【討論】聖句の解釈をマターリ語るスレ13 (^^)v
1 :
神も仏も名無しさん :
2007/06/12(火) 00:08:10 ID:YzVF08iD
聖書の聖句解釈について、クリスチャン同士で分かち合うスレです。 まだ未信者だけど興味のある方、求道者さんも歓迎致します。 一般的解釈だとこう言われてるけど納得できない… ココとココの箇所って矛盾してない? ココがどうしても良くわからない…とか こんな解釈してみた!自分はこう思った!など皆で分かち合ってください。 お互いの解釈を照らし合わせつつ、議論してみてください。 新しい発見をお互い学び合えたら幸い!皆で語り尽くしましょう。 ★議論のお約束★ ◆他の人が読みやすいように気配りしましょう。 ◆結論をはっきりさせるようにしましょう。 ◆反論する場合は相手の立場で考えてみましょう。 ◆議論に感情を持ち込むのはルール違反です。 ◆自分の価値観や考え方をむやみに押しつけるのはやめましょう。 荒らし・煽りは放置しましょう。相手をしているとあなたも荒らしになっちゃいます!
3取りー!!!
4 :
神も仏も名無しさん :2007/06/14(木) 19:07:59 ID:4Te4r4+R
>前スレ982 なるほどね。 ではもしかしたらネロの時代背景と同じように再びキリスト教が 迫害されるようになると、新しい詩の解釈がなされるようになる のかもしれませんね 個人的には旧約の中にキリストの記述を見つけ出すことに感心が あるのですが、それとあわせて旧約以来の伝統を守り続けるユダヤ 人が新約にどのような意味を見出すのかに大変興味があるのです
5 :
うきゃん君 ◆DV4hb.MG/U :2007/06/15(金) 21:27:52 ID:RWQ01Dxh
>>4 将来再び、迫害時代が到来しないとは限りませんが、
そのときに「黙示録」が再評価されて新しい解釈が行われる、というのはどうでしょうかね。
まあ、わからないのですが、そのようなことは無いように思いますけど・・・・
それから、旧約聖書とは「救い主」の歴史を記したもの、と言って間違い無いと思います。
モーセに始まり、師士、ナジル、諸王、預言者、祭司、など、皆救い主扱いされていますが、その歴史です。
旧約聖書では、イスラエルの民族を栄光へ導くものが救い主です。特に神である必要はありませんでした。
しかし、新約の世界観から旧約聖書を振り返ると、旧約聖書には神であり救い主であるイエス・キリストの説明が
行われている、ということになります。
また、ユダヤ人(ユダヤ教徒)は新約聖書を「聖典」として扱いませんので、たとえば、キリスト教徒が三蔵経に対する
ようなもんじゃないかと思います。
6 :
神も仏も名無しさん :2007/06/16(土) 03:32:57 ID:sBiviGXw
絶滅のスイッチはすでにおされてる。 それはさけられない
1は奇跡。 良い羊飼いは、一匹の迷い出た羊の為に、残りの羊達を置いて捜しに出る。 大祭司カイアファは、一人の犠牲で他の大勢が助かる事を択んだ。 一人の人が悔い改めると、天では大きな喜びがわきおこる。
犠牲を強いる側と、犠牲を進み出る側。 残された羊達が大変だ!と言う事でなく、残された羊も共に 迷い出た羊を捜しに出るのだ。という真理だな。全てが羊であり、 全てが羊飼い。
生きているということは 恵みを受けること与えること
死んでいるということは 恵みの授受が無いこと
主は、人が観念的に死んでいるとする状態を、眠っているのだと明かす。 ラザロが復活したことはラザロの信仰によるのではなく、家族の信仰 による。 ラザロの命は一度途絶え、石からラザロが起こされた事になる。
恵みを受ける者は、途絶えることなく生き続ける。 ラザロのように眠ることなく起きた状態で観念的な死がある。
ヨハネの福音書のこの事は、命の連続性と途絶えない事の大切さを 表していると感じる。
ラザロは死んでしまったが、主は離さず与え続けており、家族が 代わりに恵みを受けた形になる。 死ぬ人が信無く、恵みを受けられなくなるが、主が離さない状態を 「眠る」と定義
15 :
神も仏も名無しさん :2007/06/19(火) 03:19:12 ID:oeI1RBsj
この世界はホントきもちわりー世界だな。 普通に悪魔が神と記されてるしよ。 聖書が悪魔の歴史書だと 気づいたときから世界の隠し事がまるわかりだぜ。
16 :
神も仏も名無しさん :2007/06/19(火) 10:34:56 ID:kemgJIM0
そのような考えはしごく真っ当ではある キリスト教とは呪われた罪人の血を啜り 肉を食らうカニバリズムの集団であるのだから 聖書が悪魔についての記述であると知っている 者はこの世界には悪魔と対極の何者かによる 支配があることにも気付いているわけだ さて、隠れているそいつは一体誰なんだろうね? 聖書の記録を観念的意味付けによって理解 しようとする試みは必ずしも誤りではない だが、そのさらに先、目に見えぬ信仰の領野 には肉体の蘇生という記述を保証する何ものか がなければならない また、キリストの再臨についても同様 観念論的解釈はイエスの神格化のために 後付けされた弟子の嘘という批判に耐えうるか? まさに『奇跡』とは何であるか?という問い
17 :
神も仏も名無しさん :2007/06/19(火) 10:47:08 ID:QDXLbx4w
最近、家の地下に30年間も引きこもってた人が、お坊さんの訪問で家の地下から出て来たそうですね。 ラザロの復活も、そういう事だったんじゃないですか。 イエスの復活が嘘だったから、世界は戦争の歴史を終えることが出来なかったのでしょう。 子供を作らないで永遠に生きましょう(^_^)
18 :
神も仏も名無しさん :2007/06/19(火) 11:07:34 ID:TC6Fd88b
そういう意味では、 地下生活者がいきなり全世界のひとびとの前に出て行って会話するようになってしまったわけで 安価なネット回線の普及はヒッキー達にとってまさに世紀の一大事、救世主来臨とは インターネットの暗喩ではないかと思う
19 :
神も仏も名無しさん :2007/06/19(火) 18:24:51 ID:oeI1RBsj
>>16 この世界には悪魔と対極の何者かによる支配があるとは全然思えないですけど、隠れているそいつとは一体何者なんですか?
20 :
神も仏も名無しさん :2007/06/20(水) 00:53:39 ID:ao8gXmKu
聖書を読む限りこの世の終わりまでに争いごとが無くなるようには 思えないのですが。そもそもユダヤの神は人殺しをしない神ではないのです。 イエスの復活が嘘であるならば、ラザロの復活が嘘であっても可笑しくは ありません。ラザロが引きこもりであったと解釈するなら、イエスもまた 引きこもりであったと解釈することもできるでしょう。 世界に隠し事があるということは隠しているものがいるということで、 彼は自由に隠したり隠さなかったりできるという意味で、世界を支配して いるということでしょう。 ユダヤ・キリスト教での悪魔とはサタン=躓かせ妨げるものの意ですから、 悪魔が存在するということは妨げられる側にも何ものかがいることになり ます。聖書ではイエスは神の栄光を現したものとされていますので、彼に よって神はこの世に隠されていることにはなりません。 いじょうのことを踏まえてもう一度16をお読み頂くとおかしな点が一つ あることにお気づきになると思います。ではどうしてそのような可笑しな ことが起こるのでしょうか?
