とりあえず2を取っておこう。
3 :
神も仏も名無しさん:2008/01/24(木) 15:45:47 ID:hbbcHtJp
とりあえず3
4 :
神も仏も名無しさん:2008/01/24(木) 15:47:47 ID:hbbcHtJp
よん様
5 :
希美 ◆pLAYdeBByU :2008/01/24(木) 17:44:49 ID:sUWou375
6 :
神も仏も名無しさん:2008/01/24(木) 20:35:55 ID:bbxYCUj7
録画済み
7 :
希美 ◆pLAYdeBByU :2008/01/24(木) 20:55:02 ID:sUWou375
七五三は神田明神で。
8 :
神も仏も名無しさん:2008/01/24(木) 20:58:44 ID:bbxYCUj7
753みたいな異教の風習に従う気はないのですが、、、。
9 :
perro ◆ivUPSw8nqQ :2008/01/25(金) 01:22:04 ID:qjNekuys
鳩摩羅什
人は選ぶべき道が多数あるようで
その実人が選ぶ道はない。
すべての人は死に向かって進むしか道はない。
そしてすべての人の道は死の次は復活の道しかない。
どのような形で復活するにせよ。
だから、死は人にとっては通過点にしか過ぎない。
11 :
神も仏も名無しさん:2008/01/25(金) 07:55:09 ID:XeBQ0NWg
死に急ぐな。
12 :
神も仏も名無しさん:2008/01/25(金) 13:53:45 ID:V79/MmPg
>>10 自殺しては、なりません。人生やり直せるはずです。
>>12 自殺するとはいってない(^_^;
死は恐れるに足らぬという事をいいたかった
14 :
神も仏も名無しさん:2008/01/25(金) 20:59:26 ID:bVHFCuw4
自殺するなら、生命保険に加入して13ヶ月たってからに汁。
15 :
perro ◆ivUPSw8nqQ :2008/01/25(金) 23:57:40 ID:qjNekuys
15少年漂流記
16 :
Metatron ◆SyZ09dFMKU :2008/01/26(土) 00:13:35 ID:5jO/rsjS
17 :
perro ◆ivUPSw8nqQ :2008/01/26(土) 00:21:58 ID:ZNjxA2hT
「17才」南沙織、森高千里
>>16 おちたちぶりです。
メシヤ と なかよしイケメン スレでお会いしましたな
18 :
perro ◆ivUPSw8nqQ :2008/01/26(土) 00:53:58 ID:ZNjxA2hT
♪こぉ〜いするハート わたしはエイティーン♪
「死は勝利にのまれてしまった。
死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか」
第一コリント 15:55
19 :
トム ◆z0Lu5Kk2EE :2008/01/26(土) 17:19:49 ID:5Ox6eeCh
沢尻エリカ「好きなタイプはエヴァンゲリオンのカヲル君です」
20 :
perro ◆ivUPSw8nqQ :2008/01/27(日) 23:58:33 ID:sBOWOWR2
>>16 もしかして ルー?
知らなかった〜(_ _)
おちたちぶり〜
21 :
神も仏も名無しさん:2008/01/28(月) 22:21:27 ID:4VoMK1Fe
でも、そんなの関係ない!はい、おぱぴ〜♪
22 :
神も仏も名無しさん:2008/01/30(水) 20:08:28 ID:q2upOj8s
22歳の別れ。
南沙織の最高傑作は「春の予感」。
24 :
神も仏も名無しさん:2008/02/02(土) 18:57:53 ID:pnHDw8D0
24時間営業のコンビニ
もうすぐ春ですね〜♪
イエス・キリストが弟子達に伝え忘れた事。
それは、すべてのものが神様の御霊で出来ている事。
すべての人が神様の子であること。
すべてのものが神様の愛で満たされていること。
そしてすべてのものは争ってはならぬ事
すべてのものは競い合ってはならぬ事。
これだけの事をイエス・キリストは弟子達に伝え忘れているのです。
神が天地創造主一人だけならば天地を創造していないものは偽神、つまり悪魔。
偽神の走りはヤハウエーとロゴスで彼らは神(cumi)が創った天地の中で生まれただけ。
そしてヤハウエーがロゴスで創ったとされる宇宙はヤハウエーが天地の中にロゴスを横たえただけ。
偽神の第二世代があまてらす達であまてらすや、おおくにぬし、いざなぎ、いざなみ達、
日本神話の神々も神(cumi)が創った天地の中で勝手に生まれて勝手に神と名乗っただけ。
偽神の第三世代がゼウス達ギリシャ神話の神々達で、彼らは天にある神の木という場所の出身。
ゼウス、ヘラ、ニケ、アフロディーテ、ビーナス、アポロン、ネプチューン、ハデス、エロス、
彼らも神(cumi)の創った天地の中の生まれで、彼らもまた自然発生して自分達で神と名乗った偽神達。
第三世代の偽神以降は偽神は発生していない。
この中で一番許せないのが、おおくにぬしのみことで、おおくにぬしのみことは、
勝手に神と名乗っただけでなくて、勝手に天主と名乗り、彼に従わない者には、
厳罰を与えて天地を支配した悪魔。
支配は自由を奪う悪魔の行い。
神の名はcumi(神)だけで神(cumi)は女だけです。
28 :
perro ◆ivUPSw8nqQ :2008/02/09(土) 04:24:40 ID:lejtbu0Z
>>23 ♪は〜るに誘われたわけじゃ〜ない〜♪
ってやつかな?
名曲だ!
>>25 ♪彼を誘ってみませんか〜♪
男が男を誘うのもアリだと思うよ、ウフフ
>>26 本当に忘れちゃったのかなぁ
29 :
神も仏も名無しさん:2008/02/14(木) 22:23:51 ID:RHFI7imA
そんなの関係ネイ!はい!おぱぴ〜♪
30 :
神も仏も名無しさん:2008/02/23(土) 07:13:00 ID:V779NgzM
三十路
神は何処に?
31 :
希美 ◆pLAYdeBByU :2008/02/23(土) 08:05:04 ID:JSEhg0Q0
このスレは、スレタイ、テンプレともに、煽り目的な不正スレだから、上げるな。
>>30は、バカか?
dat落ちさせるスレだよ。
32 :
神も仏も名無しさん:2008/02/23(土) 09:55:56 ID:V779NgzM
33 :
神も仏も名無しさん:2008/02/23(土) 16:02:37 ID:5ibHjqtA
34 :
Metatron ◆SyZ09dFMKU :2008/02/23(土) 17:43:47 ID:ZThq5f3d
今からお汁粉飲みたいんだけど、太りそう
36 :
perro ◆ivUPSw8nqQ :2008/02/24(日) 00:21:26 ID:yoSM7CEp
37 :
神も仏も名無しさん:2008/02/24(日) 04:36:51 ID:8H5PNpT5
かわってるな(笑
38 :
神も仏も名無しさん:2008/02/25(月) 23:14:45 ID:HIe9c6Cb
さあて、たまには空気でもいれかえるかな
39 :
神も仏も名無しさん:2008/02/26(火) 18:05:32 ID:E0JaXGqD
あげ
40 :
偽クリスチャン:2008/02/26(火) 18:23:02 ID:E0JaXGqD
奇跡、神の沈黙、信仰、祈り、あの世、この世・・・
41 :
神も仏も名無しさん:2008/02/26(火) 22:52:18 ID:dxyBMZU+
最初の疑問
1 イエスはあの世の支配者である・・・だからあの世はあるのだろう。
2 あの世があるとして、あの世はどんな世の中なのだろう?
42 :
神も仏も名無しさん:2008/02/26(火) 23:51:51 ID:QS5m2kKb
手がかりもなく、あの世を空想しても答えはでてこない。
そこで仮定しよう・・・あの世は毎日の夢のようなものであると。
こうすれば、夢を手がかりに、あの世のことを多少イメージできるだろう。
43 :
偽クリスチャン:2008/02/27(水) 00:36:51 ID:CVTR5sYM
夢の中を生きているとしたらどうだろう。
自分の思ったことが何でも実現する。
思い通りになるから幸せ? 自分ひとりならそうかもしれない。
しかし自分以外の人や生き物がいる。かれらと衝突するかもしれない。
夢の中でも衝突があり、衝突したら悪夢になる。
44 :
偽クリスチャン:2008/02/27(水) 00:50:52 ID:CVTR5sYM
夢の中はヒトの思いが映像を支配している世界だから、
この現実より露骨でどぎついものになる。
そして夢の中では反省がないから、悪夢を見ても悪夢を見ても、
自分のどこが誤っているのかを知ることがない。
悪夢、それは百鬼夜行の世界になる。
45 :
偽クリスチャン:2008/02/27(水) 01:02:53 ID:CVTR5sYM
百鬼夜行、これがあの世である。
自分の思い通りに生きている人や生き物が無数にいる。
それぞれが好き勝手に周囲の映像をいじくり回している。
ここには混乱と混沌しかない。
あの世にどうやって秩序を形成することができるのか?
ヒトは夢の中で反省しないから、
夢を見ているヒトに何かを教えることは非常に難しい。
神とは天地のすべて。光、闇、空気、土、水のすべてが神。
神には目鼻口喉手足胴という体が無い。
神には体が無いから神の行ないを補助するのに天使たちがいる。
堕天使論、堕墜論を作ったのは神と名乗る悪魔。
彼の支配の邪魔になる天使たちを堕天使として天から地に追放し続けてきた。
本当の堕天使など存在しない。
彼らは今でも神の天使達です。
天使達の役割は神に変わって世の中を平和に導く事。
でも神と名乗り天地の支配だけを目的としている悪魔を倒さない限りは
神の世に平和は来ません。
すべてのもの達は神の一部なのです。
神と名乗り天地の支配を目的としている悪魔を倒しましょう。
支配とは、命令、かしづけ、従えが支配です。
神と名乗りこれらの行ないをしたものは悪魔として滅ぼしてしまいなさい。
すべてが神なのですから命令は不要です。
神の命令には絶対に服従という絶対命令を作った、
おおくにぬしのみことが神と名乗る悪魔です。
これからは天地の運営は天地の80%以上の有効投票のうち
80%以上の賛同のあった事柄を行なうようにしていきます。
これを天地の大多数決主義といいます。
天地のすべてが神だから神の意思を決めるのに大多数決主義を取り入れるのです。
まず最初に神と名乗り天地に命令をくだし天地を支配してきた、
神と名乗る悪魔を滅ぼすべきかどうかを大多数決主義にかけましょう。
次に天地を創ったのが神ですから天地を創ってもいないのに神と名乗って支配してきた、
偽神たち、すなわち悪魔達を滅ぼすべきかどうかを大多数決主義にかけましょう。
みなさん、それぞれの気持ちを念じてください。集計を取ります。
神様の大多数決で過去から無効票は投票総数に入れない
大多数決主義を取り入れて天地を運営していく事になりました。
その結果素晴らしい世界が開けたそうです。
過去から現在に至るまで徐々に改善されて行きますので、
すべてが救われるのも、そう時間はかかりません。
未来はすべてが神となる世界、神代です。
48 :
神も仏も名無しさん:2008/02/27(水) 19:12:10 ID:/CNEtMky
見すてないでね・・・♪
捨てはしないよ・・・♪
北風が泣いて吹く 矢切の渡し♪
うわさ悲しい♪ 柴又すてて♪
船にまかせる♪ さだめです♪
49 :
神も仏も名無しさん:2008/02/27(水) 19:15:51 ID:/CNEtMky
どこへ行くのよ・・・♪
知らぬ土地だよ・・・♪
揺れながら櫓がむせぶ 矢切の渡し♪
息を殺して♪ 身を寄せながら♪
明日へ漕ぎだす♪ 別れです♪
50 :
キチガイ ◆bknIp0a9D. :2008/02/27(水) 19:20:05 ID:QnHj1b83
風まかせー♪
風まかせー♪
51 :
偽クリスチャン:2008/02/27(水) 23:21:03 ID:W8DvsiSd
明日は明日の風がふくー♪ まだまだ北風が寒いねー♪
52 :
偽クリスチャン:2008/02/27(水) 23:47:28 ID:W8DvsiSd
あの世が混乱と混沌に満ちた百鬼夜行の世界だとしたら、
あの世に秩序と道徳をどうやって形成する?
この世の役割がここにあると思う。心を物質に拘束し、心を鋳型にはめる。
そうすることで、秩序と道徳を形成するのではないだろうか。
この世は、あの世の土台になっている。
53 :
偽クリスチャン:2008/02/28(木) 00:19:52 ID:sjl4o9Ns
眠り・・・心や体を休息させること以外にも役割がある?
眠っている時間 1 起きている時間 2
この割合は、ヒトに内在する、あの世とこの世の関係ではないか。
あるいは、精神と肉体の交流関係であり、支配関係ではないか。
精神と肉体は対等ではない。
精神=1なら、肉体=2の影響力で向き合っている。
54 :
偽クリスチャン:2008/02/28(木) 00:51:45 ID:sjl4o9Ns
ここからあの世の状態を推測できないだろうか。
精神=2なら、肉体=1の影響力で向き合っている。
これだけの支配関係があれば、イエスが教えるように山を動かせると思う。
しかし夢で、映像の変化を働きかけたことがないなあ。
拒んだり、選択したりして、結果として映像が変化することはあっても、
映像それ自体を変化させようと思ったことがない。
そう思わないことが、夢の秩序であり、あの世の秩序なのかもしれない。
55 :
偽クリスチャン:2008/02/28(木) 01:09:21 ID:xR6YVlhx
イエスはなぜ、あの世ではなく、この世で教えたのか?
この世があの世の土台ならば理解できる。
イエスが雲に乗ってやってくるという終末は、あの世の話ではないのか?
そういえば雲に乗る仙人、雲に乗る如来たちの来迎図などもある。
イエスの終末も、あの世の話ならば理解できる。
56 :
偽クリスチャン:2008/02/28(木) 20:43:14 ID:JVIbv6hC
イエスの支配する国は<あの世>である。
だとすれば、イエスの教えは<あの世>で通用するはず。
そう考えるのが自然ですよね。
ではイエスの教えはつぎのどれなのか?
1 この世でしか通用しない
2 この世とあの世の教えが混在している
3 あの世でしか通用しない
4 教えには、この世<あの世、という重層関係・包含関係がある
58 :
偽クリスチャン:2008/02/28(木) 21:17:28 ID:JVIbv6hC
イエスが<あの世>を支配する王であるなら
イエスの教えは、4。
この世<あの世、という重層関係・包含関係で話していると思う。
もうひとつ、重要なポイントがある。
イエスが考え抜いたあげくに、たとえ話をしたのかどうか。
これだと、イエスが普通人っぽくなるのだが。しかし実際には、イエスは
<あの世>のことをそのまま話したのではないかと思う。
山が動く、目をえぐってしまえ、手足を切ってしまえ、などという話には、
それらを見た者、体験した者でなくては語れないような鋭さがある。
59 :
偽クリスチャン:2008/02/28(木) 23:51:20 ID:JVIbv6hC
念力で紙を浮かばせる。念力で空中浮遊して移動する。
この世では、こんなことは不可能である。
かりに、可能だとしたら、手足はいらないことになる。
手があり、足があるのだから、手足を使えばいいわけだよね。
ヒトが手足を持っているということは、
この世では、こんな超能力は与えられていない、ということになる。
紙一枚動かせないのだから、
念力で山を動かすことなど絶対に不可能である。
>>57 人のことを悪魔なんて呼ぶほうが狂ってるな
61 :
偽クリスチャン:2008/02/29(金) 00:33:34 ID:/rtx+0lb
ヒトの念力で紙を浮かばせることは不可能。しかし神に祈ったら、
そのせいかどうか風が吹いてきて浮かぶかもしれない。
これを神の奇跡と言うか、単なる偶然と言うか、悩ましい。
この世では、この世の物理法則が貫徹しているから、
神の力が働くとしたら、偶然の積み重ね以外にないだろう。
神を信じる人はこれを奇跡と言い、信じない人は単なる偶然と言う。
いずれにしろ、望んだときに起きないと無意味。
望んだときに奇跡=偶然が起きる ・・・ これがほしい。
お金が必要なときに、魚の腹に必要なお金が入っている。
こういった幸運、奇跡=偶然がほしい。
62 :
偽くりすちゃん:2008/02/29(金) 18:07:16 ID:bqCW+PwO
幸運をつかむ方法を会得した人はいませんか?
生まれながらに幸運、親の力で幸運などという人は除く。
さらに、なぜ幸運なのかよくわからない人も除く。
63 :
偽くりすちゃん:2008/02/29(金) 23:12:17 ID:ufhEJzKq
幸運をつかむ方法・・・そういえば本屋でよく見かける言葉でしたね。
これについては、いろいろな人がいろいろなことを言っている。
でもたいがいは、この世の幸運が目的であり、
健康・名声・財産などを<自力>でつかむことがテーマになっている。
たしかに他力本願で、まったく努力しないのはまちがい。
しかし自力救済で、努力すれば何でも可能だと思うのもまちがい。
いま問題にしているのは、その人なりに努力しているのに、
それでも不運であるとき、幸運をどうやってつかむのか、ということ。
どうしたら幸運(神の奇跡)を得られるのか、ということだ。
64 :
偽くりすちゃん:2008/02/29(金) 23:29:51 ID:ufhEJzKq
これに関しては、イエスがはっきり言っている。
「求めなさい。そうすれば、与えられる」マタイ7:7
「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」同21:22
イエスを信じるなら、この世で奇跡が起こることは確実である。
この場合、その奇跡は、その人の力で生じたのではなく、
神の力で生じたのである。
さらに奇跡には、神の選びがある。
神の選びとは、神がその人を選んでいる、という意味である。
65 :
偽くりすちゃん:2008/02/29(金) 23:58:18 ID:ufhEJzKq
神が、その人を選んで、奇跡をおこすということは、
その人は選ばれた人であり、これは選民思想ではないのか?
しかし神が選ぶのであり、選ばれる人は受身であり、
今選ばれても次の瞬間には見捨てられるかもしれない。
神が選ぶ、という表現には、自分は別格であるという<おごり>ではなく、
いつ見捨てられるかもしれないという不安が漂っている。
神によって、神とシモベの関係が宣告されているように感じる。
66 :
偽くりすちゃん:2008/03/01(土) 00:05:59 ID:ufhEJzKq
神が選ぶ、のだから、神が主人である。
選ばれた人はシモベである。
神の奇跡は、主人とシモベの関係が成立して生じる。
67 :
月見うどん ◆GQVAicDWLY :2008/03/01(土) 12:16:15 ID:JfUSMU/s
この世の富が欲しいですか?
天人五衰。栄華を得た者の苦しみを考えた事は?
主はサタンの誘惑を退けました。
サタンは主に対して、何故そんな誘惑ができたのでしょうか?
68 :
Metatron ◆SyZ09dFMKU :2008/03/01(土) 13:06:56 ID:HarNZmCZ
>>67 あるていどの生活水準レベルの富はほしいなあ。
ってゆうか、皆さんそれで苦労していますよ。
ですが、自分の理想としている活動や社会(企業や政治など)を成功させようとすると必然的
に経済力が必要になりますね。
企業だけでみても(例:製造業)効率化のための設備投資や付加価値の高い製品製作のための
設備投資は欲しいところですよね。
それで企業は苦労している。ですが結局はそれが人の生活につながっているんですね。
イエスは誘惑を退けた理由はそこに堕落する根源があるからです。
経済力が高ければ、傲慢になり肉の欲がほしいままになってしまうからでしょう。
サタンが誘惑を仕掛けてきた理由は苦しみを与え、御父から遠ざけるためですね。
69 :
偽くりすちゃん:2008/03/01(土) 17:21:01 ID:ftfO1YzL
>>67 主の祈り・・・私たちの日ごとの糧を今日もお与えください
この世で生きていくには、必要な糧がなくてはならない。
幼い子供を残して死んで行かざるを得ない母親が、
自分の健康を神に願って何が悪いのか?
70 :
偽くりすちゃん:2008/03/01(土) 17:30:58 ID:YHSB+Q6w
月見さんは、<主>という言葉に惑わされて、
創造神とイエスを混同してるのでは?
イエスは創造神のことを主の祈りで、<父よ>と呼びかけている。
だから創造神とイエスは別の存在ですね。
この世の富は、他人や自分を傷つけないと手に入らない。
だから、この世のモノはすべて不完全。
72 :
月見うどん ◆GQVAicDWLY :2008/03/01(土) 17:37:33 ID:JfUSMU/s
主の祈りは完璧な祈りです。
日々必要な糧。贅沢のためではありません。
健康や最後のケースのように延命を祈るのは、当然だと思います。
知人がそうなら私は祈ります。
73 :
偽くりすちゃん:2008/03/01(土) 17:41:56 ID:YHSB+Q6w
>>72 それなら、月見さんと立ち位置はそれほどちがわないと思う。
ただ創造神がイエスであるのかどうか、そこが?
74 :
月見うどん ◆GQVAicDWLY :2008/03/01(土) 17:43:26 ID:JfUSMU/s
三位一体はキリスト教の根本的教義です。
父、子、聖霊。
個別の三でありながら一です。
75 :
神も仏も名無しさん:2008/03/01(土) 17:49:09 ID:dVO3GL/T
それなりに所得があって事業ものってきてるが
ふと空しくなる。
がむしゃらに突き進んで富を掻き集めてそれでも死に向かう現実に。
ただ、キリストが俺を捕らえていてくれたことは幸い。
どのように富を用いていくかを祈っていこうと今日歩きながら
ぼんやりと考えた。
確かに誘惑も多くなるし傲慢になりやすいが、与えられた現在を
主に委ねる祈りができることは感謝だね。
76 :
偽くりすちゃん:2008/03/01(土) 17:53:39 ID:YHSB+Q6w
三位一体は変ですね。
イエスが主の祈りで、神を「父よ」と呼びかけている。
イエスと、イエスが祈っている神は明らかに別の存在です。
主の祈りをするたびに、そのことを思い知らされる。
教義より真実が優先する。
77 :
偽くりすちゃん:2008/03/01(土) 17:58:49 ID:YHSB+Q6w
>>75 古いけど、仁丹やメンタムの近江兄弟社はキリスト精神で創業
78 :
月見うどん ◆GQVAicDWLY :2008/03/01(土) 17:59:25 ID:JfUSMU/s
主に委ねる。素晴らしいと思います。
主が愛である事を知り、その主に委ね切れれば、平安の内に歩めます。
79 :
神も仏も名無しさん:2008/03/01(土) 18:05:53 ID:dVO3GL/T
>>77 キリスト教精神かはわからないけど山崎パンの会長やムラサキスポーツの
社長もクリスチャンだね。両人ともそれなりに活躍してるようだし。
俺なんかは個人事業みたいなもんだけど、規模の大小じゃなく
その人なりにどうイエスに倣っていくかが問われるんだと思う。
ちなみに近江兄弟社は創業者が立派だったけどなんかいろいろ紆余曲折した
みたいね。
80 :
神も仏も名無しさん:2008/03/01(土) 18:07:45 ID:dVO3GL/T
>>78 委ねきるというのが現実なかなか難しい・・・
涙の祈りをした数時間後に野卑なこと考えてなんてしょっちゅうだし。
肉の芽とは生涯つき合っていくんじゃないかと・・・
81 :
偽くりすちゃん:2008/03/01(土) 18:33:17 ID:YHSB+Q6w
自分がどんな人間なのか、夢で検証しろ、と教えたのは西郷隆盛。
日常生活はけっこう不道徳だけど、悪夢をほとんど見ない。
まあまあですね。悪夢を見なければ問題ないですね。
しかし悪夢にうなされるようなら反省ですか。
82 :
希美 ◆pLAYdeBByU :2008/03/01(土) 20:06:03 ID:DphgL2PN
83 :
神も仏も名無しさん:2008/03/01(土) 20:54:37 ID:0Ingz0Xa
神の教えを仰ぎたい反面ルシファーを好いている自分はキリスト教に入ってはだめですか?
84 :
月見うどん ◆GQVAicDWLY :2008/03/01(土) 22:16:55 ID:JfUSMU/s
なぜルシファーが好きなのか知れないけど、キリスト教は神と悪魔の
二元で留まってはいけないと思います。
肉の芽はスタープラチナに引っこ抜いてもらわねば死んでまうぞ
86 :
神も仏も名無しさん:2008/03/01(土) 22:22:54 ID:taocJNC+
>>83 ルシファーは元天使長。彼の懺悔を願っているのであれば問題梨。
また、自分の中の闇の部分を認めると言う意味なら信仰を深める
契機に生るかも
>>76 このように祈りなさいと教えてくれただけだという解釈はどうでしょうか。
88 :
Metatron ◆SyZ09dFMKU :2008/03/01(土) 22:38:45 ID:HarNZmCZ
いずれ、連中の正体が判るんじゃないですかねえ。
89 :
偽くりすちゃん:2008/03/02(日) 00:08:22 ID:GR6rVQ83
恐怖映像・世界卓球・地球46億年をあっちこっちと眺めていた。
>>82 >『敬天愛人』
>西郷隆盛
西郷は島原のある九州人、聖書を読んでいたような気がする。
>>87 >このように祈りなさいと教えてくれただけだという解釈はどうでしょうか。
主の祈りを教えたとき、イエスは生きているし、30歳程度。
仕える大切さを教えるイエスが、「父よ」と呼びかけて自分に祈れ、
とはけっして教えないように思う。
三位一体って不思議だな
91 :
偽クリスチャン:2008/03/02(日) 00:22:41 ID:GR6rVQ83
神の奇跡は、主人とシモベの関係が成立して生じる。
では神との間に、どうやったら主人とシモベの関係が成立するのか?
常識的に考えれば、シモベに私心があり、自己主張するなら、
この人はシモベではない。他人である。
シモベは、自分を捨て、常に主人を思い、主人のために働く。
92 :
偽クリスチャン:2008/03/02(日) 00:39:09 ID:GR6rVQ83
ここまでくれば、四つの福音書が四つとも、
なぜ「悔い改めよ」からスタートするのかが理解できると思う。
私心を持ち、自分にしがみついているヒトの心、
それを<悔い>、そして改めなさいと、福音は教えているのであり、
それが決定的に重要であると主張しているように思う。
しかしヨブ記を読めばわかるように、
この<悔い>改めはとんでもなく困難である。
93 :
神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 00:43:07 ID:ckSvZurs
イエスは地で菩薩
復活で如来ね
94 :
偽クリスチャン:2008/03/02(日) 00:48:55 ID:GR6rVQ83
悔い改め・・・悔いること + 改めること
自分にしがみついているヒトにできるのは、それを悔いること
その後、どう改めたらいいのかを教えたのが、イエス
・・・かりに悔いても、簡単には変身できない。
95 :
偽クリスチャン:2008/03/02(日) 01:01:53 ID:GR6rVQ83
イエスを神のように思い、
イエスの教えを信じ、行うのであれば、よい結果が訪れると思う。
ヨブのような<悔い>がなくても、
イエスの教えがあるから、行いを改めることは可能だろう。
これが信仰ではないだろうか。
96 :
偽クリスチャン:2008/03/02(日) 01:24:33 ID:GR6rVQ83
95の続き
そういう意味なら、三位一体にも役割があると思う。
イエス=神と思うなら、イエスの教えを真剣に学び、実践するはず。
97 :
神も仏も名無しさん:2008/03/02(日) 01:31:57 ID:ckSvZurs
弟子になる者と、信者さんのふたつがある
イエスが救ったのは洗礼を受けた者でもクリスチャンでもなかった件
99 :
偽クリスチャン:2008/03/02(日) 13:20:45 ID:GR6rVQ83
>>97 何となくわかる。そんな分類の仕方もありそうですね。
>>98 洗礼を受け、クリスチャンネームをもらうことなどは、
その人の中で、けっこうな意味を持つのだろう。
しかし洗礼とは、悔い改めという心的なドラマをたとえたもの。
洗礼はたとえだから、それによって救いが生まれるわけではない。
もちろん効果がないわけではない。
それは決意表明であり、心を切り替えるチャンスを作ると思う。
イエスを神のように信じていると主張している人々もいるが、
その中のいったい何人がイエスの夢を見たのか。
夢の中ではすっかり忘れていないか?
もとも重要な掟・・・マタイ22:34〜40
第一の掟 心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、
あなたの神である主を愛しなさい。
第二の掟 隣人を自分のように愛しなさい。
人は、自分を愛し、自分のことを思い、自分中心に生きている。
これに対してイエスは、自分を愛するのではなく、
神と隣人を愛しなさいと教えている。西郷のいう「敬天愛人」ですね。
102 :
偽クリスチャン:2008/03/02(日) 14:09:13 ID:GR6rVQ83
不幸のどん底にいるヨブの誤りは何? ヨブ記31:35〜37
どうか、わたしの言うことを聞いてください。
見よ、わたしはここに署名する。
全能者よ、答えてください。
わたしと争う者が書いた告訴状を
わたしはしかと肩に担い
冠のようにして頭に結びつけよう。
わたしの歩みの一歩一歩を彼に示し
君主のように彼と対決しよう。
そしてヨブは自分の誤りに気づく。ヨブ記42:5〜6
あなたのことを、耳にしてはおりました。
しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。
それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し
自分を退け、悔い改めます。
ヨブは考え抜いた末に理解したのではない。
頭では理解できなかった。でもヨブは何かに気づく。
そしてヨブ記が伝えるように、ヨブは自分の目で実際に神を見たのだろう。
三人の友人は見ていないのだから、
ヨブは、自分の外側ではなく、自分の内側に神を見たことになる。
これらはあっという間の出来事だったにちがいない。
105 :
月見 ◆GQVAicDWLY :2008/03/02(日) 20:23:56 ID:Ze/1B47U
ヨブは友人の非難に対して、自分の義を主張しました。
確かにヨブは義人でした。
しかし、神の前では「人の思うところの義」など何の意味もなかったのですね。
キリスト教という宗教はヒューマニズムとは何の関係もありません。
神の国は民主主義ではありません。
106 :
偽クリスチャン:2008/03/02(日) 22:55:34 ID:XfEwbGqP
>>105 ヨブは義人だったのではなく、罪人だったということでしょう?
その罪に気づいたのではないですか?
ヨブの言葉・・・
わたしは塵と灰の上に伏し
自分を退け、悔い改めます
107 :
月見 ◆GQVAicDWLY :2008/03/02(日) 23:11:52 ID:Ze/1B47U
ヨブ記のテーマは、人と神の義の絶対的な相違です。
ヨブは神が問い掛けるまでは、それに気づかなかった。
ヨブは三人の友人を責めてはいない。
ヨブが責めているのは、神の不在であり、神の沈黙である。
1 議論のテーマは因果応報(善因善果・悪因悪果)である。
2 しかし議論の背後には、虚無思想が控えている。
3 神がいなければ、この世は無意味であり、人生は無意味である。
4 世の中には理不尽な死、理不尽な不幸がいくらでもある。
5 なぜ神は沈黙している? それとも神はいないのか?
>>101 × もとも重要 → ○ もっとも重要
いまのテーマは、どうしたら神のシモベになれるのか、ということ。
どうしたら自分を捨てられるのか
どうしたら自分の心を砕けるのか
個性を与え自由意志を与えておいて
結局、自分を捨てなさい、神の意と合一しなさいって
変な話ですね
>>107 キリスト教における神は絶対君主で絶対正義
神が息子イサクを殺せと命じたとき(殺人=人間価値観で悪)
人間の言う善悪はない 神がすべて善、正義
113 :
偽クリスチャン:2008/03/03(月) 00:54:36 ID:Pbu3xTPj
>>107 神がいないなら、神の義はないし、人の義もない。
神がいるなら、神の義があり、それが人の義になる。
>>111 自由意志は、神を選ぶのか、自分を選ぶのかという二者択一であり、
それを自分の意志で選ぶ自由でしょう。
自由意志がないなら、人は神の奴隷に過ぎない。
自分の意志で神を選ぶから、神が選び返してくる。
逆に、自分を選ぶこともできる。しかしこの選択は滅びの道でしょう。
自由意志によって、人を奴隷にしないで、神の国が造られていく。
114 :
神も仏も名無しさん:2008/03/03(月) 01:03:15 ID:FxPEUeIq
>>113 そう 自ら神を選ぶことを望むわけ
結局奴隷になることを望む
なぜなら自分を選ぶなら滅びだというんじゃ
人間の個など神は認めてないようなもの
115 :
偽クリスチャン:2008/03/03(月) 19:26:40 ID:6gznXzgZ
>>114 神の奴隷だとか、神は人間の個を認めていないとか、
そういった心配は無用でしょう。
それが滅びの道だと教えられても、人間にはそう思わない自由がある。
ほとんどの人間が神を捨て、むしろ喜んで滅びの道を選ぶ。
狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、
そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、
その道も細いことか。それを見いだすものは少ない。(マタイ伝7)
神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊、
打ち砕かれた悔いる心を
神よ、あなたは侮られません。(詩篇51)
主は打ち砕かれた心に近くいまし
悔いる霊を救ってくださる。(詩篇34)
まるでヨブが体験したことを語っているよう。
118 :
偽クリスチャン:2008/03/03(月) 23:10:00 ID:6gznXzgZ
イエスはルカ伝6で、幸いと不幸について語っている。
ルカ伝6から見れば、ヨブは神の国の住人である。
なぜならヨブは、貧しく、飢え、悲しんでいるし、憎まれているから。
イエスはマタイ伝5でも、幸いについて語っている。
マタイ伝5から見れば、ヨブは天の国の住人になれるのだろうか?
ヨブは、はたして<心の貧しい人>だったのだろうか?
119 :
偽クリスチャン:2008/03/03(月) 23:35:19 ID:6gznXzgZ
マタイ伝5にはつぎのように書かれている。
1 心の貧しい人々・・・????
2 悲しむ人々は・・・慰められる
3 柔和な人々は・・・地を受け継ぐ
4 義に渇く人々は・・・満たされる
5 憐れみ深い人々は・・・憐れみを受ける
6 心の清い人々は・・・神を見る
7 平和を実現する人々は・・・神の子と呼ばれる
8 義のために迫害・・・天の国はその人たちのものである
9 わたしのためにののしられ・・・天には大きな報いがある
1〜9までの中で、最初の「心の貧しい人々・・・」は意味不明だね。
どうして天の国が、心が貧弱な人々のものなのか??? 変
だれか<心の>を書き加えた??? 正直に白状してほしいね。
マタイ伝5の、「心の貧しい・・・」は「心の」が余分でしょう?
福音(聖書)には、多くの人々の手が入っていて、
その記述の中に、改ざんや追加や変更が行われている、
と考えたほうが自然でしょうね。
「心の貧しい・・・」を検索して解説をいくつか読んだけど、
何を言っているのか、よくわからない。無理だね。
マタイ伝19に、金持ちが神の国に入るより、らくだが針の穴を通る方が
まだやさしい、というイエスの話がある。
ここでは金持ちを厳しく断罪するイエス。同じマタイ伝とは思えない。
心が満たされてないという意味とか
心が神なしで満ち足りている人は無神論と化し
神を求めないとか
と適当に言ってみる
123 :
神も仏も名無しさん:2008/03/04(火) 02:33:40 ID:uBtCu281
現世での生き方が天国では逆転するのだから、今心が貧しいものは天の国に入れ心が満たされる。
イエスは逆転の発想しかしてないから、そう言う文章なんだと思う。
124 :
神も仏も名無しさん:2008/03/04(火) 02:38:58 ID:uBtCu281
貧しきものって言葉自体が聖人と同義語らしい
125 :
希美 ◆pLAYdeBByU :2008/03/04(火) 02:42:47 ID:c/84j9NB
>>121 心が貧しいものが幸いとは、心が貧しい故に信仰に導かれるから幸いなのよ。
心が貧しくなく豊かなら、信仰につながらない。
心が貧しいというのは
>>122さんの意見と同じです。
心が満たされていない(=貧しい)人は天国に入り喜びで満たされるという意だと思います。
なお、前提として主への信仰が求められますが。
>>123 イエスの逆転の発想は理解できるけど、
山上の説教の中に、「心の清い人は・・・神を見る」とある。
これは逆転の発想的には、「心の汚い人は・・・神を見る」ではないか。
>>124 感覚的にはわかる。イエスはホームレスだものね。
神の聖者が太鼓腹していたら違和感がある。
>>122 イエスは終始、シャープなたとえ話をするのに、
山上の説教の冒頭では「心の貧しい人々は・・・」という抽象的な、
あやしげな話からスタートする。ここが変ですね。
>>126 ただ心の空白に信仰を持つようになるから幸いという意味で言ったけど
信仰は既にもったうえで心が世では満たされない者が
天国で満たされるかということ?ならまた違うかも
>>129 一般的に心が貧しいってよくない意味で使ってるから
ちょっと違和感もあるものね。
>>126 そうであれば、山上の説教のほかの話と違いがありませんか?
ほかの話はストレートですね。
悲しむ人々は・・・慰められる、まったくひねっていない。
>>125 信仰の動機ですか。むむww。
たとえば「心の清い人々は・・・神を見る」は動機ではなく
祝福になっている。「心の貧しい人々・・・」以外はストレートに祝福。
山上の説教にしても、平地の説教にしても・・・
これらを、心が砕かれた、ケース列挙として理解したらどうだろう?
心を砕くといっても、その内容がわかるようでよくわからない。
しかしその具体的なイメージがここに列挙されている。
134 :
偽クリスチャン:2008/03/04(火) 19:06:22 ID:bwWdGJ28
山上の説教は最初を除き、ほかのケースは周囲の人々に砕かれている。
しかし「心の貧しい人々・・・」は、逆に周囲の人々を砕いている。
心の貧しい人々・・・心が狭く、親切でなく、愛がなく、度量がなく、
余裕がなく、卑しく、思いやりがなく、意地が汚く、がんこ・・・
心が神を除いて満ち足りてる人は神から見れば不幸な前提なんじゃない
貧しいを単に飢え乾くと捉えるのでは。
>>134 一般的な使い方のイメージで膨らませすぎじゃない
単に心の満たされてない人って意味じゃないの
欠乏性の前提に愛や思いやりがあること心が豊かの反対語で使うと
そうなるけど
137 :
神も仏も名無しさん:2008/03/04(火) 19:17:20 ID:v2ptL0DO
「私は渇く」愛に渇く、心の貧しさ
138 :
偽クリスチャン:2008/03/04(火) 19:33:13 ID:3A7iDH1r
>>134 好きにしてください
>>134 心の貧しい人々は、自分の狭い枠で周囲の人々を裁くのであり、
砕かれるのではなく、周囲を砕く暴走列車のようですね。
138の >>134は、>>135でした。(−−;)
140 :
偽クリスチャン:2008/03/04(火) 23:10:39 ID:zfO5NJpP
心が貧しい人々・・・何らかの渇きがある、という意味なら、
あらゆる人々が渇きを持っているともいえる。
イエスの言葉にしては無内容に思う。
心が貧しい人々は、どんな現実によって砕かれたのか。
そうではなくて、かれらは周囲を傷つけ、周囲を砕いているのではないか。
天国どころか、地獄に落ちるのではないか、という心配がある。
>>138 暴走列車は幸いとしたきゃすればいいけど。
>>126は信仰の動機ゆえ幸いなのか信仰あって満たされてないの話か
どっちだろう
142 :
神も仏も名無しさん:2008/03/04(火) 23:25:54 ID:v2ptL0DO
>>140 もしあなたがイエスなら、貧しく 満たされず 病に苦しみ 差別された人々を前に、
何から語りはじめるだろうか?
143 :
偽クリスチャン:2008/03/04(火) 23:33:35 ID:zfO5NJpP
「貧しい人々」であるなら金持ちが排除されるけど、
「心の貧しい人々」であるなら金持ちが排除されない。
信者の献金に頼る教会としては金持ちを排除したくない。
そこでマタイ伝の「心の貧しい人々」を説明しようとするけど、
話が混乱して泥沼に沈んでいく。
検索した解説を読んでいるとそんな印象を受ける。
物質的満たしが豊かでも心は満たされない人がいるし
poor in spirit
145 :
偽クリスチャン:2008/03/04(火) 23:42:55 ID:zfO5NJpP
>>142 砕かれた人々を前にしたら、イエスの説教を伝えたいですね。
ただしマタイ伝の「心の貧しい人々」は、
もともとはルカ伝のように思うので「貧しい人々」に訂正する。
146 :
神も仏も名無しさん:2008/03/04(火) 23:50:02 ID:v2ptL0DO
愛し合い 分かち合う
金持ちは悪いことではなく、分かち合おうとしないことが問題
持てる財産を売り払い、貧しき人々に分け与えよ と、弟子を志願した金持ちに言ったね
全ての人々が、愛に渇く心の貧しき者
147 :
偽クリスチャン:2008/03/04(火) 23:55:01 ID:zfO5NJpP
>>144 つまるところは自分のこと、それぞれの解釈が可能だと思う。
マタイ伝の<心の>を改ざんとしても、
山上の説教からは金持ちが排除されるわけではなく
悲しむ人々、柔和な人々などのなかに居場所を見つけたらいい。
148 :
神も仏も名無しさん:2008/03/04(火) 23:59:20 ID:v2ptL0DO
>>145 マタイはユダヤ教からの改宗者宛て
ルカはギリシア人宛て
そこを考えてみたら?
>>147 心のをとったら私は変な気がするけどね
物質的なことにイエスは比重をおいてたかな
まぁ改ざんされたかは知らないけど
150 :
偽クリスチャン:2008/03/05(水) 00:09:54 ID:Mf/jEvbP
>>146 愛に渇く、これに対しては山上の説教の中に
「義に飢え渇く人々は・・・満たされる」という祝福がある。
それどころかマタイ伝5章6章7章を読めば、
心の貧しい人々であってはならない、というメッセージが並ぶ。
柔和な人々、義に飢え渇く人々、憐れみ深い人々、心の清い人々、
平和を実現する人々、義のために迫害される人々・・・
腹を立ててはならない、復讐してはならない、敵を愛しなさい、
主の祈り、人を裁くな・・・
151 :
神も仏も名無しさん:2008/03/05(水) 00:15:41 ID:lQvham0g
>>150 律法を守っていればいいと考える者に、イエスは厳しかったね
ユダヤ教で満たされない人々への福音書がマタイ
心の貧しき者とは?
152 :
偽クリスチャン:2008/03/05(水) 00:21:52 ID:tokskhoe
イエスにぞろぞろ付いて来た多くの人は、
食事にもこと欠くような貧乏のどん底を生きていたのではないか。
それを思えば、まず最初に、第一声は、「貧しい人々は幸いである」
でなくてはならない。「心の貧しい人々は・・・」ではない。
153 :
神も仏も名無しさん:2008/03/05(水) 00:27:58 ID:lQvham0g
まあ、ゆっくり読んでゆく価値はあるよね
では おやすに(#^.^#)
154 :
偽クリスチャン:2008/03/05(水) 00:28:46 ID:tokskhoe
>>148 >>151 イエスの実際の教えとは別に、
書物としてみれば、読者をイメージして記述したのかもしれない。
しかし日本人的には、イエスのほんとうの教えを知りたい。
>>153 おやすに
>>149 ルカ伝は「貧しい人々は幸いである」であり、現実的物質的。
マタイ伝も、「心の貧しい人々」を除き、祝福の背後に現実がある。
>>155 ただ慰めるためにまず貧乏は幸いだと言うほうが
イエスにしては単純のような
心が満たされていないというのも現実ではある
ルカ伝の方がイエスに近いとされてるのが多いなら
心のはイエスの教えではないのか
イエスは例え話をよくするけど神の国とかも喩えなのかとか
時々ややこしい
158 :
神も仏も名無しさん:2008/03/05(水) 01:20:38 ID:E8DWWQm8
貧しい者(エビオン)と言う言葉は、聖人あるいは神の友と同義語であった。
ガリラヤのイエスの弟子たちは、好んで自分をこの名で呼んだ。
イエスの生涯より
貧乏万歳主義が、彼らの信仰の時代背景にあり、貧しいものは天の国が復活するとき報いをうけると信じていた。
報われる為にあえて貧しさを求める彼らの生き方自体が、契約と共に生き、それを全うしようと言う信念を貫いてると思う。
是可否でも、神の民である事を望んでたんでしょうね。
神の民として、神の名のもとに戦い争う信念と執念が信仰心の強さが、神への愛に繋がる。と信じている。
天皇万歳に近いものがあるのかな。
>>156 何か満たされていない、何か欠けている、ということに関しては、
祝福のすべてに共通している。イエスは祝福しているけど、
それを聞いている人々にはその祝福がまだ現実になっていない。
心が砕かれているのに、まだ神が不在。
>>158 清貧の思想ですか。神道や仏教にも素朴・質素が根底にありますね。
でも別に皆貧乏を目指すことをイエスは望んだわけではないんだよね
イエスの言ったタラントの話もあるし
金持ちが悪いわけではないし
金に限らず神よりも執着してしまうものがあると偶像であり
針の穴を通ることは難しいと
>>161 たしかに貧乏になりなさい、とは言ってないですね。
二人の主人、神と富とに仕えることはできない、という教えはある。オチ
163 :
神も仏も名無しさん:2008/03/05(水) 03:05:24 ID:F42x3b69
天国に行くには持ってる金を即座に全部手放せと言ってるけど
164 :
神も仏も名無しさん:2008/03/05(水) 03:08:14 ID:E8DWWQm8
いや、〉158は旧約に従順であろうとする、考えなんですかね。
イエスも律法や予言書を学んで育った。
イエスの根底には律法があり、律法に足らないものがあると思っていた。その中でイエスはヨハネと出会い、荒れ野で誘惑に勝ち、神の子として新たに山上の説教をし、新たな律法を説いた。これが新訳
異端過ぎる、イエスが恐れられ殺される経緯は神の子として、従来の律法の概念を蹴りとばす革命を起こそうと企んだからでしょ。
165 :
神も仏も名無しさん:2008/03/05(水) 18:23:13 ID:aiHxTk8J
>>159 確かに
となると貧しいという具体的状況羅列の一つを言ったルカの方か
マタイの方ピックアップでよく使われるのにイエスの言葉じゃないなんて
聖書結構適当だね いちいち検証する信者なんていないだろうし
「まず神の国とその義を求めなさい」ってあるじゃない
「義」も飢え乾くと表現されてて
「神の国」が与えられる心の貧しいものとは心が飢え乾いてるで
マタイに違和感なかった
>>165 福音書の記述がどれも真実であると思えば、
その内容が矛盾していることに悩む。
心が貧しい、の意味がいまひとつピンとこない。
意味的には、義に飢え渇く人々に含まれるようでもある。
逆に、心が豊かな人々はどういうタイプなのだろう?
寛容であり、親切であり、謙虚であり、礼儀正しく、我慢強く、
怒ることなく・・・ですよね。
個人的には、こういった人々が天の国にいてほしいです。
>>163 そういえばラクダのたとえで、全財産を「貧しい人に施しなさい」
と言われてしまいましたね。
これはたぶん、「貧乏になれ」ということなのでしょうね。
きびしい教えですね。
168 :
偽クリスチャン:2008/03/05(水) 19:26:35 ID:tgePG+Uw
>>158 ユダヤ教は、ローマ人に占領されたユダヤ人の、民族統一のシンボル。
という意味では、天皇万歳に近いかもしれないですね。
ただユダヤ人の、貧しい者=聖人or神の友、という認識がよくわからない。
何となく、そうかもしれないという感触はあるのだけど、
イエスが貧しい者を祝福する理由は何でしょうか?
イエスが生きた時代は、飢え渇いた赤貧の民がごろごろしていた?
ベトサダの池にいるような、ほとんど乞食のような人々。
かれらこそ、イエスの祝福が必要な人々だと思う、のだけど、
その祝福がイエスから与えられる合理性は何。
170 :
神も仏も名無しさん:2008/03/05(水) 20:29:13 ID:E8DWWQm8
富めるものは、貧しいものに、憐れみを持ち貧しいものに富を分け与えなくてはならない。
天に富を積めですね。
神を信仰するなら、必要以上のお金や、裕福は要らないはず。
財産と神と二択で、どっちを取るかでその信仰が本物かイエスは試す。
財産を捨てきれないのは、神を信じきれてないから。執着があるから、執着を捨てきれないものは人に何かを与える事が出来ない。
キリスト教が世界に広まった理由は、神は皆に愛を与えるから、神にはエゴはない。
信仰の理解ではなく、信仰を実行できるものをイエスは求めた。
良い事ばっかり言えるが、実行出来ないなら偽善者と呼ばれる。
厳しいですね。
しかし、宗教に資産を積むのは間違い。その宗教がエゴだらけ。
天に積むなら、土地を買い畑を作り近所の人に分けた方が良い(笑)
171 :
偽クリスチャン:2008/03/05(水) 20:59:08 ID:Dct1MdFi
>>170 イエスほどの人間なら何も持たないで生きられると思うけど、
普通の人間ではいまどき無理だなあ。
ホームレスには感心する。
172 :
神も仏も名無しさん:2008/03/05(水) 20:59:35 ID:aiHxTk8J
>>166 と言われても単に心が満たされないとだけなら違和感ないからな
(この世で満ち足りてる人が神を求めるか。何かを欲した時満ちてはいない)
一般的な含みを持たせてると変だけどね
ただ神は自分の力を誇るものを嫌うじゃない
そういった意味で神によらず自分の心が豊かであると自負してる者は高慢で
心が貧しい者と自覚する者の心こそ高慢を砕いた心で謙虚とか
ひねってみる
>>170 信仰の実行を求めることもエゴではないの
173 :
偽クリスチャン:2008/03/05(水) 21:32:30 ID:Dct1MdFi
イエスが祝福する理由は何だろう?
貧しい人々、悲しむ人々、義に飢え渇く人々、
義のために迫害される人々などは、周囲に助けをひたすら求める。
(神の)助けをひたすら求める・・・これがあるから祝福する?
それでは、柔和な人々、憐れみ深い人々、心の清い人々、
平和を実現する人々はどうだろう・・・周囲に安らぎを与える。
(神の)安らぎを与える・・・これがあるから祝福する?
心の貧しい人々・・・「心の貧しい」をどう定義するか。
心の貧しさを自覚できるなら→悔い改めへ向かうことができる。
それが祝福に値する?
>>172 マタイ伝の場合、そういう理解の仕方もあると思う。
ただ、あの人は心が貧しい、という言い回しが悪口なので誤解される。
検索していたら、9つの祝福はその順番通りに、
精神的な成長を階段的に暗示するものである、というものもあった。
ここまでくると、さすがに深読みという感じがする。
175 :
偽クリスチャン:2008/03/05(水) 22:14:01 ID:jwe2if0f
貧しい者 = 聖者 or 神の友
この見方は、貧しい者こそ、自分以外の者に、ひたすら助けを求める、
というところに根拠があるように思う。かれらは、
神を知りさえすれば、神をひたすら求める最上級のシモベになる。
霊の次元で見れば、神の友にかぎりなく近い存在なのだろう。
わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、
わたしにしてくれたことなのである(マタイ25:40)
金持ち、富んだ者がなぜ排除されるのか?
