301 :
神も仏も名無しさん:
25万円が高いとか安いとか、そんな数字の問題ではないんですよ。
マントラに定価をつけて、それを商品として売買する行為自体がヴェーダの伝統に反する、
ヴェーダの説く叡智の意味がまるでわかっていないということなんです。
もちろん、グルをはじめとしてヴェーダの伝統に従事する人たちにとってもお金は必要です。
しかしそれは純然たるドネーション(布施)によって賄うのが筋というものです。
TM、フルフィルメント瞑想、フリダヤ瞑想・・・・。
これらの瞑想の創始者たちは自分たちはヴェーダの伝統と叡智を汲んでいる、と主張していますが、
マントラ伝授一件につき○万円です、と定価をつけて販売している時点ですでに終わってます。
どれほどそれらの瞑想の効果を喧伝しても、もはや何の意味ありません。
そこにはグルパランパラ(神へと連なる正統な霊脈、法脈)との本当の繋がりはないからです。
お金が悪いと言ってるのではありません。
ドネーションの意味がまるでわかっていない、ということを言ってるんです。
302 :
神も仏も名無しさん:2008/06/14(土) 18:34:57 ID:ycP+aNXa
ドネーションというのは、現在のその人の経済状態にとって、
まったく痛みを伴わないものでは意味がなく、また、生活に支障をきたすようでも意味はありません。
クリスマスのプレゼントのルーツと同じく、今晩自分が食べるはずだった夕食を食べずに、
それをサドゥや恵まれない人たちに捧げて彼らに食べて頂く、ということです。
それらの人たちは、自己と同様に神そのものの一部、神の顕れそのものを意味しているからです。
今晩食べるはずだった夕食を抜くことで、多少の空腹感は感じるかもしれません。
しかし、その空腹感はやがて、神から降り注ぐ恩寵によって有り余るほどに満たされることになります。
それが寄付や布施ということの本当の意味であり仕組みです。そのようなメカニズムになっています。
自分にとって必要な分はちゃっかりとっておいて、いらないものを寄付したり布施したりしてもダメです。
また、自分自身の生活も賄えなくなるほどの寄付や布施は、自分という神の顕れを虐待し、
ないがしろにしていることになるわけですから、これもダメなんです。
例えば平均的な高校生や大学生にとって、25万円は経済的にちょっと痛い程度の額ですか?
億単位の年収を稼ぎだす人にとって、25万円はふところが少しさみしくなるような額と言えますか?
自分(=エゴ)を犠牲にして捧げることによって、神にすべてを委ねる、明け渡す、ということ、
それによって初めて、マントラ伝授にしろ、プジャにしろ、本当の意味で成立し機能し始めるわけです。
マントラやプジャはエゴという客人がその場を明け渡した後にやってくる、本当の主人の象徴です。
そのようにして、本当の主人を招き入れたとき、初めてその人はグルパランパラと繋がります。
303 :
神も仏も名無しさん:2008/06/14(土) 18:35:42 ID:ycP+aNXa
マントラを伝授する側からすれば、そんなやり方では1000円のドネーションで瞑想を習う人ばかりになる、
それではとてもじゃないが経済的にやっていけるはずがない、と反論してくるかもしれませんが、
彼らのそういう言い訳は、まさに彼らが日々伝授しているであろうマントラによってもたらされるはずの、
「自然からの支持」ということを、彼ら自身が実はまったく信頼していないということの表れでもあります。
教師自身が、エゴを明け渡す覚悟がない、つまり、神を信頼せず、自然の支持を疑っている、ということです。
“まず、神の国とその義を求めよ、そうすれば他のものは後から付け加えられる”(マタイ伝6章33節)
まず、「神の国とその義」を求めず、「その他のもの=経済的な安定他」を優先して求めているからこそ、
ドネーションだけでは心配になってくるんです。だからこそ逆に経済的にはますます困窮していくことにもなります。
それがこの数十年の間にTM伝授の“価格”が等比級数的に跳ね上がっていったことの背景にあるものです。
神の国へと人々を導く役割を担っているはずの人たちが、どうして神の恩寵を信頼できないのですか?
神の恩寵、自然からの支持を信頼できない、つまり、彼ら自身そう確信するだけの体験も能力もない人たちに、
一体何を伝授することができるというのでしょうか?