internetの普及によってあらゆる隠された知識は隠し通せなくなる。 サタンの支配が崩れるのである。 キリストの再臨である。
22 :
神も仏も名無しさん :2007/06/20(水) 03:00:10 ID:WqZnLTt9
イエスとラザロの復活が嘘なら引きこもりと解釈するより、生き返った演出によってペテンにかけたと解釈するほうが普通だね… それにサタン=躓かせ妨げる者の意があろーがなかろーが、 ある存在を聖書ではそのように表現してるにすぎないとゆーことをお忘れなく。 俺は悪魔には詳しいからわかるんだけど、実際、糞悪魔と表現するほーが適切だね。 悪魔の対極の存在であっても悪魔でないとはかぎらないってとこが複雑なとこだね。
23 :
神も仏も名無しさん :2007/06/20(水) 03:33:58 ID:lJRwlzXK
影がある。光だよ光。 ようするに中間に何かある。 それで影ができている。 神とこの肉の私の中間にあって神様の光を邪魔しているもの。 それを取り除けばよいことがわかる。
24 :
mono ◆HfNWSGfVro :2007/06/20(水) 18:47:12 ID:VrXCZhb5
頭のいい人たちが聖書をどんどん勉強して、それをある程度まで理屈で 納得できるようになると、オカルトになりにくいとは思うんですけどね、 理屈だけでは、教勢伸びる訳ないし、その逆に体験派は強い!と思うね。 基本を身につけ、尚且つ、セオリーにとらわれず、感じたことを言ったり できたりすればいいんだよなぁ。 最近それが分かった。
聖書を読み得のには、基本的な要素を基に約していく。 基本に違わないように聖句理解を整列し、編んでいく。 何本編みなんだろう。
26 :
mono ◆HfNWSGfVro :2007/06/21(木) 18:37:31 ID:zq005wJ4
バックボーンとなる解釈が、オールドファッションらしい ウチのとこ。 と、言われても新しいとか古い等は、それほど関係ないと思う。 役員以上は教理を守らなくちゃいけないけれど、そうじゃない信者には 強制されていない。 しかし、説教がそれだから、自然にそうなっちゃうんだと思う 個人の感覚を通して、聖書を解釈もいいんだけど、 感覚は個人で所有するものだから、他人と共有できないよね なのに何故そういう教会が受けるのだろう。
>>25 AZ系分所とSA系分所があることを知ってると
わかりやすいけど
総正規のはじめのほうを
読み解くと
一気に謎が溶けていく。
するとお億のペ天がわかってくるな
28 :
神も仏も名無しさん :2007/06/23(土) 13:27:33 ID:JdfdZWuB
サタンは、神に対極する存在ではないな。 神に対極する存在は「無い」。 サタンは存在する。しかし、サタンは有り得ないものに生ろうとする。
サタンは、神に対極する存在ではないな。 神に対極する存在は「無い」。 サタンは存在する。しかし、サタンは有り得ないものに生ろうとする。
聖書の神様の、「わたしはある」という受け答えは、この上ないな。 また此れを聞いて納得する敵は追究者か。
31 :
ОРАСЙОН :2007/06/23(土) 23:13:16 ID:SxUq1kEW
>>31 口語訳(1954)によれば、「わたしはあってあるもの」と訳されてますよ。
これと比べてどうですか?
口語訳の詩篇を訳された左近淑さんて日本人ですよね? 左近淑さんの書かれた本を読んでみたいんだけど、どういうのがありますか? 教えてください。 それと、口語訳のイザヤ書を訳されたのは誰ですか?
33 :
神も仏も名無しさん :2007/06/23(土) 23:24:20 ID:1ecMIJyX
教えて下さい・・・
主・キリストに出会って救われる前の人は、「あってないもの」 「あってあるもの」とは永遠性を表してるらしい。 そんな講義を聴いた覚えがあるよ
サタンは神の対極する霊的存在と書いてるし実際そうですよ。 ただ悪魔には 偽装、マネごと、状況工作行為によっていろいろ派閥、分派が…
>>34 一般的なキリスト教、あるいは原文では
【主・キリスト】の【主】とはなんのことですか?
アドーナイなのかYH〇Hのことなのかわかりません。
総正規1章1節から現代までのすべての人の犯したすべての罪と 同罪の罪が霊体、霊肉、霊的勢(YH〇Hやグリゴリを含める)にあるとゆーことは間違いない。
38 :
神も仏も名無しさん :2007/06/24(日) 10:00:41 ID:5NwfhgED
口語訳の詩篇を書かれたのは、左近淑さんなんでしょう? 口語訳のイザヤ書を書かれたのは誰ですか?教えて下さい。
39 :
神も仏も名無しさん :2007/06/24(日) 10:22:12 ID:5NwfhgED
役立たず
ごめん、しらない。
38は自分で調べます
42 :
神も仏も名無しさん :2007/06/25(月) 07:33:57 ID:3L7NjVX7
文献学的な質問ならココモの方が丁寧に説明してくれると思 箱に行ってみれ
「眠る」という事の疑問は、「死ぬ」ことに重なるな。 何故眠るのか。 次に起きる保証は何か。 何故起きているのか。 日々死んで生き返る事を繰り返し体験しているとも言える。
「眠る」をイメージ的に近い「休む」に代える。 眠る事、死ぬ事と違って、休む事は希望して得る。 何故休むのか。 次に休める保証は。 何故働くのか。
45 :
神も仏も名無しさん :2007/07/03(火) 09:37:24 ID:yuTHUyHx
believer777 ???
また二重になるかもしれない、 サタンが人に知恵を与えたいとする理由は、実に触れる禁を破らせ る事ではなく、裁き「裁かれる」存在に為らしめる事と理解した。 サタンはここで神に裁かれる事になるのだが、サタンは已に 墜ちた人の状態にあった事になるようだ。
みだりに主の名御をとなえてはならない、とは「裁き」に関わる事で となえてはならない、ということだろうと感る。 スッキリする。
キリストが商人に対して暴れた事と、 弟子に対して「いつまであなたがたに我慢しなければならないのか」 の発言からみる共通要素
主の「妬み」というのは、実はその対象が人(イスラエル)ではなく、 偶像に向けられているのではないのかな。 でないとすると、カラスの言うようにサタンになるのかも。
>>50 総正規の始めのほうのエ〇ンの園に登場するのと同一の存在ではない可能性はあるかもね。
新薬でもイ〇スを過去の預言者とか、いろいろ言う人いたらしい記述あるけど、
過去の存在とリンクさせ同一視させるペテントリックは正書にはないんだよね?