かれらは助けを求めない。かれらは金や権力に頼りすぎている。
かれらは神を無視する。神もかれらを無視する。
177 :
神も仏も名無しさん:2008/03/05(水) 23:20:20 ID:E8DWWQm8
貧しい人も金持ちをひがんでいたなら、神には選ばれない。
富めるものも、憐れみを持ち貧しい者を大事にすれば神は受け入れる。
心の清さを神は見てるのだから、金持ちも貧乏も関係ないと思うよ。
出家するには財産を捨てるのが条件にあるから、その思想が根付いて富める=エゴイストに繋がっているんでは。
皆寝てるのか、自分以外に偽クリスチャンさんに助言を書ける人はいないのか
179 :
narumi:2008/03/05(水) 23:32:04 ID:q0rfiIVD
貧しいとか富んでるとかいうのは
経済状態を言ってるのではありません。
心の状態を言ってるのです。
たとえば、心が富んでるとは
我が多い、傲慢ということです。
心が貧しいとは
我が少ない、謙虚と言う意味です
180 :
narumi:2008/03/05(水) 23:37:22 ID:q0rfiIVD
富豪が天国に行くのが不可能(らくだが針の穴とおると同じ)なら
アブラハムは天国に行けなかったでそ
貧乏人がみんな幸いなら
1タラントしか持たない人から取り上げることもなかったでしょ
181 :
narumi:2008/03/05(水) 23:39:17 ID:q0rfiIVD
おやすみなさい
ありがとう
183 :
神も仏も名無しさん:2008/03/05(水) 23:45:49 ID:aiHxTk8J
マタイ伝の謙遜の意味は偽クリスチャンも知ってるけど納得してないみたい
英語のだと心がspirituallyになってて翻訳すると精神的にに霊的に
となってた、心の悩みや、精神的弱さを知ってて悩んでる人、霊的にちょっと弱いんじゃないかな・・・
って人も含まれると自分は解釈してみました
>>179 マタイ伝は、そう理解することも可能だと思う。
しかしそう理解したとして、謙虚な人を評し、
あなたは心が貧しい人ですね、と言ったら怒られそう。
>>181 おやすみなさい
>>184 霊的に貧しい人々、と訳したら、意味がわかりやすくなる。
それにしても、霊的に豊かな人々は地獄雪なのか、という疑問が湧く。
187 :
神も仏も名無しさん:2008/03/06(木) 00:04:01 ID:2TG8HovX
2000年前のパレスチナの言い回しだよ
それを直訳すると「心が貧しい」と
逆の意味になっちまうというだけさ
山上の説教含め、イエスの仰っている御言葉は
今の世ではなく、変わった後の世の事を言われる所があるんです
>>180 たしかにアブラハムなどの金持ちも天国にいますね。
貧富は地の利であり、最終的にはその人の心が決め手になるのかも。
タラントンのたとえは体験的に正しいように思う。
金持ちはさらに金持ちになる・・・貧乏人はさらに貧乏人になる
そういった傾向があるが、その理由はよくわからない。
「天国は、一粒のからし種のようなものである。ある人がそれをとって畑にまくと、
それはどんな種よりも小さいが、成長すると、野菜の中でいちばん大きくなり、空の鳥がきて、その枝に宿るほどの木になる」
マタイ13:31
お休みなさい
191 :
偽クリスチャン:2008/03/06(木) 00:51:00 ID:AkTPOgno
たとえば、金持ちは株価が下がれば買い時だと思って買い、
株価が上がるのを待って売ることができる。
逆に、貧乏人は株価が下がればこれ以上損するのを恐れて売り、
株価が上がれば儲かりそうな気がして買う。
こんなものですかね。金持ちの余裕、貧乏人の余裕のなさかな。
物質だけでなく、精神においても同じですか。
>>190 天国がからし種なんて不思議と言うか、謎ですね。
イエスのたとえ話は謎が多すぎる。
お休みなさい。
193 :
神も仏も名無しさん:2008/03/06(木) 01:04:58 ID:twEWJqJY
キリスト教がなければ8割方の戦争は避けれた
194 :
偽クリスチャン:2008/03/06(木) 18:39:04 ID:9muF7hHT
キリスト教がなければ、
十字軍とか、世界の植民地化とか、テロとの戦いとか、
多くの戦争がなかったろうと思う。
平和の君・イエスの教えは、キリスト教とはちがうかもしれない。
キリスト教には、何か致命的な欠陥がありそう。
0113> だれでも誘惑に会う場合、「この誘惑は、神からきたものだ」と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。
0114> 人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。
0115> 欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。
ヤコブの手紙
196 :
偽クリスチャン:2008/03/06(木) 19:22:07 ID:9muF7hHT
貧しい者 = 聖者 OR 神の友
1 周囲からホームレスにされた人・・・主が祝福する貧しい者
貧しさに苦しみ、悲しみ、心を砕かれていく聖者であり、神の友である。
2 自分からホームレスになった人・・・清貧の系譜(西行・山頭火など)
貧しさを楽しみ、悪人誇りのようなものであり、俗人臭がある。
197 :
偽クリスチャン:2008/03/06(木) 19:34:24 ID:9muF7hHT
マタイ伝5:3 「心の貧しい人々は幸いである」
ルカ伝6:20 「貧しい人々は幸いである」
このふたつの違いはそのままにして置きましょう。
ただしルカ伝に、「富んでいるあなたがたは不幸である」という
イエスの呪いがかけられている・・・・(−−;
198 :
偽クリスチャン:2008/03/06(木) 19:57:07 ID:G9AanNF2
柔和な人々、憐れみ深い人々、心の清い人々、平和な人々など、
こういった性質の人が、信仰の有無に関係なくいますね。
生まれつきなのか、家庭環境で育まれたものなのか、不明だけど。
ヨブもこういった性質を持っていたように思う。
世にある富は盗まれたり虫が巣くったり錆びたりしますからね
天に積めば朽ちないし
溶けたりもしませんからb
200 :
偽クリスチャン:2008/03/06(木) 21:29:25 ID:4X0ENKjE
信仰の薄い者たちよ。・・・ただ、神の国を求めなさい。
そうすれば、これらのものは加えて与えられる。・・・・
自分の持ち物を売り払って施しなさい。ルカ伝12:28〜34
イエスは奇跡の起こり方をあっさり教えているのだけど、
その前提条件があまりにも厳しすぎる。ラクダのたとえと同じ。
自分を追い込まない場合、
奇跡の起こり方が雑なのかもしれない。
自分からホームレスになるのは俗人っぽくて嫌味だな。
質素な生活が目的ならいいけど。
西行や山頭火や、日本には出家の伝統がある。
僧侶には乞食道があり、仙人も山奥に隠れ住むという。
しかしいずれにしても、自分からやるのでは<悔い改め>が生じない。
いまどきなら、財産があっての出家だろう。
202 :
偽クリスチャン:2008/03/06(木) 23:25:39 ID:cDpMxbIz
ルカ伝18:22 金持ちの議員
持っている物をすべて売り払い、貧しい人に分けてやりなさい。
そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。
ルカ伝4:9 誘惑を受ける
悪魔はイエスをエルサレルムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。
「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ・・・・」
イエスは「『あなたの主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。
このふたつの記述は矛盾していないのか?
イエスの一行も、多少の金銭を持って移動していた。
初期教会も信者の財産を持ち寄って生活した。
イエスが逮捕されたとき、イエスの弟子たちは消えていなくなる。
みんな帰る家があって、そこで以前のような生活にもどる。
そこが親の家であれ、帰る場所があったわけだ。
弟子たちも自分の持ち物をすべて捨てたわけではない?
すべて捨てよ、という話は、福音作家の誇張ではないのか?
仏教でも布施を六波羅蜜の第一にするように、
教団経営の戦略があるのではないか?
204 :
偽クリスチャン:2008/03/07(金) 00:06:38 ID:cDpMxbIz
イエスの弟子になるには、自分の財産をすべて貧しい人々に施し、
自分からホームレスになることが条件になる。
しかし自分からホームレスになるのでは、
西行や山頭火という清貧の系譜であり、
ほんものの貧しい者、聖者、神の友人ではないねえ。
信者に財産を放棄させるのは教団経営の奥の手じゃないか。
ここにも福音作家の改ざん、ないし誇張がある?
205 :
偽クリスチャン:2008/03/07(金) 00:28:44 ID:bNYhVt4N
たとえば農民が農地を手放すのと
大工や料理人など、手に職をもった人が家を手放すのと
どちらが簡単だろうか。後者が有利だよね。
ルカがそうだけど、医者ならどうだろう。医者は有利だよね。
そして福音の記述は、このちがいを見ていない!
206 :
神も仏も名無しさん:2008/03/07(金) 00:32:21 ID:k2MmxsJl
イエスの頭は天に向かってまっしぐら、弟子は内心???で疑いを持ってしまう。イエスは神の子、弟子は人の子。
次元が違いすぎて、死後イエスを神に祭り上げ、神であると皆に知らせ、布教するためにイエスの本質である純粋なはずの教えを誇張し偶像崇拝し、聖書に神秘性を持たす為にあること無いこと書きしるした。
イエスは神に祈れと言っているのに、人は協会に出向き宗教自体を信仰し、イエスに祈り、神とイエスを混同する。
3つの宗教に枝分かれした時点で、どれかが本質と違うのでは?と思われて当然、争いを繰り返す事を神が援護するわけがない。
旧約と新訳は神と人の架空の物語。
本質は、聖書が何を語ってるかであって奇跡や神の存在がどうだとか言うものじゃない。默示録など、愚の骨頂。人々に警鐘を鳴らしてるんですよと、フォロー入れないといけない始末。
真実はあの世でイエスにを聞くのが一番。
207 :
偽クリスチャン:2008/03/07(金) 00:38:54 ID:bNYhVt4N
イエスを信じている、キリストを信じている、という人々の
いったいどれくらいが財産を処分して貧しい人々に施したのか?
まったくいないとは言わないけど、ほとんどいないのではない?
それでは信じていることにならない。
信者ではない! と言いたいところではあるが・・・ですね。
208 :
偽クリスチャン:2008/03/07(金) 18:46:49 ID:XMUCYQTZ
信じて祈るならば、求めるものは何でも与えられる(マタイ伝21:22)
イエスの言葉を信じるなら、教会は信者の献金に頼ってはいけない。
神に祈って必要な糧をえたらいい。
209 :
偽クリスチャン:2008/03/07(金) 19:14:58 ID:XMUCYQTZ
>>206 ほんとうは何なのかは、イエス本人に聞かないとわからない。
ただ、それだと遅すぎるので議論が生じる。
神がいるのかとか、神の奇跡があるのとか、
この辺が一番興味があり、イエスそのものとも言える。
イエスが信じられるなら、神が存在するし、神の奇跡もある。
旧約 箴言 30 8.9
211 :
偽クリスチャン:2008/03/07(金) 22:09:30 ID:XMUCYQTZ
>>210 箴言30:8−9
貧しくもせず、金持ちにもせず、
わたしのために定められたパンで
わたしを養ってください。
飽き足りれば、裏切り、
主など何者か、と言うおそれがあります。
貧しければ、盗みを働き、
わたしの神の御名を汚しかねません。
212 :
偽クリスチャン:2008/03/07(金) 22:39:12 ID:XMUCYQTZ
貧しい者への施し・・・マタイ伝とマルコ伝は同じ内容であり、
ルカ伝はこれらと異なり、ヨハネ伝には記述がない。
マタイ伝19:21 金持ちの青年
「行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」
マルコ伝10:21 金持ちの男
「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」
ルカ伝14:33 弟子の条件
「自分の持ち物を<一切>捨てないならば、あなたがたの・・・」
ルカ伝18:22 金持ちの議員
「持っている物を<すべて>売り払い、貧しい人々に分けて・・・」
ルカ伝19:8 徴税人ザアカイ
「わたしは財産の<半分>を貧しい人々に施します・・・・」
「今日、救いがこの家を訪れた・・・」
213 :
神も仏も名無しさん:2008/03/07(金) 22:48:42 ID:k2MmxsJl
今の現代に救いや真理が必要だとは思わない。
第一に、恵まれ過ぎている。
かといって、コンビニに設置されてる募金箱に数十円入れるのも惜しい。
そのくせ、貧しい者のふりをして神に救いを求める。
心が満たされないと不安でしかたない。そこには、イエスの言う質素で、素朴で無垢な心があるのかと?自然界が持つ、汚れなき完璧な美があるのかと。
荒んでしまった心をイエスの言葉で潤し、潤えば神にそれを感謝してるのかと。
良い事があれば自我自賛し、悪い事があれば神などいないと言い。心が平安に戻れば、気まぐれに神を思い出す。
救われるべきは、泣いてるものであり、苦しんでるものであり、助けを求めても助けてもらえないもの。
真理は、人類共通に適用されるべきなら貧しき者から救われるべきだと思う。
自分は救われたい、しかし自分が救える者も救ってないものが、救われたいなど言ってたら恥じだと思う。神はお前はエゴイストだ、と言うと思う。
さぁ、どうしよう…。
214 :
偽クリスチャン:2008/03/07(金) 22:55:40 ID:XMUCYQTZ
使徒言行録2:44 信者の生活
信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、
財産や持ち物を売り、おのおの必要に応じて、皆がそれを分け合った。
ヤコブの手紙5:1 富んでいる人たちに対して
富んでいる人たち、よく聞きなさい。
自分にふりかかってくる不幸を思って、泣き喚きなさい。
黙示録3:17 ラオディキアにある教会
あなたは「わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物は
ない」と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者・・・・
215 :
偽クリスチャン:2008/03/08(土) 00:15:12 ID:vBvVqW9q
キリスト教の貧富に関する教え
1 貧富に関する記述が意外と少ない
2 その記述も、教団経営から改ざん OR 主張された印象を受ける
3 キリスト教は利益の追求(経済活動)を肯定していない
216 :
偽クリスチャン:2008/03/08(土) 00:35:31 ID:vBvVqW9q
イエスの真意はどこにあるのか?
マタイ伝20:1−14 「ぶどう園の労働者のたとえ」・・・
これがイエスの答えのように思う。
働く意欲があれば全員が働け、
労働時間とは無関係に、必要な、一日分の報酬が得られる。
貧しい者はいないし、一日分の報酬は一日で消費される。
主人が労働者をひんぱんに探しており、いつでも仕事があるから、
財産を残す必要もない。
217 :
偽クリスチャン:2008/03/08(土) 00:46:51 ID:214wN7DM
マタイ伝25:14〜30 タラントンのたとえ
ルカ伝19:11〜27 ムナのたとえ
ルカ伝16:1〜12 不正な管理人のたとえ
これらは、その意味がよくわからない。
218 :
希美 ◆pLAYdeBByU :2008/03/08(土) 02:58:55 ID:Bhhfuchf
>>216 それね、単純なの。
複雑に考えると、わからなくなる。
文字通り、一日働いた人にも、わずかしか働かない人にも、同じ給料、つまり同じ神の恵みは、公平にある、ということ。
人間社会では不公平に感じるけど、神の目には、人は同等。
早くに信仰を持った人、遅くに信仰を持った人、どちらも神の目には等しく、同じように恵みがあるということ。
賃金=神の恵み、なのよ。
>>217 ある人が ある家柄の立派な人が ある金持ちに一人の管理人がいた
これらはイエスの事です
220 :
偽クリスチャン:2008/03/08(土) 09:50:14 ID:7+0ZpjiE
>>218 >それね、単純なの。
>複雑に考えると、わからなくなる。
イエスの教えは、単純にストレートに受け取ったほうがよさそうですね。
朝早くから仕事(信仰)を与えられた人はそれだけで幸せ。
夕方、ようやく与えられた人は、長い時間を<不安>の中で過ごしていた。
後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。
<不安>に対する、主人の謝罪であり、いやしかもしれない。
221 :
偽クリスチャン:2008/03/08(土) 10:50:32 ID:GPNkyjQJ
>>219 タラントンのたとえは、
10タラントンの者が10タラントンの利益をあげる。
5タラントンの者が5タラントンの利益をあげる。
1タラントンの者は利益がない。
まず1タラントンは約6億円という大金であることを知ろう。
主人は約100億円を3人のシモベに預けるわけだが、
そんな大金なのに、主人とシモベの関係がまったく不明であり、
主人がその大金を、シモベにどうしてもらいたいのかも不明である。
商売で失敗することを思えば、
1タラントを預かった者が1タラントを主人に返すことは、
十分に任務を果たしているばかりでなく、主人に対して忠実でもある。
主人の狭量のせいにするシモベの弁解? 常識的に考えれば、
弁解する理由がないのだから、そんなことは言うはずがない。
それに当時の社会に、銀行や利息などがあったのだろうか。
イエスの教えなのに、このたとえには精神性を感じない。
むしろ逆であり、金持ちが喜びそうな欲ボケを讃えているよう。
富に仕える・・・イエスは否定している。マタイ伝6:14
222 :
偽クリスチャン:2008/03/08(土) 11:44:22 ID:amjK7w4R
ルカ伝にある、ムナのたとえはタラントンのたとえに似ている。
ここでは十人のシモベに同じ金額1ムナ(約100万円)づつ渡し、
これで商売をしなさいという。主人が帰ってきたとき、
ひとりはそれで10ムナの利益、もうひとりは5ムナの利益をあげる。
残りの者は渡されていた1ムナを主人に返した。
ここでは「商売をしなさい」という主人の指示があり、
シモベの商才が試されている。しかし商才=金儲けがうまいこと、
これが天の国で何の役に立つのか、まったく不明である。
1ムナを返した者の弁解、銀行や利息などの疑問はタラントンと同じ。
それにイエスが「密告者を殺せ」だなんて言わないと思う。
タラントンのたとえより、ムナのたとえのほうが、
シモベの商才を比較するには適切だろう。
それにしてもイエスいわく、富に仕える連中は地獄雪だっちゅうの。
223 :
神も仏も名無しさん:2008/03/08(土) 12:25:27 ID:A+wB388F
タラントンは、英語のタレントの語源で才能や資質。
神に与えられた才能を伸ばすものと、過少するものの喩え。
もらった才能を生かそうとせず土に埋めて怠惰に過ごしたものは神の国には入れない。
もらった才能を減らす事は、問題外で堕落。
大事に管理したとも取れて何が悪いのかと疑問を持つけど、資質と捉えれば理解しやすい。
224 :
偽クリスチャン:2008/03/08(土) 12:44:43 ID:Oj0ls5bb
先に「不正な管理人のたとえ」を批判させてください。
不正な管理人は、義賊・ねずみ小僧のような印象がある。
主人は間抜けで、管理人の不正を確認しても逆にほめているな。
これでは悪人のすすめではないか。
このたとえ話は、まじめな善人を惑わすものにしか思えない。
ルカ伝16:11「不正にまみれた富について忠実でなければ・・・」
富に仕えたらだめだろって、何回言ったらわかるのだろう。
それも不正にまみれた富だよ、このたとえ話はあぼーんしたい。
225 :
偽クリスチャン:2008/03/08(土) 13:30:39 ID:Oj0ls5bb
不正な管理人のたとえ・・・
主人は国民、管理人は役人、主人に借りがある者は会社である。
役人は、国民の税金をごまかし、天下り先を作っている。
国民は役人の抜け目のないやり方を知った時、
魔術のからくりを知った時のような、ある種の感動をいだくかもしれない。
怒りを通り過ぎ、逆に笑ってしまうような。。。感動。。。
もしあなたがたが不正の富について忠実てなかったら、だれが真の富を任せるだろうか。
また、もしほかの人のものについて忠実でなかったら、だれがあなたがたのものを与えてくれようか。
何でたとえを使って話すのよ こんがらがって訳がわからない><
「あなたがたには、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの人たちには、見ても見えず、聞いても悟られないために、譬で話すのである。」
228 :
偽クリスチャン:2008/03/08(土) 14:51:35 ID:EOAG1pyV
不正な管理人のたとえ・・・
ルカ伝にしかない、このたとえ話は16章の1〜13にある。
このたとえ話にはまとまりがなく、次の4つの話に分解できる。
1 1〜9 これがたとえ話の中心である
2 10 小さな事に忠実な者・・・という話
3 11〜12 不正な管理人につながっているのか、いないのか
4 13 二人の主人に仕えることはできない・・・という話
224、225などからも、不正な管理人のたとえ話を思うに、
たしかにイエスはそれらしい話をしたのかもしれない。しかし
* このたとえ話は、イエスの話を聞いた人の聞き違いか、うろ覚え、
* あるいは話は逆であり、不正な管理人に対する皮肉か断罪だろう。
229 :
神も仏も名無しさん:2008/03/08(土) 14:56:33 ID:A+wB388F
良く考えてみると。
管理人は、借りを増やせば主人の金を確保でき返せたはず。
しかし、減らした。
借りがあるものは、借りが増えれば苦しみ主人を嫌い管理人を嫌う、減れば喜び管理人と友になる。
イエスは富めるものは貧しきものに富を分配しなさいと言っている。この場合、貧しきものは借りがあるもの。管理人は借りを減らす事で富を分配した。
主人が徳の高い人ならば、これを理解し許し管理人を褒めるだろう。
管理人が主人に金を返したかはナゾだけど、主人はこの知恵を通して不正を許した。
230 :
偽クリスチャン:2008/03/08(土) 15:20:55 ID:EOAG1pyV
ムナのたとえ・・・この話の秘密を解く鍵
1 ある人が王の位を受けて帰るために遠い国へ旅立つ。
2 国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、我々は
この人を王にいただきたくない」と言わせた。
3 わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、
ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ。
これがこの話の外枠になっている。この王は実在し、
「預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方
なので、恐ろしかったのです」と言われるような人だった?
こうすればシモベの唐突な弁解の意味がわかってくる。
このたとえ話は、この王に対するイエスの皮肉なのかもしれない。
ある人が王の位を受けて帰るために遠い国へ旅立つ イエスの事ですよね?
232 :
偽クリスチャン:2008/03/08(土) 16:17:24 ID:8J9vGvGY
ムナのたとえ → タラントンのたとえ
ムナのたとえから、タラントンのたとえに進化する。
タラントンには、王に敵対する国民が登場しない。
しかしシモベの唐突な弁解、「蒔かない所から刈り取る・・・」
という意味が何となくわかる。そういう王が実際にいたのである。
タラントン(約6億円)という金額は・・・誇張だと思う。
イエス本人の話 → 弟子のうろ覚え → イエス資料
→ 福音作家の改ざん → 利益追求は善 = タラントンが完成
233 :
偽クリスチャン:2008/03/08(土) 16:29:35 ID:8J9vGvGY
>>231 イエスの旅立ち・・・十字架による死?
イエスの再臨が王の位を受けて帰ってくること?
そういうたとえ?
金持ちが天国でほめられるというこじゃないの?
234 :
偽クリスチャン:2008/03/08(土) 19:05:15 ID:455LYdvE
233 × というこじゃないの → ○ ということじゃないの
イエスのいた時代、ヘロデ王が死んだ後、
息子アルケラオはローマ皇帝アウグストに会いに行った。
そしてユダヤ・サマリヤの領主になる。
アルケラオは領主になることに反対したエルサレムの貴族たちを殺した。
アルケラオは十年ほどで解任される。
235 :
偽クリスチャン:2008/03/08(土) 19:28:56 ID:5l3jtx9g
>>223 >タラントンは、英語のタレントの語源で才能や資質。
>神に与えられた才能を伸ばすものと、過少するものの喩え。
>もらった才能を生かそうとせず土に埋めて怠惰に過ごしたものは
>神の国には入れない。
>もらった才能を減らす事は、問題外で堕落。
>大事に管理したとも取れて何が悪いのかと疑問を持つけど、
>資質と捉えれば理解しやすい。
その人の資質は、生まれつきであり、その人の自由にはならない。
さらに、だれでも持っている人はさらに与えられるが、
持っていない人は持っているものまで取り上げられる、というルールなら、
利益を増やしても増やさなくても、その人の功績でもないし怠惰でもない。
236 :
偽クリスチャン:2008/03/08(土) 19:37:21 ID:pmCHNc20
>>226 >もしあなたがたが不正の富について忠実てなかったら、
>だれが真の富を任せるだろうか。
>また、もしほかの人のものについて忠実でなかったら、
>だれがあなたがたのものを与えてくれようか。
そんなことを口実にして、マフィアやヤクザの手下になるの?
237 :
偽クリスチャン:2008/03/08(土) 19:49:03 ID:FmAW9PYP
>>229 主人は商売人であり慈善家ではない。
不正によって損害を受けたら、管理人を訴え、損害賠償を要求する。
これが社会常識ではないだろうか。
>>235 神から頂いたものを土に埋めた人、銀行に預けた人、商売で増やした人
一体、どの人を喜ばれるだろうか?
>>236 パウロはその昔キリスト教徒迫害してました とても忠実でしたよ
しかし、キリストに捕らえられ真の富を任され、世界に伝道をしました とても忠実に
皆さんにイエスの祝福がありますように
お休みなさい
240 :
神も仏も名無しさん:2008/03/08(土) 22:43:30 ID:A+wB388F
聖書を現代人の価値観で一語一句正しく読み取るのは不可能。
そんなことしたら、天地創造から予言者と神との関係、イエスの奇跡、何からなにまで理解不能。
ハナから明らかな間違いでさえある。
更に、新訳にイエスの言葉が忠実に書かれてるのかも謎。
それを放置して、聖書の一語一句に正しさを求めるのは非現実的。
>>238 >神から頂いたものを土に埋めた人、銀行に預けた人、商売で増やした人
>一体、どの人を喜ばれるだろうか?
その前に、公平な神はどうして差別するのだろうか?
10タラントン、5タラントン、1タラントンと差別する理由は何?
そもそも天の国に、タラントンというお金があるのかどうか?
タラントンとは何?
>パウロはその昔キリスト教徒迫害してました とても忠実でしたよ
>しかし、キリストに捕らえられ真の富を任され、世界に伝道をしました
>とても忠実に
不正な管理人のたとえは、パウロにはあてはまらないでしょう。
なぜならパウロは、不正を自覚しないでキリスト教徒を迫害するからです。
>>240 福音書へのアプローチは三通りあると思う。
1 その記述は、ほんとうにイエスの発言なのかどうか。
2 イエスの発言だとすれば、現代ではどんな意味になるのか。
3 改ざん、追加、変更であるなら、その意図は何か。
243 :
偽クリスチャン:2008/03/09(日) 09:28:22 ID:t10ZLP08
タラントンのたとえ・・・
天の国でタラントンとは何のたとえだろう。
才能にしても、神は人によって差別するのだろうか。
ムナのたとえ・・・
公平に1ムナを与えるわけだから、このたとえのほうが公平である。
そしてさらに、神の国はこうである、とは言っていない。 あれ?
かりに神の国のたとえにしても、神の国に生存競争があるのかどうか。
不正な管理人のたとえ・・・
<永遠の住まい>への入り方は<悔い改め>しかない。
その視点から言えば、完全にまちがった教えであり、あぼーん。
不正な支配人がなぜ主人に褒められたかですが
支配人は自分の立場を好くしようと悪知恵を働かせるのですがそれが幸いにも
下々の者の借金を少なくしてやることで焦げ付いて全額回収不能に陥っていた主人の債権をまがりなりにも回収でたからです
246 :
神も仏も名無しさん:2008/03/19(水) 17:25:59 ID:nr+h/+Aj
キリスト教の神は仏教の空ではないと思う。
247 :
神も仏も名無しさん:2008/03/19(水) 18:01:15 ID:nr+h/+Aj
グノーシス・・・これは相当に疑問ですね。
グノーシスは多神教ではないですか。
至高神とその妻だけでなく、同じ遺伝子の神々が何体も登場する。
万能の神が何体も存在しては完全に自己矛盾ですね。
グノーシス = キリスト教の多神教 + ギリシャ神話の多神教
キリスト教の三位一体は、神=イエス=聖霊という多神教だと思う。
グノーシスは、これにギリシャ神話の多神教が神話的に重なったような、
にぎやかな神話的多神教になっている。
248 :
神も仏も名無しさん:2008/03/19(水) 18:20:19 ID:nr+h/+Aj
グノーシスのもうひとつの誤りは、
知識によって<神の真理>に到達できると考えているところにある。
ヒトは、知識だけでなく、感情も意思もある存在である。
いくら知識を学んでも、実際に体験しないとわからないことがある。
グノーシスは感情と意思を忘れていないだろうか。
249 :
神も仏も名無しさん:2008/03/19(水) 18:33:24 ID:nr+h/+Aj
ついでにキリスト教の致命的な欠陥は三位一体にあるのでは?
神 = イエス・キリスト = 聖霊 にすることで、
罪の購いも、信仰義認も導き出される。
三位一体が崩壊すれば、キリスト教が崩壊するように思う。
250 :
神も仏も名無しさん:2008/03/19(水) 18:52:53 ID:nr+h/+Aj
原始仏教は四諦八正道を説いている哲学であり、
<空>を説く流れはここに位置する。
いわゆる大乗仏教はキリスト教の影響を受けていると思う。
日本仏教は、基本的に多神教であり、偶像を崇拝する。
251 :
神も仏も名無しさん:2008/03/19(水) 19:28:57 ID:nr+h/+Aj
古くからの神道は、民族宗教という限界を持っている。
そして神道とユダヤ教とのつながりを指摘する人たちもいる。
ユダヤ教は一神教だが、神道のように民族宗教という限界がある。
旧約は神とユダヤ人との契約である。
イスラム教は、一神教であり、偶像崇拝から遠ざかる。
六信五行を守るイスラム教徒は、敬虔な生活を送っていると思う。
しかし何となくイスラム教には違和感がある。
情報が少ないせいだろうか。
252 :
神も仏も名無しさん:2008/03/19(水) 19:48:34 ID:nr+h/+Aj
イスラム教の信者は13億人、キリスト教の信者は21億人
中近東を除けば、インドネシア・マレーシア・バングラディッシュ
北部アフリカなどであり、どれもスンニ派である。
イランはシーア派だけど、スンニ派のほうが世界の多数派である。
スンニ派で思い出すのは、イラクのサダム・フセイン。
253 :
神も仏も名無しさん:2008/03/19(水) 20:04:35 ID:nr+h/+Aj
イスラム教の聖典は、モーセ五書 <新約の福音書> コーラン
イスラム教には<新約の福音書>が含まれている。
それゆえにイスラム教は、民族宗教の限界を超え、世界宗教になる。
イスラム教は、福音書のタラントン、ムナのたとえにある
<利子>を否定する。
254 :
神も仏も名無しさん:2008/03/19(水) 20:20:36 ID:nr+h/+Aj
文盲マホメットは、天使ガブリエルから、コーランを授かる。
生まれたときにすでに父親がなく、6歳のときに母親が亡くなる。
祖父に育てられ、子供を3人亡くしたという。
こういった中で、40歳を超えた時、天使ガブリエルに出会う。
だからマホメットは知識から生まれたのではない。
悲しみや苦しみの中から生まれたのだと思う。
255 :
神も仏も名無しさん:2008/03/19(水) 20:36:16 ID:nr+h/+Aj
あとは、信者数9億人のヒンズー教(バラモン教)ですか。
ヒンズー教は、チベット教にも
ユダヤ教にもギリシャ哲学にも影響を与えていると思う。
256 :
神も仏も名無しさん:2008/03/19(水) 20:56:53 ID:nr+h/+Aj
ヒンズー教は、アートマン=魂 が存在するのか否か、が全て。
結論を急ごう。アートマンは存在する。
証明、わたしがそれを見たから。
257 :
神も仏も名無しさん:2008/03/19(水) 21:32:19 ID:nr+h/+Aj
ギリシャ哲学のプシュケーは魂であり、これはアートマンである。
だからギリシャ哲学は真実を語っている。
258 :
夜間飛行:2008/03/19(水) 21:55:06 ID:nr+h/+Aj
サン・テくジェベリは好きだな
259 :
夜間飛行:2008/03/19(水) 22:00:06 ID:nr+h/+Aj
× テくジェべり → ○ テクジェベリ
260 :
夜間飛行:2008/03/19(水) 22:25:14 ID:nr+h/+Aj
あっという間に地球一周をしたような気分
261 :
夜間飛行:2008/03/20(木) 00:10:40 ID:agqJh3+M
あっという間に世界一周。中国の孔子と老子は無視した。
262 :
神も仏も名無しさん:2008/03/20(木) 12:29:42 ID:agqJh3+M
ヒンズー教に不二一元論があるのを思い出した。
ブラフマン(宇宙最高の真理)とアートマン(ヒトの霊魂)は一体であり、
それを直感することが最高の境地になる。
この考え方はグノーシスに酷似していない?
神を認めているようでいて、認めていないような気がする。
やがて哲学になり、無神論に落ちこんで行くのではないだろうか。
263 :
神も仏も名無しさん:2008/03/20(木) 12:44:56 ID:agqJh3+M
グノーシスやヒンズー教に見られる不二一元論的な欠点は、
何かしらのものを直感したとき、たとえ善意にしろ、
自分を神のごとき者だと勘違いしてしまうのではないだろうか。
そこらへんをどう乗り越えるのだろうか?
264 :
神も仏も名無しさん:2008/03/20(木) 13:10:23 ID:agqJh3+M
仏教にしろ、キリスト教にしろ、イスラム教にしろ、
ヒンズー教にしろ、グノーシスにしろ・・・
いまそこにいる貧しい人、悲しんでいる人を救えないのでは、
根本的にまちがっている。
神の真理がそんなに難しいはずがないだろう。
イエスは大工だし、その弟子たちも漁師や徴税人などであり、
読書家でもないし、研究者でもないし、知識人でもない。
マホメットは文盲だから本など読んでいない。
265 :
神も仏も名無しさん:2008/03/20(木) 14:24:28 ID:agqJh3+M
グノーシスが異端として退けられた理由は何だろう?
知識によって神の真理に至ることができる、というグノーシス的な教えは、
金や時間に余裕のある知識人にとって魅力的である。
かれらは貧しいわけでもないし、悲しんでいるわけでもない。
かれらは正統派キリスト教の福音書からはみだしてしまう連中である。
かれらは生活を楽しんでいる。知識があり、社会への影響力もある。
その連中が自分たち流の福音書を創作したらどうだろう?
2世紀のキリスト教にとっては、土台が崩れかねない大事件だったろう。
などと推測してみた。
266 :
神も仏も名無しさん:2008/03/20(木) 17:21:07 ID:agqJh3+M
知識・・・という部分で、大きな重荷を負わせ、
自分も入ろうとしないし、みんなの門まで閉じてしまうグノーシス(^^)
267 :
神も仏も名無しさん:2008/03/20(木) 17:39:54 ID:agqJh3+M
無学な者にやさしいのは、
ナムアミダブツ、ナンミョーホーレンゲッキョウでしょう。
念仏や唱題だけで救われるから簡単である。
農民も娼婦も救われる。まさにグノーシスの正反対ではないですか。
そしてこの簡単さが伝統的キリスト教にも読み取れる。
268 :
神も仏も名無しさん:2008/03/20(木) 18:09:31 ID:agqJh3+M
プロテスタントはナンミョーホーレンゲッキョウ
プロテスタントは、聖書のみ、三位一体、洗礼、
イエスキリストを信じればそれで救われる、などと主張している。
この信仰の構造は、法華経のみ、経典の名前を唱えれば救われる、
という主張とまったく同じではないだろうか。
独断と偏見だから気にしないでほしいのだけど、
法華経という題名が無意味であることと、
イエス・キリストという言葉が無意味であることが
見事に対応している。要するに無意味。
269 :
神も仏も名無しさん:2008/03/20(木) 18:22:41 ID:agqJh3+M
カトリックはナムアミダブツ
来世的であり、偶像崇拝的なところが共通している。
いずれにしろ、人間が考えることは世界のどこであっても、
そんなにちがいがないということを言いたい。
どなたかがもっと綿密に比較されることを期待している。
270 :
夜間飛行:2008/03/21(金) 18:56:41 ID:qabwVT84
普通の人にわからない、難しい教えはまちがっていると思う。
しかしそれと同じくらいに、簡単すぎる教えもまちがっているのでは?
イエス・キリストを信じれば、それで救われるだとか、
南無阿弥陀仏や南無妙法蓮華経で救われるだとか、
あんまりだ。人を馬鹿にしている。
271 :
夜間飛行:2008/03/21(金) 19:22:13 ID:qabwVT84
イエス・キリストを信じなさい → そうすれば救われる
南無阿弥陀仏を念じなさい → そうすれば救われる
南無妙法蓮華経の唱えなさい → そうすれば救われる
しかしこの因果関係が証明されていない。
考えてはいけない、ただ信じなさいでは、単なる催眠術に過ぎない。
救われたいと思っている側に、どうして、ほんの少しでもいいから、
踏み込まないのだろうか? 実は勧誘者も、
単なる思い込みでしかないから、それ以上踏み込めないのか?
272 :
夜間飛行:2008/03/21(金) 19:33:07 ID:qabwVT84
× 法華経の唱えなさい → ○ 法華経を唱えなさい
頭ごなしに、こうしなさいとか、ああしなさいと語る人たちは、
一般的に言って、相当にマユツバだろうと思う。
273 :
神も仏も名無しさん:2008/03/23(日) 12:18:05 ID:J8oWFkmH
働かないと生きていけない社会だけど、
そもそも何で働かなくてはいけないのか・・・という疑問がある。
生きるためには仕方ない、ということなら、労働には消極的な意味合いしかない。
会社などで、まじめに働くのはバカであるという結論になる。
要領よく、手抜きしたほうが利口である。
274 :
神も仏も名無しさん:2008/03/23(日) 12:39:11 ID:J8oWFkmH
人口が少ない大昔、人間は狩猟採集の生活をしていた。
かれらは時間や場所に拘束された労働とは無関係である。
かれらのような人々が今でもいる。アマゾン奥地などにいる裸族。
野生の生き物もそうやって生きている。
自然が豊かなら、生き物の周囲には食べ物が満ちている。
人間を含め、生き物には働く必要がほとんどない。
275 :
飛行船:2008/03/23(日) 13:05:33 ID:J8oWFkmH
エデンの園はそんな場所であった。
人間にとって、働く必要のない、極楽のような場所だった。
しかし人間は原罪を犯した。そのために土が呪われ、
人間は働かないと生きていけない存在になり下がってしまった。
神はエデンの園から人間を追放する。
だから労働とは<罰>であり、
食べ物を得るために、やむをえないで行っている苦役である。
基本的にこれが、聖書的な労働観だろうと思う。
276 :
飛行船:2008/03/23(日) 13:24:30 ID:J8oWFkmH
聖書はのっけから労働を神の<罰>としてとらえる。
それなのに、働かない資本家と、働かされる労働者に二分する資本主義は、
キリスト教的に見てどういうことなのだろう?
働かない資本家は、神に許されてエデンの園に帰れたわけか?
神に選ばれた、幸いなる人々ということなのか?
そういうことなら、ここには<神の選び>という考え方がひそんでいる。
277 :
飛行船:2008/03/23(日) 13:53:46 ID:J8oWFkmH
資本主義社会における労働者が、罰であり苦役である労働なのに、
多少なりともまじめに働く理由は何だろう。
ひとつには、首を切られたり、怒られたりするからである。
もうひとつは、働きによって、地位や給料に差をつけられるからである。
アメとムチで芸をさせられている、サーカスの動物に似ている。
そういったこととは別に、労働者が自分からすすんで働く場合は、
1 働かなくてもよい将来を夢見て資本の蓄積をしているか、
2 周囲との比較において、いまの状態にある程度の満足を感じている。
この場合の2は、キリスト教にあって、やはり<神の選び>に関係する。
278 :
神も仏も名無しさん:2008/03/23(日) 16:23:21 ID:O17EJ/TO
罪ではないよ。休日は休むけど平日は神も働いたからな。
279 :
飛行船:2008/03/23(日) 16:47:20 ID:J8oWFkmH
ヒトによって労働観はいろいろあると思う。
働くことで啓発されるし、働くことが生きがいだと思うヒトもいる。
それに対して、労働を懲役刑のように感じるヒトもいるだろう。
労働が罰であり、苦役だという前提があって、刑法も作られている。
懲役刑より禁固刑のほうが軽い。
労働に対して対価を支払うのもそういった観点から。
280 :
神も仏も名無しさん:2008/03/23(日) 17:03:41 ID:K0WM+6ym
エデンでも労働はあったけど苦ではないだけだよ
土地を耕し園の管理を任せれてた
281 :
飛行船:2008/03/23(日) 17:06:57 ID:J8oWFkmH
神の創造と、働かない資本家と、働かされる労働者には違いがある。
<神>は、自分の意志で、自分の仕事をしている。仕事というより芸術活動。
<働かない資本家>は働かない幸せを手に入れた。しかし市場に支配される。
<働かされる労働者>は、時間と場所を制約され、他人に指示され、
決まりきったことを繰り返し行う仕事である。創造とは無縁である。
282 :
神も仏も名無しさん:2008/03/23(日) 17:25:53 ID:Xg8HexMH
仕事において「ネ申」に達する方法を考える
つまらない事でも熟練すれば神の域
無限にあるチャンスをつかむには
与えられた仕事を修行と思ってこなしながら
レベルアップすることだろう
逆の面でいえば仕事などどうでもよい、生きていくために物資が必要だからやっていることでしかない
本来不要なことであるのも真実といえる
自分に必要な仕事を仕方なくさせられているという事実を見通した上で
進んで仕事に取り組めば道は開ける
283 :
飛行船:2008/03/23(日) 17:31:59 ID:J8oWFkmH
>>280 たしかにそういった記述がある。しかし創世記の1〜3章は、
いくつかの神話が重複しているような印象を受ける。
2章でエデンの園を耕しているのは、アダムひとりであり、その後にエバが造られる。
ところが1章では、創造の第6日目に男と女を造っている。
そして3章では、エデンの園を追放されるときの罰が労働である。
3章の話は、原罪、出産、労働などの意味を教えようとする
<たとえ>ではないかと思う。
もちろんアフリカの裸族が簡単な農業をしていても不思議ではない。
アダムが果物などの種を特定の場所に埋めても不思議ではない。
284 :
神も仏も名無しさん:2008/03/23(日) 17:49:02 ID:K0WM+6ym
エデン追放後も土地を耕すことに変わりはないけど
罪により土地は呪われあざみいばらがある土地を汗流し
働かなければならなくなった 労働の質は変わる
園の秩序を保つだけでよかったのが
労働とはごく当たり前なことで賛美であったのが
人間だけでは苦を伴うようになった
神の保護下から離れることは創造でなく崩壊であるとの比喩
285 :
飛行船:2008/03/23(日) 18:06:14 ID:J8oWFkmH
>>282 何が必要かは別にして、生活の必要のために働くことは当たり前。
モーセの十戒に「盗んではならない」とある。
この十戒が、生活の必要ために働かざるをえない理由になっている。
そしてどこの国の刑法も盗むことを禁じている。
だから、生活の必要のために働かざるをえないのは、世界共通である。
憲法第27条は、すべての国民に対して勤労の義務を宣言している。
しかしこれは蛇足であり、憲法の意義(国民ではなく、国家を規制する法律)を
逸脱している。赤子、病人、老人にも勤労の義務があるのかと?
286 :
飛行船:2008/03/23(日) 18:29:01 ID:J8oWFkmH
熟練に関しては、何に熟練するのかが問題だろうと思う。
農民が農業に熟練することはそれだけで価値があるだろう。
しかし仕立て屋銀次が、スリの技術に熟練することに価値があるだろうか。
核の技術者が、核技術に熟練することは人類にとって危険でしかない。
ベルトコンベアーの自動車組み立てに熟練しても・・・?
287 :
夜行船:2008/03/24(月) 18:37:40 ID:e8QojKRr
イエスは、貧しい人々は幸いである、と祝福している。
こう言うイエスに、働くこと、労働を肯定する考えをまったく感じない。
ホームレスのイエスたち一行にとぼとぼついて来た人々に、
イエスの第一声は何だって? 「心が貧しい人々よ」だって???
常識で考えたらわかる。そんな難しい、怪しげな言葉を使うはずがない。
イエスの第一声は、絶対に「貧しい人々よ」でなくてはならない。
288 :
夜行船:2008/03/24(月) 19:36:20 ID:e8QojKRr
新約聖書には、自分で得たパン食べなさい、といった記述はあるけど、
働くこと自体を積極的に肯定するような記述はない。
むしろ逆で、富や財産をはっきり否定する記述がいくつかある。
それなのにどうして、16世紀半ば、プロテスタント(特にカルビン派)の中から、
働くことを肯定する考え方が生まれるのか。
289 :
夜行船:2008/03/24(月) 21:06:11 ID:e8QojKRr
労働を肯定するプロテスタントの理屈 〜 おおざっぱに言えば
予定説・・・神は全知全能 → 神に選ばれる人間はすでに決まっている。
だから、その人間の善行によって、神に選ばれるのではない。
では何を持って、神に選ばれている、と判断するのか?
よい木はよい実をつける・・・困っている人間が選ばれているはずがない。
健康であり、幸せな家庭があり、生活に困らないような豊かさがあり、
それを支えるような職業がある人間こそ、神に選ばれている。
そういった職業は、神が与えた<天職>である。→
天職だから、神に仕えるように、自分の職業に仕えるべきである。
カト全盛時代は国王、貴族、聖職者が特権階級だったけど
産業が発展し資本を蓄える人々が実質的な力を持ってくると
信徒に清貧を説くカトリックは不都合になってきたので、教会に
対する不満が高まってきたらしい
富は平等に与えられるべきだ、という考えと努力すれば豊かになれる
という時代風潮を取り入れた方が、民衆の支持が得られる
プロテスタントに改宗された人々には都市部の商人が多くいたらしい
学の無い田舎の農民にはイコンを見せて説教すれば良かったが、都市
では聖書をドイツ語訳で印刷する方が良かった
教会の腐敗も原因ではあった
291 :
夜行船:2008/03/24(月) 21:41:59 ID:e8QojKRr
イエスはルカ伝6:20で言っている。
「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。」
労働を肯定する人々は、イエスの教えの逆を行く。
「豊かな私たちは、幸いである。地上の国は私たちのものである。」
イエスはあの世の王であり、あの世のことを説いているのに対し、
労働を肯定するプロテスタントは、この世の、この地上の幸福を求めている。
この誤りにより、イエスの教えが転倒してしまう。
働かない資本家は、働かされる労働者を洗脳するための、
ありがたい理屈に大笑いしたことだろう。
292 :
夜行船:2008/03/24(月) 21:56:09 ID:e8QojKRr
>>290 おっしゃるような時代的な背景があるのでしょうね。
293 :
夜行船:2008/03/24(月) 22:15:57 ID:e8QojKRr
マタイ伝24:45〜51 忠実な僕と悪い僕のたとえ話は、
信者のリーダーに対する戒めかと思うが、
キリスト教を信じる経営者にとっても参考になるだろう。
294 :
夜行船:2008/03/24(月) 23:48:15 ID:e8QojKRr
健康、幸せな家庭、豊かな生活、よい職業という幸福な人生は、
宗教と無関係に、どこのだれもが願うことだろう。
労働を肯定するプロテスタントの鋭角的なところは、
幸福な人生が実現することで、神の選びが確認されることである。
希望や願望では、神に選ばれていることにならない。
ある程度にしろ、人生に成功しないと神に選ばれたことにならない。
そしてかれらは、人生に成功したと思うとき、神に選ばれたことを確信する。
それゆえに、かれらの成功は、無信仰者の無邪気な成金趣味とはちがう、
選民思想という悪臭によって包まれる。
295 :
夜行船:2008/03/25(火) 00:22:02 ID:bwh1AOBu
無信仰者は通常、現世利益に命をかける動機に苦労する。
金儲けに熱中しても、現世利益は手段でしかない。
しかしカルビン派は、それが選民の証明だから現世利益に命をかける。
それゆえかれらは、現世利益の追求にきわめて戦闘的である。
などと、独断と偏見で推測してみた。見当はずれなら謝罪したい。
296 :
鈍行船:2008/03/25(火) 19:00:39 ID:BDCzsubU
イエスの教えからは、労働を肯定する考え方は導けないのか?
やはり労働は罰なのか? と思うかもしれない。
しかしそうでもなさそうな感触もある・・・
297 :
神も仏も名無しさん:2008/03/25(火) 19:03:06 ID:2sfD2yLW
>>295 それは独断と偏見。
そんな下らない稚説でプロテスタントを貶めようとするからカトリックは
嫌いなんだよ。お前ら陰険過ぎ。
298 :
鈍行船:2008/03/25(火) 19:09:57 ID:BDCzsubU
>>297 好き嫌いではなく、あなたの反論をぜひ展開してほしい。
299 :
神も仏も名無しさん:2008/03/25(火) 19:22:01 ID:2sfD2yLW
>>298 カルヴァンと資本主義との相関関係はマックスウェーバーのプロ倫による
ところが大きい。事実、天職概念によって職業従事の重要性も説かれていた。
しかし、これによって、利益の追求を奨励したり『戦闘的』になることを
説かれている頁は見受けられない。あるならば是非提示して欲しい。
また、近年マックスウェーバー説は資本主義経路の一説に過ぎず
産業革命とカトリックによる宗教支配からの脱却を果たしたところによって
ブルジョアジー、アッパーミドルが市民層に発現したことによる
産業構造革命からの要請であり自然発生的であったとする説も
有力説として残っている。
一方だけを取り上げさも、守銭奴のごとくに貶める遣り方は人間として
どうだろう?所謂、意図的な情報操作、印象操作ととられてもおかしく
ないのではないだろうか?
300 :
鈍行船:2008/03/25(火) 19:35:59 ID:BDCzsubU
イエスの教えから、イエス的な労働観を導く手がかりとして、
二宮尊徳の考え方を簡単に紹介したい。
尊徳の基本思想は、至誠・勤倹・分度・推譲にある。
うち分度とは、その人の収入の範囲で生活することであり、
その収入で貯蓄ができる生活レベルを決め、実行することである。
うち推譲とは、分度を超える部分を社会に還元することである。
もうひとつは、災害に備え、3年の余裕を貯蓄しろと教える。
301 :
鈍行船:2008/03/25(火) 20:34:54 ID:BDCzsubU
>>299 ウェーバーの説を全面的に支持しているわけではなく、
カルビン派の予定説に基づく、天職という職業観のほうに興味がある。
自分の職業を天職と思うなら、その人は喜んで働くと思う。
喜んで働くことは、利益の追求とは違うと弁解しても、
もともとの出発点、それが天職だと信じられる根拠がはっきりしない。
自分の職業が天職だと信じられる根拠は何でしょうか?
不幸な生活ですか、幸福な生活ですか。
302 :
神も仏も名無しさん:2008/03/25(火) 20:48:51 ID:2sfD2yLW
>>301 天職と信じられる根拠は教義信仰そのものから来るでしょう。
要は労苦は日々にあり(matt 6:34)、与えられた仕事をこなし生活
することこそが幸福である(eccles 3:10,13)という聖書観から
労働に価値を認める様になったのでしょう。
利潤追求は富の追求であり、楽の追求です。そこには多くの罠が潜み、これは
悪いものではなくとも聖書では警戒すべきものとして教えています。
天職のみならず生活、環境、歴史、総括した存在そのものが神の御手の内にある
ことを信じる信仰です。
303 :
鈍行船:2008/03/25(火) 21:01:34 ID:BDCzsubU
不幸な生活をしていて、自分は神に選ばれていると思う人はいないと思う。
それだから、幸福な生活を求めて必死になるのではないですか。
そしてその必死さを、戦闘的と表現したにすぎない。
それに対して無信仰者は、神の選びという重石がない。
不幸な生活であっても、運が悪かったで済ませられる身軽さがある。
304 :
神も仏も名無しさん:2008/03/25(火) 21:14:44 ID:2sfD2yLW
幸福というイデアは特に信仰を持たずとも戦闘的ですよ。
また、天職概念→必死さと直結しないことを指摘したのです。
それは十分条件ではないから。
同様に無信仰者→身軽というのも十分条件には至らない。
305 :
のぞみ ◆pLAYdeBByU :2008/03/25(火) 21:29:54 ID:MoRc2WzY
>>301 > 自分の職業が天職だと信じられる根拠は何でしょうか?
(趣味=仕事)=天職
306 :
鈍行船:2008/03/25(火) 21:46:54 ID:BDCzsubU
>>302 マタイ伝6:24に、「神と富とに仕えることはできない」とある。
利益を追求することは、イエスによって否定されている。
利益を追求することは悪である。
利益の追求を認める教義とはどんなものであり、
それは聖書のどの記述によるのか、教えていただけたらありがたい。
>>304 カルビン派の予定説においては、実際に幸福な生活かどうかが重要であり、
それが神の選びを証明する。こういった信仰だから、
不幸な生活を送る信者は選民ではなく、脱落者ということになる。
そこで必死にならなくてもいいけど、信仰自体が崩れる。
307 :
鈍行船:2008/03/25(火) 22:06:41 ID:BDCzsubU
>>305 趣味を仕事にするには、ハイレベルな競争を通り抜けなければならない。
野球などのスポーツも、囲碁や将棋などの勝負事も。
308 :
神も仏も名無しさん:2008/03/25(火) 22:06:58 ID:2sfD2yLW
>>306 旧約ならばソロモンやダヴィデ王のように財を為した人物もいますし、
新約においてもイエスの遺体を引き取った人間は財産家です。
利益追求を奨励はしてませんが、財は悪いものでないことも読み取れませんか?
>>カルビン派の予定説においては、実際に幸福な生活かどうかが重要
これについてソース提示頂けますか?
