>>939 多謝。
阿呆陀羅氏も、こういう返答をすればいいのに・・・。
昔の阿呆さんは939さんみたいだったのにな・・・。
>>931 私は唯識系統ではありませんよ。
あなたは仮設として用いられる言説が、そのまま実在だと考えるのですか?
言説、つまり日常言語・習慣としては、「私」を用いるように、
世間で用いられる言葉通り使う。
しかし法を説くとき「私がない、私のものなどない」と説きます。
もちろん無ではありません。
仏教は簡単ではないのです。
>>941 では尋ねます。
1.釈尊の遺体は「あったのか」「なかったのか」。
2.涅槃は「ある」のか「ない」のか。
3.比丘達が身に付けていた袈裟は「あったのか」「なかったのか」。
4.遺跡として見つかっている仏塔等は「ある」のか「ない」のか。
5.貴方が今2chを閲覧しているディスプレイは「ある」のか「ない」のか。
6.貴方が書き込むために使用しているキーボードは「ある」のか「ない」のか。
7.貴方は、公共交通機関を利用しないのですか?実在しない電車に、よく安心して乗っていられますねw
実在しない他者の製造したものをそのまま使用するのはなぜですか?
実在しない他者の製造した食品を店で買い口にする・・。よくそんな大胆なことができますねw
8.律蔵大品によると、初期の弟子達は地方へ散ったらしい。
「二人で行くな」と釈尊は言った。実在しない他者に、一人も二人もないだろうに・・・www
他にも挙げましょうか?
943 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/12/22(土) 23:43:29 ID:RVC9KNSM
疾病昂進か・・・・w
>>943 そうそう、
貴方にも尋ねておきましょう。
「五蘊の無い所に涅槃はありますか?」
それとも、
「五蘊が無ければ涅槃も無いのでしょうか?」
(心経からすると、無色無受想行識と言うくらいですから五蘊無しに涅槃もありそうですが・・・w)
哲学的に、存在論の話になっていくのかな?
実は、真面目に素朴な疑問だったりするんだぜ。上記はw
946 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/12/23(日) 00:08:06 ID:zGdcb0c8
私は時々夢想する。
もし、初転法輪に於ける五比丘とのやりとりが残っていたなら・・・と。
経典にはあっさりした結果しか述べられていないが、
おそらく、丁々発止、喧々諤々の議論がなされたことだろう。
そして、そうしたやりとりにこそ、仏教の根幹があったであろう・・と。
>>946 なるほど。
有余無余ではなく、有漏無漏ですね?
「漏」は、広義の「煩悩」ということで宜しいですか?
それとも、もっと狭い煩悩の種類で考えるべきですか?
いずれにしろ、「五蘊」と「漏」の関係を掘り下げなきゃならんようですね。
ちょっと考えてみるわw
おやすみ ノシ
948 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/12/23(日) 00:25:11 ID:zGdcb0c8
>>942 無いのは「実在」ではなく「実体」ではないか?
全ての物質は「実在」出来てもそれは仮の存在でしかなく、
万物に「永遠不滅」なる実体は存在しない、ってのが大方の仏教的見地じゃないの?
実体が無いから失くす事も作り出す事も縁が有れば出来る訳で。
>>945 涅槃を目指す本来の意味は何だったか?