妬みは、自分に来て欲しい、想定以上の事象が他者に渡っている 場合に起る。 妬みの感情は先ず、その他者に対し向けられ、次に事象を与えた 存在にも向けられる。
別な角度で考えると、 「偶像はだめ」と、神の峻厳で機械的に裁かれているのではなく、 心と躰から出る、人間と共感するような、痛みを伴った感情を 表現しているというのも外れてはいないと思うな。
良い妬みと悪い妬みとに分けられるのだろう。
妬む事から逃れるには、満たされる事か、得ようという意欲を失う事。 満たされる事には、器の上限があるんだな。
あとは呪いながら逝くかだな
「人」であるキリスト様は傷めつけられている間、どのような思い だったのか。 自身を傷めつける敵に対し向き合っていなかった。 傷めつけられる間、父なる神に集中していたと思う。 飛躍すると、敵の善悪を分けて、その善のみを思ったのだろう。 敵と向き合うと、呪うことに繋がるんだ。 そして、「なぜ見捨てるのですか」となり、絶望する。
「人」というのは「肉」って意味ね。
紛らわしく書いたけど、絶望することと、呪うことは別
60 :
神も仏も名無しさん :2007/07/20(金) 22:33:53 ID:+U9aBYZh
age
く○ ┃〉 人 図
神が何であるのか。を問うということは、サタンを問うことでも あるんだな。 疑問を持つことと妬みを持つことは似た感じがあるな。
63 :
神も仏も名無しさん :2007/08/02(木) 04:29:31 ID:pwIQCyxO
クリープな闇の支配では、昼の子も闇であり、闇もまた闇である。 つまり、ダブルデビル理論。略してDD理論。
サタンは何を妬んでいるのだろうか。
片棒を担いだシモンは、信が無いので、棒を担ぐ気は重く、周り からの視線に対する気も重かった。
66 :
mono ◆HfNWSGfVro :2007/08/04(土) 22:35:03 ID:l7msHr+Z
でも、文字通り十字架を担いイエスの苦しみを体験したんだよね。
67 :
神も仏も名無しさん :2007/08/05(日) 02:57:50 ID:9YcoYo5s
俺ならイ〇スの苦しみを 受けたらイ〇スも呪うけどなw
現在の我々、キリストを知る者が、シモンの現場にあったなら シモンよりは足取り軽い。 シモンは死なないからね。 弟子は苦しみと死を怖れた。
瀕死で、行き倒れたイエスキリストの救いの業が成るための ほんの少したがなくてはならない重要な、人が肩代わりする所。 キリストの荷は重いが、友の荷は軽い。
私の軛は軽いのだ。 二頭で曳くから等分かと思いきや、軽い処か引っ張って頂いている。
ただの騙すための演出w
自分の十字架 このことから、人が十字架の道を歩む時は、シモンに相当する 助け手(奇跡)が現れると考えられる。
シモンは、キリストに対する奇跡としての面と、招かれる人 としての二面があるんだな。
逆に考えると、ある種の奇跡が起った時は、十字架の道に相当する 現象があったのだと考察できる。
道理・法則・真理、の奇跡というか、自律的というか、 守護天使に由るようなローカルな奇跡だとか種別があるのかな。
とある講義によると キリストを十字架に付けるための釘は、刑を推進する人々を表して いるのか。
だとすると、足が折られない事の意味も察し易い。
資本家のリスクテークによるリターンという企業家精神を捨象する 労働者階級の権利平等を唱えたものであり、創造的な経済観に対峙 する物質的な虚無思想である この【創造的な経済観】が聖書的に正しいのだろうか?
あくまってーのは悪霊だけじゃなくて、肉をともなう場合もあるようだ。
キリスト教にも幅があって奥のキリスト教とでもいうようなものが あって、同じような距離に裏のキリスト教があると予想できる。
「民主主義の兵器庫にある最強の武器は、創造主によって人間の心に書き込まれた自由を求める欲求だ。」
乳幼児期の人は、泣き笑いをしても怒ることはない。 怒りを覚えるまでは怒ることはない。 怒りは、何らかの暴力を有する場合に維持される。
暴力は富を維持するために行使する。
富を維持するために怒るといえる。
聖書の神様は何を維持したいのか。
天の国へ入るのは子供の様でなければならないということの一つの 要素はこの怒りだろうな。 怒り即ち裁き、ともいえそうだ。 怒りの念は何時か満ちる。
不正な富というのも、この意味で怒りで維持された富を示しているな。
怒りの起点となる所は不快感であるとして、乳幼児の場合は 不快感→嘆き、に進行し、嘆き→悲しみ(表現)に進行する。
大人の場合怒りを覚え、それを抑える場合、悔しさ→悲み(表現)
怒りを発揮したいが、状況的にできない場合、悔しさ→憤り(表現)
現実的には極端な場合を除き、憤りと悲しみとが混在し曖昧になる。
嘆き悲しみを以って神に訴えて叶えられた奇蹟は多いな。 怒りで訴えて叶えられた奇蹟はあっただろうか。
保守しとくか
またなにか呟いて。
キリスト教はどうして悔い改める事を強要するんだろう・・?教えて。
キリスト教の矛盾。 祈っただけで救われるみたいな事言うくせに、 そういう救われた人に、悔い改めろ、悔い改めろと四六時中言う。 祈っただけで簡単に救われるみたいだけど、実は永遠に救われない宗教だ。なんて・・ 生意気言ってしまった。
敵と認識することとは。
98 :
神も仏も名無しさん :2007/09/19(水) 20:32:12 ID:MAeoPnjw
「初めに言葉があった」の解説きぼーん!
言葉とは 知恵 のことなんだろうね。 旧約で「知恵」って検索して見ると何か わかるかもしれない
100 :
キュロス ◆rD08MNkvxw :2007/09/19(水) 21:23:00 ID:TcNheUJi
ルカ福音書 2章8節 岩波訳 >さて、その地方に、羊飼いたちが野宿しながら自分たちの羊の群れを夜もすがら見張っていた この場面なんだけどね。これ新共同や新改訳では 羊飼いが誰の羊の群れを見張っているかが 解らないんだね。 岩波訳では それがわかるんだね。 見張っているのは 羊が逃げるからでしょうか? それとも 羊に危害を加えるもの あるいは 羊(家畜)盗人からの被害から 見守っている のでしょうか? どちらにしても 尋常ではないですね。 つまり 柵を廻らした場所に入れていても その被害に会う可能性が有るからでしょうね。 平和な状態ではないですね。 ところで ダビデ等の話しで解るように 羊飼いは羊を護るために 武装しているんですね。 そして いざとなれば 兵士にもなるのだそうです。 そこで このルカの場面なんですがこれは 辛い仕事をしている人に福音を告げる と言うよりも 戦いの日々を送っている人達に平和を告げる知らせ って側面の方が大きいのかもしれない。
101 :
神も仏も名無しさん :2007/09/20(木) 01:48:04 ID:n2clENbE
自傷クリスチャンで他人に悔い改めを強要する人は 自戒の念に囚われている哀れむべき幼子なのであって 鏡に向かって自分自身を叱咤しているのだと考えてはどうか? 悔い改めが耳障りに聞こえるのは人の思いと神の思いとの 不一致を自覚した場合であって、隠している罪が裸にされ 辱められたことに対する怒りである、とも 福音とは罪が無償で贖われ、神の子として迎え入れられる という約束である 収穫は多いが、刈り手が少ない
102 :
キュロス ◆rD08MNkvxw :2007/09/21(金) 21:21:24 ID:RfI389qu
ルカ福音書の ザカリアへのヨハネの誕生を告げるのは 「主の天使」なんだね。 そして マリアにイエスの受胎を告げるのは「天使ガブリエル」なんだね。 これは マタイ福音書の 「占星術師」には「夢でお告げ」があるだけで ヨセフには「夢に主の天使が」つげるんだね。 つまり 神の対応に差があるんだね。 ヨエル 2章28節の後半に「老人は夢を見、若者は幻を見る。 」ってあるのね。 これ ことわざなのでしょうか? だとすれば 占星術者は老人なのでしょうか? マリアは 若者でしょうね。
103 :
キュロス ◆rD08MNkvxw :2007/09/23(日) 19:00:39 ID:SlVb7+ct
その ルカ福音書の受胎告知の場面なのだが 聖霊による受胎をマリアが受け入れるんだね。 一方 マタイ福音書では ヨセフがマリアの聖霊による受胎を 受け入れる。 でだ マリアは 身に覚えの無い子 を受け入れるわけよ ヨセフもそうなんだね。 マリアやヨセフが最初は 受け入れる事を拒んだ と言うことは 自分達の立場が危うくなる事と それに対する見かえりとを 天秤にかけて 受け入れる方が良い 判断したから 受けいたんだろうネ。 これは 一方的な恵み ではないね。つまり 彼らは 賭けをしたんだね。 それは イエスの十字架刑に死で その彼らの賭けは 失敗に終わった様に見えただろうね。 イエスの復活は 一方的な恩恵かもしれないが イエスの誕生は 一方的な恩恵ではないね。
>>92 若しもそれがあったなら, 怒りに寄る 詰まりは正常性には耐え難そうな状況だったのかもしれないですね.
