【聖書学】学問としてみた一神教【クルアーン】

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697神も仏も名無しさん:2007/08/06(月) 02:19:45 ID:ond2sKWk
ID:LC1Y5bue は天才。
698KG:2007/08/06(月) 02:20:23 ID:8/pZa3vm
それにしても、議論の流れの途上でいきなり、根本問題に立ち返る人がいるのはどうしてでしょう?
他の場所でもこの手の人に悩まされたことがあります。
それならば、話し合いの最初の段階でそれを論じるなり、それに問題提起したい意志を表示すればいいですのに…。
この段になって、歴史的事実は?だの、事実は?だのと問われても…。

明らかに、「事実とは?」という議題は、これまでの話し合いの流れとは関係がありません。
これでは、イエスの死の特異性を何とかして守りたいための、はぐらかし作戦だと受け取らざるをえません。
どうせここから先も、言葉の意味論を深めていくのでしょう?
それならば私はここらでおいとまします。

後はどうぞ他の方々で、その議論を深めていってください。



699神も仏も名無しさん:2007/08/06(月) 02:23:30 ID:ond2sKWk
子供?
700:2007/08/06(月) 02:24:19 ID:vs8S1uF+
事実を研究することは好きならやればいいけど
聖書事実派も聖書非事実派も方向が180度違うだけで、事実真理教徒だあね
あとは、目からうろこ←人間にはウロコないよ  千年帝国←大日本帝国のイメージなど
書いたことを現在感覚やそのまんまイメージで否定するのが後をたたないのも<なんだかなあ>とおも
701神も仏も名無しさん:2007/08/06(月) 02:24:58 ID:LC1Y5bue
>>698
>それにしても、議論の流れの途上でいきなり、根本問題に立ち返る
>人がいるのはどうしてでしょう?

イエス・キリストの出来事は事実か否か、イエス・キリストの史的事実に
意味があるのか、ないのかというあなたの
問題提起は、根本問題に立ち返る問いではないのですか?
根本問題を問うなというなら、あなた自身がのスレから立去ればよいのでは
ないですか?
自分が問うておきながら、人には問うなというのは、どうかと思いますが。
702KG:2007/08/06(月) 02:26:10 ID:8/pZa3vm
>>694
>つまりキリストがその道を開いた。

「誰々〜のために死ぬ」という殉教者のイメージ、高貴な死のイメージは、ヘレニズム時代のギリシア哲学・文学や、ユダヤ文学にも見られます。
私は、イエスの死は、それをベースにしていると考えています。
そのイメージは、キリスト教のイエスが専売特許なのでも元祖でもありません。
それ以前に道は開かれております。
ちょうど、レジスタンスの観念が、キリスト教の観念をベースとしたように…。
703神も仏も名無しさん:2007/08/06(月) 02:29:11 ID:LC1Y5bue
>>702
>「誰々〜のために死ぬ」という殉教者のイメージ、高貴な死のイメージは、
>ヘレニズム時代のギリシア哲学・文学や、ユダヤ文学にも見られます。

具体的には、どの文書ですか?
文書名を挙げてください。
704KG:2007/08/06(月) 02:32:39 ID:8/pZa3vm
>>701
私は、一次資料に遡る歴史の再現の手法を支持し、
それによって明らかにされた過去の出来事を、
実際にあった出来事に近いと判断します。
問題は、福音書のイエスのその判断規準に適うどうかです。
それを“最初から”議題としています。
話し合いの流れを断ち切ってそれを突如持ち出したのではありません。
事実とは何かという議論には関心がありません。
ですから、事実とは何かという議論からは身を引きます。
705神も仏も名無しさん:2007/08/06(月) 02:34:56 ID:LC1Y5bue
>>704
一次資料に書かれてあることが、実際の出来事に近いと考える
根拠はなんなのですか?
706KG:2007/08/06(月) 02:37:16 ID:8/pZa3vm
>>703
外典・偽典の『マカベア記2,4』、『ソロモンの知恵』、ソクラテスなどの哲学者らのイメージなどです。
707KG:2007/08/06(月) 02:40:14 ID:8/pZa3vm
>>705
それが「出来事」に一番、地理的・時間的に近いからです。
708神も仏も名無しさん:2007/08/06(月) 02:41:31 ID:LC1Y5bue
>>706
ソクラテスについて記述されているブラトンの諸文書は
ヘレニズム時代のものではありませんが。

