa-samaadhi)によってはじめて、
「正見」が得られるのである。
このようにして、八正道は八聖道として人間完成への道となる。
これを人間の実践として、中道であると説くのである。
以上の八正道の「正見」こそ真実の智慧の実践であり、
それを実現してゆく具体的な道が「正思惟」以下の七支であるから、
この八正道は、次のような形で人間の実践道となる。
中道
中道(ちゅうどう)とは、仏教用語で、厳しい苦行やそれと反対の快楽主義に走ることなく、
目的にかなった適正な修行方法をとることをいう。
釈迦は、六年間(一説には七年間)に亙る厳しい苦行の末、いくら厳しい苦行をしても、
これでは悟りを得ることができないとして苦行を捨てた。
これを中道を覚ったという。
釈迦は、苦行を捨て断食も止めて中道にもとづく修行に励み、
遂に目覚めた人(=仏陀)となった。
苦・楽のふたつをニ受(にじゅ)といい、
「有る」とか「無い」という見解を二辺(にへん)というが、そのどちらにも囚われない、
偏らない立場を中道という。
その中道を、智ギは真理とよび中諦を説いた。
諦とは真理という意味である。
中国で説かれた中庸と同一視されることもあるが、厳密には別のものである。
中庸の「中」とは偏らないことを意味し、「庸」とは易(か)わらないこと、と説明されている。
中道の「中」とは偏らないことを意味し、「道」は修行を意味するとされる。
以下、悟りへの道である、八正道(中道)について、語り合いましょう。
1 正見
2 正思惟
3 正語
4 正業
5 正命
6 正精進
7 正念
8 正定
のそれぞれについて、もしくは中道についてなど。
同一のスレッドに続けて書くのは中道に反するので、ここでいったん終わります。
その他の、仏教の基本教義
縁起
四諦
三法印
四法印
諸行無常
諸法無我
涅槃寂静
一切皆苦
八正道は四諦の中の道諦として説かれるから、
教学的には四諦の教え以外に八正道が別にあるわけではない。
四諦といえば、そこに道諦として八正道があるのだから別に、
古来いわれるように四諦八正道と併称する必要はないが、
このような総括がインドの様式のようである。
四諦
四諦(したい、catvaari aaryasatyaani、??????? ???????????)とは、
釈迦が悟りに至る道筋を説明するために、
現実の様相とそれを解決する方法論をまとめたものである。
1 苦諦
2 集諦
3 滅諦
4 道諦
四諦
四聖諦とも呼ばれる。
聖諦とはサンスクリット語で「神聖なる真理」という意味であり、
パーリ語では「アリヤ・サッチャーニ」(ariya-saccaani)といわれる。
釈迦はさとりを得た後、ベナレスの鹿野苑(ろくやおん)において、
初めて五比丘のために法を説いた(初転法輪)。
この時、この四諦を説いたと言われ、四諦は仏陀の根本教説であるといえる。
四つの真理とは、
人が生きるということは苦であるという真理
その苦の原因は人間の執着にあるという真理
この苦を滅した境地が悟りであるという真理
その悟りに到達する方法は八正道であるという真理
であり、これを順に苦諦・集諦(じったい)・滅諦・道諦と呼ぶ。
このうち前2者は流転の因果を示すものであり、
後2者は悟りの因果を示すものである。
この四諦は釈迦が人間の苦を救うために説かれた教えであり、
あたかも医者が、患者の病気の何であるかをよく知り、
その病源を正しく把握し、それを治癒させ、
さらに病気を再発しないように正しく導くようなものだ(応病与薬)と言われている。
苦諦
苦諦(duHkha-aaryasatya)とは人生の厳かな真相、現実を示す。
「人生が苦である」ということは、仏陀の人生観の根本であると同時に、
これこそ人間の生存自身のもつ必然的姿である。
このような人間苦を示すために、仏教では四苦八苦を説く。
四苦とは、生、老、病、死の四つである。
