第2親鸞会ちゃんねる掲示板

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11渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
>>2
親鸞会詭弁教学
 親鸞会の教学はデタラメなんだ。原因は、日本語の古文のイロハがめちゃくちゃなんだ。
 蓮如の文章は難しい文ではない。高森氏は本当に文系の大卒なのか?。あの程度の知識では、
国語の科目は受からんと思うが、どう?。龍大には、無試験の寺院優先枠があるというではない
か。高校生以下の古文読解力で説法しているから恐れ入る。

その1
 助動詞の「べし」は、「可能」と「推量」の意味があることを無視する。
 「べし」には、当然・命令・可能・推量という四つの意味がある。いずれの意味かは文意全体
から合理的に推測する。
 親鸞会は「地獄に堕つべし」という文章の解釈で詭弁を弄する。
 「堕ちる可能性もあるでしょう」という意味の文を、「必ず堕ちて当然である」と読めば、真意はめちゃ
くちゃになる。

その2
 副詞の「ただ」を「なんの意味もないさま。むなしいさま」という意味で理解する。
「ひたすら。もっぱら」という意味があることを無視する。
 「ただ」には、「まっすぐ・まとも・そのまま・そっくり・取り立てて言う程でもない・むな
しく・普通・無料・他でもなく・ひたすら・もっぱら・わずか」というさまざな意味がある(広
辞苑)

 「むなしく」の意味か、「ひたすら」の意味かは、文意全体から合理的に推測する必要がある。
 ただ称えても助からざるなり(むなしくいたずらに称えてもたすからん)。
 ただ念仏して弥陀にたすけらるべし(ひたすら称えて阿弥陀に助けられよ)。
 文意が代わればとんでもないことになる。
12渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/12/17(月) 20:37:55 ID:iyg3OhMu
 蓮如が、地獄堕ち間違いなしと太鼓判を押している例を紹介しよう

 そのゆえは、門徒のかたよりものを取るをよき弟子といい、これを信心の人といえり。これ大
きなる誤りなり。また弟子は、坊主にものをだにも多くまいらせば、我が力かなはずとも、坊主
の力にて助かるべきように思えり。これも誤りなり。かくのごとく坊主と門徒の間において、さ
らに当流の信心の心得の分は一つもなし。真にあさましや。師・弟子ともに、極楽には往生せず
して、虚しく地獄に堕ちんことは疑いなし。嘆きてもなお余りあり。

 会員より金銭を巻き上げる人を良い弟子といい、高森顕徹さんのように、巧みに財産を取り上
げる話術に長けた人を信心の人という。これは大変な誤りである。また、親鸞会会員は、自力で
は極楽浄土に行けないから、高森先生にたくさんお布施すると、自力では不可能でも、高森先生
のお力で極楽浄土に行けるように妄想する。これも誤りなり。高森顕徹さんと会員との間には、
浄土真宗の信心などは全く存在しない。真に口惜しく残念なことである。このような場合には、
高森先生も、会員も、極楽浄土には往生できず、真に残念ながら地獄に堕ちていく。地獄に堕ち
ていくと言うことは全く疑いがない。高森顕徹さんも、親鸞会会員も揃って地獄に堕ちることは
間違いない。真に残念である。  (蓮如)