五蘊も苦の起こる末節的根源の一つだから
涅槃に五蘊は無いと考えるのが常套かと思うがね。
二度と生まれ出でないのが阿羅漢の最終目標(入涅槃)なんだから
それは早い話「無」になる事と同義かと。
本当に「無」と言うものが有るのか無いのかと問うのは愚問の最骨頂だろうし。
951 :
神も仏も名無しさん :2007/12/23(日) 10:08:48 ID:FVCnIVoH
>>950 > 何かが実在するなら何か実体があることになるだろう。
それはなぜ?実在しているのなら実体があるというのは早計。
実在という意味も様々で、捉えられ方も様々。
ここでは、「認識がある以上、認識対象もある」と言う素朴実在論であって、
まだ実在そのものへの考究を始める以前の話をしている。
それを理解しておれば以下のような頓珍漢はしないはず。
> 「実在」でなく以下の意味の「存在」ならまだ分かるが正に「仮の存在」の意味で
「独立して客観的に存在する」って、これどう考えても自立して存在するという意味で、縁起と相反する実体の意味だろ。
>>951 詭弁に詭弁を重ねてどうすんの
953 :
神も仏も名無しさん :2007/12/23(日) 10:33:10 ID:FVCnIVoH
>>952 詭弁ではないね。
あんたが何一つ理解できないでいるから、正論に対して「詭弁」というレッテルを貼り続けていることに気付け。
認識から独立して存在しているものが認識対象なんだよ。
そして素朴実在論では実在のとらえ方を少し反省して変更している。
つまり「認識がある以上、認識対象が実在する」ととらえる。そして認識されないものへの言及は避けるんだ。
「実在」という言葉の定義の最上位カテゴリーに対してお前なりの種差を加えて反論するのは詭弁中の詭弁。
この手の詭弁はもう飽きたよ。
さて
「認識がある以上、認識対象が実在する」がなぜ実体の意味であるのか説明してくれ。
詭弁に詭弁を重ねてどうするのw
954 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/12/23(日) 11:36:33 ID:zGdcb0c8
なるほど、昨日より件の自称行者・破落戸壁蝨が毎度毎度遣う手口のサンプルが採集されてる訳ですな(嗤)。 ロム者諸氏はご注目の上、各自向後の防犯・戸締り用心の参考にご利用下さい。
955 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/12/23(日) 12:19:43 ID:zGdcb0c8
(認知された)事実としての存在≠実体としての存在 であるのに、 意図的に読み違えて出来損ない藁人形をでっち上げて攻撃w いつもの手口だねえ・・・(失笑)。
「独立して存在しているものが認識対象」なら実体だろ。 私の言う実体は、自性(スヴァバーヴァ)のことだよ。 そういえば、十分でしょ。
957 :
神も仏も名無しさん :2007/12/23(日) 13:11:57 ID:FVCnIVoH
>>956 詭弁の次は居直りかい?そしてまた詭弁。
めちゃくちゃだw
説明していることを全く理解せず、今度は"svabhAva"ときたか。
いろんな意味があるんだけどね。自性には。
958 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/12/23(日) 13:25:49 ID:zGdcb0c8
いや、もう・・・w 笑うしかあらしまへんな(失笑)。 喚くほど 標本増やす強請り壁蝨
>>956 「自性」の意味を取り違えてるねw
だから解釈を誤ってしまうんだよ。
あなたの言うことはわかってるつもりだが、矛盾だらけだ。 「独立して存在しているもの」なら縁起せずにあることになる。 縁起しているなら「独立して存在」することはできない。 「独立して存在しているもの」なら、なんらかの実体・自性があることになる。 単純なことだ。 実在と何故、訳されたか考えてみれば分かるだろう。 仮に存在するものではなく実に存在するからだ。 特に「素朴実在論」というのは見える通りにすべてが 「認識とは独立して存在」ということで、 これはすなわち実体・自性を持っている以外のなんなのだ。 あなたは、仏教も西洋哲学も基本から分かってないよ。
961 :
神も仏も名無しさん :2007/12/23(日) 13:36:26 ID:FVCnIVoH
>>956 「独立して存在していても、実体としては認めることができない」
このような考え方ができない点に、あんたの思考的限界があるんだよ。
もっとも、素朴実在論は「独立して存在している」とは言い切らないけどね。
認識から離れた認識対象など無限定な作業は不可能だから。
「実在論と唯名論」の論争があるが、その実在論ではないので注意すること。
素朴実在論とは、感覚所与なる対象を認めることであり、認識成立の最低条件である。
感覚与件を認めないのなら、原始仏教で説く五蘊、処などの存在を完全否定することになる。
そののちに、対象や主観についてあり方や解釈が与えられるのである。
カントやフッセルのように。
>>959 ( (1)svabhåva means svo bhåva,the essence
(2)svabhåva is also the svalak.saˆa ,the individual character.In this form it is found in the doctrine of the Vaibhå∑ikas
(3)svabhåva is the åzraya (basis)orprakrti (nature),i.e.the unchanging substratum of each thing (bhåva)
(4)svabhåva is the svato bhåva, the absolute being,which is completly indepent.
ドゥ・ヨングの分類の(4)の意味だが、間違ってんの?
