「力とは」
現在の日本は、社会でも学校でも努力を強いる。
価値のあるのもを手に入れなさい。
競争に勝ちなさい。
そしてそれらが手に入ったらどうするかは、まったく教えていない。
恐らく、他人を見下して物質的に贅沢して、生きなさい。
ということなのであろう。
試験制度、公共制度など何から何まで、わずか0.1%の高学歴の人間が決定している。
そういった人間がすることと言えば、
庶民の税金を使い込み、いかに自分の取り分を増やすかに集中しているからである。
「力とは」
例えば、あなたがとても尊敬している人に褒められるとする。
あなたが音楽家を目指していたとしよう。
突然、マイケル・ジャクソンがやってきて、
「君の音楽はとても素晴らしい。君には今までにない才能が眠っているはずだ。」
と褒められればとても嬉しい。
そして次に、髪の毛がいつもボサボサで汚い格好をしている掃除のおばちゃんに
「あんたの音楽はホントいいね。心が安らぐすごい曲を作れるあんたは、出世するよ。」
と言われたとする。
おばちゃんに褒められても、マイケルに褒められたほどの感動は起きない。
同じように褒められているのである。
どこが違うのだろうか?
「力とは」
おばちゃんとマイケルの違い、
それは力である。
同じように
ベンツに乗った社長に「君はホントによく頑張ってくれている。私も鼻が高いよ。」
新人のバイトに「あなたはとても頑張っていて、素晴らしい。私の憧れです。」
と言われるのでは、喜びの度合いが違う。
力を持っているということは、「より大きな喜びを与えやすい。」のである。
逆に、馬鹿にするのは誰もあまり変わらない。
社長から「馬鹿。」バイトから「馬鹿。」
マイケルから「ばか。」おばちゃんから「ばか。」
「畜生!ばかにしやがって!」
と思うだけである。
「力とは」
生まれたときから、価値の高いものを持っている人や
たまたま生きていく中で価値の高いものを手にいれ、
力を手にした人は、神様からこう言われているのである。
「その力でもっと人に喜びを与えなさい。」
しかし、せっかく神様が与えてくれた力を「自分の実力」だと勘違いして、
「俺はベンツに乗っているから偉いのだ。」
「俺は音楽で成功をおさめたから、偉いのだ。」
とまわりの人に喜びを与えず馬鹿にしていると、神様が再びやってきて
「それじゃ、おまえの本当の実力を見せてやるよ。」
と、下り坂を転げ落ちるように転落する。
「力とは」
力を得ることができた人は、まわりの人を誰よりも喜ばせなければならないのだ。
そのためには、謙虚さがなければならない。
まわりの人に対する感謝がなければならない。
力を人を馬鹿にしたり、人を不幸にしたり、人を苦しめたりすることに使ってはいけないのである。
よく若い人で成功した人を見る。
だが、発言を聞いていると「おや?」っと思うことがある。
謙虚さがないのである。
人を力で支配する、金で動かすようなことを平気で話す。
そして、人の心を無視した行動を取る。
しばらくしてまっさかさまに転落する。
一時的に盛り上げられても、人を苦しめた結果はいずれやってくる。
「権力・財力とは」
日本人は肩書きに弱い
社長や部長、課長、係長、リーダー、主任、責任者、長官、監督、店長、人事部長、役員、
など様々な肩書きがある。
これらの肩書きの人に出会った時は、肩書きに恐れる必要はない。
肩書きを振りかざして
「俺は偉いのだ。他の人間とは違うのだ。」
と言う人に出会ったら、「ああ、良かった。」と思うことである。
なぜなら謙虚さのない力はいつか、なにかの拍子で奪われてしまう。
そして、力を失った人に誰もついてこない。
そのような人だとわかって「良かった。」のである。
その人と関わるなということである。
「神の光を表現するため」
人間とは何のために生きるのでしょうか?
私はずっと愛されずに育ってきた。
親も世間も「努力しなさい、頑張りなさい」と言うだけで、
私の存在そのものを歓迎してくれたような言葉をもらったことは一度も無い。
私は悔しかった。
親でも世間でもいい、ただひと言が欲しいがために死に物狂いで頑張った。
そのひと言とは
「よくやった。」である。
ところが私はいつまでたっても、その言葉がもらえなかった。
結果を出しても、出さなくても、かわりに違う言葉をもらった。
「次はもっと頑張れ。」
「神の光を表現するため」
権力や財力といった特別な力だけではない。
人間はただ生きているだけで、意味があるのである。
では、なんのために生きるのかというと、
神の光を表現するためである。
私は愛されていなかったと感じていた。
だが、それは「神の愛を表現」されてなかったからである。
毎日、生きてゆける環境を神は与えてくれているのである。
酸素があること、毎日食べるものに困らないこと、
寒さで凍え死なない服があること、雨をしのげる家があること
たくさんの働いてくださる人がいて、私のために命を投げ出してくださる動物や植物がいること。
「神の光を表現するため」
神は人間に罰を与えることは絶対にない。
神は人間に幸せを与えようとしているのである。
そして、その幸せはその人間の器の大きさだけしか受け取れない。
毎日無事に生きていけることを、謙虚さを失って「当たり前」だと思っていれば受け取れない。
そして、神は愛を表現できないのである。
「神の光を表現するため」
神は人を幸せにしたい。
だが愛を表現することはできない。
それができるのは人間だけである。
人間には愛を表現する言葉がある。
笑顔でいることがまわりの人間に喜びを与える。
人間は笑顔を作る筋肉も神様から与えられている。
他のいかなる動物も笑ったり、言葉で喜びを与えたりできない。
人間だけが愛を表現できるのである。
「神の光を表現するため」
どれくらい喜ばれるだろうと考えた時、
鉱物ならば、その役割は3つ程度で限定的である。
植物なら、食べられて喜ばれる、食べた動物の糞になり他の地域に栄養を運ぶ、
華の美しさで喜ばれる、蜜をあげて蜂やちょうを生かす
などその範囲は200くらいか
動物であれば、毛皮になったり、かばんになったり、
動きまわれるので300くらい。
では人間は?