それに、新約聖書がユダヤの署文書を参照しているのは
言うまでもない当然のことです。
709:2007/08/06(月) 02:42:32 ID:MThxQrLA
旧約十ギリシャ哲学十ミトラ教十イエス十使徒たち新約十ローマ帝国国教化=キリスト教

旧約十ムハンマド十アラビア語集団十ギリシャ哲学十キリスト教矛盾点改定=イスラム教

プラトン家ミトラ教国<アフガンの地>→ミトラ=ミロク菩薩→アジアにミロク拡散
710神も仏も名無しさん:2007/08/06(月) 02:42:35 ID:LC1Y5bue
>>707
地理的、時間的に近いからといって、その記述の通りに出来事が
起きたという証拠にはなりません。
一次資料を読んでわかることは、「一次資料にはそう書かれている」
という事実だけです。
711KG:2007/08/06(月) 02:45:51 ID:8/pZa3vm
>>708
あのですね、言葉の揚げ足鳥はおやめください。
それを言うなら、ブラトンではなく、プラトンですよ。
署文書ではなく、諸文書ですよ。
それに、ヘレニズム時代の諸学派の著作も含まれるでしょう。

ここでの問題は、イエス以前に、殉教者のイメージが存在したか?です。
話の流れを汲み取られてますか?
712神も仏も名無しさん:2007/08/06(月) 02:45:56 ID:LC1Y5bue
>>706
ソクラテスが殉教者として描かれているというのは、
具体的にプラトンのどの文書のどの記述をさして
言っているのですか?
また新訳記者たちが、プラトンの文書を参照していたと
考える根拠はなんですか?
713神も仏も名無しさん:2007/08/06(月) 02:49:27 ID:esbjvrOw
>>711
だって、一次資料を精緻に検証するという「歴史学的手法」で事実を
明らかにしようというのが、あなたの提言ですよね?
プラトンをヘレニズム時代に入れるのが、一次資料の精緻な検証に
当たりますか?ずいぶんいい加減な「歴史学」ですね?_
ほんとうに歴史を勉強されているのですか?
714神も仏も名無しさん:2007/08/06(月) 02:50:46 ID:esbjvrOw
なんか、自分の都合わるい点を指摘されると、揚げ足取りだの、
議論をさえぎるだのとおっしゃるが、こんなことでは精緻な
学問的検証は不可能ですね?
もしかして事実を追求するよりも、
あなたの独断を展開したいだけなのでは?
715KG:2007/08/06(月) 02:53:51 ID:8/pZa3vm
>>713
私は、外典・偽典を指して、ヘレニズム時代と申したのです。
ソクラテスがヘレニズム時代だなどとは微塵も思っていませんよ。
たまたまギリシア時代という語を落としたくらいで…。
私がそう勘違いしていたと思われましたか?
716神も仏も名無しさん:2007/08/06(月) 02:54:48 ID:esbjvrOw
プラトンが、ソクラテスの死を、「だれかの身代わりとして死ぬ」という
キリスト教的殉教や贖罪的意味で、描いていたという事実は、わたしの
知る限り存在しませんが、プラトンのどの文書のどの記述において、
ソクラテスはそのように描かれているのですか?
717神も仏も名無しさん:2007/08/06(月) 02:55:27 ID:dI1DgZwg
ミトラ教って、キリスト教のモデルどころか
仏教、イスラム教、いや、全ての古代宗教のモデルにもなっているんですね。
とくにスーフィなどは、ミトラの影響がかなり反映されているとか。
キリスト教とミトラ教の関係はもうおなかいっぱいなのですが、
このイスラム教と、ミトラの関係をよく知っている人、両者の関係を教えてくれませんか?
どうも、イスラムの終末思想は、まんま、ミトラだか、ミトラを起源とする
ゾロアスター教の終末思想の、パクリのようです
参考HP
http://www.chitobe.com/bbs/bbs.php?i=200&c=400&m=87116
http://homepage2.nifty.com/Mithra/HP_Mithraism_and_Sufism.html
718神も仏も名無しさん:2007/08/06(月) 02:57:35 ID:GOck5O30
>>716
あなたは、
>「誰々〜のために死ぬ」という殉教者のイメージ、高貴な死のイメージは、
>ヘレニズム時代のギリシア哲学・文学や、ユダヤ文学にも見られます。