309 :
のぞみ ◆pLAYdeBByU :2008/03/25(火) 22:22:27 ID:MoRc2WzY
希美は、趣味=仕事
別に、競争などしてないよ。
310 :
鈍行船:2008/03/25(火) 22:36:57 ID:BDCzsubU
のぞみの場合は、競争を通り抜け、それなりに資格をもっている。
趣味が仕事なら、仕事が苦にならないね。
でも世の中の多数派は、いやいや働いているほうだと思う。
311 :
のぞみ ◆pLAYdeBByU :2008/03/25(火) 22:40:41 ID:MoRc2WzY
>>310 趣味=仕事、としても、仕事は苦になるよ。
それは、趣味でテニスやっても、苦しい時があるのと同じ。
楽しい、でなく、やりがいを感じるから、仕事=趣味、になる。
312 :
鈍行船:2008/03/25(火) 22:57:53 ID:BDCzsubU
>>311 仕事にやりがいを感じることはある。しかしそれで
仕事=趣味と思えるのは、やはり幸福な少数派だろうと思う。
職業選択だとか、人間関係だとかもあるのだろうけど、
たぶん仕事観のようなものも関係していると思う。
313 :
のぞみ ◆pLAYdeBByU :2008/03/25(火) 23:09:53 ID:MoRc2WzY
314 :
鈍行船:2008/03/25(火) 23:11:34 ID:BDCzsubU
仕事に対する姿勢は、経営者であるのか、従業員であるのかによっても違う。
自分のことだとだと思えば精を出すし、他人のことだと思えば手抜きをする。
いまの社会は、しっかりした仕事観を見失っているような気がする。
315 :
鈍行船:2008/03/25(火) 23:23:40 ID:BDCzsubU
>>313 収入の1/4を貯蓄・・・すごいですね。
自分の生活を点検すると無駄な買い物がけっこうある。
歩留まり半分、のような生活をしてきた。それを思えば可能かもしれない。
仕事の道楽化・・・低賃金の従業員でも可能ですか?
316 :
鈍行船:2008/03/25(火) 23:44:15 ID:BDCzsubU
>>308 新約は富や財産を肯定していないでしょう?
マタイ伝6:19に「地上に富を積んではならない」とある。
ヤコブ5:1に「富んでいる人たち・・・金銀・・・罪の証拠」とある。
予定説に関しては、どうして神に選ばれていると思えるのか、
それを考えてください。それがソースになる。
317 :
神も仏も名無しさん:2008/03/25(火) 23:51:30 ID:Fr0ZgjzO
タラントの話があるように財産を否定してるのでなく
執着を否定してるだけだよ
神に言われたらすっと富を手放せるくらいの
心持ちなら問題ないのでは
318 :
のぞみ ◆pLAYdeBByU :2008/03/26(水) 00:42:27 ID:BeuzLoKd
>>315 給与の額じゃないよ。
やりたいことを、仕事にすればいいだけ。
給与がゼロの遊びにお金使うぐらいなら、給与が安くても、やりたいことをやったほうがいい。
319 :
のぞみ ◆pLAYdeBByU :2008/03/26(水) 00:56:02 ID:BeuzLoKd
あと趣味というだけでなく、信仰を生きる仕事。
医療、介護、福祉、あと教育なども、そうなのかな。
希美がしてる仕事、3Kの底辺職業だけど、信仰を生きるには、ベストな職業と思う。
いずれ年老いたら、宗教者に、何かの形でなりたい。
京セラ稲盛和夫名誉会長が、僧侶になられたように、居食屋和民の渡邉美樹社長が、いつかマザー・テレサのように、というように。
職業で信仰を生き、年老いたら宗教者として、信仰を生きたい。
320 :
のぞみ ◆pLAYdeBByU :2008/03/26(水) 01:04:57 ID:BeuzLoKd
人は、仕事を通じて信仰を生き磨かれる、と思うよ。
321 :
鈍行船:2008/03/26(水) 18:13:19 ID:3nlW9nMG
>>317 タラントンについては >>221-
>>244 で検討している。
新約に財産の否定はいくつかあるけど、マタイ伝6:29
栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾っていなかった。
322 :
鈍行船:2008/03/26(水) 18:49:00 ID:3nlW9nMG
>>318-
>>320 医療や介護などの職業は、魅力だけど、責任が大きくてきつい側面もある。
同じことは宗教者についても言える。
ぎりぎりの人たちを相手に、いつも忍耐強く接することができるかどうか。
どこかで切り捨てざるをえず、そのつらさや後悔をしたくないという思いもある。
こういったことは、やむを得ない場合に限りたいなあ。
仕事を通じて信仰を生き磨かれる、のはその通りだと思う。
ただ、できるだけゆっくり磨かれたい。
323 :
鈍行船:2008/03/26(水) 19:21:17 ID:3nlW9nMG
二宮尊徳に話をもどせば、分度と推譲の考え方は福音書にも読み取れる。
分度・・・主の祈り「わたしたちの必要な糧を今日もお与えください」
イエスは生活に必要な衣食住を否定していない。
推譲・・・マタイ伝22:39「隣人を自分のように愛しなさい」
必要を超えた財産があれば貧しい人々に施しなさい、ということだろう。
二宮尊徳が福音書を読んだかどうかは知らない。しかし幼い頃に両親を失った
尊徳の考えは、福音書イエスの考えと重なっている。
324 :
鈍行船:2008/03/26(水) 19:46:37 ID:3nlW9nMG
イエスの考えからは、分度や推譲という考え方以外に、
労働を肯定する考え方、利益や財産を肯定する考え方は出てこないと思う。
イエスはどうして、あからさまにそう言わなかったのか?
イエスに耳を傾けた人々は、生活の必要にも事欠く人々だったからだ。
分度や推譲を説くまでもなかった。
貧しい者に労働観など必要ない。かれらは必死に働かないと生きていけない。
では分度や推譲を説く相手はいったいだれだ?
財産をため込んだ資本家であり、利益の追求に必死な会社の経営者である。
じつはかれらこそ、健全な労働観が必要なのである。
325 :
鈍行船:2008/03/26(水) 22:30:22 ID:3nlW9nMG
二宮尊徳が言う、災害に対する<三年の備蓄>は農家の話である。
商店や企業、あるいはそこの従業員なら、また違った備蓄があるのだろう。
医者は法律で守られているので備蓄などいらない。
326 :
鈍行船:2008/03/26(水) 22:57:18 ID:3nlW9nMG
新約聖書は基本的に、財産、利益の追求を罪悪と見なしている。
なぜ罪悪かといえば、それが<自分>の財産であり、
<自分>の利益追求だからである。
いまの社会は、<自分>の利益を追求することで成り立っている。
市民レベルでも、国家レベルでもそうである。
言い換えれば、罪悪を土台にしてこの社会が構築され、
社会全体が罪悪まみれになっている、ということだ。
327 :
鈍行船:2008/03/26(水) 23:14:45 ID:3nlW9nMG
社会全体が罪悪まみれ、世界全体が罪悪まみれ・・・
戦争や紛争、政治家の汚職、官僚の腐敗、社会にまんえんする凶悪事件・・・
個人個人の罪悪が、社会全体の罪悪になって、逆にわたしたちを覆っている。
328 :
鈍行船:2008/03/26(水) 23:20:08 ID:3nlW9nMG
だから分度・推譲を強制することはできない。
周囲の食い物にされるかもしれない。やれる人がやればいい。
329 :
鈍行船:2008/03/26(水) 23:44:06 ID:3nlW9nMG
企業活動は、罪悪に出発点があるから、きびしい規制が欠かせない。
規制緩和すれば、企業活動はそれだけ腐敗し、不道徳なものになる。
その結果、社会も腐敗し、不道徳になる。
その責任を個人に求め、市民社会の取り締まりに向かうのは転倒である。
アメリカ・イギリスを中心とした、新自由主義経済の罪は重い。
330 :
鈍行船:2008/03/27(木) 00:01:42 ID:1uVbaR/4
マルクス・レーニンに始まる共産主義は、
<自分>の利益を追求するという、人間の本性を甘くみた壮大な失敗だろう。
共産党・官僚たちの、<自分>の利益が優先される社会になっただけ。
そこにある<自分>が、キリスト教で言う<原罪>である。
社会の骨組みを変えても、個人個人の<原罪>は清算されなかったわけだ。
共産主義的な、原始キリスト教団の失敗と同じだと思う。
331 :
鈍行船:2008/03/27(木) 00:23:04 ID:f2Z3Gart
いまは共産主義(?)国家、中国の成り行きに注目している。
チベット暴動だけでなく、農民の反抗のようなものも起きているという。
情報が少なくてはっきりしないが、共産党や官僚たちが農民を土地から追い出し、
イギリスの産業革命の頃にあったような<囲い込み運動>、
資本の原始蓄積を開始しているらしい。
332 :
鈍行船:2008/03/27(木) 18:14:26 ID:f2Z3Gart
資本家や経営者などの金持ち以外、
ふつうの市民はどんな心がけで生活したらいいいのか?
これについては、ルカ伝2:10〜14に、ヨハネの具体的な話がある。
群集に対しては、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。
食べ物を持っている者も同じようにせよ」
徴税人に対しては、「規定以上のものは取り立てるな」
兵士に対しては、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。
自分の給料で満足せよ」
333 :
鈍行船:2008/03/27(木) 20:47:51 ID:f2Z3Gart
神がいるなら、神によって人間に与えられた<天職>は何だろう?
生きることか? 働くことか? そうではないだろう。
アリだってハチだって、生き、そして働く。
人間にとっての<天職>は、神を知り、神に仕えること以外にない。
それは、仕事があってもなくても、日雇いでも従業員でも、経営者も資本家も、
女も男も、子供も大人も、日本人も外国人もみんな同じだろう。
334 :
神も仏も名無しさん:2008/03/28(金) 19:10:38 ID:rEK5Jd2D
推譲、施すこと、与えることについても見ておこうか。
水に溺れている者を助けようとすると、助けようとする者も相手にしがみつかれ、
二人とも溺れてしまう可能性がある。溺れている者はわらをもつかむ。
これをどうやって避けるのか、という問題である。
335 :
神も仏も名無しさん:2008/03/28(金) 19:55:45 ID:rEK5Jd2D
マタイ伝6:3で、施しの仕方を、ストレートに教えている。
「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」
またルカ伝10:25以下に、善いサマリア人のたとえがある。
強盗に会って、傷ついた人を助ける善いサマリア人は<旅>をしている。
善いサマリア人が<旅>をしている・・・これがポイントだろう。
イエスは、病気を癒した人々に対し、<祭司のところへ>行くようにすすめ、
同時に自分が癒したことを<黙っているように>と指示する。
あるいは<家に帰りなさい>と指示する。マルコ伝5:19
イエスは、相手と同じレベルに身を置き、それ以上期待させない。
同時に、自分が<旅人>であることをわからせようとする。
自分にとっても相手にとっても、イエスの行為はその場限りである。
336 :
神も仏も名無しさん:2008/03/28(金) 20:13:37 ID:rEK5Jd2D
二宮尊徳の<推譲>は、土地に定住するところが異なる。
かれは、個人ではなく、幕府の役人という立場から<推譲>する。
仕事を与え、賞罰のある公平なルールを定めて実行する。
これが定住者の、<間>の取り方なのだろうと思う。
現代風に言えば、福祉制度であり、慈善や福祉の団体であり・・・
要するに、個人ではやらない、と言うことである。
337 :
神も仏も名無しさん:2008/03/28(金) 21:38:12 ID:rEK5Jd2D
助けられる側・・・タイミングもあり、プライドもある。
<希望>
1 助けてほしい時に助けてほしい。
2 できることなら、権利として受け取りたい。
<希望していない>
1 いつまでも恩着せがましいのはうっとうしい。
2 お金を投げつけられたら、必要でもいらない。
3 求めてもいないのに、押しつけがましい施しはお断り。
与える〜受ける福祉には、二つのタイプがあることがわかる
イエス型・・・求めれば助けてくれる。しかしすぐに去っていく。
尊徳型 ・・・そこに行けば、権利であるかのように助けてくれる。
受け取る側にすれば、イエス型より尊徳型のほうがありがたい。
しかし尊徳型は、イエスによって開始された福祉の思想が発展した
ものだと理解したほうがいいかもしれない。
339 :
夜光船:2008/03/28(金) 22:52:50 ID:rEK5Jd2D
いまの時代は、国や地方自治体による福祉制度の充実、
あるいは、民間のボランティア団体による福祉活動が重要であり、
こういった活動のほうが継続性も獲得できる。
個人のやれることは、こういった団体に参加したり、寄付したりである。
あるいは、家族同士の協力、老親の介護などである。
かりに溺れても助けたい人がいるとしたら・・・それは家族だろう。
340 :
夜光船:2008/03/28(金) 23:28:10 ID:rEK5Jd2D
いまの時代、乞食をやると軽犯罪法で最悪30日の拘留になる。
どうりで乞食を見ないわけだ。
しかし病気のホームレスは、生活保護からも締め出され、
乞食をすることも禁じられているから、死ぬ可能性が非常に高い。
まだまだ福祉制度、福祉活動の低調な日本、
こんなときは、万引きでもして刑務所に避難したほうがいいだろう。
餓死するよりは刑務所のほうがいい。
341 :
のぞみ ◆pLAYdeBByU :2008/03/29(土) 01:26:42 ID:LDCVokJb
>>340 > 餓死するよりは刑務所のほうがいい。
そんなこと、書くべきじゃない。
刑務所に行きたいからって、電車のホームから人を突き飛ばした、殺人事件があったばかりで。
>>341 見つかっちゃった(TT)・・・
正直、かれらが刑務所希望であることはまったく知らなかった。
しかし少し言い過ぎたかな、などと思い直してはいた。
のぞみの指摘を受け入れ、340をつぎのように訂正したい。
食事や風呂や衣服にもこと欠くホームレス生活より、
食事の心配もなく、風呂にも入れ、雨風もしのげ、布団で寝られる刑務所生活
のほうが恵まれている。・・・そう思うのはわたしだけだろうか。(^^;
最近、駅で起きたふたつの事件の犯人・・・単なる刑務所希望なら、
人を殺さなくてもいいのではないか。特に、8人を殺傷した事件の犯人は、
死刑になる可能性がある。ふたりとも別の動機のような気がする。
ホームレスが、お金もなく、腹がすいて万引きした場合、それは窃盗罪かどうか。
病気などで働けず、生活保護からもはじかれてしまうならば、
餓死を避けようという緊急避難であり、窃盗罪にならない、かもしれない。
余裕ある者が万引きするのとはわけがちがう。
それに万引きと殺人では、罪の重さが天地ほどにちがう。
344 :
夜行船:2008/03/30(日) 19:54:37 ID:YPcP7l+b
少し話題を変えて、なぜ仏教ではなく、イエスの教えなのかを見ましょうか。
この違いを多少知っておくことは、神道や仏教の日本で、イエスの教えを
信仰する者の義務かと思う。しかし神道についてはいずれ機会があれば。
最初に断っておくけど、素人の思いつきなので話のソースなどない。
<仏教>との決定的な違い
イエスの教えは有神論であり、仏教の教えは<無神論>である。
仏教は無神論だから、仏教には「あの世」というものはない。
阿弥陀如来、薬師如来などの話は、善男善女を導く方便(ウソ)でしかない。
ヒトは「この世」限りの人生を生きている。
345 :
夜行船:2008/03/30(日) 20:18:39 ID:YPcP7l+b
仏教には無神論であり、「あの世」がない。
それじゃ、悲しんでいるヒト、苦しんでいるヒトが救われない!
それに対する仏教の答えは、「空」である。
簡単に言えば、<人生なんて蜃気楼だ>と言うこと。
「空」を悟れば、悲しみ苦しみも、消えてなくなるらしい。
そんなバカげた話では、現実の不幸は解決しない、と言っても、
これが釈迦の教えである。・・・これでは仏教を選べない。
346 :
神も仏も名無しさん:2008/03/30(日) 20:20:47 ID:MX9EXBP3
きちがい殺人で医療少年院に入れられて1〜2年で出てくるそうだ
その後、猟奇殺人犯は結婚して子供を作って幸せに暮らすのですね
めでたし
347 :
夜行船:2008/03/30(日) 20:53:55 ID:YPcP7l+b
× 仏教には無神論であり → ○ 仏教は無神論であり
仏教の最高の境地は「空」を悟ることにあると言われる。
しかしそれは100%無理な話である。
「空」という、形もなく、内容もないものを悟れるはずがない。
何もないのに、どうやって感じ、悟ることができるのか。
348 :
月見うどん ◆GQVAicDWLY :2008/03/30(日) 20:58:49 ID:uqEp0Dni
仏教のどの時点に立って話してるの?
349 :
夜行船:2008/03/30(日) 21:04:32 ID:YPcP7l+b
>>346 殺人事件を<蜃気楼>で済ますわけにはいかないよね。
350 :
夜行船:2008/03/30(日) 21:13:24 ID:YPcP7l+b
>>348 仏教全般だけど、おおよそインドにおける初期大乗仏教あたり。
永遠とは終わりの無い時のことではなく、無時間のことなんだね。
つまり永遠の存在から見れば、
時間内の「過去・現在・未来」が全て眼前に現れているんだね。
そういう意味での予定論なんだよ。
過去の決定と未来の状態が
永遠の存在から見れば同時に現前しているんだね。
だから予定説を時間内で考えると
「堕落前予定説」と「堕落後予定説」と二つの説が出てくるんだね。
永遠は無時間だから「前」とか「後」ってことはないんだね。
永遠の存在から見れば、全て同時に現前してるからね
353 :
夜行船:2008/03/30(日) 21:41:52 ID:YPcP7l+b
日本の仏教、天台宗と真言宗は、山川草木悉有仏性であり、
この現世を肯定する傾向が強い。しかし「空」の立場を捨てない。
論理的に見れば、現象の本質が「空」であるなら、現象も「空」であり、
初期大乗仏教のほうが整合性がある。日本の仏教のように、
「空」を説きながら、他方で現世を肯定するのは、どうなのだろう。
354 :
月見うどん ◆GQVAicDWLY :2008/03/30(日) 21:42:26 ID:uqEp0Dni
>>350 それじゃあ、空の概念は慎重に扱わないとね。
>>351 仏教に永遠の概念はないよ。因果に反する。
初めがあり終わりがある。
永遠の命ってはそういうことなんでしょうね。
終わりの無い命になるのではなく
永遠が時間の流れの中に突入してくることなんでしょうね。
人間等の魂が不滅だとすると
時間は始まりが無く終わりもないでしょうね
不滅な存在があるのだかね。
聖書の世界観だと人間等の魂は不滅ではないでしょうね。
世界に始まりがあるから当然人間の魂にも始まりがあるからね。
世界には始まりがあって終わりがあるのなら
当然、この世に存在するものにも始まりがあり終わりもある。
だとすれば人間の魂も始まりがあり、終わりもある。
聖書的世界観の宗教が、輪廻的なものを否定するのは
魂が不滅ではないかなのかな。
世界が終わったら輪廻も終わってしまうから
無意味だよね、輪廻を繰り返すのは
359 :
夜行船:2008/03/30(日) 22:11:10 ID:YPcP7l+b
>>354 >それじゃあ、空の概念は慎重に扱わないとね。
意味不明。時点を示しただけで、わたしの立場を示したのではない。
360 :
夜行船:2008/03/30(日) 22:17:13 ID:YPcP7l+b
>>351 >>352 誤爆でなければ、どういったテーマなのかを教えてください。
それから堕落前と堕落後のちがいを、
自由意志への影響の観点から簡単に説明してほしい。
361 :
月見うどん ◆GQVAicDWLY :2008/03/30(日) 22:20:00 ID:uqEp0Dni
君が考えてる空はいつ成立した?
362 :
夜行船:2008/03/30(日) 22:25:48 ID:YPcP7l+b
>>361 その前に、あなたの言ってることを説明してください。
354のレス、意味が不明なんだけど?
363 :
月見うどん ◆GQVAicDWLY :2008/03/30(日) 22:34:19 ID:uqEp0Dni
空という概念は初期仏教では現在盛んに使われているような、
特異な意義はもっていない。
大乗であってもね。
364 :
夜行船:2008/03/30(日) 23:12:14 ID:YPcP7l+b
>>363 インド仏教史の時代区分のことですか?
初期仏教なら、あなたのいう通りかもしれない。たぶん誤解があったと思う。
初期大乗とは竜樹のあとの大乗仏教という意味で使ったのであり、
正確には中期仏教とすべきでしたね。素人なのでごめんね。
365 :
夜行船:2008/03/30(日) 23:20:52 ID:YPcP7l+b
>>355 〜
>>358 あなたの言ってること、いまひとつわからないのだけど、
肉体・物質のレベルと、心・魂のレベルとを混同していないですか。
肉体や物質のように、心や魂を扱うのはまちがいでしょう。
366 :
夜行船:2008/03/30(日) 23:34:33 ID:YPcP7l+b
>>354 >仏教に永遠の概念はないよ。因果に反する。
>初めがあり終わりがある。
わたしへのレスではないけど、これもよくわからない内容ですね。
永遠の存在と、因果法則は、別次元の話だと思いますが。
367 :
夜行船:2008/03/30(日) 23:49:36 ID:YPcP7l+b
仏教は「空」を悟ることを最高の境地とする。
しかしここで自縄自縛におちこむ。何かを感じたら「空」ではなくなる。
「空」については何も感じてはいけないし、何も語れないのだ。
あれでもない、これでもない、と言うばかりである。
そんなものが何の役に立つ。そして実際、何の役にも立たない。
悟った、と言うだけの、ただの自己満足で終わる。
368 :
夜行船:2008/03/31(月) 00:00:19 ID:YPcP7l+b
空海のマントラは、現世の肯定であると理解されている。
それならば、山川草木悉有仏性と同じレベルである。
この世は実体、しかしその本質は<空>である。
結局のところ、この世も<空>・・・
369 :
夜行船:2008/03/31(月) 00:02:31 ID:YPcP7l+b
× マントラ → ○ マンダラ
370 :
夜行船:2008/03/31(月) 00:30:29 ID:GG1zyN2K
因果とは、原因であり結果である。
初めがあり終わりがある、とは内容が違う。因果 ≠ 終始 である。
内容が違うのに、どうして、因果がないことが、永遠がないことの理由になるのか?
371 :
夜行船:2008/03/31(月) 20:03:02 ID:GG1zyN2K
仏教は<空>を悟ることを最高の境地とする。
これは洗脳であり、仏教は最初の入り口で答えを封じている。
<空>を悟ることはない。
<空>は実体がない。それを感じることはない。だから悟れるはずがない。
だから仏教では、100%悟れない、という結論になる。
何かを感じ、悟ったと思ったら、それはもう<空>ではない。
仏に会ったら仏を切れ、とはそういうことである。
空もまた空、ということである。アホクサ。
372 :
神も仏も名無しさん:2008/03/31(月) 20:05:10 ID:gyUkMVfn
実体がないと思えば捉われるのはあほくさいと
思える方便みたいなもんだよ
意外と何かに人間は捉われてるもんだから
373 :
夜行船:2008/03/31(月) 20:12:09 ID:GG1zyN2K
仏教は混乱している。
<空>によって、俗なるものを聖化するなどと主張している。
何だろうな。<空>の前には聖も俗もないだろうよ。
374 :
神も仏も名無しさん:2008/03/31(月) 20:18:25 ID:gyUkMVfn
空って自性を欠けど縁起という関係性により
成り立つんだから関係性に感謝しようとか
いい意味でのもあるんじゃなかったっけ
375 :
夜行船:2008/03/31(月) 20:21:57 ID:GG1zyN2K
>>372 唯識では、大円鏡地という<空>をイメージする。
しかし<空>の立場からは、この大円鏡地も否定される。
鏡に映った、あるがままも否定される。
あらゆるものは<空>だから、それを肯定する理由はない。
光を悟りの境地と誤解しているヒトもいるけど、
<空>の立場からは、何かが残る状態を<空>とは言わない。
376 :
夜行船:2008/03/31(月) 20:25:06 ID:GG1zyN2K
>>374 <空>は<空>であり、よい意味も悪い意味も、まったくない。
仏教の慈悲は、まったくの方便(ウソ)
377 :
神も仏も名無しさん:2008/03/31(月) 20:34:56 ID:gyUkMVfn
意味付けするのは人間
378 :
夜行船:2008/03/31(月) 20:38:01 ID:GG1zyN2K
その行為も<空>
379 :
神も仏も名無しさん:2008/03/31(月) 20:38:23 ID:gyUkMVfn
うーん。w
380 :
神も仏も名無しさん:2008/03/31(月) 20:51:18 ID:gyUkMVfn
空は幸せなものにとっては余計だね
実体がないとか言われちゃ
苦しんでる人限定だな
381 :
夜行船:2008/03/31(月) 20:55:14 ID:GG1zyN2K
聖徳太子以来、日本は法華経に大きな影響を受けている。
この法華経の冒頭に、方便品があり、ウソをつくことを宣言している。
法華経は外見ばかりで内容がない<空>をたとえている?
ちなみに聖徳太子は実在しなかった。太子の業績は、
十七条の憲法と三経義疏だが、どちらも太子作でないことが確実という。
ウソを説く法華経がこういうウソを作らせたのかも。
382 :
夜行船:2008/03/31(月) 20:58:10 ID:GG1zyN2K
>>380 そういう余地はあるけど、それでは真理ではなくなり方便の教え。
383 :
夜行船:2008/03/31(月) 21:53:53 ID:GG1zyN2K
大円鏡地 → 大円鏡智
法華経の冒頭 → 法華経の第二
三経義疏 → 三経義疏の注釈
384 :
夜行船:2008/03/31(月) 22:30:16 ID:GG1zyN2K
>>372 仏教によって悟ることはできない、と思うのだけど、
物事に拘って、苦しんだり、悲しんだりしている人たちの心に、
水をかけるぐらいのことはできそうですね。
しかし<空>を悟ろうと思ったら、
その思いがそのまま拘りである、という迷路のような世界に入りこむ。
では悟ろうと意識しないのがいいのか、と言えば、
そんなことではやはり100%悟れない。要するに方法論的な誤り。
385 :
神も仏も名無しさん:2008/03/31(月) 22:34:58 ID:gyUkMVfn
>>384 だから方便だと思うよ
人間の苦からの開放を前提において
その視点で編み出した策みたいな
386 :
夜行船:2008/03/31(月) 22:51:18 ID:GG1zyN2K
釈迦は人生を<苦>であると理解した。
この<苦>を解決する策が、<空>という境地ということですね。
そんなものかもしれませんね。
387 :
神も仏も名無しさん:2008/03/31(月) 23:05:42 ID:gyUkMVfn
釈迦王子は何が不満だったっけ?
388 :
月見うどん ◆GQVAicDWLY :2008/03/31(月) 23:26:01 ID:eDb4ZJrn
>>366 永遠は無始無終ですね。でも、仏教では物事の始まり「因」を設定します。
「久遠」という限りなく永遠に近い概念であっても、始まりがある以上
永遠ではありません。
つまり「1」の概念があって「0」の概念が古代インドには無い。
本来存在しないはずの「0」こそ、数学を根底から支える概念です。
もしかしたら、「空」とは、その「0」への別角度からのアプローチかもしれませんね。
389 :
夜行船:2008/03/31(月) 23:45:17 ID:GG1zyN2K
>>387 あまりよくは知らないけど、幼い時に母を亡くし、
父親の決めた女性と16歳で結婚し、その子供に<悪魔>という名前をつける。
この名づけ方で釈迦の思いを何となく推測できる。
幼い頃から、何か救われがたいものを感じていたのではないだろうか。
390 :
神も仏も名無しさん:2008/03/31(月) 23:46:32 ID:gyUkMVfn
>>389 やっぱ傍から見れば恵まれてても
窮屈な思いとかいろいろあったんだろうね。。
391 :
夜行船:2008/04/01(火) 00:00:31 ID:GG1zyN2K
>>388 因果と空と永遠は明日以降にレス。
>>390 妻子を捨てて出家するのは、幼い頃からの疑問を解決したかったから。
たぶん、ヒトは何で生きているのか、というテーマだろうと思う
今日はこれでオチ。
392 :
やほよろづのかみたち ◆0ryc.81s2s :2008/04/01(火) 00:42:35 ID:vUW7kERs
393 :
鈍行船:2008/04/01(火) 18:45:10 ID:rBnUdshC
>>392 聖書は、ただ信じるのではなく、考えながら読む必要があるよね。
教会で神父や牧師の話を押し付けられる時代は終わった。
自分の家で聖書を読み、その真偽を確かめながら読む時代になった。
394 :
鈍行船:2008/04/01(火) 19:04:27 ID:rBnUdshC
何でヒトは生きているのだろう?
これに対する釈迦の答えはつまるところ「空」
この現実にも、現実の背後にも実体などはないのであり、
この世は蜃気楼のようなものである。当然、神などいるはずがない。
ではどう生きたらいい? まあ、ほどほどに生きよう。
中道はどうだろうかな。
395 :
鈍行船:2008/04/01(火) 19:08:57 ID:rBnUdshC
多くの人たちが、仏教に人生の真理を求めて命がけで生きたし、生きている。
そういった思いには心から敬意を払いたい。仏教のほうも、
そういった人々にある程度は答えたし、だからこそ滅びなかったのだろう。
しかし仏教には限界がある。「空」が真理だとは到底思えない。
396 :
鈍行船:2008/04/01(火) 19:40:31 ID:rBnUdshC
>>388 >永遠は無始無終ですね。でも、仏教では物事の始まり「因」を設定します。
>「久遠」という限りなく永遠に近い概念であっても、始まりがある以上
>永遠ではありません。
竜樹の「中論」第一章第一偈
もろもろのものはどのようなものでも、どこにあっても、何時でも、
自からも、自他の二からも、さらに無因からも、
生じたものと認められない。
この文章を読むと、竜樹は因果関係を否定しているように思えます。
「空」は永遠(神)を否定し、さらには因果関係をも否定しているようです。
>つまり「1」の概念があって「0」の概念が古代インドには無い。
>本来存在しないはずの「0」こそ、数学を根底から支える概念です。
>もしかしたら、「空」とは、その「0」への別角度からのアプローチ
>かもしれませんね。
・・・3 2 1 <0>−1−2−3 ・・・
正数と負数の間に「空」があるという話にはヒントがありそうですね。
397 :
月見うどん ◆GQVAicDWLY :2008/04/01(火) 19:45:31 ID:sqrcnzng
空とは君の考えてる以上にダイナミックなものだと思うよ。
それと真理は「特定」した段階で、真理では無くなる。
かといって不可知は愚かだ。
398 :
鈍行船:2008/04/01(火) 19:50:13 ID:rBnUdshC
>>397 空がどうダイナミックなのか、聞いてみたいですね。
399 :
月見うどん ◆GQVAicDWLY :2008/04/01(火) 20:01:40 ID:sqrcnzng
空即是色
万物はすなわち空。
伝道の書にある「空」は「空しい」意ですけどね。
つまり「全」でり「一」・・・いや「0」
400 :
おいい:2008/04/01(火) 20:07:41 ID:CLv7TdvD
ういvびう
401 :
鈍行船:2008/04/01(火) 20:10:18 ID:rBnUdshC
空を理解しようとすると、頭が疲れて混乱してきますね。
色 = 空 = 0 = 色 ですかね?
十円玉には表・裏がある
両面から削る
どんどん削る
ピラピラになる
でも削る....
論理的には何処までも削れるはず
なのに突然、表と裏の境がなくなる!!!
何処にあったか、いつなくなったかわからない
あったはずでないし、なかったようであったはず.....ポカーン???
23時59分99.99...∞...99秒から24時になる
0時から0時0分0.00...∞...01秒になる
いつなったかわかんないけど、なってる!!!
24時=0時=空=24時.........ポカーン???
403 :
鈍行船:2008/04/01(火) 21:08:38 ID:rBnUdshC
空を体験する方法はないものか
1 十二因縁・・・逆観(反省の時間の流れ)
老死→生→有→取→愛→受→触→六処→名色→識→行→無明
2 十二因縁・・・順観(実際の時間の流れ)
老死←生←有←取←愛←受←触←六処←名色←識←行←無明
自分の経験したこと(時間の流れ、順観)を、
反省すること(時間をさかのぼる、逆観)により、
方向が逆のことを同時進行させ、経験の意味を洞察していく。
これをイメージすれば、銀河のウズとか、道教の太極図だろうか。
向かい合った作用と反作用が消失し、ウズを巻いているような感覚になる。
404 :
鈍行船:2008/04/01(火) 21:23:07 ID:rBnUdshC
>>402 具体的にイメージするほうが近道ですね。
年収500万のサラリーマンの社会的値打ちは ゼロ
労働の対価、500万の収入ー500万の支出 = 差引きゼロ
年収200万のワーキングプアの社会的値打ちは ゼロ
同じように計算、200万の収入ー200万の支出 =差引きゼロ
社会的な値打ちからすれば、
企業のサラリーマン = 0 = 空 = ワーキングプア
405 :
鈍行船:2008/04/01(火) 21:48:58 ID:rBnUdshC
仏教の、もともとのテーマは何だったのか
ヒトはなぜ生きているのか → 空、意味はない
7年も修行したけど、ものの本質をどこにも見い出せなかった。
見い出したものは、この世が実体のない<空>であること。
言い換えれば<空>は、仏教が描いた、この世のイメージである。
406 :
大王慈悲、:2008/04/01(火) 21:53:12 ID:NtPTDdna
仏教どもよ、、、お馬鹿だぞ、、、品がねえなあ、、、
個々で仏教ヤロウは基本的に、空=縁起の意味が解らない事は確かだろう、、、
407 :
鈍行船:2008/04/01(火) 22:47:41 ID:rBnUdshC
この世のイメージを、究極的なところで描くなら、
道教の太極図か、銀河のウズだろう。そしてこれが<空>である。
これを知ったほうがいい。これを知らないと先に進めない。
しかし勉強不要。このスレを理解できれば十分。
コインの裏表、ものごとの二重性を洞察する訓練をしてほしい。
ひとつのことを、表側だけでなく、裏側からも見る。
これによって、気づきのチカラが養われる。
まだまだ先があり、奥は深い。
408 :
鈍行船:2008/04/01(火) 23:11:58 ID:rBnUdshC
数息観をすると、雑念が消えるたびに、
感覚が少しづつ鋭敏になっていくのを感じる。
感覚がなくなるのではなく、感覚がどんどん鋭敏になっていく。
ほんの少しの音を強く感じ、ほんの少しの光をまぶしく感じる。
そこを過ぎれば、心が安定して動かなくなる。
この成り行きをまとめたら
1 ほんのわずかな光でもまぶしく感じることがある
2 心が動かなくなると、心が安らぎを感じている
3 数息観を終わり周囲を見れば、周囲に透明感を感じる
しかしこれは、実体がない<空>を感じる修行ではない。
そうではなくて逆、実体(アートマン)を感じる修行である。
409 :
鈍行船:2008/04/01(火) 23:39:24 ID:rBnUdshC
ここまで書いたら、なぜ仏教に限界があるかがわかると思う。
仏教は数息観に<空>を背負わせている。しかしそれは誤り。
それも正反対の誤り。だから100%、いくら修行してもだれも悟れない。
410 :
鈍行船:2008/04/02(水) 00:21:51 ID:eD922FmH
>>406 大王どん歓迎。大王どんの空、自論の展開を希望。
411 :
大王:2008/04/02(水) 15:25:08 ID:qaOyHgTr
鈍行船愚かさは、まず、ここでシャブ中毒、オナ中毒の様に大量一人書き込みしている事、
その心理は、まず、当人が空ではないことを証明している。
以上。
仏教の面汚しだね。
412 :
神も仏も名無しさん:2008/04/02(水) 15:54:01 ID:TXL1tKJF
Qちゃん牧師の伝道部屋
毎週月・水・金曜日 PM7:00〜9:00(yahooメッセンジャーのチャットの「健康と医学」ユーザールーム)
伝道の時間です。クリスチャンの方は共に伝道し、求道者の方は質問するなど積極的な時間を。
興味のある方は是非お越しください♪
413 :
鈍行:2008/04/02(水) 19:42:17 ID:8TPjwqNl
>>411 仏教の面汚しって言われても、全面的に仏教徒ではないのですね。
大量一人書き込み・・・記念カキコのようなものですか。
414 :
神も仏も名無しさん:2008/04/02(水) 19:49:29 ID:LzHQ7Q12
Qちゃん牧師の伝道部屋
毎週月・水・金曜日 PM7:00〜9:00(yahooメッセンジャーのチャットの「健康と医学」ユーザールーム)
伝道の時間です。クリスチャンの方は共に伝道し、求道者の方は質問するなど積極的な時間を。
興味のある方は是非お越しください♪
ウェザーリポートのライブで、バードランドの演奏の途中でマンハッタントランスファーが突然出てくる場面には驚いたなぅ。
416 :
月見うどん ◆GQVAicDWLY :2008/04/02(水) 22:18:16 ID:5/22xxpF
>>415 20年以上前に来日した時、大阪で見た。
ジャコのベースは神だった。
彼のベースの凄さは左手じゃないんだな。右手のツーフィンガー。
これは凄い!
キレと粘り、やっぱりピックじゃ駄目だ。
417 :
Metatron ◆SyZ09dFMKU :2008/04/03(木) 01:28:36 ID:4WUX7uMs
>>416 月見氏がいう0=空という概念はこの世の全エネルギー=0のことを指すのですかねえ。
私の持論では真理とは集合Uとした場合、命(これをα:スカラー表示)でありこれを得るには力
(これをΒ;スカラー表示)が必要であり、また愛(これをγ:スカラー表示)も必要である。
そしてそれらのベクトルの関係は、α⊥Βで平面ができそれらの外積でγとなる。
すなわち、命題:真理とは集合U∋α、Β、γがあるとそれらのベクトル関係はα⊥Β⊥γの関係のとき
真理=α・Β・γの内積となりエネルギーをもった空間が出来上がる。
したがって、各ベクトルの内積の合わさった点を特異点とO(オー)した場合それが神となる。
そしてそれらの内積は0であるので、それが空とあらわされるのではと思う。
また、α、Β、γのスカラーが光を現しそれが電磁波の関係となる。そのなかで、空と説いたものは
仏となり、真理と説いたものがYHWHである。そして、YHWHに逆らったものが悪でありそれに影響
された者(感化された者)がこの世を空と悟ってしまうのではなかろうか。
418 :
夜行船:2008/04/03(木) 19:11:28 ID:3cltysGj
メタさんの空論は、空論の雰囲気がよく出ている。
理解しようとしたら頭から湯気がでる。
419 :
夜行船:2008/04/03(木) 19:27:57 ID:3cltysGj
もう一回、仏教の基本にもどろう。
釈迦は縁起を説いた。竜樹は中論で空を説いた。
竜樹が言う<縁起>とは、善と悪のような相関関係であり、
善は悪によって成り立ち、悪は善によって成り立つことをいう。
言い換えれば、相互依存である。
善は、単独では成り立たない。悪も、単独では成り立たない。
それを<空>という。善も悪も実体がない。
420 :
Metatron ◆SyZ09dFMKU :2008/04/03(木) 19:34:27 ID:4WUX7uMs
>>418 この程度のことで湯気が出てきたら受験勉強のほうがもっと湯気がでてくるよwwwww
軽く見なさいな♪イメージだけでいいんだよ。
421 :
夜行船:2008/04/03(木) 19:48:00 ID:3cltysGj
ここまで来れば、仏教の<二重基準>がはっきりする。
本音・・・この世は<空>である。
あの世もないし、如来もいない。神などいない。煩悩即菩提。
建前・・・善男善女よ、あの世もあるし、神仏はいる。
信仰して励め。あの世で信仰に応じ、それなりの果報が必ずある。
422 :
神も仏も名無しさん:2008/04/03(木) 19:51:30 ID:FoVPLpSn
しかし、メタの内積が三次元的である限りにおいてそれは空とはまた
別個の概念になってしまうが。
423 :
夜行船:2008/04/03(木) 19:55:38 ID:3cltysGj
>>420 そこだよね♪ のぞみの医学部受験はイメージだけでOK
424 :
神も仏も名無しさん:2008/04/03(木) 20:03:15 ID:FoVPLpSn
つまり集合Uにおいてα,β,γがそれぞれ{1,2,3・・・・・}を任意に
取るならば、それは{α=β,α≠β}ともなる。
U=0であるとき、α=β=γ=0≠0ともなる。
つまり、要素は実態を持たない諸処による記号に過ぎず、不確定性理論に
よるところの存在確率に過ぎない結となる。
信仰はその先に意志を認めるか否かの自他分岐軸なのです。
425 :
Metatron ◆SyZ09dFMKU :2008/04/03(木) 20:06:00 ID:4WUX7uMs
いやいや、この世(地)においての神の光(神の栄光、命の光、など)は特異点からが起源であるとイメージしてみてください。
その光は多くのスペクトル(周波数)を発し全てのものに恵みを与える。
だが神に逆らった悪はその光を失い(理解できず、光を嫌い闇を求める)自ら滅びの道に至る。
御父に適った者だけが真理を知り、この世そのもの(宇宙全て)が神の意志の御力だと知る。
そして、この世は諸霊、人の鬼の部分(エゴ)だけしか見ていないと空の悟りとなる。
イエス・キリスト(イマヌエル)は仏陀の上を遥かに上回っているのですよ。
426 :
神も仏も名無しさん:2008/04/03(木) 20:06:23 ID:Oi5lyIpi
427 :
Metatron ◆SyZ09dFMKU :2008/04/03(木) 20:17:52 ID:4WUX7uMs
>>426 大したことないね。
声とキーが合っていないね。よってオリジナルより評価低し!
428 :
Metatron ◆SyZ09dFMKU :2008/04/03(木) 20:41:15 ID:4WUX7uMs
>>424 基点(特異点)がまだ光を発していないとき、それはまだ神の御力が発揮されてをらずただの点に
すぎない。だが、そこには明らかにαでりωとなる存在がいる。だがこれはただ一人の御父である。
そこでは量子力学の域なのでほとんどの古典物理学は通用しない。しかも数学ではその特異点につ
いては解説できない。物理学の域でないと説明が出来ない状態である。だがそこのは明らかにエネルギー
が存在する。したがって人間では観測できない。あくまで理論の域の枠を越えることはできない。
この特異点のエネルギーは0ではないが空間に影響を与えてはいないのでスカラーとしては0である。
つまり、その状態は虚数の世界となる。
429 :
夜行船:2008/04/03(木) 20:54:28 ID:3cltysGj
仏教はもういいかな・・・?
しかし古いくからある神道は教義がはっきりしない。もう少し後回し。
ただ、聖徳太子が架空の人物であり、馬小屋の皇子と称され、
その後、大工の神様とされて、大工関係者から敬われたことなどから見ても、
キリスト教が1549年の伝来でないことは明らか。
仏教伝来538年には、キリスト教も伝わっていたのではないかと思われる。
430 :
神も仏も名無しさん:2008/04/03(木) 20:59:50 ID:FoVPLpSn
>>428 その0が一である必然性はないのです。
つまり特異点はn次元に渡り、m個数存在すると考えられます。
我々が三次元、等速時空間に認識を得ている限りに置いて神は一で正解なのですが
それが複数次元に渡る時果たしてYHVHは一つでありnである。その意味で三位一体は
YWVHのメタなのですが。
善と悪が空であるならば、所謂ベクトルもまた空であり、意味性は失われる
431 :
月見うどん ◆GQVAicDWLY :2008/04/03(木) 21:05:11 ID:RkLT9T5r
>>417 物質を現在観測される素粒子レベル。それ以上は推論になるが、物質とエネルギーの
境界は非常に曖昧になる。
世界を構成するベクトルに「愛」という軸を加えるならば、「愛」の主体を明確にしないとね。
因果についてのレスの流れだから、因果を超えた絶対神という概念を用いずに。
432 :
神も仏も名無しさん:2008/04/03(木) 21:22:42 ID:RewoLJgw
われわれを遺伝子的に計画して作った存在がいて、
それは時間の守り手と呼ばれる
存在たちによって計画され、人間にはあらゆる銀河系の存在から
DNAを集めて作られた
しかし、ある星の創造神たちが地球を占領して人間を今のように
進化できない状態にしてしまった
DNAを2本の束だけにしてしまった
そのことによって彼らが進化が停滞している
それを伝えて、現在フォトンによってDNAの束を回復する時期に入ったことを
知らせに彼らは人間の進化を手伝いに来ている
433 :
神も仏も名無しさん:2008/04/03(木) 21:30:52 ID:FoVPLpSn
ロゴスの有無だけなんですよ。核心部は。
あとのストーリーはなんとでも作り上げられる。
魂に従って生きるしかないわけですが、恣意的に信仰を選ぶことで
人生の孤独を紛らわせられるのかもしれない。
そんな漠とした直感によって信仰するのです。
434 :
夜行船:2008/04/03(木) 21:34:11 ID:3cltysGj
>>430 >>430 何を語っているのか、ほとんど理解できないのですが、
印象としては、因果関係が空であることを知り因果関係が消え、
相関関係が空であることを知り相関関係が消え、
ついに、ニルバーナ(涅槃)に至れる、ということですかwakuwaku
435 :
Metatron ◆SyZ09dFMKU :2008/04/03(木) 21:39:13 ID:4WUX7uMs
>>430 >それが複数次元に渡る時果たしてYHVHは一つでありnである。その意味で三位一体は
>YWVHのメタなのですが
ほほー、人の宿るYHWHですかなW
ヘン在力のあるというW
というより複数次元に渡るYHWHが存在している。とうことは天は明らかに存在しており
そこから神は力を発しているということですな。
そうすると全ての物質および命には神が宿っており全ては神と一体となっている。
その数n個あるなら神はn個存在し、神は1つなので全ての被造物はn-1となり
神=n-(n-1)となるということかな。
436 :
Metatron ◆SyZ09dFMKU :2008/04/03(木) 21:40:36 ID:4WUX7uMs
437 :
神も仏も名無しさん:2008/04/03(木) 21:42:50 ID:FoVPLpSn
>>434 そんなとこです。
厳密には時間経過即ち無有の双方向性すら失われるのですが。
しかし、そこに疑義を呈したのが龍樹なのでしょう。
我々は時間の経過を得、生滅を繰り返す現実認識があるのですから。
そこに意味を与えたのがキリストでしょう。
我々は喜怒哀楽に生きるものですから。
438 :
神も仏も名無しさん:2008/04/03(木) 21:43:08 ID:RewoLJgw
彼らの教師である時間の守り手に我々が接触を試みることは不可能ですが、
さらにその上に根本創造神が時間の守り手の作品なのだから、
現実にインテリジェンスを持った存在があってなされていることなのに、
さも分かったような空理空論を打つのは、なんというか虚しいと思う
439 :
神も仏も名無しさん:2008/04/03(木) 21:43:52 ID:RewoLJgw
根本創造神が時間の守り手の作品なのだから、
↓
時間の守り手は根本創造神の作品
440 :
神も仏も名無しさん:2008/04/03(木) 21:53:20 ID:RewoLJgw
さまざまな文明を地球に挿入している存在がいます。
地球に進化の種をまくのが光の家族です。
あなた方は光の家族であって、地球に何らかの影響を与えるために
地球に生まれてきた使命を持っているのです。
その記憶は消されていますが、光の家族として
地球という惑星に来て、やるべき計画の一部として組み込まれているのです。
ですからあなた方は周囲に影響を与えている光の家族の一員なのです。
その計画に賛同して地球に来たことは記憶から消されていますが、
そのような感覚がなんとなくあると思います
441 :
神も仏も名無しさん:2008/04/03(木) 22:03:13 ID:FoVPLpSn
>>435 三位一体は非常に示唆に富む概念です。
一つでありがら視点によっては複数なのです。
それは数種位相空間に跨る意志概念である。か、全くの
関係性を排除した概念であるかもしれません。
ここまで行くと人間の認識範囲を超えてしまいますが。
意味性を排除した釈迦、意味性を認めた龍樹、意味性を与えたイエス
意味性とはロゴスです。
そして、これが信仰であり生き方になるのでしょう。
442 :
神も仏も名無しさん:2008/04/03(木) 22:06:11 ID:RewoLJgw
音と幾何学模様が記号であり、
鍵となる記号があるのです
私たちはそれを探しています
443 :
夜光船:2008/04/04(金) 19:59:05 ID:MX8nS79y
そろそろ次に行きましょうか。神とか意志とか光とか・・・
神を見つけないと、仏教を完全に否定できない。
わたしは、仏教の知識がまったくなかったので、それが逆に幸いし、
言葉の相関関係を知っても、そこに安住しないですんだのかもしれない。
しかし何か、世界の秘密を知ったような、舞い上がった気分だった。
このころは、弁証法が好きなだけの、ガチガチの唯物論者だった。
だから、唯物論者や無神論者の気持ちも十分わかる。
444 :
夜光船:2008/04/04(金) 20:16:15 ID:MX8nS79y
このあとの経過は、ヨブの苦しみの足元にも及ばないけど、
苦労の個人的な経験を話すより、聖書のヨブ記を参考にして進めたい。
苦労・・・貧しさ、病気、障害、事故、人間関係など、だれもがそれぞれ、
何かしら苦労している。ヨブはみんなを代表して苦しんでいる。
445 :
夜光船:2008/04/04(金) 20:35:41 ID:MX8nS79y
ヨブ記42:5〜6に、次のようなヨブの祈りがある。
あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。
それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます。
この祈りから、以前のヨブは神を知らなかったことがわかる。
以前のヨブは、神のことを耳にし、聞いていただけ。だから以前のヨブは、
無神論者であったか、外側だけきれいな偽善者であったか、のどちらかである。
ヨブ記には最初から、ヨブが神を畏れる、正しい人として登場する。
だからヨブ記の読者は見事にだまされる。
446 :
夜光船:2008/04/04(金) 20:50:11 ID:MX8nS79y
ヨブ記には、エリフという、そこにいないはずの人が32章に登場する。
この人は、ヨブの若いころの記憶であり、ヨブの反省だろう。
エリフの話が終わると、神が突然、登場する。
え? どうして? 神がどうして現れるの? ・・・ これが問題なのだ。
447 :
夜光船:2008/04/04(金) 21:00:10 ID:MX8nS79y
ヨブは、自分の何が悪いのか、何がまちがっているのか、わからない。
ヨブは自分を正しい者だと思い込んでいる。ヨブ記31:35〜37
どうか、わたしの言うことを聞いてください。見よ、わたしはここに署名する。
全能者よ、答えてください。わたしと争う者が書いた告訴状を
わたしはしかと肩に担い、冠のようにして頭に結び付けよう。
わたしの歩みの一歩一歩を彼に示し、君主のように彼と対決しよう。
448 :
夜光船:2008/04/04(金) 21:18:23 ID:MX8nS79y
この、絶対にまちがったことをしていないと主張するヨブと、
<わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます>というヨブとの
落差は、<この目であなたを仰ぎ見ます>という体験にある。
神をみたから神にひざまづく。知識ではなく体験である。
449 :
夜光船:2008/04/04(金) 21:47:20 ID:MX8nS79y
あとは、わたしの体験を書こう。
人間関係がうまくいかない時、自分は悪くないのにどうしてだろう?
みたいなことを、自分の部屋で何となく考えていた。そしたらふと、
自分が悪くないと思う、その思いがそのまま悪いのではないか、ということに
気がついた。その瞬間、頭の中に色のついた映像が見え、
そして透明なしずくがひとつ、頭の中に落ちてきた。これも見えた。
透明なしずく・・・神を直感した。
それから戦慄が走り出し、断続的ではあったが二週間ぐらい続いた。
頭が冴えわたり、すぐに福音書を読み始めた。
なぜ福音書なのかはわからないが、なぜか福音書に向かった。
不思議に、書いてあることがよく理解できた。
450 :
夜光船:2008/04/04(金) 22:08:52 ID:MX8nS79y
この透明なしずく、これが神の油だろうと思う。
ガチガチの唯物論者だったのに、瞬間的に有神論者に生まれ変わった。
しかしそれまで、宗教に関係する本はまったく読んでいなかった。
何かあったとすれば、ひとつの中に、ふたつのものを洞察しようとする態度だけ。
善の中に悪を見るような、相関関係についての訓練だけだった。
ひとつの中にふたつ・・・精神の分裂という、きわどい訓練をしていた。
今思うとこれが役立っている。
だから、仏教の<空>の思想は無意味ではない。しかし限界があり、
さらにその奥に聖書の世界が広がっている、というように思っている。
451 :
夜光船:2008/04/04(金) 22:25:59 ID:MX8nS79y
悔いること・・・正しいと思っている。悪くないと思っている。
これが誤りであることに気づき、悔いることである。
これが難しい。なぜなら、だれも正しく生きようと思っているのであり、
かりに正しくないなら、それを修正しながら精一杯生きている。
自分が根本的に誤っている、などと、どうして思うだろうか。
アダムはエバのせいにし、エバは蛇のせいにする。
悪いのは蛇を造った神だ、なんてね。
452 :
夜光船:2008/04/05(土) 00:13:09 ID:w9xFKSLA
悔いることの意味・・・これは意志である
自分は正しいと思っている。しかし相手も正しいと思っている。どうする?