>>95-97 その辺りは, 生きている限り起こってくる(怒りuる?)危険性への予知や, 出くわした時々の状況把握と照らし合せた方が考えよいです.
殺す事の意義・神殺し
そのさ マタイ福音書21章13節でイエスが神殿商人を 盗賊 って言うでしょ なんで 盗賊なのか が解ったようね気がするんだね。 つまりだね 地方からエルサレム神殿に お参りに来る巡礼の人達は 生贄に捧げる動物を連れてくるわけには いかないから その人の住む地方で家畜の動物を売って その代金を持って エルサレムに来るわけね そして そ代金で神殿商人から 動物を買うわけよ。 ここで 問題になるのは 家畜の値段が 田舎とエルサレムで違うことね。 エルサレムの方が高い のだろうね。 巡礼の人は 地元で家畜を売った代金では エルサレム神殿では同等の家畜を買えないわけよ。 つまり 地元で家畜を売った代金に いくらかの上乗せをしないと買えなんだね。 このことに イエスは怒った イエスは 商人を盗賊と罵倒したんだね。 レビ記の巻末に 人間と物の 銀の量の対応表があるけど これは このような問題が頻発して 統一価格を決めようとした 痕跡と理解できるね。
一理ある
「お前の弟の血が私に向かって叫んでいる。 いまお前は 呪われる者となった」創世記4章10節 この一文からは 死者の呪いを 神が仲介してるんだね。 つまり 死者は生きている人間を呪う のだね。 一般には 生きている人間の 死者に対する対応で 死者は 人間を呪いもするし 人間に益をもたらす 存在でもあるんだね。 で マタイ福音書8章22節の イエスの言葉で 「その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい」 てのは 死人を当てにしないで イエスに従え って事なんだろうね。 つまり 死者を丁重に葬る事で 死者の生きている人間に対する呪いを避け 益を期待する事を 批判しているのね。
潜行
マルコ福音書 11章24節 >そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。 >そうすれば、そのとおりになるであろう。 神に なにかを求めて祈る事は 神を強迫して その願いの実行を迫る事につながるんだね。 つまり ある願いがあって その成就を神に祈る事は 神を自分の思いのままに 操作する事になる。 例えば 「平和を祈る」と言うのは 神に平和の実行を強要するわけよね。 そこでだ このイエスの言葉の恐ろしい事は 願いを祈る前に願いはかなっている っていうんだね。 そこで 全ての祈りは 感謝の祈り になるんだ。 つまり 御利益宗教とは 何かの御利益を期待して祈りなり 儀式を行う宗教だとすれば それを この言葉は 根本から覆すのね。 このイエスの言葉は 御利益宗教を否定するのではなく それをひっくり返して 御利益が先に有る っていうんだよ。
マルコ福音書 10章20節 >すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。 これは 驚くべき言葉です。この言葉を発した青年は イエスに「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」 と 質問するんですね。 つまりこの青年は 律法に従がうことが「永遠の命を受け継ぐ」 だとは 思っていないのですね。この人は 「永遠の命を得る」目的で律法を実践している のではないのですね。 当時のユダヤ人ファリサイ派の人は 律法を実行する事と 永遠の命とは直接関係が無い」と 考えていたふしがありますね。 そして イエスの最終的な答えの「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。」は 日本で言う「金は天下の周りもの」って 言うでしょ。それと 同じで 神や隣人から贈与された富みを 蓄積しないで 他者に贈与する という社会を言ってるんだね。 互酬社会に 戻そうとしたんだろうね。
まあ このイエスの言葉は 人間の 罪深さ 惨めさを 知るのは 律法によってではなく 自分自身が蓄積した富によって知るんですね。 つまり 神の律法を 完璧に実施できない自分を発見する事で 自分の惨めさを自覚するのではなく 自分が 蓄積した富で 自分の惨めさを知るのです。
>>112 過越しの祭りで 下記のような宣言がなされるららしい。
「どの世代のどの人も自分自身を エジプトから脱出した者と見なさなければならない。
神がエジプトから脱出させたのは、われらが祖先のみではな。
神は われわれが祖先ともに私達を解放したのだ。」
この 言葉は 「過去の出来事を過去の孤立化した出来事として思い浮かべるのではなく
それを 同時体験する」のね。
だから
>>112 の イエスの言葉は そういう意味かもしれない。
これは ヘブライ語には 完了形と未完了形しかない 事から来る
考え方らしいね。
>>112 その場合、御利益とは人にとっての御利益でしょうか?
神にとってのでしょうか?
人間の願いでなく神のよいとされるままになるのであれば
神は全ての人が天国に帰すことを望んでるのであれば
神様のなさるまま私達の自由意志をうまくそちらに向けることは
可能ですよね…
>>116 自由意志とは 神が関与できないから自由意志なんだね。
神が全ての人が天国に帰す事を望んでいれば
それは 人間の望みでもあるでしょうね。
で 自由意志とは 自己責任と一体になった考え方なんだね。
そこで 人間は 自分の意志で生まれてきた わけではないので
自分の最終的な将来には 責任は持てないよね。
人間の最終的な将来の責任を持つのは 人間に生を与えた神
だと言う事になるよね。
神の愛の支配の下の 自由意志なんだろうね。 そして 神が最終的に全責任を負うから 自由意志が行使できるんだろうね。 神のもとの 平等と自由なんだろうね。 だとすれば 神を無視すれば 真の自由と平等はない ってことだね。
120 :
mono ◆HfNWSGfVro :2007/10/30(火) 00:17:14 ID:fWEtZ7Qm
真剣に、ご利益を求めて祈れば、人は謙虚にならざる得ないですね。 そして我慢を覚え、その我慢もありえないことが続き、その我慢し続けることが できるかどうかで、もしかしてご利益がもらえるかもしれない。と修行僧の荒行を TVで見て改めて、思いましたね。
>全ての祈りは 感謝の祈り 祈りは私も御心に委ねる祈りをします でもこの世界の戦争やらの現状も感謝っていうのは変ですよね そういう時は平和を願わずしてどう祈ればいいのだろう 神が既になしているのであればその状況が神の御心なの?