と書かれていますよ。
ずいぶんおそまつな言い訳ですね。
みっともない。
ユダヤ文学についてはわかりましたから、キリスト教的殉教について
描かれている「ヘレニズム時代のギリシア哲学・文学」の文書名をあげてください。
719神も仏も名無しさん:2007/08/06(月) 02:58:10 ID:GOck5O30
>>715でしたね。
720KG:2007/08/06(月) 03:00:53 ID:8/pZa3vm
>>712
『ソクラテスの弁明』などでしょう。
それ以外にも、哲学者の伝記が挙げられると思います。
初期キリスト教の者たちが、それらを知っていたことは、
彼らの文書(パウロ書簡から再現される)が、それらの伝記の定式を踏まえていたことから分かるのだそうです。
以上のことから、イエスの殉教者のイメージの基礎となったものが想定されます。

これ以上の細かい議論には私は立ち入りません。
その専門家ではないからです。私は彼らの意見を受け入れるのみです。
721神も仏も名無しさん:2007/08/06(月) 03:02:59 ID:GOck5O30
>>720
一次資料がどうたらこうたら言われるなら、もっと正確に文書名を
書いていただけませんか?哲学者の伝記などと言われてもどの文書の
ことを指しているのか、わかりません。

プラトンの描く、ソクラテスの死は、「誰かの身代わりとして死ぬ」
という、イエスの贖罪死のイメージとは異るものですよ。
722神も仏も名無しさん:2007/08/06(月) 03:04:44 ID:GOck5O30
>その専門家ではないからです。私は彼らの意見を受け入れるのみです。

一次資料に基づいて検証するというのが、あなたの提言ではありませんでしたか?
「彼らの意見」って誰の意見ですか?
「彼らの意見」は、検証もせずに信じ込むわけですか?
723神も仏も名無しさん:2007/08/06(月) 03:06:34 ID:GOck5O30
>これ以上の細かい議論には私は立ち入りません。
>その専門家ではないからです。私は彼らの意見を受け入れるのみです。

もうそろそろ黙った方がよさそうですよ。
シロウトなら、シロウトらしく、歴史学がどうの一次資料がどうのと
分かった口をきかないで、しおらしくなさっていたら
どうですかね?
724KG:2007/08/06(月) 03:09:12 ID:8/pZa3vm
>>722
専門家の意見は信頼します。
なぜなら、彼らも、歴史学の手法に乗っ取って再現しているからです。

ではこちらが訊きますが、
722さんはいかなる方法で、過去の出来事をお知りになりますか?
ご自身のお考えをお示しください。
725神も仏も名無しさん:2007/08/06(月) 03:13:50 ID:q+8i2g93
>>724
歴史学者の中で、イエスの刑死は歴史的事実でないなどということが
定説になっているのですか?
わたしの知る限りそうではありませんが、どうして一部の「専門家」の
言説のみを取捨選択して信じるのでしょうか?
726KG:2007/08/06(月) 03:20:22 ID:8/pZa3vm
>>イエスの贖罪死のイメージとは異るものですよ。

ええ、贖罪死のイメージはまた別ものでしょうから。
ソクラテスの死は、自分の祖国、都市、法律“のために”死ぬという、
ギリシアの古典的な高貴な死のイメージを受け継いでいると私は学びました。
それについては、デイビッド・シーリーの「高貴な死」をお読みになればよろしいかと思います。
そこには、パウロが採用した殉教者のイメージが跡付けられているそうです。
727神も仏も名無しさん:2007/08/06(月) 03:24:43 ID:ut5fSyWI
>あらゆる信仰の対象は「事実」であることになりますね?
>信仰者は信仰する対象に、無条件でむしゃぶりつきますからね>>693