これに、
愛し合うものが別れてゆかねばならない「愛別離苦」(あいべつりく)
憎む対象に出会わなければならない「怨憎会苦」(おんぞうえく)
求めても得られない、または得られないものを求めてしまう「求不得苦」(ぐふとっく)
最後に人間生存自身の苦を示す「五陰盛苦」(ごおんじょうく)、または「五取薀苦」(ごしゅうんく)
を加えて「八苦」と言う。
非常に大きな苦しみ、苦闘するさまを表す慣用句「四苦八苦」はここから来ている。
集諦
集諦(じったい、duHkha-samudaya-aaryasatya)とは、
苦が、さまざまな悪因を集起させたことによって現れたものである。
という真理、またはこの真理を悟ることを言う。
集諦とは「苦の源」、現実に苦があらわれる過去の煩悩をいうので、苦集諦といわれる。
「集」とは招き集める意味で、苦を招きあつめるものが煩悩であるというのである。
この集諦の原語は「サムダヤ」(samudaya)であり、
この語は一般的には「生起する」「昇る」という意味であり、
次いで「集める」「つみかさねる」などを意味し、
さらに「結合する」ことなどを意味する。
その点、集の意味は「起源」「原因」「招集」いずれとも解釈できる。
苦集諦とは「duHkha-samudaya-satya」とあるので、
「苦の原因である煩悩」「苦を招き集める煩悩」を内容としている。
そこで、具体的には貪欲や瞋恚(しんに)、愚痴などの心のけがれをいい、
その根本である渇愛(かつあい)をいう。
これらは欲望を求めてやまない衝動的感情をいう。
さて、仏教において苦の原因の構造を示して表しているのは、十二縁起である。
この十二縁起とは苦の十二の原因とその縁を示している。
十二縁起より、苦とは、十二の原因のシステムという事になる。
十二個集まってそれ全体が苦なのである。
だから、「無明」も「渇愛」も「愛欲」も、苦の根本原因であり苦集諦である。
滅諦
滅諦(nirodha-aaryasatya)とは、「苦滅諦」といわれ、
煩悩が滅して苦のなくなった涅槃の境地を言い、
いっさいの煩悩の繋縛(けばく)から解放された境地なので解脱の世界であり、
煩悩の火の吹き消された世界をいう。又は苦の滅があるということを認識すること、
すなわち苦の滅の悟り、又は苦の滅を悟ることを滅諦という。
具体的には、諸法皆空という言葉で言われているように、
森羅万象全ての法、すなわち諸法はすべてこれ空であって、
実体のあるものではなく、因と縁から成り立っているものであり、
苦は縁であり、縁は因(たとえば心や行いなど)を変えることによって
変わりうるという悟りであるとも言える。
道諦
道諦(maarga-aaryasatya)とは「苦滅道諦」で、苦を滅した涅槃を実現する方法、
実践修行を言い、これが八正道である。
八正道は七科三十七道品といわれる修行のうちの最終に位置づけられている課程である。
初めの苦、集の二諦は、明らかに迷の現実とその原因を示したものであり、
後の二諦は悟りの結果とその方法を示したものである。
釈迦は初転法輪において、まず迷いの現実が苦であることと、
その苦は克服しうるものであることを明らかにした。
しかも、苦は単に苦として外にあるのでなく、
我々がそれをどう受け取るのかで変わってくることを説いて、
「煩悩」こそがすべてを苦と受け取らせる原因であることを明らかにした。
したがって、この煩悩を正しく処理すれば、苦に悩まされない境地をうる。
その道こそ、いっさいの自己愛を捨て、他に同化することにあるので、
その根本は自己の本姿に徹することである。
つまり、本来、執着すべきでない自己に執着することこそ、苦の原因である。
この「苦」を滅して涅槃の世界に入る方法こそ「八正道」であり、
聖なる道を実現するから「八聖道」ともいわれる。
大乗の大般涅槃経の四諦品では、通常の四諦に新しい大乗的な解釈を加えた、
