715 :
263:2007/12/23(日) 11:37:32 ID:deuTDfjx
『径』(大品般若径・意)にのたまわく、「五逆の罪人、阿鼻大地獄のなかに堕してつぶさに一劫の重罪を受く。
正法を誹謗する人は阿鼻大地獄のなかに堕して、この劫もし尽きぬれば、また転じて他方の阿鼻大地獄のなかに至る。
かくのごとく展転して百千の阿鼻大地獄をへる」と。仏(釈尊)、出ずることを得る時節を記したまわず。誹謗正法の罪
きわめて重きをもってのゆえなり。また正法はすなわち仏教なり。この愚痴の人すでに誹謗を生ず。いずくんぞ仏土に生ぜん
と願ずることわりあらんや。たとひだだかの土の安楽をむさぶりて生ぜんと願ずるは、また水にあらざる氷、煙なき火を求むる
がごとし。あにことわりを得ることあらんや。
問ひていはく、なんらの相かこれ正法を誹謗する。
答えていはく、もし仏なく、仏の法なし、菩薩なく、菩薩の法なしといはん。
かくのごとき等の見、もしは心にみずから解し、もしは他に従ひて受け、その
心決定するをみな正法を誹謗すと名ずく。
716 :
神も仏も名無しさん:2007/12/23(日) 11:42:47 ID:A3NT1qFz
キリスト教にも他の宗教の信者の中にも妙好人はいくらでも存在する。
ようは、人間より高次な存在を受け入れ、信じ、エゴが神的存在により変容し、無我的になり、神と共に生きている人々のことだろう。
717 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/12/23(日) 11:47:45 ID:v+JIsc+f
再掲します。
2月3日第一日曜日、東京新宿で新年会を考えています。
集合場所、東京・新宿駅
近くで飲み会をしませんか。
夕方5時ころ集合、その後近くの店で新年会
12月、1月は店は予約で一杯だと思うから、予約なしの飛び込みで席が
取れそうな2月を選びました。
これはネタじゃないよ。煽りでもない。ただ、予定だから変更はある。細部は未定。
何か意見・提案のある方は、この掲示板でもいい。メールでもいい。送って貰えるとありがたい。
集合してくれる人は4,5人だと思っていますが、100人、200人も来るとなると
こちらも考えないといけない。
集合者がゼロなら中止。
なお、参加名は愛称・匿名OKとしたいと考えています。
詳細は後日
[email protected]
>298さんにはなんだか親鸞会と同じ自力臭さを感じるんだよね
浄土仮宗ってかんじ
ただ浄土真宗だけをといていても真実には到達できないから
その存在は否定すべきではないってことになるんかな、あんまり賛同したくないのだが。
だけど、自分は弥陀ではないから仮を教えるのが真宗の役目と自負されて
おられるとしたら、何かまた顛倒している状態を生みそうでこわいのよね
298さんに違和感をかんじるのは仮なるものを自負しているという一点に尽きるかも知れない。
>>654 >ご法義の風邪
遅レスで、とうみさんと被るかも知れませんが・・・。お返事をば。
恐れながら言ってみたいと思いますが、
ときどき阿弥陀如来というものが重荷になるときがあります
自分とはまったくちがう異質な何かというふうな感覚におちいることが
あるんですが、なぜか嫌いにならない、なれない。(まあある種嫌いな面もあるんですが)
病気というのは、異質な何かが体の中に入り込んでくる現象というか症状ですよね。
病原菌は好きにはなれませんし、咳はつらいものですが
阿弥陀仏という病原菌はありがたく、症状である南無阿弥陀仏の咳もありがたい。
というようなことではないでしょうか?
719 :
774:2007/12/23(日) 13:21:50 ID:OPjTP6BN
少しだけ
>711-712に関しては、渡海さんの仰る通りだと思いますね。お聖教の通りです。
何かしらの公にできない秘密の伝承があって、
特殊な「個」としての善知識が脈々と浄土真宗を継いでいるとするなら、
その開祖は秘密主義者であって、およそ仏教とは言えない、
何か「めづらしき法」を伝える人なのでは?