人間はどれくらい神の愛を表現できるのか?
答えは無限である。
「神の光を表現するため」
おばあさんが重たそうな荷物を持って、階段を上がろうとしていた。
その荷物を持ってあげた。
「ありがとう」
と言われた瞬間に、その行為は「神の愛を表現した」ことになる。
喜ばれたのである。
神や仏さまや天使ならば、同じようにその行為をしたであろう。
つまり、人間の役割とは「神様のかわりに」愛を表現し、実践することにある。
あなたの手は、足は、顔は、声は、目は、耳は、体はなんのためにあるのか?
神のかわりに神の愛を表現し、喜ばれるためにあるのだ。
「神の光を表現するため」
あなたの体は、神の光を表現するためにあるのである。
ある人が事故にあった。
その人はコンピューターのシステム開発の会社にいた。
リーダーだった。
仕事について遅れやミスをした部下を厳しく責任追及し、
ミスの多い人間は容赦なくメンバーから除外していった。
そして、会社で合唱団の指揮もしていた。
その合唱団はコンクールで何度か2位になっていたが、1位にはなれなかった。
そして優勝できない団員に過酷な練習を強いていた。
「神の光を表現するため」
その人はオートバイ事故で再起不能の重症を負った。
医師からは
「一生寝たきり、よくいって車椅子」
と言われた。
大きく割れた骨盤はサファイアのボルトで固定され、
手や指は固まってまるで死んだ鶏の足のよう。
腕の筋肉がなくなり、竹のようにやせ、
頚骨、肩の関節、ひざの関節なども骨折していて
要するに体全体がもうバラバラでベッドから離れるのはきわめて難しい状態だった。
「神の光を表現するため」
そして、ベッドの上でもてあます時間の中考えた。
「なぜ、競争に勝ちたいのか」
「なぜ、頑張るのか」
「なぜ、お金が欲しいのか」
「なぜ、出世したいのか」
「神の光を表現するため」
競争に勝ちたい、頑張らないといけない、お金を得たい、出世したい、
そのためには、役にたたない人間は切り捨てる。
「そんなこと当たり前じゃないか」
・・・?
どうして当たり前なのか・・・?
「神の光を表現するため」
その人は体がこなごなになって、ベッドの上でようやく気がついた。
幸せとは「自分が嬉しくて、みんなも喜んでくれることだ」
私のやり方は、みんなの喜びを奪っていた。
他人の不幸を招くのであれば、それは幸せではない。
そして「非対立」で「ともに考える」「誰もがしあわせになる社会」
を人に説いていこうと考えた。
そう考え、「動け、よみがえれ!」と祈りながら
温浴とマッサージを続けていた指が、ある日ピクリと動いた。
壊死しかかっていた骨盤が回復に向かい頚骨や、肩の剥離骨折、ひざの骨折なども徐々に回復していった。
「神の光を表現するため」
そして、絶望的と言われた車椅子に乗ることができるようになった。
車椅子で病院の中庭や外庭に出られるようになって、
降り注ぐ太陽、そよぐ風、木々の緑、青い空、町のざわめき
すべてが新鮮で美しく、生きてることの素晴らしさを実感した。
「動ける、見える、感じられるって、こんなにも素晴らしいことだったのか。」
「神の光を表現するため」
体の中にガンができたら、人間はどうするか。
早く切除しようと考えるだろう。
ガン細胞は、周囲から養分を奪い取り、秩序を無視して自己増殖し、
やがて、その生命体を破壊して自分も滅ぶ。
周辺を苦しめて苦しめて、自分さえよければ・・・というのがガン細胞である。
この世は神の体であり、人間はその中の細胞である。
ある人がガン細胞のように、周囲を苦しめて苦しめて、自分さえ良ければ・・・
と行動するとする。
すると神様は
「がん細胞だからこの人は早く切除しよう。殺して取り除いてしまおう。」
と考えるだろう。
「神の光を表現するため」
あなたが生きているのは「神様のかわりに、まわりに喜びを与えなさい。」
といわれてるのだ。
そのために体がある。
笑顔を表現する筋肉もある。
やさしい言葉を話せるのどがある。
力が強い人は、その力を使って「自分が勝つ」のではない。
「喜びを与える」ために力を与えていただいているのだ。
神が必要ないと判断されれば、その力は一瞬で失われる。
だから、奢ることがあってはならないのだ。
たとえ権力があっても、財力があっても
どのような立場であっても、人には謙虚さが必要なのである。
「すべてを肯定する」
あなたは、この世の中でこう思ったことはないだろうか。
この人の話は面白くない、だから聞きたくない。
例えば、あまり有名でないお笑い芸人がいるとする。
つい最近も明石家さんまの番組でやっていた。
今田浩司が新人の芸人を連れてさんまをたずねる。
「ぜひ芸を見てやってください。」と。
その時のゲストで井上真央が来ていた。
「すべてを肯定する」
新人の芸人がコントをする。
新人だけにねられていない、あまり面白くないような芸を披露する。
その芸人の、今の芸がどうですか?
