>>2 親鸞会詭弁教学
親鸞会の教学はデタラメなんだ。原因は、日本語の古文のイロハがめちゃくちゃなんだ。
蓮如の文章は難しい文ではない。高森氏は本当に文系の大卒なのか?。あの程度の知識では、
国語の科目は受からんと思うが、どう?。龍大には、無試験の寺院優先枠があるというではない
か。高校生以下の古文読解力で説法しているから恐れ入る。
その1
助動詞の「べし」は、「可能」と「推量」の意味があることを無視する。
「べし」には、当然・命令・可能・推量という四つの意味がある。いずれの意味かは文意全体
から合理的に推測する。
親鸞会は「地獄に堕つべし」という文章の解釈で詭弁を弄する。
「堕ちる可能性もあるでしょう」という意味の文を、「必ず堕ちて当然である」と読めば、真意はめちゃ
くちゃになる。
その2
副詞の「ただ」を「なんの意味もないさま。むなしいさま」という意味で理解する。
「ひたすら。もっぱら」という意味があることを無視する。
「ただ」には、「まっすぐ・まとも・そのまま・そっくり・取り立てて言う程でもない・むな
しく・普通・無料・他でもなく・ひたすら・もっぱら・わずか」というさまざな意味がある(広
辞苑)
「むなしく」の意味か、「ひたすら」の意味かは、文意全体から合理的に推測する必要がある。
ただ称えても助からざるなり(むなしくいたずらに称えてもたすからん)。
ただ念仏して弥陀にたすけらるべし(ひたすら称えて阿弥陀に助けられよ)。
文意が代わればとんでもないことになる。