737 :
霊界研究者 ◆zCS1o.kilU :2007/10/21(日) 21:03:49 ID:D7YbVg1C
ID:AascG7Br
↑
進化に上も下もないなら なぜ宇宙の中で 人間→動物という
転生過程がないのですか?説明してくださいね
無限は無限です 無限に進化するのです
上も下もないというわけではありません 輪は上も下もありませんが
輪が螺旋状に上昇するのが進化です
上も下もなければ 人間→動物 という過程があってもいいのですが
人間→動物 はありません 動物→人間 という進化過程が
神の中で 動物 人間 と同時に存在するのです
後 あなたごときに説教されたくありません
>>633>>634>>635>>636 と
>>571 >>637>>639 ↑
よく見とけ →アホなID:txenbIyLへ→
>>655 ↑
すべては同時に存在してることぐらいわかります
しかし 闇は光を含まず 光は闇を含みません 同時に存在してますが・・
よって ←7次元(6次元 という形で 7次元は6次元を含んだ形で同時に
存在します
俺より詳しく説明できるものならしてみろ アホ
738 :
霊界研究者 ◆zCS1o.kilU :2007/10/21(日) 21:05:54 ID:D7YbVg1C
>>633>>634>>635>>636 と
>>571 >>637>>639 ↑
よく見とけ →アホなID:AascG7Br へ→
>>655 ↑
すべては同時に存在してることぐらいわかります
しかし 闇は光を含まず 光は闇を含みません 同時に存在してますが・・
よって ←7次元(6次元 という形で 7次元は6次元を含んだ形で同時に
存在します
俺より詳しく説明できるものならしてみろ アホ
進化に上も下もないなら なぜ宇宙の中で 人間→動物という
転生過程がないのですか?説明してくださいね
無限は無限です 無限に進化するのです
上も下もないというわけではありません 輪は上も下もありませんが
輪が螺旋状に上昇するのが進化です
上も下もなければ 人間→動物 という過程があってもいいのですが
人間→動物 はありません 動物→人間 という進化過程が
神の中で 動物 人間 と同時に存在するのです
後 あなたごときに説教されたくありません
739 :
霊界研究者 ◆zCS1o.kilU :2007/10/21(日) 21:13:32 ID:D7YbVg1C
アホなID:AascG7Br へ
↑
お前は神と一体だが神の一部だ 無限の神の一部であるお前は
無限を含まない 無限はお前を含むが
今も 死後も お前は 全宇宙の生物がどこで何をしてるかわかるのか?
それは無理だな 進化した霊でも宇宙すべてのことがわからない
なぜだがわかるか?
お前は すべてがひとつだというのを半分しか理解してないからだよ
本当に すべてがひとつだと理解したら 全宇宙のことがわかるんだよ
で 神そのものであるお前は なんで今も死後もかなり進化してからも
宇宙すべてのことがわからないんだい?
シルバーバーチやその他の霊も 死後だいぶたってるけど 宇宙すべてに
ついてわからないことが多いよ
なだだが お前に説明できるかい?
お前 口だけで すべてはひとつだと言って 真にひとつの意味を理解して
ないだろう?
神は様々なエネルギーなんだよ 時間は幻想だが
エネルギーは幻想ではない 次元界をお前説明してみろ
無限の次元があるんだよ それは幻想じゃないんだよ
お前は 100次元を理解できるかい?
できないのは お前と100次元は一体だが お前は100次元に含まれるが
お前の存在が100次元を含まないからだよ
神の中では すべて同時に 動物→人間→マスター という順で同時に
存在してるだけで 人間→動物という順番では存在してません
お前 時間空間の幻想と進化の順番をごちゃごちゃにしてるだろう?
お前の 論理でいけば 進化は幻想なら 人間→動物に転生できるが
実際その例はないじゃん なぜか?説明してみろ このアホ
アホのくせに調子にのるな ボケ
740 :
霊界研究者 ◆zCS1o.kilU :2007/10/21(日) 21:21:17 ID:D7YbVg1C
741 :
霊界研究者 ◆zCS1o.kilU :2007/10/21(日) 21:49:52 ID:D7YbVg1C
アホなID:AascG7Br へ
↑
ある意味では お前は同時にいくつもの経験を同時にすることが
できる お前の仲間の類魂が レベル3 レベル4 でお前が5の時は
お前は レベル5でもレベル3でもレベル4でもある魂だということは
理解できますよ その程度のことは理解できます
しかし それは類魂の中でのこと
だから お前は死後に本当の自分という大きな自分と合体しても
宇宙すべてのことがわからないのだよ
わかるかい?
お前 アホだろ?
お前の考えてることなど理解してますよ
742 :
霊界研究者 ◆zCS1o.kilU :2007/10/21(日) 21:50:28 ID:D7YbVg1C
アホなID:AascG7Br へ
↓
お前 神との対話の中の すべての魂は最初に創られたぶんの一部だ
というのと あなたはわたしの子供であるが わたしもまたべつのものの
子供である という神との対話の部分を理解できるかい?
