121 :
ぽち:2007/07/19(木) 20:01:38 ID:1hNZgyXA
なかなか悟ったって言う人はいないね。
122 :
ぽち:2007/07/19(木) 21:09:48 ID:1hNZgyXA
あ、これは念仏だけの話ではなく、すべての宗派で。
123 :
神も仏も名無しさん:2007/07/19(木) 21:35:07 ID:ZcGDeqHi
私の見解は以前に申し上げた通りです。
ここは経を楽しむスレなので、論争は避けます。
一つだけあなたたちが、我見を離れ、謙虚に悟りと、悟った人を求めるのでなければ、例え目の前にその人が居ても気付かないでしょう。
観経の続きを再開します。
124 :
神も仏も名無しさん:2007/07/19(木) 21:37:04 ID:ZcGDeqHi
観世音菩薩の観想です。
「さて、無量寿仏をはっきりと想い描きおわったなら、次に観世音菩薩を想い描くがよい。
この菩薩は、高さ八十万億那由他由旬であり、そのお体は金色に輝いて、頭には肉髻があり、その後ろには縦横がともに百千由旬の円光がある。
その円光の中にはわたしと同じようなすがたの五百の化身の仏がおいでになる。
その化身の仏にはそれぞれ五百の化身の菩薩と数限りない天人がつきそっている。
また全身から放たれる光明は、迷いの世界にいる人々すべてを照らし、そのすがたがそこに現れている。
頭には宝玉でできた立派な冠をつけていて、その中には高さ二十五由旬の化身の仏が立っておいでになる。
この菩薩の顔は金色に光り輝き、眉間の白毫は七つの宝の色をそなえ、その白毫から八万四千の光明が放たれている。
その光明の一つ一つには数限りない多くの化身の仏がおいでになり、そのそれぞれの化身の仏にはまた数限りない化身の菩薩がつきそい、それらの化身の仏と菩薩が、自由自在にさまざまなすがたをとって、すべての世界に満ちておいでになる。
そのようすはたとえていえば紅の蓮の花の色のようである。
またこの菩薩は八十億の光明でできた胸飾りをつけていて、その中に極楽世界のうるわしいようすをすべてみな映し出している。
また手のひらには五百億ものさまざまな蓮の花の色があり、十本の指先のそれぞれには印を押したような八万四千の絵模様がある。
そのそれぞれの絵模様には八万四千の色がそなわり、それぞれの色はまた八万四千の光を放っている。
その光明はやわらかで、ひろくすべての人々を照らしている。
菩薩はこのすばらしい手をさしのべて人人をお導きになるのである。
またこの菩薩が足をおあげになるときには、足の裏にある千輻輪の相がおのずから五百億の光明でできた台座となり、足をおろされるときには、宝玉でできた花があたり一面に散り、行きわたらないところがない。
その他、さまざまな特徴をその身にすべてそなえておられるのは仏と同じであり、ほとんど異なることがない。
ただ、頭の肉髻と無見頂の相とが仏に及ばないだけである。
このように想い描くのを観世音菩薩の真のおすがたを想い描く想といい、第十の観と名づける」
125 :
神も仏も名無しさん:2007/07/19(木) 21:39:57 ID:ZcGDeqHi
続きです。
「もし観世音菩薩を想い描こうとするなら、この観を行うがよい。
この観を行うなら、さまざまなわざわいにあわず、これまでの悪い行いもさまたげとはならず、はかり知れない長い間の迷いのもとである罪が除かれる。
この菩薩は、ただその名を聞くだけでもはかり知れない功徳が得られるのである。
ましてそのおすがたをはっきりと想い描くなら、それ以上の功徳が得られることはいうまでもない。
そこでこの菩薩を想い描こうとするなら、まずその頭の肉髻を想い描き、次に宝冠を想い描くがよい。
こうして順々に他のいろいろな特徴へと及んでいって、それらのようすもまた、まるで自分の手の中にあるもののように、きわめてはっきりと見えるようにするのである。
このように観ずることを正観といい、そうでないならすべて邪観というのである。
126 :
神も仏も名無しさん:2007/07/20(金) 19:54:56 ID:tXZBDFFF