まあ 感謝の祈りを忘れるから 戦争等の人為的な悲惨な 事が起こるのだろうけどね。 戦争が起こる事は 神の働きではない から 人が神に感謝して生きる ってことは 神が戦争等の悲惨な事を終結させる方向へ 働きかける のではなく 人々の生き方が変るんだろうね。 そして 人間の生き方が変れば 戦争等の悲惨な事が 無くなる方向へ移る。 って事かな。
なるほろ。。 感謝の祈りを忘れた状態の結果が戦争か 戦争とかの場合は感謝の心で生きてる人がもっと多くならないと こればっかりは一個人の祈りでは終結しないんだろうな
天国ってどんなところなのだろう 最初の楽園と同じような感じなのだろうか 神の国とはルカ17章のただあなたがたの中にあるというのが within you 実際天国は喩えなのだろうか 心の状態の永続なら
ペトロが三度知らないということも ユダが裏切ることも 神は知っていた 僕の魂の行方ももう知っているだろう 地獄かもしれない
126 :
神も仏も名無しさん :2007/10/31(水) 00:14:09 ID:h4Dltwf5
964 神も仏も名無しさん 2007/10/31(水) 00:06:26 ID:TBdnty+Z
>>961 聖書は、精神を狂わせる書物だから絶対に避け、現実に立脚した自分自身
の思考をすべきだろう。
ヨハネ福音書や黙示録は、オカルト、妄想以外の何物でもない。読めば
必ず気が狂う。
127 :
mono ◆HfNWSGfVro :2007/10/31(水) 20:41:29 ID:Iid5PQgz
>>124 神が共におられる所が天国ですよ。
そのことを自覚できている状態が天国なんでしょう。
日蓮だって 「夫れ浄土と言ふも、地獄と言ふも、外には侯はず、ただ
我等が胸の間にあり」 と教えているそうですから。
人間の時間が120年。聖句によると100年でだいたい満足できる期間らしい。 現実に於いてもこの感覚だろう。 100くらい迄は減っていく持ち時間に苦しむ。渇いていくんだよな。 残り20年は渇れて満足する。120年以上生きたら渇かずに満足して死んで しまうかもしれない。 寿命を設定した奇跡を信じるとして、聖書はこの感覚を述べているのかも。
神に不足を訴えることに潜む罪について
130 :
神も仏も名無しさん :2007/11/13(火) 14:01:53 ID:oPYNsVRK
「友よ、何のために来たのですか?」 イエスはユダが裏切るままにした それはユダの弱さを知っていて彼を赦したからなんだと思う イエスを売ったユダには自死が、イエスを三度否んだペテロには迫害の道が用意された 父が子に与えた者と与えなかった者について語ることには多くの罠があり恐るべきことではあるが この私はペテロの行いに目を向けることはあっても、ユダの心の闇には目を背けてはいないだろうか イエスは裏切り者としてしか名を残せないユダを憐れに思い彼のために涙を流したのだろうか 彼ならおそらく、弟子達の中で最も出来の悪いユダを最も深く愛したのだと思う いや、そうであってほしい 掟によれば罪人として死ぬべき私の傍らで、共に苦しみを負うために人の子として生まれたのだから もしもユダが首をくくる前にもう一度イエスに会っていたのなら、きっとこう言われたのだと思う 「あなたの罪は赦されました。行って福音を述べ伝えなさい」 でもそうならなかったのは、ユダが敵の手に渡されたからなんだろうね コワイね だから「試みに逢わせず悪より救い出したまえ」という祈りがあるんだろうね
エレミヤ 15章1節 >主は私に仰せられた。「たといモーセとサムエルがわたしの前に立っても、わたしはこの民を顧みない。 >彼らをわたしの前から追い出し、立ち去らせよ。 マタイ福音書 17章3節 > しかも、モーセとエリヤが現われてイエスと話し合っているではないか。 なんか この2箇所を並べると サムエルがひがみそうだ。 まあ マタイ福音書の記述は モーセ死んでいない という伝説が有ったらしいから 根拠はそれなんだろうね。 申命記 34章6〜7節 >主は彼をベテ・ペオルの近くのモアブの地の谷に葬られたが、今日に至るまで、その墓を知った者はいない。 >モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。 「墓を知った者はいない。」と言うことは 「墓がない」となり 「死んでいない」 となったのかな。 また7節の表現も死んでいないことの根拠なんだろうね。 死んで 気力が萎えない ってのは可笑しいからね。 「モーセ五書は モーセが書いた」という伝説も モーセは死んでいない って事から 産まれた話かな?
祈りの密度について
創世記 20章12節 > また、ほんとうに、あれは私の妹です。あの女は私の父の娘ですが、 >私の母の娘ではありません。それが私の妻になったのです。 これ 以前も書いたかもしれないけど アブラハム一族の 系図と婚姻関係を調べると 血縁結婚が多いね。 創世記 11章27節〜 >これはテラの歴史である。テラはアブラム、ナホル、ハランを生み、ハランはロトを生んだ。 >ハランはその父テラの存命中、彼の生まれ故郷であるカルデヤ人のウルで死んだ。 >アブラムとナホルは妻をめとった。アブラムの妻の名はサライであった。ナホルの妻の名はミルカといって、 >ハランの娘であった。ハランはミルカの父で、またイスカの父であった。 この ナホルも妻も ナホルの弟のハランの娘のミルカなんだね。 聖書の婚姻関係を 調べると面白いかもしれない。
創世記 24章15節 >こうして彼がまだ言い終わらないうちに、見よ、リベカが水がめを肩に載せて出て来た。 >リベカはアブラハムの兄弟ナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘であった。 そう リベカは イサクの妻になる人だけど 血族結婚ですね。 カルデヤでの 婚姻関係はこのよなな習慣が有ったのですかね。
創世記 28章1〜2節 >イサクはヤコブを呼び寄せ、彼を祝福し、そして彼に命じて言った。「カナンの娘たちの中から妻をめとってはならない。 >さあ、立って、パダン・アラムの、おまえの母の父ベトエルの家に行き、そこで母の兄ラバンの娘たちの中から妻をめとりなさい。 イサクの妻も 血族結婚なんだね。 創世記 28章9節 >それでエサウはイシュマエルのところに行き、今ある妻たちのほかに、アブラハムの子イシュマエルの娘で、ネバヨテの妹マハラテを妻としてめとった。 エサウも そうなんだね。
創世記 25章1〜2節 >アブラハムは、再び妻をめとった。その名はケトラといった。 >彼女は、アブラハムとの間にジムラン、ヨクシャン、メダン、ミディアン、イシュバク、シュアを産んだ。 創世記 38章2節 > ユダはそこで、カナン人のシュアという人の娘を見初めて結婚し、彼女のところに入った。 ユダも 彼の祖父アブラハムの子のシュアの娘を妻にしてるね。 創世記 41章45節 >ファラオは更に、ヨセフにツァフェナト・パネアという名を与え、オンの祭司ポティ・フェラの >娘アセナトを妻として与えた。ヨセフの威光はこうして、エジプトの国にあまねく及んだ。 ヨセフは エジプトの司祭の娘を妻にしてるようね。 他のイスラエルの息子達の妻は 不明だね。 ユダが アブラハム以来の伝統的な結婚をしているようだね。
マタイ福音書 1章16節 >ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。 さて マタイ福音書の系図なんだが アブラハム一族の(ユダ一族かもしれないが)婚姻習慣が明らかになれば この系図は イエスの母であるマリアの系図でもある可能性がある わけよ。
138 :
神も仏も名無しさん :2007/11/18(日) 22:02:08 ID:vTCivs5p
キュロスが何を言わんとしているのかが全くわからないのが面白いね それでも解る人には伝わるのかもしれないけどね もう少し自分の頭の中の妄想をわかり易く解説してくれるといいんだけど 異言は解説する人がいないと成立しないんだよな
つまり アブラハム イサク ヤコブ ユダは 血族結婚なんだね。 マリアは ヨセフの許婚だから 伝統的な結婚習慣から導かれた 血族結婚だと想像できるわけよ。すると マリアとヨセフは血族関係に有る と言えるわけよ。 だとすれば マタイの家図の中に マリアの父の名が登場してる可能性が 有っても 可笑しくはないと思うわけよ。
>>139 マリアの父ではなく 祖父の名前でしょうね。
マタイ福音書 1章15節
> エリウドはエレアザルを、エレアザルはマタンを、マタンはヤコブを、
マリアの祖父は「マタン」で マリアの父は ヤコブの兄弟であるよな
気がする。
141 :
神も仏も名無しさん :2007/11/21(水) 16:59:31 ID:+WSc1ifC
カインとアベルの話しを聞いたことはあるだろうか? 神がアベルのささげ物に目を留めたことがカインを嫉妬させ アベルを殺害させることになった 教会の中ではアベルのように神に喜ばれる者となることが しきりと教えられる 確かにその通りで小さき者を躓かせず良い種を播くことに 異議を唱える者はない けれど、もし己の本性がカインであることを自覚している者 に向かって「アベルのようでありなさい」と教えるならば、神が アベルのささげ物に目を留めたのと同じ扱いを私の隣人である 兄弟姉妹に対してすることにはなりはしないか? キリストの血により贖われたに過ぎないこの私は、 神の目に留められることのなかったカインにこそ 隣人として憐れみをかけるべきではなかろうか アベルの引き揚げられた所にまで昇ることを命じる 前に、カインの落とされた谷底の暗さと彼の惨めさ を共に嘆くことの重大さを説くべきではないのか
142 :
神も仏も名無しさん :2007/11/21(水) 17:37:39 ID:gGsJsRMb
マタイ福音書23:33でイエス様はどうして「蛇よ、蝮の子らよ」と言われたんだろう? 「神にそむきし者」とかもっと他に言いようがあるだろうに、 それにしてもすごい侮辱の言葉だな、律法学者にたいしてすごい事を言われる・・
非日常としての礼拝の意義
教会にも行かない、礼拝にももちろん行かない、一人で信仰を持つというのは 難しい事なんだろうか?
