佛立講の創始者長松清風(1817−1890)は文化十四年四月、
京都鮹薬師室町、大路氏に生れ、後に長松家を継いだ。幼少より儒学、
書画歌道を学び、江戸遊学の後、京に帰えり筆歌両道を以て身を立てた。
家は代々浄土宗であったが、二十六才の時、母の死に遇い宗教に心を向けるに至り、
筆道で出入していた本能寺塔中長遠院の院主秀典日雄の教化により改宗した。
入信の当時、八品講の発起人となりその育成に力を尽し、その間に本能寺の
大覚目肇に宗義を学んだ。三十二才の時、淡路隆泉寺の無著日燿に従い出家したが、
ほどなくして感ずるところあって還俗し、居士として島田弥三郎等と共に日燿を抜けた。
又、高松八品溝の松平頼該と交り、共に皆成派に対して論陣を張り、
久遠派の論客として活躍した。安政四年(一八五七)正月、京都八品堂の
谷川浅七の宅において華洛八品講を創し、佛立講と称した。
これが佛立講開講のはじめである。文久二年(一八六二)に大津に法華堂を建立して
後の長松山佛立寺の基を開くなど、講勢の組織進展に専念したのであるが、
新義異流としての弾圧も受け、明治元年(一八六八)七月には切支丹の法を
使うものとして投獄された。この事件のうらには南山対蓮山の内紛がからんでいると言われ、
三山和融が成立した折り本能寺に誓状を入れて釈放された。
その後頼該門下の太田日信が備後に佛立講を起して華洛佛立講と呼応し、
皆成・久遠両論が再燃し、三山の不和が再び起るなど、又、佛立講内部においての
種々の紛争動揺を経て、京都、大阪その他各地に教線を拡張して行ったのである。
清風の著述としてほ、御法のしるべ、三途成不決断抄、本門勝利録、菩提の直路、
真実出家論、題目口唱信者成佛抄、傍立講名字信行抄等が挙げられる。
又、講説のものとしては、十巻抄、祖書拝要、当世講要、和国陀羅尼、
宗祖本意抄、講場必携、名字得分抄、拝要抄、門外不出抄、自受法乗抄等が知られている。
長松清風の教学
清風の教学は隆門教学を祖述した前期教学と佛立教学を組織した後期教学とに
大別することが出来る。前期の教学は隆門久遠派教学を踏襲せるのみであり、
清風教学の面目は後期における佛立教学にある。
清風は、折伏、現証、信行の三門をもって佛立教学の特色とする。
折伏 法華経の如説修行とは五種行ではなく、折伏行を言うものである。
そして誘法を呵責することは即ち持戒であり、他に同つては強義の折伏となり、
内に省みる時は厳粛なる懺悔となるものであると述べる。かゝる立場から、
他門との向座は勿論、八品派中の者であつても佛立講にあらざる者との
同座唱題を禁じており、更には雇傭、縁組に関してまで清濁を論ずるに至った。
現証
「法の浅深勝劣邪正は現証利益の有無に依って自ら知るなり」(内外不出抄)
と述べる如く、現証をもって法の浅探勝劣邪正判定の基準とするもので、
現証利益が事の法門であり、教理は一種の理談であるとする。
されば、法華経の是好良薬は単に精神の苦悩に対して之を救うというに
とどまるものではなく、肉体の病息をも治癒せしむるものであり、
幸福をまねき災をはらう功徳を有するものであると述べる。
信行 信とは唱題の利益を信ずることであるとする。
即ち経力唱題の現証利益を絶対として信ずることであり、
経力とは是好良薬の題目のこと、唱題とは此の良薬を服用することを言うものであるとし、
口業唱題を力説した。
清風は自力とは自己の智を信ずることであるとし、この自力を極力排し、
あくまでも経力、他力を信ずることが信であるとした。
智は信を増長せしむるものではない、智によって信は寂滅されるという立場をとり、
佛立宗は経力宗であり、無智宗である。智慧は無用であり、
考える学者は利益を蒙ることはなく、信ずる者のみが利益を蒙るものであると説き、
ただ唱題の現証利益の功徳を信ずることを力説した。
従って行法においては口唱の一行のみをとり、
唱題正行、読諦助行の如き二行相資は謗法であるとした。
本尊について見れば、一大秘法本尊、一遍首題の本尊をとり、十界曼荼羅本尊を排した。
清風は十界曼荼羅はなお宗祖の本意ではなく、上行付嘱の一大秘法こそ
宗祖の本意であり、この一大秘法をもって本尊とすべしと主張する。
かかる立場から雑乱勧請、別勧請は厳しく禁じている。
ちなみに、清風の前期教学と後期教学との相違点を挙げると次の如くである。
前期 (隆門教学祖述時代)
l、宗教の目的を成佛においた。
2、信心正因を説き、一面では口業正意を主張した。
3、本門八品所顕上行所伝本因下種の妙法として八品主義を容認
4、久遠本法の立場から開顕した一部読詞を認めた。
5、本尊、 三秘の広の十界本尊、
6、題目、釈尊の宝号、久成本俸の全体であり、我等の俳性であるとする。
後期 (併立教学)
1、成佛の問題に現証利益主義を主張
2、信心正因から口業正困、唱題絶対主義へ進んだ。
3、八品を超絶した題目の七字をとる。
4、唱題一行、読誦謗法を主張
5、本尊、一秘一辺首題本尊
6、題目 現証利益の神呪と見る。
以上において明かな如く、清風の後期教学は精神主義的解釈を捨て理論を斥け、
唱題の呪性、神秘性が強調されるに至った。
明治二十三年七月十一日、清風は七十四才をもって示寂した。
清風の門下には御牧の現喜日聞、野原弁了日随、現随日教等があり、
講勢の伸長拡大をはかり、関東への進田は日教によって行われた。
かくの如く佛立講は明治に入って進展したものであり、
清風の教学が佛立教学として如何に発展していつたかについても
述べられなければならないのであるが、これは明治期における
教学として稿を改めなければならないものである。
勃興が江戸末期であるという点をもって、清風の教学を記すのみにとどめておく。