観音様は阿弥陀如来と大体おなじ姿形ですが、肉髻が少し違うようです。
127 :
神も仏も名無しさん:2007/07/20(金) 20:00:03 ID:tXZBDFFF
次にまた大勢至菩薩を想い描くがよい。
この菩薩のお体の大きさは、前の観世音菩薩と同じである。
しかしその円光は縦横がともに百二十五由旬で、二百五十由旬を照らしている。
そして全身から放たれる光明は、ひろくすべての国々を照らして金色に輝き、縁のある人々はみな拝することができる。
また、この菩薩のわずか一つの毛穴から放たれる光明を見るだけで、すべての仏がたの清らかな光明を見ることができるのである。
そのためこの菩薩を無辺光と名づける。
またこの菩薩は【智慧】の光でひろくすべてを照らし、地獄や餓鬼や畜生の世界の苦しみから人々を救うのに、この上なくすぐれた力を持っておいでになる。
そのためこの菩薩を大勢至と名づけるのである。
この菩薩の宝冠には五百の宝の花があり、その一つ一つの花にはそれぞれ五百の宝の台があって、その一つ一つの台の中にはすべての仏がたの清らかな国土の広大なすぐれた光景がみな映し出されている。
またこの菩薩の頭の肉髻は紅の蓮の花のようである。
その肉髻の上には一つの宝の瓶があって、さまざまな光明に満ち、ひろく仏のはたらきが現れる。
その他の姿かたちはすべて観世音菩薩と同じで少しも異なるところがない。
この菩薩を歩まれるときにはすべての世界が揺れ動く、その揺れ動くところには五百億の宝の花が咲き、それぞれの花のうるわしさはちょうど極楽世界のように気高くすぐれている。
この菩薩を座られるときには七つの宝でできた極楽世界の大地がいっせいに揺れ動き、下方は金光仏の国土から上方は光明王仏の国土まで、その大地もまた揺れ動く。
そしてそのすべての世界におられる数限りない無量寿仏の分身と観世音・大勢至の分身とが、みな極楽世界に集まり、大空一面に満ちあふれて蓮の花の台座に座り、尊い教えを説き示して苦しみ悩む人々をお救いになるのである。
このように観ずることを正観といい、そうでないならすべて邪観というのである。
こうして大勢至菩薩を見たてまつるのを、大勢至菩薩のおすがたを想い描く想といい、第十一の観と名づける。
この菩薩を想い描くなら、はかり知れない長い間の迷いのもとである罪が除かれる。
この観を行うなら迷いの世界に生まれるようなことは二度となく、常に仏がたの清らかな国にいることができる。
浄土教には浄土を観察するという言葉もあるでよ。
129 :
神も仏も名無しさん:2007/07/21(土) 18:30:23 ID:tMGnc+lc
> また、この菩薩のわずか一つの毛穴から放たれる光明を見るだけで、すべての仏がたの清らかな光明を見ることができるのである。
観経は「観る(見る)」ということに相当重きを置いてるようですよね。
イダイケさんもお釈迦様に「どうやって阿弥陀仏の仏国土を見たらよいのでしょう?」と
尋ねているし、現在の普通に暮らしている人が思い描く「見る」に対する価値観と
かなり違うような気がして戸惑うのですが。
130 :
神も仏も名無しさん:2007/07/21(土) 20:52:56 ID:BOh8tVbJ
>>128 そうでしたか、浄土教でもやっぱり観想はしていたようですね。
>>129 確かにそうですね。何か切羽詰ったものを感じます。
131 :
神も仏も名無しさん:2007/07/21(土) 22:33:49 ID:+KmTcAtw
>>130 イダイケ夫人は、この時かなりせっぱつまってたからね。
132 :
神も仏も名無しさん:2007/07/22(日) 20:40:36 ID:zoECaCXg
>>131確かにそれもあるかもしれません。
或いは如来の姿を見たものは、救われるという信仰でしょうか。
133 :
神も仏も名無しさん:2007/07/22(日) 20:42:33 ID:zoECaCXg
更に続きます。
「以上の観を行ったなら、次には自分が往生するという想いを起すがよい。
まず西方極楽世界に生れて、蓮の花の中で両足を組んで座り、その蓮の花に包まれているありさまを想い描き、次にその蓮の花が開くありさまを想い描くのである。