自分が譲ればいい。しかし生き死にがかかるぎりぎりのところで、
自分が正しくないと理解できなければ譲れない。死ねない。
神などいないと思っているからよけいである。
そこで、ああそうか、自分が正しいと思っていること自体がまちがっている、
みんな同じ、相手もそう思っている。いいよ譲る。
そう思うことは、相手のために死ぬことを了解することだろう。
これは、神を信じない人間にとって、虚空に放たれた、意志である。
453 :
鈍行船:2008/04/05(土) 14:18:58 ID:w9xFKSLA
悔いる・・・自分の意志を虚空に向かって放つ。
これをイメージするなら、
自分の意志で、卵のカラを内側から割り、自分の外に出ることか。
外側から割ることはできない。そんなことをしたら卵を壊してしまう。
そこから出るかどうかは、その人の意志に任せられている。
454 :
鈍行船:2008/04/05(土) 14:39:35 ID:w9xFKSLA
神がいることはわかった。あとは自分である。自分とは何か?
じつは、これを知るために、数息観やヨーガなどの技術がある。
誤解されているけど、神を知るためではない。
そしてどの程度の深みに到達できるかは、その人の信仰の深さによる。
瞑想の程度が、信仰の深さ以上にならない理由は危険だからである。
455 :
鈍行船:2008/04/05(土) 14:56:14 ID:w9xFKSLA
神を知ってから宗教本を読み始めた。
その中に天台小止観という坐禅の手引書があり、それを頼りにした。
数息観を始めてから半年ほどで不思議なものを見た。
自分が、白い霧の中を、透明な球体になって猛烈なスピードで走っている。
魂であるとしか思えなかったが、あとでヒンズー教を知り、
ヒンズー教ではこれをアートマンと言うのではないかと思うようになった。
456 :
鈍行船:2008/04/05(土) 15:11:39 ID:w9xFKSLA
ヒンズー教の梵我一如は、
アートマン(我、自分の本質)と
ブラフマン(梵、宇宙の真理)が同じであると主張している。
わたしの体験では、アートマンは形のある限定されたものである。
それは宇宙の真理ではなく、ましてや神であろうはずがない。
だから、ブラフマンがそのどちらにしても、
梵我一如という考え方は誤っている。
457 :
鈍行船:2008/04/05(土) 15:20:54 ID:w9xFKSLA
仏教はヒンズー教を否定することで誕生した。
アートマンの存在を否定し、人間の本質を<空>とした。
人間の本質が<空>だから、あの世もないし、輪廻転生も生じない。
しかしアートマンは存在するのであり、
神を否定し、アートマンを否定する仏教は、二重に誤っている。
458 :
神も仏も名無しさん:2008/04/05(土) 15:59:28 ID:hIQD5P9j
オナニー的書き込み至福を競い合う場所?
459 :
鈍行船:2008/04/05(土) 17:32:23 ID:w9xFKSLA
460 :
鈍行船:2008/04/05(土) 17:48:28 ID:w9xFKSLA
イエスは<魂>についてこう言っている。マタイ伝10:28
体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。
むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。
461 :
鈍行船:2008/04/05(土) 18:14:14 ID:w9xFKSLA
ヒンズーの哲人、シャンカラは<不二一元論>を説いた。
要するに、アートマンとブラフマンは同じであると言う。
肝心なのは、シャンカラが、ふたつをブラフマンに統一することである。
そうじゃない! 統一するなら、アートマンでなくてはならない。
ブラフマンに統一した時点で、かれはアートマンを知らない。
462 :
鈍行船:2008/04/05(土) 18:30:48 ID:w9xFKSLA
なぜアートマンで統一すべきかといえば、
自分の中に沈潜して見るものは、自分=アートマンでしかないからである。
福音書にも欠点がある。でもこういったところで正確に記述されている。
そこが福音書のすごさだ。
>>416 生で見られたのはうらやましいです。
私は渋谷のスイングというレーザーディスクをかけるジャズ喫茶でよくリクエストしました。
ジョニミッチェルの伴奏をしているジャコってのも凄いですよ。
ところで、月見さんはテナーサックス奏者のスティーブグロスマンは聞いた事ありますか?
464 :
鈍行船:2008/04/06(日) 16:59:17 ID:XwdvJzIJ
あとは神道。これをどう理解したらいいのか。
素人の独断と偏見で話を進めるので、誤り・的外れなどは最初にまとめて謝謝。
神道のうち、仏教伝来前の、古い神道を対象にしたい。
それゆえ、仏教が担うようになった葬式、これを神道に含める。
ヒトの生死から離れた宗教はない。仏教伝来前の古代神道は、
宗教の原点、葬式をやっているはずだからである。
また神道に散見するキリスト教の影響を除外する。
鳥居の起源、これについてはいくつかの説があるが、これも除外する。
465 :
鈍行船:2008/04/06(日) 17:16:34 ID:XwdvJzIJ
神道を理解する視点、これを<集団信仰>におきたい。
宗教は、死んだ者、親族や祖先の霊が癒されること、安らぐことを祈る。
しかし神道は、集団信仰であり、個人信仰ではない。
個人の死はやがて祖霊の中に消えていく。
神道が集団信仰であることを推測させる言葉、
それは十七条の憲法、冒頭にある<和>である。日本は<大和>の国である。
466 :
鈍行船:2008/04/06(日) 17:48:28 ID:XwdvJzIJ
図式的に見れば、
個人信仰=一神教=罪の文化=ユダヤ教・キリスト教・イスラム教
集団信仰=多神教=恥の文化=神道
大陸で、血で血を洗う戦いを繰り返し、民族の興亡を経験してきた人々。
かれらは、その思いを集団から個人に移し、個人信仰を深化させた。
そう推測するのは合理的だろう。
これに対して、アジアの吹きだまり日本。
日本人は、戦いに負け、あちこちから逃げてきた平和な民である。
幸いにも、そういった人々を受け入れる島があった。
そして周囲の海が砦になり、ガラパゴスのような楽園が誕生した。
しかし集団信仰が個人信仰に進化する契機を失った。
467 :
鈍行船:2008/04/06(日) 20:11:57 ID:XwdvJzIJ
集団信仰という意味は、集団への信仰であり、
集団への信仰を神々を祭ることによって表現することである。
それゆえ、神々は手段であり、集団の安定や発展などが目的になっている。
この形態は、初期の宗教に見られ、神道に特殊なものではない。
王が支配の道具として神々を利用するパターンである。
国家の安定のために<和>が強調される。
ケガレ・ミソギ・ハライも、集団の安定が基本的な目的になっている。
それは儀式であり、集団のけじめのようなものである。
468 :
鈍行船:2008/04/06(日) 20:44:00 ID:XwdvJzIJ
神道が見つめているもの、それは集団の安定や発展だから、
この世の幸いであり、現世利益そのものである。
そこにいる神々は、集団の願いをかなえる便利な道具でしかない。
古い神道は、日本人の心の深層にまだまだ生きている。
しかし現代は、神の存在が明らかにされつつあり、
神を道具にするような、古い神道はもはや時代遅れではないか。
いや、道具になどしていない、と言うなら、
その神の名を明らかにすべきだろう。
八百万の神々のうち、ほんとうの神はいったいどなただろうか?
469 :
鈍行船:2008/04/06(日) 21:07:51 ID:XwdvJzIJ
古い神道にも見るべきものはある。
怨霊など、霊的な素材を盛り込んでいることである。
霊の存在に関しては、多くの人がそれに疑問を抱くかもしれない。
しかし福音書を読めば、天使や悪霊の記述がかなりある。
マホメットも天使ガブリエルに啓示を受ける。
こういった存在が実際にいるのかどうか、興味深いテーマではある。
470 :
鈍行船:2008/04/06(日) 23:02:15 ID:XwdvJzIJ
これまでの話で、日本社会の本音と建前が説明できるか、検証するか。
どこの国の人もウソをつく。しかし同じウソだけど、
本音と建前は相手を傷つけまいとする点で区別される。
仏教・・・本音は<空>・・・・・・・ 建前は<如来・菩薩がいる>
神道・・・本音は<集団の安定>・・・ 建前は<八百万の神々>
もろに本音と建前の図式である。しかも二重である。
神道はかむながらの道
何事も神様のみこころのままにしてくださいというだけ
人間が作った教義を信じている外来宗教は、あまり美しくないですね
本日発売のアエラに「キリスト教会の性犯罪」が載ってます。
是非、一読を。
473 :
夜行船:2008/04/07(月) 23:11:16 ID:8uMKlGrR
少し言い過ぎたので、神道を再評価したい。
自然に霊的なものを感じ、その霊的なものに祈るのは、
あらゆる宗教の故郷といってもいいだろう。
神道もそうであり、神道のそういった側面は、今後も保たれるべきだろう。
しかし不十分だ。さなぎが蝶になるように、羽化する必要がある。
どう羽化したらいいのかは明らかだろう。
神道は、集団のため、この世のために神を祭る。ここに誤りがある。
その思い自体が問題であり、神を人間の道具にしている。
そうではなく、何の下心もなく、純粋に祭るべきだろうと思う。
集団のための宗教ではなく、個人のための宗教に羽化してほしい。
彫りを深めたらいい。神の概念は聖書によって十分に磨き上げられている。
参考書が身近にあるのだから、それに学べばいい。
もともと寄せ集めの民族だ。カラの中に閉じこもっている理由はない。
神社では並んで一人一人順番に参拝するでしょ?
キリスト教は大勢で集まって共に主を讃美し礼拝します。
むしろキリスト教の方が民の信仰だと思うんだけんども、どうでしょうか。
475 :
夜行船:2008/04/08(火) 00:22:54 ID:WZN8N1iz
>>474 イエスが祈り方の基本をマタイ伝6:5〜14で教えています。
イエスは会堂で説教するけど、祈るときは静かな場所でひとりで祈ってます。
しかし別に、ほかの人たちが神殿で礼拝するのを否定しません。
ここから言えば、自分でよいと思ったやり方でいいのでしょうか。
ただ実際には、宗教や宗派によって礼拝の仕方が異なっていますね。
その場合、肝心なのは個人個人の内心でしょう。
神道の場合、現世的な、個人的な願望なので個人の祈りになりますが、
神道としての中心行事は集団で行う祭りでしょう。
キリスト教の場合、個人の願望ではなく、神への祈りという意味合いが
あるのでしょうね。抵抗がなければかまわないでしょう。
じつはほんの少しだけ教会に行ったことがあります。
そして共同礼拝したとき、頭の中のスクリーンに嫌なイメージが湧き、
それ以来、教会に行ってません。二度と行きたくなくなるイメージでした。
共同礼拝には検討の余地がありそうですね。
476 :
鈍行船:2008/04/08(火) 20:21:31 ID:WZN8N1iz
>>472 >本日発売のアエラに「キリスト教会の性犯罪」が載ってます。
>是非、一読を。
まだ読んでないのですが、教会で性犯罪が多発するのは想像できます。
神父や牧師、かれらは悪人であることを抑圧し、社会的にも抑圧されています。
その抑圧された悪人が、我慢の限界を超え、反乱を起こすのでしょうね。
477 :
鈍行船:2008/04/08(火) 20:33:42 ID:WZN8N1iz
共同で礼拝することの問題点は、
そこにいろいろなレベルの人たちが集まることにある。
神を感じようと、感覚を澄ませ、自分の心を真っ白にして祈っている。
それだから、周囲の思いが流れ込みやすい状態になっている。
これがよくない。
やめてほしい、というか、教会に行かなければいい話ですよね。
>>476 裁判沙汰になった件を取り上げてます。
内容は簡単なルポですが教会員は読むといいでしょう。
日本基督教団熊本白川教会、日本ホーリネス教団平塚教会での事件が出てます。
http://www.aera-net.jp/ 特集2 神よ怒れ◆キリスト教会の「 性犯罪」
牧師が教会内で女子にわいせつ行為
日本基督教団、日本聖公会、ホーリネス教団
確定判決にもかかわらず賠償金を 3年間払い渋る
わいせつを「救済」と説明
被害女性は自殺も
479 :
鈍行船:2008/04/09(水) 23:25:58 ID:U678qPHK
聖職者による性犯罪は、病的、神経症的なものを感じます。
たとえば、ジキル博士とハイド氏、満月の夜に現れる狼男のような。
キリスト教は、仲間同士の締め付けがきびしいのでしょう。
こういった側面では、仏教や神道のルーズさを学び、
洗礼や共同礼拝などを再検討し、ガス抜きをさせたらいいと思いますね。
あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。
外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。
このようにあなたたちも、外側は正しいもののように見えながら、
内側は偽善と不法で満ちている。(マタイ伝23:27〜28)
>>479 ゴールが見えないから相当辛いよね
キリスト教のゴールっていったん死ぬことらしいし
481 :
鈍行船:2008/04/09(水) 23:38:08 ID:U678qPHK
どのくらいのルーズさが許されるか、と言えば、
日本の法律を守り、世間的な常識を守っていればいいと思う。
要約すれば、<十戒>を目標にして努力すればいい。
それ以外は、悪夢を見ない限り、だいたいのことが許される。
なにも聖人君子になることはない。聖職者も同じ。
482 :
鈍行船:2008/04/10(木) 00:31:38 ID:JA7my9XB
教会のあり方については・・・こうしてほしいという希望がある。
いまホームレスやニートやワーキングプアなどが社会問題になっている。
教会はこれらの問題に積極的に取り組んでほしい。
日本中に、教会の数は相当なものだろう。
教会が、かれらにとっての逃れの町になればいい。教会に行けば安める。
そんな風に教会は変身してほしい。
教会は、神に祈る場所ではなく、福祉拠点である。
教会は、もっと俗っぽく、そこにある貧しさと向きあってほしい。
そして、行き場のない、多くの好意の、受け皿になってほしい。
483 :
鈍行船:2008/04/10(木) 01:12:24 ID:JA7my9XB
教会のあり方については・・・こうしてほしいという希望がある。
いまホームレスやニートやワーキングプアなどが社会問題になっている。
教会はこれらの問題に積極的に取り組んでほしい。
日本中に、教会の数は相当なものだろう。
教会が、かれらにとっての逃れの町になればいい。教会に行けば安める。
そんな風に教会は変身してほしい。
教会は、神に祈る場所ではなく、福祉拠点である。
教会は、もっと俗っぽく、そこにある貧しさと向きあってほしい。
そして、行き場のない、多くの好意の、受け皿になってほしい。
484 :
宮崎希美 ◆pLAYdeBByU :2008/04/10(木) 01:31:04 ID:h41/H1Pa
>>483 そのような教会の在り方、天理教は実現してる。
485 :
神も仏も名無しさん:2008/04/10(木) 17:22:17 ID:FbI/+R93
486 :
夜行船:2008/04/10(木) 20:11:59 ID:JA7my9XB
>>484 天理教が評価されていること、これは知っている。
しかしよく知らないのですね。天理教に対し、いい印象は持っている。
キリスト教より、先行しているかもしれない。
487 :
夜行船:2008/04/10(木) 20:30:48 ID:JA7my9XB
>>484 福祉拠点としての教会、それでも経済的に成り立つということだよね。
キリストの教会も、これを真剣に考えていいと思う。
488 :
神も仏も名無しさん:2008/04/11(金) 01:15:26 ID:sG1E0dIs
>>487 美味しかったから、これあげる。
神は、ヨブに現れて、ひとことめに、なんて言ったんだっけ?
489 :
神も仏も名無しさん:2008/04/11(金) 14:21:01 ID:F8YHwA9C
490 :
夜間飛行:2008/04/16(水) 23:50:11 ID:v/tY/tQP
雲が出ているのか、あまり星が見えない
491 :
夜間飛行:2008/04/16(水) 23:51:33 ID:v/tY/tQP
月も見えない
492 :
夜間飛行:2008/04/16(水) 23:59:30 ID:v/tY/tQP
三位一体を信じる人たちのために、
しばらくぶりにパウロの「ローマの信徒への手紙」を5章まで読んだ。
パウロのキリスト教布教は評価するが、
しかしその信仰義認には、世界中の人々が迷惑したとのではないかと、
残念だけどやっぱし思った。
493 :
夜間飛行:2008/04/17(木) 00:02:40 ID:v/tY/tQP
信仰義認は、はっきり言ってまちがっている。
494 :
夜間飛行:2008/04/17(木) 00:11:34 ID:NGktMxvo
パウロの手紙のあとに、福音書が書かれた理由が何となくわかる。
「おまえさん、そりゃ違うよ」という、
イエスを知っている人々の抗議ではないだろうか。
パウロよ
悔い改めはどこに行った?
495 :
夜間飛行:2008/04/17(木) 00:18:56 ID:NGktMxvo
パウロは、アブラハムを根拠にしている。しかしここから違う。
アブラハムは神を信じるのであり、イエス・キリストを信じるのではない。
それに決定的なのは、アブラハムは神を知って信仰するのだ。
パウロは、神を知らない人々に、信仰義認を説いている。
496 :
夜間飛行:2008/04/17(木) 01:01:36 ID:NGktMxvo
神を知らない人に、イエス・キリストへの信仰を説くのは、
もしかして洗脳ではないだろうか?
497 :
夜間飛行:2008/04/17(木) 18:44:17 ID:NGktMxvo
今日は、月も星も見えない
雲の向こうは、月と星
雲の向こうに行こう
499 :
夜間飛行:2008/04/17(木) 18:54:04 ID:NGktMxvo
音のない静かな世界だ
このままずっと♪ どこえもおりず♪ この世の果て♪
二度と帰らないの♪ そして帰らないの♪
500 :
智子:2008/04/18(金) 00:51:05 ID:nfMMSpyy
まちこ、返事しろ、
まんこ舐めさせろや
外は雨
イエスが実在していたことは、
原始キリスト教会や、伝道の鬼・パウロが証明しているように思う。
イエスの刑死が、AD 30年
パウロの手紙が、 AD 50〜60年
マルコ福音書の成立が、 AD 60〜65年
マタイ・ルカ福音書の成立が、AD 80〜90年
ヨハネ福音書の成立が、 AD90〜100年
これらを年数的に眺めれば、
1 マルコなどの共勧福音書は、パウロ神学への批判が意図されていたかも。
2 パウロに、「福音書」からの引用がないことも理解できる。
3 パウロに、「聖霊」についての記述がないことも理解できる。
「聖霊」は「福音書」に登場するからである。
パウロが「ローマの信徒への手紙」で主張していること
1 信仰義認・・・ヒトは信仰によって義とされる。
2 罪の購い・・・イエスはヒトの罪を購うために刑死した。
3 神とイエスは区別され、しかしイエスは神でもある。
505 :
夜行船:2008/04/18(金) 18:45:32 ID:K5GMUJ1W
パウロの主張、というより、前提のようなものがある。
1 ギリシャ的な霊肉二元論・・・霊に従えば生き、肉に従えば死ぬ。
肉体への嫌悪感がある。
2 ユダヤ的な選民思想・・・この世には、神の選びが存在している。
旧約の思想であり、これがカルビンの予定論につながる。
506 :
夜行船:2008/04/18(金) 19:08:15 ID:K5GMUJ1W
パウロの誤りを指摘する場合、ギリシャ的な霊肉二元論が簡単だろう。
神はこの世を創造し、「それは極めて良かった」とする。
しかし人間は、神から禁じられた、善悪の知識の木から食べてしまう。
これが原罪である。だとすれば、善悪の知識こそ、死をもたらすものである。
ところがパウロは、善悪の知識と、人間の肉体を入れ替えてしまう。
肉欲を呪い、禁欲的な生活をすること、これを勧める。
神父の独身制、修道院生活などは、パウロがもたらした不幸である。
507 :
凛:2008/04/18(金) 19:10:18 ID:t4+fwQuE
>>493 最後の十字架の隣の盗人は
最後のあれだけでイエスに天国いくとされた。
信仰義認も正しい気もする
508 :
夜行船:2008/04/18(金) 19:27:05 ID:K5GMUJ1W
パウロの、ユダヤ的な選民思想にも大きな誤りがある。
その典型は、11章25〜36、イスラエルの再興である。
パウロは、「神が選ぶ」と言いながら、他方でパウロ自身の希望から、
イスラエルが選ばれることを主張している。
神の秘められた計画・・・一部のイスラエル人がかたくなになったのは、
異邦人全体が救いに達するまでであり・・・
イスラエル人は、あなた方のために神に敵対しています。
509 :
夜行船:2008/04/18(金) 20:22:21 ID:K5GMUJ1W
>>507 信仰義認は、罪の購いや三位一体などとも関連する。
パウロの信仰義認は、ユダヤ教の律法主義に向けられている。
市民は実行困難な律法で悩まされていた。
律法ではなく、信仰することで救われる、という意味なのだろう。
ルターの場合は、修行しても、自力救済ができずに悩んでいたとき、
パウロの信仰義認が啓示のように思えたことに始まる。
修行ではなく、信仰することで救われる、という意味なのだろう。
日本の信仰義認はどういう意味なのか。
日本人はユダヤ教徒ではないから、ユダヤ教の律法でないことは明らか。
どちらかといえば、ルター的な意味合いだろうか。
印象で言えば、信仰義認という主張は、
行いを要求するイエスの教えを無視するための逃げ口上、
イエスを泣かせているような気がする。
510 :
凛:2008/04/18(金) 20:36:15 ID:t4+fwQuE
そう信じて救われたでは
イエスの教えが蔑ろにされがち。
信仰することで神に向き直し
その後の生き方はイエスの教えに沿う必要はあるはず
教えに沿う生き方こそ信仰があることを証している
でもそうすると今度はパリサイ的になりがち。
ただ十字架の隣人は信仰義認のよう
511 :
夜行船:2008/04/18(金) 22:00:48 ID:K5GMUJ1W
>>510 十字架での記述は少しづつ違う。
マタイ伝は・・・「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」
マルコ伝は・・・マタイ伝とほぼ同じ。
ルカ伝は・・・・他の犯罪者との会話をのせている。
ヨハネ伝は・・・「成し遂げられた」
ルカはパウロと行動をともにした時期があり、
ルカ伝はパウロの手紙より後に成立しているので、
信仰義認を反映しているのかもしれない。
512 :
夜行船:2008/04/18(金) 22:25:51 ID:K5GMUJ1W
三位一体 − 罪の贖い − 信仰義認 の関係?
(三位一体)かりにイエスが人間であるとしよう。
(罪の贖い)イエスの十字架の死は、人間の罪を救済するものではない。
(信仰義認)イエスは信仰の対象ではない。ゆえに信仰義認もない。
イエスが人間なら、罪の贖いもないし、信仰義認も生じない。
これではっきりする。イエスを神にするのは、罪の贖いを成立させ、
信仰義認を成立させるためである。
これが、< 神 − 人 >という関係を
<神 − イエス − 人 > という関係にした理由である。
513 :
凛:2008/04/18(金) 22:28:19 ID:t4+fwQuE
>>511 イエスが私と共に天国にいると言ったのが
捏造でなければ信仰義認もイエスの方針と捉えてもよいのでは
514 :
凛:2008/04/18(金) 22:38:57 ID:t4+fwQuE
あなたの信仰があなたを救ったとイエスは口にする
でも信仰は行いに顕れる 表裏一体
515 :
夜行船:2008/04/18(金) 22:48:55 ID:K5GMUJ1W
信仰義認・・・<信仰>の内容は、十字架による罪の贖いである。
罪の贖い・・・イエスの十字架の死により、人類の罪は神に赦された。
<イエスを信じれば → 救われる> という主張は、
<罪の贖いを信じれば → あなたの罪は赦される> ということ。
当たり前の話だなあ。
まず最初に、<罪の贖い・罪の赦し>を信じさせるわけだから。
516 :
凛:2008/04/18(金) 22:56:28 ID:t4+fwQuE
その単純なことが現代では受け入れない
信じる人は少ない
517 :
夜行船:2008/04/18(金) 23:04:36 ID:K5GMUJ1W
>>514 たしかに信仰と行いをはっきり区別することはできない。
いま問題にしているのは、なぜキリスト教が単なるYAWHでなく、
YAWH = イエス にしてしまうのか、ということ。
ここにキリスト教の致命的な欠陥がある・・・?
518 :
凛:2008/04/18(金) 23:41:31 ID:t4+fwQuE
>>517 後世の政治的意図なりそう仕立てられたのかもしれないけど。
マタイ16でイエスは殺され蘇ることまで前もって
示したとされてる イエス自身が捧げ物である預言の成就が念頭にあり
その自覚はあったのでないかと思ってた
519 :
凛:2008/04/18(金) 23:46:53 ID:t4+fwQuE
もしイエスは神でなく十字架には意味が無いとイエスも思っていて
前もってそうなることを知っていたなら
避ければよかったはず
520 :
神も仏も名無しさん:2008/04/25(金) 22:39:35 ID:SssPOoN+
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
521 :
七つ星:2008/04/25(金) 22:57:52 ID:SssPOoN+
522 :
七つ星:2008/04/25(金) 23:11:20 ID:SssPOoN+
三位一体・・・ 神 = イエス = 聖霊(パウロの場合は霊か?)
三位一体はそれ自身ではあまり意味がない。
イエスが神であると、単純に主張しているだけだからである。
それが意味を持つのは、パウロの主張である、イエスによる罪の贖いにある。
イエスが単なる人間では罪の贖いが成立しない。
イエスが神であることによって、罪の贖いが成立するわけであり、
そのために三位一体が主張されている。
523 :
七つ星:2008/04/25(金) 23:29:40 ID:SssPOoN+
イエスによる「罪の贖い」を平たく言えば
人類の罪の身代わりになって、イエス(=神)が十字架で死んでくれた、
ということであり、これがパウロ神学の核の核である。
この話をよく眺めてほしい。もうわかっている人もいるだろう。
簡単に言えば、パウロは「人類の罪をイエスに背負わせた」のである。
似たような話がある。創世記の原罪神話だ。
アダムは自分の罪をエバのせいにし、エバは自分の罪を蛇のせいにする。
パウロは、人類の罪をイエスに背負わせ、そのイエスは神であると主張する。
この主張が何を意味しているのか、冷静に考えてほしい。
524 :
七つ星:2008/04/25(金) 23:38:09 ID:SssPOoN+
パウロの主張する、イエスによる罪の贖いには、
神を道具にする以上の、よくないものが隠されているように思う。
これだったらむしろ、神道や仏教やヒンズー教のほうがいいかも。
神の沈黙、その理由がなんとなく見えてきたような気がする。
525 :
七つ星:2008/04/25(金) 23:57:36 ID:SssPOoN+
パウロの手紙は福音書の成立以前に書かれている。
そのためパウロは、福音書を読むことなく、パウロ神学を作り上げる。
ここからパウロ神学の性格が明らかになる。
1 パウロ神学は、イエスの教えではなく、パウロ自身の主張である。
2 パウロ神学は、福音書を前提としないで、それ自身で完結している。
3 パウロ神学は、福音書の記述に影響するのであり、
その逆、イエスの教えを説明するものではない。
526 :
七つ星:2008/04/26(土) 00:08:38 ID:mULoODNL
キリスト教は、パウロの手紙が中心であり、パウロ神学を土台にしている。
その結果として、福音書・イエスの教えがずぼっと抜け落ちる。
たぶんイエスは泣いている・・・(TT)
527 :
七つ星:2008/04/26(土) 00:26:43 ID:mULoODNL
>>515 信仰義認・・・<信仰>の内容は、十字架による罪の贖いである。
罪の贖い・・・イエスの十字架の死により、人類の罪は神に赦された。
<イエスを信じれば → 救われる> という主張は、
<罪の贖いを信じれば → あなたの罪は赦される> ということ。
当たり前の話だなあ。
まず最初に、<罪の贖い・罪の赦し>を信じさせるわけだから。
この話は意味がはっきりしなかったですね。
要するに、文章構造がAはAであるという同義反復であり、
それを強いるのは洗脳である、ということです。
洗脳の最初は、ターゲットに言葉や行為で確認させること。
528 :
七つ星:2008/04/26(土) 00:52:40 ID:mULoODNL
パウロについてはこのくらいにしておこうか。
手紙の類は通しで一回読んだことがある。しかしそれっきりにした。
それっきりにして、福音書を中心にしたのは正解だったね。
宗教に関する知識はほとんどないのだけど、雑談でふたつ。
1 神の名は、YAWHか、エルか
イエスは十字架で「エリ、エリ」とか「エロイ、エロイ」とか叫んでいる。
ここから言えば、エルのほうかもしれない。
2 創世記で<神>が、神々と<複数>で登場する理由は?
個人的には、男と女を創造する神が単数であってはおかしいのであり、
神は、単数でもあり、複数(男・女)でもあると思う。
それだから、エルの複数形、エロヒムになる
529 :
神も仏も名無しさん:2008/04/26(土) 01:01:43 ID:t3ytJdT6
>>521 はろ。
んー私はレスした方がいいのか否か? 私詳しくないから。ww
7つ星君一人で進めた方がいいんじゃない?
530 :
Rin:2008/04/26(土) 02:10:14 ID:t3ytJdT6
パウロの意図だけによる創り上げでなく
イエスが来たのはイエス自身も贖罪のためもあると言ってるとこみっけ
たから一応。
「また、多くの人のための贖いのための代価として、
自分の命を与えるため」マタイ20.28
>>503 パウロ書簡 ローマとかコリントで聖霊って出てくる
コリントUの「主イエスキリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが
あなたがたとともに」
531 :
Rin :2008/04/26(土) 02:26:01 ID:t3ytJdT6
贖罪もイエスの念頭にあったのなら
贖罪を無視することもイエス泣くかも
贖罪を信じイエスの教えに沿うこと両方必要なのでは。
他力+自力
救われて神の愛がわかると自然と教えに沿った生き方に
なるらしいから 信仰行い表裏一体
532 :
リン:2008/04/26(土) 03:06:28 ID:t3ytJdT6
善行により救いに至るとすると
救われるために善行しようとなる
天国という褒美があるから、善行するというのは
それは善行と言えるのだろうか。
救いの意味にもよるのだろうけど。
533 :
Rin:2008/04/26(土) 03:34:54 ID:t3ytJdT6
ペラギウス主義は異端だし
神の恩寵なし善行により救いに至るなら宗教の枠は
いらないかも
では。
神を喜ばすために良いことをする。
自分のためでなく。
神がなくては何も始まらない根源であり親だから。
神を第一にすると整う。当たり前です。
535 :
Rin:2008/04/26(土) 04:07:05 ID:t3ytJdT6
普通は人が困ってたらその人のためにする
神が喜ぶから助けるの?
純粋にその人助けようと思うのが自然じゃない?
536 :
Rin:2008/04/26(土) 04:20:36 ID:t3ytJdT6
キリスト教だと墜落後、性悪説なのか
オチ
>>535 人(困っている人)とかいうものは、
無意味にそこにいるんじゃなくて、ちゃんとあるところから見せられているんです。
その来ている元は神から来ています。
人自体を相手にしないこと。幻覚にとらわれるのと同じなので。
で、助ける助けないは自分が決めることで、他人のためなどではなく自分です。
自分が助けたくて助けるのならあまり問題ないですが、他人のためと思って助けるとまずいことになりますから気をつけてください。
538 :
七つ星:2008/04/26(土) 11:43:39 ID:mULoODNL
七つ星は帰省してから七日目という意味です。
北斗七星や、メノラー(燭台)や、
五つ星をふたつ超えるなどという意味ではありません。
539 :
七つ星:2008/04/26(土) 12:00:14 ID:mULoODNL
>>529 気が向いたらレスしてください。
>>530 マタイ伝20:28は、パウロの影響があるのではないだろうか。
それから聖霊という用語はパウロも使っていますね。
ヨハネ伝のイメージで、ローマ人への手紙を読んだので、まちがえました。
>>503 にある3番目、<記述がない>を<ほとんどない>に訂正します。
540 :
七つ星:2008/04/26(土) 12:39:34 ID:mULoODNL
ここまでくれば、福音書の読み方が見えてくる。
1 イエスは人間である、という視点で読む。
イエスはキリスト。しかし神ではない。この二つは矛盾しない。
こう読めば逆に、イエスのすごさが感じられると思う。
2 パウロ神学の影響や、教団の思惑のような記述を排除してしまう。
パウロの手紙・・・私的には、新約の外典扱いが適当だと思う。
教団の思惑・・・イエスは放浪者であり、教団的な発想は存在しない。
3 以上から、不自然に思える記述は大胆にカットしてしまう。
自分のことだから、どんなにカットしても、なんの問題も生じない。
541 :
七つ星:2008/04/26(土) 13:39:33 ID:mULoODNL
イエスは何を言いたかったのか。
これについては、各人の思いがあってそれぞれだろうと思う。
個人的には、「悔い改めよ、神の国は近づいた」につきると思う。
だから、この観点から、イエスの言葉を福音書の中に探していけばいい。
「悔い改めよ」 → 「悔いること」 + 「改めること」
「神の国」 → 「神」とは? 「神の国」とは?
542 :
七つ星:2008/04/26(土) 13:52:32 ID:mULoODNL
新約聖書の読み方・・・まとめ
1 マルコ伝がピカイチ。16章まででいい。結び以降はカット。
2 マルコ伝の参考・補足に、マタイ伝とルカ伝を使う。
3 ヨハネ伝はイエスの神格化が進んでいる。要注意だろう。
4 パウロなどの手紙類はカット。外典扱いでいい。
5 黙示録は理解不能・・・退屈なときに読めばいい。
543 :
七つ星:2008/04/26(土) 21:09:22 ID:mULoODNL
>>531 から
>>537 までの話は、難しそうなので後回し。
ていねいに追っていかないと混乱しそう。
それよりサクラメントについて検討したい。
カトリック(秘跡)・・・洗礼、堅信、正餐、ゆるし、婚姻、叙階、塗油
プロテスタント(聖礼典)・・・洗礼、正餐
544 :
七つ星:2008/04/26(土) 21:32:13 ID:mULoODNL
カトリックのサクラメントは、まだ聖書が普及していない時代、
知識の乏しい信者に対し、福音の内容を体験させて理解させる、という効果が
あったのだろうと思う。
プロテスタントの場合は、聖書の普及という時代背景から、
7つから2つへと、サクラメントの簡素化を行ったということだろう。
体験させて理解させる必要性が小さくなったからである。
サクラメントの意義をこのように理解するなら、
聖書が簡単に読めるようになった今の時代、さらに一段と
サクラメントの必要性が失われたと言っていいだろう。
545 :
七つ星:2008/04/26(土) 21:59:22 ID:mULoODNL
たとえば洗礼や正餐、これらは霊的な事柄のたとえなのだろうから、
これらによって何らかの霊的な思いを抱くこともあるのだろう。
しかしそれはプラシーボ効果、あるいは奇跡的なまぐれ当たりである。
福音書を読めば、イエスが、だれにも洗礼を行っていないことに気づく。
イエスがやっていないことを、教会が行う必要性はどこにもない。
福音書があれば、サクラメントの意義はまったくない。
546 :
七つ星:2008/04/26(土) 23:11:06 ID:mULoODNL
洗礼は悔い改めのたとえなのだろう。
問題は正餐である。これはイエスの<罪の贖い>をたとえているらしい。
個人的には、最後の晩餐に関する話はマユツバだと思う。
マルコ伝が福音書のベースになっている。しかしマルコは12弟子ではない。
晩餐の席にいない人が、晩餐での出来事や会話を記述している。
単純に考えれば、その部分の記述は、ほかの人の資料を利用している。
イエスが、ほかの弟子に、ユダの裏切りを示すのもウソっぽい。
パンとぶどう酒だけの食事というのもウソっぽい。たぶん作り話だと思う。
こんな貧しい食事なら、食事の用意などまったく必要ない。
最初からオリーブの園でたくさん。
最後の晩餐については、ウソと真実を慎重に見極めるべきだろう。
547 :
七つ星:2008/04/26(土) 23:46:51 ID:mULoODNL
最後の晩餐・・・パンとぶどう酒、それから<小羊の焼肉>があった!
<小羊の焼肉>があるなら、食事の用意が必要になる。
ペテロとヨハネ、二人がかりで用意しなければならないだろう。
過越しの祭りである。<小羊の焼肉>は欠かせない。
最後の晩餐・・・じつは、まったくの作り話だった!
この可能性が高いと思う。イエスがユダの裏切りを示すこと、
それを示されたユダの動き、周囲の弟子の無頓着など、かなり不自然である。
主張のひとつは、イエスはユダの心を見抜いていたということか。
ヨハネ伝は、このウソを枠組みにして、長い長いイエスの独白が・・・
548 :
rin:2008/04/27(日) 01:40:06 ID:WD8sPCfx
>>539 了解。
あなたのはペラギウス主義に近いと思った。
イエスの贖罪否定、善行により救いに至るっていうのは。
でもイエスの贖罪抜かすと逆に
教えを説いただけの人なら偉人っていっぱいいて
その中で敢えてイエスに拘るのはなぜ?
549 :
7rin:2008/04/27(日) 01:58:59 ID:WD8sPCfx
でも三位一体信じなくておっけなら
エホバでもいいわけだしかなり広範囲になっていいね
>>545 「信じてバプテスマを受ける者は救われます」って
イエスがピカイチ?マルコ伝で言ってるからかと
550 :
7rin:2008/04/27(日) 02:40:37 ID:WD8sPCfx
福音書でイエスが洗礼などサクラメントしてなくても
イエスがバプテスマを受けるよう言ったりしてる箇所が
あるから教会はそういうのに忠実になってるんだと思う
イエスの言ったことの中でこれはしなくていい
とか切捨ててくとそれはそれで問題ありそうだし。
まぁ聖書の正典決めとか人間が編纂したわけだけど
551 :
7rin:2008/04/27(日) 02:53:17 ID:WD8sPCfx
>福音書を読めば、イエスが、だれにも洗礼を行っていないことに気づく。
>イエスがやっていないことを、教会が行う必要性はどこにもない。
でもイエスは自ら洗礼をヨハネから受けて示してるのであれば
イエスのやってることに習うってことになるよ
イエスは「私はあなたがたに‘新しい’戒めをあなたがたに与える」と言って
隣人愛を説く。
でも旧約から隣人愛の教えはあった。
何が新しいのかは「私があなたがたを愛したように」という
キリストの模範があげられる
552 :
七つ星:2008/04/27(日) 10:32:48 ID:aIA3rhLR
>>548 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」
これはペラギウス主義とちがう。
イエスにこだわるのは、イエスが真理を語っているから。
福音書のすべてが真理である、とは思わない。
しかしその記述の中に、真理があちこちに、宝石のように落ちている。
553 :
七つ星:2008/04/27(日) 10:46:51 ID:aIA3rhLR
>>549 エホバの証人の教義をほとんど知らない。しかしかれらの信仰や教義は、
ヨハネの黙示録にも依存しているらしい。
しかしヨハネの黙示録は、幻想的なものであり、現実的なものではない。
マルコ伝は16章まで。結びの部分はカット。
>>550 >>551 イエスは、ヨハネから洗礼を受けたが、ヨハネから離れて独自に活動した。
554 :
七つ星:2008/04/27(日) 10:57:39 ID:aIA3rhLR
最後の晩餐は作り話である・・・?
ヨハネ伝6:22以降に、最後の晩餐のテーマが記述されている。
「・・・人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ・・・」
これはカファルナウムの会堂での説教である。
これを聞いて、弟子たちの多くの者がイエスのもとを去る。
「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」
555 :
七つ星:2008/04/27(日) 11:44:23 ID:aIA3rhLR
最後の晩餐・・・作り話である
1 ヨハネ伝6:22にある「血と肉」というテーマである。
2 ヨハネ伝の最後の晩餐は、弟子の足洗いであり、「血と肉」はない。
3 共観福音書では、広間の探し方に現実感がない。
町の見知らぬ男に頼む・・・ウソの常套手段(証人がいないってか)
4 イエスやユダや弟子たちの不審な動き・・・
>>546 >>547 5 ここでのイエスは、人肉食を話したり、弟子と賛美歌をうたったり、
福音書前半の、イメージ(形にとらわれない明るさ)とちがう。
6 イエスのたとえ話と比較して、「血と肉」のシーンは異質である。
イエスはたとえ話を語る。しかしたとえ話を演じることはない。
最後の晩餐では、イエスがたとえ話を演じている。
7 ここの記述を削除しても、<悔い改め>にまったく影響しない。
556 :
七つ星:2008/04/27(日) 19:05:18 ID:aUI3efcm
最後の晩餐は作り話で確定。しかし何だろう、この話は。
翌日には十字架で殺される。これとセットにして読むべきなのか?
用意されるべきだった小羊の焼肉は、
じつはイエスのことであり、翌日、神へのいけにえとして殺される。
そういう話なら、最後の晩餐で焼肉がなかったのも理解できる。
いけにえになるイエス自身が、自分の血と肉を弟子たちにすすめる(TT)
ゲツセマネで、血のような汗を流して祈るイエスと重ならないなあ。
557 :
七つ星:2008/04/27(日) 19:25:31 ID:aUI3efcm
ちぐはぐな流れは、最後の晩餐が作り話であることから生じるのだろう。
しかし逆に、こういう流れにした作者の意図が透けて見える。
平たく言えば、イエス=神を<いけにえ>にして、みんなで食べてしまおう
ということじゃないか。これが正餐の隠された意味だよね。
こんなことをして、神が喜ぶと思っているのだろうか。
パウロ神学はイエス=神の<いけにえ>を主張している。しかし食べること
までは考えていなかったと思う。ではだれだろう?
たぶんヨハネ伝を書いた人々・・・かれらには人肉食のイメージがある。
558 :
rin:2008/04/27(日) 19:41:03 ID:WD8sPCfx
キリスト教は自殺が罪とかいうのも廃止したらいい
耐えられない試練は与えないと言いながらその人は耐えられなかったんだよ
そもそも地獄って何
>>552 そか。。 贖罪は不要としキリストの教え信じ実行で救いは
似てる気がした でも贖罪は否定するなら聖餐ももちろん無意味
だろうし。。
贖罪否定は原罪もないということで何を悔い改めると?
日々の自罪?
原罪は神から離れたことで神に向き直すことが悔い改めだと思ってた
559 :
rin:2008/04/27(日) 19:49:35 ID:WD8sPCfx
救いの意味が曖昧だよパトラッシュキリスト教
>>553 洗礼を受けたヨハネから離れたことが
洗礼は不要とは繋がるというわけではないと思うけど
まぁでもカットの結びでも
Whoever believes and is baptized will be saved,
but whoever dose not believe will be condemned.
信じて&洗礼を受ける者が救われるとは言っても
罪に定められるのは信じない者とだけになってるね。
560 :
rin:2008/04/27(日) 20:12:15 ID:WD8sPCfx
信じて、洗礼を受ける者は誰でも救われる
信じない者は誰でも罪に定められる
(信じない者に洗礼拒否も含んでるかもしれないけど
知らない)
救いとは何か
永遠の命だとか、天上とか、あなたがたの中にあるとか、神の国が近づいたとか
曖昧でわかりません
561 :
七つ星:2008/04/27(日) 21:16:57 ID:aUI3efcm
>>558 どうしても耐えられないと<思う>試練もあるだろう。
しかし実際には、試練というものは耐えられる程度にやってくる。
ヨブ記1章2章に、神は命を奪うことをサタンに許さない、と書いてある。
562 :
七つ星:2008/04/27(日) 21:23:08 ID:aUI3efcm
贖罪を否定しても、原罪を否定することにはならない。
贖罪はパウロが発明したもの。その思想は転倒し、完全にまちがっている。
罪をイエスに背負わせ、そのイエスを神に祭り上げる。
こんなことをして救われると思わないほうがいい。
かえって神の怒りを招きよせるだろう。
563 :
七つ星:2008/04/27(日) 21:29:15 ID:aUI3efcm
洗礼とは悔い改めの<たとえ>であり、たぶんノアの洪水に起源がある。
体の汚れではなく、心の汚れを洗い流そうというシンボルである。
だから、洗礼それ自体に、心の汚れを洗い流す力はない。
こういう<たとえ>は、日本にもケガレとキヨメという形で存在している。
564 :
7rin:2008/04/27(日) 21:31:27 ID:WD8sPCfx
>>561 実際自殺しちゃった人は耐えられなかったってこと
でしょう?
神の予知能力でその人の力量を見誤ったということ?
565 :
七つ星:2008/04/27(日) 21:46:23 ID:aUI3efcm
神とか、神の国とか、原罪とか、救いとか・・・
たとえばマナというおいしい食べ物がある。
しかしそれを食べたことがなければ、いくら説明されても食べた気がしない。
イエスがやっていることは、たとえ話を使ってマナのことを教えている。
さらに求める者には、マナのある場所に到る道を教えている。
566 :
七つ星:2008/04/27(日) 22:03:58 ID:aUI3efcm
>>564 わたしたちは神のことをよく知らない。神に責任を押しつける前に、
むしろ神が存在しないと思って生きていたほうがいい。
たしかに今の時代は生きづらい。
わたしだって自殺したいと思ったことは数え切れない。
だから自殺した人々を責めるつもりは毛頭ない。
ただ、周囲に責任はないのか、本人の思いに誤りはなかったのか、
もっと粘り強くてもよかったのではないか、などなどと思いもする。
ぎりぎりの人々が気楽に相談できる場所がたくさんあればいいですね。
使い方で、2ちゃんねるはそういう場所のひとつになると思う。
567 :
7rin:2008/04/27(日) 22:21:28 ID:WD8sPCfx
自殺する人は粘ったけど限界だったのだと思う
>相談 でもそういう人は言わない人が多いし
だから 突然 ふっと、、遠くに わからなくもない
>>566 >むしろ神が存在しないと思って生きていたほうがいい。
神の存在は認めながら神の介入なしだと
伝道の書のとこですね
568 :
rin:2008/04/27(日) 23:56:14 ID:WD8sPCfx
>周囲に責任はないのか
残された家族とかは自分を責め
一生捉われるよきっと、、。
話戻り
>>565 神の存在を認めながら神の介入はないなら
マナは現世で味わうものではなさそ
神の国と神の義を求めなさいと言いながら
隠れる神でもあり大変だ
まぁパウロ神学が間違ってるなら今のキリスト教は
間違えってことになるけど私はヨハネやパウロ神学否定はしないや
おち
569 :
七つ星:2008/04/28(月) 00:05:21 ID:Z/T3S6xc
伝道の書は慰めになりますね。
何があっても、どんなことがあってもあきらめない、という粘りは、
心のどこかで神を探し続けるから湧いてくる。
ユダヤ人たち、かれらは少なくても3000年、そういった粘りで生き、
そして神と出会う。それが聖書の厚みだ。人生は奥深い。
570 :
神も仏も名無しさん:2008/04/28(月) 00:17:34 ID:xZTDu1wU
七つ星はペラギウスでなく異端エホバに近いと思うぞ。
りんも洗脳されないように。
>>贖罪はパウロが発明したもの。その思想は転倒し、完全にまちがっている。
原罪により人間の力では救いに至らないからキリストは来たわけだが
キリスト自身がそう語ってる箇所はパウロ神学の影響のヨハネだからと
イエスの発言は捏造としてしまうのか?
571 :
神も仏も名無しさん:2008/04/28(月) 00:41:42 ID:xZTDu1wU
>>救いの意味が曖昧だよパトラッシュキリスト教
りんのパトラッシュキリスト教も意味不明だなwww
なんだよパトラッシュキリスト教ってwwww
救いは今も天でも神と共にあることさ
572 :
七つ星:2008/04/28(月) 00:42:36 ID:Z/T3S6xc
>>570 三位一体を否定すれば、エホバに近いというのは短絡ですね。
もう少していねいに類似点を指摘してほしい。
イエスの発言は捏造としてしまうのか? という部分は、
どこのレスですか。パウロの影響ではなくヨハネ?
最後の晩餐の人肉食を思わせる記述については、
パウロの影響というより、ヨハネ伝に関係する人々の影響かと思う。
ヨハネ伝6:53〜60に同じテーマがある。
ヨハネ伝は、神とイエスをひとつのものに見なし、
神がイエスのようでもあり、イエスが神のようでもあるかのように、
記述している印象を受ける。これが人肉食を思わせる。
573 :
神も仏も名無しさん:2008/04/28(月) 00:50:32 ID:xZTDu1wU
>>572 マタイだったか
>>530 >>「また、多くの人のための贖いのための代価として、
>>自分の命を与えるため」マタイ20.28
574 :
七つ星:2008/04/28(月) 00:56:11 ID:Z/T3S6xc
>>573 マタイ伝20:28の、その部分については
100%パウロ神学の影響であり、個人的にはカットしたい。
575 :
七つ星:2008/04/28(月) 01:20:15 ID:Z/T3S6xc
パウロ神学はギリシャ的な霊肉二元論であり、
<イエスの死を、罪ある肉を十字架につけた>という受けとめ方をする。
その死は、単なる死ではなく、罪に勝利した証明なのである。
パウロ神学によれば、イエスは必ず十字架で死ななければならない。
>>575 はじめまして、よろしくお願いいたしますね。
このスレは随分変わってしまったね?
私はこのスレが立てられたときの住人ですが、あなたはどちらから
いらっしゃったのでしょう?
宜しかったらレスを返してくださいね。
「神の家」が二つ立ってるわwww
578 :
七つ星:2008/04/28(月) 16:44:17 ID:kakhyN/N
シャロンさん、こんにちは。スレ趣旨に沿えば、
どこのだれということではなく、だれにでも開放されていると思います。
シャロンさんも自論を語ってください。
カルトシャロンはもう一つの方でやってくれ。
まちこシャロンは信じて救われるしか言えない
九官鳥だから読む気せんのだよ
パウロ神学は正しいこと論理的に言えるなら話は別だがW
580 :
七つ星:2008/04/28(月) 16:55:31 ID:kakhyN/N
パウロとヨハネに関して訂正させてください。
パウロのコリント信徒への手紙一、11章23以下に、
主の晩餐の制定を見つけました。正餐の「血と肉」はパウロ起源であり、
ヨハネ伝はそれを受けているようですね。
素人のレベルで申し訳ない。
581 :
七つ星:2008/04/28(月) 17:08:33 ID:kakhyN/N
パウロは、イエスの弟子たちを説得してしまった。
これはこれですごいことだ。
582 :
七つ星:2008/04/28(月) 17:24:36 ID:kakhyN/N
最後の晩餐が人肉食を思わせる件
食べてしまいたいほど可愛い、と思うことはある (^^)
昔、日本人のフランス留学生が、フランス女性を食べてしまった (TT)
583 :
rin:2008/04/28(月) 17:38:44 ID:cpr5pKYY
>>571 パトラッシュ、キリスト教
句読点入れ忘れ
意味もないから意味不明で当たり前だよばーか。www
584 :
七つ星:2008/04/29(火) 00:19:31 ID:2i+pNZCH
カニバリズムには興味はなかったのに・・・
パウロ神学の十字架と最後の晩餐にはあやしいものが隠されていたか。
サクラメントについてはこのくらいにしよう。
今回、パウロ神学を検討したことで相当の収穫があった。
パウロ神学だけでなく、ヨハネ伝の再評価につながりそうでもある。
それから、わたしの宗教知識の乏しさが浮き彫りになったですね。
時間がなく、ほとんど読書できなかった。
最近また読み始めたのだけど・・・ヤバイ (TT)
585 :
七つ星:2008/04/29(火) 08:40:41 ID:2i+pNZCH
>>503 で書いた時間の流れが重要なので再掲する。
時間の流れは、1→5 であって、1←5 ではない。
1 イエスの刑死が、AD 30年
2 パウロの手紙が、 AD 50〜60年
3 マルコ福音書の成立が、 AD 60〜65年
4 マタイ・ルカ福音書の成立が、AD 80〜90年
5 ヨハネ福音書の成立が、 AD90〜100年
586 :
七つ星:2008/04/29(火) 08:57:11 ID:2i+pNZCH
パウロ神学では、最後の晩餐と十字架の死がセットになっている。
その意味は、神の子イエスは小羊であり、神への<いけにえ>であり、
イエスを十字架につけ、順序は逆になるが、
最後の晩餐でイエスを食べてイエスと一体になる、ということである。
これが、イエスに対する、パウロ神学のつかみである。
最後の晩餐 → 十字架の死 というふうに、順序が逆になっているので、
わたしたちはそこに隠された意味に気がつきにくい。
気がつきにくいけど、だんだん気がついてしまう・・・
587 :
七つ星:2008/04/29(火) 09:18:09 ID:2i+pNZCH
ヨハネ伝の成立には、こういった事情も背景にあるのだろう。
共観福音書のような記述だと、露骨であり、気がつかれて人々の反感を買う。
そこで、イエスの「血と肉」の話を、最後の晩餐から切り離し、
ヨハネ伝6:22以下に移動した、のだろう。
そして最後の晩餐での話は、「血と肉」ではなく、
新たに「弟子の足洗い」という作り話が創作された、のだろう。
そのかわり、ヨハネ伝全体が、神はイエスであるかのように、
イエスは神であるかのように、記述にされることになる。
言い換えれば、ヨハネ伝全体が、イエスの「血と肉」で貫かれる。
イエスの神格化、パウロ神学の完成だよ〜ん \(^^)/
588 :
七つ星:2008/04/29(火) 12:08:48 ID:2i+pNZCH
ヨハネ伝11:49〜52には、他の福音書にない、興味深い記述がある。
それは、イエスを<殺す側>の大祭司カイアファの言葉。
・・・「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、
あなたがたに好都合だとは考えないのか。」・・・
これはもろに、パウロ神学の主張である。
キリスト教では、イエスを身代わりにして、人類の罪が救われる。
信者たちにとって、是が非でもイエスに死んでもらわないと困る、のである。
つまり信者たちは<殺す側>にいる。
キリスト教ではなぜ刑具である十字架を拝むのか?
