143 :
神も仏も名無しさん:
イエスは,自分が父と呼ぶ神に幾度も祈りをささげ,また,そうするように他の人を教えました。(マタイ 6:9‐11。ルカ 11:1,2)
イエスは死の何時間か前,使徒たちと共にささげた祈りの中で,次のように請願しました。「父よ,時は来ました。あなたの子の栄光を表わしてください。
子があなたの栄光を表わすためです。彼らが,唯一まことの神であるあなたと,あなたがお遣わしになったイエス・キリストについての知識を取り入れること,
これが永遠の命を意味しています」。―ヨハネ 17:1,3。
イエスが「唯一まことの神」と呼ぶ方に祈っている点に注目してください。イエスは続けて,その神が自分より上位の立場にあることを示して,
「それで,父よ,世がある前にわたしがみそばで持っていた栄光で,わたしを今ご自身の傍らにあって栄光ある者としてください」と述べました。(ヨハネ 17:5)
イエスはその神の傍らにいることを求めているのですから,イエスが同時にその「唯一まことの神」でもあるというようなことが,どうしてあるでしょうか。
144 :
神も仏も名無しさん:2008/01/04(金) 21:36:55 ID:c1ZRGcXK
イエスはこの祈りの何時間か後に処刑されました。しかし,死んでいたのは金曜日の午後から日曜日の朝までの短い間でした。(マタイ 27:57‐28:6)
「このイエスを神は復活させたのであり,わたしたちは皆その事の証人です」と,使徒ペテロは語りました。(使徒 2:31,32)イエスは自らを復活させることができたのでしょうか。
いいえ,聖書によれば死者には『何の意識もありません』。(伝道の書 9:5)イエスの天の父である「唯一まことの神」が,ご自身のみ子を復活させたのです。―使徒 2:32; 10:40。
145 :
神も仏も名無しさん:2008/01/04(金) 21:38:49 ID:c1ZRGcXK
子羊は14万4,000人と共に立っています。ヨハネによれば,その14万4,000人は「地から買い取られた[あるいは復活させられた]」人々で,
子羊の「名と彼の父の名をその額に書かれて」います。―啓示 14:1,3。
「子羊」と「彼の父」とが全く同じ方ということなどあり得るでしょうか。あり得ません。
聖書の中で両者は区別されています。
別個の名前もあるのです。
146 :
神も仏も名無しさん:2008/01/04(金) 21:40:43 ID:c1ZRGcXK
上で見たように,神の子である子羊にはイエスという名が与えられています。(ルカ 1:30‐32)では,その父の名はどうでしょうか。
その名前は聖書中に何千回も出てきます。例えば,詩編 83編18節には,「その名をエホバというあなたが,ただあなただけが全地を治める至高者である」とあります。
残念なことに,神のみ名エホバは,多くの聖書翻訳では「主(LORD)」や「神(GOD)」
という語に置き換えられています。英語の場合,これらの語はすべて大文字でつづられることが多く,
そうすることで神(god)や主(lord)と呼ばれる他のものと区別されています。
* とはいえ,神の名をしかるべき箇所に復元している聖書翻訳も少なくありません。
147 :
神も仏も名無しさん:2008/01/04(金) 21:43:34 ID:c1ZRGcXK
では,三位一体の教義で唱えられている,エホバとイエスは事実上全く同一の神である,という教えについてはどうでしょうか。
「生きた説教」(英語)という雑誌は,1999年4‐6月号の中で,三位一体を次のように定義しました。
「一つの神かつ父,一つの主イエス・キリスト,一つの聖霊,三つの“位格”は……本質的に同一あるいは一つである。
……この三つの位格は等しく神であって,同一の性質を有するが,全く別個の存在で個々の特性によって知られる」。#
この複雑な三位一体の教えはどこから生じたのでしょうか。
クリスチャン・センチュリー誌(英語)は,1998年5月20‐27日号で,
三位一体は「イエスの教えではなく,教会の教え」
であると述べた牧師の言葉を引用しています。
では,三位一体がイエスの教えでないとしても,イエスの教えた事柄と調和しているのでしょうか。
148 :
神も仏も名無しさん:2008/01/04(金) 21:45:13 ID:c1ZRGcXK
イエスは弟子たちに,「天におられるわたしたちの父よ,あなたのお名前が神聖なものとされますように」
と祈るように教えました。エホバという名を持たれる天の父は,聖書中でみ子より上位の方として描かれています。
例えば,エホバは「定めのない時から定めのない時に至るまで」存在しておられます。これに対して,イエスは「全創造物の初子」である,