そしてその蓮の花が開くときには五百の色の光が放たれ、自分を照らすのを想い描くがよい。
また自分の目が開くのを想い描くがよい。
そこで仏や菩薩が大空一面に満ちわたっておられるようすを見るのである。
さらにまた水の流れも鳥のさえずりも樹々の間のさざめきも、そして仏がたの声もまた、みな尊い教えを説き述べており、それは経典に説いてあることと合致している。
この観を終えてからも、その教えをよく心にとどめて忘れないようにするのである。
この観が終わったなら、無量寿仏の極楽世界を見たといえる。
このように想い描くのを普観想といい、第十二の観と名づける。
無量寿仏は数限りない化身を現して、観世音・大勢至の二菩薩とともに、このような観を修めるもののもとにおいでになり、常にその身を守られるのである」
134 :
神も仏も名無しさん:2007/07/22(日) 20:46:31 ID:zoECaCXg
そして、最後の観想です。
「もし、心から西方極楽世界に生れたいと思うなら、まず池の上に一丈六尺の無量寿仏の像がおいでになると想い描くがよい。
さきに説いたように、無量寿仏のお体の大きさははかり知れないほどであるから、愚かな人間ではとうてい想いの及ぶものではない。
しかしながら、無量寿仏が菩薩のときにおたてになった願の力により、よく心をこらして想い描くなら、必ずその仏の真のおすがたを見たてまつることができるのである。
ただ仏の像を想い描くだけでも、はかり知れない功徳が得られるのである。
まして無量寿仏のおすがたにそなわったすべての特徴を想い描くなら、それ以上の功徳が得られることはいうまでもない。
阿弥陀仏は神通力を思いのままにはたらかせ、すべての世界で自由自在にさまざまなおすがたを現される。
ときには大空一面に満ちわたるほどの大きなおすがたを現し、ときには一丈六尺、または八尺の小さなおすがたを現される。
そしてこのように現されたおすがたは、みな金色に輝いている。
また円光の中の化身の仏や宝の蓮の花などは、前に説き示した通りである。
観世音・大勢至の二菩薩は、どこでも同じおすがたをしておいでになるから、人々はただ二菩薩の頭の特徴を見ることによって、これが観世音菩薩であり、これが大勢至菩薩であると知るのである。
この二菩薩はともに阿弥陀仏を助けてひろくすべての人々をお導きになる。
このように想い描くのを雑想観といい、第十三の願となづける」
135 :
神も仏も名無しさん:2007/07/22(日) 22:58:00 ID:pqDJcmCk
>>132 私は「仏や菩薩や仏国土を観る」ということは、正しい法を知ることだったり、
理想を知って自分自身をそれに近づけることだったり、正しい考え方を知って
今の愚かさから来る苦悩を取り除くことだったりするのではないかと思います。
うーん、でも、もしかしたら観るだけで幸せになれるというのもあるかもしれませんね。
冥想のあとは心が落ち着いて幸せですものね。
136 :
神も仏も名無しさん:2007/07/22(日) 23:12:55 ID:b9euO7YS
>>135 観経に関しては、極楽浄土に往生するための方法としての観想だと思います。
お経をそのまま信じにくい場合に、自分の理解できる内容に解釈して信じようとするのは、
あまりよくない気がします。
137 :
神も仏も名無しさん:2007/07/23(月) 01:29:22 ID:J0pDeaCI
>>136 うーん、そうかもしれませんが、強弁しなければ良いんじゃない?
ここは「浄土三部経を楽しむスレ」なんだし、
「私はそう思いました。そう感じました。」
という表明な訳だから、他の人に押し付けてる訳でもないし。
その程度で聞いておいてくれれば。。。
到底不可能な解釈だったら、そう言ってくれてもよいですが。
> 観経に関しては、極楽浄土に往生するための方法としての観想だと思います。
イダイケ婦人が、「観る方法を教えてくれ」と言っているのは、
「極楽往生する」=「極楽を観る」という当時の共通理解があったからだと
おっしゃってます?