といっているのではない。
もちろん、それもあるだろうが、
その芸人が面白い芸を作り出す可能性を持っている・・・可能性ある芸人だと思うのですが、
どう思いますか?ということである。
さんまは面白くない芸を見て、とりあえず笑う。
そして、色んなことをたずねる。
「今回の芸は俺の好みを聞いて、ネタ考えてくれたのか?
ちょっとじゃあ、自分の普段のネタやってみ。」
「すべてを肯定する」
欽ちゃんの仮装大賞に出てくるような芸なら
「なんでこーなるの?90点!」
ととりあえず面白くなくても、その話に「乗る」
逆に井上真央の方はどうか?
ひくのである。
芸が面白くない・・・という顔をずっとしている。
そして、言葉だけ「勇気が出る芸ですね。」というのである。
「すべてを肯定する」
やっている方の芸人はどういう反応が欲しいか。
もちろん「君の芸は面白いね。」である。
肯定の最高峰は「笑い」である。
見ている人が本当に面白くて笑う、というのが一番である。
だが、誰が見ても面白い芸を見て、「面白い」と笑うのは当たり前である。
いまいち面白くない・・・
でも、その芸を考えた人は一所懸命に考え、恥ずかしさなども乗り越えやっているのである。
だから、面白くなくても肯定してあげるのが慈悲であり、愛である。
面白くなくても笑う。
それができる人間は相当人の心を大切にできる人であり、幸運に恵まれている人である。
「すべてを肯定する」
面白くないのに、笑うことで、どうして幸運に恵まれている人だとわかるのか?
人を味方につけることができるからである。
一所懸命に自分の芸を披露した。
そして、笑ってもらえなかった。
するとその人は、もう笑ってもらえなかった人にその芸をしようと思わなくなる。
別の芸も考えてきた・・・だけど、面白くないと否定されたから、
もうその芸をするのはやめよう。
となる。
このように
否定する人は、幸運から見放された人である。
「否定する人は、幸運から見放された人である」
同じことは人の親切にも言える。
ある人が親切に情報を持ってきたとする。
「スキーに行くなら、どこそこがいいよ。」
「サーフィンするなら、これ持っていったほうがいいよ。」
その情報を実は自分が知っていたとする。
「言われなくても知ってるよ。」
こう言われれば、相手は別の情報を持っていても
「たぶん知ってるだろうし、また嫌な返し方をされるかも知れないし、
言わないでおこう。」
となる。
「否定する人は、幸運から見放された人である」
自分が知っている情報を相手が持ってきた。
「ありがとう。良かった〜、じゃあ、それを持っていくよ。」
と肯定する。
知っていても「知らなかったよ、教えてくれて助かったよ。」
と肯定する。
そうすれば、相手は次々に情報を持ってきてくれるだろう。
その中には自分の知らない本当に大切な情報もあるかも知れない。
こうして、肯定する人には出会った人一人一人が味方につき、
色々なことが集まるのである。
豊臣秀吉も既に自分が知っている情報をある人が教えてくれた。
「柴田勝家に気をつけてくだされ。」
柴田勝家が秀吉を亡き者にし、天下を狙っていることを秀吉は既に知っていた。
しかし、秀吉はそれを教えてくれた相手に
「お心遣い、感謝する。大変ありがたいことです。」
と言った。
「否定する人は、幸運から見放された人である」
だから、否定する人はめちゃくちゃ運が悪いのである。
人も情報も集まらない。
自分が攻撃されているなら、相手を否定するのはわかる。
しかし、自分がその人の芸が面白くないから、その人の感覚と合わないから、と嫌な顔をするのは不運の人である。
相手は、自分と違う環境で育ってきている。
自分と相手と感覚が違って当たり前なのである。
好きな食べ物も違うし、服のセンスも違うし、恋人の理想も違うだろう。
面白いと思うことも違うだろうし、なにもかも違う。
だから、自分の思うことはいったん置いて置いて、相手を受け入れる。
全然笑うところがない、と思ったとしても、
どういう時に思いついたの?
どんな人を目指してるの?
と相手に興味を持つくらいはできる。
「恥をかいていい」
昔から世間の人はいいました。
そんな恥ずかしいことをしてはいけない、と。
しかし、どういうことが恥ずかしいことで、恥ずかしいことでないのか。
その線引きはどこでするのか。
「そんな当たり前のことを聞くなんて、恥ずかしくないのか?」
だから、どこからどこまでが恥ずかしいことなんですか?
