1 :
我 ◆82SSORBSMo :
マリヤ崇敬批判文書を配るために館林のカトリック教会に行ったとき、私は重要なことを学ぶことができた。
カトリック館林教会に行くと、庭で数人の外国人が激しく言い争っていた。神父に尋ねたところ、彼らはベトナム人で、その中の一人が、友達が自動車を買ったことをねたんで、その自動車に故意に傷を付けたことが争いの原因とのことであった。
しばらく、ベトナム語で言い争っていたが、傷を付けた者を一人が殴り、マリヤ像の近くで取っ組み合いになった。
神父も修道女も、棒立ちで見ているだけだった。私は走って行って、二人の間に両手を入れて、掌で左右に押し別け、取っ組み合いを強制的に中断させた。
すると殴った者の家族と思われるベトナム人女性が「コンナコト ガマン デキマスカ!」と私に抗議した。
取っ組み合いを物理的に中断させた後、傷を付けた者に「修理代はあなたが払え」と言えば、それだけで解決したはずである。さばかなかったことを私は悔いる。
続きは
マリヤ崇敬批判スレッド
http://life8.2ch.net/test/read.cgi/psy/1187177636/1から マリヤ崇敬批判文書を読むことができます。
「クリスチャンは人をさばくべきである」を選択してください。
2 :
神も仏も名無しさん:2007/09/23(日) 20:49:59 ID:vDp7iSB+
2とれるかな
>>1 その話、少し前に東京の知人に聞いたけどね。
3 :
我 ◆82SSORBSMo :2007/09/23(日) 20:52:44 ID:VymRZbZH
4 :
我 ◆82SSORBSMo :2007/09/23(日) 20:56:49 ID:VymRZbZH
第1コリント6章2節を無視し、マタイ7章1〜5節を変な風に受け止め、「さばくな。さばくな」と言う者が多い。
聖徒の役割は世をさばくことなのだ。
「さばくな」と言っても何も解決しないし、解決がなければ先に進んで行くことができなくなってしまう。適正なさばきが速やかに行われなければ、人間社会は成り立たないのだ。T列王記3章9〜10節
状況も考えずに「さばくな。さばくな」と言う者は偽善者である。
彼らは正義など眼中になく、他の偽善者から誉められたくて「さばくな。さばくな」と言っているのである。
そのような偽善者に限って「あなたは人をさばいている」と言って、人を不当にさばくことを好む。
殴った者の心理
「相手を殴れば、誰かがそれを見かねて、さばいてくれるだろう」と期待していたに違いない。
私は愚かにも期待に背いてしまった。
ロトはソドムで、いつも争いを仲裁しては、適正なさばきをしていたのだろう。創世記19章9節。クリスチャンもロトのようであるべきだ。
>>1 修理代を払うのは裁きとは関係ないじゃん。
あたりまえだよ。
6 :
我 ◆82SSORBSMo :2007/09/23(日) 20:58:44 ID:VymRZbZH
あほだな〜
8 :
我 ◆82SSORBSMo :2007/09/23(日) 21:00:28 ID:VymRZbZH
ずっと前、カルト宗教のビデオセンターに連れていかれたことがある。
私が、教祖(自称再臨主)のことを「にせキリストだ」と言ったところ、カルト宗教の信者は、「人をさばくんですか?」と言った。
私は、救世主妄想の教祖をさばき「にせキリスト」と呼び、カルト宗教には入信しなかった。
カルト教祖をさばかず、入信して、霊感商品を販売するのが正しい選択だったのだろうか?