仏法を煩悩に使わせ、自分の感激やら感動に従属させれば、
他力は自ずと自力になりますね。仏意以外の雑物が入ってしまいますから。
つまり、何かしらの秘伝があるとみなしていること自体、
はからい=自力が混在している信心であると言えないでしょうか。
私ゃひょろひょろ中身は空っぽ
本願力にて往生す
(稲垣瑞劔師)
720 :
神も仏も名無しさん:2007/12/23(日) 13:56:28 ID:qV0zRTzK
再掲します。
2月3日第一日曜日、東京新宿で新年会を考えています。
集合場所、東京・新宿駅
近くで飲み会をしませんか。
夕方5時ころ集合、その後近くの店で新年会
12月、1月は店は予約で一杯だと思うから、予約なしの飛び込みで席が
取れそうな2月を選びました。
これはネタじゃないよ。煽りでもない。ただ、予定だから変更はある。細部は未定。
何か意見・提案のある方は、この掲示板でもいい。メールでもいい。送って貰えるとありがたい。
集合してくれる人は4,5人だと思っていますが、100人、200人も来るとなると
こちらも考えないといけない。
集合者がゼロなら中止。
なお、参加名は愛称・匿名OKとしたいと考えています。
詳細は後日
[email protected]
721 :
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄:2007/12/23(日) 13:58:55 ID:qV0zRTzK
_____
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|:::::::::::::::::|_|_|_|_| /、 ヽ はぁ?誰がお前なんかと飲むんだよ?
|;;;;;;;;;;ノ \,, ,,/ ヽ |・ |―-、 |
|::( 6 ー─◎─◎ ) q -´ 二 ヽ | 一人で勝手にやってろ、キモオタ!
|ノ (∵∴ ( o o)∴) ノ_ ー | |
/| < ∵ 3 ∵> \. ̄` | /
::::::\ ヽ ノ\ O===== |
:::::::::::::\_____ノ:::::::::::\ / |
722 :
774:2007/12/23(日) 18:36:29 ID:OPjTP6BN
坂東本の新発見はすごいですね。果たして、親鸞聖人の手によるものなのか?
親鸞聖人のものならば、その内容とは何か?期待が膨らみますね。
>701
あなたの論理からすれば、何を思ったり、何を知ったりしても皆自力。
ならば、私は信心獲ていると思うのも自力。
何か、お聖教にない秘密の掟があって、
それを知っている人がいると思い込むのも自力。
自分はわかっていると自負するのも自力。
心が不思議な感じになりました、大安心の心境です、
往生間違いなしです、割賦がいきました等々、
皆自力でしょう。自分が思ったこと、知ったことをあてたよりにしているのですから。
自力的要素を削っていったら、最後に残るのは何でしょうか?
723 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/12/23(日) 19:31:42 ID:v+JIsc+f
>>713 こんなことを言いたいんじゃろう。補充してみました。
298さんいつもみています。263です、私がこのレスに書き込みした番号です>> 235 〜 >> 695
です。一応知らせときます、 正直渡海さんは(、何かというといつも聖典をいちいち根拠に引用
して説明してくるので)うざいです、このような方は(聖典と常に照合しているんで、私らのように自
分のフィーリングで、自分の頭の中に涌いたことだけいいかげんな感じでほいほい言葉をぶつけ
てるだけの人は反論できません。私らには反論の余地がありませんから、決して)考え方を変え
ないでしょう。
(自分の感じをいい加減に言っている)わたしからすれば(、同じようにいい加減に言ってい
る)298さんは(フィーリングで言っているんで)無茶苦茶なことは言ってません、渡海さんは
(その言葉が、親鸞聖人などの聖典とほとんど合致しているので)普通の表面上の仏教信者でし
ょう。(私らのように、自分たちのいいかげんな空想を口先で無茶苦茶にほいほい言っている人
と違います)
298さんは(念仏の回数の数え方も分からないという)念仏行者です、(渡海さんは、そんな
こと、称え出せばすぐ分かるという、体験に立っている念仏者です)その違いです。他にこのよ
うなレスはありません、貴重だと思います。
298さん(口から出任せを言う)念仏行者は(数え方も分からなくても)その身に不思議を体
験される方が非常に多いです。(そんなことは聖典に何も書いてありませんから)話せる範囲で
いいので何かありましたか。
私は(聖典などは関係ありません)常に不思議につつまれていることを(ほんわかといい気分
で酔っていますから、これを)実感し非常にこころ強く生活してます。
724 :
298:2007/12/23(日) 20:54:10 ID:vGZDbESB
>>713 なるほど、246も695も263様だったのですね。
不思議の体験は、あります。
しかし、このスレを見ていると、ただですらいろいろ言われてますので、
書くのをはばかられます。
信前のときのお導きでもいろいろありましたし、
何より凡夫が佛になるのは最高の不可思議ですし、
信後も、すごくありがたく生活しています。
易行ですから、皆様に信心獲て欲しいと思いますが、
なかなか難しいみたいです。
信心獲るよりも、自説が大切な方の方がはるかに多く、
弥陀をたのむよりも、自分で考える方が好きな方がはるかに多いのだと
思います。
725 :
298:2007/12/23(日) 20:56:09 ID:vGZDbESB
>>722 >何か、お聖教にない秘密の掟があって、
>それを知っている人がいると思い込むのも自力。
もちろん、お聖教には、書いてありますよ。
726 :
298:2007/12/23(日) 21:01:21 ID:vGZDbESB
>>719 秘密主義と対機説法を混同しておられますね。
釈尊も、無記だったりするではありませんか。
774様からすれば、「わからないから話さなかった」と思うのかもしれませんが、
私たちはそうは考えないのです。
727 :
298:2007/12/23(日) 21:21:40 ID:vGZDbESB
>>712,719
法論するつもりはありませんが、どうして、そう断言されるのでしょうか。
有縁の方が勘違いされないように、参考に申し述べます。
◎雑を修するは至心ならざれば、千が中に一もなし、と(往生礼讃)
◎あに百即百生の専修正行を捨てて、堅く千中無一の雑修雑行を執せんや(選択集)
◎もし専修の者は、十は即ち十ながら生じ、百は即ち百ながら生ず。もし雑修の者は、百の中に或いは一両人の生ずることを得、千の中に或いは三・五の人の生ずることを得(楽邦文類)
◎しかるに自力の道は化益なお難し。故に見聞する所、現在の得益は未だその証を得ず。故に千が中にその一もなしというなり(六要抄)
「一万人に一人もいない」は言い過ぎだったかもしれませんが、現状は、
ご聖典が言うところの「雑行」もできていないと考えます。
少なくとも、「千人に数人くらいではないですか?」のような
つっこみになると思います。
化土往生できる人が千人に数人いるとして(私は今どきそんなにいるとは
考えていません)、それでも、化土に往生する人の方が多い。
つくづく、報土往生は難信である、という意味でしょう?