実は権力を握った人が言い始めたことなのです。
恥ずかしいことをしてはいけない、といっていると下の人間が動かなくなる。
人がなにか始めると、たいてい失敗する。
そして、その失敗を恥ずかしいと思わせれば、権力者は今の権力を維持できる。
「恥をかいていい」
人はなんのために生きるかというと、他人に喜びを与えるためです。
他人に喜びを与えようとして、自分が考えた芸をした。
「そんな面白くない芸をして、恥ずかしいと思わないのか。」
そんなばかな。
他人のために働いていて、わからないことが出てきたのでたずねた。
「そんなことを聞いて、恥ずかしくないのか?」
そんなばかな。
あり得ないんです。
やってることは「人に喜びを与えること」
であれば
困っているおばあさんの荷物を持ってあげるのと同じ。
貧しい人にパンをあげるのと同じ。
苦しい人を病院に運ぶのと同じ。
そういう人に恥ずかしいぞって言いますか?絶対言いません。
本質を見ていないから、そういうことが言えるんです。
「恥をかいていい」
人は、「喜びを与えるために」生まれてきた。
であれば、「恥をかいてはいけない」というのはおかしい。
神様が人を世の中に出す。
その人が「多くの人に喜びを与える」ために。
ならば、その人は光輝いていなければおかしい。
花のようにあざやかにそれぞれの色で美しく咲いている。
それが当たり前なんです。
だから、どんどん「恥をかいていい」
他人を喜ばせようと恥をかいていて普通。
恥をかいてはいけないと、部屋のすみでだまっているような人がおかしい。
これがこの世の常識なんです。
「自然とは」
自然のままとは一切のコントロールがないという状態。
自分が自分以外のものをコントロールできるというのは大きなうぬぼれである。
さきほどの「恥をかいてはいけない」
以外にも
「普通はこうだ」「常識で考えてこれ以外にない」
「当たり前だ」「罪悪感がないのか」
など、世の中には「コントローラー」がたくさん存在している。
それは誰かが自分に都合よくなるように考えたものである。
自分が「喜びを与えるために」ある行動をとった。
誰かが「コントローラー」で非難してきた。
「そんな非常識なことをして、恥ずかしくないのか?」
このようなコントローラーはすべて無視していい。
なぜなら、このような人間の言うことは自分の都合でコロコロ変わるからである。
233 :
神も仏も名無しさん:2008/01/07(月) 07:31:12 ID:WpJtZ0y0
法律にコントロールされないで
自由に犯罪を犯せと?
>>233 犯罪を犯せとは言ってない。
法律の範囲内で自由にすればいい。
既に法律の枠の中にある他人に、
「努力しろ」とか「もっと一生懸命がんばれ」とか「勝負に勝て」とか
コントロールするのはおかしい、と言っているのです。
恥とか罪悪感とか、身分とか常識とか色々なものを使ってコントロールしようとするが
それはもともと「その人のことを思って」言っていない。
行動されて誰にとって都合が悪いのか
「自分にとって」である。
「自己保身」があるから、「他人の行動を操作しよう」となる。
コントロールが生まれる。
「コントローラーは無視」
常識だから、決まっているから、当たり前だから、
非常識だから、恥ずかしいから、みっともないから
そのようなコントローラーはすべて無視すること。
なぜならば、神が人間に与えた「絶対自由」に逆らっているからである。
神は人間に絶対自由を与えた。
その自由の中で、人間はひとりひとり何かを学ぶために生まれてきた。
ある人が「自分はこの道を行きたい」と言ったとする。
経験ある友人が、その道は進むと痛い目にあうことがわかっているとする。
だからといって引き止めてはいけない。
その人は失敗から何かを学ぶからである。
そして、コントロールでなく何を参考にすべきかというと
歴史を参考にすべきなのである。
「歴史を参考に自分の道を進め」
たとえば、天下を統一し寿命をまっとうした豊臣秀吉はどのように生きたのか。
志なかば、人生の途中で味方に裏切られ死ぬ織田信長はどのような人物か。
ローマ帝国はどうやって繁栄したのか
どのようになって滅んだのか
コントロールほど当てにならないものはない。
常識はゴミ箱に捨てるべきである。
当たり前とか、ルールとか、決まりごととか「その時代を生きている人」には本質が見えないのである。
戦国時代の人ならば「戦いがあって当たり前」である。
しかし、その時代が終わってしまえば「人を殺すことは当たり前」ではない。
このように常識はゴミ箱へ捨て、歴史から生きる方法を学ぶべきである。
「重要感を与える」
喜びを与えるには「重要感を与える」ことも入る
そのために「仕事・報酬を与える」ことも重要である。
その人を必要として「仕事を与える」のは、喜びを与えることである。
「必要とされているのだ。役に立っているのだ。喜ばれているのだ。」
という喜びを与えるからである。
喜ばれる喜びを与えるのである。
そこへされに仕事の報酬を払えばなお良い。
「仕事を与え・報酬を与える」
豊臣秀吉は高松城を水攻めするとき、人造湖を作り出すために土が必要であった。
そのために仕事を用意した。
土俵一俵を運んでくれば、誰でも銭百文と米一升を与えるという・・・条件が夢のようであった。
備中、備前一帯の人間は発狂した。
子供や老婆までが土俵をかつぎだしたという。
ノイローゼの人がいた。
自分がなんのために生きているのかわからなくなった。
「じゃあ、こういう編み物を作って欲しい」
とお願いする。
すると、編み物を編むことで「自分が必要とされている」と感じることができる。
「自分が喜ばれるために生きている」ことが実感でき、心が晴れる。
しかも、報酬をもらうことができる。
喜ばれて、お金ももらえて、その人は嬉しいであろう。
そして、報酬はできるだけ高く払うべきである。
「お金は喜ばれるように使う」
安いスーパーだからお金を払う、のではない。
この店のこの人に喜ばれるからスーパーより高くても買う、のである。
友人がなにか事業をはじめた。
「じゃあ、買ってあげるから安くしてよ。」ではない。
友人だからこそ高く買ってあげるのだ。
報酬をケチってはいけない。
なぜなら、お金は喜ばれるように使うために存在しているからである。
「見た目の清潔さ」
如来はかざらないという。
如来の一段下の菩薩は宝石や首飾りや腕輪やら、
自分の身に着けるものに執着がある段階である。
ブッタも常に布切れ一枚を着ていて、シュッドダナー王から「乞食のようだ」と思われた。
だが普通の人間がこの究極の境地をいきなり目指すのは無理がある。
インドであらば話はわかるが、ここは日本なので
とりあえず見た目の清潔さが必要である。
髪の毛ボサボサで、ヨレヨレの服を着て、くつはドロドロ・・・
この姿で相手が喜ぶであろうか?