お前のような低脳には理解できないよ
魂は魂を生みその魂はさらにまた魂と生むという無限が すべて同時に
存在してるの
神は 動かないある大きさを持った光の玉ではない
お前は 神と ただの球体だと思ってるだろう?
神に 大きさなどはない 神は無限である 動くエネルギーであるしかも無限である
無限の大きさの無限の球体が重なって多次元的構造を持つのが 神の正体である
何度もいうが神には形も大きさもない ただの1つの球体を想像してるやつは
神を理解してない
743 :
神も仏も名無しさん:2007/10/21(日) 22:23:38 ID:AascG7Br
>>736 あくまで人間というか三次元世界における解釈の1つの方法として、
そういう数字で表しているとか、言葉で説明しているんだということが……
三次元的感覚にどっぷりと浸かってしまっている人には逆に混乱を招く現実。
因と果はあくまで三次元的見方であって、もっと上のほうから見れば同時に
起きていると知っているくせに、どうしても直線的な因果関係しか想像できない
三次元の罠。
時間は存在しないということは知っているくせに、進化を時系列直線的にしか
想像できない三次元の脳。
これをなんとか上手く説明することに成功した人っているんでしょうかね?
それともそもそも地上にいる間はそれを上手く理解する必要もないんでしょうか?
でも私は神との対話から、そろそろそれを少しずつ理解してってもいい頃合なんじゃ
ないか?と言われたような気がします。それは自分が理解すればいいことであって、
誰かに説明しようまでしなくてもいいのでしょうかね?
744 :
神も仏も名無しさん:2007/10/21(日) 23:25:03 ID:D7YbVg1C
因と果はあくまで三次元的見方であって、もっと上のほうから見れば同時に
起きていると知っているくせに、どうしても直線的な因果関係しか想像できない
三次元の罠。
↑
因果は同時に存在してることぐらい俺でもわかるわ
時間は存在しないということは知っているくせに、進化を時系列直線的にしか
想像できない三次元の脳。
↑
違いますね 時空は幻想ですが 進化構造は同時に存在しても
順番に存在してます 人間→動物という順番は存在しません
人間も動物も同時に存在してますが
あなたって相当馬鹿ですね
745 :
神も仏も名無しさん:2007/10/21(日) 23:29:37 ID:D7YbVg1C
ID:AascG7Br
↑
俺の文章読んで質問に答えろよ
お前 全然 宇宙の仕組み理解してないだろう?
お前 俺の文章読んでも 全然理解できてないだろう?
時間は存在しないということは知っているくせに、進化を時系列直線的にしか
想像できない三次元の脳。
↑
違いますね 時空は幻想ですが 進化構造は同時に存在しても
順番に存在してます 人間→動物という順番は存在しません
人間も動物も同時に存在してますが
あなたって相当馬鹿ですね
時間は幻想ですが 時間の幻想と進化構造はべつものです
馬鹿ですか?あなたは
あなたは銀河系意識体と同時に存在してますが
あなたは銀河系意志体がどんな活動をしてるか 死後にも理解
できません これはあなたが一体でありながら銀河系意識体を
含んでないからです 大きな大我であるあなたもそこまで含んでません
だから 同時に存在してもあなたは次のて転生で銀河系意識体に
なれないのです わからないだろう?
お前は 馬鹿だから
天国くん、やっぱ君「愛」ないわ。
隣人も「愛せない」者が世界を「愛」に変えようなんて、
「偽善」も甚だしい。
天国くんがいろいろな「知識」を吸収して成長している姿を見るのが
不思議と楽しくて、天国くんの居るスレを覗いていたけど、
だんだんと「素直さ」や「謙虚さ」がなくなってきているように見える。
自分でも気付いていて、止められないのなら、一呼吸入れてみてはどうだろうか。
余計なおせっかいだったかもしれないね。
すまんかったです。
749 :
神も仏も名無しさん:2007/10/22(月) 13:06:18 ID:Q/FOUSmC
クラシックをあまり聴かない方には分かりづらいですが、オーケストラの楽曲のCDでも
同じような現象が起きます。クラシックの曲は、指揮者や楽団によって曲がまったく
違ったものになります。テンポや抑揚、音の長さやイントネーション、時には指揮者が
楽譜を改変して音を足したり引いたりすることもあります。さらに同じ指揮者・楽団の
演奏でも別の年代に録音されたものが全然違う演奏になっていたりします。
ここでよくあるのが、最初に聴いた演奏が唯一オリジナルの演奏であるかのような
錯覚をしてしまうことです。すると別の指揮者の演奏を聴いた時に、「遅い」とか「早い」とか
「ここはもっとタメがないとダメだ」とか「なんてつまらない演奏だ」なんて思ってしまったり。
もちろん唯一正しい演奏なんていうものはなく(万人が認める名演奏というのもありますが
これはあくまで多数決の結果だと思います)、もしあるとすればそれは作曲家の頭の中
にしかありません。ですから決して誰にもそれは確認できないし、作曲家本人であっても
オケに100%イメージ通りの演奏をさせることも不可能。
霊に関する文書も同じ感じがします。最初に読んだものにすごく惹かれたり、
最初ではなくてもこれぞ真実だと思えるような本にめぐり合うと、その著者の考え方を
主軸にしか霊の世界観を構築できないものではないでしょうか。例えば神との対話を読んでも
「これは江原の言うところのアレだな」「こんなの生長の家にすでに書いてあるよ」
「仏陀の言っていたことの繰り返しだな」「聖書にはそんなこと書いてないからこれはウソだ」
という感じですね。
>>743 >これをなんとか上手く説明することに成功した人っているんでしょうかね?