>>142 創世記 49章16〜17節
>ダンはおのれの民をさばくであろう、イスラエルのほかの部族のように。
>ダンは、道のかたわらの蛇、小道のほとりのまむしとなって、馬のかかとをかむ。それゆえ、乗る者はうしろに落ちる。
ダンを 蝮に喩えて 自分の民を裁く と言ってるね。
創世 記 35章25節
>ラケルの女奴隷ビルハの子はダンとナフタリ。
このラルケとは ヤコブの妻で ヨセフとベニヤミンの母ののことね。
ベニヤミンとは あのパウロの先祖ですね。
その ベニヤミン族の母の奴隷の子が ダン なんだね。
このへんの事を 背景として ファリサイ派を「蝮の子ら」と 罵倒してるんだろうね。
146 :
神も仏も名無しさん :2007/11/21(水) 19:06:02 ID:+WSc1ifC
どんなに空想をめぐらせたところで、実際目の前に隣人や敵が現れた とき自分がどのような態度をとるかはわからないな 自己を正当化したいというのは人間の基本的な欲求であり、そのこと 自体は自然なことであるが、他者と比較して、時には他者を蛇 呼ばわりしてまで自己を正当化することには疑問が残る そのためにも自己と直接向き合うものとしてキリストが介在することは、 他者を断罪しないという意味において健全であるのかもしれない 「試みに遭わせず...」は以前より重みのある祈りになったようだ
そうかなぁ・・当時もそういう意味で使われたりしてたんだろうか・・? 「蛇よ、蝮の子」ってストレートに「悪魔の子」という意味ではないの?
148 :
神も仏も名無しさん :2007/11/21(水) 19:38:14 ID:+WSc1ifC
礼拝の非日常化 ということですか 週に一度静まって神を思う 日常的に神を思っているとクリスチャン としては生きづらくて仕方ない世の中ですからね 群れとして霊とまことをもって神を礼拝することの意義はあると思う 確かに人間関係の煩わしさはあるかもしれないけど、管が多いと注ぎ の勢いもいい気がする たまには繋がってる感を確かめるのもいいかな、なんて思ったりする
149 :
神も仏も名無しさん :2007/11/21(水) 19:56:06 ID:+WSc1ifC
蛇を悪魔やサタンを指して言うことはあるかもしれないね 神に敵対する者とか人を誘惑する者といった意味で イエスはペテロに向かっても言ったと思う いずれにしても蛇を見分ける神の目を持たないことにはね
150 :
神も仏も名無しさん :2007/11/21(水) 20:02:45 ID:6w9PJM4X
まむしの末、蛇ども・・・・ てイエスはパリサイ派や律法学者に言ったね。
定義 「与える存在」は本質的には、与える対象を限定しない。 与える対象を限定するという事は、対象の反応を期待している事である。
「失われた神の子羊」とは ファリサイ派等のことのような気がする。
神への求めと、供給の詳細の覚えについて。
154 :
神も仏も名無しさん :2007/11/25(日) 14:00:18 ID:/cRcSsnM
どうしてキリスト教でなければいけないのか、教えてほしい。
155 :
神も仏も名無しさん :2007/11/25(日) 14:19:37 ID:/cRcSsnM
ヨハネ3章の「だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない。」 「あなたがたは新しく生まれなければならない」の意味がよく分かりません。
156 :
神も仏も名無しさん :2007/11/25(日) 14:27:53 ID:/cRcSsnM
誰も暇な人はいないのか・・別にいいけど、 人は無宗教でも他宗教でも救われないんでしょう? この「誰でも新しく生まれなけれはいけない」という事は人は誰でも 生まれながらにして、罪人なんだという意味なんでしょう?
157 :
神も仏も名無しさん :2007/11/25(日) 14:39:20 ID:/cRcSsnM
無宗教でも救われるのなら、キリスト教もたくさんある宗教の一つにすぎないのなら、 私の心が救われるのに・・、もともと宗教なんて胡散臭いの大嫌いだったんだから・・
「聖句を理解できない事が不利益だ」ってことですか。 「胡散臭いけど真実味があって怖い」ってことですか。
159 :
mono ◆HfNWSGfVro :2007/11/26(月) 22:54:18 ID:4NXnsD6I
>>154 機嫌よく暮らしていければ、どのような宗教でも良いと思いますよ。
>>155 神に委ねることができるようになることでは?
そういう意味では、人はただ1度うまれかわれば良いという訳ではないです。
>>156 >>157 暇だけど、難しくて答えられない。
良い回答者が現れると良いですね。
身体の資質を売とすることについて。
旧約エピソードで共に祈る箇所について。
暴力を実行するという事は、 実利を確実にしたいということ。 暴力行使の方法には、本人及びその勢力を用いて直接行使する場合と、 扇動・誘導・示唆により間接行使する場合がある
ヘビは虚偽?誘導でエバを扇動し、エバは実を確実とするために暴力を 発揮し、アダムを扇動する。 ヘビが確実としたかったのは、ヘビ自身の神秩序からの解放であり、 地に落とされる事も意図していたのではないだろうか。
キリストは噂の扇動により、大局的にも死刑となった。 この「噂」というのは言葉である。意図された扇動であるのならば、 噂は、元発言者による預言ともいえる。
愛(の力)と暴力の違いについて
定義 愛(光)の力に属する者は、与える者であり与えられる者であり。 暴(闇)の力に属する者は、奪う者であり、奪われる者であり。
この定義からすると、「悪人が悪人らしくしていれば、終わりの時まで神様は怒ることは無い」 という理解に想い至る。
神様が逐一お怒りになるのは、「悪人が悪人らしくしていないから」で あるともいえる。
「熱くもなく冷たくもない」がこれにも対応しているな。 「〜の仕上げをしたらどうだ」と言う、キリストの苛立ちもこれで説明できるか。
1タラントの詳細について
171 :
神も仏も名無しさん :2007/12/11(火) 15:27:01 ID:pjwAD0Bv
もうすぐクリスマスだ。いやがおうにもイエス様の事を、ぼーっとしながら 考えたりする・・ マタイ1章25節には、ヨセフはイエス様が生まれるまではマリアと関係が なかったと書いてあるけど、 これって大事な事なの?神の子が生まれるんだから、関係があると汚れる という事なんだろうか? 汚れた事の結果がイエス様なのにね?
