1 :
神も仏も名無しさん:2007/08/27(月) 00:34:53 ID:0Os+roAp
人間が何かを崇め始めたのは、いつの頃からだろう?
例えば心の安らぎ、加護、御利益、困難を乗り越える祈願・・・
何らかの効果を求めて、人は何かに祈りを捧げてきた。
生きる力を求めて。より生き易さを求めて。自分が 誰かが 全員が 今生で 来世で・・・
それは、生命力を信頼する儀式。生きる力を授けてくれた生命力に感謝する儀式。
生命を助ける力、生きることを助ける力もまた、広い意味では生命力だ。
「生命力」を偉大なもの、神聖なもの、有難いものとして崇拝することは、
生命力を信頼し、その力(可能性)を鼓舞する儀式でもある。自分の中にある生命力をも
信頼・鼓舞することになる。人もまた、生命力の一形態ゆえに。
生命力を崇める信仰(自然信仰)は、原始的な営みをしている集団を見ればわかりやすい。
彼らの自然信仰・・・雨、火、太陽、月、大地、海・・・
生きること(生活)を助ける力もまた、広い意味では生命力だ。
人の進化過程において、身の回りの自然を「崇拝」した時。全ての宗教は、そこから始まった。
人々は、様々な形で生命力を崇めた。その儀式には、多様なデザインがある。
崇めている生命力の呼び名や姿(イメージ)にも、多様なデザインが生まれた。今もなお、新しく生まれ続けている。
新しく生まれ続けていることこそが、生命力の証。信仰の多様さは、生命力のデザインイメージの多様さだ。
長年繰り広げられてきた「デザインの違い」によると見られる争いの現象は、実はデザインの違いが原因ではない。
それを口実にしているだけであったり、「どれも同じもの(=生命力)を異なる方法で表現しているに過ぎない」
ということを忘れていたりするためだ。
あなたが見ている神聖で偉大なる存在は、あなたの中にも息づいている。全ての者の中に、息づいている。
とりあえず2を取っておこう。
3 :
神も仏も名無しさん:2007/08/27(月) 00:40:38 ID:0Os+roAp
「生命力」という一つの言葉でひっくるめて表現しデザインすれば一神教。
多様な生命力の形態一つ一つを適宜表現し、デザインすれば、多神教。
どちらも、神(生命・生命力)を見つめていることには変わりない。
健吾教kウ祖がAゲッチュ
5 :
神も仏も名無しさん:2007/08/27(月) 00:46:32 ID:0Os+roAp
「悟り」とか「昇天(アセンション)」
なんて生命力がなしうる相当ハイレベルな技だと思う。
生命無きものに果たしてそれが可能だろうか?
正論だけど
それが存在しているという認識が抜けてる
7 :
神も仏も名無しさん:2007/08/27(月) 00:55:37 ID:0Os+roAp
答えを外に求めたり、「正しさ」を外にたずねるよりも、
己の中に息づくものにこそ、問いかけてみればいい。
そこにも偉大で神聖なものが枝葉を伸ばしているのだから。
輪廻転生してる奴は、要するに死んでない。
「身体は死んでも魂は死なない」ということは、魂はある種の生き物なんだろう。
8 :
神も仏も名無しさん:2007/08/27(月) 00:56:12 ID:0Os+roAp
要するに信仰が抜けてる
10 :
神も仏も名無しさん:2007/08/27(月) 01:32:14 ID:e2ofvkw9
誰が、何への信仰?
11 :
神も仏も名無しさん:2007/08/27(月) 07:53:56 ID:e2ofvkw9
主語抜けてるよな。
12 :
くしこ:2007/08/27(月) 11:44:35 ID:6yB7Ts3t
キリスト教や日本の仏教は死んでこそ得られるものがあるのよ。。。
神道かアニミズムぐらいのものよ。セックスOKってんのは。
13 :
1:2007/08/27(月) 13:30:39 ID:0Os+roAp
>>9 確かに私は特定の信仰に基づいてこの文を書いてません。よってこのスレは
特定の宗教の教義を広めるものではないのでご安心下さい。
むしろ、古今東西の「信仰心」そのものにフォーカスしました。
ある意味心理学とか文化人類学的な視点なんですが、宗教というものは
そういった学問で取り上げられるような人間の営みとは切っても切り離せない
関係です。「崇拝」とか「信仰」という概念と発想を持っているのは人間だけですから。
原始の頃に広義の自然崇拝や生命崇拝をする発想がなければ、神という概念も
生まれなかったわけで・・・
自然や生命や生命力に関わるものを偉大で神聖なものとイメージするのは、人の遺伝子に
記憶された太古の本能の一つかもしれません。
>>12 天国やあの世で「生きやすく」なるためのものですよね。
身体は死んでも自分は「生きてる」ことが前提です。
14 :
1:2007/08/27(月) 13:39:22 ID:0Os+roAp
だから、現在固有名詞を持った信仰・崇拝の対象は皆、
太古の遺伝子の記憶からデザインされたもの。
あの頃よりも洗練された生命(力)崇拝。
崇拝の対象は自分の中にも息づくもの。ひとりひとりの中にあるもの。
そして、本人自身でもあるもの。
やっぱり知者ぶってるだけで理解がぬけてるよなぁ
主語がないだけでわからない理解力だよなぁ
味の抜けたチャーハンみたい(・ω・)
自分で思ってるほどたいした分析でもないよ
飽きてるね
摩り替えじみた反論に
やはりこの人も
怒るときにしか人間的にはなれず
普段は機械だなぁと思いましたよ
引きこもりだと思いますね
17 :
神も仏も名無しさん:2007/08/27(月) 14:33:50 ID:e2ofvkw9