そう読めないことが不思議です。書いてある通りに読めば、
そうなると思います。
728 :
298:2007/12/23(日) 21:22:07 ID:vGZDbESB
>>712 「如来に虚妄を申しつけまいらせられ候」というのは、
「化土に往っても滅度には至らない」と主張する人に対してでしょう?
化土にでも往けるのならば、往った方がいいに決まっています。
しばらく休息した後、きちんと滅度まで導いて下さいます。
化土と言っても、弥陀の浄土ですよ。とてつもなく、素晴らしいところで
あることに、変わりはありません。
ただ、化土往生は、難しいのです。
ですから、化土もすばらしいけれども、易行であり、
平生業成であり、100発100中の報土往生をおすすめくださって
いるのです。
729 :
神も仏も名無しさん:2007/12/23(日) 22:05:06 ID:ZY28T/f0
必ず助けるの誓いが成就して南無阿弥陀仏になって、
今現在説法されていて、十方に名号を聞かせておられてるのだから、
阿弥陀仏は満ち満ちているんだよね。
南無阿弥陀仏は讃嘆だよね、まさに讃嘆。
730 :
298:2007/12/23(日) 22:09:33 ID:vGZDbESB
>>723 念仏の数を数えることについて、こだわりがあるようですので述べます。
念にはいくつかの義がありますが、
「十念業成とは、これまた神に通ずるものこれをいふのみ」
というときの「念」は、生滅の6060周期のことです。
数えられるなら、数えてみたらいいでしょう。
「間断なく十念相続するとは言っても、数を数えるためには、
そこで注意が別に飛んでしまうから、間断なくとは行かないだろう」
という質問に対して答えている箇所です。
この箇所の付近では、連続している文章の中で、
念の義が次々と入れ替わりますが、本当にきちんと読もうとしていますか?
申し訳ないですが、渡海様の「数える」とでは、
意味が違い過ぎます。
渡海様が言っているのは、念仏称える習慣をつけるために、
唱えた数を数えて行く、とか、そういうお話しでしょう?