全くの理解力不足。架空の神に祈って生存が出来ますか?霞を食って生きられ
ますか。極限の飢餓状態において、人間は神よりも一切れのパンを選びますよ。
神を選べは、間違いなく餓死するからです。

人間の本質は、極限状態において現れます。

生存本能を中核とする動物の一種。これが「すべての人間」に共通する、唯一の
普遍の事実です。「神概念」などは、ゴマンとある宗教ごとに異なります。
従って、神は本質でも普遍でもありません。

728神も仏も名無しさん:2007/08/06(月) 03:27:21 ID:q+8i2g93
ディビッド・シーリーの『高貴な死』なる著作は、検索しても
でてこないのですが、どの出版社から何年に出版されたものですか?
原書名もあげてもらえると助かります。

くりかえしますが、パウロの描く、イエス像と、
ブラトンの描くソクラテスの像は異るものですし、
類似点があるからといって、パウロがブラトンの記述をなぞったという
根拠にはならないと思いますが。そもそもパウロは、ブラトンの著作に
どこでふれたのでしょうか?
ブラトンは、ソクラテスとを徹底した懐疑主義者として描いています。
パウロは、イエスを懐疑主義者として描いていますか?
729神も仏も名無しさん:2007/08/06(月) 03:29:39 ID:q+8i2g93
そもそもあなたは、一篇でもいい、ブラトンの著作を読んだことが
ありますか。読んだら、パウロの著作と、ブラトンの著作の決定的
違いぐらいわかるはずですが。文学的構成の点でも両者は
まったく異っています。
730KG:2007/08/06(月) 03:33:29 ID:8/pZa3vm
>>725
私が知りうる限りの説において、それが妥当だと思われたからです。
もちろん、それがひっくり返る可能性もあります。
ということで、>>723さんが最もありえそうだと思う説は何ですか?
ぜひ教えてください。
こちらも質問をたくさんいたしますから。
私はもう十分答えたと思います。
731神も仏も名無しさん:2007/08/06(月) 03:33:37 ID:q+8i2g93
>>727
>人間の本質は、極限状態において現れます。

人間のおかれ得る極限状態とは、生物的、身体的な極限だけではありません。
人間の極限状態を、身体的なものにだけ限定してかんがえるのは、あなたの
想像力の欠如としかいいようがありません。
人間の極限状態の基本的文献としては、フランクルの著作がありますが、
彼は、アウシュビッツという極限状態で、人が命をなくしたのは、
希望を破壊されるという実存的極限に置かれた直後であったことを
報告しています。読んでいらっしゃらないなら、一度ごらんになるといい。
732神も仏も名無しさん:2007/08/06(月) 03:36:23 ID:q+8i2g93
>>730
>私が知りうる限りの説において、それが妥当だと思われたからです。

これでは、一次資料を検証していることにはならないし、
学問的姿勢とも言えませんよね。
個人的信仰や独断の域をでていないじゃないですか?

ブラトンの著作と、パウロの著作は、実際に読んでみればわかるように
まったく異る構成と内容をもつものです。パウロがプラトンをなぞったなどと
主張する根拠はなんなのですか?一次資料に基づいて、説を展開していただきたい
ものですね。
733神も仏も名無しさん:2007/08/06(月) 03:37:33 ID:ut5fSyWI
>>728
当時のギリシャ文化の中心地だったガリラヤの首都セフォレスは、
ナザレから歩いて一時間半程度のところにあります。イエスも度々
出かけたものと推測されます。従って、イエスがギリシャ文化の
影響を受けていないことなど考えられません。「イエス犬儒派説」
もあります。新しいもの好きのイエスが、軽薄にも、ギリシャ思想
に飛びついたのでしょう。

ヘブライ思想とギリシャ思想とが化合して、キリスト教という「化け物
宗教」が生まれたものと理解します。
734KG:2007/08/06(月) 03:39:10 ID:8/pZa3vm
>>728
David seely “The Noble Death" 1990 JSOT Press.