138 :
神も仏も名無しさん:2007/07/23(月) 01:41:10 ID:J0pDeaCI
↑に追加。
大経で法蔵菩薩が全ての仏国土を見せていただき、それぞれのすぐれたところを
とって極楽浄土を作ったことを考えれば、極楽を観ることは、極楽往生する
手段というよりは、極楽のすぐれたところを見てとって、自分の正しいものに
していくという方が直接的なとりかたのように思いますが。
139 :
神も仏も名無しさん:2007/07/23(月) 01:43:44 ID:J0pDeaCI
>>137 修正。
「自分の正しいものにしていく」→「自分を正しいものにしていく」
140 :
神も仏も名無しさん:2007/07/23(月) 14:46:39 ID:bcQ5JvKt
まあ、みなさん一休みしながら楽しんで行きましょう。
えー
阿弥陀如来と観世音菩薩と大勢至菩薩の違いは、頭の肉髻にあるということですね。
観世音菩薩は阿弥陀如来より肉髻が小さくて、大勢至菩薩はそこに宝瓶があるということです。
象徴的ですね。
肉髻はヨーガでは王冠のチャクラがあるとされている所で、観世音菩薩はここが小さいのはまだ少し阿弥陀如来よりは修行が足りないということでしょう。
141 :
神も仏も名無しさん:2007/07/24(火) 20:32:30 ID:eCnamdGf
大勢至菩薩の宝瓶というのは、良く判らないですね。
何かを象徴しているようですが。
142 :
神も仏も名無しさん:2007/07/25(水) 20:26:09 ID:6Pdae553
観世音菩薩の御業については、法華経の観世音菩薩普問品、いわゆる観音経にありますが、くわしい御姿についてはこの観経によるものが一番ですね。
143 :
ぽち:2007/07/26(木) 19:20:46 ID:0RdAp6ib
ぼくはこの観音さまというのが好きですね。本当は好き嫌いとか
はいけないのかも知れないけど。
実際にいるかいないかはともかくとしても、考え方は大好きです。
基本的に、くれというものをくれようとする姿勢が好きです。
144 :
神も仏も名無しさん:2007/07/26(木) 20:22:45 ID:aRZlGSi0
観音様は仏母と呼ばれることもある、仏教徒全体の母神のような感じですね。
母の慈悲を体現したような存在です。
大抵の宗派で拝まれています。
南無観世音菩薩。
145 :
ぽち:2007/07/26(木) 20:28:12 ID:0RdAp6ib
南無観世音菩薩
146 :
神も仏も名無しさん:2007/07/28(土) 11:54:32 ID:McckEFEb
147 :
神も仏も名無しさん:2007/07/28(土) 22:16:20 ID:eMTPn50T
浄土宗では、浄土三部経を象徴やたとえ話とは考えません。
お経にあるとおりに、阿弥陀様が実在し、
臨終に迎えに来てくれて極楽へ往生させてくれるのです。
それを信じられない人は、浄土教にこだわらず、
たとえ話ではなくストレート仏教思想を学べばいいでしょう。
148 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2007/07/29(日) 00:35:43 ID:fHcz7T9F
> 浄土宗では、浄土三部経を象徴やたとえ話とは考えません。
ああ、なるほど、そうですか。
149 :
ぽち:2007/07/29(日) 01:13:56 ID:LXHeGGm4
>>146 とてもいい法話でした。ありがとうございました。
150 :
神も仏も名無しさん:2007/07/31(火) 20:55:53 ID:MFwpSNDr
さて、前回まで観想は終わったので、今度は往生の相です。
上品上生から下品下生までの九種類あるそうです。
「その中で、まず上品上生から説き始めよう。
人々の中でその国に生れたいと願うものは、三種の心を起して往生するのである。
その三種の心とは何かといえば、一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心である。
この三種の心をそなえるものは、必ずその国に生れるのである。