私と同じものを見ておられるのなら、
「逆さまの木」とかはその事ではないかと
751 :
神も仏も名無しさん:2007/10/22(月) 17:29:23 ID:O39/+wFb
743じゃないけど、逆さまの木って何?
752 :
神も仏も名無しさん:2007/10/23(火) 07:14:56 ID:ty43L4Zs
糞の役にも立たない研究ですね。そこがいいのですが。
役に立たない代わりに実害もない。
このおかげで、歪んだスピリチュアリズムが地に落ちればいいですね。
753 :
神も仏も名無しさん:2007/10/23(火) 14:03:53 ID:ioZJ7Pag
実害あるよ。すでにオカ板でも彼の虜になった人が続出w
754 :
霊界研究者 ◆zCS1o.kilU :2007/10/23(火) 21:04:00 ID:wEgOfLYs
つけたし
ジョンレノン(音楽家)160
ホワイトイーグル(霊)300
755 :
神も仏も名無しさん:2007/10/24(水) 00:57:41 ID:Kt12XYa+
P19
『すべてのひとは特別であり、すべての時は黄金である。
他よりも特別なひと、特別な時というものはない。
多くのひとは、神が特別な方法で、特別な人にだけコミュニケートすると信じている。
そのために、自分で神のメッセージを聞く責任はないと思っている。
ましてメッセージを受け取る責任(これはただ"聞く"のとはべつのことだ)はないと考えて、
いつもほかの人の言葉ばかり聞いている。
神の言葉は誰かほかの人が聞いていると決めつけ、その人たちのいうことを聞いているのだ。
神の言葉を聞いたという人たちの言うことを聞いていれば、自分で考える必要はなくなる。
大半の人がわたしのメッセージに背を向けている最大の理由は、そこにある。』
ここで神が言いたいのはこういうことです。
自分で考え、そして実行する責任を持て、と。
『自分自身が神のメッセージを受け取ったと認めれば、自分で考え、実行する責任が生じる。
他人の解釈を受け入れているほうが(たとえその他人が2000年前の者であろうとも)、
今この瞬間にもうけとっているかもしれない神のメッセージを解釈しようと努力するより、
はるかに楽で安全だ。』
他人の、イエスの、シルバーバーチの、誰かが書いた本の、解釈を受け入れるということは
自分の責任を放棄するということ。さらにそこには重大な欠陥があります。
756 :
神も仏も名無しさん:2007/10/24(水) 01:06:08 ID:Kt12XYa+
『わたしはコミュニケーションの手段に思考も使う。思考と感情は同じではないが、
同時に生まれることがある。思考を通じたコミュニケーションには、イメージや画像が使われる。
だから、単なる言葉よりも思考のほうが、コミュニケーションの道具としては効果的だ。
感情と思考のほかにもうひとつ、経験という、偉大なコミュニケーション手段がある。』
これはテレパシーのように思考に直接働きかける、という解釈もできますが、もっと大きな
視点から見れば、自分の思考には神から生み出されるものがある、ということではないでしょうか。
究極的には全ての思考が神から生まれると考えたい所ですが、こんな注意書きがあります。
『ところで、わたしは経験や感情、言葉をコミュニケーションの道具として使うが、経験や感情、
言葉のすべてがわたしからのコミュニケーションだというわけではない。すべての感情や思考、
経験、それに言葉が、わたしから発せられたものだとは限らない。
わたしの名で、べつの者がたくさんの言葉を口にしてきたから。
わたしとは無関係なものによって、たくさんの思考や感情がささえられ、その結果、たくさんの
経験が生まれてきた。』
これは要注意です。神とは無関係なものがささえる思考や感情があるようなのです。
757 :
神も仏も名無しさん:2007/10/24(水) 01:14:16 ID:Kt12XYa+
順序が入れ替わってしまいましたが、神のコミュニケーション手段の欠陥について。
『感情と思考と経験のすべてが失敗したとき、最後に言葉が使われる。
言葉はじつは、最も非効率的なコミュニケーション手段だ。
最も曲解されやすいし、誤解されやすい。』
そこで先ほどの「神とは無関係なもの」に繋がると思うのです。
それは言葉を曲解し誤解した人間。
神のメッセージが言葉に変換され、それが誤解されて、さらに他の誰かの
「神とは無関係の思考や感情」を支えてしまう。
しかし全てのものは神から生まれるのではないか?全ては神なのではないか?