涅槃の教理的な四聖諦を説いている。
苦聖諦
この世の苦を明らかに徹見し、如来常住の真理を会得すること。
また常住の法身を信じないことが生死の苦の根源であると知ること。
集聖諦
苦の根源は煩悩妄執であることを徹見し、それに対して如来の深法は常住にして不変易であり、
窮まりないと證知すること。
また非法を先とし正法を断滅することが生死の苦悩を受け集める原因であると知ること。
滅聖諦
苦の原因である一切の煩悩を除き、苦を滅する事が悟りの境地であるが、
如来の秘密蔵を正しく知り修智すれば、煩悩があってもよく除く事ができる。
また、衆生の一人一人が自己に内蔵する如来蔵(仏性)を信ずる一念が苦を滅するということ。
道聖諦
八正道を通して一体三宝(仏法僧は差別無く一体である)と解脱涅槃の常住不変易を知り、
修習すること。
また如来が常住不変易であるから、三宝の一体、解脱は涅槃経の2つも常住不変易であると知ること。
中道
中道(ちゅうどう)とは、仏教用語で、厳しい苦行やそれと反対の快楽主義に走ることなく、
目的にかなった適正な修行方法をとることをいう。
釈迦は、六年間(一説には七年間)に亙る厳しい苦行の末、いくら厳しい苦行をしても、
これでは悟りを得ることができないとして苦行を捨てた。
これを中道を覚ったという。
釈迦は、苦行を捨て断食も止めて中道にもとづく修行に励み、
遂に目覚めた人(=仏陀)となった。
苦・楽のふたつをニ受(にじゅ)といい、「有る」とか「無い」という見解を二辺(にへん)というが、
そのどちらにも囚われない、偏らない立場を中道という。
その中道を、智ギは真理とよび中諦を説いた。
諦とは真理という意味である。
中国で説かれた中庸と同一視されることもあるが、厳密には別のものである。
中庸の「中」とは偏らないことを意味し、「庸」とは易(か)わらないこと、と説明されている。
中道の「中」とは偏らないことを意味し、「道」は修行を意味するとされる。
八正道
八正道(はっしょうどう、aaryaaSTaaGgo-maargo、????????????? ??????)は、仏教用語のひとつ。
「八聖道」とも「八支正道」とも言うが、倶舎論では「八聖道支」としている。
この 「道」が偏蛇を離れているので正道といい、聖者の「道」であるから聖道(aaryaamaarga)と言う。
八正道は四諦の中の道諦として説かれるから、教学的には四諦の教え以外に八正道が別にあるわけではない。
四諦といえば、そこに道諦として八正道があるのだから別に、
古来いわれるように四諦八正道と併称する必要はないが、このような総括がインドの様式のようである。
古い『相応部経典』では、釈迦は、その最初の説法(初転法輪)で、まず非苦非楽の中道を説き、
それを八正道であるといい、さらに四諦を説いたといわれる。
四諦を説いて、その道諦として八正道を説いたのでなく、
中道とは八正道であることを説いて、ついで四諦を説いたのである。
このことは、四諦という教義的組織は、八正道を中道と説く立場の教義的な裏づけであることを示している。
釈迦の説法は、直接に人間の実践を主としており、教理は実践を体系付け裏付けるものである。
釈尊の直接の教えからは程遠いとされる真言宗も、教相・事相の両立を説いている。
われわれの仏教の理解も、書物による知識ではなく常に現実における実践を中心としなくてはならない。
22 :
神も仏も名無しさん:2008/02/28(木) 15:47:23 ID:iOrQ3Iex
age
23 :
神も仏も名無しさん:2008/02/28(木) 15:50:13 ID:iOrQ3Iex
age
30年間ほぼ毎日パチンコしてた。明日からやめる。
25 :
神も仏も名無しさん:2008/04/02(水) 22:06:27 ID:jiGojI/9
経典から、「見性]或いは「悟り」に至るのは、かなり無理が有るようです。