それはそれで尊いことですが、だからと言って、
別の義で言っていることを、簡単に否定できる感性が自障の働きをします。
教義を知らずとも、一文不知でも救われるこの教えですが、
自障障他の徒から有縁の方をお守りするには、
教義について多少書くことも意味があることになるかと思い、書きました。
有縁の方には、「直接ご自分でご聖典におあたりください」と
申したいです。
(面倒であれば、御文様だけで十分です。)
2chで信が穫れることはありませんが、何かのご縁になればと願っております。
731 :
298:2007/12/23(日) 22:13:16 ID:vGZDbESB
>>729 称名とは讃嘆です。間違いございません。
十方諸仏が称える御名号があることも、間違いございません。
満ち満ちているのは、弥陀の身光です。
摂取の心光は、念仏行者へのものです。
732 :
263:2007/12/24(月) 04:28:22 ID:vnq2RWQ5
>>723こんなことを言いたいんじゃろう。補充してみました。
そのように解釈するのは非常に不愉快です。まあ2ちゃんですのでしかたありませんが。
298さん、そうですね無理なお願いでした。
733 :
神も仏も名無しさん:2007/12/24(月) 05:17:03 ID:qVKY+noX
S会退会者です。298さんの言われるように御文章を読んでみたら、小さな発見がいくつかあったので書きます。
(読んだのは「御文章・ひらがな版―拝読のために―」本願寺出版)
1「信心決定したあとは称名念仏しなさい」としつこいくらいに勧めて下さっている。
2「『南無阿弥陀仏のいわれ』とは、南無と帰命すれば、ただちに阿弥陀仏がお救いになること」と書いてある(「一切の聖教章」の冒頭部分)。
つまり、帰命すれば、という条件(?)があるらしいこと(南無阿弥陀仏があるから何もしなくていい、ではない)。
3「帰命する」=「阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、雑行をふりすてて、一心に後生を御たすけそうらえと、ひしとたのむ」こと
4 しつこいくらいに「阿弥陀仏に帰命するのが大事です」とお勧め下さっている。
わたしは教学はありませんが、しろうと目線で御文章を読んでみて、このスレで言われていることについて持っていた疑問が、少しずつとけてきたように思います。
734 :
263:2007/12/24(月) 05:24:43 ID:vnq2RWQ5
尊号真像銘文より
「大無量寿経言」というは、如来の四十八願を説きたまえる経なり。「説我得仏」というは、もし我仏を得たらんとき
という御言葉なり。「十方衆生」というは、十方のよろずの衆生というなり。「至心信楽」というは、「至心」は真実
と申すなり、真実と申すは如来の御ちかいの真実なるを至心と申すなり。煩悩具足の衆生は、もとより真実の心なし、清浄
の心なし、○悪邪見のゆえなり、「信楽」というは、如来の本願真実にましますをふたごころなくふかく信じて疑はざれば
信楽と申すなり。この「至心信楽」は、すなはち十方衆生をして、わが真実なる誓願を信楽すべしとすすめたまえる御ちかい
の至心信楽なり、凡夫自力のこころにはあらず。「欲生我国」というは、他力の至心信楽のこころをもって安楽浄土に生まれんと
思えとなり。「乃至十念」と申すは、如来のちかひの名号をとなへんことをすすめたまうに、偏数の定まりなきほどをあらはし
時節を定めざることを衆生にしらしめんとおごしめして、乃至のみことを十念のみなにそえて誓いたまえるなり。
如来より御ちかいをたまわりぬるには、尋常の時節をとりて臨終の称念をまつべからず、ただ如来の至心信楽をふかくたのむべし
となり。
この真実信心を得んとき、摂取不捨の心光に入りぬれば、正定衆の位に定まるとみえたり
「若不生者不取正覚」といふは、「若不生者」はもし生まれずはというみことなり、「不取正覚」は仏に成らじと誓いたまえるみのりなり。
このこころはすなはち至心信楽を得たる人、わが浄土にもし生まれずは仏に成らじと誓いたまえる御のりなり。
この本願のようは『唯信抄』によくみえたり。
「唯信」と申すはすなはち真実信楽をひとすじに獲るこころを申すなり。
「唯除五逆誹謗正法」というは、「唯除」というはただ除くという言葉なり、五逆の罪人をきらい、誹謗のおもきとがをしらせんとなり
このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。
これは親鸞聖人の考えではなく、親鸞聖人(権化の人)=如来のお知らせと私は受け止めています。
735 :
263:2007/12/24(月) 06:27:12 ID:vnq2RWQ5
教行信証の初めに、(いくど生を重ねても遭わせて頂くことは困難であり、真実の清らかな信心は永遠のときをかけても、
(十八願) (如来より賜る信心)
うることはむつかしい。さいわいにして、この行と信とがえられたなら、遠く過去からの因縁によるものと、
(往相回向)(還相回向) (宿善)
よろこびなさい。)
六字の謂れ
南
たのむ機(十七願) 願 (助け給え)
無
阿
助ける法(十八願) 弥 行 (助けます)
陀
佛
↓
信
真実の証(十一願)
心
如来二種の回向『南無(往相)阿弥陀仏(還相)』
これら二つの回向は、阿弥陀仏の本願力によって生まれ変わるを往相回向・還相回向という。