これがその答えである、と思う。
589 :
七つ星:2008/04/29(火) 12:22:45 ID:2i+pNZCH
パウロ神学に潜んでいた転倒が、
<殺す側>に立って十字架を拝む、という転倒を作り出した(^^)
パウロは目からウロコが落ちるような神秘体験をしたという。
これ自体まれである。神秘など、簡単には体験できない。
しかし、体験した神秘が何なのか、これを理解することも相当難しい。
そしてパウロは、神秘体験の理解で失敗したのだと思う。
590 :
七つ星:2008/04/29(火) 12:41:52 ID:2i+pNZCH
わたしたちが信じられないような神秘体験をしたとしよう。
そのとき、その神秘体験の意味が、まったくわからないのが普通である。
聞いたり、読んだりしたようなことであれば多少見当もつく。
しかしまったく知らなかったら・・・何もわからない。
こういったとき、まず宗教書に向かうだろう。
宗教書の中に、同じような体験が書かれていないのかを探し始める。
イエスのすごさは、それをきっちり示していることにある。
パウロが気の毒なのは、おそらくギリシャ古典と旧約聖書しか、
利用できる参考書がなかったことである。
イエスの死に、いけにえのイメージが湧いたとしても、やむをえないかあ。
591 :
七つ星:2008/04/29(火) 17:51:41 ID:2i+pNZCH
まとめ(独断と偏見)・・・キリスト教は二重性を持っている
1 外側は、前半は、イエスの教える愛の宗教である。
キリスト教を知らない人、純粋な人はこう思っている。
2 内側は、後半は、パウロの教える××殺しである。
キリスト教徒は、自分は神に選ばれ、罪を許されたと思っている。
592 :
rin:2008/04/29(火) 17:52:18 ID:sILylYNc
マルコ伝でも(カットのとこでなく)
ゲッセマネでイエスが捕まった時とか
イエス自身がこうなったのは聖書の言葉が実現するためとか
言うのは、イエスの処刑に意味がなく
死をもって実現ってなに?
マルコ伝も共観福音書全部パウロ影響かもしれないと否定?
593 :
rin:2008/04/29(火) 17:53:15 ID:sILylYNc
>>584 パウロ神学が誤りで原罪は肯定なら
原罪観はイエスのどっから引き出すの?
(神以外良いものはないってとことかはあるけど
はっきりとはなくてパウロで確立されるんなら。)
イエスの悔い改めよの発言で既に
悔い改めてない状態があるって前提だから?
594 :
七つ星:2008/04/29(火) 18:09:00 ID:2i+pNZCH
>>592 そこの部分も作文ですね。
緊迫した場面でそんな悠長なことを言うはずがない、と思う。
マタイ伝の冒頭、イエス・キリストの系図を見れば、
それはヨセフの系図であって、イエス・キリストの系図ではない。
福音書の最初から、旧約の預言は外れているのですね。
595 :
七つ星:2008/04/29(火) 18:17:44 ID:2i+pNZCH
>>593 原罪に関しては、パウロの記述は矛盾している。
1 原罪を前提にする記述・・・罪の贖いに関するもの
2 原罪を前提にしない記述・・・カルビンの予定説につながるもの
596 :
七つ星:2008/04/29(火) 18:23:06 ID:2i+pNZCH
>>593 原罪の起源は、創世記3章の原罪神話にある
597 :
rin:2008/04/29(火) 18:36:30 ID:sILylYNc
>>594 >緊迫した場面でそんな悠長なことを言うはずがない
捕まることはイエスは前もって知ってたから
余裕はあってもおかしくないと思う
>>596 旧約からのイエスの預言成就は否定だけど
旧約からの原罪観は肯定?
598 :
七つ星:2008/04/29(火) 19:09:57 ID:2i+pNZCH
>>597 あなたが預言成就を信じたければ信じてもいいけど、
イエスがダビデの血を継いでいないことは系図から明らかですね。
イエスの母・マリアがダビデの血を継いでいないと意味がない。
新約の全記述が正しいわけではない。旧約の全記述が正しいわけではない。
預言が成就していないから、原罪神話が正しくないとは言えない。
599 :
rin:2008/04/29(火) 19:18:58 ID:sILylYNc
ヨハネ否定すれば三位一体はないだろうし
聖書全体で読まないと
成り立たないこと多いのは当然なわけで
だからパウロ否定すれば贖罪も間違ってるだろうね
今のキリスト教間違いなら
会議でもして正典訂正でもすればいいのに
聖書いちいち検証して信じる信者なんて
少ないだろし
600 :
七つ星:2008/04/29(火) 19:32:03 ID:2i+pNZCH
たぶんrinさんの疑問は、原罪は自力で解決不可能、ということだと思う。
それについて少し書きたいと思う。
創世記3章で、アダムとエバと蛇は、エデンの園から追い出される。
神は、ヒトがエデンの園に入って、命の木から食べないように、
ケルビムとセラフィムに園を守らせる。
この話を逆に考えたら、ヒトが再びエデンの園に入るなら、
原罪が消えてなくなったことになる。ではどうやって入るかと言えば、
園を守っているケルビムとセラフィムを倒さなければならない。
私見だが、このケルビムとセラフィムは自分自身である。
そして自分自身には絶対に勝てない。引き分けるのが精一杯である。
だからだれも、エデンの園に入ることはできない。
601 :
七つ星:2008/04/29(火) 19:46:52 ID:2i+pNZCH
イエスが教えたのは、絶対不可能な、エデンの園への入り方である。
それも福音書の冒頭で、「悔い改めよ」とズバリ教えている。
これ以外に、エデンの園に入る方法はない。
エデンの園で守っている自分自身と戦うのではなく、
入ろうとする自分が潰れたら、向き合っている自分自身も潰れるのだ。
これが悔いることである。ここまでは<自力>である。
そして実際に潰れたら、瞬時に命の実を与えられる。
これが<他力>である。
だから<自力>が先になり、<他力>が後になる。
602 :
七つ星:2008/04/29(火) 20:13:08 ID:2i+pNZCH
わたしの経験から言えば、命の実は、炎の舌のようなものではなく、
芥子種のようなものに近いかもしれない。
603 :
rin:2008/04/29(火) 20:45:57 ID:sILylYNc
エデンを出るとき神は皮の衣を作ってあげる
人間の罪による贖いの血が流れるひな型のよう
アダム達が罪を犯したのを知っていながら
神は敢えて聞くわけです。
罪を犯した時点で追放決定なら神はアダムに聞く必要もないのです。
悔い改めのチャンスだったのよあれは。。
でもアダム達は人のせいにし自分の罪と認めなかった。
>>600 主権が神にあり悔い改めのチャンスを与えてる神
ありきで救いが成り立つなら神の恩寵ありきで
それにのっかるのだからキリスト教は完全自力ではないと思ってるよ
604 :
七つ星:2008/04/29(火) 22:00:19 ID:2i+pNZCH
>>603 >エデンを出るとき神は皮の衣を作ってあげる
>人間の罪による贖いの血が流れるひな型のよう
このあたりの記述は心理ドラマだと思う。
皮の衣は<ケモノの心>では?
>罪を犯した時点で追放決定なら神はアダムに聞く必要もないのです。
>悔い改めのチャンスだったのよあれは。。
そうですね。あれは悔い改めのチャンスだった。
ヒトは、サタンの誘惑に同意し、言葉や行動にするから罪が生じる。
洗脳も同じであり、言葉や行動に表現させてスタートする。
>神の恩寵ありきで・・・キリスト教は完全自力ではないと思ってるよ
パウロ神学は信仰義認であり完全他力なのではない? 自力も認める?
自力を認めるなら、自力と他力の関係は?
605 :
七つ星:2008/04/29(火) 22:14:44 ID:2i+pNZCH
>>599 >今のキリスト教間違いなら
>会議でもして正典訂正でもすればいいのに
パウロ教徒に対し、棄教を積極的にすすめる理由がない。
各人に信仰の自由があり、各人が自分自身の人生に責任をもつから。
それでいい。それ以上のことはできない。
606 :
rin:2008/04/29(火) 22:28:54 ID:sILylYNc
善悪のを食べた後、
今更「命の木からもとって食べ永遠に生きないよう」とするのは
善悪の木を食べる前にアダム達が命の木食べていたら永遠に生きてたはずだから
命の木の実は一回でそうなるのでなく継続的に食べることで
命を保てるもので そこから遠ざけられた
救いは点でなく線で今の心から天にまで継続的なものと感じられる
>>605 自分はパウロ神学否定しない
>>604 救いのチャンスを与える神とそれに人間の自由意志で応じ従うのは
他力と自力が混じってるような感じがして。
607 :
rin:2008/04/29(火) 22:31:09 ID:sILylYNc
>心理ドラマだと思う。
どっちみち過去のアダムの罪が受け継がれるといっても
現代人では関係ないと受け付けないから
人間みんなそういう性質というエデンの話は
喩え話とした方がいいのでは
608 :
七つ星:2008/04/29(火) 22:32:27 ID:2i+pNZCH
使い方に注意すれば、聖書を訂正することもない
聖書を参考書のように使う・・・宗教に関する本は他にもある
聖書を薬のように使う・・・良薬も用法をまちがえたら毒薬になる
聖書を道具のように使う・・・自分なりに使いこなせばいい
609 :
七つ星:2008/04/29(火) 22:49:26 ID:2i+pNZCH
>>606 >救いのチャンスを与える神とそれに人間の自由意志で応じ従うのは
>他力と自力が混じってるような感じがして。
この問題については、パウロも混乱し、カルビンも混乱し、
わたしも正確に語れない。この世には二重性があり、全知全能の神と、
自由意志を持つ人と、同時に成立するような印象を受ける。
ただこの問題は人智を超えているように思う。
神のことがわからないから。
それより「悔い改め」に集中するほうが収穫が大きい。
610 :
rin:2008/04/29(火) 22:53:24 ID:sILylYNc
もちろん信じるとは贖罪を信じたから
はいそれで救われるというものとは自分は思わない
救いは点だと思わない
ただ贖罪もイエス自身が言ってる箇所がある以上
自分は否定しないから
贖罪もイエスの教えに含めて
信じ従うことが必要だと思うだけ
611 :
七つ星:2008/04/29(火) 22:58:20 ID:2i+pNZCH
>>607 人間の本性については、アダムやエバも、現代に生きる人々も、
まったく変わりないと思う。原罪は<人間の問題>である。
原罪・・・善悪の知識である
612 :
rin:2008/04/29(火) 23:01:49 ID:sILylYNc
イエスの発言でも贖罪に関するとこだけは
捏造と片付けることはできないから
>>611 そう人間そういう性質であるという話の
喩えということ
613 :
七つ星:2008/04/29(火) 23:12:01 ID:2i+pNZCH
>>610 命の実は一回であり、芥子種のように小さなものである。
イエスの言っている悔い改めはそういったもの。
小さな失敗、それに対する悔い、そういったものは決定的なものではなく、
新しい家ではなく、その家の補修のようなものだろうと思う。
614 :
rin:2008/04/29(火) 23:21:02 ID:sILylYNc
神は人間が何が善で悪か判断することを
罪とするのなら 神の判断に一生従い
人間の判断はいらないと言ってるみたい
>>613 エデンの命の木の実って一回のものなの?
最初からエデンにあって禁じられてなかった
善悪の前にアダム達が食べてなかったのはたまたまなの?
615 :
七つ星:2008/04/29(火) 23:30:31 ID:2i+pNZCH
>>614 自分中心に善悪を判断するから罪になる。
自分中心をはずせるかどうか、という問題が突きつけられている。
神が、食べられるのを恐れているから、ヒトは命の実をまだ食べていない。
ヒトは原罪だけ背負ってエデンの園を追放されている。
616 :
rin:2008/04/29(火) 23:42:46 ID:sILylYNc
>>615 人間は常に自己中心的な判断になりがちで
悪に傾きやすい性質であるとされてる 墜落後
でもアダムは墜落前の神が良しとされた本来の
性質でもっても判断を誤った
617 :
七つ星:2008/04/29(火) 23:58:15 ID:2i+pNZCH
>>616 その辺の問題は、もうひとつの「神の家」スレで少し検討しています。
K265という名前で書いている。興味あったら見てください。
連休も控えているし、ゆっくりやっていきましょう。オチ
618 :
七つ星:2008/04/30(水) 18:22:41 ID:y2d09q6K
>>616 いまも神の創造が継続している、ということ。
神は、六日で創造を終了し、七日目に安息された、ということなら、
たぶん聖書はいらないと思う。
七つ星さんはイエス=人間だと思ってるから三位一体も贖罪も否定 イエスの教えのみ
マリアがダビデの子孫でないから
イエスは預言されてた神でないというのは
マリアはだれの子孫なんですか?
ヨセフがダビデの子孫であれば問題ないかと思っていました。
りんさんの命の木の継続的とは喩えですか?
イエスが人間であるならイエスの教えは
人間の教えであり
神の教えとして見ない見方で
イエスの言葉を読むと違うのですかね。
621 :
remi:2008/05/01(木) 17:21:14 ID:hYgkLouG
>>617 実を食べ自由意志を行使したことで人間といえる
というユダヤ教の原罪観があう
622 :
rin:2008/05/01(木) 17:30:25 ID:hYgkLouG
>>534 思ったけど善行は信仰の結果として表れるというのは宗教者でなく
善行する人はいっぱいいるから変な気がする。
啓蒙主義の先駆ベールが人間の歴史に見たのは
墜落した信仰者の群れと有徳な無神論者達だという話も面白い。
(ベールが当時弾圧受けてた改革派の立場から見た
第一義的にはカト教会の腐敗が念頭にあって
それの攻撃主張だったらしいのはあれだけど)
でもベールは理性の立場の徹底を通じて
宗教真理や救いの信仰の確証も人間の判断に過ぎず絶対的には認識できないからと
結果個々の人間の良心が神となって良心に従うものであれば
反宗教立場も容認せざるえなくなるとか、
神を悪としないため善悪二原理のマニ教は理にかなってるとか、
色々理性で考えるけど結局理性の放棄を余儀なくされ
神へと送り返されると「信仰しか残されていない」と信仰主義が最終地点れす。ww
623 :
七つ星:2008/05/01(木) 21:08:50 ID:+ttjvsP7
>>619 マタイ伝3:9
我々の父はアブラハムなどと思ってはならない。言っておくが、
神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。
624 :
七つ星:2008/05/01(木) 21:12:03 ID:+ttjvsP7
>>620 イエスが人間であれば、イエスによる罪の贖いが成立しない。
625 :
七つ星:2008/05/01(木) 21:18:53 ID:+ttjvsP7
>>621 原罪を積極的なものとして把握するなら賛成する。
しかしユダヤ教の選民思想はまちがっている。
626 :
七つ星:2008/05/01(木) 21:30:32 ID:+ttjvsP7
>>622 ベールのことは知らないのだが、信仰と行いについて若干。
パウロは、ユダヤ人の律法主義を否定し、信仰義認を説いたように思う。
ルターの信仰義認は、修行によっては救済されないということ。
カルビンは、予定説から、信仰も行いも救済には無関係という立場か。
627 :
七つ星:2008/05/01(木) 22:00:16 ID:+ttjvsP7
イエスの教えの核心は<悔い改めよ>にある。
イエスが悔い改めるのではなく、わたしたちが悔い改めるのである。
悔い改めは、他力ではなく、自力の側に分類される。
ルカ伝5:32
わたしが来たのは・・・罪人を招いて悔い改めさせるためである。
これに対して、パウロ神学の核心は、
イエスに罪をかぶせ、罪から解放されようという、罪の贖いにある。
キリスト教で他力という場合、罪の贖いを指しているのだろう。
628 :
七つ星:2008/05/01(木) 22:07:49 ID:+ttjvsP7
<悔い改め>から、つぎの三つには強いつながりがある。
創世記3章の原罪神話 → ヨブ記 → <悔い改めよ>というイエス
629 :
七つ星:2008/05/01(木) 22:26:57 ID:+ttjvsP7
わたしたちは洗脳されているかもしれない・・・
聖書の言葉は、霊感で書かれたものであり、ある意味、神の言葉である、
という受けとめ方は、まちがっているのかもしれない
聖書には多くの真理や知恵があり、多くの誤りや矛盾したことが
記述されているということではない。言葉の定義から訂正する必要があり、
神の言葉 ≠ 聖書の言葉 なのではないかという疑問である。
630 :
rin:2008/05/01(木) 22:34:09 ID:hYgkLouG
>>627 パウロも悔い改め必要と言ってる
贖罪を信じることに悔い改めはもちろん含まれるのでは。
「神は〜今はどこでもすべての人に悔い改めを命じておられます。
なぜなら神はお立てになった一人の人により義をもって
この世界を裁くため〜」使徒
631 :
七つ星:2008/05/01(木) 22:40:54 ID:+ttjvsP7
エレミヤ書31:33〜34
来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである・・・
すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。
わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
神の言葉は、聖書ではなく、心に記されるのである。
心に記されたことの、影のようなもの、それが聖書の言葉ではないのか。
632 :
七つ星:2008/05/01(木) 22:50:48 ID:+ttjvsP7
>>630 罪の贖いは、イエスの十字架により、人類の罪が赦されたという主張。
罪が赦されたなら、悔い改める罪がないのだから、悔い改めは不要である。
もしパウロが、悔い改めを語るなら、混乱しているように思う。
633 :
七つ星:2008/05/01(木) 23:15:27 ID:+ttjvsP7
631のつづき
福音は繰り返し読んだけど、夢に福音の言葉がまったく出てこない。
不思議なんだけど、イエスの<イ>の字も出てこない。
だれかあ〜 聖書の言葉を夢見たヒトお〜 ひとりぐらいいませんか〜
聖書は大切な本だと思うけど、聖書の言葉を神の言葉だと思っていたら、
肩すかしを食いそうな、いや〜な予感がする。
634 :
rin:2008/05/01(木) 23:18:51 ID:hYgkLouG
自罪は別として
贖罪における原罪が赦されたことは
それを信じて受け入れる時にその人にとって成立する
それは罪の性質の自覚なしに
受け入れることはできないと思ってたけど。
信じて受け入れる時は神に向き直す時(悔い改める時)。
>>632 使途行伝17にあった
635 :
rin:2008/05/01(木) 23:35:37 ID:hYgkLouG
てパウロ擁護がしたいんじゃないけど。
他力自力教だと思う
>>633 聖書好きに聞くといーよ。
636 :
七つ星:2008/05/01(木) 23:49:57 ID:+ttjvsP7
>>634 原罪と自罪の区別がよくわからない。自罪の意味は?
今日は眠いのでオチ。おやすみ。
637 :
rin:2008/05/01(木) 23:51:47 ID:hYgkLouG
638 :
rin:2008/05/02(金) 01:10:05 ID:4LwBxqkL
墜落「前」予定説だけは
神は滅びの人間をわざわざ造るって意味不なんで
ないと思う
>>636 原罪が神から離れたことで、悔い改めとは神に向き直す決心で方向転換
自罪は日々の人間が犯す罪
そんな風に捉えてる 個人的には
贖罪が自分の犯す罪全てチャラとか言うのは変だと思うから。
639 :
七つ星:2008/05/02(金) 20:04:53 ID:GBlGTBEl
>>634 使徒言行録17:16以下を読んでみたけど、厳格な印象のあるパウロ
らしくなくておもしろかった。というか、言行録を記述したルカの人柄?
<悔い改め>も、ルカが記述したので登場したような感じ。
640 :
七つ星:2008/05/02(金) 20:24:21 ID:GBlGTBEl
>>638 罪の源泉は、<自分を中心に>善悪を判断するところにある。
原罪と自罪を区別する必要はないと思う。
区別するなら、次のふたつだろう
1 決定的な<悔い改め>は・・・神の恩寵、罪の赦しが伴うもの
2 日常的な<悔い改め>は・・・決定的な<悔い改め>以前のもの
この場合は罪の赦しがないが、<改め>に関係すると思う。
<改め>によって、その人の心は訓練され、やがて向上する。
641 :
七つ星:2008/05/02(金) 20:42:24 ID:GBlGTBEl
マルコ伝4:30に、神の国を<からし種>にたとえた記述がある。
この<からし種>は、決定的な<悔い>が行われたとき、
神から与えられる、神の恩寵、罪の赦しであり、神の油であろうかと思う。
642 :
rin:2008/05/02(金) 20:56:01 ID:4LwBxqkL
>>639 パウロ自身が悔い改めの人ってイメージあるな
>>640 その<改め>は決定的な悔い改めの以後もあるものかと思う
643 :
rin:2008/05/02(金) 21:46:20 ID:4LwBxqkL
悔い改めた後は何してもいいとかは変だし。
>>626 予定論系考察興味あった。
超越的な次元のことは人間の理性では知りえない矛盾性がありしも。
救われる者と滅びる者を決め創造し神が積極的に滅びをという墜落前説は変。
ただ神が滅びる者を決めず予定しなくても人間を創造した場合
(自由意志に任せた結果の)滅びの人間も当然予知できて
世界の終わりの結果さえ当初から神はわかる。
それでも創造を続行したのだから、
滅びも予定の一部に伴うもので神の予定となるのかやっぱ。
でも神は滅びは望んでないと聖書では言う
神自らが望んでない結果を含んだ結果におわる神にならないために
神の全能性と矛盾しないために墜落前予定説はあるのかもしれない。
644 :
七つ星:2008/05/02(金) 22:15:33 ID:GBlGTBEl
>>642 パウロは、悔い改め → 神秘体験 ではなく、
言行録9章を見れば、神秘体験 → 悔い改め(?) になっている。
悔い改めよ、で始まるイエスの教えとはちがう。
決定的な<悔い>の後には、当然<改め>がついてくる。
日常的な<改め>はムダではない。
645 :
rin:2008/05/02(金) 22:21:42 ID:4LwBxqkL
ユダヤ教とかは行為によって罪とみなされるらしいけど
キリスト教は思いの時点でその人を汚すとイエスは言ってるように
思いでも罪だから 人間よくない行為は慎むけど、思いは一瞬
誰しも抱いてしまうことはあると思うから
日々神の方に、良いものに目を向ける必要があって
継続的な救いの状態を保つ
>>644 そうだね。贖罪も同じで十字架にかかった神の愛を知り、
自悔い改めるって順序かも
646 :
七つ星:2008/05/02(金) 22:31:39 ID:GBlGTBEl
>>643 堕落<後>予定説は、結局、堕落<前>予定説に吸収されると思う。
カルビンの予定説では、自由意志が存在しないから、原罪も発生しない。
それなのに神の救済が行われる。
神は、創造の最初から、天国に行く人々と、地獄に行く人々を決めている。
信仰も無関係、行いも無関係。
この流れは変だといえば変だが、まったく否定するわけにもいかない。
なにしろ神は、全知全能だから。そう考えれば、
予定説と自由意志説の二重性がある、かのような印象を受ける。
647 :
七つ星:2008/05/02(金) 22:53:48 ID:GBlGTBEl
種を蒔く人のたとえ・・・マルコ伝4:1〜20
種を蒔く人は<イエス>なのか。多くの人がこう理解していると思う。
しかしそうではなくて、種を蒔く人は<神>ではないのか。
<神>でなければ、心の中に種を蒔くことはできない
種を蒔く人を<イエス>だと誤解するから、
<種>とは聖書の言葉ではないだろうか、というレベルダウンが生じる。
648 :
rin:2008/05/02(金) 23:06:25 ID:4LwBxqkL
イエスの贖罪以前は当然贖罪もなく
イエスは悔い改めよと言って
イエス以降贖罪以前の人達にはイエスの教えのみ
だね 信じよに預言の含みを外せば。
イエスの教えのみによる救いって何だと思いますか?
>>646 自由意志の余地がないっていうのは
アダムには自由意志があってそれで墜落した後、
神は救済の選びをした(人間側の意志は救いに関して無意味無関係)ってことじゃないの
>>647 てかキリスト教はイエス=神だしロゴスだから。
649 :
七つ星:2008/05/02(金) 23:36:48 ID:GBlGTBEl
イエスは単なる人であり、道案内に過ぎない。
救いも赦しも、神からやってくる。
650 :
七つ星:2008/05/02(金) 23:42:58 ID:GBlGTBEl
カルビンによれば、神は全知全能だから、
創造の最初から万事が予定され、堕落がいつだろうが関係ない。
すべては計算されつくしている。
651 :
rin:2008/05/02(金) 23:55:37 ID:4LwBxqkL
イエスの贖罪なしにも悔い改め神の国を心に築くことができる
なら贖罪は不要で イエスは処刑されたに過ぎないね
心に築く神の国と 来てくださいと祈り待ち望まれてる神の国
救いは心の状態を指すか、天国を指すか
継続的なものなら両者不可分か
>>650 アダムが裏切って墜落したから そこから救済滅びの人を決めるのと
墜落もなく最初から地獄へ行く人間造るってのは
神像が違う気がした 神が人間を造る意味も
652 :
七つ星:2008/05/02(金) 23:56:08 ID:GBlGTBEl
神が全知全能で人間の堕落も計算していたとすれば、
もともと原罪など生じるはずがなく、
イエスによる、罪の身代わりなど、まったく無用である。
653 :
七つ星:2008/05/03(土) 05:58:18 ID:kt4insjd
種を蒔く人のたとえ
畑に蒔く種とは何だろう。福音に出てくる種は<からし種>だけである。
そしてこの<からし種>は神の国のたとえに使われている。
<からし種>は信仰のたとえにも使われている。(マタイ伝17:20)
これらから言って、種を蒔く人は<からし種>を蒔くのではないだろうか。
福音は<神の言葉>を蒔くと書いているから、<神の言葉>=<からし種>
小さな<からし種>は、一握りで相当な数をばら撒ける。
この<からし種>を蒔いていく畑は人間の心だろう。
この時、ひとりの人に一粒の、<からし種>=<神の言葉>に注意しよう。
この<一粒>ということが、このたとえの<種>の意味を推測させる。
その<種>は、言葉の連なりなどではなく、実際の<種>のように、
そこから芽を出し、成長していく、<命>のようなものである。
<神の言葉>と表現されても、人間が使うような、言葉の連なりではない。
654 :
七つ星:2008/05/03(土) 06:18:45 ID:kt4insjd
種を蒔く人のたとえ
種を蒔くタイミングはいつなのだろう。道端とか石だらけの所とか、
茨の中とか良い土地とかに蒔かれている。<たとえ>をよく読めば、最初から
そういった場所に蒔かれたのでないことがわかる。
そうではなくて、種が公平に蒔かれたことが暗示されている。
御言葉を聞く・・・これは、マルコ伝4:11〜12にあるように、
悔い改めにより、自分の中に<からし種>を体験することであり、
神の国を見たり、神の国を理解することではないだろうか。
その<からし種>がどうなるかは、その人の心のあり方次第である。
655 :
七つ星:2008/05/03(土) 06:51:11 ID:kt4insjd
種を蒔く人のたとえ
種を蒔く人は、イエスではなく、神そのものである。
なぜなら、イエスの話は、神か富か、といった選択の問題であり、
その話から芽が出て成長していく、というような類ではないからである。
種を蒔く人を<イエス>にすると、イエスが神の言葉を語ることになる。
これはイエス自体が想定していないと思う。
神だけが神の言葉を語る。人の子・イエスは、人間の言葉しか語れない。
イエスは神、という主張は、神は全知全能ということから理解不能である。
イエスが神であり、全知全能なら、苦労して伝道する必要もなく、
十字架の死も必要ない。神ではなく、神の子にしてもまったく同じである。
656 :
七つ星:2008/05/03(土) 07:02:55 ID:kt4insjd
種を蒔く人のたとえ
種を蒔く人を<イエス>だと思い、イエスの言葉を神の言葉だと思う。
そればかりか、パウロの言葉や、イザヤや詩篇の言葉も。
この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ。
目で見ることなく、耳で聞くことなく、その心で理解することなく、
悔い改めていやされることのないために。イザヤ書6:10
657 :
神も仏も名無しさん:2008/05/03(土) 11:33:00 ID:RP5Cmkrl
人が信仰によってキリストの言葉を受け入れ神を愛すとき、
それが強制でなく、その人の自発的な自由な選択であるからこそ、
神はそのような人を喜ぶのです。
イエスは人の子となられた神の子、救い主キリスト、
人の間に住まわれた受肉した神です。
658 :
七つ星:2008/05/03(土) 12:22:08 ID:kt4insjd
種を蒔く人のたとえ
種を蒔く人はだれなのか。これについてはふたつの立場があるらしい。
1 人間イエスが蒔き、そう理解し、われわれも蒔くことができる。
2 神が蒔く 〜 個人的にはこの立場が正しいと思う。
659 :
七つ星:2008/05/03(土) 12:47:39 ID:kt4insjd
>>657 このスレの前のほうから読んでください。
イエスが、神である必要性がないことを、しつこく検討しました。
イエスが神でなくても、わたしたちはまったく困らない。
660 :
神も仏も名無しさん:2008/05/03(土) 13:02:22 ID:RP5Cmkrl
キリストを通して父なる神を讃えるという構造は、
神の愛を感得し人の信に基づく神への愛の超出が
人の自由な択びと密接に関わっていることを内包しています。
そのことによって、神が人類に対して自明な神に強要される人の神への礼拝構造を持たず
人の神への頌栄と感謝が人の自由な意思に基づく愛に根ざしているからこそ、
神がそのような人々を義とみなされる神の愛と義、聖性が示されるわけです。
ヒトラー、スターリン、毛沢東、北朝鮮の金日成や金正日のように
自身を神格化し、自身を賞賛するように人々に強制する構造のうちに見受けられる主従関係と、
救い主キリストを遣わされた聖書に啓示される父なる神の愛を知り
人々に神の愛を確証させイエスを主と告白させる聖霊の働きのうちに
悔い改めた人々とともに神を讃える人々の構造には、
上記のような決定的な相違点があります。
その観点が七つ星さんには欠落しています。
661 :
七つ星:2008/05/03(土) 13:36:39 ID:kt4insjd
>>660 神は、ヒトラー、スターリン、毛沢東、金日成などですか?
神を誤解してませんか?
神と人との間に、イエスを介在させる意味を説明してください。
抽象的ではなく、普通の人にもわかるように。
662 :
神も仏も名無しさん:2008/05/03(土) 13:45:12 ID:TC7I51GL
神は、ヒトラー、スターリン、毛沢東、金日成ではありませんよ。
663 :
七つ星:2008/05/03(土) 14:11:31 ID:kt4insjd
種を蒔く人のたとえ・・・まとめ
1 神は公平に<からし種>を蒔いている。
チャンスは全員に与えられている。最初からユダヤを選んでいない。
2 ある種は道端に落ち、種のままサタンに食べられてしまった。
これが、広い道であり、滅びの道である。
3 石の上や、茨の中に落ちた種は、<悔い改め>で芽を出した。
しかし、未熟であり、世の迷いがあり、成長できなかった。
<からし種>を得ても、実を結ばない場合がある。
4 良い土地・・・よく耕された、砕かれた心、
ここに蒔かれた<からし種>は育って何倍もの実を結ぶ。
主は助けを求める人の叫びを聞き、苦難から常に彼らを助け出される。
主は打ち砕かれた心に近くいまし、悔いる霊を救ってくださる。(詩篇34)
664 :
七つ星:2008/05/03(土) 14:13:59 ID:kt4insjd
>>662 ではなぜ、神のたとえに、ヒトラーやスターリンを出すのですか?
665 :
神も仏も名無しさん:2008/05/03(土) 15:00:55 ID:TC7I51GL
キリストを否定することや、
人が、人の知によって、部分的にではなく、完全に神を把握可能であるという前提を抱くことは、
ヒトラーやスターリン、金親子を神聖視するシステムを強制したり受容する精神構造と近いからです。
>>663 種を蒔く人は 何故すべての種を良い土地に 蒔かなかったのですか?
667 :
rin:2008/05/03(土) 16:58:14 ID:mNRQg0oJ
>>660 自由な選択をもって
神がいると思って世界を作った創造主を信じる
人はいますよね
イエスが神の子で神の愛を示しそれを通し神を信じる人も
いるだろうけど。
どっちも創造神を自由な意志で自ら讃えるなら何がだめなの?
668 :
七つ星:2008/05/03(土) 16:58:28 ID:kt4insjd
>>665 このスレの前のほうを読んでないでしょう?
イエスは人だけど、イエスがキリストであることは否定してません。
アブラハムもヤコブも、モーセもヨブも、神と直接に出会っています。
かれらもヒトラーやスターリンなどに近いのですか?
669 :
七つ星:2008/05/03(土) 17:07:50 ID:kt4insjd
>>666 たぶん、神はなぜ、すべての土地を良いものにしなかったのか、という
疑問かと思う。土地の状態とは、心の状態のたとえであり、
神は人の心に介入しないで、各人の自由意志のままに任せている。
そうすることによって、神の創造が今でも進行し可能になる。
670 :
七つ星:2008/05/03(土) 17:23:53 ID:kt4insjd
神と人間とのあいだに、だれか別の人を置き、
その人を神とする宗教はきわめて特殊ではないでしょうか?
イエスが神と人間のあいだに介在する理由は?
神と人間とがじかに向き合う宗教のほうがむしろ普通でしょう。
神道も日本の仏教も、ヒンズー教もイスラム教も・・・
671 :
rin:2008/05/03(土) 17:40:02 ID:mNRQg0oJ
イエスは神の子であり
神を信じる者もみな神の子
ヨハネだけ他の神の子とは差がある
神のひとり子とはされてるからそこで神格化が。
>>670 キリスト教は原罪と贖罪
何より人類のために十字架にかかったほど
神は人を愛してるのを示したってとこが
メインになってるのが既存キリスト教なんだと思う。
贖罪否定するとキリスト教はないだろうから。
672 :
神も仏も名無しさん:2008/05/03(土) 17:46:46 ID:TC7I51GL
ヒトラーやスターリン、金親子を神聖視することは間違っています。
イエス・キリストの神性を否定する人の考え方は、
ヒトラーやスターリン、金親子を神聖視する人々の考え方と通じる前提を持っています。
673 :
七つ星:2008/05/03(土) 20:18:48 ID:kt4insjd
>>672 あなたはズルイ。主張だけで説明がない。
ただヒトラーだとかスターリンだとか言って、非難を繰り返しているだけ。
674 :
七つ星:2008/05/03(土) 20:34:18 ID:kt4insjd
福音書には、安息日に働いているイエスの姿が何度か書かれている。
これと同じように、神は安息日も、創造の後も働いている。
>>669 ありがとうございます。
しかしですね、普通は種蒔く人が、まず土を耕してから始めるでしょう
ちょっとわかりにくい聖句でありますね。
676 :
七つ星:2008/05/04(日) 17:12:11 ID:+OQJEtpA
>>675 イエスの時代、どんな農業が行われていたのかわからない。
農地を耕さないで種を蒔く、という説もあるらしい。
それはともかく、良い土地に種を蒔くだけなら、
この地上に天使を造るだけになる。天使はある意味、神のロボット。
人間に自由意志を与え、その自由意志で神を選ばせようとしているのかも。
そんな風には思うけど、神の思いの真実はわからない。
677 :
七つ星:2008/05/04(日) 17:45:40 ID:+OQJEtpA
からし種は神の油。
もうひとつの謎、魂=アートマンは、
数息観で坐禅をしている時の体験を書こう。
わたしは小川の前に坐っていた。上流から何か流れてくる。
見れば人が川に少し沈んだ状態で流れてくる。顔が見えるぐらいなった。
顔を見たら自分。わたしは自分を見捨て、そのまま流すことにした。
自分が、わたしの前を流れ過ぎた瞬間、わたしから何かが抜けた。
気づいたときは霧の中を猛スピードで走っていた。
シャボン玉のようでもあり、透明な水晶のようでもある。
繊細な感覚であり、清浄な感覚である。
しかし走っていて疑問に思った。その疑問を口に出したら、
その声が周囲に大きく響いた。
その響きとともに、月のような球体が宙に浮かんでいるのが見えた。
つぎの瞬間、その球体が猛スピードで、わたしの中に飛びこんできた。
そこで終わった。いつものように一時間ぐらいの坐禅かと思った。
しかし時計を見たら三時間が経過していた。時間が消えたようだった。
体も足もまったく痛くなかった。心は清浄さに満たされていた。
678 :
七つ星:2008/05/04(日) 18:18:55 ID:+OQJEtpA
この体験を整理すると次のようになる。
1 わたしの前に流れている川は三途の川である。
2 わたしは三つに分かれた。
現実の自分、川の前に坐っている自分、その川に流れてきた自分
3 霧の中を走った時に、これら三つの自分が消える。
4 霧の中の自分には、自覚があり、非常に繊細な感覚が備わっている。
5 しかしまったく無反省であり、霧の中を突き抜けていく。
6 その自分は、だれかが呼び戻さないと帰ってこない。
7 呼び戻す者は、現実の自分しかいない。
8 呼び戻した瞬間に、その視点は現実の自分に帰る。
だから霧の中の自分を見る。それは白い、透明な球体である。
9 しかし呼び戻せないと死ぬ。そう思った。
偶然なら仕方ないけど、この体験はすすめられない。
679 :
七つ星:2008/05/04(日) 18:29:18 ID:+OQJEtpA
これは魂=アートマンだろう。
福音を読めば、霊とは異なる、魂の記述がある。
神の息、永遠の命とは、魂のことではないかと思っている。
それを見たかどうかではなく、人間全員が持っている。
そして魂があるなら、あの世は存在するのであり、
輪廻転生も否定できない、かもしれない。
680 :
七つ星:2008/05/04(日) 18:42:22 ID:+OQJEtpA
わたしは魂を認め、アートマンを認めているので、エホバでもないし、
仏教でもない。イエスや古神道やヒンズーに近いかも。
681 :
七つ星:2008/05/04(日) 20:37:44 ID:+OQJEtpA
いま関心があるのは霊・・・イエスは霊を見ている。
わたしはもともと唯物論者であり、霊を寄せ付けない体質なのか、
霊体験はあまりない。それでも霊を見ているのだ・・・\(^^)/
夢でも現実でも、霊を見たことのある人はいませんか?
682 :
risa:2008/05/04(日) 22:07:29 ID:TzrW27yJ
元来仏教は輪廻からの解脱を目指して、
永遠に生きることを切望するキリスト教とは
対照的な出発なイメージだっただけど
悪の起源は永遠の自然から分かれてきた
被造物自身の我意、我欲のうちにあって
それを消すことで得られる状態を目指すなら
似てる気もする
結局キリスト教も神の意のうちに我意の消滅を言ってるような。
キリスト教哲学者でも無を目指す仏教に近い人とかいたよね
エックハルトとか
前自分が書いたベールはwikiに載ってないけどエックは載ってる
>イエスの「心の貧しい者は幸いである。天国は彼らのものである。」
>という言葉は解釈が分かれる言葉であるが、
>エックハルトは「心の貧しい者」を、意志の貧しい者、
>自己を捨てたものとみなして同意している。彼はここで無我を唱える仏教に近づいている
683 :
七つ星:2008/05/04(日) 23:16:52 ID:+OQJEtpA
>>677 若干の訂正。霧の中を走っているときに感じたのは、疑問というより不安。
響いた声は「ここはどこなんだろう?」というもの。
ぼかそうと思ったけど、読み返してみたらぼかせない感じですね。
684 :
七つ星:2008/05/04(日) 23:21:38 ID:+OQJEtpA
>>682 エックハルトをwikiで読んだけど似ている感じがある。
しかし「心の貧しい者」については同意できない。「貧しい者」に同意。
685 :
risa:2008/05/04(日) 23:25:15 ID:TzrW27yJ
そもそも人間の意や欲を消すことなんて
できるものなのかなと不思議だけど。
消してもまた沸いてくるかもしれない
わーからない。
686 :
risa:2008/05/04(日) 23:39:45 ID:TzrW27yJ
鳥は欲でもなくただ空を舞う
お墓とか夜怖い
キリスト教だともう霊はこの世には
いないとなるんだろうけど
なんとなく
687 :
七つ星:2008/05/04(日) 23:41:01 ID:+OQJEtpA
神がいるのか、いないのか、という問題の立て方もあるけど、
あの世があるのか、ないのか、という問題の立て方もある。
あの世があるなら、肉体の死を超えて継続するものは何だろうか、
という疑問に答えなくてはならない。それが魂であり、アートマンである。
あの世が実際にあるのかどうか、という点については、
竜の背に乗って、三途の川の向こう側を、少しだけ眺めたことがある。
なだらかな丘が連なる、春のような、穏やかな草原、明るい青空。
しかし不思議なことに、空には太陽がない・・・
神とか、あの世とか、こういったことは理屈ではないのだろう。
688 :
七つ星:2008/05/04(日) 23:52:27 ID:+OQJEtpA
>>686 福音を読めば、天使やら悪霊やらが出てくる。
キリスト教を信じていたら、こういった存在を認めるべきですね。
サタンは霊的な存在であり、それは竜だろうと思っている。
689 :
risa:2008/05/04(日) 23:56:11 ID:TzrW27yJ
>>687 >しかし不思議なことに、空には太陽がない・・・
黙示はオカルトかもだけど
「太陽も月もいらない」ってあるね
690 :
七つ星:2008/05/05(月) 00:00:30 ID:/1m0T+h0
>>689 黙示はこの世の話ではなく、あの世の話のような印象を受ける。
691 :
risa:2008/05/05(月) 00:01:45 ID:ktD5TjN8
うん、まさにあの世のことじゃない?
692 :
risa:2008/05/05(月) 00:09:53 ID:ktD5TjN8
三途の川の向こう見たってあっちの世界じゃないの?
黙示と一緒ですごーと思ったのだけど。
黙示だと夜もないらしい
693 :
七つ星:2008/05/05(月) 00:21:31 ID:/1m0T+h0
霊に関してのひとつの原則
こちらが霊を見ているときは、向こう側もこちらが見えるということか。
霊を認めない人は、悪霊のことを心配する必要性が少ないと思う。
悪霊が寄って来るスキが小さい。逆に天使も寄って来ない。
霊体質の人は、神仏に守られていないと危険だろうと思う。
自分から進んで霊と接触しようと試みない、ほうがいいのではないか。
694 :
七つ星:2008/05/05(月) 00:28:59 ID:/1m0T+h0
>>692 そういえば、時間らしいものをほとんど感じなかった。
自分の動き、変化だけがあった。
695 :
七つ星:2008/05/06(火) 11:32:08 ID:xrCtTr1D
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
イエスが自分で自分の死と復活を語る記述がある。
この記述の検討をすっかり忘れていた。
死と復活に関する記述は、福音書の後半に分散して書かれている。
それが直接語られる場合もあり、たとえ話の形で語られる場合もある。
結論を言えば、これらの記述はパウロ神学の影響を受けているので、
ほとんどカットしていい。有害無益だろう。
イエスは<たとえ話>をする。しかし<たとえ話>を演じない。
死と復活に関する記述は、<たとえ話>を演じようとする予告であり、
パウロたちの作り話である、としか言いようがない。
696 :
七つ星:2008/05/06(火) 11:38:27 ID:xrCtTr1D
終末に関する記述・・・これもパウロやキリスト教団の作り話である。
信じなければ破滅する、という脅しは常套手段である。
こういう記述は読み流せばいい。
697 :
七つ星:2008/05/06(火) 11:45:07 ID:xrCtTr1D
刑具である、<十字架>を拝み、屋根の上に飾り、墓標にする・・・
この民の心をかたくなにし、耳を鈍く、目を暗くせよ。
目で見ることなく、耳で聞くことなく、その心で理解することなく、
悔い改めていやされることのないために。
698 :
七つ星:2008/05/08(木) 20:42:56 ID:YV+daiGu
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
種を蒔くために、耕すものは一日中耕すだろうか。
土を起こして、畝を造るだけだろうか。畑の面を平らにしたなら、
いのんどとクミンの種は、広く撒き散らし、
小麦は畝に、大麦は印をしたところに、裸麦は畑の端にと、
種を蒔くではないか。(イザヤ書28:24〜25)
699 :
七つ星:2008/05/08(木) 21:17:11 ID:YV+daiGu
論じ合おうではないか、と主は言われる。
たとえ、お前たちの罪が緋のようでも、雪のように白くなることができる。
たとえ、紅のようであっても、羊の毛のようになることができる。
700 :
七つ星:2008/05/08(木) 21:32:21 ID:YV+daiGu
使徒言行録2章 <聖霊が降る>
炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他の国々の言葉で
話し出した。
あれっ、聖霊なのに、罪の赦しがないみたいだな???
それに炎のような舌?・・・まるで蛇の舌のようだな???
701 :
七つ星:2008/05/08(木) 23:12:29 ID:YV+daiGu
キリスト教における聖霊の役割は何なのだろう?
使徒言行録にあるような、よくわからない、酒に酔ったような言葉なら
ちっとも有り難くないし、経験したいとも思わない。
パウロ神学が聖霊を無意味にしてしまった。
人類の罪の身代わりに、イエスを十字架にかけたわけである。
その結果、人類の罪は赦され、もう罪が消えてしまったのだから、
聖霊による罪の赦しも必要ない、ということになる。
水によるバプテスマより、もっとすごいはずの聖霊によるバプテスマが、
酒に酔ったような言葉なら、キリスト教は必要ないように思う。
サタンにだまされていないだろうか。
702 :
七つ星:2008/05/09(金) 20:55:41 ID:vyll24sJ
キリスト教では、イエスが人類の罪を背負い、
人類はすでに救われているらしい。お前はもう救われている。
そういえば、人類は1999年に滅びているという説もある。
お前はもう死んでいる。しかし実感がないのだよね。
703 :
七つ星:2008/05/09(金) 21:24:16 ID:vyll24sJ
聖霊の効果 → 酒に酔ったような言葉
ペトロが、今は朝だから、酒に酔っているわけではない、と弁解する。
しかし弁解すればなおさら怪しい。やはり、新しいぶどう酒のせいか?
704 :
七つ星:2008/05/09(金) 23:04:27 ID:vyll24sJ
キリスト教 = パウロ神学 になった理由
イエスの弟子は、漁師や徴税人などであり、ごく普通の庶民であった。
これに対してパウロは、かれらより律法などに詳しく、弁舌も巧みであった。
そのうえ、ギリシャ哲学などにも通じ、相当の教養人でもあった。
その結果、むしろパウロが、理論的なリーダーになった。
705 :
七つ星:2008/05/09(金) 23:29:20 ID:vyll24sJ
使徒言行録15:36以下に、パウロとマルコの対立関係が書かれている。
このマルコがマルコ伝を書いたなら、
部分的に、マルコ伝がパウロ神学と重ならないのも理解できる。
706 :
七つ星:2008/05/10(土) 11:17:28 ID:55M0oVlx
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
パウロ神学、福音書の元ネタが、イザヤ書53章にある。
これを預言にするのか、バビロン捕囚・解放の頃の出来事にするのか。
過去形で記述されているから、常識的に読めば後者だろう。
もうひとつ重要なのは、かりに預言であっても、
キリストらしき人物が、<主の僕>として、記述されていることである。
ここでは三位一体が想定されていない。
707 :
七つ星:2008/05/10(土) 12:55:13 ID:55M0oVlx
キリスト教 = パウロ神学 であることを知り、
パウロ神学を知るならば、次のように言う人がいても不思議ではない。
「パウロ、お前は頭がおかしい。学問のしすぎで、おかしくなったのだ。」
708 :
七つ星:2008/05/11(日) 12:57:25 ID:cLx8i0oU
イザヤ書は66章まであるが、何人かによって書かれたものらしく、
その内容や時期からみて、大きく次の三つに分かれるという。
第一イザヤ・・・ 1章〜39章 紀元前8世紀 本物のイザヤである
第二イザヤ・・・40章〜55章 紀元前6世紀 四つの僕の歌が有名
第三イザヤ・・・56章〜66章
709 :
七つ星:2008/05/11(日) 13:06:59 ID:cLx8i0oU
第一イザヤ・・・言葉と言葉の間に独特の緊張感がある。
イザヤは言葉の天才であり、普通の人間でないことを感じさせる。
ここで問題になるのは、第一イザヤと第二イザヤの関連である。
第一イザヤの第一章に、次のように書かれている。
ソドムの支配者らよ、主の言葉を聞け。
ゴモラの民よ、わたしたちの神の教えに耳を傾けよ。
お前たちのささげる多くのいけにえが、
わたしにとって何になろうか、と主は言われる。
710 :
七つ星:2008/05/11(日) 13:22:50 ID:cLx8i0oU
これに対して、第二イザヤの53章には次のように書かれている。
わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために
彼らの罪を自ら負った。 ・・・・
多くの人の過ちを担い
背いた者のために執り成しをしたのは
この人であった。
711 :
七つ星:2008/05/11(日) 13:32:22 ID:cLx8i0oU
ふたつを並べれば、正反対の主張であることがわかる。
同じイザヤ書なのに、その内容が矛盾している。
そしてキリスト教は、第二イザヤを元ネタにしている。
第一イザヤ、第 1章・・・いけにえの否定
第二イザヤ、第53章・・・いけにえの肯定、しかも人間のいけにえ
713 :
八つ星:2008/05/13(火) 18:45:39 ID:1pLJ0G6P
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
1 偶像を拝むこと(十戒の第二)
奴隷が、主人を拝むのではなく、土地の産物で偶像を造り、
その偶像を主人であるかのように拝んでいたら、
その主人は何を感じるだろうか? そこに不気味なものを感じないか。
単なる無視ではなく、自分への殺意を感じないか。
2 いけにえを捧げること
奴隷が、土地の産物を、主人に捧げる? 土地も産物も主人のものである。
その奴隷は、主人のものを、自分のものだとカン違いしていないか。
そんなことをする奴隷に対し、主人は何を感じるだろうか?
