臨済録を読む

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169神も仏も名無しさん
無相・無位なるが故に、一切差別の境涯に透入偏在し、処々で現成しつつ境と一体となり、
生成・存続・破壊・空無と自由無礙に働いている。

釈尊は仏法を説かれ涅槃に入ったが、その真実人体(絶対無的主体)は、
生まれ来たった沙汰も無いが、死に去った沙汰も無い。
絶対無的主体は不生不滅の世界に入り、万境に自由遊行し、光明遍照世界にも入るが、
その全ての世界・存在は、夢幻空華の如きものであり、実体らしきものは無い。

ただ『無依の道人』のみが真実有る。
これが諸仏の根源であり、仏も『無依の道人』から生じたものである。
無依を悟り、仏もまた本具で有り、改めて得ることを要しないと見得する。
これが真正の見解である。


※入凡入聖=「真俗、凡聖、染浄の世界に入って、真俗、凡聖、染浄を弁ずる働き」

※成住壊空= 世界の生滅変化を、成立・住止・破壊・空無の四相として見たもの。個人の場合は生老病死。

※無生= 本不生・空の意。

※無依の道人=

「仏は是れ無著の人、無求の人、無依の人なり。」『百丈広録』
「経に云く、無依は是れ仏母、仏は無処より生ず。」太原禅師『宗鏡録』