日本人であれば、そのような人は避けられるであろうし、まったく喜ばれないだろう。
というわけでとりあえず菩薩を目指そう。
「顔のつや」
格好は清潔でも、笑顔が汚かったらがっかりする。
よって顔につやを出して、笑顔になった時に
相手に元気を与えるようでありたい。
「まわりの清潔さ」
引き続き清潔さを目指すべきものがある。
自分の身の回りである。
「ああ、この人は笑顔もステキだし、服も清潔そうだし、くつもピカピカだ。」
しかし、自宅に行くと部屋はごみだらけで足の踏み場もない。
または仕事場は散らかり放題で、とても汚い。
これでは喜ばれない。
だから、身の回りを清潔に保つ「そうじ」が必要である。
まとめ
人は喜ばれるために生きている
言葉で喜ばれる
1安心を与える
2喜びを与える
褒める・いい予言をする
感謝する
笑い・ぼけ・つっこみ
顔で喜ばれる
笑顔
顔のつやを出す
格好で喜ばれる
清潔さ
オシャレ
きらきら光るものを身に着ける
周りがきれいで喜ばれる
そうじ
行動で喜ばれる
お金をおごる、物をあげる
仕事を与え、報酬を与える
お礼、お返しをする
苦しみ、困ったことをとる、病院を紹介、恋人を紹介、いらない物をひきとる
お祝い事の日に祝いのものを贈る
誕生日、結婚記念日、入学祝い、
おまけ
「他心通」
人は生まれて、愛されるか、愛されない
人は肉体的自由を得るか、得られない
人は価値・権力を得るか、価値・権力を得られない
人は悟るか、悟れない
@生まれて大切に育てられ、愛情を与えられれば
苦しいことがあっても、他人に慈悲と愛を与えられるだろう。
そして、まわりには同じように愛されて育った人が集まるだろう。
その結果、幸せが集まり、人生で困難に遭おうとも、楽しく乗り越えていく道を歩む。
しかし、A愛されなかった人はそうはいかない。
愛されなかったために、愛がない。
その人の中に光がない。
だから苦しいことがあれば、他人に慈悲や愛を与えられない。
愚痴や文句、不満を言うだろう。
AのA
その人が価値・権力を得ていれば、コントロールを与えるだろう。
傲慢となり、うぬぼれ、独裁し、怒り、いじめ、暴力し、見捨て、切り捨てるだろう。
力を突然失うようなことがあれば、気がふれ、他人を殺傷し、破壊し、自殺する。
他人を思いやる心はない。
AのB
得ていなければ、心の中に憎悪をためるだろう。
相手の行動にひき、恨み、憎み、ねたみ、影で意地悪を繰り返す、影で文句を言う。
やがてためきれなくなり突然キレ、殺傷し、破壊し、殺すだろう。
AのC
得ていても、得ていなくても
他人と関わるのがうっとおしい人は
不平不満、文句をいいながらも、できるだけ他人と関わらずに生きるだろう。
神は人間に幸せを与えたい
だが、愛されなかった人間は自分が神から愛されていることに気づかない。
気づかせるために、神は与えているものを一時的にとるのである。
事故にあったり、いままで与えられていたものがなくなったりする。
そして神が与えている幸せに気づかず、まだ「自分は不幸だ」と思っていると、さらに与えているものをとってわからせようとするのである。
AのD
そして自分の思いを消し去り、悟りを開き、何もかもがありがたいことであることに気がつく。
まわりにあるものが、すべて感謝の対象であることに気がつく。
すると神は、もうわからせる必要がないのでとらない。
「ありがたい、ありがたい」と言っていると
「じゃあ、もっとやってあげようかな。」と幸せが集まってくる。
他人に幸せを与えていると
「こいつにはもっと色んなもん与えておく方がいいな。」と幸せが集まってくる。
「他心」とは他人の心を知る力である。
どうやって知るのか?