という疑問が生じますが、これは非常に簡単にクリアできます。
つまり誰かさんの言う「進化」の「方向」と照らし合わせた時に、それに役に立つものか、
あるいはそうではないものか、これをそれぞれ「神のメッセージ」「神とは無関係のもの」
と呼んでいるのではないでしょうか。
ちなみに私は進化の方向性は「ひとつになること」であって、鼠算的な分裂の方向では
ないと思っています。
758 :
神も仏も名無しさん:2007/10/24(水) 01:25:23 ID:Kt12XYa+
さて、この「神からのメッセージ」と「そうでないもの」を見分ける方法はなかなか難しいとも
書いてあります。とてもわかりにくい、と。ですが区別する方法も書いてあります。
『わたしのメッセージはつねに、あなたの最高の考え、最もくもりのない言葉、最も偉大な感情である。
それ以外は別の源から生じている。
そう考えれば、簡単に区別できるだろう。どんなに未熟でも、いちばん気高く、くもりがなく、
偉大なものはすぐにわかるからだ。』
最高の考え。これは簡単なようで本当に難しいものです。それは親から、世間から、何が最高なのか
誤った考え方を押し付けられて生きてきたからであります。我慢をすることが最高だとか。
努力することこそが最高だとか。でも神は言います。
『だが、念のために、もうひとつの指針をあたえよう。
最高の考えには、必ず喜びがある。くもりのない言葉には真実が含まれている。もっとも偉大な感情、それは愛である。
喜び、真実、愛。
この三つは入れ替えることもできるし、互いにつながりあっている。順序は問題ではない。
どのメッセージがわたしのもので、どれがほかからのものかを見分ける指針がはっきりすれば、
あとはわたしのメッセージに耳を傾けるかどうか、それだけだ。』
喜びを伴う考え、真実だと確信する言葉、そしてそこに愛があるかどうか。
いつもこれを忘れずにいられれば、神のメッセージとそうでないものを見分けられる、と。
さらに言えば、この三つを深く感じながら発した自分の言葉こそ、神のメッセージである
ということなのではないでしょうか。
759 :
神も仏も名無しさん:2007/10/24(水) 01:32:37 ID:Kt12XYa+
しかし最も大切な神のメッセージはこれだと言います。
『さて、皮肉なことに、あなたがたは神の言葉ばかりを重視し、経験をないがしろにしている。
経験をないがしろにしているから、神を経験しても、それが神について教えられていたことと違うと、
たちまち経験を捨てて言葉の方をとる。ところが、ほんとうは逆であるべきなのだ。
経験や感情によって、ひとは直感的に知る。いっぽう、言葉は知っていることをシンボル化しようとする
試みにすぎず、混乱の原因になることも多い。』
ちょうど先日、誰かさんも混乱を連発しておられました。これはこのことが原因ではないでしょうか?
言葉ばかりを追いなさるな、と。すでに神のメッセージは自分自身の経験としてどの瞬間にも
誰にでも与えられているのだ、と。
誰かの言葉を、誰かの文章ばかりを追うという行為は、まさに自分が神からメッセージを
与えられていることに気づいていない、それを無視してしまっているということなのではないでしょうか。
実は経験こそが一番の神からのメッセージであるのに。
『あなたがたは、あまりわたしのメッセージに耳を傾けていない。
すばらしすぎて真実とは思えなかったり、むずかしすぎて従えないこともあるだろう。単純な誤解も多い。
だが、ほとんどは、要するにメッセージを受けとっていないのだ。
わたしからのいちばん力強いメッセージは経験だ。
ところが、それさえ、あなたたちは無視する。とくに、経験を無視する。
あなたがたが経験に耳をかたむけさえすれば、世界はいまのようではなかったはずだ。
経験に耳を傾けないから、あなたがたは何度でも同じ経験をくりかえさなければならない。』
760 :
神も仏も名無しさん:2007/10/24(水) 01:45:35 ID:Kt12XYa+
そんな神のメッセージを無視しつづける人類に、神はこう言います。
『だが、わたしは強制はしない。おどすこともない。
わたしは自由な意思と選択する力をあなたがたに与えた。それを奪うことはけっしてない。』
神は「しなければならないことはない」と何度も繰り返していますね。
そしてその神のメッセージは誰のものでしょう?
神だけが語ることを許されるのもなのでしょうか?
マスターでなければいけないのでしょうか?
神は著作権侵害をすると人間を脅すのでしょうか?