それで、中国では、お経による、仏教は「禅」に駆逐されました。悟ると言う事
は体得する事です。お経、それもわけも分からないものを分かった、ふりで教えて
貰っても、それは、無理な事の様に思われます。
禅による「悟り」の道は、「公案」と呼ばれるものと、「座禅」の二本柱から
成り立ちます。釈尊の教えは、苦しみ、悩み、からの「開放」に在ります。その
「苦しみ」とは何かという事ですが、是は心の葛藤です。言い方を替えれば
心の矛盾です。他の言い方をすれば心の対立と云っても間違いではないかと
思います。
それでは、一人の人間には、心が二つ有る事になります。そういう事です。
心が二つ有る事がそもそも、二元論の始まりです。アダムとイブが智慧の
リンゴを食べて、天国から追放された。その事に当てはまります。
難解な、経典に書かれているものは、全てが、その「苦」から「楽」に至る
ための、教えと、至った時の、その、境涯を述べたものかと思います。
それは、昔の、それも他国の言葉を、又他国の言葉に置き換えたもの、
そう言っても、言いすぎにはならないかと思います。
26 :
神も仏も名無しさん:2008/04/02(水) 22:07:56 ID:jiGojI/9
その、「奥義」を日本語で懇切丁寧に書かれていた、としても、その「奥義」
を言葉で伝えるのは、難しい気がします。
悩みとは、自分で自分を悩ませている事です。その事を「妄想」と言いますが。
それは、どういう事かと言いますと。自分の「命そのものの人格(仏性)」
と「自我」としての人格、その二つの人格の考えの矛盾を「悩み」として
自我が受け取っている事です。
そして、「悟りを開く」という事は、自我がもう一人の自分(仏性」と出会う
という事です。その事によって。お互いの、考え方の矛盾が解消されます。
二つの心の矛盾を「苦しみ、悩み」として、自我が受け取っていたのですから
ここで、悩み、苦しみからの「解脱」という事です。この不安の解消された
境涯を「涅槃」と言います。絶対の安心の事です。「絶対肯定」と云っても
よいでしよう。
それで、お釈迦様は「宗教」を否定した訳です。お釈迦様の教えは「宗教」では
無いのです。それは、薬も使わないで、この「不自由な、苦しみの多い」
人生を、安楽に自由に、のびのびと、生きて行くための「究極の心の癒しの」
「心理学」或いは「治療法」と云って良いかと思われます。
今の「仏の弟子」達は、世間の事が忙しくて本来の「大悲」「大智」というもの
を説こうとしません。それは、分かっているけれど、説かないのか。
又は、分かっていないから説けないのか、私ら、在家の者には、分かりませんが。
27 :
神も仏も名無しさん:2008/04/10(木) 07:10:56 ID:NLs2BMly
>>26 すばらしい。
私も人に笑われようと、苦からの解脱をめざしています。
ほとんどの苦は自分でつくりあげていから・・。
28 :
神も仏も名無しさん:2008/04/10(木) 22:31:53 ID:LApcH3s3
苦からの解脱は、苦しみの多い人の方が、達成されやすいかも知れません。
その、もう一つの自分は、殆ど姿を見せないからです。ですが、悩みの
元は、「それが」作っています。
それが、見え難いのは、自我の意識と、合いにくく出来ているからです。
それは、右脳の意識です。得意とすることは(脳の機能の事です)「分別」
出来ない事です。それは、計算で割り切れない事をやってゆく機能です。
分別出来ないことは、沢山在ります。直感、感情、美的感覚、芸術、スポーツ
眠る事、起きる事、毎日の生活に、大いに関わっています。
論理では、割り切れないもの、昔は「分別」と云っていたようです。
つまり、永遠とか、無限とかです。
それにひきかえ、自我(左脳)は論理的なことが得意です。論理で割り切れる
ものは、有限、終わりが来ると言う事です。有限の事を、分別出来る事と言います。