963 :
神も仏も名無しさん :2007/12/23(日) 13:41:04 ID:FVCnIVoH
>>960 あれ?また分かっていないようですね。
詭弁に詭弁を重ねるから完全に壊れ切ってしまったじゃないですか。
存在の自性は無常・苦・無我ですよ。
実体と自性の区別はついていますか?
独立存在が実体でなければならないというのなら、その根拠を示してください。
独立した存在であっても、そこには永遠不変な実体が認められず、その存在解釈として、無常・苦・無我が自性としてあるのです。
964 :
神も仏も名無しさん :2007/12/23(日) 13:45:56 ID:FVCnIVoH
>>962 なぜわざわざ4番目を取り出す?
仏教の文脈で4番はないでしょwww
それで、ちゃんと訳せるの?
>>961 平凡社『哲学事典』の素朴実在論の説明では
「物質的対象から成る世界は主観に対して独立にあると考える常識的信念をそのまま肯定する考え方である」
としているんだがね? 平凡社『哲学事典』まちがってんのかなw
そしてこんな素朴実在論なら、仏教は凡夫の見方を正しいとすることになり、
一体、何が無明で何から目覚めるのか?
このような素朴実在論が無明であり、邪見であるから、
そこから目覚めるために教えを聞き、それを考え理解し、
行じて素朴実在論などの邪見から解放されて目覚めるんだろ。
>>964 実体は、認めないものだからですよ。
それを認めたら縁起できない。
上に説いたように。
>>949 もそれは認めてるよう。
しかし、それを認めて素朴実在論とはw
まあ、そおいうことで、失礼。外出するんで。
967 :
神も仏も名無しさん :2007/12/23(日) 13:52:59 ID:FVCnIVoH
(4)svabhåva is the svato bhåva, the absolute being,which is completly indepent. 最後の二句は completly independent の間違いだよ。 the absolute being これは神のことだよ。 訳は「神(完全に独立した)」 わかった?
968 :
神も仏も名無しさん :2007/12/23(日) 13:54:19 ID:FVCnIVoH
>>965 相手のレス読んでないでしょ?
今頃平凡社の事典にもどってもねぇ・・・・・wwww
969 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/12/23(日) 13:57:47 ID:zGdcb0c8
( ´_ゝ`)、いきって梵語を出すくせにそもそも人語が解らへんのやねw。 ま、その辺が人外悪趣に迷う破落戸壁蝨の所以やけどね(冷笑)。
法印の道理たるべき処を認めてしまうと教団やその擁するドグマが崩壊してしまうから 自説や戯論に固執してしまうんだろうな。 それが仏教の論理破壊に繋がって居るという事も知らずに・・・
971 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/12/23(日) 15:16:31 ID:EkyXmdpR
972 :
神も仏も名無しさん :2007/12/23(日) 16:18:28 ID:FVCnIVoH
>>967 訂正です
completly → completely
「神」の訳は意訳で「絶対者」と直訳した方がいいのかもな。
>>960 最初に出てきたときは、
「【認識(主観)から】独立して」という条件だったと思うが?
なぜ「独立して存在」という部分だけを抽出するんだ?
974 :
神も仏も名無しさん :2007/12/23(日) 17:56:43 ID:FVCnIVoH
>>966 あのね、せめてね
『仏教要語の基礎知識』水野
第三章を熟読してくれないかな?
下の部分だけでもいいよ。
1 三科総説
と
2 三科各説 の 存在について
>>967 訂正ありがとうw
神、絶対者というより「自立するもの」「自然に存在するもの」でしょ。
だから、創造主絶対者という意味での神も含まれるし、原子なども含まれる。
>>973 だから「独立して存在」するという意味と同じなんですよ。
これを仏教は認めない。まあ有部のような例外もあるけど、それは異端ですから。
>>974 逆にこちらが言いたいよ。一体、どう読んだら『仏教要語の基礎知識』が実在を説いているというのか?