ところで貴殿の最もありえそうだと思うキリスト教発展史とは?
ぜひお答えください。
参考にしたいと思います。
735神も仏も名無しさん:2007/08/06(月) 03:48:45 ID:0fqTAJ+C
>>733
セフォリスは、BC4年に反ローマの拠点としてローマによって
破壊されていますが、イエスの人間形成期にギリシア文化の
中心地にまで発展していたというソースはどこにありますか?
736神も仏も名無しさん:2007/08/06(月) 04:00:36 ID:ut5fSyWI
キリスト教の持つ種々の問題点は、ヘブライ思想よりもむしろギリシャ思想
が原因だと思っている。ギリシャ思想は、仕事は奴隷に任せた暇人たちが、だ
らしなく寝そべって飲み食いしながら、抽象論を語り合ったことから生まれた
ものです。ソクラテスもプラトンも、精神異常の宗教者でした。

ソクラテスは、ギリシャ中の有名な将軍、政治家、詩人に、それぞれ「勇気とは、
正義とは、美とは」何かと聞いて、彼らがその実例を挙げるだけで、定義でき
なかったから、彼らを無知だと決め付けているが、これはソクラテスの誤り。
これらの概念は、あくまで特定の行動や事物の属性であり、具体例を離れて
「抽象的」には存在し得ないものだからです。
737神も仏も名無しさん:2007/08/06(月) 04:04:54 ID:0fqTAJ+C
どうやら、このスレでは独断的な意見のぶつけ合いだけで、
学問的な議論は成立しないということですね?
738神も仏も名無しさん:2007/08/06(月) 04:43:06 ID:Cb44CWNf
>>737
独創性がなければ、学問の進歩はない。単なる「お勉強」に過ぎない。
739神も仏も名無しさん:2007/08/06(月) 04:47:34 ID:Cb44CWNf
聖書自体が「一次資料」には成りえないことは明らか。宣教目的の
為の多数の捏造や、書写・翻訳に際しての無数の誤りに満ちている
からである。これは、最新の聖書学の成果が示すところ。
740KG:2007/08/06(月) 04:53:36 ID:8/pZa3vm
>>735
まずは、セフォリスの考古学的資料を調べることです。
セフォリスの発掘に関する本も出ていますよ。邦訳はないと思いますが。
それを読むと、その町が、いかに当時最先端のギリシア都市だったかが分かります。
そして、ガリラヤ地方のギリシア諸都市の考古学の資料も検討してもいいでしょう。
加えて、セレウコス朝、ハスモン朝の政策を調べれば、
ガリラヤ地方がいかにヘレナイズドされていたかが分かると思います。

>>737
ぜひ、貴殿の再現する、イエス時代のパレスチナ像を教えてください。
741KG:2007/08/06(月) 05:10:43 ID:8/pZa3vm
>>739
>>739
>捏造、書写・翻訳に際しての無数の誤り…

それらが明らかになったその時点で、
聖書の信憑性は棚上げされてしまうのです。
もちろん、それ以上の細かい議論を続けることはできますが、
だからといって、聖書の信憑性が取り戻せるわけではありません。
聖書は、最初の一歩で、もう躓いてしまっているのです。