どれも違うようです。
『だからこそ、わたしは何千年ものあいだ、世界のすみずみまで、くり返して同じメッセージを
送りつづけてきた。あなたがたがメッセージを受けとって、しっかりと握り締め、
これは自分のものだと言うまで、いつまでも送りつづける。』
そうです。これは「自分のものだ」と言わなければならない。もう同じ経験を繰り返したくないのなら。
「神がこう言ったからこうなんだ」と他人事のように扱ってしまうから、自分の経験をないがしろにし、
自らの行動が無責任になる。中東で神のために人を殺すような人たちも、敬虔な信者である一方、
まさに責任の所在を神に置いてしまっていますね。もちろん国家レベルで法典=法律というような
国ではなかなか個人でそれに抗うことは難しいですし、親からも世間からもそれが神の意志であると
教え込まれてしまっているので、なかなか難しい問題ではあります。
が。
761 :
神も仏も名無しさん:2007/10/24(水) 01:56:58 ID:Kt12XYa+
彼らには彼らの目的があって、この時代、その国の、その親の元へ生まれてきたわけです。
彼らは彼らなりのやり方で、彼ら自身の人生を経験しているのです。
もちろん、その彼らの目的の手助けをしてあげようとすることは、非常に尊い行動です。
でもそれは、手助けをしてあげたいと思っている人自身の目的です。
自分の責任において、「自らの手で」、彼らの手助けをしてあげることが「行動」です。
他の人には、他の人の目的があってこの世に生まれてきています。
その人がこの世で何をしようと、何を経験しようと、そして何をしないでいようと、
それはその人自身に与えられた自由です。
神でさえ何かを強制することはない。
それなのに人は他人に何かを強制しようとする。
本人はそれがその人のためになるからだと信じている。
でもそこで思い出すべきです。
喜び、真実、愛。この三つを。
神でさえ人に何かを強制しようとはしないのに、誰かに何かを強制するのは愛だろうか?
自分は相手に何かを強制させることに喜びを感じているのだろうか?
そしてそれはくもりなき真実であると本当に確信して強制しているのだろうか?
長々失礼しました。
762 :
神も仏も名無しさん:2007/10/24(水) 10:12:03 ID:Tg6+yRj6
>>755-
>>760 同意です。
>>761 神のメッセージに共感して助ける場合や
心の奥深くから湧き上がってくる助けたいという衝動が神の意に添う場合は
神から巨大な喜び、真実、愛を贈られます。
バス停で不安げに寄り添う若いカップルをもてなしたニールさんが
それを得たように。
私の経験では“助けてあげる”という感覚は上記に反します。
が、もちろん個人差はあるでしょう。
人それぞれですから。
ID:Kt12XYa+さんは“助けてあげる”でも
神から喜びや真実や愛を贈られますか?
763 :
神も仏も名無しさん:2007/10/24(水) 12:27:53 ID:Kt12XYa+
>>762 >ID:Kt12XYa+さんは“助けてあげる”でも
>神から喜びや真実や愛を贈られますか?
おっしゃていることはよくわかります。これがまさに「言葉」のもどかしさですね。
「助けてあげる」という言葉だけだと、なんだか自分は上に相手は下に、
という立場から助けるというような印象も感じてしまいます。
「あげる」という言葉の傲慢さというか、響きの問題だと思います。
この感覚に関しては「聖なる予言」にわかりやすい説明があったように思います。
それは相手に助けの手を差し伸べることで、それが本当に相手にパワーを与える
ことなのか、それとも逆に相手のパワーを奪ってしまうことなのか、そこを考えれば
すぐにわかると。つまり助けてあげたことで、相手より優位に立ってしまい、
相手が自分の援助無しには立ち上がれなくなってしまうとか、相手が劣等感を
抱いてしまうような場合ですね。
こうなってしまう場合は、仰るように本当の喜びや真実や愛からの助けでは
ないということではないでしょうか。
とは言っても、自分ではそんなつもりもないのに、そんな状況を引き起こしてしまう
ことも多々あります。まだまだ未熟ですね。ですが、そこは「失敗は幻想だ」ということを
信じて、今度はその自分が望まなかった状況に対して、愛で接していけばよいのでは?