既に指摘した
>>912 を読み、『仏教要語の基礎知識』124-125で
般若心経の五蘊皆空と同趣旨とまで仰っているでしょう。
これは五蘊ですら空であるのだから、他の諸法も空であるということに他なりません。
『仏教要語の基礎知識』134ではパーリ仏教では実法と仮法を説くと説かれています。
そこでは説明は略されていますが、水野著作選集2の『施設について』や『摂阿毘達磨義論』を
見ると実法というのは『倶舎』6-4の勝義とほとんど同じ概念で、素朴実在論で言う
見えるものがその通り実在することではありません。
見えるものは既に述べたように仮法つまり施設・言説であり、それは分析すればなくなる
仮法とされます。つまり、最も素朴実在論に近い部派仏教の教義でさえ、素朴実在論ではあり得ない。
水野先生は、さらに五蘊皆空と同趣旨とまで仰っているのですよ。
ただのあなたの誤読ですよ。
『摂阿毘達磨義論』74-76を見ればよりはっきりするでしょう。
977 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/12/24(月) 01:43:06 ID:WMWnXRhb
街宣から帰った来たか・・・w 性懲りもなく出来もしない藁人形捏造に汲々としてるのね(失笑)。
>>975 >だから「独立して存在」するという意味と同じなんですよ。
単に≪独立して存在する≫と言った場合と≪【認識(主観)から】独立して存在する≫と言った場合では、
それなりに重要な違いがあるのではありませんか?
(以前、電波氏が「唯識の外界」についてチラッと語っていたような気もしますが・・・)
まず、極論としてこのような見方がある。
『およそ「世界」と言われるものは、「(一個人、もっと言えば自身に於いて)認識されたもの(主観に映じたもの)」しかない』
『客観はあり得ない』
『認識(主観)の外はない』
外界は、主観に映じた世界から「おそらくそのようであろう」と類推・想像・信用するしかない、と。
人が知り得るものは何一つない、と。確かなのは、自身の主観に何かが映じている、そのことだけである、と。
自分が水槽に浮かんでいる脳である可能性を否定することは不可能である、と。
仏教は、こうした立場なのでしょうか・・?(唯識はこれに近いかもしれませんが・・w)
映画マトリックスのネオのように、マトリックス世界をマトリックスであると知ることが悟りなのでしょうか・・・w
上記は当然極論です。それを、段階的に緩くして幾つもの階層(視線の種類)を設けることも可能です。
その時、『自身の認識(主観)と関連のないものは存在するのか』
『地球の裏側は存在するのか?』『隣の田中さんが食べた夕食の水炊きは存在するのか?』
『こちらが鈴木さんです。と、紹介された時、紹介の言葉を聞いた時・鈴木さんの姿が目に入った時、
その時初めて鈴木さんは出現したのか?それまで鈴木さんは存在しなかったのか?』
これらへの回答はどうなるのか。
(上記の極論でいけば正にその通り。紹介されて初めて鈴木さんは「世界」に出現したのだ!)
>>978 釈尊と中観は、縁起するとしか言わないでしょう。
なにかに還元したら縁起ではなくなるでしょう。
なにか還元できる基体を想定したら縁起とは別になると思います。
「全ての物質は「実在」出来てもそれは仮の存在でしかなく」も傑作ですが、
外界を認める唯識というのも傑作ですね。
980 :
神も仏も名無しさん :2007/12/24(月) 13:38:27 ID:7hgEj8mp
>>979 外界を認める唯識?何それ?どこをどう読んでるんだ?
認識の根拠を外界に求めないのが唯識の立場であって、
外界の存在を否定していない。言及しない。肯定もしない。
認識しているものは外界にはなく、さもその認識対象は外界にあるように思ってしまう。
この流れだったんだけどな。
981 :
神も仏も名無しさん :2007/12/24(月) 13:40:58 ID:7hgEj8mp
外界の存在を否定している根拠を出せた人はいなかったな。
>>980 今は「全ての物質は「実在」出来てもそれは仮の存在でしかなく」だから、
>>976 を読んで誤読を認めるなら、その話もしましょう。
>>979 >釈尊と中観は、縁起するとしか言わないでしょう。
だからぁwww
(一個人の)【認識(主観)】の中でしか縁起しないのであれば、
(一個人の)【認識(主観)】に於いてのみ縁起は見られるものならば、
(――勿論、『自身が縁起している』という視線は仏教の大原則であり、何より出発点だと思いますが――)
アッサジが出会ったサーリプッタはいつ出現したのですか?
アッサジから紹介された時に「因縁が繋がって」「釈尊に於いて」出現したのですか?