29 :
神も仏も名無しさん:2008/04/10(木) 23:03:15 ID:LApcH3s3
従って、人間の苦しみとは、左脳の意思と、右脳の意思が矛盾している事とも
言えます。その意識同士の矛盾、対立を自我が「悩み、苦しみ」として受け取る
事とも言えます。
感情面で言えば。人間の最大の悩みとは「自分が死に逝くことを、意識」する事
です。他人の死は、意識上に上がってきません。
脳の働きからすれば、有限から無限を眺める事によります。
他の言い方をするなら。
永遠から、有限を多いつくさんとして、その手をさえぎられてしまう事に
よります。
右脳には、仏性がいます、神様がいます。それに、出会う事を「見性成仏」したと
言います。禅宗では、生死の問題は、解決したかどうか?という言い方をします。
悟りとは、悩める心の、治療法です。薬も使わないで。真に心に安心をもたらすものです。
それで、お釈迦様は、宗教を否定しました。それは、脳の科学で証明されたものです。
ただ、誰も認知してはいませんので、大きな声では言い難いのですが。
精神疾患は、お釈迦様の教えで、きれいに完治します。
それは、完璧な精神衛生上最も、有効な、癒しの心理学です。分かり難い
という、難点があります。
30 :
神も仏も名無しさん:2008/04/13(日) 19:58:32 ID:dZfk+gbY
そして、見性出来た時には、考え方が、変わります。分別の無分別。
無分別の分別という事が、よく判る様になります。
人生で、欲しいと思うものを手に入れる、極意というものが、少しだけ。
その極意というのは、手放す時に、自分の所に入ってくるという事です。
人に、あげないと、自分の所には、回ってこない、という事です。
天国に行きたかったら、天国を捨てるという事です。
地獄に行きたくないなら、天国を捨てる、そうすれば、そのままで、天国です。
31 :
神も仏も名無しさん:2008/04/25(金) 22:29:46 ID:c/5WD0Jv
自我には、判り難いですが、自分の知らない「意識」が自分に働いています。
その意識は「仏性」と云って、常に自分に働きかけています。或いは自分を
働かせています。
それは、自分の「無意識」を働かせています。常に自分を働かせています。
人間は、誰でも、意識と、無意識に切り替わって、生活が成り立っています。
その、切り替わりが、出来なくなる時が在ります。それが「精神疾患」という
ものです。その場合、意識が意識して「無意識」の動作が、出来なくなります。
「神経症」というものが有りますが、これは、症状名が「意識した事」そのもの
という事です。意識した事に「心が捉われて」無意識の世界に入り難くなる、と
いうものです。「意識の固着」ということです。
意識の固着とは、辛い症状に見舞われるということです。仏教での「地獄を見ている」
事に、相当します。何も無いのに自分で地獄を作ってその地獄の中で、喘いで居る事
です。
それは、自我と「仏性」が対立と矛盾を、起こしていると言う事です。自我が、もう一つ
の、意識を無視する事によります。
それで、「我を捨てろ」或いは「分別を捨てろ」といいます。その我が、辛さで死んで
しまう事を「大死一番」と言います。
その我が、我を張って「仏性」と対立を起こしていて、その矛盾を、苦しみとして感じて
いたところから、一度死んだ自我は、決してでしゃばらなくなります。
二度と、自我と仏性は、対立しなくなります。苦しみの元である、心の矛盾、対立が
無くなります。絶対の安心が訪れます。悩みの元と、悩まされている者との出会い
それが「見性」したと言う事です。涅槃とも言います。
32 :
神も仏も名無しさん:2008/05/22(木) 14:44:21 ID:1wB+db16
なかなか
33 :
こっちスレ主さん実力見せてくれ:2008/05/22(木) 15:59:17 ID:IUnK901H