と、半ば開き直り気味ですがw、自分の直感を信じ、相手に何かしてあげたいなと
思ったら、そうしてあげることしか今の私にはできない、そんなところですね。
764 :
神も仏も名無しさん:2007/10/24(水) 12:41:32 ID:Kt12XYa+
って、偉そうなことを言ってしまいましたが、逆に助けたいという衝動があったのに
それを無視してしまうこともまた多々あるというのが現実ですね・・・。
多分これは上から目線の「助けてあげたい」よりもさらにまずいことなのだと思います。
思ってはいますが、さすがにわが身かわいさにどうにもできないことがあります。
万引き犯を追いかけたら殺されてしまったコンビニ店員や、ホームから転落した人や
川で溺れた人を助けようとして自らの命を落としてしまった人たちの話を聞くたびに、
自分の正義感というものはなんて中途半端なんだろうと思ってしまいます。
でもこれもあまり考え過ぎてしまうと、世界中の苦しんでいる人に対する罪悪感から
自分を愛せなくなってしまいます。私も以前は自己否定の強い人間でしたが、
まず自分が自分を愛せなくてどうして他人を愛せるのかという神の言葉に感銘した一人です。
自分ではできないことがあるけど、そんな今の自分を認めて愛してあげる、そして少しずつ
できることの範囲を広げていく、そんな態度でいようと努力している最中です。
そうです、実はそんなこともまだ自分には意識して努力しないとできないぐらいなんです。
はい、たしかに言葉はもどかしいものです。
ただ「助けてあげる」へ私が感じる違和感は、
上から目線やパワーのやりとり以外にもあるんです。
それは、“不自然だから”。
私がそう思うようになった経緯を書きましょう。
子供の頃、私は親に尋ねました。「どうして人は働くの?」と。
けれども帰ってきた答は、到底満足できるものではありませんでした。
だから私は考え続けました、どうしてなのだろうと。
勉強してもいくら本を読んでも答は見つかりませんでした。
その答が朧気ながら見えてきたのは、社会人になってからでした。
正確には、自分も働くようになってからですね。
私が感じたのはだいたいこんな事です。
『私達が快適に暮らせるのは、皆が働いているから。
食事ができるのは食べ物を作っている人がいるからだし、
服が着れるのは服を製造・販売している人がいるからだし、
公園でのんびりできるのは公園を清潔に保っている人がいるからだ。
様々な人が様々な役割をこなしているからこそ、社会は快適に保てる。
だから自分も、その一員になろう』
そんなことを感じながら暮らしていたら、それまで気付かなかったことが沢山
見えてきました。世の中って全部そうじゃないか、と気付きはじめたのです。
たとえば人体がそうです。人の体は無数の器官が分担しあい、補いあい、
助けあうことで維持されています。骨は体を支え、筋肉は体を動かし、
消化器系は食べ物を消化し、循環器系がそれを体の隅々まで運び、脳と神経は
意識と運動を司り・・・等々です。体のどの部分も、体の健康を保つために
大切な役割を果たしています。どんなに小さい細胞一つといえども、
どれもこれもかけがいのない一員。体はそうできているんです。
他にもあります。というか、自然は全てそうできています。どんなに小さな要素も、
全体を支える役目を担っている。どれもこれもがかけがいのない存在。
そう、この宇宙全てがそうなんだ・・・・と感じた時、それはやってきました。
『人はもともと、助けあうことを前提として創られた。
万物がそうであるように』
とはいえ、すぐさまその通りに生きれたわけではありません。
あなたが
>>764で書いたような悩みを、私も幾度と味わいました。
しかしそれでもなお、私は嬉しかった。
誰かの役に立てることが嬉しかった。
そしてそんな自分が好きでいられた。
すると、いつしかそれが自然に感じられるようになってきました。
助けあうことが自然になってきました。
人が、それを前提として創られたことも。
助けてあげるという言葉に、私は忘却を感じます。
“助けあい”という、人の大前提への忘却を。
ただ、子育て経験のある女性は、極々自然にこの言葉を使うことがあるようですね。
「おむつを替えてあげる」「体を洗ってあげる」などなどです。
思い浮かべるだけで自然に頬がほころんでしまいます。
介護を受けているお年寄りがヘルパーさんからこんなことを言われたら
深く傷つくでしょうが。
768 :
神も仏も名無しさん:2007/10/24(水) 15:49:11 ID:YWaGbkqX
>765すげえな
要するに助けてあげるって意識自体がおこがましいってことだろ?
自分の好き勝手が他人のために自然となってたらまさに悟りの境地だなw
769 :
神も仏も名無しさん:2007/10/24(水) 23:21:15 ID:Kt12XYa+
>>767 そこまでの感覚で「助けてあげる」を受け取られていたとは恐れ入りました。
早とちりをした自分が恥ずかしいです・・・。
「助けてあげる」という意識すらなくなるほどに「ひとつであること」を実感されているのでしょうか。
それともばらばらである(ばらばらに見える)からこそ、助け合うことこそが目的で作られたと
感じたのでしょうか。いずれにしても、私はまだまだそこまでの域には達していませんね・・・。
私も基本的には誰かの力に、支えになってあげるということに喜びは感じます。
相手のために何かをしてあげることは、ごく自然なようにも思います。
ですが、いつもそれが本当に相手のためになっているのかどうか、自問自答してしまいます。
こちらの気持ちが相手に伝わらないと、もう助けてやるもんか!なんて思ったりもしてしまいます。
嫌悪感を抱いてしまうような相手だと、助けてあげたいという気持ちすら起きなかったりします。
