「罪」と訳されるギリシャ語は「ハマルティア」と言い、
「的を外す」という意味をもっています。
人間があるべき姿を失うことは罪であり、なすべきことをせず、
してはならないことをすること(実際の行動においてだけでなく
心の面においても)が罪です。
すなわち「罪」とは、
単に国の法律を破るとか、道徳上許されないことをするとか、マナーを守らないなど
ということ以上のことを指します。
心の中で悪意をもつことや、プライドをもち自己中心になること、神の教えとは
全く逆の生きかたを続けること、何よりも神ご自身を無視してしまうことが「罪」です。
「罪」が「あるべき姿を失う」ことであるなら、
「救い」とはそれを取り戻すことです。
「罪」が神との分離、神の像の破損であるなら、
「救い」とは神との一致であり、神の像の回復です。
「罪」が悪魔、苦難、死と一つのものなら、
「救い」とは悪魔の敗北、苦難の終結、死の死滅です。
これらすべてを、私たちのためになさったのが、
人となった神ハリストス(キリスト)の十字架と復活です。
旧約聖書によれば、人間は神に似せて造られました。
言い換えれば、神は人間に自由意志を与えました。この自由意志によって
神に従順に従うことが人間のあるべき姿です。
しかし、最初に造られた人間アダムは、神の意志に背く不従順の道を
自由意志によって選択してしまいました。
創世記には、「善悪を知る木」の実を食べると神のようになれる、という
蛇の誘惑によって、アダムとエワが陥罪したと記されています。
神は「善悪を知る木の実を食べてはならない、それを食べた日には、
あなたは死んでしまう」と言いました。「食べる」とは「生きる」という意味です。
「善悪を知る木の実を食べる」というのは、
「自分が神様になったかのように錯覚し、善悪を知ったつもりになって
真実の神を無視するような生き方をする」という意味です。
しかし、アダムとエワは、神の言葉ではなく、蛇(悪魔の象徴)の言葉を信じてしまいました。
生命の源である神と分離する生き方を、自分で選んでしまった人類は、
死ぬものとなってしまいました。
死は罪の結果であり、神様が最初から意図されたことではなく、
人間の自由意志によってもたらされた不条理なのです。
聖書において、すなわち正教会において、罪、悪、悪魔、苦難、死という事項は
すべて一つのものと見なされます。
罪とは悪であり、それは悪魔によって人間にもたらされ、そしてその結果、
苦難や死が生じたからです。
三位一体に似せて造られた人間は、多くの個でありながら一つのものです。
つまり、アダムと私たちは一つのもの、一体のものなので、
アダムの罪は私の罪、私の罪は人類の罪です。
人は、罪の蔓延する世の中に人間として生まれます。
しかし、西方で発展したキリスト教であるカトリックやプロテスタントでは、
アダムの罪の結果、厳しい神の罰をも全人類が受け継いだと強調します。
人間は生まれながらにして罪人であり、罪人である以上、
神の裁きと罰を受けるものであるとし、全く自由意志の力を失ったと教えます。
正教会はこのような「原罪」と呼ばれる考え方を否定します。
アダムとエワによって神の似姿は壊されてしまいましたが、まだかろうじて
その似姿(神の像)は残っていて保持されている、と正教会は教えます。
どんな人間でも、まずはそこに「神の像」を見るべきです(ただし
それが破損していることも事実です)。人間に残された神の像は、
神を求める自由意志を弱いけれども持っています。
人類が受け継いだのは神の罰ではなく、破損した似姿です。
しかし、神に従うか従わないかの自由意志は、私の選択権として最後まで残されていますが、
人間が自分の努力によって、破壊された神の像を回復することは不可能となりました。
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生まれながらの人間は神と敵対する(サタンの)性質を持って生まれてくる。
イイスス・ハリストスを通して(イエス・キリストを仲介して)神と和解する。