主イエスが教えようとしていることは「悪事が行われているのを見ても、それを放置せよ」という意味ではありえない。
「人が罪を犯すに至った経緯を全て把握しているのは神だけである」ということや「正しいさばきを行っても誰かを傷付けてしまうことになる。であれば、
的外れなさばきを行ったり、さばくべきときに速やかに正しいさばきを行わないことが、どれほど人を傷付けることであるかを考えなさい。」という意味が含まれているのだと思われる。
さばきが必要なときには、速やかに適正なさばきが行われなければならないのだ。
9 :
2:2007/09/23(日) 21:04:37 ID:vDp7iSB+
>>3 俺が聞いたのは、東京の知人がボーイスカウトがらみで事務局として借りてる
どこかのカトの教会に行ったときに、「マリア崇拝は間違っている」
というビラを配ってる団体がいて、そのときマリア像のまえで取っ組み合いの
喧嘩していた、っていう内容だからね。館林かどうか分からんけど。
いちおう(無知であることを隠すために)言い訳しておく。
10 :
我 ◆82SSORBSMo :2007/09/23(日) 21:06:10 ID:VymRZbZH
クリスチャン以外にも人をさばくことを怠っているものがある。日本という国家である。
フランスの小さな町の、19世紀の古い地図を見たことがある。小さな町なのだが、
そこには裁判所が載っていた。
しかし、日本には全ての市町村に裁判所があるわけではない。
これでは問題が生じても速やかにさばきが行われることは期待できない。
さばきを要する問題が生じても、その多くは放置されってしまう。日本は裁判後進国である。
日本では容易に裁判を行うことができないから、ヤクザに頼んでさばいてもらうのである。
裁判所に訴える代わりにヤクザに頼んで損害賠償の請求や、争いの仲裁をしてもらうのである。
ヤクザ裁判でも裁判がないよりは遥かにマシなのだ。
私には、こんな経験がある。カトリック神田教会でビラを配った帰り、酔っ払いが露天商(ユダヤ人ではない)に絡んでいるのを見た。
私は彼に「随分飲んでるようだけど、気を付けて帰るんだよ」と言った。
「脳の働きが鈍っている酔っ払いである。単純に私の言うことに従って帰るだろう」と思ったのだ。
しかし、彼は私に食って掛かってきた。
「信徒数、千人超(実際に来ていたのは、その十分の一足らずだったが)の教会で道場破りをした帰りである。
暴れる酔っ払いの一人くらい怖れる理由などどこにもない。受けて立つぞ」と思ったとき、
近くでダフ屋をしていた二人組のヤクザ者が、騒ぎを聞き付けて仲裁に来てくれた。
二人のヤクザ者に諭されて酔っ払いは帰って行った。
「さばくな。さばくな」を連発する偽善なクリスチャンや、見て見ぬ振りをしていた通行人たちよりも、
ダフ屋の方が遥かに立派な裁判官であった。
偽善で、ことなかれ主義で、仕事が遅くて、当たり前の判決を出すのに何年も掛かり、的外れな判決を連発するお役所崇拝の日本の裁判官などストリートファイトの仲裁には何の役にも立たない。単なる税金泥棒である。
11 :
我 ◆82SSORBSMo :2007/09/23(日) 21:08:12 ID:VymRZbZH
御国では主イエスがさばくのではないのか?
勿論、主イエスは御国における最高裁判所の長官には違いない。
主イエスが再臨して王となられているときには体は一つである。モーセと同じようになさるのではないだろうか。出エジプト記18:13−26
ここで言うさばきは、最後の審判のことではない。
再臨後、最後の審判以前の千年期に発生したトラブルを解決するための裁判のことである。
千年期と言えども人間社会に裁判は不可欠と思われる。
千年期には、大きな苦痛を伴なうような争いは起こらないと思われるが、小さな争いはあると思われる。(千年期の最後にサタンが一時的に解放されたときは別)
誰かが仲裁すればすぐに解決するような夫婦喧嘩や兄弟喧嘩でも、放置しておいたら殺人事件に発展する可能性がある。しかし、速やかに正しいさばきが行われるようになれば、その危険はない。しかも、人を恨んだり、仕返しすることを考えることも不要になる。
千年期の内、サタンが縛られている間は、サタンの作用によって争いが起こるようなことはないが、仕事の進め方や、収穫の分配方法などに関して意見が食い違うことなどはあり得るのではないだろうか。創世記13:7 黙示録20:1−3 使徒6:1
又、人間は愚かな性質を持っており、霊的に誘惑されなくても罪を犯してしまうことはあり得る。
コンラッド・ミュレル師はICM出版の「悪霊に打ち勝つ方法」の中で「悪霊は追い出すことができるが、肉を追い出すことはできない」という興味深いことを述べている。
御国が今と違うのは、サタンの作用によって問題が生じることがないことと、問題が生じても速やかに適正なさばきが行われるために、人が受ける苦痛が最小限で済むことであろう。
さばきが必要なときにさばきを行わないことも、間違った裁判を行うことも、たとえ正しい裁判であっても速やかに結果を出さないことは、人に多大な苦痛を与えるものであり、重大な罪である。
12 :
我 ◆82SSORBSMo :2007/09/23(日) 21:10:43 ID:VymRZbZH
>>9 マリヤ崇敬批判文書を配りに行って
取っ組み合いをしたことはない。
その一歩手前くらいの状態になることは
しばしばあるが。