この願力不思議により衆生は瞬時に救われて生まれ変わるのである。この離れ業を願力不思議と
いい、不可称・不可説・不可思議と現わすのです。
736 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/12/24(月) 09:43:54 ID:ZM1iCuvS
>>727 >どうして、そう断言されるのでしょうか。
「信心の行者少なきゆえに、化土に多く勧め入れられ候」。
「そう断言」の「そう」は、何を指しているのか分かりにくいのですが、断言しているのは歎
異抄の著者ですから、歎異抄の著者に質問をぶつけるほかありません。ただ、歎異抄の著者が
断言している気持ちは分かりにくいものではありません。
> 〜(往生礼讃)〜(選択集)〜(楽邦文類)〜(六要抄)
法論するつもりはありませんが、どうしてとお聞きになっているので、こちらが理解している範
囲でお伝えしようと思います。親鸞仏教の極めて重要な問題です。ここで間違えると、親鸞仏教
はその入口を失います。
737 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/12/24(月) 09:45:15 ID:ZM1iCuvS
極楽浄土を真土・化土に分割するというのは、往生要集に菩薩処胎経を引用して解説している
と親鸞は言うものの、極めて緻密に議論したのは親鸞でしょう。事実上は親鸞の独創的な思想で
あると考えます。善導にも法然にもなかった。浄土真宗が、法然ではなく、親鸞を宗祖と仰ぐ理
由の一つは、この化土観のオリジナル性により、親鸞思想が法然の枠内に決定的に入らないこと
によると考えています。したがって、善導や法然の著述を引用して親鸞がいう化土を議論するこ
とは筋が通りません。
ただし、親鸞は化身土の巻に善導の著述を含めて多くを引用していますので、化身土の巻を通
じて善導からの引用部を読むということは正当です。貴方が引用した(往生礼讃)は化身土の巻
に引用がありますから、この範囲は当然考慮の範囲内に入ります。しかし、貴方が紹介している
選択集の一節、楽邦文類の一節は、化土を考える第一資料からは除外すべきでしょう。
六要抄は存覚の著作です。親鸞の著作ではありません。親鸞のオリジナルの思想を把握する意
味で、あくまで教行信証の化身土巻にこだわり、それをテキストにし、次回に問題の本質を考え
てみましょう。ここはとても重要な議論です。
>「千人に数人くらいではないですか?」のようなつっこみになると思います。
そんなところに突っ込むつもりはありません。
なお、
>>728 >>730 >>730 >>732 >>735 >>728については当方にも異論があります。いま
ここでコメントを出すと、恐らくまた貴方の方から反論が来て重要な化土の問題が混乱すると思
いますので、化土の問題を先行させたいと思います。
738 :
263:2007/12/24(月) 10:29:17 ID:tpY40tPh
別にあなたの異論は聞きたくないけど、化土に関する話題に参加します、余計なお世話ですが。
739 :
298:2007/12/24(月) 10:55:47 ID:E28HWesZ
>>733 ご自分で読まれることが、もっとも大切です。
ご聖典には、真実権仮がまざって出てきますので、読み間違えやすいのです。
そこで、蓮師は、ご聖典を繰り返し繰り返し読み、
掟を保ったままで、凡夫にもわかる記述を工夫されました。
聖教読んでもわからない凡夫が、御文を読むとわかります。
これにより、弥陀に救われる方が増えました。
素直に読めば、御文はわかるようになっています。
>>736 渡海様は、自説を補強するために、ご聖典を読むようになっています。
自力心で読み解くひとについても、ご聖典に記載があります。
しかし、ご自分の考えを文章にしておられますので、
いずれ、ご自分でご自分を検討する日が来るかもしれません。
「信心の行者少なきゆえに、化土に多く勧め入れられ候」
の意味ですが、信心の行者が少ないのは、真実行について聞くことが
できるのは、宿善開発の行者だけだからです。
では、宿善(開発)の無い方には何もしないのか、放っておくのかと言えば、
違います。
説法しますね。ここを指して、「化土に勧む」と言うのです。
私も、728で化土往生を勧めているでしょう。
そうするしかありませんし、そもそも、化土はそのためにあります。
そして、化土に往く方も、滅度に至ります。
化土往生は、浄土門の中の、漸教です。
そして、浄土門を理解しない方には、聖道門を勧めるのです。
740 :
298:2007/12/24(月) 10:56:11 ID:E28HWesZ
>>734 本当に尊いご引用をありがとうございます。
つくづく、親鸞聖人は、ただ人ではありませんね。
善導大師もそうですが、通常人の解釈をはるかに超えた読みを
示してくださいます。本当にありがたいことです。
>>737 歎異抄の著者が言っていることは、よくわかりますよ。
私は「歎異抄がおかしい」と言っているのではないのです。
渡海様はともかく、
(宿善の開発がはじまっているかも知れない)有縁の方に、
ご理解いただけるのであれば、私は満足です。
そもそも、親鸞聖人が新しい教えをはじめたという考え方が、