と聖書は述べています。エホバがイエスより偉大であることを,イエス自身が教え,「父はわたしより偉大な方」と述べました。(マタイ 6:9。詩編 90:1,2。コロサイ 1:15。ヨハネ 14:28)
一方,三位一体の教義は,父と子が「等しく神」であるとしています。
149 :
神も仏も名無しさん:2008/01/04(金) 21:47:07 ID:c1ZRGcXK
父が子とは別個の存在であると共に,父が子よりも上位にあることは,イエスの祈りの中でもはっきり示されています。
例えば,処刑前にイエスはこう祈りました。「父よ,もしあなたの望まれることでしたら,この杯[つまり屈辱的な死]をわたしから取り除いてください。
しかしやはり,わたしの意志ではなく,あなたのご意志がなされますように」。(ルカ 22:42)神とイエスが三位一体の教義のとおり『本質的に一つ』であるなら,
イエスの意志が父のご意志と異なるように思えることなど,どうしてあるでしょうか。―ヘブライ 5:7,8; 9:24。
さらに,もしエホバとイエスが全く同一であるとしたら,一方の知らない事柄をもう一方が知っているということがどうしてあり得るでしょうか。
ところが,イエスは世の裁きの時に関して,「その日または時刻についてはだれも知りません。天にいるみ使いたちも子も知らず,父だけが知っておられます」と述べているのです。―マルコ 13:32。
150 :
だからカレー屋じゃないってww:2008/01/04(金) 21:49:32 ID:c1ZRGcXK
スイスのベルン大学の教授マーティン・ヴェルナーは次のように述べました。
「新約聖書の中で,イエスについて父である神との関係が取り上げられている箇所では常に,人間としての出現であれ,メシアとしての地位であれ,
それは従属的な関係とされており,そのことがきっぱりと表現されている」。
イエスや初期クリスチャンが信じていた事柄と,今日の諸教会の三位一体の教えとが,かなり異なっていることは明らかです。では,その教えはどこから来たのでしょうか。
151 :
だからカレー屋じゃないってww:2008/01/04(金) 21:50:54 ID:c1ZRGcXK
聖書は,アシュトレテ,ミルコム,ケモシュ,モレクなど,かつて人々が崇拝した多くの神や女神について述べています。(列王第一 11:1,2,5,7)
古代のイスラエル国民の多くの人がバアルをまことの神と信じたこともありました。そこでエホバの預言者エリヤは決断を迫り,
「もし,エホバがまことの神であれば,これに従って行きなさい。しかし,もしバアルがそうであれば,それに従って行きなさい」と述べました。―列王第一 18:21。
152 :
だからカレー屋じゃないってww:2008/01/04(金) 21:53:15 ID:c1ZRGcXK
また,三者が一緒にされた,三つ組の異教の神々の崇拝は,イエスが生まれる前から広く行なわれていました。
「神聖なる三位一体の考えはエジプトから来たものである」と,歴史家ウィル・デュラントは述べています。
またジェームズ・ヘースティングズは,「宗教・倫理百科事典」(英語)の中でこう書いています。
「例えば,インドの宗教ではブラフマー,シバ,およびビシュヌという三位一体のグループに,
またエジプトの宗教ではオシリス,イシス,およびホルスという三位一体のグループに出会う」。
こうして,神とされるものが数多く存在しています。初期クリスチャンはこの点を受け入れていたでしょうか。
153 :
がんばって読んでね:2008/01/04(金) 21:56:21 ID:c1ZRGcXK
イエスは,自分が神であるとは決してとなえませんでしたが,エホバの任命された支配者として,イザヤの預言の中では,
「力ある神」また「平和の君」という名で呼ばれています。イザヤの預言にはさらに,「君としてのその豊かな支配と平和に終わりはない」とあります。(イザヤ 9:6,7)
ですからイエスは,大いなる王エホバの子である「君[Prince]」として,「全能の神」の天の政府の支配者となります。―出エジプト記 6:3。
とはいえ,『イエスはどんな意味で「力ある神」なのだろうか。
使徒ヨハネは,イエスは神そのものだと言わなかっただろうか』と思う方がいるかもしれません。
「ジェームズ王欽定訳」(英語)のヨハネ 1章1節は,「初めに言葉がおり,言葉は神と共におり,言葉は神[God]であった」
となっています。これは赤子のイエスとして地上に生まれた「言葉」が全能の神ご自身であることを意味している,と主張する人がいます。そうなのでしょうか。
154 :