本来ならば、奇跡物語が載っている時点で、福音書は即ゴミ箱行きなはずなのです。
聖書でなければ、その古文書のことを、人々は笑い飛ばすでしょう。
通常の判断に従えば、福音書のイエスには疑問符が打たれます。
それを特別にしたいと思わない限り、それは特別にはなりえません。
聖書それ自体が、特別な本ではないのです。
742暇人:2007/08/06(月) 05:47:21 ID:fzMvz1zc
A Cynic-Stoic Understanding of Jesus' Death in Q
In examining Q 14:27,
we must begin by taking into account not only the different Matthean and Lukan versions,
but also the version in Gospel of Thomas 55, as well as Mark 8:34.
While the Matthean and Lukan versions of this saying convey the same basic meaning,
it is nevertheless true that some differences of vocabulary exist.
In Matthew, Jesus says that whoever fails to take up his cross and follow
"is not worthy of me" (ouk estin mou axios).
In Luke, Jesus says that such a person "cannot be my disciple" (ou dunatai einai mou mathetes).
If Thomas represents an independent tradition here,
then it can suggest a reason for this difference.
/ll/ In Thomas, as in Matthew and Luke,
the cross-saying of Q 14:27 follows a family-saying (Matt 10:37, Luke 14:26).
Gos. Thom. 55 would suggest that Matthew has assimilated the family-saying to the cross-saying,
using "worthy" for both, while Luke has assimilated the cross-saying to the family-saying,
using "disciple" for both. Gos. Thom. 101 supports the suspicion that the family-saying used "disciple."
743暇人:2007/08/06(月) 05:51:13 ID:fzMvz1zc
As for Mark 8:34, Q 14:27 shows certain signs of assimilation to it.
/12/ Instead of bearing the cross "as I do" (Gos. Thom. 55),
the subject of Q 14:27 is to follow or come "after me" (opiso mou).
Matthew 10:38 also contains the Markan akoloutheo.
The possibility that a late edition of Q picked up some influences from Mark 8:34 must therefore be reckoned with.
Yet it is clear that a Q version of this saying did exist.
The grammatical structure using "whoever does not"
(Matt: hos ou; Luke: hostis ou; Gos. Thom.: peta an) was certainly a part of the Q version.
This structure is quite different from Mark's "If any would . . . " (ei tis thelei . . . ).
Kloppenborg reconstructs and translates the Matthean and Lukan versions of Q 14:27 as follows:

http://www.ntgateway.com/synoptic-l/JDEATH.HTM

David Seeleyの、「JESUS' DEATH IN Q」がネット検索で見つかるね
これがネタかね?
・・・・・・
ちなみにソクラテスの一次資料はないので
プラトンの創作上の人物ではないかという説も出たことがありますな
だけども我々はプラトンの著作や他の同時代人の著作が描くソクラテスから
ソクラテス像を再構築して史上の人物として受け入れてますね
744暇人:2007/08/06(月) 06:26:35 ID:fzMvz1zc
KG君 お勧めのDavid Seeleyは、「Q資料におけるイエスの死」論稿において

The second feature is that stauros is mentioned.
第二の特徴は「stauros(杭→十字架)」について言及されているということです。
The term could hardly be cited without calling to mind Jesus' death.
語録はイエスの死を注目することなく、ほとんど引用されませんでした。

However uninterested members of the Q community (or communities) may have been in Jesus' death,
it is difficult to believe that they were unaware he had suffered crucifixion.
しかしながらQコミニティ(あるいはQコミニティたち)のメンバーらは、
イエスの死にどんなに無関心であったとしても
彼らがイエスが磔で苦しんだことを知らなかったと信じることは難しいです

・・・・・
とあるので、David Seeleyの、「JESUS' DEATH IN Q」がネタではないな
745暇人:2007/08/06(月) 06:34:31 ID:fzMvz1zc
And whoever does not take
his cross and follow after
me is not worthy of me.

Whoever does not bear
his own cross and come after
me is not able to be my
disciple./13/

・・・・・
Qには、イエスの言葉として上記が収録されているそうだが、
「自分の十字架を背負って歩かない人は私の弟子ではない」と
イエスに語らすのは、
Qメンバーが 史上のイエスの十字架を知った後に書いているからだと
推定するのが合理的だと私は思うけどな。
746暇人
KG君は 先行する学者の研究を尊重されると云われる

KG君 お勧めのDavid Seeleyは、「Q資料におけるイエスの死」論稿によれば
Qメンバーは、十字架を知っていたと推定される立場のようだ。

さてKG君が参照している「Q資料」から十字架はなかったと否定している
学者名とその論文は何なのであろうか。

KG君が何か語るよりも そっちを紹介して頂いて 直接当たるほうが
話が早いのではないかと思うが いかがでろあうか