私たちと相容れません。
私たちは、真宗の教えは、釈尊出世本懐の教えであり、
釈尊にはじまるものとしています。
救いの法は変わりません。方便が変わるだけです。
741 :
神も仏も名無しさん:2007/12/24(月) 11:09:40 ID:8/0NQW7m
742 :
263:2007/12/24(月) 11:34:09 ID:vnq2RWQ5
事実上は親鸞の独創的な思想で
あると考えます。善導にも法然にもなかった。浄土真宗が、法然ではなく、親鸞を宗祖と仰ぐ理
由の一つは、この化土観のオリジナル性により、親鸞思想が法然の枠内に決定的に入らないこと
によると考えています。したがって、善導や法然の著述を引用して親鸞がいう化土を議論するこ
とは筋が通りません。
真実の信心を得たる者はそのように解釈はしません、そもそも親鸞の思想やオリジナル的なと皆さんは
思うのはしかたありませんが浄土七高僧がたの書物を見るかぎりではそう思うでしょう。
あなた方はそれしか(経典・論書)しるすべがないのでそのような解釈をするのでしょう。
真宗とは釈尊が弥陀の本願を阿難に付属し、親鸞、大師聖人(法然)より、この本願念仏を継承し、仏弟子より
伝承された教理を七人の高僧と定め、浄土の真宗を開示したのです。
念仏伝承は仏弟子から七人の高僧により伝えられ、祖師(法然・親鸞)を以って真となす
このほかに真のことあるべからざる。
よって親鸞のオリジナル的な思想とみなさんお思いでしょうがそうではないのです。
ですから私たちは固く親鸞聖人のあらわしてくださったご文を真にうけることができるのです。
けっして親鸞聖人の独想的な思想などではないのです、大無量寿経にとかれている化土観をわかりやすく解釈
してくださったと思うべきだと私は受け留めています。
743 :
7:2007/12/24(月) 12:13:03 ID:ukBHubXF
自分も親鸞聖人は釈尊が説かれたことをそのまま説かれた方だという前提が浄土真宗だと思っています。
「さらに珍しき法をもひろめず」この聖人の言葉が全てではないでしょうか?
私も御文章を拝読したいと思います。
話きりますけど、>735さんの宿善で思い出したんですが、
教行信証の行巻の大行釈の引文のとこで平等覚経、3番目(?)のところに
仏すなはちこれを知ろしめして、(略)みな心踊躍して歓喜せざるものなけんと。
とあるじゃないすか。あれって善導大師の凡夫往生の解釈と対立する内容のように
見えるんですが、どうなんでしょう。
どうも権化っぽいとは思うのですが、
宿善ということを考えると、権化の人や聖道の人しか助からないんじゃという疑いもおこりそうです。
>>727 >化土往生できる人が千人に数人いるとして
それじゃ千中無一にならないよ、千人に一人もいないんだからね。
>「一万人に一人もいない」は言い過ぎだったかもしれませんが
高僧和讃
「仏号むねと修すれども 現世をいのる行者をば これも雑修となづけてぞ 千中無一ときらはるる」
この和讃の千中無一の異本左訓に
「千がなかに一人も生れずとなり。懐感禅師の釈には万不一生と釈せられたり」
でも、これは「一万人に一人」の文証にはならない
源空讃
「専修のひとをほむるには 千無一失とをしへたり 雑修のひとをきらふには 万不一生とのべたまふ」
万不一生の左訓には「万に一人も報土に生れずとなり」とあり、万人に一人も「報土」には往生できないの意なんだね
・・・しかし、二十願には「至心回向してわが国に生ぜんと欲せん」とある。
この至心に回向することが凡夫に(また凡夫である私に)可能かどうかを考えるべきだろう。
「いまこの心は、これ如来の清浄広大の至心なり、これを真実心と名づく。」(略典)
「一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし」(本典)
「しかるに微塵界の有情、煩悩海に流転し、生死海に漂没して、真実の回向心なし、清浄の回向心なし」(本典)
>>733 蓮如さんの称名について、文献学の方での話。
蓮如さんの御文を年代順に並べると、称名についての態度に変化があるそうだ
その結論を言うと
A 称名往生説が広まった地域への布教していた時期
この時期は、しつこいくらいに「阿弥陀仏に帰命するのが大事です」を強調していた
称名さえすれば往生できるという称名往生説を破すために、信心正因説を強調した
B 信心正因説が広まった後
Aの説を強調しすぎたため、称名を軽んずる人々がでてきてしまったらしい
そのため今度は「信心決定したあとは称名念仏しなさい」に力点を置いた御文が連発された
ABを合わせれば信心正因・称名報恩となる
>>726 >釈尊も、無記だったりするではありませんか。
無記についての考え方は色々ある
釈迦の無記については「わからないことについては捨置する」という解釈も有力だが
>>730 >2chで信が穫れることはありませんが、何かのご縁になればと願っております。
どうしてそう言いきれるの?
法然上人は善導大師の書によって信を獲た
面授の師ではなく、学問的探求によって(師を見いだし)信を獲たと言える
源左さんは牛に阿弥陀仏の慈悲を見いだし信を獲た。
彼にとって「でん」こそが善知識だった。
阿弥陀仏のおはからいを、計らっていない?
>>744 >善導大師の凡夫往生の解釈と対立する内容
二種深信によって往生する、でしょ?