でもだからといって、自分の心が小さいだとか、全てに対して助ける気持ちが起きないのなら
それは偽善だとか、こうやって自分を追い詰めてしまうのはよくないですよね。
全てに対して愛で接することができるのは絶対的な愛。
でも私たちは相対世界での経験を得るためにここにいるのですから、例え狭い範囲であっても
相対的な愛を表現してもいいのだと思っています。
>>769 >「助けてあげる」という意識すらなくなるほどに「ひとつであること」を実感されているのでしょうか。
>それともばらばらである(ばらばらに見える)からこそ、助け合うことこそが目的で作られたと
>感じたのでしょうか。
一つであり個々である、がやはり一番近いでしょう。
個々の細胞は全体として一つである。
体が健康であるから細胞は生きていられ、
細胞が生きて役目を果たしているから体は健康でいられる。
こんな感じでしょうか。
>ですが、いつもそれが本当に相手のためになっているのかどうか、自問自答してしまいます。
>こちらの気持ちが相手に伝わらないと、もう助けてやるもんか!なんて思ったりもしてしまいます。
>嫌悪感を抱いてしまうような相手だと、助けてあげたいという気持ちすら起きなかったりします。
助けあうとは、ある人へ何かをした直後にその人から直接反応を受ける
ことではありません。
助けあうとは、万物にあまねく循環する相互関係と調和することです。
今は無視されてもかまわない。相手が気付かなくてもかまわない。
自分だって、差し出された手助けの全てに気付いているわけではないのだから。
嘲笑されようが罵られようが、総合的にその人の役に立てたなら
神は喜びを贈ってくれますしね。
>でも私たちは相対世界での経験を得るためにここにいるのですから、例え狭い範囲であっても
>相対的な愛を表現してもいいのだと思っています。
はい、その通りだと思います。
数十日ぶりにふと思い立ち2ちゃんねるを覗いてみたら
大天国がハチャメチャな数値を書き込んだ直後でした。
これも縁かと思い読んでましたが、また暫くもとに戻ります。
>0gsBl65uさん
貴方は正しい。
胸を張っていてほしいと私は思います。
>Kt12XYa+さん
確かに人に意見を押し付ける事はアレです。
私を含め各々の意見を押し付けたとも受け取れる書き込みがあったのは確かですが、
誠実に正面から向き合っている人達が大半だったのではないでしょうか。
それと、あなたは個人的に天国くんとメールのやり取りをしておられるとお見受けします。
ならば、この掲示板という場であなたがこの流れを収める事が本当に彼のためになったのでしょうか。
その部分に腑に落ちないものを感じました。
773 :
神も仏も名無しさん:2007/10/25(木) 20:40:32 ID:q6AQpNW/
>>772 すいません、人違いのようです。
昨日あたりから彼の姿が見えませんが、別段私が流れを納めたつもりも
ないのですが・・・。久しぶりに改めて第一巻を始めから読んでみて、
こんな基本的な原則をまた忘れてしまっていたな、という思いと、やはり
何度読んでも一言一句に感動してしまうことに改めて気づいた勢いで
思わず長文を書いてしまいました。
特に流れのようなものも感じなかったのですが、何か邪魔をしてしまったのなら
すいませんでした。
774 :
神も仏も名無しさん:2007/10/25(木) 23:00:29 ID:q6AQpNW/
あえて特定の人物へのコメントは避けたいところですがチラ裏程度に書いてみます。
よくよく考えてみましたが、例え何か押し付けのようなことを言われたとしても、
この本を読んでおられる方であれば、その言葉に無意識に「反応」してしまうのか、
それともその後の行動や考え方を自ら「選択」するのか、ということに関しては
わかっているんじゃないでしょうか。
状況は常に中立であり、もしそこに何らかの意味や性質を見出したのだとしたら、
それはあくまで自分が生み出したものであるということも。
頭ではわかっていても必ずしも実行できる概念ではないですけどね。
彼の研究熱心さからすれば、当然(実行できているかどうかは別として)
常識だと思うのですがいかがでしょうか。>772さんはどうも彼とは付き合いが
長いようですが、私はこのスレぐらいでしか彼を見ていないので、あくまで
憶測の域に過ぎませんが。
775 :
神も仏も名無しさん:2007/10/25(木) 23:18:24 ID:q6AQpNW/
レス忘れてました。
>770
>一つであり個々である、がやはり一番近いでしょう。
やっぱりそうですよね。770さんは幻想を楽しめていらっしゃるようで・・・。
わかってはいるけど、それを実際に感じながら生活するというのは
今の私には大変難しいことです。そんな域に達っせるよう頑張りたいものです。
>助けあうとは、万物にあまねく循環する相互関係と調和することです。
>今は無視されてもかまわない。相手が気付かなくてもかまわない。
>自分だって、差し出された手助けの全てに気付いているわけではないのだから。
とても感動してしまいました。本当にその通りかもしれません。
得てして自分が「批判されている」と思ったことが、実は「差し出された手」であった
ことというのが、ものすごく沢山あるのかも・・・。差し出されたことに気づかなかった
ことすらあるかもしれません。
なのに自分ときたら、このスレで循環する相互関係とすら調和することもできずに
いますね。まだまだですね。でも未熟者だからこそ、皆様のお話やお説教を聞いて
もっと勉強しないと・・・。
777 :
773:2007/10/26(金) 13:55:55 ID:EUQgtiaX
773=Kt12XYa+=私です。
午前0時を回るとIDは変わるんですよ。
