■☆■レムリア・ルネッサンスについて■☆■

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521tama
【その1】
>>517
>507で書いた自分と向き合う 見つめるというのは反省について書いたのでは ありません
>もっと奥にある自分、レムリア的に言うと神の一部 そういうものと
>向き合う です
>反省は「表面的なところ」があるので 違うと感じます

「507」さん。
高橋信次が説いた反省は、善意の第三者の立場に立って、自分自身の心と行いをありのままに見つめ直し、間違いがあればその原因を本質から究明し、
二度と同じ間違いをしないように心に誓う、と言うことの積み重ねで心の曇りを取り除き、光明に満ちた本来の神の子としての自分に帰ってゆこう、
というもので、「表面的なところ」は無いと思います。
ひょっとしたら、貴殿は「善意の第三者の立場に立って、ありのままに見つめる」と言うところに、自分の本来の神性をうまく見出せ無い時、
悪い面ばかりが目立ち、自責の念にかられ、自虐的になる、との危険性を感じるから、反省には「表面的なところ」がある、とのご意見をお持ち
なのかもしれません。
確かに、そのような危惧もあるかと思いますので、自分を反省する場合には、自分自身が既に神(根源神)より深く深く愛されている神の子で
あること、本来自分自身は愛の塊であり、心の内奥は光の塊でもあるにも係わらず、表面に曇りを作ってしまっているだけである事、従って、
自分を責めずに、明るく前向きに捉える事が肝要ですね。
522tama:2008/09/25(木) 02:46:30 ID:K6EetQ2e
【その2】 (続き)

>>517
>中道ですが
>tamaさんの場合は 反省した着地点が 中道に受け取れるが
>反省ごとに 中道が変わるんですか?
>私の思う中道は
>何者にも支配されず  何者にも依存せず 調和の中
>私は ただひたすらに 私でありつずける
>何者でもなく その私で生きるということだ

「507」さん。
高橋信次の説いた反省の「ものさし」としての中道は、苦楽の両極端に偏らない中道であり、心の偏りや執着を去った本来の円満な調和に満ちた
自分自身の姿でもあり、何者にも束縛(支配)されない自由な(依存心を去った)自分自身であることが説かれています。
貴殿の言われる中道とほとんど同じです。
私のにとって中道とは、極端に走らず、調和された心と行いであり、反省ごとに中道が変わるのではなく、不変のものです。
523tama:2008/09/25(木) 02:52:59 ID:K6EetQ2e
【その3】 (上記に続く)

>>517
>そこには 指針や十ヵ条など 必要ないのです むしろ邪魔であるくらいだ
>私の言う中道は あなたがたでいう 内在する神の一部 そのものだと 思いますが
>それこそ 一番大事なことじゃないんですか
>霊言でそれらに触れていますか?
>私は 欠けているとおもいます 

「507」さん。
一方、レムリアの霊言においては、
>>518
でアドバイスを頂いた箇所を見ると、ゼウス様が

「大事なのは、人びとの心に眠る神の子としての神性を、今一度、揺さぶり目覚めさせること。それがいちばん大切なのだ。
最初から神の子でない者を神の子にしろというのではない。
皆、平等に、己が心の中に神の子としての神性を、もともと持っているのだ。
それを目覚めさせよと。
己れ自身に気づかせよと。
そこに尽きているのだ。」

と説かれており、中道に生きる自分=調和に満ちた自分=神の子としての愛と光に満ちた自分
という事を考えると、中道の教えが欠けていると言うより、ただ、表現の仕方が異なるだけだと思いますが
如何でしょうか。
524tama:2008/09/25(木) 03:00:45 ID:K6EetQ2e
【その4】 (上記に続く)

>>517
「507」さん。
一つ、貴殿のご意見の中で少し気になるのは、

>何者でもなく その私で生きるということだ
>そこには 指針や十ヵ条など 必要ないのです むしろ邪魔であるくらいだ

という部分で、自分自身を信じるが故に「増上慢にならないかな」と言うことがやや心配です。
「何者でもなく その私で生きるということ」は、自分自身を信じ、真我として生きる、即ち、自分自身は素晴らしい神の子で、既に神より
深く愛されて今日まで生きてこれたわけですから、この事を自覚したならば、私たちの魂の親でもある神(根源神)への感謝の心に満たされる
はずであり、その恩返しを少しでもしたいという湧き出る思いが、十ヵ条のような理想的な法に自ら従いたい、そこに神の子としての
かけがえの無い幸福がある、という謙虚な気持ちにつながってきます。
 もし、これを不必要な邪魔な事と感じるのであれば、もう一度、自分自身を本当に神の子と深く信じているかどうか、神の自分自身への
愛の深さをどの程度感じているのか、その神への感謝の気持ちが自然に湧き上がってきているのか、などをもう一度チェックされたら
如何でしょうか。
 このあたりが、法の高みとして一番難しいところだと思いますので。
的外れなお節介であったり、私の思い違いがあるかも知れませんので、その節はどうか、ご容赦お願いいたします。