34 :
神も仏も名無しさん:2008/06/07(土) 23:28:47 ID:96Gz2ghZ
どんな、動物も、学校に行かなくても。全てが、備わっている。
教えてもらわなくても、何でも知っている。
人間も、元々、全てが備わっていないはずは、ない。
分別に、眩まされている。
36 :
神も仏も名無しさん:2008/07/06(日) 16:43:07 ID:ekxwsiQe
,,,
37 :
神も仏も名無しさん:2008/08/10(日) 13:41:20 ID:ysD1rmv3
>>14 >その苦の原因は人間の執着にあるという真理
>この苦を滅した境地が悟りであるという真理
釈迦は悟りを開き、あらゆる苦悩から解脱されたとの事だけど、
鍛冶屋のチュンダが招いた席で出された食事を食べた後食中毒になり、
腹痛で苦しむだけ苦しみ、その痛み苦しみを紛らわす為に座禅をやったりしたけど
収まらず、ついには食中毒が原因で亡くなった。
結局、苦悩から解脱はできなかった。つー落ちがあるw
インド人の悟りなんてそんなもんだ。
38 :
神も仏も名無しさん:2008/08/10(日) 14:20:02 ID:eJJw20p8
釈迦はふつうのひとだったんだね。
普通の、常識人。偉大なる常識人。ゆえに大聖者。
test
41 :
神も仏も名無しさん:2008/09/06(土) 23:29:43 ID:CBnuf9mt
>>37 苦=エゴ
痛=感覚
彼はエゴを解脱したのであって、感覚を解脱したのではない。
42 :
神も仏も名無しさん:2008/09/08(月) 22:04:45 ID:J4YGN1Zl
43 :
神も仏も名無しさん:2008/09/12(金) 19:06:34 ID:MwbBuX4V
44 :
神も仏も名無しさん:2008/09/13(土) 22:39:13 ID:b3AZZlNM
45 :
神も仏も名無しさん:2008/09/19(金) 22:06:37 ID:bmT109Bp
ぷっ゛
雌豚
中原中也 ― 春日狂想
1
愛するものが死んだ時には、
自殺しなけあなりません。
愛するものが死んだ時には、
それより他に、方法がない。
けれどもそれでも、業(ごふ)(?)が深くて、
なほもながらふことともなつたら、
奉仕の気持に、なることなんです。
奉仕の気持に、なることなんです。
愛するものは、死んだのですから、
たしかにそれは、死んだのですから、
もはやどうにも、ならぬのですから、
そのもののために、そのもののために、
奉仕の気持に、ならなけあならない。
奉仕の気持に、ならなけあならない。
47 :
神も仏も名無しさん:2008/09/22(月) 00:32:21 ID:VvlgrxyM
八正道が悪いものとはおもわない、
学ぶもののなかに
悪意に満ちたものや、エゴまるだしの虚言者など、
もっとも低級層のレベルが、他宗教
にくらべ多いようにみうけられる、
それが八正道信奉者。
地獄に転落するまえに反省をしないさい。
神に許しをこうのです。
48 :
神も仏も名無しさん:2008/09/22(月) 00:34:00 ID:VvlgrxyM
というわけで、おいら
逝ってきますwwwwwwwwwwwwww
49 :
神も仏も名無しさん:2008/09/28(日) 21:18:42 ID:ZzDjF26a
中道の理解は、、
知性より感性に頼り、
知識より体験にゆだね、
学ぶよりそれを日常の一部とするべし。
50 :
神も仏も名無しさん:
阿含宗桐山教祖の逮捕歴
昭和二十七年八月十六日 詐欺容疑、契約違反の容疑で逮捕
警視庁西新井署
十二月手形詐欺容疑で逮捕
千葉県松戸署
二十八年八月 酒税法違反 私文書偽造容疑 逮捕
警視庁防犯課
二十九年 三月酒税法違反 私文書偽造に対する第一審判決
五月入所
十月東京高裁酒税法と私文書偽造により有罪