778 :
神も仏も名無しさん:2007/10/26(金) 14:06:04 ID:EUQgtiaX
あ、777の上に分と秒がゾロ目です。なんとなく嬉しい。(^^)
調和というものは簡単なようで難しい概念ですね。
音楽で言えば和音の周波数同士が規則的に並ぶ協和音というものは非常に美しく
調和して聞こえますが、時には不協和音が協和音以上に調和を持って聞こえる
こともあります。
しかしさらに曲全体から見れば、調和したコード進行に反した協和音は逆に
曲全体の調和を崩します。つまり和音そのものも大切ですが、より大事なのは
曲全体の流れですね。
779 :
神も仏も名無しさん:2007/10/26(金) 14:12:33 ID:EUQgtiaX
対話の中にあるような愛を中心とした調和の概念も、同じことが言えるのだと思います。
ある状況の流れでは素晴らしい調和をもたらすかもしれませんが、別の状況にそっくり
そのままこの概念を当てはめてしまうと不調和を引き起こすかもしれません。
そこには逆に不協和音を当てはめた方がかえって調和をもたらすこともあるでしょう。
そして重要なのは、同じ流れの中にいてもそれぞれの人の状況は違うということ。
だからそこに愛を持ち込むと調和を感じる人もいれば、逆に不安を当てはめた方が
しっくり感じる人もいるのだと思います。
780 :
神も仏も名無しさん:2007/10/26(金) 14:19:56 ID:EUQgtiaX
ですがさらに大きな770さんのような視点から見れば、それでも全体としては
完璧に調和しているのではないでしょうか。別にこれは自分の行為を無責任に
正当化するための言い訳ということではありません。
自分が正しいと思ったことをする、それに誰かがちょっと違うと指摘する。
それについて改めて自分の行動を振り返る。
最初の行動が別の誰かの思考に影響を与えて行動を引き出す。
さらにそれに触発されてまた自分の思考に影響を受けて色々考える。
これがそれぞれの人にとって完璧に自分自身のためになっているのでは。
だから全てに完璧さを見るということは、全ての出来事に対して
「完璧だからそれを否定しない」ということではなく、嫌な物は嫌だ、
間違っていると思うものは間違っていると言う、としてもよいではないでしょうか。
781 :
神も仏も名無しさん:2007/10/26(金) 14:27:21 ID:EUQgtiaX
もちろん神の視点から見れば、それが本当に完璧であることがわかるので
観察するだけで否定をしない、ということができるのでしょうが、
我々は神ではないですからね。
明日の神にあったように、最愛の息子が誕生日に亡くなった、などという
誰にも怒りや悲しみをぶつけることができなくて死ぬほど苦しくなった時に、
こういう神の視点からのものの見方をして、そのことが本当は完璧であった
ことを見出せばよいのではないでしょうか。
死の直後に「これは完璧だから」とニコニコしているのはやはり何かが違います。
しばらくは怒りや悲しみという不協和音を奏でる方が全体として調和しています。
そしてひとしきり悲しんでこのフレーズが終わったら、次のフレーズでは神の愛
という完璧な協和音を奏でることで、この曲全体が実に美しく響くのだと思います。
これが全体的な流れの中で協和音を奏でるということだと思います。
長文失礼。
>>777 そうでしたか。
他スレでの話題をこちらで幾度か引用されていたので、
他の方と間違えてしまいました。
こういう掲示板でやり取りをするのは本当に難しいですね。
流れや言葉の使い方ひとつで、まるで違う捉え方をされてしまい誤解を生んでしまう。
しかし、貴方のおっしゃるとおり、その誤解も「視点」によっては
素晴らしい影響を与えることもあるし、「全体」としてつじつまが合っているのかもしれません。
にも関わらず、なぜ失敗や間違いを自分を含め多くの人達は恐れてしまうのでしょうか。
783 :
霊界研究者 ◆zCS1o.kilU :2007/10/26(金) 19:02:55 ID:ljl0yzLI
784 :
霊界研究者 ◆zCS1o.kilU :2007/10/26(金) 19:03:58 ID:ljl0yzLI
785 :
霊界研究者 ◆zCS1o.kilU :2007/10/26(金) 19:21:05 ID:ljl0yzLI
神との対話は本当に面白いですね。今日も帰りの電車の中でパッと開いたページがここでした。
P178
愛情ある態度をとるということは、必ずしも相手の好きにさせるということではない。
子供をもった両親はそのことをすぐに悟る。
おとながおとなに対する場合、国が国に対する場合には、そう早くは悟れない。
逆に言うと、大人同士だと「相手も分別のある大人なんだから」「相手の横暴を止めたら自分が
何をされるかわからない」などの理由で、相手の好き勝手を放置してしまう、ということでしょう。
そして改めて考えさせられたのがこの部分。
ときには、ほんとうの自分であるために、ほんとうの自分を放棄しなければならない。(中略)
したがって、平和な人間としての自分を「まっとう」するために、戦争に加わらない自分という
考え方を放棄しなければならないかもしれない。歴史は人間にそんな決意を求めてきた。
同じことは、私的な関係についても言える。
人生には、ほんとうの自分でない面を示すことで、ほんとうの自分を証明することを要求されることが
何度かある。何十年か生きていれば、それがわかってくる。
ただし、観念的な若者にとっては、究極の矛盾と感じられるかもしれない。
もっと成熟してから振り返れば、神聖な2分法に思われるだろう。
だからといって、人間関係で傷ついたら「仕返しせよ」というのではない
(国家間の関係でも同じだ)。