次の三種の行を修める人々はみな往生することができる。
それはどのようなものかといえば、一つにはやさしい心を持ち、むやみに生きものを殺さず、いろいろな戒を守って修行するもの、二つには大乗の経典を口にとなえるもの、三つには六念の行を修めるものである。
この人々がそれらの功徳をもってその国に生れたいと願い、一日から七日の間この功徳を積んだなら、ただちに往生することができる。
その国に生れるときには、その人が懸命に努め励んだことにより、阿弥陀仏は、観世音・大勢至の二菩薩をはじめ、数限りない化身の仏や数えきれないほどの修行僧や声聞たち、さらには数限りない天人は七つの宝でできた宮殿とともに迎えにおいでになる。
すなわち、観世音菩薩は金剛でできた台座をささげて大勢至菩薩とともにその人の前においでになり、阿弥陀仏は大いなる光明を放ってその人を照らし、菩薩たちとともに手をさしのべてお迎えになるのである。
このとき観世音・大勢至の二菩薩は、数限りない菩薩たちとともにその人をほめたたえてその心を励まされる。
この人は来迎をまのあたりにしておどりあがって喜び、ふと自分を見ればその身はすでに金剛の台座に乗っている。
そして仏の後につきしたがって、たちどころにその国に生れるのである。
このようにして極楽世界に生れると、阿弥陀仏のおすがたにそなわったさまざまな特徴と菩薩たちにそなわった特徴を見る。
そして光り輝く宝の林が尊い教えを説き述べると、それを聞きおわってただちに無生法忍をさとるのである。
さらにわずかの間に次々と仏がたに仕え、ひろくすべての世界を訪れる。
そしてそれらの仏がたからさとりを得ることを約束され、ふたたび極楽世界に帰ってくると、教えを記憶して決して忘れない力を限りなく得ることができるのである。
これを上品上生のものと名づける。」
151 :
神も仏も名無しさん:2007/07/31(火) 20:59:11 ID:MFwpSNDr
上品上生は流石に豪華です。
阿弥陀如来も全員迎えに来て、宮殿付きだそうです。
152 :
ぽち:2007/07/31(火) 22:09:05 ID:iTWDf3de
おお。。
153 :
神も仏も名無しさん:2007/08/02(木) 20:06:57 ID:4ICQq5K6
色々な仏に仕えて教えを受けて極楽に帰ってくるんですね。
これはどう考えればよいのでしょう?
実は、読んでいて、仏連合みたいなものを考えてしまいました。
ラスベガスでは複数のホテルが地下でつながっていて、
こちらのホテルで提供していないサービス(カジノやショー)は別の
ホテルでサービスしていて全体としてお客さんに大きな
サービスを提供するとか。
154 :
神も仏も名無しさん:2007/08/03(金) 10:08:42 ID:OEGaLHH4
他の大乗経典にも度々、様々な仏の国土を訪れて、供養したり、教えを受けたりするというのが出てきますね。
修行の一つとして、諸仏の供養というのがあるようです。
155 :
神も仏も名無しさん:2007/08/10(金) 01:37:23 ID:eOLvfkzd
法華経も浄土経も禅も似てますね、本質のところは。
156 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2007/08/10(金) 08:22:38 ID:h8kaw0Xi
>>155 どれも、これさえやってればよかったんだ、という安心感がありますね。
157 :
神も仏も名無しさん:2007/08/10(金) 17:13:43 ID:0POyLJ9/
>>155 その本質的に似ているというのは、
どれも心に振り回されないための修行だというところがですか?
158 :
神も仏も名無しさん:2007/08/27(月) 00:49:42 ID:+T2jKI2O
今も浄土三部経を観想に使っている宗派ってあるのでしょうか。
159 :
age:2007/09/11(火) 01:46:49 ID:IQxdCZVr
四苦八苦に、嫌な人と一緒にいなければならない
苦しみがあると思います。
明日も嫌な上司と打ち合わせをしなければならないのですが、
浄土三部経の中にその解決のヒントはありますか?