深心といふは、すなはちこれ深信の心なり。
また二種あり。
一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、
曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。
二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、
疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。
平等覚経の
「わが名字を聞きてみなことごとく踊躍せんもの、わが国に来生せしめん。しからずはわれ作仏せじ」
これは聞名→信楽→往生を示す文
信楽を開いたのが二種深信なのだから、矛盾するとは思えないんだけど?
749 :
263:2007/12/24(月) 13:24:36 ID:vnq2RWQ5
どうしてそう言いきれるの?
法然上人は善導大師の書によって信を獲た
面授の師ではなく、学問的探求によって(師を見いだし)信を獲たと言える
なぜそのように受け止めるのでしょう、私はこう認識しています。
中国唐代永隆二年(日本暦天武十年(681)三月二十七日善導大師御年六十九歳入滅して後、
四百九十四年のとき、源空に対面す。
いわゆるおとぎ話じゃないですが浄土より善導が来現し源空に伝授したと私は信じてます。(渡海さんに馬鹿にされそうですが)
学問的探求によって信を得たと言える、ありえません、それでは自力になるからです。
750 :
地のさそり:2007/12/24(月) 13:31:09 ID:Y+UbI4cg
親鸞会スレのノストラダムスの大予言及びアンチキリストの言及、見てね。
>>749 >学問的探求によって信を得たと言える
気にくわないなら、学問的探求が機縁となって、でもいいけどね。
まあ、法然上人の廻心は黒谷の経蔵において、ってのが一般的な説だよ。
文証
かなしきかなかなしきかな、いかゝせんいかゝせん。
こゝにわかこときは、すてに戒定慧の三学のうつわ物にあらす。
この三学 のほかに、わか心に相應する法門ありや、わか身にたへたる修行やあると、
よろつの智者にもとめ、もろもろの学者にとふらふしに、おしふる人もなく、しめすともからもなし。
しかるあひた、なけきなけき経蔵にいり。
かなしみかなしみ聖教にむかひて、てつからみつから、ひらきて見しに、善導和尚の観経の疏にいはく、
一心専念弥陀名号行住坐臥不問時節久近念念不捨者是名正定之業順彼仏願故、
といふ文を見えてのち、われらかことくの无智の身は、ひとへにこの文をあふき、
もはらこのことはりをたのみて、念念不捨の称名を修して、決定往生の業因にそなふへし。
たゝ善導の遺教を信するのみにあらす、又あつく弥陀の弘願に順せり。
順 彼仏願故の文、ふかくたましゐにそみ、心にとゝめたる也
(『和語燈録』5 諸人伝説の詞<弁阿伝承>より)
> 中国唐代永隆二年(日本暦天武十年(681)三月二十七日善導大師御年六十九歳入滅して後、
> 四百九十四年のとき、源空に対面す。
これは上の廻心の後の話だろう
夢で見て廻心したなら経蔵で悲しむ必要も、「てつからみつから」ひらく必要もないからね。
善知識との出会いが廻心の機縁になる事は多いけど「それ以外はない」ってのは危なっかしい。
>>749 >ありえません、それでは自力になるからです。
だから、それこそ阿弥陀仏の御はからいじゃないのかな?
法然上人は焦燥感に執らわれ経蔵に籠もり、善導大師の書に出会って廻心した。
それらはすべて阿弥陀仏の導きであり、お育てであった。
阿弥陀仏とその眷属は、その人一人一人に、最も合った方法ではたらきかけるんじゃない?
法然上人は経蔵で、源左同行は牛にそれを見いだした。
自分や自分の周辺の人間が善知識の面授によって廻心したからといって、
他の一切衆生がそれでなければ救われない、というのはおかしいと思うね。
>>748 たしかにそうかもしれませんが、
彼ら阿闍世王太子と長者子が現世において作仏を志したことについて
釈尊は
宿世においてかしょう仏のみもとで修行した因縁を説き、
未来においては、無央数劫の修行が必要である果を説かれているのですが
この二つは、凡夫にとって絶望になるのではないでしょうか?
まず、自分には過去世における宿善など期待できる立派な人間ではないこと。
次に、過去自分にはできないほどの善を積まれた方々さえ無央数劫の修行が必要なら自分にはついに助かる縁などはない。
という二点において往生できないと判断できるからです。
上の二つを、過去無央数劫からの如来のお育てがあるのだということと示し、また同時に
罪悪な自分であるということを、過去無央数劫の修行をしても助からず、
未来無央数劫の修行をしても助からないと表現されたと解釈するのはそうできないこともありませんから
そうともいえるかもしれませんが、
中には前世の縁がないひとは救えないなどという解釈も容認できそうでなんとも釈然としません。
喜びの一表現ということなのでしょうか。
754 :
263:2007/12/24(月) 14:32:19 ID:vnq2RWQ5
自分や自分の周辺の人間が善知識の面授によって廻心したからといって、
他の一切衆生がそれでなければ救われない、というのはおかしいと思うね。
私はそのようなことは言ってませんが、勝手に決めないでくださいね。
たぶんだがあなた渡海さんなんでしょ?なんか似てるような気がするので
間違っていたらすみません。
阿弥陀仏とその眷属は、その人一人一人に、最も合った方法ではたらきかけるんじゃない?