釈尊と出会う前のサーリプッタは、釈尊にとっては存在しなかったけどアッサジにとっては存在していた。
釈尊が認識する前のサーリプッタはどこにいたのか?
「アッサジの認識(主観)」と「釈尊の認識(主観)」とは、併存しているのか?
それともどちらかしかなくて、片方は片方の主観に映じたもので、実際は存在していないのか?
貴方は、何を以てして「存在している」というのですか?
大般涅槃経に於いて、釈尊はアーナンダに「疲れた。布を敷いてくれ」と言った。
そこに布はあるのか?ないのか?
釈尊の主観に於いて縁起し顕れている布だから、
もしその場で釈尊が般涅槃したら、布は消失してしまうのか?
なんか禅問答みたいになってきたな・・・w
984 :
神も仏も名無しさん :2007/12/24(月) 13:54:44 ID:7hgEj8mp
>>982 いや、あんたは何一つ理解できていないから、議論する価値はないと考えています。
これまで多くの教育的レスがあるのに学習できていないからです。
水野先生の日本語が理解できないのなら、それでお終いですね。
>>983 単純にいうなら日常言語では存在する。
ですが実在するとは言わないでしょう。
釈尊の時代は、施設といっていましたが、後に世俗諦という言い方では、私ともいうし、存在するとも常識通り用いるだけです。
その常識と悟りの立場、後に勝義諦とされるものは違います。
素朴実在論みたいに見えるものがそのまま存在すると、日常言語ではいいますが、
ほんとうにそのまま存在する、つまり実在するとするのが
後代法我といわれる対象が本質を持って実在するとする見方に他ならないからです。
多くの人が共通の物を一致して認識するからといってそれを実在するとも見ません。
ただそのように縁起しているだけです。
もちろん、唯識のように知覚だけ、認識だけというわけでなく、
対象も知覚も縁起しているだけとするのが仏教本来の立場と考えます。
あなたは
>>976 をどう思いますか? もう7hgEj8mpさんとは話ても無駄なので
>>985 >対象も知覚も縁起しているだけとするのが仏教本来の立場と考えます。
全面的に同意ですよw
ただし、私は、“「境」もある”と考えていますがね。
それを「実在」と言うのかどうかはわかりませんw
けれども、(「心頭滅却すれば火もまた涼し」は、気の持ちようとしてアリだとは思いますがw)、
衣服があるから寒さを凌げるのだと素直に考えます。(※言語(日常言語)の問題ではありません)
衣服が《ほんとうにそのまま存在し》、「《ほんとうにそのまま存在》する私の「色」」を保護するから、
凍死せずに済んでいるのだと素直に考えます。
貴方の一連の言い方が、
≪「根」と「識」のみがある。「境」は無い。≫
という意図に見えたので少し粘着しました。
「空」であるということ、「無常」であるということ、
「縁起(している)」ということ、
これらは、決して「無」ではない。(だから私は心経があまり好きではないのですが・・・w)
「無我」も「無常」も「縁起」も、自身が「無我」であり「無常」であると見なければいけない。
自身が「縁起」していると見なければならない。
「五蘊」は、自身の五蘊である(≒自身が五蘊である)という原則を忘れてはいけないと思う。
滅すべき「苦」は、どこか知らない「他人の苦」ではない。
滅すべきは「自身の苦」であり、「涅槃」も自身が見なければならない。
他人に見てもらっても意味がない。「自身が見た時に初めて、そこに涅槃がある」だろう。
その意味では、貴方の謂いは間違ってはいないと思いますよ。
>>986 後半は全く仰る通りだと思います。
前半は「境がある」と日常言語ではいいますが、
正しくは「境として縁起している」だと思います。
衣服の例えも、すべてそのように縁起していると思います。
だから、神通も神変も聖者には可能なのであって、
もし、実在なら神通も神変も不可能でしょう。
「心頭滅却すれば火もまた涼し」は、聖者なら当然と考えております。
お付き合い、ありがとうございました。
988 :
神も仏も名無しさん :2007/12/25(火) 13:10:06 ID:/nm9KuzX
聖者であって心頭滅却しても、火はやっぱり熱い 実験してみようw 自称聖者を火あぶりにしろ
989 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :
2007/12/25(火) 14:28:22 ID:4i/DHMjl 「やいと」だけで宜しいのやおへんか(笑)。