神との対話は本当に面白いですね。今日も帰りの電車の中でパッと開いたページがここでした。
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愛情ある態度をとるということは、必ずしも相手の好きにさせるということではない。
子供をもった両親はそのことをすぐに悟る。
おとながおとなに対する場合、国が国に対する場合には、そう早くは悟れない。
逆に言うと、大人同士だと「相手も分別のある大人なんだから」「相手の横暴を止めたら自分が
何をされるかわからない」などの理由で、相手の好き勝手を放置してしまう、ということでしょう。
そして改めて考えさせられたのがこの部分。
ときには、ほんとうの自分であるために、ほんとうの自分を放棄しなければならない。(中略)
したがって、平和な人間としての自分を「まっとう」するために、戦争に加わらない自分という
考え方を放棄しなければならないかもしれない。歴史は人間にそんな決意を求めてきた。
同じことは、私的な関係についても言える。
人生には、ほんとうの自分でない面を示すことで、ほんとうの自分を証明することを要求されることが
何度かある。何十年か生きていれば、それがわかってくる。
ただし、観念的な若者にとっては、究極の矛盾と感じられるかもしれない。
もっと成熟してから振り返れば、神聖な2分法に思われるだろう。
だからといって、人間関係で傷ついたら「仕返しせよ」というのではない
(国家間の関係でも同じだ)。