>>14 西洋神秘主義に繋がるものがあるな。西洋だとそこまであからさまに言えば殺されるから、「臨在」って表現してお茶を濁すが
あと、俺は
>>1でなく
>>9の主語が抜けてると言ったつもり。
それも主観的理解だなぁ
固有は伊勢神宮にいけばよくわかるし
○感がまったく違うし
ううん、主語とかは消してゆの
あからさまにゆうと目がこわぁい
19 :
神も仏も名無しさん:2007/08/27(月) 16:11:45 ID:e2ofvkw9
お薬飲んで。
20 :
神も仏も名無しさん:2007/08/27(月) 16:18:54 ID:QCVvQgbI
そもそも、生命がなければ、神を考えることも、崇拝することもできない。
従って、すべての神概念は、人間の生命の産物に過ぎず、生命に従属する。
イエスをはじめ、宗教者は誰もそのことに思い至っていない。
21 :
神も仏も名無しさん:2007/08/27(月) 17:31:33 ID:e2ofvkw9
生命体とはなんぞや、って話だよな。
からだが死んでも別世界で生きるとされている宗教が多いのは、
集合無意識と関係あるのだろうか…
22 :
1:2007/08/27(月) 19:33:01 ID:0Os+roAp
生命が(自分を含めた)生命を尊ぶのはごく自然なこと。
それを、本能のみならず文化の領域にまで高めあげ、宗教や神を
生み出したのは今のところ人間だけです。
生命と生命力は人が生まれる前からありました。ただ、それが「神」と呼ばれ
るようになったのはごく最近かもしれません。
人が生まれる前からあり、人が生まれた後に崇められたもの。それが神かもしれません。
23 :
神も仏も名無しさん:2007/08/27(月) 23:55:09 ID:e2ofvkw9
しかし特定の宗教に帰依してしまえば、到底そんな話は受け入れられない。
その方法でしか崇めることが出来ないし、その方法が自分に一番
しっくりするやり方なわけで、それを否定されたような気分になるかもしれない。
24 :
神も仏も名無しさん:2007/08/28(火) 20:32:23 ID:lLxQ3B1+
レベルの低いスレ皿仕上げ
宗教とは 大人になるにつれて身に着けてしまった窮屈で余計な価値観を正当化する為のつじつま合わせの万能薬 中和剤
悩みが発生するから救い・宗教が必要となる
悩みとは心の不具合
子供には宗教は必要ない
いつもその心の状態は正常であるから
ちぐはぐな心が求めた結果 生まれたのが宗教
よって宗教自体は真実を有していない
真実とはそのままであることだけである
26 :
神も仏も名無しさん:2007/08/29(水) 22:59:31 ID:Cn7G/pgw
神を知った上でそれに尊重と敬意と信頼をよせるか。
神を知ることなど出来ないから、ただ闇雲に信じるしかないか。
あなたの信仰はどっちだろう?
その信仰は、あなたの価値観に合致したか。
それとも、あなたの価値観を代行したか。
27 :
神も仏も名無しさん:2007/08/30(木) 00:38:10 ID:SnlvmzAG
「神を知った」とか「神と交信した」という奴に限って
胡散臭い詐欺師か。精神病患者。
28 :
神も仏も名無しさん:2007/08/30(木) 20:22:06 ID:SnlvmzAG
それなのに、「神を信じている」場合に限っては正気として扱われるのはいかに?
それは君の常識の範疇の中だからだろうね
30 :
神も仏も名無しさん:2007/09/04(火) 01:17:22 ID:I4b9JlcU
age
>>1 但し生命力の源との合一を目指す信仰であるのか、それとも生命の源を「絶対者」とみなして崇拝するだけの信仰であるのかで、おのずと結果が全く違ったものになることにも留意のこと。
なればこその
>>1の問いかけであったものと解釈するのがベストなのでしょうか?
生命力を持っている者にとって、生命力の源と自分自身とはそれほどはっきり
相対化して考える様なものじゃないかもしれない。
「相対化」するってことは、その時点で「自分とはつながりのない赤の他人」と
みなすことだから。
私たちが起源(ルーツ・根)を同じにしながら多様なデザインになって枝分かれ
したことの意味を知るべし。私たちがそのデザインを尊重する本能が備わっている意味を
知るべし。それこそ、源の意志は私たちの意志でもあり、源は私たちでもある。
何ら区別はない。源を含めた全ての生命の総意は合一(縮小)ではなく、発展(拡大)だ。
それこそが生命は一つであることの証。生命力は一なる生命の表れ。
時には輪廻転生さえするほどの技を持っているかもしれない。
33 :
神も仏も名無しさん:2007/09/27(木) 18:35:34 ID:xxbO3e4Y
その考え方は異端。そういう人間は信仰を語る資格がない。
34 :
神も仏も名無しさん:2007/09/29(土) 01:34:49 ID:4fu6LRtS
あげる
35 :
神も仏も名無しさん:2007/10/10(水) 23:59:24 ID:EquECG+r
踏み分ける麓の道はおおけれど、同じ高嶺の月を見るかな
36 :
神も仏も名無しさん:2007/10/13(土) 19:08:25 ID:fnndIZ/7
人は生まれながらに宗教的素養があるらしい。時にはそれがイデオロギーやロックスターや恋愛に投影される。
本能は、生命というシステムそれ自身が持つ可能性の尊さを知っている。
37 :
神も仏も名無しさん:2007/10/13(土) 19:09:57 ID:fnndIZ/7
人の本能に潜む宗教的素養がその証し。
38 :
神も仏も名無しさん:
age