<<天理教の「いんねん」は救いか?束縛か?>>

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982思うより、そう思えてしまうことの大切さ。
私は「導いた者」あなたは「導かれた者」というような思案では理は頂けないのであります。
おやさまの、親神様の「世界一列たすけたい」との親心がふたつ(その時の立場として助ける側と助けられる側として)と表れた。
それは同時に一つにおさまるのであります。

互い立てあい助け合いが本筋であります。今の天理教のシステムは、先に教えを聞いた者は永遠に上に、ぢばに近い位置に
居続けるという具合になっております。
教会関係者は、私は助け続ける人だ(お供えを信者から受け取り続ける立場だ。そしてそれを自分の手柄
として、上級の教会に収める立場だ。)というプライドで生きている所があります。
現実は、信者さんのお供えに助けられているのです。

もともと、おやさまの説いた教えには「俺は先に聞いたんだ、お前は俺から伝えてもらったんだから、俺の後だ」
と言うような理はないと、おさしづに断言されています。ろくじな道に「高い低い」という事を持ち込んだ人間を叱っているようにも
感じます。
ただ、その道はいずれ続かなくなるともおっしゃっていますので、そのうち変わる事もあるかと思います。

おたすけの、その時点で「助ける立場」「助けられる立場」というものは確かに出来ます。が、それは、「おやさまの世界一列たすけたい」
との親心の中の一場面であり、「助けの主」はおやさま親神様であり、そのお助けの現場で、いかなる立場に立ったとしても
同じ月日の子供なんだ、「同じいんねん」だ、隔てのない「いんねん」でこの現場にいるんだという自覚がなされないと、
助けた人も助けられた人も、おかしな道に迷い込む事になると思います。

逸話篇には「葡萄」の話がありますが、それについて前真柱さんのこんな話がありました。
「ぶどうの実をよくみてもらえば分かると思いますが、ぶどうの実は、一つ一つが、根元から直接つながって出来ている。つまり私たち人間も
ぢばから、直接守護を受けて生きている・・・」
確か、このような内容だったと思います。
葡萄の実は、実の下に実が繋がっているという状態では無いみたいなんですよね。
そして、おやさまは、「葡萄は先のほうから熟してきますなあ」ともおっしゃったと聞きます。