172 :
神も仏も名無しさん :2007/12/11(火) 15:41:31 ID:pjwAD0Bv
「悔い改めよ天の国は近づいた」の意味が分からない。 口語訳は「天国は近づいた」だけどもね、天の国と天国は同じ意味? イエス様もヨハネもこうのべ伝えながら、説教したり洗礼を授けたりしたんでしょう 天の国が近づいたから悔い改めるべきだ、という意味なの?天の国が近い時とそうでない 時があるという事なの?
173 :
神も仏も名無しさん :2007/12/11(火) 15:52:21 ID:pjwAD0Bv
マタイ4章を読んでいくと、サタンが誘惑する箇所がある、 み言葉を引用しながらね、その箇所を読んでて私思うんだ、 聖書は矛盾してるという事を、イエス様とサタンが言ってるじゃない、ってね。
174 :
神も仏も名無しさん :2007/12/11(火) 16:00:55 ID:pjwAD0Bv
次は5章か、山上の説教に一つ付け加えてみようっかな、 うーんと、 誰からも、愛された事のない人々は幸いである、その人たちは神から愛される。 ちょっと変?
175 :
神も仏も名無しさん :2007/12/11(火) 16:11:32 ID:pjwAD0Bv
あーそれと「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。 」 このみ言葉は強烈だな・・脅迫されてるみたい・・ イエス様の言いたいことは分かるけど、でも右の頬を打たれたら、逃げた方が いい場合だって、打ち返した方がいい場合だってあると思う・・ 私は出来ないよ、でも、それを出来るイエス様は神の子なんだろうね、やっぱり・・
176 :
神も仏も名無しさん :2007/12/11(火) 16:27:03 ID:pjwAD0Bv
5章 16節 では そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。 人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの 天の父をあがめるようになるためである。」 と言っときながら、舌の根も乾かないうちに、6章 1節では 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。」 だって・・イエス様矛盾してますけど・・。 あーあー、クリスマスなんて来なければいいのに、色々空想してしまう。
177 :
神も仏も名無しさん :2007/12/11(火) 16:28:25 ID:pjwAD0Bv
質問、 管理人さん、どうして今日は書き込めるんですか?しかも連続7回。
178 :
神も仏も名無しさん :2007/12/12(水) 17:27:01 ID:uBYwoE+5
マリアとイエスは肉による母子関係 父と子は御霊の関係であって聖であるからなんじゃないか 天の国とは神の権威の下に置かれた世界ということなのかな キリストが律法を成就したことによってこの世が神の御手の 支配下に置かれた 「まもなく私がこの世で神の御心を成す。 律法の前には罪人とされる全ての人の身代わりとなって死に 父なる神とあなた方との執り成しをする」 神を思うかサタンを思うか 矛盾を引き起こすのは御言葉と向き合う人の心だ
179 :
神も仏も名無しさん :2007/12/12(水) 17:32:16 ID:4NSvELdF
湖の上を歩くキリストについては、 湖に氷が張っていたのだという説を 唱える者がいる たしかにそれならば、氷の上を歩くことくらい できなくはなかろうと
180 :
神も仏も名無しさん :2007/12/12(水) 18:11:02 ID:uBYwoE+5
イエスが祈りとともにパンと魚を分け与えて見せたことにより 群集も各々持ち合わせていたパンを隣人と分け合ったことで、 皆が満腹した以上のパンが籠に集められたのだという説もある 奇跡の記述をその通りに受け入れられないからといって兄弟の 信仰を責めたりすることに何の意味があるだろうか 水の上を歩けるほどの信仰を持つ身ではない私ごときが イエスのもとへと向かって歩き出したものの、不安と恐れの為 に溺れかけた弟子に手を差し伸べ引き揚げて下さった そこに私が真実を見出すことができるかなのだと思う
今日は
182 :
神も仏も名無しさん :2007/12/17(月) 20:33:30 ID:UDw4duL2
信仰とは何か。悔い改めとは、救いとは、福音とは、礼拝とは何か。 今この時にして、改めて問い直さなければならない。 キリストの体なる教会と枝なる私たちはふさわしい実を結ぶことが できているのかと。 ヨハネの洗礼を授かったこの身は、未だ罪に汚れ、悪臭を漂わせて いる。 主よ来たりませ、み民を救わせ給えや。 試みに遭わせず、悪より救い出したまえ。 わが身を上からの火をもて焼き尽くし給え。 主に贖われし者たちにその道を告げさせ給え。
すみません意味が分かりません、ヨハネの洗礼って、聖書のなかの洗礼ヨハネ の事ですか?