言葉と表情から読み取るのである。
その人が人生の修行の中で、どの位置にいるのかを推測する。
その人が光の本質から近いか遠いかで見るのである。
@であれば、愛されて育っているので、ほとんど光の本質そのものである。
Aであれば、愛されて育っていないので、
「感謝」のない段階(AかBかC)であれば、その人の与えられているものが失われることが起こるとわかる。
過去には光を与えられなかったことがわかる。
現在は不幸に取り囲まれているとわかる。
未来に不幸が起こるとわかる。
力があるAのAなら、力の弱い、同じように愛されずに育ったAのBを支配する
形で関係をむすぶだろう。
@かAかを何で判断するのかというと、言葉である。
ひと言でわかる。
「ちくしょう!なんでこんなことになるんだ」
「あいつは絶対許さない。家に帰ったらこっぴどく叱ってやる。」
「犬のうんこ踏んじゃって、ついてないよ。」
「こんな仕打ち、あんまりじゃないか。」
「俺ほど仕事が早い人間はこの会社にいないからな。」
「まだこの程度しかできてないのか。」
このような愚痴、文句、不満、憎しみ、傲慢な言葉を口に出せば、
@光の人間は意見が合わないので近寄りにくい。
光とブラックホールでは物事の感じ方が違うのである。
友達として集まるのはやはりブラックホールとなろう。
過去には
両親が冷たかった、暴力を振るった、自由を奪いコントロールした
価値観を押し付けた、親戚にいじめられた、
そして、
育ってきた友達やらとの関係も同じである。
苦しんでいれば明るい友達は近づけない。
「ちくしょう」
と文句ばっかり出るその人に嫌気が差して離れていってしまう。
口に出さなくても、心に思っていることはなんとなく伝わって、一緒にいると息苦しい。
だから、光の人間は遠ざかり、生まれてからずっとブラックホールの環境にいるのである。
そして、同じブラックホールの人間同士で支配・被支配の関係を続けるか
@とうわべだけの友達関係を続けるだろう。
@光の人間もたとえば友達として、ブラックホールと光の友達がいれば
光の友達と会うのを優先する。
光とは「知り合い」程度になり、
よく気が合うといえば、ブラックホール同士になる。
Aは目標対象を失ったミサイルのようである。
なにが大切で、なにを目指し、なにをすればいいのかわからない。
幼い日に、自分自身を徹底的に否定されたのである。
光を奪われてしまった。
そして、嬉しいという感情が失われると、どのような顔をしていいのかわからない。
能面な顔になる。
喜怒哀楽をほとんど表現しなくなる。
笑わなくなる。
他人の嬉しいことに共感する意味がまったくわからない。
常に愚痴を、文句を、不平不満を言って過ごしている。
Aは@光とは徹底的に合わない。
たとえば、好きな映画も違う。
ホラー映画で「ソウ」という映画がある。
光の人間は見る気もしない。
ところがブラックホールの人間は、不幸とか苦しみとかを常にあじわい、幸せを感じることはめったいにないので
「この殺される恐怖感がいい。」
などと受け取ってしまうのである。
現実の自分の不幸から、一瞬気がそれるからである。
そして、
光の人間であれば明るい服を選ぶ。
ブラックホールが選ぶ服は、くすんだグレーとか黒とかである。
それが、それぞれ「自分にしっくりくる」のである。
AはDにならなければ、幸せにはなれない。
まわりが感謝の対象であることに気がつかなければ、いつまでたっても不幸に囲まれたままである。
だが、ここで勇気づけられることがある。
AのDは、生まれた時から愛された@と違って、自らで悟りを開いたのである。
@でも不幸につぐ不幸で、徹底して苦しい状況に追い込まれれば
文句や愚痴が出てくるであろう。
その結果、他人のこころをおざなりにし、傷つけてしまうこともある。
苦しみの中で悟ったAのDはあらゆる不幸や苦しみを、幸せととるので
まさに人として、相当苦しい状況になろうとも、鬼よりも強い耐久力を示すであろう。
そして、@はAの気持ちがわからない。
人に愛されない苦しみは、いつまでたっても理解できない。
経験がないからである。
進んでいく人生の中、仕事や人間関係でまったく光のない環境にたまたま飛び込んだらどうするか。
「ここは嫌だ〜」と回避するだろう。
愛された暖かさを知っているから、感覚でその場所がおかしいとすぐに気がつく。
光によって守られているのである。
また回避できなかったとしても、過去に愛されたことで
その光を思い出しながら、環境に耐えることもできるだろう。
苦境に立たされてもブラックホールにならずにすむ。
しかし、愛の無い人間が過去どのように苦しみ、光を奪われたかは想像もつかない。
光がまったくない状態が、わからない。
その人の予想をはるかに超えたむごたらしいものであると認識できない。
もちろんAの過去も現在も未来もわからないし、
@の過去も現在も未来も読めない。
(自分の過去と現在はわかる)
@は暖かい家庭で育ってきた。
だから他人も同じだと思う。
他人が愛されずに育ってきた、と聞いても
愛されないという苦しみはわからない。
その結果、「他心」は絶対に使えない。
Aがどのような気持ちで人を殺すのかわからない。
@の現在は幸せである。
他人が苦しい思いをしていることは「自分の考える範囲の苦しさ」であり
理解してあげることはできない。
たとえば、ある人の彼氏が頻繁に連絡してきて、本当に負担である。
なんでこんなに束縛するのだろう、と悩んでいるとする。
そして、「最近恋人が束縛がひどい」と相談すると
「いいじゃない、愛されてて。」
と自分の感覚で受け取ってしまうのである。
「目の前の人」
最後に、光を与えられず育ってきた人にアドバイスを。
自分と他人は同じ「太陽の光」からうまれた。
であれば、自他を分けるのは意味が無いことである。
育った環境は違うので、考え方は違う。
だが、その人はその人のままでいいのだ、と受け止めてあげる。
まったく「赤の他人だ」と思うから、ちょっとしたことで腹が立つのである。
「他人を自分である」と思えれば、どのように接すればいいかわかるであろう。
喜ばれることである。
勝ち負けを競う意味はどこにもない。
「目の前の人は家族」
しかし、自分と他人が一緒というのはちょっと理解しがたいので、
「他人を家族だ」と思ってはどうだろう。
どのような年上の男性に接しても
「この人は自分の父親だ」と思う。
どのような年下の男に出会っても
「こいつは俺の弟だ」と思う。
どのような女性に出会っても
「こいつは私の妹だ」と思う。
そして、「この人が自分の家族だったら」自分はどう行動するか。
大切にするだろう。
そのように、目の前の人すべてを大切に生きることである。
>>234 >犯罪を犯せとは言ってない。
>法律の範囲内で自由にすればいい。
>既に法律の枠の中にある他人に、
>「努力しろ」とか「もっと一生懸命がんばれ」とか「勝負に勝て」とか
>コントロールするのはおかしい、と言っているのです。
激しい矛盾を含んだ文章ですね。
脅迫、強要などの発言は、法律を犯すことになり得ますが、
「努力しろ」、「もっと一生懸命がんばれ」、「勝負に勝て」
などの発言は、通常は法律で規制されるものではないでしょう。
発言した人は、法律の範囲内で自由にしているわけですが。
>>260 大自然を見てほしい。コントロールはひとつもない。
水の中で生きたいものは水中で過ごし、
山奥で生きたいものは山で暮らす。
自分が生きることに関しては「自由に生きている」
他者が生きる生き方を「コントロールしない」
そして、自らが大自然の一部であり、おのれに足ることを知っている。
「今」の自分に必要でないのに、ライオンがグルメと称して草食動物を殺しまくるだろうか?
