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神も仏も名無しさん:
俺は元会員だが、バカだったなぁ、と思う。ちょっと調べれば分かるようなことでも、その労力を惜しんでしまった。
s会が間違っているかどうかではなくて、自分が間違っていたと知ることが嫌なだけだったのだ。
ご本尊の名号が合成であって、親鸞聖人がされていないことをしてしまっていることや、
「余裕はタナボタではこない」はずの著書が丸パクリであることも、
k会にいたことを何故か隠していることも、今では簡単に調べることが出来る。
しかし、人生の労力の大半をかけてしまい、取り返しの付かない多くの犠牲を払ってしまった人間にとって、
今さら間違っていたなんて事は目を覆い背けたくなることだから、どれだけ根拠を示そうが見ざる聞かざるになってしまう。
もともと人生について疑問や苦しみを持っていた人間ならなおさら、ようやく希望と思って掴んだものを手放すのは容易じゃない。
勇気と労力がいることだ。心細く頼りなく、不安になってしまうものだ。
他にどこを探せば答えはあるのか、それに出会うことが出来れば簡単かも知れないが、それは簡単に見つかるとは限らない。
自分に対して残酷になれるかどうか。酷だけれども、今掴んでいるものが怪しいとなったらちゃんと調べるのが、
自分の人生に対する責任の取り方だと思った。