其の通りですよ。
他の一切衆生がそれでなければ救われない、というのはおかしいと思うね。
そのように思いたいのですが・・・実際そうなので仕方ありませんが。
ただし、たとえ生前に信を得なくともご縁のある方は死後、諸仏・菩薩方が導いてくださると
だけ言っておきましょう。(馬鹿にしないでね)
っと
>>749 >中国唐代永隆二年(日本暦天武十年(681)三月二十七日善導大師御年六十九歳入滅して後、
>四百九十四年のとき、源空に対面す。
これ、法然上人が夢で善導大師とあったという話じゃないのか。
では、念のために聞くけど文証は?
上の和語灯にはそういうことは書いていないよ。
>>754 > 私はそのようなことは言ってませんが、勝手に決めないでくださいね。
それは失礼。
では、
>2chで信が穫れることはありません
こう断言できる理由は?
> たぶんだがあなた渡海さんなんでしょ?なんか似てるような気がするので
違うよ
わたしゃ彼のレスは透明あぼーんしている。
> そのように思いたいのですが・・・実際そうなので仕方ありませんが。
法然上人と源左同行の例がある。
また、七高僧は?
そのすべてが面授によって他力の信を獲ただろうか?
道綽禅師は曇鸞大師の碑文に依って廻心したとされる。
また龍樹・天親菩薩、曇鸞大師や源信和尚はどうなの?
757 :
263:2007/12/24(月) 14:51:21 ID:vnq2RWQ5
他の一切衆生がそれでなければ救われない、というのはおかしいと思うね。
どこにも書いてないと思いますよ。なにせ相伝なもので・・・
そうですよ夢の話せすよ、ですが実際は夢ではなく昼間でもご対面されていたと聞いてます。
>>752 他の一切衆生がそれでなければ救われない、というのはおかしいと思うね。
ヒント
歎異抄に (いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いずれの業苦にしずめりども
神通方便をもって、まず有縁を済度すべきなりと)
とあるとおりなので。
758 :
263:2007/12/24(月) 14:56:20 ID:vnq2RWQ5
法然上人と源左同行の例がある。
また、七高僧は?
そのすべてが面授によって他力の信を獲ただろうか?
道綽禅師は曇鸞大師の碑文に依って廻心したとされる。
また龍樹・天親菩薩、曇鸞大師や源信和尚はどうなの?
はい大変な質問ありがとうございます、はいそうですよ、観音・勢至・諸仏方もそうです。
(反響がありそうで怖い)
何とも言い難い状況になってますね・・・
>>757 >なにせ相伝なもので・・・
どこの相伝?
>そうですよ夢の話せすよ、ですが実際は夢ではなく昼間でもご対面されていたと聞いてます。
で、文証は?
和語灯にはない、親鸞聖人の文にもない
じゃ、誰が言い出したんだろう?
> 歎異抄に (いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いずれの業苦にしずめりども
神通方便をもって、まず有縁を済度すべきなりと)
ここでは神力方便は「善知識の面授」には限定されていない。
還相も同様のはずだが。
>>753 大江和上の教行信証講義録の該当箇所をざっと見たら、
そこは二十願に当たる部分と古来解釈されているそうだ。
なぜ二十願が引かれたかについて二説出されている
一説は、冒頭の弘願に至るまでの、二十願の信も名号の宿善のはたらきである、事を示すため
もう一説は化巻と同じく、二十願と十八願の分斉を明確に示すため、引用した
とのこと
取捨任情らしいが、大江和上は後者だそうだ
763 :
263:2007/12/24(月) 15:22:05 ID:vnq2RWQ5
>>761 面白い方ですね、家にくるか?(なんちゃって)う〜ん、あなたの認識を詳しくしらないので
どう説明すればいいのか難しいです。かなりの知識をお持ちなのは解るのですが
しばらく考えて回答します。あと渡海さんではなどど疑い申しわけありませんでした。
歎異抄に (いそぎ浄土のさとりをひらきなば、六道・四生のあひだ、いずれの業苦にしずめりども
神通方便をもって、まず有縁を済度すべきなりと)
この文をのせた意味は信を得た行者は還相回向の菩薩ですから有縁もしくは
十方衆生(すべての生類)をも願いの願によって(十八願)済度できますよ
って事の意味ですよ。
764 :
神も仏も名無しさん:
ねーねー宗教って詐欺なのー?よくわかんなーい。なんで拝むのー?拝んでもみんな死んでるよー?金がらみ?