おなかがいっぱいであれば、近くに草食動物がいても見向きもしないであろう。
足ることを知り、大自然と調和して生きている。
「努力しろ」、「もっと一生懸命がんばれ」、「勝負に勝て」
というのは、そう言って他者をコントロールすることで、自分がいい思いができると思っているから言うのである。
足ることを知らない未熟な発言にすぎない。
しかし、法律にしばられるという気持ちもよくわかる。
法律の範囲外なら何を言ってもやってもいい・・・という気持ちもわかる。
基準をどこに置くか、という違いである。
現在の法律は過去の犯罪やもめごとがあった際に、円満に解決する方法が書かれている。
だから本当なら「円満に解決できる」のならば法にたよらなくてもいいのである。
人間はどうしても自己保存が出てくるので今のような法律になったが、
すべての人間が悟っていれば、法律はいらないのかも知れない。
悟っている人間は、ブッタのいう大宇宙の法にしたがうからである。
一見矛盾しているのではないか?と自分でも思ったこのような点を
指摘して頂いて、大変ありがたい。
新たな発見をすることができた・・・お心づかい感謝する。
263 :
立ち寄り覗き見:2008/01/09(水) 18:10:13 ID:Moaqd+Ss
ガンガッテクダチャイ。
憲法と法規と事実と正義を捩曲げるのが裁判の腐敗した現実
ユダヤ人は破壊活動犯罪カルトだから、創価殺人破壊活動犯罪カルトと同じ666の獣でガチだ。
アルカイダというでっちあげられた架空の存在も、ユダヤの組織の一部ということでガチガチである。これも現実だ。
だが、驚愕すべきは、
アドルフ・ヒットラーでさえも、架空人物の王様・ビンラーディンのどちらも、
やはり、破壊活動犯罪カルトでしかないユダヤ人なのであるという、
この唯一にして、確かなる現実は、
これまで現実逃避だけをただ理由もなく好み続けて来たいかに馬鹿で無教養な低IQの大衆愚民であっても、
現実逃避することを避けて通ることを許されない、リアルでシリアスな闇の現実なのであるということだ。
ハイル・ヒットラー!
人類史とは、こうした操作される馬鹿で低IQ成るゴミ愚民らの争いと混乱した腐敗の歴史でしかないのが現実なのだからだ。
265 :
神も仏も名無しさん:2008/01/12(土) 14:51:13 ID:M3kKPYk7
久々にバカハンターが吠えているぜ!
お前もガンガッテクダチャイね。
266 :
おっぱっぴ〜:2008/01/20(日) 15:38:57 ID:rArTaMhH
1日1句、日めくりのスローガンみたいなレスだね。
単調でつまんねぇ! 秋田けん、もういい!
267 :
神も仏も名無しさん:2008/01/21(月) 01:26:10 ID:F0/sJKEs
中丸薫って、高橋信次の高弟だったらしいけど、
過去世認定では誰だったのですか?
268 :
神も仏も名無しさん:2008/01/21(月) 19:08:39 ID:L97QxPVq
寛永時代
木曽のマタギで吾一
269 :
神も仏も名無しさん:2008/01/21(月) 23:42:12 ID:ly93ubQG
クレオパトラ&天照大神と認定されている
270 :
神も仏も名無しさん:2008/01/22(火) 00:20:57 ID:bmGdIrHg
前世はドロンジョで、来世はキングギトラ
271 :
神も仏も名無しさん:2008/01/22(火) 15:27:32 ID:bmGdIrHg
732年前の函館湾のホタテ貝認定だったかと?
272 :
神も仏も名無しさん:2008/01/22(火) 19:04:12 ID:zwB9og3M
正解は、「卑弥呼の部下」です。
273 :
神も仏も名無しさん:2008/01/23(水) 00:02:33 ID:lFiw4JQr
いや! 正しくは卑弥呼が着けた「腰巻」と言うべきでしょう。
274 :
神も仏も名無しさん:2008/01/25(金) 15:20:51 ID:BY4H0YKx
恐山の石積み
275 :
神も仏も名無しさん:2008/01/27(日) 09:16:36 ID:2PqQP6zP
過去世は、熊に喰われた鮭だったかな?