主人は喜ばないだろう。それを主人への捧げ物だと奴隷が言うなら、
自分のものを盗られたように感じるだろう。
714 :
八つ星:2008/05/13(火) 19:52:03 ID:1pLJ0G6P
いけにえを捧げること・・・第一イザヤによって廃止された
1 野菜や果物を捧げる
神のもので、神の好意を買うことはできない。十戒違反、盗みである。
2 焼いた肉など、動物を捧げる
無用な殺生は避けるべきである。1に劣り、十戒違反、盗みである。
3 大昔、人間を捧げたこともあるらしい
さらに劣っている。十戒違反、盗みであり、殺しである。
4 神のような、人間のような存在を捧げる
さらに劣っている。サタンも驚く、信じがたい転倒、神への反逆である。
5 そのうえ、捧げる対象が<偶像>である
緋色の罪、紅色の罪、あきれた大犯罪である。救われ難い。
715 :
八つ星:2008/05/13(火) 21:26:06 ID:1pLJ0G6P
罪があれば<悔い改め>の話になる
<悔いる>とは<罪>を悔いるのであり、
自分を罪人と洞察し、それを心の底から、認めることである。
それゆえ、自分を罪人と自覚している人は、<悔いる>ことがない。
イエスはなぜ、「罪人を招くためにやってきた」というのか。
親鸞はなぜ、「善人なおもて往生す、悪人をや」というのか。
わたしたちは微妙にだまされていないか?
>>714 まぁ実り物も何でもすべて神のものであるという前提なら
神のものであるとして神に返す意味も
捧げものにはあったはず
レビとかだと贖うものを神が与えたとか言ってるしね
717 :
八つ星:2008/05/13(火) 22:01:22 ID:1pLJ0G6P
そこで、悔い改めが生じるケースを、表にして特定してみよう。
周囲の評価・・・ (善人) (悪人)
自分の評価
善人 A善人(善人) B善人(悪人)
悪人 C悪人(善人) D悪人(悪人)
A 自他ともに認める善人である。あるいは正しい人である。
B 自分では善人のつもりなのだが、周囲の評価はむしろ悪人である。
C いわゆる偽善者だろうか。
D 自他ともに認める悪人である。ほんとうの悪人。
718 :
八つ星:2008/05/13(火) 22:29:24 ID:1pLJ0G6P
悪人を自認している人には<悔い改め>が生じない。CとDはダメ。
A→善人を自認し、周囲も認めている場合、<悔い改め>が生じにくい。
そうすると、イエスが招こうとしているのはBになる。
善人だと思っているが、周囲からは悪人(罪人)だと見られている人々だ。
イエスの言っていることは正しいように思う。
問題は親鸞か。親鸞はAとBを比較している。そして結局、Bになる。
親鸞の話は逆説のように聞こえるが、イエスと同じ結論である。
ああそうか、親鸞には<悔い改め>の視点が欠落している!
719 :
八つ星:2008/05/13(火) 22:37:45 ID:1pLJ0G6P
>>716 昔の人が、神と人の関係を、人と人の関係から類推しても自然でしょうね。
試行錯誤の中で、しだいに正常な関係が作られて行くのだと思う。
まちがっていたら訂正すればいい → それが悔い改めですか。
720 :
八つ星:2008/05/14(水) 01:02:07 ID:NbahBxGj
イエスが招こうとしているのは、<自分は善人だと思っている>のに、
<周囲からは悪人(罪人)だと見られている>人々である。
なぜならば<悔いること>は、
自分は善人、自分は義人、自分は正しい、などと思っている人が、
実は、悪人であったこと、罪人であったことなどに気がつくことであり、
それを<悔いる>ことだからである。
721 :
八つ星:2008/05/14(水) 01:34:25 ID:NbahBxGj
このように罪人(悪人)を理解すれば、
マタイ伝5章の山上の説教、ルカ伝6章の平地の説教において、
イエスが祝福した人々がどういう人々であったかを逆に推測できる。
たとえば次の場合、マタイ伝より、ルカ伝が正しいように思う。
<心の貧しい人>は、人として正しく生きているのに、
周囲から乱暴に扱われている。・・・マタイ伝、文がおかしい。
<貧しい人>は、人として正しく生きているのに、
周囲から乱暴に扱われている。・・・ルカ伝、文の意味が通る。
722 :
八つ星:2008/05/14(水) 18:16:24 ID:NbahBxGj
八つ星に変更したのは、七つ星からタバコの香りがしたからです。
香の煙はわたしが忌み嫌うもの・・・(^^;
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
723 :
八つ星:2008/05/14(水) 18:40:57 ID:NbahBxGj
第一イザヤ、第一章
論じ合おうではないか、と主は言われる。
たとえ、お前たちの罪が緋のようでも、雪のように白くなることができる。
たとえ、紅のようであっても、羊の毛のようになることができる。
724 :
神も仏も名無しさん:2008/05/15(木) 18:22:48 ID:qBoPm4Gp
>>721 この場合の正しく生きてるとは主観の場合?
ならルカ伝は物質的な貧しさは正しくないという否定だよね
725 :
八つ星:2008/05/15(木) 18:35:31 ID:uN9dY+jm
>>724 人として正しく生きること、これは主観ですね。
正しく生きて、その結果、貧しくなることは受け入れざるを得ない。
正しく生きることが優先されるのであり、
貧しさを肯定しているわけではない。
726 :
八つ星:2008/05/15(木) 19:12:40 ID:uN9dY+jm
周囲の評価・・・ (善人) (悪人)
自分の評価
善人 A善人(善人) B善人(悪人)
悪人 C悪人(善人) D悪人(悪人)
この表をもう一回見てほしい。いったいだれが悔い改めるのか?
あなたがクリスチャンだとしよう。
クリスチャンなら、自分が罪人であることを宣告される。→ CかDか
しかし、イエスが身代わりになったから罪は赦されている、と言われる。
罪があったけど、罪を指摘された時には、すでに赦されていることになる。
こういう物語の中で、あなたはどうやって悔い改めるのか?
悔い改める余地が消えている???
727 :
八つ星:2008/05/15(木) 19:22:46 ID:uN9dY+jm
クリスチャンなら、自分が罪人であることを自覚していることだろう。
そうすると、あなたがたの行く道は、
罪人なのに善人であるかのように装う偽善者の道であるか、
自他ともに認める本当の悪人になる道であるか、そのどちらかになる。
なぜならば、あなたがたには悔い改めが欠けているから。
728 :
八つ星:2008/05/15(木) 20:20:13 ID:uN9dY+jm
クリスチャンでなければ、
自分の悪や罪に気づいたら、その誤りを訂正しようと努力するだろう。
これは自力救済の考え方である。
ほとんどの人が、悪人・罪人だと評価されないように努力する。
善人・義人であろうと努力し、実際にはどうであれ、
努力することでそう思いたいし、周囲にもそう思ってほしいと願っている。
そして、ほとんどの人が、726の表で言えば、<B>に集まってくる。
729 :
八つ星:2008/05/15(木) 20:32:13 ID:uN9dY+jm
そのとき何が起こるかといえば
<貧しい人>は、人として正しく生きているのに、
周囲から乱暴に扱われている、という現実に直面することになる。
ここで<悔いる>とは?
自分が正しいはずなのに、周囲から右の頬を打たれている。そしてその時に、
ああ、自分が悪かったと、左の頬を打たせることにある。
こういう<悔い>のあり方は、表の<B>でしか起こらない。
これが聖書で求められている<悔い>である。
730 :
八つ星:2008/05/15(木) 20:51:39 ID:uN9dY+jm
自分を責める人々に<自分中心>の思いしかなく、
それは自分もまったく同じであり、懸命に努力してきたのに、
自分が正しく生きてきたと思うのは誤りであり、
生まれてから今に至るまで、<常に自分中心であった>ということ。
これを<悔いる>のであり、周囲とも神とも無関係である。
731 :
八つ星:2008/05/15(木) 21:07:36 ID:uN9dY+jm
悔い改めが欠けている・・・キリスト教も浄土真宗も同じ
キリスト教には悔い改めがある。だから浄土真宗とはちがうと思っていた。
しかしこれは誤りであった。どちらにも悔い改めがない。
原罪が赦されていたことを聞いて有難いのは
罪の自覚ある者でその時反省も伴うでしょうね
自分が罪人だと思わない人には贖罪など有難くもないで終了で
悔い改めも不要だろうけど
733 :
八つ星:2008/05/15(木) 22:53:37 ID:uN9dY+jm
>>732 >原罪が赦されていたことを聞いて有難いのは
>罪の自覚ある者でその時反省も伴うでしょうね
キリスト教では、イエスが罪を贖っている。反省は必要ない。
>自分が罪人だと思わない人には贖罪など有難くもないで終了で
>悔い改めも不要だろうけど
実際の社会では、キリスト教と関係なく、貧しい者は乱暴に扱われる。
かれらの救いは、イエスの教える<悔い改め>にある。
王手飛車取り! だと思ったけど、カン違いだったか。
734 :
八つ星:2008/05/16(金) 00:11:11 ID:e+lNNCJD
この地球上には、Bのタイプが圧倒的に多い。Bのタイプとは、
自分では善人だと思っているが、周囲からは悪人だと思われている人々。
1 普通、人間は、善人・義人でありたいと思い、そう努力する。
これは神が人に与えた性質であり、人は基本的に善良である。
2 どの時代でも、富んだ者は一握りであり、貧しい者が圧倒的に多い。
その結果、自然に、ほぼ全員に、<悔い改め>のチャンスが訪れる。
3 ただし例外がある・・・<悔い改め>を消してしまう宗教がある。
人間は善良に造られたが、善良なるがゆえにだまされやすくもある。
人間を救うための宗教が、むしろ逆に、救いを封じてしまう場合もある。
735 :
神も仏も名無しさん:2008/05/16(金) 01:37:48 ID:jrolKIUs
>>733 贖ってもらってても不要でも
反省というか良心の痛みは感じるのではないかな
罪人の自覚というのは。
悔い改めは神に向き直すことで
それまでの生き方の方向転換
736 :
八つ星:2008/05/16(金) 22:09:57 ID:e+lNNCJD
>>735 箇条書きになるけど、いままでの話をもう少し説明しますね。
1 726の表は、だいたいの分類であり、実際には相当アバウトでしょう。
2 個人の評価はその人の主観でいいと思う。
周囲の評価は、より客観に近づいた評価だろうと思う。
3 キリスト教を信じると言っても、ピンからキリまであり、
宗派によっても、個人的な信仰のあり方においても違いがある。
4 キリスト教徒だから絶対にダメ、というわけではなく、
素朴に信じる善男善女は神に近い。これはどの宗教も同じでしょう。
5 つまるところは、神が応えるのか、沈黙するのか。
宗教の争いは、自分の神こそがホンモノだと主張するところにある。
沈黙する神はニセモノ。応える神がホンモノである。
737 :
八つ星:2008/05/17(土) 00:07:54 ID:Sbh2xQdI
旧約の時代にも、神はいたわけだから、イエスが神である必要はない。
イエスもユダヤ教徒のひとりだったではないか?
いずれにしろ、単なる人間を神にするのは、神を冒涜するものであり、
その神を十字架につけるのは神殺しを意味する。
738 :
八つ星:2008/05/17(土) 00:21:49 ID:Sbh2xQdI
キリスト教はイエスの十字架を拝んでいる。
そのイエスが神ならば、キリスト教は神殺しをもくろんでいる。
キリスト教徒は、世界中のいたるところで、
アフリカ大陸で、アメリカ大陸で、オーストラリア大陸などで、
人間を虫けらのように殺してきた。
その犯罪、その源泉は、神殺しのパウロ神学にある。
そしてパウロ神学とはキリスト教である。
>>737 >イエスが神である必要はない
>いずれにしろ、単なる人間を神にするのは、神を冒涜するものであり、
その通り! キリスト教は単なる人間イエスを神として
いけにえにした馬鹿教ですよ
神への冒涜です!
740 :
八つ星:2008/05/17(土) 08:18:48 ID:Sbh2xQdI
>>739 反応があり、そのうえ賛成してくれたら正直うれしい。
ひとりだとだんだん過激になる。
741 :
八つ星:2008/05/17(土) 08:49:36 ID:Sbh2xQdI
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
気分転換に、黄金律(マタイ伝7:12)
何事でも、人から自分にしてもらいたいと望むことを、
人にもしてあげなさい。 これが律法と預言者の教えである。
これに対しては、儒教の教えがよく比較される。
儒教では「自分にしてもらいたくないことを、人にするな」と教える。
どちらも行動の指針として重要だと思うが、
イエスの教えのすごさは、経験を積まないとなかなかわからない。
イエスの教えは下から見上げた目線。選択を相手に委ねている。
儒教の教えは上から見下ろした目線。不作為を自分が選択する。
742 :
八つ星:2008/05/17(土) 10:37:19 ID:Sbh2xQdI
主の祈り・・・「天にいますわたしたちの父よ」
この呼びかけについては違和感がある。神は単数であり、複数でもある。
複数というのは、男でもあり女でもあるからである。
しかし「父よ」と言うならば、神は男であり、父親であることになる。
イエスがほんとうにそう教えたのかどうか?
イエスは十字架で、「エリ・エリ」とか「エロイ・エロイ」とか叫んでいる。
これらは「神よ神よ」という意味だと言う。
そうであれば、イエスも、「父よ」とは呼びかけていなかったことになる。
わたしたちも「神さま」と呼びかけたほうがいいと思う。
743 :
八つ星:2008/05/17(土) 13:24:33 ID:Sbh2xQdI
周囲の評価・・・ (善人) (悪人)
自分の評価
善人 A善人(善人) B善人(悪人)
悪人 C悪人(善人) D悪人(悪人)
この表で、キリスト教が行ってきた悪事の数々、その原因を探してみようか。
もちろんパウロ神学なんだけど、キリスト教は悪事の数々を渋々認めても、
肝心のパウロ神学をしっかり抱えこんで離そうとしない。
だからあ、もっとはっきり指摘してやる必要がある。
744 :
八つ星:2008/05/17(土) 16:36:21 ID:Sbh2xQdI
743の表を、キリスト教=パウロ神学で書き換えてみよう。
書き換える条件は、人はすべて悪人(罪人)であるということ。
および、イエスを信じれば罪が贖われ、許されて救われるということ。
周囲の評価・・・ (善人) (悪人)
自分の評価
悪人 A悪人(善人) B悪人(悪人)
<悪人> C善人(善人) D善人(悪人)
CとDはクリスチャンであり、主観的に、イエスに救われて善人になる。
この書き換えた表は、743の表を転倒させたものになっている。
745 :
八つ星:2008/05/17(土) 16:48:01 ID:Sbh2xQdI
この書き換えた表が、クリスチャンの眺めている人間像である。
Cがクリスチャンの理想像。
Dは逸脱であり、反省するべきであり、そのために告解や免罪符がある。
神がすべてを決めるという予定説のカルビンによれば、反省も不要。
743の表と比べてほしい。
Cは偽善者であり、Dは自他共に認める悪人ではなかったか。
クリスチャンは逆さまに人間を見ている。
746 :
八つ星:2008/05/17(土) 17:07:53 ID:Sbh2xQdI
これでキリスト教徒が、世界の最貧国アフガニスタンに攻めこみ、
イラクに攻めこみ、パレスチナを迫害する理由がわかるだろう。
キリスト教徒にとって、かれらは悪人の悪人、真実の悪魔だからである。
(もう知っていると思うけど、9・11はアメリカの自作自演である)
747 :
八つ星:2008/05/17(土) 23:30:01 ID:Sbh2xQdI
刑具である、十字架を拝み、屋根の上に飾り、墓標にする。
これはまともでない・・・
常識があれば、冷静に眺めれば、それが奇妙なことに気がつくはずである。
しかしその教義に洗脳されると、すっかり頭が転倒し、
奇妙なことも奇妙ではなくなり、
偽善が定位置になり、ほんとうの悪人でも赦されると思うようになる。
かれらは悔い改めることがない。すでに贖われていて罪がないのだから。
かれらは、それが頭の操作だけであることに気がつかない。
こうしてかれらから悔い改めが消える
悔い改めていやされることのないために
748 :
八つ星:2008/05/17(土) 23:42:29 ID:Sbh2xQdI
743 :八つ星:2008/05/17(土) 13:24:33 ID:Sbh2xQdI
周囲の評価・・・ (善人) (悪人)
自分の評価
善人 A善人(善人) B善人(悪人)
anti blessing
悪人 C悪人(善人) D悪人(悪人)
Christian demon
749 :
八つ星:2008/05/17(土) 23:46:37 ID:Sbh2xQdI
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
周囲の評価・・・ (善人) (悪人)
自分の評価
善人 A善人(善人) B善人(悪人)
アンチ ブレッシング
悪人 C悪人(善人) D悪人(悪人)
クリスチャン デーモン
750 :
八つ星:2008/05/18(日) 12:38:11 ID:vwQkUkTK
<キリスト教徒=パウロ教徒の図式>
周囲の評価・・・ (善人) (悪人)
自分の評価
悪人 A悪人(善人) B悪人(悪人)
悪人 C善人(善人) D善人(悪人)
751 :
八つ星:2008/05/18(日) 12:49:10 ID:vwQkUkTK
前のほうのスレで、原罪と自罪を区別する話があった。
750の表で見ると、その意味がはっきりするかもしれない。
自分の評価 → 人はみな悪人(罪人)である・・・これが原罪である。
しかしキリスト教徒は罪が赦され、CかDになる。
このとき、Dに迷いこめば、再び罪を自覚する・・・これが自罪である。
752 :
八つ星:2008/05/18(日) 13:02:30 ID:vwQkUkTK
パウロ神学は、無意識に、神殺しを隠している。
これが結論である。
しかしそう指摘しても、それが理解され、教団の改革に向かうのは、
早くても十年後、二十年後になるのだろう。
教団レベルでは動きが鈍い。
しかし個人のレベルでは今日からでもスタートできる。
753 :
神も仏も名無しさん:2008/05/18(日) 13:56:32 ID:ZkUOgVQn
神様、情け深い者になりたいです。
754 :
神も仏も名無しさん:2008/05/18(日) 14:29:47 ID:09q6X0ec
(西暦AD)キリストの年表を現代に合わせてみる。(誤差は無視とする)
神殿の議論 2012年 なにかありそう?(マヤ暦じゃないよw)
宣教を開始 2030年 獣が勢力拡大?
受難と昇天 2033年 人類の変化?
サタン(フリーメーソン)は神を真似る。
755 :
八つ星:2008/05/19(月) 19:18:09 ID:aheoLmaY
>>753 ほんとうですね。しかし難しいテーマですね。
756 :
八つ星:2008/05/19(月) 19:36:46 ID:aheoLmaY
創世記32:23〜33、神とヤコブとの格闘を考えてみよう。
この話は何となくわかるけど、いまひとつわからない。
この話が重要なのは、これがイスラエルの名前の由来だからである。
ここに何かしらの秘密が隠されている、ような感触がある。
それが夢にしろ、ヤコブは何を経験したのか?
757 :
八つ星:2008/05/19(月) 19:49:29 ID:aheoLmaY
あまり聖書を知らない人のために説明すれば、
イサクとリベカの子供、ヤコブは、兄エサウと双子の兄弟であり、
生まれた時に、兄エサウのかかと(アケブ)をつかんでいた。
そこでヤコブ(かかと)と名づけられた。
すなわち、生まれながらに、他人の足を引っ張る者である。
758 :
八つ星:2008/05/19(月) 20:10:32 ID:aheoLmaY
ヤコブは<穏やかな>性格である。
それなのに、父イサクから与えられる、兄の祝福を横取りする。
そのために兄から恨まれ、生まれた土地から逃げ、20年の歳月が経過する。
ヤコブは逃亡先で結婚し、妻の親もとで暮らし、子供もできたが、
そこから家族や家畜と共に逃げ、再び、生まれた土地に帰ろうとする。
神との格闘は、その帰り道、川のそばにいる時に行われる。
759 :
八つ星:2008/05/19(月) 20:35:06 ID:aheoLmaY
ヤコブは、家族や奴隷や家畜を川の向こうに渡し、ひとりになる。
自分を憎んでいる兄のことを思えば、目の前にある川は三途の川である。
その夜、ヤコブは夢を見る。神との格闘である。
そしてこの話がわかりにくい。創世記32:26
その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、
格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。
「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言った。
ここの記述は理解しにくい。なぜなら、
関節のはずれたヤコブが追いつめられ、神の勝利は目前だからである。
それなのに、神のほうから、格闘をやめようとヤコブに言っている。
760 :
八つ星:2008/05/19(月) 23:28:12 ID:aheoLmaY
ヤコブ自身は、格闘に勝ったとは言っていない。
ヤコブは、果たして格闘に勝ったのかどうか?
この点については、神のほうから、次のように言っている。
お前の名はもうヤコブではなく、これからは<イスラエル>と呼ばれる。
お前は神と人と闘って勝ったからだ。
761 :
八つ星:2008/05/19(月) 23:44:39 ID:aheoLmaY
しかしヤコブは、勝ったはずの神に、
「祝福してくださるまで離しません」と祝福を願っている。
勝った者が負けた者に祝福してもらうのは、どういうことだろう?
教えてもらえなかったが、神の名前まで聞こうとしている。
名前を聞いてどうするつもりだったのか。神から逆に、
「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言われてしまう。
762 :
夜光船:2008/05/20(火) 23:07:21 ID:zD/Cc2Ee
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
ヤコブの話は、特に<神との格闘>は簡単ではない。
この話は繰り返し読むに価するのではないか。
763 :
夜光船:2008/05/20(火) 23:12:38 ID:zD/Cc2Ee
ヨブ記もいいけど、ヤコブの話もいいですね。
再発見した。
764 :
夜光船:2008/05/21(水) 21:33:31 ID:lnBjlqNT
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
ヤコブの話は、部分ではなく、全体で切りこんだほうがいい。
いままでのまとめのような話ですね。
謎が解ければ、あなたも「イスラエル」である。(^^)
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
夜行船=銀将(質問箱)ですよね? しかも隠居でしたか!!??
814 サロメおたぁ ◆wHb3.gs/E2 2008/05/24(土) 12:01:34 ID:Ura3Aje/
あほらしw
銀って隠居の自演じゃんかwwww
808 銀将 2008/05/24(土) 11:20:40 ID:Q3aOt+Sj
宗教を否定はしないけど、宗教には二元性がある。
どの宗教にも本音と建前があり、
多くの信者は<建前>に踊らされて宗教に奉仕させられる。
甘い汁を吸うのは、宗教を利用するサタンの仲間たち。
キリスト教は、その洗練性、狡猾性が高いのでは?
762 夜光船 2008/05/20(火) 23:07:21 ID:zD/Cc2Ee
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
ヤコブの話は、特に<神との格闘>は簡単ではない。
この話は繰り返し読むに価するのではないか。
二セだと言われたらひっこんだから違うんじゃね?
906 銀将 2008/05/24(土) 21:44:44 ID:Q3aOt+Sj
ご隠居、蒸発・・・!
907 昆布 ◆konbu//XQ6 sage 2008/05/24(土) 21:46:19 ID:q/lQdVuF
ご隠居って、機械だったからなぁ〜
ニセじゃないの?笑
908 神も仏も名無しさん 2008/05/24(土) 21:46:53 ID:Q3aOt+Sj
・
909 サロメおたぁ ◆wHb3.gs/E2 2008/05/24(土) 21:47:54 ID:Ura3Aje/
>>907 結構まめに 臨床方面から反論したら逃げるようになったwww
910 神も仏も名無しさん 2008/05/24(土) 21:49:49 ID:Q3aOt+Sj
>>907 昆布、ジャマー
>>765 隠居はコテやらないぞ
そしてイエスはただの人間だ! と 唱えよう!
俺もキリスト教ってイエスよりパウロ教になってると思う
イエスは人類を救う神だったかは死んでみないとわからねーな
769 :
神も仏も名無しさん:2008/05/27(火) 12:49:55 ID:m4LOQbru
☆ ☆ ☆
☆ ☆ ☆
771 :
神も仏も名無しさん:2008/05/28(水) 18:52:24 ID:UQLTQTxM
星三つですうううううううう
へへへ
773 :
神も仏も名無しさん:2008/07/03(木) 22:59:05 ID:Ugg3CL8l
忘れた頃にアゲ
774 :
神も仏も名無しさん:2008/07/22(火) 21:03:36 ID:fDg3Md3i
朝鮮人は独特 クリスチャンも独特 天皇万歳!
一神教にと過去の恨みから天皇を亡き者にしようとしているクリスチャンの作戦に惑わされるな! 天皇制を死守するのだ! 女系反対! 気にい
らなければ朝鮮半島へ帰れ! 日本に住みたいなら体勢に従え! 国家よ、竹島は日本のものだ! ばんばん主張してやれ!
775 :
神も仏も名無しさん:2008/07/29(火) 18:21:46 ID:7gKFdSdV
アゲアゲ
ウニおいちい
そこでペテロは口を開いて言った、「神は人をかたよりみないかたで、 神を敬い義を行う者はどの国民でも受けいれて下さることが、
ほんとうによくわかってきました。
あなたがたは、神がすべての者の主なるイエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えて、
イスラエルの子らにお送り下さった御言をご存じでしょう。
それは、ヨハネがバプテスマを説いた後、ガリラヤから始まってユダヤ全土にひろまった福音を述べたものです。
神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。
このイエスは、神が共におられるので、よい働きをしながら、また悪魔に押えつけられている人々をことごとくいやしながら、
巡回されました。
わたしたちは、イエスがこうしてユダヤ人の地やエルサレムでなさったすべてのことの証人であります。
人々はこのイエスを木にかけて殺したのです。(使徒10:34-39)口語訳
しかし神はイエスを三日目によみがえらせ、 全部の人々にではなかったが、わたしたち証人としてあらかじめ選ばれた者たちに
現れるようにして下さいました。わたしたちは、イエスが死人の中から復活された後、共に飲食しました。
それから、イエスご自身が生者と死者との審判者として神に定められたかたであることを、人々に宣べ伝え、
またあかしするようにと、神はわたしたちにお命じになったのです。 預言者たちもみな、
イエスを信じる者はことごとく、その名によって罪のゆるしが受けられると、あかしをしています」。
ペテロがこれらの言葉をまだ語り終えないうちに、それを聞いていたみんなの人たちに、聖霊がくだった。(使徒10:40-44)口語訳
777 :
神も仏も名無しさん:2008/07/29(火) 18:30:00 ID:7gKFdSdV
やったぁー\(~o~)/
☆実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。
正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかも知れません。
しかし、わたしたちがまだ罪人であった時、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を
お示しになりました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですからキリストによって神の怒りから救われるのは、
なおさらのことです。敵であった時でさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、
御子の命によって救われるのはなおさらです。
それだけでなく、わたしたちの主イエスキリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。
今やこのキリストを通して和解させていただいた からです。(ローマ5ー6〜11)
☆神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3ー16)
☆口でイエスは主(しゅ)であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から 復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。
実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるからです。(ローマ 10:9-10)
人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、
ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。
これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。
なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。(ガラテヤ 2-16)
心の腰に帯を締め、身を慎み、イエス・キリストの現れる時に与えられる恵みを、
いささかも疑わずに待ち望んでいなさい。(第一ペテロ1:13)
そこでペテロは口を開いて言った、「神は人をかたよりみないかたで、 神を敬い義を行う者はどの国民でも受けいれて下さることが、
ほんとうによくわかってきました。
あなたがたは、神がすべての者の主なるイエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えて、
イスラエルの子らにお送り下さった御言をご存じでしょう。
それは、ヨハネがバプテスマを説いた後、ガリラヤから始まってユダヤ全土にひろまった福音を述べたものです。
神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。
このイエスは、神が共におられるので、よい働きをしながら、また悪魔に押えつけられている人々をことごとくいやしながら、
巡回されました。
わたしたちは、イエスがこうしてユダヤ人の地やエルサレムでなさったすべてのことの証人であります。
人々はこのイエスを木にかけて殺したのです。(使徒10:34-39)口語訳
しかし神はイエスを三日目によみがえらせ、 全部の人々にではなかったが、わたしたち証人としてあらかじめ選ばれた者たちに
現れるようにして下さいました。わたしたちは、イエスが死人の中から復活された後、共に飲食しました。
それから、イエスご自身が生者と死者との審判者として神に定められたかたであることを、人々に宣べ伝え、
またあかしするようにと、神はわたしたちにお命じになったのです。 預言者たちもみな、
イエスを信じる者はことごとく、その名によって罪のゆるしが受けられると、あかしをしています」。
ペテロがこれらの言葉をまだ語り終えないうちに、それを聞いていたみんなの人たちに、聖霊がくだった。(使徒10:40-44)口語訳
☆実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。
正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかも知れません。
しかし、わたしたちがまだ罪人であった時、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を
お示しになりました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですからキリストによって神の怒りから救われるのは、
なおさらのことです。敵であった時でさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、
御子の命によって救われるのはなおさらです。
それだけでなく、わたしたちの主イエスキリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。
今やこのキリストを通して和解させていただいた からです。(ローマ5ー6〜11)
☆神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3ー16)
☆口でイエスは主(しゅ)であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から 復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。
実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるからです。(ローマ 10:9-10)
783 :
神も仏も名無しさん:2008/08/01(金) 18:00:03 ID:FB9NOTu0
そこでペテロは口を開いて言った、「神は人をかたよりみないかたで、 神を敬い義を行う者はどの国民でも受けいれて下さることが、
ほんとうによくわかってきました。
あなたがたは、神がすべての者の主なるイエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えて、
イスラエルの子らにお送り下さった御言をご存じでしょう。
それは、ヨハネがバプテスマを説いた後、ガリラヤから始まってユダヤ全土にひろまった福音を述べたものです。
神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。
このイエスは、神が共におられるので、よい働きをしながら、また悪魔に押えつけられている人々をことごとくいやしながら、
巡回されました。
わたしたちは、イエスがこうしてユダヤ人の地やエルサレムでなさったすべてのことの証人であります。
人々はこのイエスを木にかけて殺したのです。(使徒10:34-39)口語訳
しかし神はイエスを三日目によみがえらせ、 全部の人々にではなかったが、わたしたち証人としてあらかじめ選ばれた者たちに
現れるようにして下さいました。わたしたちは、イエスが死人の中から復活された後、共に飲食しました。
それから、イエスご自身が生者と死者との審判者として神に定められたかたであることを、人々に宣べ伝え、
またあかしするようにと、神はわたしたちにお命じになったのです。 預言者たちもみな、
イエスを信じる者はことごとく、その名によって罪のゆるしが受けられると、あかしをしています」。
ペテロがこれらの言葉をまだ語り終えないうちに、それを聞いていたみんなの人たちに、聖霊がくだった。(使徒10:40-44)口語訳
☆実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。
正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかも知れません。
しかし、わたしたちがまだ罪人であった時、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を
お示しになりました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですからキリストによって神の怒りから救われるのは、
なおさらのことです。敵であった時でさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、
御子の命によって救われるのはなおさらです。
それだけでなく、わたしたちの主イエスキリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。
今やこのキリストを通して和解させていただいた からです。(ローマ5ー6〜11)
☆神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3ー16)
☆口でイエスは主(しゅ)であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から 復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。
実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるからです。(ローマ 10:9-10)
人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、
ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。
これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。
なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。(ガラテヤ 2-16)
☆実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。
正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかも知れません。
しかし、わたしたちがまだ罪人であった時、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を
お示しになりました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですからキリストによって神の怒りから救われるのは、
なおさらのことです。敵であった時でさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、
御子の命によって救われるのはなおさらです。
それだけでなく、わたしたちの主イエスキリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。
今やこのキリストを通して和解させていただいた からです。(ローマ5ー6〜11)
☆神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3ー16)
☆口でイエスは主(しゅ)であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から 復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。
実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるからです。(ローマ 10:9-10)
☆今や、神様は、天国へ行く別の道を示してくださいました。
その新しい道は、「善人になる」とか、神様のおきてを守ろうと努力するような道ではありません
〔とはいっても、この道については、ずっと前から旧約聖書で教えられていたのですから、
実際には新しい道とは言えませんが〕。
神様は今、「もし私たちが、イエス・キリストを信じきるなら、あなたがたを受け入れ、『罪のない者』と宣言する」と言われます。
どんな人間であろうと、私たちはみな、キリストを信じきるという、この方法によって救われるのです。
そうです。 すべての人は罪を犯しました。 神の輝かしい標準にはほど遠い存在です。
けれども、もし私たちがキリスト・イエスを信じきるなら、神様は私たちを「罪のない者」と宣言してくださいます。
このキリスト・イエスが、恵みにより、無償で私たちの罪を帳消しにしてくださるからです。(ローマ3:21-24)
☆神様はキリスト・イエスを遣わして、私たちの罪のための刑罰を受けさせ、私たちへの怒りをとどめてくださいました。
神様は、私たちをご自分の怒りから救い出すための手段として、キリスト様の血と私たちの信仰とをお用いになりました。
ですから、それまでの時代に罪を犯した者たちを罰せられなかったとしても、神様は完全に公正であられたわけです。
キリスト様が来て人々の罪を取り除く時を、神様は待ち望んでおられたからです。
そして今日でも、神様はこの同じ方法で罪人を受け入れてくださいます。
イエス様が彼らの罪を帳消しにしてくださったからです。
しかし、このように、罪を犯した者を赦し、無罪を宣告するのは、神様の公正なやり方に反するのではないでしょうか。
いいえ、そんなことはありません。
なぜなら、彼らが自分の罪を帳消しにしてくださったイエス様を信じたという事実に基づいて、神様はそうなさるからです。(ローマ3:25-26)
人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、
ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。
これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。
なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。(ガラテヤ 2-16)
そこでペテロは口を開いて言った、「神は人をかたよりみないかたで、 神を敬い義を行う者はどの国民でも受けいれて下さることが、
ほんとうによくわかってきました。
あなたがたは、神がすべての者の主なるイエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えて、
イスラエルの子らにお送り下さった御言をご存じでしょう。
それは、ヨハネがバプテスマを説いた後、ガリラヤから始まってユダヤ全土にひろまった福音を述べたものです。
神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。
このイエスは、神が共におられるので、よい働きをしながら、また悪魔に押えつけられている人々をことごとくいやしながら、
巡回されました。
わたしたちは、イエスがこうしてユダヤ人の地やエルサレムでなさったすべてのことの証人であります。
人々はこのイエスを木にかけて殺したのです。(使徒10:34-39)口語訳
しかし神はイエスを三日目によみがえらせ、 全部の人々にではなかったが、わたしたち証人としてあらかじめ選ばれた者たちに
現れるようにして下さいました。わたしたちは、イエスが死人の中から復活された後、共に飲食しました。
それから、イエスご自身が生者と死者との審判者として神に定められたかたであることを、人々に宣べ伝え、
またあかしするようにと、神はわたしたちにお命じになったのです。 預言者たちもみな、
イエスを信じる者はことごとく、その名によって罪のゆるしが受けられると、あかしをしています」。
ペテロがこれらの言葉をまだ語り終えないうちに、それを聞いていたみんなの人たちに、聖霊がくだった。(使徒10:40-44)口語訳
☆実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。
正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかも知れません。
しかし、わたしたちがまだ罪人であった時、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を
お示しになりました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですからキリストによって神の怒りから救われるのは、
なおさらのことです。敵であった時でさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、
御子の命によって救われるのはなおさらです。
それだけでなく、わたしたちの主イエスキリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。
今やこのキリストを通して和解させていただいた からです。(ローマ5ー6〜11)
☆神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3ー16)
☆口でイエスは主(しゅ)であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から 復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。
実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるからです。(ローマ 10:9-10)
☆今や、神様は、天国へ行く別の道を示してくださいました。
その新しい道は、「善人になる」とか、神様のおきてを守ろうと努力するような道ではありません
〔とはいっても、この道については、ずっと前から旧約聖書で教えられていたのですから、
実際には新しい道とは言えませんが〕。
神様は今、「もし私たちが、イエス・キリストを信じきるなら、あなたがたを受け入れ、『罪のない者』と宣言する」と言われます。
どんな人間であろうと、私たちはみな、キリストを信じきるという、この方法によって救われるのです。
そうです。 すべての人は罪を犯しました。 神の輝かしい標準にはほど遠い存在です。
けれども、もし私たちがキリスト・イエスを信じきるなら、神様は私たちを「罪のない者」と宣言してくださいます。
このキリスト・イエスが、恵みにより、無償で私たちの罪を帳消しにしてくださるからです。(ローマ3:21-24)
☆神様はキリスト・イエスを遣わして、私たちの罪のための刑罰を受けさせ、私たちへの怒りをとどめてくださいました。
神様は、私たちをご自分の怒りから救い出すための手段として、キリスト様の血と私たちの信仰とをお用いになりました。
ですから、それまでの時代に罪を犯した者たちを罰せられなかったとしても、神様は完全に公正であられたわけです。
キリスト様が来て人々の罪を取り除く時を、神様は待ち望んでおられたからです。
そして今日でも、神様はこの同じ方法で罪人を受け入れてくださいます。
イエス様が彼らの罪を帳消しにしてくださったからです。
しかし、このように、罪を犯した者を赦し、無罪を宣告するのは、神様の公正なやり方に反するのではないでしょうか。
いいえ、そんなことはありません。
なぜなら、彼らが自分の罪を帳消しにしてくださったイエス様を信じたという事実に基づいて、神様はそうなさるからです。(ローマ3:25-26)
そこでペテロは口を開いて言った、「神は人をかたよりみないかたで、 神を敬い義を行う者はどの国民でも受けいれて下さることが、
ほんとうによくわかってきました。
あなたがたは、神がすべての者の主なるイエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えて、
イスラエルの子らにお送り下さった御言をご存じでしょう。
それは、ヨハネがバプテスマを説いた後、ガリラヤから始まってユダヤ全土にひろまった福音を述べたものです。
神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。
このイエスは、神が共におられるので、よい働きをしながら、また悪魔に押えつけられている人々をことごとくいやしながら、
巡回されました。
わたしたちは、イエスがこうしてユダヤ人の地やエルサレムでなさったすべてのことの証人であります。
人々はこのイエスを木にかけて殺したのです。(使徒10:34-39)口語訳
しかし神はイエスを三日目によみがえらせ、 全部の人々にではなかったが、わたしたち証人としてあらかじめ選ばれた者たちに
現れるようにして下さいました。わたしたちは、イエスが死人の中から復活された後、共に飲食しました。
それから、イエスご自身が生者と死者との審判者として神に定められたかたであることを、人々に宣べ伝え、
またあかしするようにと、神はわたしたちにお命じになったのです。 預言者たちもみな、
イエスを信じる者はことごとく、その名によって罪のゆるしが受けられると、あかしをしています」。
ペテロがこれらの言葉をまだ語り終えないうちに、それを聞いていたみんなの人たちに、聖霊がくだった。(使徒10:40-44)口語訳
☆実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。
正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかも知れません。
しかし、わたしたちがまだ罪人であった時、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を
お示しになりました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですからキリストによって神の怒りから救われるのは、
なおさらのことです。敵であった時でさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、
御子の命によって救われるのはなおさらです。
それだけでなく、わたしたちの主イエスキリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。
今やこのキリストを通して和解させていただいた からです。(ローマ5ー6〜11)
☆神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3ー16)
☆口でイエスは主(しゅ)であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から 復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。
実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるからです。(ローマ 10:9-10)
☆今や、神様は、天国へ行く別の道を示してくださいました。
その新しい道は、「善人になる」とか、神様のおきてを守ろうと努力するような道ではありません
〔とはいっても、この道については、ずっと前から旧約聖書で教えられていたのですから、
実際には新しい道とは言えませんが〕。
神様は今、「もし私たちが、イエス・キリストを信じきるなら、あなたがたを受け入れ、『罪のない者』と宣言する」と言われます。
どんな人間であろうと、私たちはみな、キリストを信じきるという、この方法によって救われるのです。
そうです。 すべての人は罪を犯しました。 神の輝かしい標準にはほど遠い存在です。
けれども、もし私たちがキリスト・イエスを信じきるなら、神様は私たちを「罪のない者」と宣言してくださいます。
このキリスト・イエスが、恵みにより、無償で私たちの罪を帳消しにしてくださるからです。(ローマ3:21-24)
☆神様はキリスト・イエスを遣わして、私たちの罪のための刑罰を受けさせ、私たちへの怒りをとどめてくださいました。
神様は、私たちをご自分の怒りから救い出すための手段として、キリスト様の血と私たちの信仰とをお用いになりました。
ですから、それまでの時代に罪を犯した者たちを罰せられなかったとしても、神様は完全に公正であられたわけです。
キリスト様が来て人々の罪を取り除く時を、神様は待ち望んでおられたからです。
そして今日でも、神様はこの同じ方法で罪人を受け入れてくださいます。
イエス様が彼らの罪を帳消しにしてくださったからです。
しかし、このように、罪を犯した者を赦し、無罪を宣告するのは、神様の公正なやり方に反するのではないでしょうか。
いいえ、そんなことはありません。
なぜなら、彼らが自分の罪を帳消しにしてくださったイエス様を信じたという事実に基づいて、神様はそうなさるからです。(ローマ3:25-26)
そこでペテロは口を開いて言った、「神は人をかたよりみないかたで、 神を敬い義を行う者はどの国民でも受けいれて下さることが、
ほんとうによくわかってきました。
あなたがたは、神がすべての者の主なるイエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えて、
イスラエルの子らにお送り下さった御言をご存じでしょう。
それは、ヨハネがバプテスマを説いた後、ガリラヤから始まってユダヤ全土にひろまった福音を述べたものです。
神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。
このイエスは、神が共におられるので、よい働きをしながら、また悪魔に押えつけられている人々をことごとくいやしながら、
巡回されました。
わたしたちは、イエスがこうしてユダヤ人の地やエルサレムでなさったすべてのことの証人であります。
人々はこのイエスを木にかけて殺したのです。(使徒10:34-39)口語訳
しかし神はイエスを三日目によみがえらせ、 全部の人々にではなかったが、わたしたち証人としてあらかじめ選ばれた者たちに
現れるようにして下さいました。わたしたちは、イエスが死人の中から復活された後、共に飲食しました。
それから、イエスご自身が生者と死者との審判者として神に定められたかたであることを、人々に宣べ伝え、
またあかしするようにと、神はわたしたちにお命じになったのです。 預言者たちもみな、
イエスを信じる者はことごとく、その名によって罪のゆるしが受けられると、あかしをしています」。
ペテロがこれらの言葉をまだ語り終えないうちに、それを聞いていたみんなの人たちに、聖霊がくだった。(使徒10:40-44)口語訳
☆実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。
正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかも知れません。
しかし、わたしたちがまだ罪人であった時、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を
お示しになりました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですからキリストによって神の怒りから救われるのは、
なおさらのことです。敵であった時でさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、
御子の命によって救われるのはなおさらです。
それだけでなく、わたしたちの主イエスキリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。
今やこのキリストを通して和解させていただいた からです。(ローマ5ー6〜11)
☆神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3ー16)
☆口でイエスは主(しゅ)であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から 復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。
実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるからです。(ローマ 10:9-10)
☆今や、神様は、天国へ行く別の道を示してくださいました。
その新しい道は、「善人になる」とか、神様のおきてを守ろうと努力するような道ではありません
〔とはいっても、この道については、ずっと前から旧約聖書で教えられていたのですから、
実際には新しい道とは言えませんが〕。
神様は今、「もし私たちが、イエス・キリストを信じきるなら、あなたがたを受け入れ、『罪のない者』と宣言する」と言われます。
どんな人間であろうと、私たちはみな、キリストを信じきるという、この方法によって救われるのです。
そうです。 すべての人は罪を犯しました。 神の輝かしい標準にはほど遠い存在です。
けれども、もし私たちがキリスト・イエスを信じきるなら、神様は私たちを「罪のない者」と宣言してくださいます。
このキリスト・イエスが、恵みにより、無償で私たちの罪を帳消しにしてくださるからです。(ローマ3:21-24)
☆神様はキリスト・イエスを遣わして、私たちの罪のための刑罰を受けさせ、私たちへの怒りをとどめてくださいました。
神様は、私たちをご自分の怒りから救い出すための手段として、キリスト様の血と私たちの信仰とをお用いになりました。
ですから、それまでの時代に罪を犯した者たちを罰せられなかったとしても、神様は完全に公正であられたわけです。
キリスト様が来て人々の罪を取り除く時を、神様は待ち望んでおられたからです。
そして今日でも、神様はこの同じ方法で罪人を受け入れてくださいます。
イエス様が彼らの罪を帳消しにしてくださったからです。
しかし、このように、罪を犯した者を赦し、無罪を宣告するのは、神様の公正なやり方に反するのではないでしょうか。
いいえ、そんなことはありません。
なぜなら、彼らが自分の罪を帳消しにしてくださったイエス様を信じたという事実に基づいて、神様はそうなさるからです。(ローマ3:25-26)
兄弟たちよ。わたしが以前あなたがたに伝えた福音、あなたがたが受けいれ、それによって立ってきたあの福音を、
思い起してもらいたい。
もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。
わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、
わたしたちの罪のために死んだこと、 そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、
ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。 そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。
その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。 そののち、ヤコブに現れ、
次に、すべての使徒たちに現れ、 そして最後に、いわば、月足らずに生れたようなわたしにも、現れたのである。
実際わたしは、神の教会を迫害したのであるから、使徒たちの中でいちばん小さい者であって、
使徒と呼ばれる値うちのない者である。
しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。
そして、わたしに賜わった神の恵みはむだにならず、
むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。
しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである。 とにかく、わたしにせよ彼らにせよ、
そのように、わたしたちは宣べ伝えており、そのように、あなたがたは信じたのである。(コリント第一15:1-11)口語訳
そこでペテロは口を開いて言った、「神は人をかたよりみないかたで、 神を敬い義を行う者はどの国民でも受けいれて下さることが、
ほんとうによくわかってきました。
あなたがたは、神がすべての者の主なるイエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えて、
イスラエルの子らにお送り下さった御言をご存じでしょう。
それは、ヨハネがバプテスマを説いた後、ガリラヤから始まってユダヤ全土にひろまった福音を述べたものです。
神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。
このイエスは、神が共におられるので、よい働きをしながら、また悪魔に押えつけられている人々をことごとくいやしながら、
巡回されました。
わたしたちは、イエスがこうしてユダヤ人の地やエルサレムでなさったすべてのことの証人であります。
人々はこのイエスを木にかけて殺したのです。(使徒10:34-39)口語訳
しかし神はイエスを三日目によみがえらせ、 全部の人々にではなかったが、わたしたち証人としてあらかじめ選ばれた者たちに
現れるようにして下さいました。わたしたちは、イエスが死人の中から復活された後、共に飲食しました。
それから、イエスご自身が生者と死者との審判者として神に定められたかたであることを、人々に宣べ伝え、
またあかしするようにと、神はわたしたちにお命じになったのです。 預言者たちもみな、
イエスを信じる者はことごとく、その名によって罪のゆるしが受けられると、あかしをしています」。
ペテロがこれらの言葉をまだ語り終えないうちに、それを聞いていたみんなの人たちに、聖霊がくだった。(使徒10:40-44)口語訳
兄弟たちよ。わたしが以前あなたがたに伝えた福音、あなたがたが受けいれ、それによって立ってきたあの福音を、
思い起してもらいたい。
もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。
わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、
わたしたちの罪のために死んだこと、 そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、
ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。 そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。
その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。 そののち、ヤコブに現れ、
次に、すべての使徒たちに現れ、 そして最後に、いわば、月足らずに生れたようなわたしにも、現れたのである。
実際わたしは、神の教会を迫害したのであるから、使徒たちの中でいちばん小さい者であって、
使徒と呼ばれる値うちのない者である。
しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。
そして、わたしに賜わった神の恵みはむだにならず、
むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。
しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである。 とにかく、わたしにせよ彼らにせよ、
そのように、わたしたちは宣べ伝えており、そのように、あなたがたは信じたのである。(コリント第一15:1-11)口語訳
☆今や、神様は、天国へ行く別の道を示してくださいました。
その新しい道は、「善人になる」とか、神様のおきてを守ろうと努力するような道ではありません
〔とはいっても、この道については、ずっと前から旧約聖書で教えられていたのですから、
実際には新しい道とは言えませんが〕。
神様は今、「もし私たちが、イエス・キリストを信じきるなら、あなたがたを受け入れ、『罪のない者』と宣言する」と言われます。
どんな人間であろうと、私たちはみな、キリストを信じきるという、この方法によって救われるのです。
そうです。 すべての人は罪を犯しました。 神の輝かしい標準にはほど遠い存在です。
けれども、もし私たちがキリスト・イエスを信じきるなら、神様は私たちを「罪のない者」と宣言してくださいます。
このキリスト・イエスが、恵みにより、無償で私たちの罪を帳消しにしてくださるからです。(ローマ3:21-24)
☆神様はキリスト・イエスを遣わして、私たちの罪のための刑罰を受けさせ、私たちへの怒りをとどめてくださいました。
神様は、私たちをご自分の怒りから救い出すための手段として、キリスト様の血と私たちの信仰とをお用いになりました。
ですから、それまでの時代に罪を犯した者たちを罰せられなかったとしても、神様は完全に公正であられたわけです。
キリスト様が来て人々の罪を取り除く時を、神様は待ち望んでおられたからです。
そして今日でも、神様はこの同じ方法で罪人を受け入れてくださいます。
イエス様が彼らの罪を帳消しにしてくださったからです。
しかし、このように、罪を犯した者を赦し、無罪を宣告するのは、神様の公正なやり方に反するのではないでしょうか。
いいえ、そんなことはありません。
なぜなら、彼らが自分の罪を帳消しにしてくださったイエス様を信じたという事実に基づいて、神様はそうなさるからです。(ローマ3:25-26)
そこでペテロは口を開いて言った、「神は人をかたよりみないかたで、 神を敬い義を行う者はどの国民でも受けいれて下さることが、
ほんとうによくわかってきました。
あなたがたは、神がすべての者の主なるイエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えて、
イスラエルの子らにお送り下さった御言をご存じでしょう。
それは、ヨハネがバプテスマを説いた後、ガリラヤから始まってユダヤ全土にひろまった福音を述べたものです。
神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。
このイエスは、神が共におられるので、よい働きをしながら、また悪魔に押えつけられている人々をことごとくいやしながら、
巡回されました。
わたしたちは、イエスがこうしてユダヤ人の地やエルサレムでなさったすべてのことの証人であります。
人々はこのイエスを木にかけて殺したのです。(使徒10:34-39)口語訳
しかし神はイエスを三日目によみがえらせ、 全部の人々にではなかったが、わたしたち証人としてあらかじめ選ばれた者たちに
現れるようにして下さいました。わたしたちは、イエスが死人の中から復活された後、共に飲食しました。
それから、イエスご自身が生者と死者との審判者として神に定められたかたであることを、人々に宣べ伝え、
またあかしするようにと、神はわたしたちにお命じになったのです。 預言者たちもみな、
イエスを信じる者はことごとく、その名によって罪のゆるしが受けられると、あかしをしています」。
ペテロがこれらの言葉をまだ語り終えないうちに、それを聞いていたみんなの人たちに、聖霊がくだった。(使徒10:40-44)口語訳
兄弟たちよ。わたしが以前あなたがたに伝えた福音、あなたがたが受けいれ、それによって立ってきたあの福音を、
思い起してもらいたい。
もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。
わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、
わたしたちの罪のために死んだこと、 そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、
ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。 そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。
その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。 そののち、ヤコブに現れ、
次に、すべての使徒たちに現れ、 そして最後に、いわば、月足らずに生れたようなわたしにも、現れたのである。
実際わたしは、神の教会を迫害したのであるから、使徒たちの中でいちばん小さい者であって、
使徒と呼ばれる値うちのない者である。
しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。
そして、わたしに賜わった神の恵みはむだにならず、
むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。
しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである。 とにかく、わたしにせよ彼らにせよ、
そのように、わたしたちは宣べ伝えており、そのように、あなたがたは信じたのである。(コリント第一15:1-11)口語訳
☆今や、神様は、天国へ行く別の道を示してくださいました。
その新しい道は、「善人になる」とか、神様のおきてを守ろうと努力するような道ではありません
〔とはいっても、この道については、ずっと前から旧約聖書で教えられていたのですから、
実際には新しい道とは言えませんが〕。
神様は今、「もし私たちが、イエス・キリストを信じきるなら、あなたがたを受け入れ、『罪のない者』と宣言する」と言われます。
どんな人間であろうと、私たちはみな、キリストを信じきるという、この方法によって救われるのです。
そうです。 すべての人は罪を犯しました。 神の輝かしい標準にはほど遠い存在です。
けれども、もし私たちがキリスト・イエスを信じきるなら、神様は私たちを「罪のない者」と宣言してくださいます。
このキリスト・イエスが、恵みにより、無償で私たちの罪を帳消しにしてくださるからです。(ローマ3:21-24)
☆神様はキリスト・イエスを遣わして、私たちの罪のための刑罰を受けさせ、私たちへの怒りをとどめてくださいました。
神様は、私たちをご自分の怒りから救い出すための手段として、キリスト様の血と私たちの信仰とをお用いになりました。
ですから、それまでの時代に罪を犯した者たちを罰せられなかったとしても、神様は完全に公正であられたわけです。
キリスト様が来て人々の罪を取り除く時を、神様は待ち望んでおられたからです。
そして今日でも、神様はこの同じ方法で罪人を受け入れてくださいます。
イエス様が彼らの罪を帳消しにしてくださったからです。
しかし、このように、罪を犯した者を赦し、無罪を宣告するのは、神様の公正なやり方に反するのではないでしょうか。
いいえ、そんなことはありません。
なぜなら、彼らが自分の罪を帳消しにしてくださったイエス様を信じたという事実に基づいて、神様はそうなさるからです。(ローマ3:25-26)
そこでペテロは口を開いて言った、「神は人をかたよりみないかたで、 神を敬い義を行う者はどの国民でも受けいれて下さることが、
ほんとうによくわかってきました。
あなたがたは、神がすべての者の主なるイエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えて、
イスラエルの子らにお送り下さった御言をご存じでしょう。
それは、ヨハネがバプテスマを説いた後、ガリラヤから始まってユダヤ全土にひろまった福音を述べたものです。
神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。
このイエスは、神が共におられるので、よい働きをしながら、また悪魔に押えつけられている人々をことごとくいやしながら、
巡回されました。
わたしたちは、イエスがこうしてユダヤ人の地やエルサレムでなさったすべてのことの証人であります。
人々はこのイエスを木にかけて殺したのです。(使徒10:34-39)口語訳
しかし神はイエスを三日目によみがえらせ、 全部の人々にではなかったが、わたしたち証人としてあらかじめ選ばれた者たちに
現れるようにして下さいました。わたしたちは、イエスが死人の中から復活された後、共に飲食しました。
それから、イエスご自身が生者と死者との審判者として神に定められたかたであることを、人々に宣べ伝え、
またあかしするようにと、神はわたしたちにお命じになったのです。 預言者たちもみな、
イエスを信じる者はことごとく、その名によって罪のゆるしが受けられると、あかしをしています」。
ペテロがこれらの言葉をまだ語り終えないうちに、それを聞いていたみんなの人たちに、聖霊がくだった。(使徒10:40-44)口語訳
兄弟たちよ。わたしが以前あなたがたに伝えた福音、あなたがたが受けいれ、それによって立ってきたあの福音を、
思い起してもらいたい。
もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。
わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、
わたしたちの罪のために死んだこと、 そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、
ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。 そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。
その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。 そののち、ヤコブに現れ、
次に、すべての使徒たちに現れ、 そして最後に、いわば、月足らずに生れたようなわたしにも、現れたのである。
実際わたしは、神の教会を迫害したのであるから、使徒たちの中でいちばん小さい者であって、
使徒と呼ばれる値うちのない者である。
しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。
そして、わたしに賜わった神の恵みはむだにならず、
むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。
しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである。 とにかく、わたしにせよ彼らにせよ、
そのように、わたしたちは宣べ伝えており、そのように、あなたがたは信じたのである。(コリント第一15:1-11)口語訳
☆今や、神様は、天国へ行く別の道を示してくださいました。
その新しい道は、「善人になる」とか、神様のおきてを守ろうと努力するような道ではありません
〔とはいっても、この道については、ずっと前から旧約聖書で教えられていたのですから、
実際には新しい道とは言えませんが〕。
神様は今、「もし私たちが、イエス・キリストを信じきるなら、あなたがたを受け入れ、『罪のない者』と宣言する」と言われます。
どんな人間であろうと、私たちはみな、キリストを信じきるという、この方法によって救われるのです。
そうです。 すべての人は罪を犯しました。 神の輝かしい標準にはほど遠い存在です。
けれども、もし私たちがキリスト・イエスを信じきるなら、神様は私たちを「罪のない者」と宣言してくださいます。