がんばって読んでね:2008/01/04(金) 21:57:58 ID:c1ZRGcXK
この部分を,イエスが全能の神ご自身であるという意味に解釈するとしたら,その前にある「言葉は神と共におり」という部分と矛盾することになります。
だれかと「共に」いる者が,まさにその同じだれかであるはずはありません。
それで,区別を明らかにして,「言葉」が全能の神そのものではないことを明確にしている聖書翻訳が多くあります。
例えば,「言葉は神[a God]であった」,「言葉は,神[a god]であった」「言葉は神性を備えていた」としている聖書翻訳があります。
155 :
がんばって読んでね:2008/01/04(金) 21:59:26 ID:c1ZRGcXK
ヨハネがその福音書の最初の章の中で,この「言葉」をどのようなものとして述べているかも見ましょう。
「言葉は肉体となってわたしたちの間に宿り,わたしたちはその栄光,[神ではなく]父の独り子が持つような栄光を目にした」。
それで,「言葉」は肉体となり,地上で人間イエスとして生活し,人々の目に触れました。それゆえ,イエスが全能の神であったはずはありません。
ヨハネはその神については,「いまだ神を見た人はいない」と述べているからです。―ヨハネ 1:14,18。
156 :
ステーキ屋:2008/01/04(金) 22:01:57 ID:c1ZRGcXK
『では,復活後のイエスを見たトマスは,なぜ「わたしの主,そしてわたしの神!」と叫んだのか』と思う方がいるかもしれません。
すでに述べたように,イエスは神性を備えているという意味では神ですが,父と同じ存在ではありません。
イエスはマリア・マグダレネに,「わたしは,わたしの父またあなた方の父のもとへ,わたしの神またあなた方の神のもとへ上る」と少し前に告げたところでした。
また,ヨハネが福音書を記した理由にも注目してください。ヨハネは,トマスに関する記述の3節あとで,「イエスが神の子キリストであることを[人々]が信じるため」に書いたと説明しています。―ヨハネ 20:17,28,31。
157 :
ステーキ屋:2008/01/04(金) 22:04:25 ID:c1ZRGcXK
神々とされるものが数多くいることは確かです。すでに見たように,聖書に名前が挙げられているものもあります。
とはいえ,はるか昔にエホバの力を目にした人々は,「エホバこそまことの神です! エホバこそまことの神です!」と叫びました。(列王第一 18:39)
しかし,力があり,神とされるものがほかにもいます。
聖書は,「この世の神が信ぜぬ者らの思いをくらまし」ていると述べています。―コリント第二 4:4,ジェームズ王欽定訳。
イエスは死の前夜,この神なるものを「この世の支配者」と呼び,弟子たちに三度警告を与えました。
イエスは,この強力な支配者つまり神が「追い出される」と述べました。(ヨハネ 12:31; 14:30; 16:11)
この神とはだれですか。また,この神が支配している世とは何でしょうか。
158 :
ステーキ屋:2008/01/04(金) 22:07:17 ID:c1ZRGcXK
この神とは,反逆したみ使いである悪魔サタンにほかなりません。どうしてそう言えるでしょうか。
聖書によれば,サタンはイエスを誘惑した際,「世のすべての王国とその栄光とを見せて,こう言った。
『もしあなたがひれ伏してわたしに崇拝の行為をするならば,わたしはこれらのすべてをあなたに上げましょう』」。(マタイ 4:8,9)
もしサタンが自分の所有していないものをイエスに提示していたのであれば,それは誘惑にならなかったでしょう。
使徒ヨハネも「全世界が邪悪な者の配下にある」と明言しています。―ヨハネ第一 5:19。
「この世の支配者は追い出される」というイエスの約束を思い出してください。(ヨハネ 12:31)実際に,この世,つまりこの事物の体制は,
使徒ヨハネが「世は過ぎ去りつつあ(る)」と予告したとおり,その支配者と共に除き去られます。とはいえ,ヨハネは,
「神のご意志を行なう者は永久にとどまります」とも述べています。(ヨハネ第一 2:17)
孫引きだけならサルでもできるからな〜w
2ちゃんねるは本文でも検索できるの知ってた?
ためしに「タンドリ君」で検索しても宇部市のスレッドが
ピッタリ同じスレッドでヒットしたんだけど、同じ人なのかな?
「タンドリ君」とやらの影に相当怯えてるみたいだけど
我々に助けを求めようというのがお門違いなのであしからず。
自分でまいた種は自分で刈り取るべし。
ということで、
>>114には反論異論は無いのだな?
160 :
神も仏も名無しさん:2008/01/05(土) 10:06:58 ID:n03szQJa