276 :
神も仏も名無しさん:2008/01/29(火) 08:47:10 ID:R/MsuZOb
木っ端のミジンコです。
277 :
神も仏も名無しさん:2008/02/01(金) 22:30:12 ID:9bhZU3xu
確か、餃子の皮だった。
278 :
神も仏も名無しさん:2008/02/02(土) 19:26:27 ID:vesCqhQg
しかも毒薬入り
279 :
神も仏も名無しさん:2008/02/03(日) 01:16:58 ID:tP0REAfh
その前々世は中国沿岸のアサリ
280 :
神も仏も名無しさん:2008/02/04(月) 04:56:03 ID:LBaMCdgI
ホークさんこなくなったね
思うに最後の力をふりしぼって何かを伝えたかったに違いない
でないとこのレスの勢いは何と説明できよう
なにはともあれオツでした
281 :
神も仏も名無しさん:2008/02/04(月) 05:19:04 ID:Tnslc+Jg
悲しいから泣く
嬉しいから笑う
ムカつくから怒る
普通だよね
高橋信次氏から学んだすべてを吐き出してしまったので
書き込まないだけで、一応いるよ。
>>281 正常な人間らしい判断だ。
悟ったとはいえ私も人間で、人から馬鹿にされれば
「なんだ!この野郎!」
となる。
いつか何かの形で思い切りやり返してやろうと思うことは何度もある。
それが人間らしい反応だからである。
・・・思うに現世はちょっと修行の場としては、厳しすぎるのではないか?
高橋信次氏から学んだ真理については、基本的なことはすべて述べた。
ただし、私には自分の経験があったので理解できたが、
いくつかは己の歩む道で直接出会わなければ理解しがたいものもある。
高橋信次氏に出会い、悟りをまとめる場所を探していたがどこにもなく
こちらのスレでに投稿させていただいた。
結果として、スレッドを乗っ取ったような形になってしまったが
そのような意図はまったくない
引き続きスレ主にも来て頂きたいし、
道に迷ったり、辛い思いをしている誰の悩みでも相談に乗ろう。
高橋信次氏は心理を悟り、わかりやすく書いてくださった。
そこから先にもう一歩踏み入れようと思うが、それは信次氏とまったく関係のない分野である。
しかし、信次氏の述べられた「調和」を実現する上で必要なものである。
ここからは応用編としての「調和の実現」を具体的に書いていきたい。
と思ったが、スレッドが「高橋信次に学ぶ」となっているので
誰かの希望があれば乗せることにする。
かわりに政木和三氏を載せておこう。
信次氏にもっとも近い考え方をされた方であり、発明数は数千。
自動炊飯器、自動ドア、瞬間湯沸かし器、格安テレビ、エレキギター、など
人の役に立つ発明をしながら
「特許料はいりません。どうぞ勝手に作って売ってください。」
とこれまた信次氏とは違った意味で度肝を抜かれる人物である。
http://www12.ocn.ne.jp/~agosu1/index.html 政木先生の教えというページで、本人の公演が音声で聞けるので
興味のある方は見て欲しい。
285 :
神も仏も名無しさん:2008/02/07(木) 11:31:54 ID:IbUVEPJI
高橋信次の前世は、誰なのですか?
286 :
神も仏も名無しさん:2008/02/07(木) 12:58:20 ID:5nIGap37
魂の永遠性という事と中道の道は理解するけれど、その後過去生を見る後継者
は居るのかな??
q
288 :
神も仏も名無しさん:2008/02/09(土) 17:27:21 ID:R/pRa8WP
>>285 このボクですが・・・
何か御質問でも?
289 :
神も仏も名無しさん:2008/02/10(日) 17:21:41 ID:/r9valFb
あなたの名前を教えてください。
290 :
神も仏も名無しさん:2008/02/10(日) 21:03:50 ID:1zCK3PRO
高橋信次の後
彼が非難した宗教団体がそのままつくられてゆくとは、笑止千万ですね。
291 :
神も仏も名無しさん:2008/02/11(月) 01:26:04 ID:kGSdiZpa
>>289 高橋信次EXと申します。
以後宜しゅうに。
292 :
神も仏も名無しさん:2008/02/12(火) 01:01:10 ID:Hrf/1B6z
高橋信次の前世としては、二つの説がある。
1)釈迦
2)エル・ランティ
あなたはどっち?
293 :
神も仏も名無しさん:2008/02/13(水) 00:51:29 ID:3OL0I/8W
どちらも同一人格の表裏一源ですが。
しかし、貴殿の指摘する前世は、正しくは前々々々々世と述べるべきで、
今世まで五転生しております。
294 :
神も仏も名無しさん:2008/02/15(金) 15:46:07 ID:Pl0NUHVR
その五つの転生の名前を教えていただけませんか?
295 :
神も仏も名無しさん:2008/02/15(金) 18:12:37 ID:vgJ5FFgE
個人情報保護法が施行された昨今、
ここで公開するわけには参りませんのでご理解のほどを。
過去に拘り、かつての呼称など知ったとて誰一人として幸福になれるものでは在りません。
「過去には拘らない・・」これは、社会の歴史考察に悩んでいた洋七少年に放った佐賀のがばいばあちゃんの名言です。
過去世の名声などどうでもよいのです。釈迦だイエスだモーゼだミカエルだったと拘るから騙されるのです、ご自重下さい。
>>295 過去世情報は、個人情報保護法の対象外ですので、心配無用ですよ。
ぜひ、書き込んでください。
信頼性の高い情報によれば、高橋信次は、この地球上において、
5回も転生はしていません。
298 :
神も仏も名無しさん:2008/02/16(土) 16:41:06 ID:kTqCdphl
釈迦として生を受け、その後今の中国で餃子発案者として転生し、江戸末期には木戸孝允として分霊し出生しました。
299 :
神も仏も名無しさん:2008/02/18(月) 00:55:50 ID:BcqICgjt
信頼性の高い情報とは?
「さる筋からの情報に拠れば・・・」が定番の北芝健ちゃんでしょうか?(w 腹痛てぇー)
300 :
K:2008/02/18(月) 19:03:27 ID:p4jQgYET
さて・・。
そろそろ再開といきますか。
体調も少し良くなってきたし。