このキリスト・イエスが、恵みにより、無償で私たちの罪を帳消しにしてくださるからです。(ローマ3:21-24)
☆神様はキリスト・イエスを遣わして、私たちの罪のための刑罰を受けさせ、私たちへの怒りをとどめてくださいました。
神様は、私たちをご自分の怒りから救い出すための手段として、キリスト様の血と私たちの信仰とをお用いになりました。
ですから、それまでの時代に罪を犯した者たちを罰せられなかったとしても、神様は完全に公正であられたわけです。
キリスト様が来て人々の罪を取り除く時を、神様は待ち望んでおられたからです。
そして今日でも、神様はこの同じ方法で罪人を受け入れてくださいます。
イエス様が彼らの罪を帳消しにしてくださったからです。
しかし、このように、罪を犯した者を赦し、無罪を宣告するのは、神様の公正なやり方に反するのではないでしょうか。
いいえ、そんなことはありません。
なぜなら、彼らが自分の罪を帳消しにしてくださったイエス様を信じたという事実に基づいて、神様はそうなさるからです。(ローマ3:25-26)
バイブルより
☆そこでペテロは口を開いて言った、「神は人をかたよりみないかたで、 神を敬い義を行う者はどの国民でも受けいれて下さることが、
ほんとうによくわかってきました。
あなたがたは、神がすべての者の主なるイエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えて、
イスラエルの子らにお送り下さった御言をご存じでしょう。
それは、ヨハネがバプテスマを説いた後、ガリラヤから始まってユダヤ全土にひろまった福音を述べたものです。
神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。
このイエスは、神が共におられるので、よい働きをしながら、また悪魔に押えつけられている人々をことごとくいやしながら、
巡回されました。
わたしたちは、イエスがこうしてユダヤ人の地やエルサレムでなさったすべてのことの証人であります。
人々はこのイエスを木にかけて殺したのです。(使徒10:34-39)口語訳
しかし神はイエスを三日目によみがえらせ、 全部の人々にではなかったが、わたしたち証人としてあらかじめ選ばれた者たちに
現れるようにして下さいました。わたしたちは、イエスが死人の中から復活された後、共に飲食しました。
それから、イエスご自身が生者と死者との審判者として神に定められたかたであることを、人々に宣べ伝え、
またあかしするようにと、神はわたしたちにお命じになったのです。 預言者たちもみな、
イエスを信じる者はことごとく、その名によって罪のゆるしが受けられると、あかしをしています」。
ペテロがこれらの言葉をまだ語り終えないうちに、それを聞いていたみんなの人たちに、聖霊がくだった。(使徒10:40-44)口語訳
☆今や、神様は、天国へ行く別の道を示してくださいました。
その新しい道は、「善人になる」とか、神様のおきてを守ろうと努力するような道ではありません
〔とはいっても、この道については、ずっと前から旧約聖書で教えられていたのですから、
実際には新しい道とは言えませんが〕。
神様は今、「もし私たちが、イエス・キリストを信じきるなら、あなたがたを受け入れ、『罪のない者』と宣言する」と言われます。
どんな人間であろうと、私たちはみな、キリストを信じきるという、この方法によって救われるのです。
そうです。 すべての人は罪を犯しました。 神の輝かしい標準にはほど遠い存在です。
けれども、もし私たちがキリスト・イエスを信じきるなら、神様は私たちを「罪のない者」と宣言してくださいます。
このキリスト・イエスが、恵みにより、無償で私たちの罪を帳消しにしてくださるからです。(ローマ3:21-24)
☆神様はキリスト・イエスを遣わして、私たちの罪のための刑罰を受けさせ、私たちへの怒りをとどめてくださいました。
神様は、私たちをご自分の怒りから救い出すための手段として、キリスト様の血と私たちの信仰とをお用いになりました。
ですから、それまでの時代に罪を犯した者たちを罰せられなかったとしても、神様は完全に公正であられたわけです。
キリスト様が来て人々の罪を取り除く時を、神様は待ち望んでおられたからです。
そして今日でも、神様はこの同じ方法で罪人を受け入れてくださいます。
イエス様が彼らの罪を帳消しにしてくださったからです。
しかし、このように、罪を犯した者を赦し、無罪を宣告するのは、神様の公正なやり方に反するのではないでしょうか。
いいえ、そんなことはありません。
なぜなら、彼らが自分の罪を帳消しにしてくださったイエス様を信じたという事実に基づいて、神様はそうなさるからです。(ローマ3:25-26)
日本時間9時から北京オリンピックの開会式だそうです。
みんな見ましょうね。
4年に一度のセレモニーです。
☆今や、神様は、天国へ行く別の道を示してくださいました。
その新しい道は、「善人になる」とか、神様のおきてを守ろうと努力するような道ではありません
〔とはいっても、この道については、ずっと前から旧約聖書で教えられていたのですから、
実際には新しい道とは言えませんが〕。
神様は今、「もし私たちが、イエス・キリストを信じきるなら、あなたがたを受け入れ、『罪のない者』と宣言する」と言われます。
どんな人間であろうと、私たちはみな、キリストを信じきるという、この方法によって救われるのです。
そうです。 すべての人は罪を犯しました。 神の輝かしい標準にはほど遠い存在です。
けれども、もし私たちがキリスト・イエスを信じきるなら、神様は私たちを「罪のない者」と宣言してくださいます。
このキリスト・イエスが、恵みにより、無償で私たちの罪を帳消しにしてくださるからです。(ローマ3:21-24)
☆神様はキリスト・イエスを遣わして、私たちの罪のための刑罰を受けさせ、私たちへの怒りをとどめてくださいました。
神様は、私たちをご自分の怒りから救い出すための手段として、キリスト様の血と私たちの信仰とをお用いになりました。
ですから、それまでの時代に罪を犯した者たちを罰せられなかったとしても、神様は完全に公正であられたわけです。
キリスト様が来て人々の罪を取り除く時を、神様は待ち望んでおられたからです。
そして今日でも、神様はこの同じ方法で罪人を受け入れてくださいます。
イエス様が彼らの罪を帳消しにしてくださったからです。
しかし、このように、罪を犯した者を赦し、無罪を宣告するのは、神様の公正なやり方に反するのではないでしょうか。
いいえ、そんなことはありません。
なぜなら、彼らが自分の罪を帳消しにしてくださったイエス様を信じたという事実に基づいて、神様はそうなさるからです。(ローマ3:25-26)
☆そこでペテロは口を開いて言った、「神は人をかたよりみないかたで、 神を敬い義を行う者はどの国民でも受けいれて下さることが、
ほんとうによくわかってきました。
あなたがたは、神がすべての者の主なるイエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えて、
イスラエルの子らにお送り下さった御言をご存じでしょう。
それは、ヨハネがバプテスマを説いた後、ガリラヤから始まってユダヤ全土にひろまった福音を述べたものです。
神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。
このイエスは、神が共におられるので、よい働きをしながら、また悪魔に押えつけられている人々をことごとくいやしながら、
巡回されました。
わたしたちは、イエスがこうしてユダヤ人の地やエルサレムでなさったすべてのことの証人であります。
人々はこのイエスを木にかけて殺したのです。(使徒10:34-39)口語訳
しかし神はイエスを三日目によみがえらせ、 全部の人々にではなかったが、わたしたち証人としてあらかじめ選ばれた者たちに
現れるようにして下さいました。わたしたちは、イエスが死人の中から復活された後、共に飲食しました。
それから、イエスご自身が生者と死者との審判者として神に定められたかたであることを、人々に宣べ伝え、
またあかしするようにと、神はわたしたちにお命じになったのです。 預言者たちもみな、
イエスを信じる者はことごとく、その名によって罪のゆるしが受けられると、あかしをしています」。
ペテロがこれらの言葉をまだ語り終えないうちに、それを聞いていたみんなの人たちに、聖霊がくだった。(使徒10:40-44)口語訳
☆彼(イエスキリスト)は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。(イザヤ53:5)
☆キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。
なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」 と書いてあるからです。(ガラテヤ3:13)
☆主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。 (ローマ4:25)
イエスキリストの十字架
☆そして十字架において、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。
わたしたちが罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。
そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。(第一ペトロ2:24)
☆罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。(ローマ書8:3)
☆彼(イエスキリスト)は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。(イザヤ53:5)
☆キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。
なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」 と書いてあるからです。(ガラテヤ3:13)
☆主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。 (ローマ4:25)
☆彼(イエスキリスト)は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。(イザヤ53:5)
☆キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。
なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」 と書いてあるからです。(ガラテヤ3:13)
☆主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。 (ローマ4:25)
☆そこでペテロは口を開いて言った、「神は人をかたよりみないかたで、 神を敬い義を行う者はどの国民でも受けいれて下さることが、
ほんとうによくわかってきました。
あなたがたは、神がすべての者の主なるイエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えて、
イスラエルの子らにお送り下さった御言をご存じでしょう。
それは、ヨハネがバプテスマを説いた後、ガリラヤから始まってユダヤ全土にひろまった福音を述べたものです。
神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。
このイエスは、神が共におられるので、よい働きをしながら、また悪魔に押えつけられている人々をことごとくいやしながら、
巡回されました。
わたしたちは、イエスがこうしてユダヤ人の地やエルサレムでなさったすべてのことの証人であります。
人々はこのイエスを木にかけて殺したのです。(使徒10:34-39)口語訳
しかし神はイエスを三日目によみがえらせ、 全部の人々にではなかったが、わたしたち証人としてあらかじめ選ばれた者たちに
現れるようにして下さいました。わたしたちは、イエスが死人の中から復活された後、共に飲食しました。
それから、イエスご自身が生者と死者との審判者として神に定められたかたであることを、人々に宣べ伝え、
またあかしするようにと、神はわたしたちにお命じになったのです。 預言者たちもみな、
イエスを信じる者はことごとく、その名によって罪のゆるしが受けられると、あかしをしています」。
ペテロがこれらの言葉をまだ語り終えないうちに、それを聞いていたみんなの人たちに、聖霊がくだった。(使徒10:40-44)口語訳
☆彼(イエスキリスト)は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。(イザヤ53:5)
☆キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。
なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」 と書いてあるからです。(ガラテヤ3:13)
☆主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。 (ローマ4:25)
☆彼(イエスキリスト)は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。(イザヤ53:5)
☆キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。
なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」 と書いてあるからです。(ガラテヤ3:13)
☆主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。 (ローマ4:25)
☆そこでペテロは口を開いて言った、「神は人をかたよりみないかたで、 神を敬い義を行う者はどの国民でも受けいれて下さることが、
ほんとうによくわかってきました。
あなたがたは、神がすべての者の主なるイエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えて、
イスラエルの子らにお送り下さった御言をご存じでしょう。
それは、ヨハネがバプテスマを説いた後、ガリラヤから始まってユダヤ全土にひろまった福音を述べたものです。
神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。
このイエスは、神が共におられるので、よい働きをしながら、また悪魔に押えつけられている人々をことごとくいやしながら、
巡回されました。
わたしたちは、イエスがこうしてユダヤ人の地やエルサレムでなさったすべてのことの証人であります。
人々はこのイエスを木にかけて殺したのです。(使徒10:34-39)口語訳
しかし神はイエスを三日目によみがえらせ、 全部の人々にではなかったが、わたしたち証人としてあらかじめ選ばれた者たちに
現れるようにして下さいました。わたしたちは、イエスが死人の中から復活された後、共に飲食しました。
それから、イエスご自身が生者と死者との審判者として神に定められたかたであることを、人々に宣べ伝え、
またあかしするようにと、神はわたしたちにお命じになったのです。 預言者たちもみな、
イエスを信じる者はことごとく、その名によって罪のゆるしが受けられると、あかしをしています」。
ペテロがこれらの言葉をまだ語り終えないうちに、それを聞いていたみんなの人たちに、聖霊がくだった。(使徒10:40-44)口語訳
☆彼(イエスキリスト)は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。(イザヤ53:5)
☆キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。
なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」 と書いてあるからです。(ガラテヤ3:13)
☆主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。 (ローマ4:25)
827 :
神も仏も名無しさん:2008/08/10(日) 23:48:08 ID:NawEKzvV
☆彼(イエスキリスト)は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。(イザヤ53:5)
☆キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。
なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」 と書いてあるからです。(ガラテヤ3:13)
☆主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。 (ローマ4:25)
☆彼(イエスキリスト)は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。(イザヤ53:5)
☆キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。
なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」 と書いてあるからです。(ガラテヤ3:13)
☆主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。 (ローマ4:25)
☆彼(イエスキリスト)は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。(イザヤ53:5)
☆キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。
なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」 と書いてあるからです。(ガラテヤ3:13)
☆主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。 (ローマ4:25)
☆彼(イエスキリスト)は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。(イザヤ53:5)
☆キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。
なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」 と書いてあるからです。(ガラテヤ3:13)
☆主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。 (ローマ4:25)
☆そこでペテロは口を開いて言った、「神は人をかたよりみないかたで、 神を敬い義を行う者はどの国民でも受けいれて下さることが、
ほんとうによくわかってきました。
あなたがたは、神がすべての者の主なるイエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えて、
イスラエルの子らにお送り下さった御言をご存じでしょう。
それは、ヨハネがバプテスマを説いた後、ガリラヤから始まってユダヤ全土にひろまった福音を述べたものです。
神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。
このイエスは、神が共におられるので、よい働きをしながら、また悪魔に押えつけられている人々をことごとくいやしながら、
巡回されました。
わたしたちは、イエスがこうしてユダヤ人の地やエルサレムでなさったすべてのことの証人であります。
人々はこのイエスを木にかけて殺したのです。(使徒10:34-39)口語訳
しかし神はイエスを三日目によみがえらせ、 全部の人々にではなかったが、わたしたち証人としてあらかじめ選ばれた者たちに
現れるようにして下さいました。わたしたちは、イエスが死人の中から復活された後、共に飲食しました。
それから、イエスご自身が生者と死者との審判者として神に定められたかたであることを、人々に宣べ伝え、
またあかしするようにと、神はわたしたちにお命じになったのです。 預言者たちもみな、
イエスを信じる者はことごとく、その名によって罪のゆるしが受けられると、あかしをしています」。
ペテロがこれらの言葉をまだ語り終えないうちに、それを聞いていたみんなの人たちに、聖霊がくだった。(使徒10:40-44)口語訳
☆彼(イエスキリスト)は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。(イザヤ53:5)
☆キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。
なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」 と書いてあるからです。(ガラテヤ3:13)
☆主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。 (ローマ4:25)
イエスキリストの十字架
☆そして十字架において、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。
わたしたちが罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。
そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。(第一ペトロ2:24)
☆罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。(ローマ書8:3)
☆今や、神様は、天国へ行く別の道を示してくださいました。
その新しい道は、「善人になる」とか、神様のおきてを守ろうと努力するような道ではありません
〔とはいっても、この道については、ずっと前から旧約聖書で教えられていたのですから、
実際には新しい道とは言えませんが〕。
神様は今、「もし私たちが、イエス・キリストを信じきるなら、あなたがたを受け入れ、『罪のない者』と宣言する」と言われます。
どんな人間であろうと、私たちはみな、キリストを信じきるという、この方法によって救われるのです。
そうです。 すべての人は罪を犯しました。 神の輝かしい標準にはほど遠い存在です。
けれども、もし私たちがキリスト・イエスを信じきるなら、神様は私たちを「罪のない者」と宣言してくださいます。
このキリスト・イエスが、恵みにより、無償で私たちの罪を帳消しにしてくださるからです。(ローマ3:21-24)
☆神様はキリスト・イエスを遣わして、私たちの罪のための刑罰を受けさせ、私たちへの怒りをとどめてくださいました。
神様は、私たちをご自分の怒りから救い出すための手段として、キリスト様の血と私たちの信仰とをお用いになりました。
ですから、それまでの時代に罪を犯した者たちを罰せられなかったとしても、神様は完全に公正であられたわけです。
キリスト様が来て人々の罪を取り除く時を、神様は待ち望んでおられたからです。
そして今日でも、神様はこの同じ方法で罪人を受け入れてくださいます。
イエス様が彼らの罪を帳消しにしてくださったからです。
しかし、このように、罪を犯した者を赦し、無罪を宣告するのは、神様の公正なやり方に反するのではないでしょうか。
いいえ、そんなことはありません。
なぜなら、彼らが自分の罪を帳消しにしてくださったイエス様を信じたという事実に基づいて、神様はそうなさるからです。(ローマ3:25-26)
イエスキリストの十字架
☆そして十字架において、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。
わたしたちが罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。
そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。(第一ペトロ2:24)
☆罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。(ローマ書8:3)
☆今や、神様は、天国へ行く別の道を示してくださいました。
その新しい道は、「善人になる」とか、神様のおきてを守ろうと努力するような道ではありません
〔とはいっても、この道については、ずっと前から旧約聖書で教えられていたのですから、
実際には新しい道とは言えませんが〕。
神様は今、「もし私たちが、イエス・キリストを信じきるなら、あなたがたを受け入れ、『罪のない者』と宣言する」と言われます。
どんな人間であろうと、私たちはみな、キリストを信じきるという、この方法によって救われるのです。
そうです。 すべての人は罪を犯しました。 神の輝かしい標準にはほど遠い存在です。
けれども、もし私たちがキリスト・イエスを信じきるなら、神様は私たちを「罪のない者」と宣言してくださいます。
このキリスト・イエスが、恵みにより、無償で私たちの罪を帳消しにしてくださるからです。(ローマ3:21-24)
☆神様はキリスト・イエスを遣わして、私たちの罪のための刑罰を受けさせ、私たちへの怒りをとどめてくださいました。
神様は、私たちをご自分の怒りから救い出すための手段として、キリスト様の血と私たちの信仰とをお用いになりました。
ですから、それまでの時代に罪を犯した者たちを罰せられなかったとしても、神様は完全に公正であられたわけです。
キリスト様が来て人々の罪を取り除く時を、神様は待ち望んでおられたからです。
そして今日でも、神様はこの同じ方法で罪人を受け入れてくださいます。
イエス様が彼らの罪を帳消しにしてくださったからです。
しかし、このように、罪を犯した者を赦し、無罪を宣告するのは、神様の公正なやり方に反するのではないでしょうか。
いいえ、そんなことはありません。
なぜなら、彼らが自分の罪を帳消しにしてくださったイエス様を信じたという事実に基づいて、神様はそうなさるからです。(ローマ3:25-26)
イエスキリストの十字架
☆そして十字架において、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。
わたしたちが罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。
そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。(第一ペトロ2:24)
☆罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。(ローマ書8:3)
☆今や、神様は、天国へ行く別の道を示してくださいました。
その新しい道は、「善人になる」とか、神様のおきてを守ろうと努力するような道ではありません
〔とはいっても、この道については、ずっと前から旧約聖書で教えられていたのですから、
実際には新しい道とは言えませんが〕。
神様は今、「もし私たちが、イエス・キリストを信じきるなら、あなたがたを受け入れ、『罪のない者』と宣言する」と言われます。
どんな人間であろうと、私たちはみな、キリストを信じきるという、この方法によって救われるのです。
そうです。 すべての人は罪を犯しました。 神の輝かしい標準にはほど遠い存在です。
けれども、もし私たちがキリスト・イエスを信じきるなら、神様は私たちを「罪のない者」と宣言してくださいます。
このキリスト・イエスが、恵みにより、無償で私たちの罪を帳消しにしてくださるからです。(ローマ3:21-24)
☆神様はキリスト・イエスを遣わして、私たちの罪のための刑罰を受けさせ、私たちへの怒りをとどめてくださいました。
神様は、私たちをご自分の怒りから救い出すための手段として、キリスト様の血と私たちの信仰とをお用いになりました。
ですから、それまでの時代に罪を犯した者たちを罰せられなかったとしても、神様は完全に公正であられたわけです。
キリスト様が来て人々の罪を取り除く時を、神様は待ち望んでおられたからです。
そして今日でも、神様はこの同じ方法で罪人を受け入れてくださいます。
イエス様が彼らの罪を帳消しにしてくださったからです。
しかし、このように、罪を犯した者を赦し、無罪を宣告するのは、神様の公正なやり方に反するのではないでしょうか。
いいえ、そんなことはありません。
なぜなら、彼らが自分の罪を帳消しにしてくださったイエス様を信じたという事実に基づいて、神様はそうなさるからです。(ローマ3:25-26)
☆そこでペテロは口を開いて言った、「神は人をかたよりみないかたで、 神を敬い義を行う者はどの国民でも受けいれて下さることが、
ほんとうによくわかってきました。
あなたがたは、神がすべての者の主なるイエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えて、
イスラエルの子らにお送り下さった御言をご存じでしょう。
それは、ヨハネがバプテスマを説いた後、ガリラヤから始まってユダヤ全土にひろまった福音を述べたものです。
神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。
このイエスは、神が共におられるので、よい働きをしながら、また悪魔に押えつけられている人々をことごとくいやしながら、
巡回されました。
わたしたちは、イエスがこうしてユダヤ人の地やエルサレムでなさったすべてのことの証人であります。
人々はこのイエスを木にかけて殺したのです。(使徒10:34-39)口語訳
しかし神はイエスを三日目によみがえらせ、 全部の人々にではなかったが、わたしたち証人としてあらかじめ選ばれた者たちに
現れるようにして下さいました。わたしたちは、イエスが死人の中から復活された後、共に飲食しました。
それから、イエスご自身が生者と死者との審判者として神に定められたかたであることを、人々に宣べ伝え、
またあかしするようにと、神はわたしたちにお命じになったのです。 預言者たちもみな、
イエスを信じる者はことごとく、その名によって罪のゆるしが受けられると、あかしをしています」。
ペテロがこれらの言葉をまだ語り終えないうちに、それを聞いていたみんなの人たちに、聖霊がくだった。(使徒10:40-44)口語訳
イエスキリストの十字架
☆そして十字架において、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。
わたしたちが罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。
そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。(第一ペトロ2:24)
☆罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。(ローマ書8:3)
イエスキリストの十字架
☆そして十字架において、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。
わたしたちが罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。
そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。(第一ペトロ2:24)
☆罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。(ローマ書8:3)
イエスキリストの十字架
☆そして十字架において、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。
わたしたちが罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。
そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。(第一ペトロ2:24)
☆罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。(ローマ書8:3)
イエスキリストの十字架
☆そして十字架において、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。
わたしたちが罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。
そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。(第一ペトロ2:24)
☆罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。(ローマ書8:3)
☆実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。
正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかも知れません。
しかし、わたしたちがまだ罪人であった時、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を
お示しになりました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですからキリストによって神の怒りから救われるのは、
なおさらのことです。敵であった時でさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、
御子の命によって救われるのはなおさらです。
それだけでなく、わたしたちの主イエスキリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。
今やこのキリストを通して和解させていただいた からです。(ローマ5ー6〜11)
☆神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3ー16)
☆口でイエスは主(しゅ)であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から 復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。
実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるからです。(ローマ 10:9-10)
☆今や、神様は、天国へ行く別の道を示してくださいました。
その新しい道は、「善人になる」とか、神様のおきてを守ろうと努力するような道ではありません
〔とはいっても、この道については、ずっと前から旧約聖書で教えられていたのですから、
実際には新しい道とは言えませんが〕。
神様は今、「もし私たちが、イエス・キリストを信じきるなら、あなたがたを受け入れ、『罪のない者』と宣言する」と言われます。
どんな人間であろうと、私たちはみな、キリストを信じきるという、この方法によって救われるのです。
そうです。 すべての人は罪を犯しました。 神の輝かしい標準にはほど遠い存在です。
けれども、もし私たちがキリスト・イエスを信じきるなら、神様は私たちを「罪のない者」と宣言してくださいます。
このキリスト・イエスが、恵みにより、無償で私たちの罪を帳消しにしてくださるからです。(ローマ3:21-24)
☆神様はキリスト・イエスを遣わして、私たちの罪のための刑罰を受けさせ、私たちへの怒りをとどめてくださいました。
神様は、私たちをご自分の怒りから救い出すための手段として、キリスト様の血と私たちの信仰とをお用いになりました。
ですから、それまでの時代に罪を犯した者たちを罰せられなかったとしても、神様は完全に公正であられたわけです。
キリスト様が来て人々の罪を取り除く時を、神様は待ち望んでおられたからです。
そして今日でも、神様はこの同じ方法で罪人を受け入れてくださいます。
イエス様が彼らの罪を帳消しにしてくださったからです。
しかし、このように、罪を犯した者を赦し、無罪を宣告するのは、神様の公正なやり方に反するのではないでしょうか。
いいえ、そんなことはありません。
なぜなら、彼らが自分の罪を帳消しにしてくださったイエス様を信じたという事実に基づいて、神様はそうなさるからです。(ローマ3:25-26)
☆今や、神様は、天国へ行く別の道を示してくださいました。
その新しい道は、「善人になる」とか、神様のおきてを守ろうと努力するような道ではありません
〔とはいっても、この道については、ずっと前から旧約聖書で教えられていたのですから、
実際には新しい道とは言えませんが〕。
神様は今、「もし私たちが、イエス・キリストを信じきるなら、あなたがたを受け入れ、『罪のない者』と宣言する」と言われます。
どんな人間であろうと、私たちはみな、キリストを信じきるという、この方法によって救われるのです。
そうです。 すべての人は罪を犯しました。 神の輝かしい標準にはほど遠い存在です。
けれども、もし私たちがキリスト・イエスを信じきるなら、神様は私たちを「罪のない者」と宣言してくださいます。
このキリスト・イエスが、恵みにより、無償で私たちの罪を帳消しにしてくださるからです。(ローマ3:21-24)
☆神様はキリスト・イエスを遣わして、私たちの罪のための刑罰を受けさせ、私たちへの怒りをとどめてくださいました。
神様は、私たちをご自分の怒りから救い出すための手段として、キリスト様の血と私たちの信仰とをお用いになりました。
ですから、それまでの時代に罪を犯した者たちを罰せられなかったとしても、神様は完全に公正であられたわけです。
キリスト様が来て人々の罪を取り除く時を、神様は待ち望んでおられたからです。
そして今日でも、神様はこの同じ方法で罪人を受け入れてくださいます。
イエス様が彼らの罪を帳消しにしてくださったからです。
しかし、このように、罪を犯した者を赦し、無罪を宣告するのは、神様の公正なやり方に反するのではないでしょうか。
いいえ、そんなことはありません。
なぜなら、彼らが自分の罪を帳消しにしてくださったイエス様を信じたという事実に基づいて、神様はそうなさるからです。(ローマ3:25-26)
イエスキリストの十字架
☆そして十字架において、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。
わたしたちが罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。
そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。(第一ペトロ2:24)
☆罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。(ローマ書8:3)
☆実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。
正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかも知れません。
しかし、わたしたちがまだ罪人であった時、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を
お示しになりました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですからキリストによって神の怒りから救われるのは、
なおさらのことです。敵であった時でさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、
御子の命によって救われるのはなおさらです。
それだけでなく、わたしたちの主イエスキリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。
今やこのキリストを通して和解させていただいた からです。(ローマ5ー6〜11)
☆神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3ー16)
☆口でイエスは主(しゅ)であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から 復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。
実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるからです。(ローマ 10:9-10)
イエスキリストの十字架
☆そして十字架において、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。
わたしたちが罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。
そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。(第一ペトロ2:24)
☆罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。(ローマ書8:3)
☆今や、神様は、天国へ行く別の道を示してくださいました。
その新しい道は、「善人になる」とか、神様のおきてを守ろうと努力するような道ではありません
〔とはいっても、この道については、ずっと前から旧約聖書で教えられていたのですから、
実際には新しい道とは言えませんが〕。
神様は今、「もし私たちが、イエス・キリストを信じきるなら、あなたがたを受け入れ、『罪のない者』と宣言する」と言われます。
どんな人間であろうと、私たちはみな、キリストを信じきるという、この方法によって救われるのです。
そうです。 すべての人は罪を犯しました。 神の輝かしい標準にはほど遠い存在です。
けれども、もし私たちがキリスト・イエスを信じきるなら、神様は私たちを「罪のない者」と宣言してくださいます。
このキリスト・イエスが、恵みにより、無償で私たちの罪を帳消しにしてくださるからです。(ローマ3:21-24)
☆神様はキリスト・イエスを遣わして、私たちの罪のための刑罰を受けさせ、私たちへの怒りをとどめてくださいました。
神様は、私たちをご自分の怒りから救い出すための手段として、キリスト様の血と私たちの信仰とをお用いになりました。
ですから、それまでの時代に罪を犯した者たちを罰せられなかったとしても、神様は完全に公正であられたわけです。
キリスト様が来て人々の罪を取り除く時を、神様は待ち望んでおられたからです。
そして今日でも、神様はこの同じ方法で罪人を受け入れてくださいます。
イエス様が彼らの罪を帳消しにしてくださったからです。
しかし、このように、罪を犯した者を赦し、無罪を宣告するのは、神様の公正なやり方に反するのではないでしょうか。
いいえ、そんなことはありません。
なぜなら、彼らが自分の罪を帳消しにしてくださったイエス様を信じたという事実に基づいて、神様はそうなさるからです。(ローマ3:25-26)
イエスキリストの十字架
☆そして十字架において、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。
わたしたちが罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。
そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。(第一ペトロ2:24)
☆罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。(ローマ書8:3)
イエスキリストの十字架
☆そして十字架において、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。
わたしたちが罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。
そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。(第一ペトロ2:24)
☆罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。(ローマ書8:3)
そこでペテロは口を開いて言った、「神は人をかたよりみないかたで、 神を敬い義を行う者はどの国民でも受けいれて下さることが、
ほんとうによくわかってきました。
あなたがたは、神がすべての者の主なるイエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えて、
イスラエルの子らにお送り下さった御言をご存じでしょう。
それは、ヨハネがバプテスマを説いた後、ガリラヤから始まってユダヤ全土にひろまった福音を述べたものです。
神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。
このイエスは、神が共におられるので、よい働きをしながら、また悪魔に押えつけられている人々をことごとくいやしながら、
巡回されました。
わたしたちは、イエスがこうしてユダヤ人の地やエルサレムでなさったすべてのことの証人であります。
人々はこのイエスを木にかけて殺したのです。(使徒10:34-39)口語訳
しかし神はイエスを三日目によみがえらせ、 全部の人々にではなかったが、わたしたち証人としてあらかじめ選ばれた者たちに
現れるようにして下さいました。わたしたちは、イエスが死人の中から復活された後、共に飲食しました。
それから、イエスご自身が生者と死者との審判者として神に定められたかたであることを、人々に宣べ伝え、
またあかしするようにと、神はわたしたちにお命じになったのです。 預言者たちもみな、
イエスを信じる者はことごとく、その名によって罪のゆるしが受けられると、あかしをしています」。
ペテロがこれらの言葉をまだ語り終えないうちに、それを聞いていたみんなの人たちに、聖霊がくだった。(使徒10:40-44)口語訳
☆今や、神様は、天国へ行く別の道を示してくださいました。
その新しい道は、「善人になる」とか、神様のおきてを守ろうと努力するような道ではありません
〔とはいっても、この道については、ずっと前から旧約聖書で教えられていたのですから、
実際には新しい道とは言えませんが〕。
神様は今、「もし私たちが、イエス・キリストを信じきるなら、あなたがたを受け入れ、『罪のない者』と宣言する」と言われます。
どんな人間であろうと、私たちはみな、キリストを信じきるという、この方法によって救われるのです。
そうです。 すべての人は罪を犯しました。 神の輝かしい標準にはほど遠い存在です。
けれども、もし私たちがキリスト・イエスを信じきるなら、神様は私たちを「罪のない者」と宣言してくださいます。
このキリスト・イエスが、恵みにより、無償で私たちの罪を帳消しにしてくださるからです。(ローマ3:21-24)
☆神様はキリスト・イエスを遣わして、私たちの罪のための刑罰を受けさせ、私たちへの怒りをとどめてくださいました。
神様は、私たちをご自分の怒りから救い出すための手段として、キリスト様の血と私たちの信仰とをお用いになりました。
ですから、それまでの時代に罪を犯した者たちを罰せられなかったとしても、神様は完全に公正であられたわけです。
キリスト様が来て人々の罪を取り除く時を、神様は待ち望んでおられたからです。
そして今日でも、神様はこの同じ方法で罪人を受け入れてくださいます。
イエス様が彼らの罪を帳消しにしてくださったからです。
しかし、このように、罪を犯した者を赦し、無罪を宣告するのは、神様の公正なやり方に反するのではないでしょうか。
いいえ、そんなことはありません。
なぜなら、彼らが自分の罪を帳消しにしてくださったイエス様を信じたという事実に基づいて、神様はそうなさるからです。(ローマ3:25-26)
そこでペテロは口を開いて言った、「神は人をかたよりみないかたで、 神を敬い義を行う者はどの国民でも受けいれて下さることが、
ほんとうによくわかってきました。
あなたがたは、神がすべての者の主なるイエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えて、
イスラエルの子らにお送り下さった御言をご存じでしょう。
それは、ヨハネがバプテスマを説いた後、ガリラヤから始まってユダヤ全土にひろまった福音を述べたものです。
神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。
このイエスは、神が共におられるので、よい働きをしながら、また悪魔に押えつけられている人々をことごとくいやしながら、
巡回されました。
わたしたちは、イエスがこうしてユダヤ人の地やエルサレムでなさったすべてのことの証人であります。
人々はこのイエスを木にかけて殺したのです。(使徒10:34-39)口語訳
しかし神はイエスを三日目によみがえらせ、 全部の人々にではなかったが、わたしたち証人としてあらかじめ選ばれた者たちに
現れるようにして下さいました。わたしたちは、イエスが死人の中から復活された後、共に飲食しました。
それから、イエスご自身が生者と死者との審判者として神に定められたかたであることを、人々に宣べ伝え、
またあかしするようにと、神はわたしたちにお命じになったのです。 預言者たちもみな、
イエスを信じる者はことごとく、その名によって罪のゆるしが受けられると、あかしをしています」。
ペテロがこれらの言葉をまだ語り終えないうちに、それを聞いていたみんなの人たちに、聖霊がくだった。(使徒10:40-44)口語訳
・・・これだけコピペしても飽き足らないとは、いやはや(^_^;)
イエスキリストの十字架(^_^;)
☆そして十字架において、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。
わたしたちが罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。
そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。(第一ペトロ2:24)
☆罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。(ローマ書8:3)
859 :
神も仏も名無しさん:2008/08/16(土) 16:50:38 ID:CX4ErSVn
まあ、既存のキリスト教徒の問題点は、罪が何であるか?
また、人間がどの様な精神へ導かれるか?
について不鮮明な表現な表現しかしてこなかった事だ。
最近、意味が見えてきたけどな。
860 :
ελπισ @栄冠は君に輝く ◆tO7gyLbcP. :2008/08/16(土) 16:59:59 ID:6rRBGvab
861 :
神も仏も名無しさん:2008/08/16(土) 17:06:03 ID:CX4ErSVn
でもリンゴのコピエは仏教の写経と同じぐらい精神安定するかもな。
問題は日常生活とどう関連できるかだ。
でもキリスト教徒の多くは日常の自己の精神との関連を見ないのが多い、
ご利益か、儀式で終わるか、信じるで満足するかで終わるか。
イエスキリストの十字架
☆そして十字架において、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。
わたしたちが罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。
そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。(第一ペトロ2:24)
☆罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。(ローマ書8:3)
863 :
神も仏も名無しさん:2008/08/16(土) 17:23:08 ID:CX4ErSVn
罪だ、許しと言っても、日常生活上の自己の精神の関連を見出せなければ、
インキョ論的キリスト教に過ぎないな。
イエスキリストの十字架
☆そして十字架において、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。
わたしたちが罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。
そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。(第一ペトロ2:24)
☆罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。(ローマ書8:3)
イエスキリストの十字架
☆そして十字架において、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。
わたしたちが罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。
そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。(第一ペトロ2:24)
☆罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。(ローマ書8:3)
そこでペテロは口を開いて言った、「神は人をかたよりみないかたで、 神を敬い義を行う者はどの国民でも受けいれて下さることが、
ほんとうによくわかってきました。
あなたがたは、神がすべての者の主なるイエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えて、
イスラエルの子らにお送り下さった御言をご存じでしょう。
それは、ヨハネがバプテスマを説いた後、ガリラヤから始まってユダヤ全土にひろまった福音を述べたものです。
神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。
このイエスは、神が共におられるので、よい働きをしながら、また悪魔に押えつけられている人々をことごとくいやしながら、
巡回されました。
わたしたちは、イエスがこうしてユダヤ人の地やエルサレムでなさったすべてのことの証人であります。
人々はこのイエスを木にかけて殺したのです。(使徒10:34-39)口語訳
しかし神はイエスを三日目によみがえらせ、 全部の人々にではなかったが、わたしたち証人としてあらかじめ選ばれた者たちに
現れるようにして下さいました。わたしたちは、イエスが死人の中から復活された後、共に飲食しました。
それから、イエスご自身が生者と死者との審判者として神に定められたかたであることを、人々に宣べ伝え、
またあかしするようにと、神はわたしたちにお命じになったのです。 預言者たちもみな、
イエスを信じる者はことごとく、その名によって罪のゆるしが受けられると、あかしをしています」。
ペテロがこれらの言葉をまだ語り終えないうちに、それを聞いていたみんなの人たちに、聖霊がくだった。(使徒10:40-44)口語訳
イエスキリストの十字架
☆そして十字架において、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。
わたしたちが罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。
そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。(第一ペトロ2:24)
☆罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。(ローマ書8:3)
☆今や、神様は、天国へ行く別の道を示してくださいました。
その新しい道は、「善人になる」とか、神様のおきてを守ろうと努力するような道ではありません
〔とはいっても、この道については、ずっと前から旧約聖書で教えられていたのですから、
実際には新しい道とは言えませんが〕。
神様は今、「もし私たちが、イエス・キリストを信じきるなら、あなたがたを受け入れ、『罪のない者』と宣言する」と言われます。
どんな人間であろうと、私たちはみな、キリストを信じきるという、この方法によって救われるのです。
そうです。 すべての人は罪を犯しました。 神の輝かしい標準にはほど遠い存在です。
けれども、もし私たちがキリスト・イエスを信じきるなら、神様は私たちを「罪のない者」と宣言してくださいます。
このキリスト・イエスが、恵みにより、無償で私たちの罪を帳消しにしてくださるからです。(ローマ3:21-24)
☆神様はキリスト・イエスを遣わして、私たちの罪のための刑罰を受けさせ、私たちへの怒りをとどめてくださいました。
神様は、私たちをご自分の怒りから救い出すための手段として、キリスト様の血と私たちの信仰とをお用いになりました。
ですから、それまでの時代に罪を犯した者たちを罰せられなかったとしても、神様は完全に公正であられたわけです。
キリスト様が来て人々の罪を取り除く時を、神様は待ち望んでおられたからです。
そして今日でも、神様はこの同じ方法で罪人を受け入れてくださいます。
イエス様が彼らの罪を帳消しにしてくださったからです。
しかし、このように、罪を犯した者を赦し、無罪を宣告するのは、神様の公正なやり方に反するのではないでしょうか。
いいえ、そんなことはありません。
なぜなら、彼らが自分の罪を帳消しにしてくださったイエス様を信じたという事実に基づいて、神様はそうなさるからです。(ローマ3:25-26)
イエスキリストの十字架
☆そして十字架において、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。
わたしたちが罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。
そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。(第一ペトロ2:24)
☆罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。(ローマ書8:3)
そこでペテロは口を開いて言った、「神は人をかたよりみないかたで、 神を敬い義を行う者はどの国民でも受けいれて下さることが、
ほんとうによくわかってきました。
あなたがたは、神がすべての者の主なるイエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えて、
イスラエルの子らにお送り下さった御言をご存じでしょう。
それは、ヨハネがバプテスマを説いた後、ガリラヤから始まってユダヤ全土にひろまった福音を述べたものです。
神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。
このイエスは、神が共におられるので、よい働きをしながら、また悪魔に押えつけられている人々をことごとくいやしながら、
巡回されました。
わたしたちは、イエスがこうしてユダヤ人の地やエルサレムでなさったすべてのことの証人であります。
人々はこのイエスを木にかけて殺したのです。(使徒10:34-39)口語訳
しかし神はイエスを三日目によみがえらせ、 全部の人々にではなかったが、わたしたち証人としてあらかじめ選ばれた者たちに
現れるようにして下さいました。わたしたちは、イエスが死人の中から復活された後、共に飲食しました。
それから、イエスご自身が生者と死者との審判者として神に定められたかたであることを、人々に宣べ伝え、
またあかしするようにと、神はわたしたちにお命じになったのです。 預言者たちもみな、
イエスを信じる者はことごとく、その名によって罪のゆるしが受けられると、あかしをしています」。
ペテロがこれらの言葉をまだ語り終えないうちに、それを聞いていたみんなの人たちに、聖霊がくだった。(使徒10:40-44)口語訳
以前、非常に価値があると思っていたこれらのものを、今ではことごとく捨ててしまいました。
それは、ただキリスト様だけに信頼し、キリスト様だけに望みをかけるためです。
そうです。 主であるキリスト・イエスを知っているという、途方もなくすばらしい特権と比べれば、
ほかのものはみな、色あせて見えるのです。
私は、キリスト様以外のものは、がらくた同然にみなし、全部捨ててしまいました。
それは、キリスト様を自分のものとするためであり、 また、もはや、良い人間になろうとか、
おきてに従って救われようとか考えるのはやめて、ただキリスト様を信じることによって救われ、
キリスト様と結ばれるためです。 神様が、私たちを正しい者と認めてくださるのは、
信仰――ただキリスト様だけに頼ること――を持っているかどうかで、決まるからです。
私は今、ほかのことはいっさい考えず、ただこのことだけを求めています。
つまり、真にキリスト様を知ること、キリスト様を復活させた超自然的な力を、
身をもって体験すること、そして、キリスト様と共に苦しみ、
また死ぬとは、どういうことかを知ることです。 死人の中から復活した者特有の、
生き生きとした新しいいのちに生きる者となるためには、どんな犠牲もいといません。(ローマ書)
がう〜
そこでペテロは口を開いて言った、「神は人をかたよりみないかたで、 神を敬い義を行う者はどの国民でも受けいれて下さることが、
ほんとうによくわかってきました。
あなたがたは、神がすべての者の主なるイエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えて、
イスラエルの子らにお送り下さった御言をご存じでしょう。
それは、ヨハネがバプテスマを説いた後、ガリラヤから始まってユダヤ全土にひろまった福音を述べたものです。
神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。
このイエスは、神が共におられるので、よい働きをしながら、また悪魔に押えつけられている人々をことごとくいやしながら、
巡回されました。
わたしたちは、イエスがこうしてユダヤ人の地やエルサレムでなさったすべてのことの証人であります。
人々はこのイエスを木にかけて殺したのです。(使徒10:34-39)口語訳
しかし神はイエスを三日目によみがえらせ、 全部の人々にではなかったが、わたしたち証人としてあらかじめ選ばれた者たちに
現れるようにして下さいました。わたしたちは、イエスが死人の中から復活された後、共に飲食しました。
それから、イエスご自身が生者と死者との審判者として神に定められたかたであることを、人々に宣べ伝え、
またあかしするようにと、神はわたしたちにお命じになったのです。 預言者たちもみな、
イエスを信じる者はことごとく、その名によって罪のゆるしが受けられると、あかしをしています」。
ペテロがこれらの言葉をまだ語り終えないうちに、それを聞いていたみんなの人たちに、聖霊がくだった。(使徒10:40-44)口語訳
以前、非常に価値があると思っていたこれらのものを、今ではことごとく捨ててしまいました。
それは、ただキリスト様だけに信頼し、キリスト様だけに望みをかけるためです。
そうです。 主であるキリスト・イエスを知っているという、途方もなくすばらしい特権と比べれば、
ほかのものはみな、色あせて見えるのです。
私は、キリスト様以外のものは、がらくた同然にみなし、全部捨ててしまいました。
それは、キリスト様を自分のものとするためであり、 また、もはや、良い人間になろうとか、
おきてに従って救われようとか考えるのはやめて、ただキリスト様を信じることによって救われ、
キリスト様と結ばれるためです。 神様が、私たちを正しい者と認めてくださるのは、
信仰――ただキリスト様だけに頼ること――を持っているかどうかで、決まるからです。
私は今、ほかのことはいっさい考えず、ただこのことだけを求めています。
つまり、真にキリスト様を知ること、キリスト様を復活させた超自然的な力を、
身をもって体験すること、そして、キリスト様と共に苦しみ、
また死ぬとは、どういうことかを知ることです。 死人の中から復活した者特有の、
生き生きとした新しいいのちに生きる者となるためには、どんな犠牲もいといません。(ローマ書)
以前、非常に価値があると思っていたこれらのものを、今ではことごとく捨ててしまいました。
それは、ただキリスト様だけに信頼し、キリスト様だけに望みをかけるためです。
そうです。 主であるキリスト・イエスを知っているという、途方もなくすばらしい特権と比べれば、
ほかのものはみな、色あせて見えるのです。
私は、キリスト様以外のものは、がらくた同然にみなし、全部捨ててしまいました。
それは、キリスト様を自分のものとするためであり、 また、もはや、良い人間になろうとか、
おきてに従って救われようとか考えるのはやめて、ただキリスト様を信じることによって救われ、
キリスト様と結ばれるためです。 神様が、私たちを正しい者と認めてくださるのは、
信仰――ただキリスト様だけに頼ること――を持っているかどうかで、決まるからです。
私は今、ほかのことはいっさい考えず、ただこのことだけを求めています。
つまり、真にキリスト様を知ること、キリスト様を復活させた超自然的な力を、
身をもって体験すること、そして、キリスト様と共に苦しみ、
また死ぬとは、どういうことかを知ることです。 死人の中から復活した者特有の、
生き生きとした新しいいのちに生きる者となるためには、どんな犠牲もいといません。(ローマ書)
以前、非常に価値があると思っていたこれらのものを、今ではことごとく捨ててしまいました。
それは、ただキリスト様だけに信頼し、キリスト様だけに望みをかけるためです。
そうです。 主であるキリスト・イエスを知っているという、途方もなくすばらしい特権と比べれば、
ほかのものはみな、色あせて見えるのです。
私は、キリスト様以外のものは、がらくた同然にみなし、全部捨ててしまいました。
それは、キリスト様を自分のものとするためであり、 また、もはや、良い人間になろうとか、
おきてに従って救われようとか考えるのはやめて、ただキリスト様を信じることによって救われ、
キリスト様と結ばれるためです。 神様が、私たちを正しい者と認めてくださるのは、
信仰――ただキリスト様だけに頼ること――を持っているかどうかで、決まるからです。
私は今、ほかのことはいっさい考えず、ただこのことだけを求めています。
つまり、真にキリスト様を知ること、キリスト様を復活させた超自然的な力を、
身をもって体験すること、そして、キリスト様と共に苦しみ、
また死ぬとは、どういうことかを知ることです。 死人の中から復活した者特有の、
生き生きとした新しいいのちに生きる者となるためには、どんな犠牲もいといません。(ローマ書)
877 :
神も仏も名無しさん:2008/08/17(日) 22:55:09 ID:fYdaUqag
りんごダメダメ、
日常の生活に具体的に繋がらないと、インキョ論的キリスト教だよ。
そこでペテロは口を開いて言った、「神は人をかたよりみないかたで、 神を敬い義を行う者はどの国民でも受けいれて下さることが、
ほんとうによくわかってきました。
あなたがたは、神がすべての者の主なるイエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えて、
イスラエルの子らにお送り下さった御言をご存じでしょう。
それは、ヨハネがバプテスマを説いた後、ガリラヤから始まってユダヤ全土にひろまった福音を述べたものです。
神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。
このイエスは、神が共におられるので、よい働きをしながら、また悪魔に押えつけられている人々をことごとくいやしながら、
巡回されました。
わたしたちは、イエスがこうしてユダヤ人の地やエルサレムでなさったすべてのことの証人であります。
人々はこのイエスを木にかけて殺したのです。(使徒10:34-39)口語訳
しかし神はイエスを三日目によみがえらせ、 全部の人々にではなかったが、わたしたち証人としてあらかじめ選ばれた者たちに
現れるようにして下さいました。わたしたちは、イエスが死人の中から復活された後、共に飲食しました。
それから、イエスご自身が生者と死者との審判者として神に定められたかたであることを、人々に宣べ伝え、
またあかしするようにと、神はわたしたちにお命じになったのです。 預言者たちもみな、
イエスを信じる者はことごとく、その名によって罪のゆるしが受けられると、あかしをしています」。
ペテロがこれらの言葉をまだ語り終えないうちに、それを聞いていたみんなの人たちに、聖霊がくだった。(使徒10:40-44)口語訳
以前、非常に価値があると思っていたこれらのものを、今ではことごとく捨ててしまいました。
それは、ただキリスト様だけに信頼し、キリスト様だけに望みをかけるためです。
そうです。 主であるキリスト・イエスを知っているという、途方もなくすばらしい特権と比べれば、
ほかのものはみな、色あせて見えるのです。
私は、キリスト様以外のものは、がらくた同然にみなし、全部捨ててしまいました。
それは、キリスト様を自分のものとするためであり、 また、もはや、良い人間になろうとか、
おきてに従って救われようとか考えるのはやめて、ただキリスト様を信じることによって救われ、
キリスト様と結ばれるためです。 神様が、私たちを正しい者と認めてくださるのは、
信仰――ただキリスト様だけに頼ること――を持っているかどうかで、決まるからです。
私は今、ほかのことはいっさい考えず、ただこのことだけを求めています。
つまり、真にキリスト様を知ること、キリスト様を復活させた超自然的な力を、
身をもって体験すること、そして、キリスト様と共に苦しみ、
また死ぬとは、どういうことかを知ることです。 死人の中から復活した者特有の、
生き生きとした新しいいのちに生きる者となるためには、どんな犠牲もいといません。(ローマ書)
以前、非常に価値があると思っていたこれらのものを、今ではことごとく捨ててしまいました。
それは、ただキリスト様だけに信頼し、キリスト様だけに望みをかけるためです。
そうです。 主であるキリスト・イエスを知っているという、途方もなくすばらしい特権と比べれば、
ほかのものはみな、色あせて見えるのです。
私は、キリスト様以外のものは、がらくた同然にみなし、全部捨ててしまいました。
それは、キリスト様を自分のものとするためであり、 また、もはや、良い人間になろうとか、
おきてに従って救われようとか考えるのはやめて、ただキリスト様を信じることによって救われ、
キリスト様と結ばれるためです。 神様が、私たちを正しい者と認めてくださるのは、
信仰――ただキリスト様だけに頼ること――を持っているかどうかで、決まるからです。
私は今、ほかのことはいっさい考えず、ただこのことだけを求めています。
つまり、真にキリスト様を知ること、キリスト様を復活させた超自然的な力を、
身をもって体験すること、そして、キリスト様と共に苦しみ、
また死ぬとは、どういうことかを知ることです。 死人の中から復活した者特有の、
生き生きとした新しいいのちに生きる者となるためには、どんな犠牲もいといません。(ローマ書)
そこでペテロは口を開いて言った、「神は人をかたよりみないかたで、 神を敬い義を行う者はどの国民でも受けいれて下さることが、
ほんとうによくわかってきました。
あなたがたは、神がすべての者の主なるイエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えて、
イスラエルの子らにお送り下さった御言をご存じでしょう。
それは、ヨハネがバプテスマを説いた後、ガリラヤから始まってユダヤ全土にひろまった福音を述べたものです。
神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。
このイエスは、神が共におられるので、よい働きをしながら、また悪魔に押えつけられている人々をことごとくいやしながら、
巡回されました。
わたしたちは、イエスがこうしてユダヤ人の地やエルサレムでなさったすべてのことの証人であります。
人々はこのイエスを木にかけて殺したのです。(使徒10:34-39)口語訳
しかし神はイエスを三日目によみがえらせ、 全部の人々にではなかったが、わたしたち証人としてあらかじめ選ばれた者たちに
現れるようにして下さいました。わたしたちは、イエスが死人の中から復活された後、共に飲食しました。
それから、イエスご自身が生者と死者との審判者として神に定められたかたであることを、人々に宣べ伝え、
またあかしするようにと、神はわたしたちにお命じになったのです。 預言者たちもみな、
イエスを信じる者はことごとく、その名によって罪のゆるしが受けられると、あかしをしています」。
ペテロがこれらの言葉をまだ語り終えないうちに、それを聞いていたみんなの人たちに、聖霊がくだった。(使徒10:40-44)口語訳
以前、非常に価値があると思っていたこれらのものを、今ではことごとく捨ててしまいました。
それは、ただキリスト様だけに信頼し、キリスト様だけに望みをかけるためです。
そうです。 主であるキリスト・イエスを知っているという、途方もなくすばらしい特権と比べれば、
ほかのものはみな、色あせて見えるのです。
私は、キリスト様以外のものは、がらくた同然にみなし、全部捨ててしまいました。
それは、キリスト様を自分のものとするためであり、 また、もはや、良い人間になろうとか、
おきてに従って救われようとか考えるのはやめて、ただキリスト様を信じることによって救われ、
キリスト様と結ばれるためです。 神様が、私たちを正しい者と認めてくださるのは、
信仰――ただキリスト様だけに頼ること――を持っているかどうかで、決まるからです。
私は今、ほかのことはいっさい考えず、ただこのことだけを求めています。
つまり、真にキリスト様を知ること、キリスト様を復活させた超自然的な力を、
身をもって体験すること、そして、キリスト様と共に苦しみ、
また死ぬとは、どういうことかを知ることです。 死人の中から復活した者特有の、
生き生きとした新しいいのちに生きる者となるためには、どんな犠牲もいといません。(ローマ書)
以前、非常に価値があると思っていたこれらのものを、今ではことごとく捨ててしまいました。
それは、ただキリスト様だけに信頼し、キリスト様だけに望みをかけるためです。
そうです。 主であるキリスト・イエスを知っているという、途方もなくすばらしい特権と比べれば、
ほかのものはみな、色あせて見えるのです。
私は、キリスト様以外のものは、がらくた同然にみなし、全部捨ててしまいました。
それは、キリスト様を自分のものとするためであり、 また、もはや、良い人間になろうとか、
おきてに従って救われようとか考えるのはやめて、ただキリスト様を信じることによって救われ、
キリスト様と結ばれるためです。 神様が、私たちを正しい者と認めてくださるのは、
信仰――ただキリスト様だけに頼ること――を持っているかどうかで、決まるからです。
私は今、ほかのことはいっさい考えず、ただこのことだけを求めています。
つまり、真にキリスト様を知ること、キリスト様を復活させた超自然的な力を、
身をもって体験すること、そして、キリスト様と共に苦しみ、
また死ぬとは、どういうことかを知ることです。 死人の中から復活した者特有の、
生き生きとした新しいいのちに生きる者となるためには、どんな犠牲もいといません。(ローマ書)
何故日本に原子爆弾が投下されたかよく考えてみてください!
