原始佛教 その26 [仏教]

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(1)>>145で勉強不足との謗りを受けましたので、とりあえず以下目につく所を指摘しておきます。
『仏説』輪廻否定論を挙げだせばキリがない。特に輪廻の定義につき佐倉哲氏の指摘に注意。

*佐倉哲http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/buddhism/buddhism47.html
「輪廻」はサンスクリット語で「流れること」を意味する「サムサーラ」の訳であって、
古い時代から、「世の中」あるいは「世界」という意味に使用されており、
サムサーラをすべて「生まれ変わる」と解するのは間違っていると言われています(中村元、『仏教語大辞典』「輪廻」1431頁)。
とくに仏教では、サムサーラとは「迷いの世界」を意味し、まだ解脱せず、いまだに苦の世界に生きている人間存在の世界を指して使われています。
サムサーラとは、「彼岸」(涅槃)にたいする「此岸」のことであり、「不死の境地」(涅槃)に対する「死の領域」のことであり、煩悩の支配の状態のことを意味しています。
だから、煩悩そのものに執着したり、より良い「あの世」に生まれ変わりたいと願うのは、サムサーラ(輪廻)の世界に生きている(煩悩の支配下にある)人びとであり、
解脱した聖者は「この世もかの世も望まない」(スッタニパータ 779)ということになります。ブッダが目指すべきものとして教えたのは、
天界への生まれ変わりではなく、解脱・涅槃(煩悩からの自由)でした。(サンユッタニカーヤ 5:7)
→だから俺は世俗世界における妄想と指摘した。>>138

*梶山雄一「空入門」196頁
 輪廻は夢のようなものです。夢はない、とはいえません。悪夢に苦しんでいる人にとっては、これほど深刻な事実はないでしょう。
しかし夢から覚めたときに、人はそれが現実でなかったことをはじめて知るのです。
それと同じように、私たちが迷いの生存を生きているかぎり、輪廻は事実です。
しかし、さとったときにはじめて、私たちは輪廻が“存在しなかった”ことを知るのです。(“ ”は俺)