160 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2007/09/11(火) 07:55:43 ID:VSAQJ15s
>>159 極楽浄土では嫌な人にも会わなくてすむ。
161 :
神も仏も名無しさん:2007/09/12(水) 01:00:58 ID:XlVo0SIc
>>160 えー? でも、極楽浄土にみんな来てるかもしれませんよ。
っていうより、問題は、今日だ。今日。あなたがそんなことしか
言ってくれなかったので、有効な策の無いまま上司に会って
しまったではないか。まあ、怒られなかったからいいけど。
とりあえず、南無阿弥陀仏でも唱えて寝よう。
162 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2007/09/12(水) 12:29:07 ID:7ueaWxNJ
>>161 極楽では、みんな仏のように穏やかな性格に変わりますので、心配いりません。
上司の顔を見て、仕事に必要なこと以外の妄想(嫌だとか)が浮かんだら、
頭の中で念仏して、妄想を強引にでも中断しましょう。
妄想が中断されると、感情も中断されます。
極楽の住人は、空・無相・無願の禅定を実践して、
心が妄想にとらわれることがありません。
我々は、空・無相・無願の三解脱門の禅定をやるのが難しいので、
念仏の利剣によって、
妄想をスパスパ斬り捨てながら生きてゆきましょう。
163 :
神も仏も名無しさん:2007/09/13(木) 02:00:25 ID:BasRRGhm
>>162 今度はすごく良いアドバイスをありがとうございます。
顔を見て、「嫌だ」とか「怖い」と思ったら、「南無阿弥陀仏」と
心の中で言うことにします。
怒鳴られたり、「これをどうするか言ってみろ」と言われたときには、
即応が求められますので、短く「なむ」だけ言って、心を仕事に向ける
ことにします。
ところでけちゃっぷさんは念仏を唱えることで、妄想がスパスパ斬れますか?
私はそれほど心地よく斬れません。
164 :
けちゃっふ゜ ◆/i4oRua1QU :2007/09/13(木) 09:59:22 ID:whesNBxM
>>163 妄想をまったくなくすなんて難しいです。
念仏を心の主人、妄想は心のお客さんだと思いましょう。
あるいは、念仏が心の家、妄想は心のおでかけ。
妄想に気付いたら念仏に戻る。
ただそのくりかえしだけでいいと思います。
妄想が妄想だとわかったら、それだけで全然ちがいます。
仕事は、いくら怖いとか嫌だとか思ったって、
どうせできることしかできませんから、
できることだけやればいい。
ただ、妄想してる時間のロスは意外に大きいので、
同じことをぐるぐる考えないようにすれば、
仕事も早くなるのでは。
165 :
神も仏も名無しさん:2007/09/13(木) 22:50:11 ID:BasRRGhm
>>164 > ただ、妄想してる時間のロスは意外に大きいので、
> 同じことをぐるぐる考えないようにすれば、
> 仕事も早くなるのでは。
では、そういたします。
> 妄想に気付いたら念仏に戻る。
> ただそのくりかえしだけでいいと思います。
何か禅定みたいですね。
>>158 大阪は天王寺区の一心寺(浄土宗)で日想観をやってるって
ホームページに書いてありますね
167 :
神も仏も名無しさん:2007/09/18(火) 22:40:44 ID:OylxLdXj
>>166 ホームページを観てみました。本当ですね。
しかも昨日だったりする。雨がふってたら流れたのかな。
情報ご提供、どうもありがとうございました。
169 :
神も仏も名無しさん:2007/10/05(金) 22:10:36 ID:nOZnH5uH
サティやイトーヨーカドーで幼児をトイレに連れ込みいたずらする事件が相次いでいるようです。
男の子はお尻にボールペンを入れられ、
女の子はもっとひどくて三歳で子宮を全摘出しなくてはならないほど。
口には粘着テープをされたらしい。
ママと買い物していて子供だけ男子トイレに入ったときや
ママと別の個室に入って一人で出たところを狙われたらしい。
もしお子さんを一人でトイレに行かせているのなら気をつけてあげてください!
170 :
神も仏も名無しさん:
トイレに防犯カメラつけるべきだよね。