兄弟たちよ。わたしが以前あなたがたに伝えた福音、あなたがたが受けいれ、それによって立ってきたあの福音を、
思い起してもらいたい。
もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。
わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、
わたしたちの罪のために死んだこと、 そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、
ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。 そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。
その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。 そののち、ヤコブに現れ、
次に、すべての使徒たちに現れ、 そして最後に、いわば、月足らずに生れたようなわたしにも、現れたのである。
実際わたしは、神の教会を迫害したのであるから、使徒たちの中でいちばん小さい者であって、
使徒と呼ばれる値うちのない者である。
しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。
そして、わたしに賜わった神の恵みはむだにならず、
むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。
しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである。 とにかく、わたしにせよ彼らにせよ、
そのように、わたしたちは宣べ伝えており、そのように、あなたがたは信じたのである。(コリント第一15:1-11)口語訳
以前、非常に価値があると思っていたこれらのものを、今ではことごとく捨ててしまいました。
それは、ただキリスト様だけに信頼し、キリスト様だけに望みをかけるためです。
そうです。 主であるキリスト・イエスを知っているという、途方もなくすばらしい特権と比べれば、
ほかのものはみな、色あせて見えるのです。
私は、キリスト様以外のものは、がらくた同然にみなし、全部捨ててしまいました。
それは、キリスト様を自分のものとするためであり、 また、もはや、良い人間になろうとか、
おきてに従って救われようとか考えるのはやめて、ただキリスト様を信じることによって救われ、
キリスト様と結ばれるためです。 神様が、私たちを正しい者と認めてくださるのは、
信仰――ただキリスト様だけに頼ること――を持っているかどうかで、決まるからです。
私は今、ほかのことはいっさい考えず、ただこのことだけを求めています。
つまり、真にキリスト様を知ること、キリスト様を復活させた超自然的な力を、
身をもって体験すること、そして、キリスト様と共に苦しみ、
また死ぬとは、どういうことかを知ることです。 死人の中から復活した者特有の、
生き生きとした新しいいのちに生きる者となるためには、どんな犠牲もいといません。(ローマ書)
モーセは、「もし人が、非の打ちどころなく善良であり、一生涯、誘惑にも負けず、ただの一度も罪を犯さずにいられるなら、
その時はじめて救われる」と書いています。
しかし、信仰を通して与えられる救いは、こう教えてくれます。 「あなたは、キリスト様を見つけようと天を捜し回る必要も、
助けていただこうと引き降ろす必要もない。」
また、「キリスト様をもう一度復活させようと、死人の中を歩き回る必要もない。」
というのは、キリスト様を信じることによって与えられる救い〔私たちが宣べ伝えているのは、まさしくこの救いです〕は、
すでに、私たちのすぐ手の届く所にあるからです。 実際それは、自分の心や口のように、すぐ近くにあるのです。
なぜなら、もし自分の口で「イエス・キリストは私の主です」と告白し、
自分の心で、神様はイエス・キリストを死人の中から復活させてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
人は、心で信じることによって、神様から正しい者とされ、その信仰を自分の口で告白することによって、
救いを確実なものとするからです。
聖書は私たちに、「キリスト様を信じる者は、決して失望させられることがない」と教えています。
この点では、ユダヤ人もそれ以外の外国人も同じです。 同じ主がユダヤ人にとっても外国人にとっても主であり、求める者にはだれにでも、
ご自分の宝を惜しみなく与えてくださるのです。主の御名を呼び求める者は、だれでも救われるのです。(ローマ10-5:13)
モーセは、「もし人が、非の打ちどころなく善良であり、一生涯、誘惑にも負けず、ただの一度も罪を犯さずにいられるなら、
その時はじめて救われる」と書いています。
しかし、信仰を通して与えられる救いは、こう教えてくれます。 「あなたは、キリスト様を見つけようと天を捜し回る必要も、
助けていただこうと引き降ろす必要もない。」
また、「キリスト様をもう一度復活させようと、死人の中を歩き回る必要もない。」
というのは、キリスト様を信じることによって与えられる救い〔私たちが宣べ伝えているのは、まさしくこの救いです〕は、
すでに、私たちのすぐ手の届く所にあるからです。 実際それは、自分の心や口のように、すぐ近くにあるのです。
なぜなら、もし自分の口で「イエス・キリストは私の主です」と告白し、
自分の心で、神様はイエス・キリストを死人の中から復活させてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
人は、心で信じることによって、神様から正しい者とされ、その信仰を自分の口で告白することによって、
救いを確実なものとするからです。
聖書は私たちに、「キリスト様を信じる者は、決して失望させられることがない」と教えています。
この点では、ユダヤ人もそれ以外の外国人も同じです。 同じ主がユダヤ人にとっても外国人にとっても主であり、求める者にはだれにでも、
ご自分の宝を惜しみなく与えてくださるのです。主の御名を呼び求める者は、だれでも救われるのです。(ローマ10-5:13)
モーセは、「もし人が、非の打ちどころなく善良であり、一生涯、誘惑にも負けず、ただの一度も罪を犯さずにいられるなら、
その時はじめて救われる」と書いています。
しかし、信仰を通して与えられる救いは、こう教えてくれます。 「あなたは、キリスト様を見つけようと天を捜し回る必要も、
助けていただこうと引き降ろす必要もない。」
また、「キリスト様をもう一度復活させようと、死人の中を歩き回る必要もない。」
というのは、キリスト様を信じることによって与えられる救い〔私たちが宣べ伝えているのは、まさしくこの救いです〕は、
すでに、私たちのすぐ手の届く所にあるからです。 実際それは、自分の心や口のように、すぐ近くにあるのです。
なぜなら、もし自分の口で「イエス・キリストは私の主です」と告白し、
自分の心で、神様はイエス・キリストを死人の中から復活させてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
人は、心で信じることによって、神様から正しい者とされ、その信仰を自分の口で告白することによって、
救いを確実なものとするからです。
聖書は私たちに、「キリスト様を信じる者は、決して失望させられることがない」と教えています。
この点では、ユダヤ人もそれ以外の外国人も同じです。 同じ主がユダヤ人にとっても外国人にとっても主であり、求める者にはだれにでも、
ご自分の宝を惜しみなく与えてくださるのです。主の御名を呼び求める者は、だれでも救われるのです。(ローマ10-5:13)
モーセは、「もし人が、非の打ちどころなく善良であり、一生涯、誘惑にも負けず、ただの一度も罪を犯さずにいられるなら、
その時はじめて救われる」と書いています。
しかし、信仰を通して与えられる救いは、こう教えてくれます。 「あなたは、キリスト様を見つけようと天を捜し回る必要も、
助けていただこうと引き降ろす必要もない。」
また、「キリスト様をもう一度復活させようと、死人の中を歩き回る必要もない。」
というのは、キリスト様を信じることによって与えられる救い〔私たちが宣べ伝えているのは、まさしくこの救いです〕は、
すでに、私たちのすぐ手の届く所にあるからです。 実際それは、自分の心や口のように、すぐ近くにあるのです。
なぜなら、もし自分の口で「イエス・キリストは私の主です」と告白し、
自分の心で、神様はイエス・キリストを死人の中から復活させてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
人は、心で信じることによって、神様から正しい者とされ、その信仰を自分の口で告白することによって、
救いを確実なものとするからです。
聖書は私たちに、「キリスト様を信じる者は、決して失望させられることがない」と教えています。
この点では、ユダヤ人もそれ以外の外国人も同じです。 同じ主がユダヤ人にとっても外国人にとっても主であり、求める者にはだれにでも、
ご自分の宝を惜しみなく与えてくださるのです。主の御名を呼び求める者は、だれでも救われるのです。(ローマ10-5:13)
モーセは、「もし人が、非の打ちどころなく善良であり、一生涯、誘惑にも負けず、ただの一度も罪を犯さずにいられるなら、
その時はじめて救われる」と書いています。
しかし、信仰を通して与えられる救いは、こう教えてくれます。 「あなたは、キリスト様を見つけようと天を捜し回る必要も、
助けていただこうと引き降ろす必要もない。」
また、「キリスト様をもう一度復活させようと、死人の中を歩き回る必要もない。」
というのは、キリスト様を信じることによって与えられる救い〔私たちが宣べ伝えているのは、まさしくこの救いです〕は、
すでに、私たちのすぐ手の届く所にあるからです。 実際それは、自分の心や口のように、すぐ近くにあるのです。
なぜなら、もし自分の口で「イエス・キリストは私の主です」と告白し、
自分の心で、神様はイエス・キリストを死人の中から復活させてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
人は、心で信じることによって、神様から正しい者とされ、その信仰を自分の口で告白することによって、
救いを確実なものとするからです。
聖書は私たちに、「キリスト様を信じる者は、決して失望させられることがない」と教えています。
この点では、ユダヤ人もそれ以外の外国人も同じです。 同じ主がユダヤ人にとっても外国人にとっても主であり、求める者にはだれにでも、
ご自分の宝を惜しみなく与えてくださるのです。主の御名を呼び求める者は、だれでも救われるのです。(ローマ10-5:13)
兄弟たちよ。わたしが以前あなたがたに伝えた福音、あなたがたが受けいれ、それによって立ってきたあの福音を、
思い起してもらいたい。
もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。
わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、
わたしたちの罪のために死んだこと、 そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、
ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。 そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。
その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。 そののち、ヤコブに現れ、
次に、すべての使徒たちに現れ、 そして最後に、いわば、月足らずに生れたようなわたしにも、現れたのである。
実際わたしは、神の教会を迫害したのであるから、使徒たちの中でいちばん小さい者であって、
使徒と呼ばれる値うちのない者である。
しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。
そして、わたしに賜わった神の恵みはむだにならず、
むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。
しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである。 とにかく、わたしにせよ彼らにせよ、
そのように、わたしたちは宣べ伝えており、そのように、あなたがたは信じたのである。(コリント第一15:1-11)口語訳
893 :
石筆:2008/08/18(月) 23:43:34 ID:G8uqs802
林檎さんなりの信仰なのだと思います。
徹底的にやって、行き詰って、気がつくまで
やるのもいいと思います。
林檎さんが 自分からやり出した事だということを尊重。
モーセは、「もし人が、非の打ちどころなく善良であり、一生涯、誘惑にも負けず、ただの一度も罪を犯さずにいられるなら、
その時はじめて救われる」と書いています。
しかし、信仰を通して与えられる救いは、こう教えてくれます。 「あなたは、キリスト様を見つけようと天を捜し回る必要も、
助けていただこうと引き降ろす必要もない。」
また、「キリスト様をもう一度復活させようと、死人の中を歩き回る必要もない。」
というのは、キリスト様を信じることによって与えられる救い〔私たちが宣べ伝えているのは、まさしくこの救いです〕は、
すでに、私たちのすぐ手の届く所にあるからです。 実際それは、自分の心や口のように、すぐ近くにあるのです。
なぜなら、もし自分の口で「イエス・キリストは私の主です」と告白し、
自分の心で、神様はイエス・キリストを死人の中から復活させてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
人は、心で信じることによって、神様から正しい者とされ、その信仰を自分の口で告白することによって、
救いを確実なものとするからです。
聖書は私たちに、「キリスト様を信じる者は、決して失望させられることがない」と教えています。
この点では、ユダヤ人もそれ以外の外国人も同じです。 同じ主がユダヤ人にとっても外国人にとっても主であり、求める者にはだれにでも、
ご自分の宝を惜しみなく与えてくださるのです。主の御名を呼び求める者は、だれでも救われるのです。(ローマ10-5:13)
>>893 コピペで行き詰まる、ってどんなんだろうねー!アク禁とか??
モーセは、「もし人が、非の打ちどころなく善良であり、一生涯、誘惑にも負けず、ただの一度も罪を犯さずにいられるなら、
その時はじめて救われる」と書いています。
しかし、信仰を通して与えられる救いは、こう教えてくれます。 「あなたは、キリスト様を見つけようと天を捜し回る必要も、
助けていただこうと引き降ろす必要もない。」
また、「キリスト様をもう一度復活させようと、死人の中を歩き回る必要もない。」
というのは、キリスト様を信じることによって与えられる救い〔私たちが宣べ伝えているのは、まさしくこの救いです〕は、
すでに、私たちのすぐ手の届く所にあるからです。 実際それは、自分の心や口のように、すぐ近くにあるのです。
なぜなら、もし自分の口で「イエス・キリストは私の主です」と告白し、
自分の心で、神様はイエス・キリストを死人の中から復活させてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
人は、心で信じることによって、神様から正しい者とされ、その信仰を自分の口で告白することによって、
救いを確実なものとするからです。
聖書は私たちに、「キリスト様を信じる者は、決して失望させられることがない」と教えています。
この点では、ユダヤ人もそれ以外の外国人も同じです。 同じ主がユダヤ人にとっても外国人にとっても主であり、求める者にはだれにでも、
ご自分の宝を惜しみなく与えてくださるのです。主の御名を呼び求める者は、だれでも救われるのです。(ローマ10-5:13)
モーセは、「もし人が、非の打ちどころなく善良であり、一生涯、誘惑にも負けず、ただの一度も罪を犯さずにいられるなら、
その時はじめて救われる」と書いています。
しかし、信仰を通して与えられる救いは、こう教えてくれます。 「あなたは、キリスト様を見つけようと天を捜し回る必要も、
助けていただこうと引き降ろす必要もない。」
また、「キリスト様をもう一度復活させようと、死人の中を歩き回る必要もない。」
というのは、キリスト様を信じることによって与えられる救い〔私たちが宣べ伝えているのは、まさしくこの救いです〕は、
すでに、私たちのすぐ手の届く所にあるからです。 実際それは、自分の心や口のように、すぐ近くにあるのです。
なぜなら、もし自分の口で「イエス・キリストは私の主です」と告白し、
自分の心で、神様はイエス・キリストを死人の中から復活させてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
人は、心で信じることによって、神様から正しい者とされ、その信仰を自分の口で告白することによって、
救いを確実なものとするからです。
聖書は私たちに、「キリスト様を信じる者は、決して失望させられることがない」と教えています。
この点では、ユダヤ人もそれ以外の外国人も同じです。 同じ主がユダヤ人にとっても外国人にとっても主であり、求める者にはだれにでも、
ご自分の宝を惜しみなく与えてくださるのです。主の御名を呼び求める者は、だれでも救われるのです。(ローマ10-5:13)
モーセは、「もし人が、非の打ちどころなく善良であり、一生涯、誘惑にも負けず、ただの一度も罪を犯さずにいられるなら、
その時はじめて救われる」と書いています。
しかし、信仰を通して与えられる救いは、こう教えてくれます。 「あなたは、キリスト様を見つけようと天を捜し回る必要も、
助けていただこうと引き降ろす必要もない。」
また、「キリスト様をもう一度復活させようと、死人の中を歩き回る必要もない。」
というのは、キリスト様を信じることによって与えられる救い〔私たちが宣べ伝えているのは、まさしくこの救いです〕は、
すでに、私たちのすぐ手の届く所にあるからです。 実際それは、自分の心や口のように、すぐ近くにあるのです。
なぜなら、もし自分の口で「イエス・キリストは私の主です」と告白し、
自分の心で、神様はイエス・キリストを死人の中から復活させてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
人は、心で信じることによって、神様から正しい者とされ、その信仰を自分の口で告白することによって、
救いを確実なものとするからです。
聖書は私たちに、「キリスト様を信じる者は、決して失望させられることがない」と教えています。
この点では、ユダヤ人もそれ以外の外国人も同じです。 同じ主がユダヤ人にとっても外国人にとっても主であり、求める者にはだれにでも、
ご自分の宝を惜しみなく与えてくださるのです。主の御名を呼び求める者は、だれでも救われるのです。(ローマ10-5:13)
900 :
神も仏も名無しさん:2008/08/19(火) 18:24:14 ID:w8XSMiNY
信仰は社会性を喪失させるのか?
りんごの聖句内容で疑問を思う、
内容が如何にも、ルター、カルバン、ロヨラ当たりが信仰の目的とした物を喪失して、
そうか学会の信心宗教みたいだ、
インキョが喜ぶ理由が良く解る。
あなたへの良き知らせ。いますぐここを読む
>>898
902 :
神も仏も名無しさん:2008/08/19(火) 18:46:57 ID:w8XSMiNY
救われた、罪を許されたとやりながら、神の名を言いながら、信仰を言い表しながら、
対テロ戦争、マネーゲームを推進したブッシュ大統領、
りんごみたいなタイプやろな。
モーセは、「もし人が、非の打ちどころなく善良であり、一生涯、誘惑にも負けず、ただの一度も罪を犯さずにいられるなら、
その時はじめて救われる」と書いています。
しかし、信仰を通して与えられる救いは、こう教えてくれます。 「あなたは、キリスト様を見つけようと天を捜し回る必要も、
助けていただこうと引き降ろす必要もない。」
また、「キリスト様をもう一度復活させようと、死人の中を歩き回る必要もない。」
というのは、キリスト様を信じることによって与えられる救い〔私たちが宣べ伝えているのは、まさしくこの救いです〕は、
すでに、私たちのすぐ手の届く所にあるからです。 実際それは、自分の心や口のように、すぐ近くにあるのです。
なぜなら、もし自分の口で「イエス・キリストは私の主です」と告白し、
自分の心で、神様はイエス・キリストを死人の中から復活させてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
人は、心で信じることによって、神様から正しい者とされ、その信仰を自分の口で告白することによって、
救いを確実なものとするからです。
聖書は私たちに、「キリスト様を信じる者は、決して失望させられることがない」と教えています。
この点では、ユダヤ人もそれ以外の外国人も同じです。 同じ主がユダヤ人にとっても外国人にとっても主であり、求める者にはだれにでも、
ご自分の宝を惜しみなく与えてくださるのです。主の御名を呼び求める者は、だれでも救われるのです。(ローマ10-5:13)
あなたへの良き知らせ。いますぐここを読む
>>898
たった1通の手紙が永遠の運命を変えることもある。
手紙を読みたい方はいますぐここを読む
>>903
たった1通の手紙が、あなたの永遠の運命を変えることもある。
手紙を読みたい方はいますぐここを読む
>>903
たった1枚の手紙が、あなたの永遠の運命を変えることもある。
手紙を読みたい方はいますぐここを読む
>>903
たった1枚の手紙が、あなたの永遠の運命を変えることもある。
手紙を読みたい方はいますぐここを読む
>>903
そこでペテロは口を開いて言った、「神は人をかたよりみないかたで、 神を敬い義を行う者はどの国民でも受けいれて下さることが、
ほんとうによくわかってきました。
あなたがたは、神がすべての者の主なるイエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えて、
イスラエルの子らにお送り下さった御言をご存じでしょう。
それは、ヨハネがバプテスマを説いた後、ガリラヤから始まってユダヤ全土にひろまった福音を述べたものです。
神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。
このイエスは、神が共におられるので、よい働きをしながら、また悪魔に押えつけられている人々をことごとくいやしながら、
巡回されました。
わたしたちは、イエスがこうしてユダヤ人の地やエルサレムでなさったすべてのことの証人であります。
人々はこのイエスを木にかけて殺したのです。(使徒10:34-39)口語訳
しかし神はイエスを三日目によみがえらせ、 全部の人々にではなかったが、わたしたち証人としてあらかじめ選ばれた者たちに
現れるようにして下さいました。わたしたちは、イエスが死人の中から復活された後、共に飲食しました。
それから、イエスご自身が生者と死者との審判者として神に定められたかたであることを、人々に宣べ伝え、
またあかしするようにと、神はわたしたちにお命じになったのです。 預言者たちもみな、
イエスを信じる者はことごとく、その名によって罪のゆるしが受けられると、あかしをしています」。
ペテロがこれらの言葉をまだ語り終えないうちに、それを聞いていたみんなの人たちに、聖霊がくだった。(使徒10:40-44)口語訳
たった1枚の手紙が、あなたの永遠の運命を変えることもある。
手紙を読みたい方はいますぐここを読む
>>909
たった1枚の手紙が、あなたの永遠の運命を変えることもある。
手紙を読みたい方はいますぐここを読む
>>909
たった1枚の手紙が、あなたの永遠の運命を変えることもある。
手紙を読みたい方はいますぐここを読む
>>909
たった1枚の手紙が、あなたの永遠の運命を変えることもある。
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>>909
たった1枚の手紙が、あなたの永遠の運命を変えることもある。
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>>909
あなたへの良き知らせです。いますぐここを読む
>>888
モーセは、「もし人が、非の打ちどころなく善良であり、一生涯、誘惑にも負けず、ただの一度も罪を犯さずにいられるなら、
その時はじめて救われる」と書いています。
しかし、信仰を通して与えられる救いは、こう教えてくれます。 「あなたは、キリスト様を見つけようと天を捜し回る必要も、
助けていただこうと引き降ろす必要もない。」
また、「キリスト様をもう一度復活させようと、死人の中を歩き回る必要もない。」
というのは、キリスト様を信じることによって与えられる救い〔私たちが宣べ伝えているのは、まさしくこの救いです〕は、
すでに、私たちのすぐ手の届く所にあるからです。 実際それは、自分の心や口のように、すぐ近くにあるのです。
なぜなら、もし自分の口で「イエス・キリストは私の主です」と告白し、
自分の心で、神様はイエス・キリストを死人の中から復活させてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
人は、心で信じることによって、神様から正しい者とされ、その信仰を自分の口で告白することによって、
救いを確実なものとするからです。
聖書は私たちに、「キリスト様を信じる者は、決して失望させられることがない」と教えています。
この点では、ユダヤ人もそれ以外の外国人も同じです。 同じ主がユダヤ人にとっても外国人にとっても主であり、求める者にはだれにでも、
ご自分の宝を惜しみなく与えてくださるのです。主の御名を呼び求める者は、だれでも救われるのです。(ローマ10-5:13)
あなたへの良き知らせです。いますぐここを読む
>>888
918 :
神も仏も名無しさん:2008/08/21(木) 17:06:18 ID:32/Q+ZDz
_,,.. -─‐- .、._
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i ,ミ ゴルゴ ! | , \ ヽ
| ミシ / ,, ,, \ ! | ー ヽ ヽ 〕
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し ⌒ _| ⌒ヽ .| ./ /
ミ:::| ,,ノ o o)、 i .| ⊂⌒ /
| ヽ ;;ノ^,^──-彡彡 / , , /ヽ
/\\ヽ uヽ `ー── 彡 //ィ.,ソ .l
/ \ヽヽ u`~´U (;;(;;;;) /
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モーセは、「もし人が、非の打ちどころなく善良であり、一生涯、誘惑にも負けず、ただの一度も罪を犯さずにいられるなら、
その時はじめて救われる」と書いています。
しかし、信仰を通して与えられる救いは、こう教えてくれます。 「あなたは、キリスト様を見つけようと天を捜し回る必要も、
助けていただこうと引き降ろす必要もない。」
また、「キリスト様をもう一度復活させようと、死人の中を歩き回る必要もない。」
というのは、キリスト様を信じることによって与えられる救い〔私たちが宣べ伝えているのは、まさしくこの救いです〕は、
すでに、私たちのすぐ手の届く所にあるからです。 実際それは、自分の心や口のように、すぐ近くにあるのです。
なぜなら、もし自分の口で「イエス・キリストは私の主です」と告白し、
自分の心で、神様はイエス・キリストを死人の中から復活させてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
人は、心で信じることによって、神様から正しい者とされ、その信仰を自分の口で告白することによって、
救いを確実なものとするからです。
聖書は私たちに、「キリスト様を信じる者は、決して失望させられることがない」と教えています。
この点では、ユダヤ人もそれ以外の外国人も同じです。 同じ主がユダヤ人にとっても外国人にとっても主であり、求める者にはだれにでも、
ご自分の宝を惜しみなく与えてくださるのです。主の御名を呼び求める者は、だれでも救われるのです。(ローマ10-5:13)
あなたへの良き知らせです。いますぐここを読む
>>888
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>>888
あなたへの良き知らせです。いますぐここを読む
>>888
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>>888
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>>888
たった1枚の手紙が、あなたの永遠の運命を変えることもある。
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>>909
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>>888
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>>888
939 :
神も仏も名無しさん:2008/08/24(日) 17:23:40 ID:68e9G3oV
携帯からの長文手打ちはうれしいものですが、
いくら熱心でも熱心にコピってるだけじゃ情熱はすこしも感じられません
☆今や、神様は、天国へ行く別の道を示してくださいました。
その新しい道は、「善人になる」とか、神様のおきてを守ろうと努力するような道ではありません
〔とはいっても、この道については、ずっと前から旧約聖書で教えられていたのですから、
実際には新しい道とは言えませんが〕。
神様は今、「もし私たちが、イエス・キリストを信じきるなら、あなたがたを受け入れ、『罪のない者』と宣言する」と言われます。
どんな人間であろうと、私たちはみな、キリストを信じきるという、この方法によって救われるのです。
そうです。 すべての人は罪を犯しました。 神の輝かしい標準にはほど遠い存在です。
けれども、もし私たちがキリスト・イエスを信じきるなら、神様は私たちを「罪のない者」と宣言してくださいます。
このキリスト・イエスが、恵みにより、無償で私たちの罪を帳消しにしてくださるからです。(ローマ3:21-24)
☆神様はキリスト・イエスを遣わして、私たちの罪のための刑罰を受けさせ、私たちへの怒りをとどめてくださいました。
神様は、私たちをご自分の怒りから救い出すための手段として、キリスト様の血と私たちの信仰とをお用いになりました。
ですから、それまでの時代に罪を犯した者たちを罰せられなかったとしても、神様は完全に公正であられたわけです。
キリスト様が来て人々の罪を取り除く時を、神様は待ち望んでおられたからです。
そして今日でも、神様はこの同じ方法で罪人を受け入れてくださいます。
イエス様が彼らの罪を帳消しにしてくださったからです。
しかし、このように、罪を犯した者を赦し、無罪を宣告するのは、神様の公正なやり方に反するのではないでしょうか。
いいえ、そんなことはありません。
なぜなら、彼らが自分の罪を帳消しにしてくださったイエス様を信じたという事実に基づいて、神様はそうなさるからです。(ローマ3:25-26)
あなたへの良き知らせ。いますぐここを読む
>>888
950 :
たいら:2008/08/24(日) 19:45:11 ID:FHxyv5AH
わたしたちはみなひとつです。こんな簡単な真理を受け入れることができれば、お互いに対する姿勢が変わるのです。わたしたちはみなひとつなのです。
モーセは、「もし人が、非の打ちどころなく善良であり、一生涯、誘惑にも負けず、ただの一度も罪を犯さずにいられるなら、
その時はじめて救われる」と書いています。
しかし、信仰を通して与えられる救いは、こう教えてくれます。 「あなたは、キリスト様を見つけようと天を捜し回る必要も、
助けていただこうと引き降ろす必要もない。」
また、「キリスト様をもう一度復活させようと、死人の中を歩き回る必要もない。」
というのは、キリスト様を信じることによって与えられる救い〔私たちが宣べ伝えているのは、まさしくこの救いです〕は、
すでに、私たちのすぐ手の届く所にあるからです。 実際それは、自分の心や口のように、すぐ近くにあるのです。
なぜなら、もし自分の口で「イエス・キリストは私の主です」と告白し、
自分の心で、神様はイエス・キリストを死人の中から復活させてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
人は、心で信じることによって、神様から正しい者とされ、その信仰を自分の口で告白することによって、
救いを確実なものとするからです。
聖書は私たちに、「キリスト様を信じる者は、決して失望させられることがない」と教えています。
この点では、ユダヤ人もそれ以外の外国人も同じです。 同じ主がユダヤ人にとっても外国人にとっても主であり、求める者にはだれにでも、
ご自分の宝を惜しみなく与えてくださるのです。主の御名を呼び求める者は、だれでも救われるのです。(ローマ10-5:13)
たった1枚の手紙が、あなたの永遠の運命を変えることもある。
手紙を読みたい方はこちら
>>909
☆そこでペテロは口を開いて言った、「神は人をかたよりみないかたで、 神を敬い義を行う者はどの国民でも受けいれて下さることが、
ほんとうによくわかってきました。
あなたがたは、神がすべての者の主なるイエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えて、
イスラエルの子らにお送り下さった御言をご存じでしょう。
それは、ヨハネがバプテスマを説いた後、ガリラヤから始まってユダヤ全土にひろまった福音を述べたものです。
神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。
このイエスは、神が共におられるので、よい働きをしながら、また悪魔に押えつけられている人々をことごとくいやしながら、
巡回されました。
わたしたちは、イエスがこうしてユダヤ人の地やエルサレムでなさったすべてのことの証人であります。
人々はこのイエスを木にかけて殺したのです。(使徒10:34-39)口語訳
しかし神はイエスを三日目によみがえらせ、 全部の人々にではなかったが、わたしたち証人としてあらかじめ選ばれた者たちに
現れるようにして下さいました。わたしたちは、イエスが死人の中から復活された後、共に飲食しました。
それから、イエスご自身が生者と死者との審判者として神に定められたかたであることを、人々に宣べ伝え、
またあかしするようにと、神はわたしたちにお命じになったのです。 預言者たちもみな、
イエスを信じる者はことごとく、その名によって罪のゆるしが受けられると、あかしをしています」。
ペテロがこれらの言葉をまだ語り終えないうちに、それを聞いていたみんなの人たちに、聖霊がくだった。(使徒10:40-44)口語訳
たった1枚の手紙が、あなたの永遠の運命を変えることもある。
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>>909
962 :
たいら:2008/08/25(月) 20:25:09 ID:b6jEzI5U
モーセなんて古いよ
そこでペテロは口を開いて言った、「神は人をかたよりみないかたで、 神を敬い義を行う者はどの国民でも受けいれて下さることが、
ほんとうによくわかってきました。
あなたがたは、神がすべての者の主なるイエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えて、
イスラエルの子らにお送り下さった御言をご存じでしょう。
それは、ヨハネがバプテスマを説いた後、ガリラヤから始まってユダヤ全土にひろまった福音を述べたものです。
神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。
このイエスは、神が共におられるので、よい働きをしながら、また悪魔に押えつけられている人々をことごとくいやしながら、
巡回されました。
わたしたちは、イエスがこうしてユダヤ人の地やエルサレムでなさったすべてのことの証人であります。
人々はこのイエスを木にかけて殺したのです。(使徒10:34-39)口語訳
しかし神はイエスを三日目によみがえらせ、 全部の人々にではなかったが、わたしたち証人としてあらかじめ選ばれた者たちに
現れるようにして下さいました。わたしたちは、イエスが死人の中から復活された後、共に飲食しました。
それから、イエスご自身が生者と死者との審判者として神に定められたかたであることを、人々に宣べ伝え、
またあかしするようにと、神はわたしたちにお命じになったのです。 預言者たちもみな、
イエスを信じる者はことごとく、その名によって罪のゆるしが受けられると、あかしをしています」。
ペテロがこれらの言葉をまだ語り終えないうちに、それを聞いていたみんなの人たちに、聖霊がくだった。(使徒10:40-44)口語訳
☆実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。
正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかも知れません。
しかし、わたしたちがまだ罪人であった時、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を
お示しになりました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですからキリストによって神の怒りから救われるのは、
なおさらのことです。敵であった時でさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、
御子の命によって救われるのはなおさらです。
それだけでなく、わたしたちの主イエスキリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。
今やこのキリストを通して和解させていただいた からです。(ローマ5ー6〜11)
☆神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3ー16)
☆口でイエスは主(しゅ)であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から 復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。
実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるからです。(ローマ 10:9-10)
超教派の教会は聖句のコピーしかないのかい(^_^;
982 :
神も仏も名無しさん:2008/08/26(火) 22:23:15 ID:yOlCjo22
なんか不幸の手紙みたい
きもい
☆実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。
正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかも知れません。
しかし、わたしたちがまだ罪人であった時、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を
お示しになりました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですからキリストによって神の怒りから救われるのは、
なおさらのことです。敵であった時でさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、
御子の命によって救われるのはなおさらです。
それだけでなく、わたしたちの主イエスキリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。
今やこのキリストを通して和解させていただいた からです。(ローマ5ー6〜11)
☆神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3ー16)
☆口でイエスは主(しゅ)であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から 復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。
実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるからです。(ローマ 10:9-10)
そこでペテロは口を開いて言った、「神は人をかたよりみないかたで、 神を敬い義を行う者はどの国民でも受けいれて下さることが、
ほんとうによくわかってきました。
あなたがたは、神がすべての者の主なるイエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えて、
イスラエルの子らにお送り下さった御言をご存じでしょう。
それは、ヨハネがバプテスマを説いた後、ガリラヤから始まってユダヤ全土にひろまった福音を述べたものです。
神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。
このイエスは、神が共におられるので、よい働きをしながら、また悪魔に押えつけられている人々をことごとくいやしながら、
巡回されました。
わたしたちは、イエスがこうしてユダヤ人の地やエルサレムでなさったすべてのことの証人であります。
人々はこのイエスを木にかけて殺したのです。(使徒10:34-39)口語訳
しかし神はイエスを三日目によみがえらせ、 全部の人々にではなかったが、わたしたち証人としてあらかじめ選ばれた者たちに
現れるようにして下さいました。わたしたちは、イエスが死人の中から復活された後、共に飲食しました。
それから、イエスご自身が生者と死者との審判者として神に定められたかたであることを、人々に宣べ伝え、
またあかしするようにと、神はわたしたちにお命じになったのです。 預言者たちもみな、
イエスを信じる者はことごとく、その名によって罪のゆるしが受けられると、あかしをしています」。
ペテロがこれらの言葉をまだ語り終えないうちに、それを聞いていたみんなの人たちに、聖霊がくだった。(使徒10:40-44)口語訳
☆今や、神様は、天国へ行く別の道を示してくださいました。
その新しい道は、「善人になる」とか、神様のおきてを守ろうと努力するような道ではありません
〔とはいっても、この道については、ずっと前から旧約聖書で教えられていたのですから、
実際には新しい道とは言えませんが〕。
神様は今、「もし私たちが、イエス・キリストを信じきるなら、あなたがたを受け入れ、『罪のない者』と宣言する」と言われます。
どんな人間であろうと、私たちはみな、キリストを信じきるという、この方法によって救われるのです。
そうです。 すべての人は罪を犯しました。 神の輝かしい標準にはほど遠い存在です。
けれども、もし私たちがキリスト・イエスを信じきるなら、神様は私たちを「罪のない者」と宣言してくださいます。
このキリスト・イエスが、恵みにより、無償で私たちの罪を帳消しにしてくださるからです。(ローマ3:21-24)
☆神様はキリスト・イエスを遣わして、私たちの罪のための刑罰を受けさせ、私たちへの怒りをとどめてくださいました。
神様は、私たちをご自分の怒りから救い出すための手段として、キリスト様の血と私たちの信仰とをお用いになりました。
ですから、それまでの時代に罪を犯した者たちを罰せられなかったとしても、神様は完全に公正であられたわけです。
キリスト様が来て人々の罪を取り除く時を、神様は待ち望んでおられたからです。
そして今日でも、神様はこの同じ方法で罪人を受け入れてくださいます。
イエス様が彼らの罪を帳消しにしてくださったからです。
しかし、このように、罪を犯した者を赦し、無罪を宣告するのは、神様の公正なやり方に反するのではないでしょうか。
いいえ、そんなことはありません。
なぜなら、彼らが自分の罪を帳消しにしてくださったイエス様を信じたという事実に基づいて、神様はそうなさるからです。(ローマ3:25-26)
☆実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。
正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかも知れません。
しかし、わたしたちがまだ罪人であった時、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を
お示しになりました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですからキリストによって神の怒りから救われるのは、
なおさらのことです。敵であった時でさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、
御子の命によって救われるのはなおさらです。
それだけでなく、わたしたちの主イエスキリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。
今やこのキリストを通して和解させていただいた からです。(ローマ5ー6〜11)
☆神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3ー16)
☆口でイエスは主(しゅ)であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から 復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。
実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるからです。(ローマ 10:9-10)
そこでペテロは口を開いて言った、「神は人をかたよりみないかたで、 神を敬い義を行う者はどの国民でも受けいれて下さることが、
ほんとうによくわかってきました。
あなたがたは、神がすべての者の主なるイエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えて、
イスラエルの子らにお送り下さった御言をご存じでしょう。
それは、ヨハネがバプテスマを説いた後、ガリラヤから始まってユダヤ全土にひろまった福音を述べたものです。
神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。
このイエスは、神が共におられるので、よい働きをしながら、また悪魔に押えつけられている人々をことごとくいやしながら、
巡回されました。
わたしたちは、イエスがこうしてユダヤ人の地やエルサレムでなさったすべてのことの証人であります。
人々はこのイエスを木にかけて殺したのです。(使徒10:34-39)口語訳
しかし神はイエスを三日目によみがえらせ、 全部の人々にではなかったが、わたしたち証人としてあらかじめ選ばれた者たちに
現れるようにして下さいました。わたしたちは、イエスが死人の中から復活された後、共に飲食しました。
それから、イエスご自身が生者と死者との審判者として神に定められたかたであることを、人々に宣べ伝え、
またあかしするようにと、神はわたしたちにお命じになったのです。 預言者たちもみな、
イエスを信じる者はことごとく、その名によって罪のゆるしが受けられると、あかしをしています」。
ペテロがこれらの言葉をまだ語り終えないうちに、それを聞いていたみんなの人たちに、聖霊がくだった。(使徒10:40-44)口語訳
イエスキリストの十字架
☆そして十字架において、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。
わたしたちが罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。
そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。(第一ペトロ2:24)
☆罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。(ローマ書8:3)
リンゴさん、その調子でスレを埋め立て、52スレ目に移行して下さい。
>>990 ありがとうございます。
☆そして十字架において、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。
わたしたちが罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。
そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。(第一ペトロ2:24)
☆罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。(ローマ書8:3)
☆今や、神様は、天国へ行く別の道を示してくださいました。
その新しい道は、「善人になる」とか、神様のおきてを守ろうと努力するような道ではありません
〔とはいっても、この道については、ずっと前から旧約聖書で教えられていたのですから、
実際には新しい道とは言えませんが〕。
神様は今、「もし私たちが、イエス・キリストを信じきるなら、あなたがたを受け入れ、『罪のない者』と宣言する」と言われます。
どんな人間であろうと、私たちはみな、キリストを信じきるという、この方法によって救われるのです。
そうです。 すべての人は罪を犯しました。 神の輝かしい標準にはほど遠い存在です。
けれども、もし私たちがキリスト・イエスを信じきるなら、神様は私たちを「罪のない者」と宣言してくださいます。
このキリスト・イエスが、恵みにより、無償で私たちの罪を帳消しにしてくださるからです。(ローマ3:21-24)
☆神様はキリスト・イエスを遣わして、私たちの罪のための刑罰を受けさせ、私たちへの怒りをとどめてくださいました。
神様は、私たちをご自分の怒りから救い出すための手段として、キリスト様の血と私たちの信仰とをお用いになりました。
ですから、それまでの時代に罪を犯した者たちを罰せられなかったとしても、神様は完全に公正であられたわけです。
キリスト様が来て人々の罪を取り除く時を、神様は待ち望んでおられたからです。
そして今日でも、神様はこの同じ方法で罪人を受け入れてくださいます。
イエス様が彼らの罪を帳消しにしてくださったからです。
しかし、このように、罪を犯した者を赦し、無罪を宣告するのは、神様の公正なやり方に反するのではないでしょうか。
いいえ、そんなことはありません。
なぜなら、彼らが自分の罪を帳消しにしてくださったイエス様を信じたという事実に基づいて、神様はそうなさるからです。(ローマ3:25-26)
☆実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。
正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかも知れません。
しかし、わたしたちがまだ罪人であった時、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を
お示しになりました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですからキリストによって神の怒りから救われるのは、
なおさらのことです。敵であった時でさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、
御子の命によって救われるのはなおさらです。
それだけでなく、わたしたちの主イエスキリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。
今やこのキリストを通して和解させていただいた からです。(ローマ5ー6〜11)
☆神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3ー16)
☆口でイエスは主(しゅ)であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から 復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。
実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるからです。(ローマ 10:9-10)
そこでペテロは口を開いて言った、「神は人をかたよりみないかたで、 神を敬い義を行う者はどの国民でも受けいれて下さることが、
ほんとうによくわかってきました。
あなたがたは、神がすべての者の主なるイエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えて、
イスラエルの子らにお送り下さった御言をご存じでしょう。
それは、ヨハネがバプテスマを説いた後、ガリラヤから始まってユダヤ全土にひろまった福音を述べたものです。
神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。
このイエスは、神が共におられるので、よい働きをしながら、また悪魔に押えつけられている人々をことごとくいやしながら、
巡回されました。
わたしたちは、イエスがこうしてユダヤ人の地やエルサレムでなさったすべてのことの証人であります。
人々はこのイエスを木にかけて殺したのです。(使徒10:34-39)口語訳
しかし神はイエスを三日目によみがえらせ、 全部の人々にではなかったが、わたしたち証人としてあらかじめ選ばれた者たちに
現れるようにして下さいました。わたしたちは、イエスが死人の中から復活された後、共に飲食しました。
それから、イエスご自身が生者と死者との審判者として神に定められたかたであることを、人々に宣べ伝え、
またあかしするようにと、神はわたしたちにお命じになったのです。 預言者たちもみな、
イエスを信じる者はことごとく、その名によって罪のゆるしが受けられると、あかしをしています」。
ペテロがこれらの言葉をまだ語り終えないうちに、それを聞いていたみんなの人たちに、聖霊がくだった。(使徒10:40-44)口語訳
イエスキリストの十字架
☆そして十字架において、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。
わたしたちが罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。
そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。(第一ペトロ2:24)
☆罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。(ローマ書8:3)
☆実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。
正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかも知れません。
しかし、わたしたちがまだ罪人であった時、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を
お示しになりました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですからキリストによって神の怒りから救われるのは、
なおさらのことです。敵であった時でさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、
御子の命によって救われるのはなおさらです。
それだけでなく、わたしたちの主イエスキリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。
今やこのキリストを通して和解させていただいた からです。(ローマ5ー6〜11)
☆神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3ー16)
☆口でイエスは主(しゅ)であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から 復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。
実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるからです。(ローマ 10:9-10)
☆今や、神様は、天国へ行く別の道を示してくださいました。
その新しい道は、「善人になる」とか、神様のおきてを守ろうと努力するような道ではありません
〔とはいっても、この道については、ずっと前から旧約聖書で教えられていたのですから、
実際には新しい道とは言えませんが〕。
神様は今、「もし私たちが、イエス・キリストを信じきるなら、あなたがたを受け入れ、『罪のない者』と宣言する」と言われます。
どんな人間であろうと、私たちはみな、キリストを信じきるという、この方法によって救われるのです。
そうです。 すべての人は罪を犯しました。 神の輝かしい標準にはほど遠い存在です。
けれども、もし私たちがキリスト・イエスを信じきるなら、神様は私たちを「罪のない者」と宣言してくださいます。
このキリスト・イエスが、恵みにより、無償で私たちの罪を帳消しにしてくださるからです。(ローマ3:21-24)
☆神様はキリスト・イエスを遣わして、私たちの罪のための刑罰を受けさせ、私たちへの怒りをとどめてくださいました。
神様は、私たちをご自分の怒りから救い出すための手段として、キリスト様の血と私たちの信仰とをお用いになりました。
ですから、それまでの時代に罪を犯した者たちを罰せられなかったとしても、神様は完全に公正であられたわけです。
キリスト様が来て人々の罪を取り除く時を、神様は待ち望んでおられたからです。
そして今日でも、神様はこの同じ方法で罪人を受け入れてくださいます。
イエス様が彼らの罪を帳消しにしてくださったからです。
しかし、このように、罪を犯した者を赦し、無罪を宣告するのは、神様の公正なやり方に反するのではないでしょうか。
いいえ、そんなことはありません。
なぜなら、彼らが自分の罪を帳消しにしてくださったイエス様を信じたという事実に基づいて、神様はそうなさるからです。(ローマ3:25-26)
2
以前、非常に価値があると思っていたこれらのものを、今ではことごとく捨ててしまいました。
それは、ただキリスト様だけに信頼し、キリスト様だけに望みをかけるためです。
そうです。 主であるキリスト・イエスを知っているという、途方もなくすばらしい特権と比べれば、
ほかのものはみな、色あせて見えるのです。
私は、キリスト様以外のものは、がらくた同然にみなし、全部捨ててしまいました。
それは、キリスト様を自分のものとするためであり、 また、もはや、良い人間になろうとか、
おきてに従って救われようとか考えるのはやめて、ただキリスト様を信じることによって救われ、
キリスト様と結ばれるためです。 神様が、私たちを正しい者と認めてくださるのは、
信仰――ただキリスト様だけに頼ること――を持っているかどうかで、決まるからです。
私は今、ほかのことはいっさい考えず、ただこのことだけを求めています。
つまり、真にキリスト様を知ること、キリスト様を復活させた超自然的な力を、
身をもって体験すること、そして、キリスト様と共に苦しみ、
また死ぬとは、どういうことかを知ることです。 死人の中から復活した者特有の、
生き生きとした新しいいのちに生きる者となるためには、どんな犠牲もいといません。(ローマ書)
☆そして十字架において、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。
わたしたちが罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。
そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。(第一ペトロ2:24)
☆罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。(ローマ書8:3)
1001 :
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