184 :
神も仏も名無しさん :2007/12/17(月) 23:05:43 ID:UDw4duL2
キリストの十字架と復活という御業が成された後の洗礼は 罪の赦しと神の子として生まれ変わったという信仰の証し として、父と子と聖霊の名によるバプテスマを授かる したがって、イエスを救い主と告白し、御子を使わした父 なる神に向かって祈りを捧げ、御霊の助けにより守られる ということは真実である そしてさらに豊かな恵みと祝福を求めることが許される ということも 以前教会で牧師により洗礼を授けられたときには、水の バプテスマという意味でしか理解していなかったのだと 思う 己の十字架を背負い主に従うことに大きな苦しみがあって 罪と汚れの中でうめきながら体の贖われることを祈る今 聖霊と火による主のバプテスマを賜ることを願っている のです 盲人の目を開き、悪霊を追い出し、死人を甦らせる主の 誕生をこれほどまでに待ち望んだことがなかったのです
マタイ福音書 8章17節 >これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。 >「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」 マタイ福音書では イエスの行う癒しは 患者の身体に触れることで 患者が癒されるのです。 興味深いのは 9章20節以下の 女性の癒し なのですが。 これは イエスが女性に触れるのではなく 女性がイエスに触れることで 女性が癒された と言うことです。 イエスに接触することで 癒しが行われているのです。 では イエスに接触する事で 人間に何が起こるのでしょう。 つまり イエスから人間に何かが 移動するのでしょうか それとも逆に 人間から イエスに何かが 移動するのでしょうか? イザヤの預言では「病を背負った」となっている事から 癒しは 人間からイエスに病が移動するのでしょうね。 では イエスは 人間から移動した その病を どうするのでしょうか? その答えは 8章28節以下の 豚の話です。
ガラテヤ 3章13節 >キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。 >なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。 まあ マタイ福音書の 豚の話とは 直接の関係は無いですけれど このパウロ書簡を見れば 明らかな様に 当時の「十字架刑」神に呪われた 刑であったようです。 で マタイの豚の話ですが 悪霊に憑かれた人の悪霊が豚に移って 豚が川で悪霊と共に 死ぬのですね。悪霊が豚と共に死ねば 悪霊が戻ってくる事も無いでしょうね。 イエスは 戻ってきましたけれどね。
『私は渇く』の意義としては、 父なる神より供給される命の水が途絶えた 実際に肉体が疲労して渇いた 罪人に与えるべき、「人の子・イエス」としての源泉が尽きた 旧約の成就
舌が顎に張り付くのは、命の言葉が止まることを意味してるのかも
士師記 15章18節〜19節 口語訳 >時に彼はひどくかわきを覚えたので、主に呼ばわって言った、「あなたはしもべの手をもって、この大きな救を施されたのに、 >わたしは今、かわいて死に、割礼をうけないものの手に陥ろうとしています」。 >そこで神はレヒにあるくぼんだ所を裂かれたので、そこから水が流れ出た。 >サムソンがそれを飲むと彼の霊はもとにかえって元気づいた。それでその名を「呼ばわった者の泉」と呼んだ。これは今日までレヒにある。 新改訳や 新共同では 「生きかえる」等の訳になっているが 口語訳では 霊が元に返る となっているのね。
のどが渇いてしようがない時に、やっと水が飲めると「生き返る」って表現 するね。草花に対してももそう表現するな。乾いたところは死のイメージが ついてまわる。 箱船の話では逆転しているな。
エデンの地は恵みの川々のそばにあるんだっけ。 人が乾いた大地に住むことに意義があるな。 ヨナが日に当たって死にそうになる事もここに対応しているのか。
恵みの多さに耐えられない「人」として、キリストも恵みに耐えられず 死んでしまった。 であるとして、神の子がなぜ死ぬのか。人はなぜ死ななければならないのか。 キリストが死んだのは恵みの全てを得るためか。
つまり『わたしは乾く』は「乾く恵み」を受け入れた姿なのだといえるか。
乾いた処に住む渇いた人を得るための必然的な事とも考えられる。
まあ いわゆる「予定論」なんだが 「西洋哲学史 古代から中世へ」 熊野純彦 岩波新書 の中で アウグスティヌスの時間論から 説明されているんだね。 また トマス・アクィナスは 1243年にドミニコ会に入会て修道士になるんだね。 それを知った家族は 驚いて 彼を ロッカ・セッカの城に軟禁するんだね ある夜に 薄物一枚を身にまとった少女が彼を誘惑する為に 送りこまれるのだけど 彼は 炉に燃える薪で彼女を追い出したらしい。 フィロンも出てくるし けっこう面白いよ。
予定論って2ちゃんにくるまでは、普通の教理だと思っていたんだけど違うんですね あちこちでたたかれて、良くは思われていないんだ ということはわかりましたが その教会に育てられた者としては、何でだかはよくわからないのですね。 岩波新書のその本 おもしろそうですね 読んでみます。 以前ここで紹介されていた「誰がイエスを殺したのか」を読みましたけれど みんなの言う 史的イエスってこういうことなのか ということはちょっとだけ わかったつもり、ですね。
マタイ福音書 25章6節 >真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。 普通は 常識的に考えれば「真夜中」には 婚礼の花婿は来ないわね。 でも「真夜中」なんですね。 マタイ福音書の中で夜中に活動するのは 24章43節や28章13節に出てくる「泥棒」や人目を盗んでの行動なんですね。 まあ 夜は昼に比較して あまり善くない つまり 悪い イメージがありますね。 でだ マタイ福音書では イエスの誕生は「夜の出来事」として描かれているんのですね。 エジプトに避難するもの夜で またエジプトから帰ってくるもの夜 なんだね。 また イエスのユダの手引きによる逮捕も場面も夜 つづく最高法院での裁判も夜 十字架刑の時も全知が暗くなり夜と同じ状態 またヘトロのイエスへの否認も夜 なんだね。 つまり マタイ福音書では 救い主の誕生は あまりイメージの善くない もっと言えば 負のイメージの出来事として またイエスの逮捕 裁判 十字架 死 と同じ夜の 出来事として描かれるんだね。
ローマ 8章3節 >肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。 >つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、 >その肉において罪を罪として処断されたのです。 まあ このような考え方なんでしょうね。 つまり 御子が栄光に包まれて神として 人々に歓迎されて世に来る のではなく 「御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り」なんだね。 マタイ福音書 25章40節 >そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟である >この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』 まあ 最も小さな者が 神の代理 なんだと言う考え方なんだね。
でも いかし あれで イエスの誕生と死が 人目を避ける盗人が活動する夜 行われたとい事は どうウ言う事なんでしょうね。 つまり キリスト教臭い表現で言えば 救いの業が 人目を避けて夜 行われたんですね。これは どう言うことなんでしょうね。
で ロレンツォ・ロットという絵描きの 「受胎告知」なんだけど その中に 慌てて逃げる猫が描かれているんだね。 なんていうか 驚いて慌てて逃げる猫で 平和が乱される 様子を描いているのかな。
サタンは、「闇」ではなく「光」であるな。しかしイエス・キリスト とは別の光だ。やっと思い到った。 今が終末の際であるならば、竜の「実在の仕方」を探ることによって、 アダム達に纏わる蛇がいかなる存在かを特定でき、その特定できる ことが竜が「年老いた竜」であることの証しになる。
何故、信じる者でありながら終末を気にかけ、聖書を知ろうとするのか。
聖書観による命の継続・連続、に対する疑問に、現実に実現されうる 再生技術による長寿命(永遠性)獲得の信仰的圧力。
光であると言えるのに、闇であるとされるキリスト以外の光。 真実の光と虚構の光。虚構の光を発するモノは概念でしかないのか。 在る者と無い者。『わたしは在る』という表現は、真実存在する神 ならではの、簡潔にして真理な言葉なんだな。
人は各々の色の光を発していて、白い色が出せない。 白い色は全ての色味を合わした色であって、清いとされる色。 人の不足を補うのがキリスト→共に祈る者、であるとして、 創造の時、人が人のみで誉められなかった理由となると考える。
「私は在る」と言える者は神以外にない。 だから、人が「私は在る」と唱えるのは神への冒とくであり、 神の名を汚すサタンの言葉であると考えられる。 人が自身の存在を唱える時には、「神(私を補う者)故に私が在る」 と表現するべきだろう。
此が偽予言者の言葉であるとするならば、後の実在が予見できるだろう。
神様によろこばれることをしましょう。 神様が怒るために人を創ったかのように表現される聖書。 神様の「よろこばれること」を考える時、キリスト的働かれる存在が 必要だと思う。
「呪う」とは 呪いの目的と呪いの光
人は人を信じる事が可能なのか? 信じるとは
命が連続する事と、しない事の差を、仮定(コピー人間)に基づく考察
永遠に生きる者。 というのは、永遠に生きることができる精神性のことだとも言えそうだ。 神の精神性
アダムは、神様によって取り去られたのではなく、自ら生きることを 放棄したのではないだろうか?という考えに基づく
知恵の実を得た場合の変化で、永遠にならないのは何故か。
実という対象があり、貰い受ることと奪い取ること、という選択があり、 実を与えるという神様の立場を奪うかたちになる蛇
授けるべき者が授け、うけるべき者はうける。という基本ルールが見える。 知恵の実を得たことにより生命の木に関する何らかの実力を保持し、 実を奪うことが可能となったが、実行(する意図の有無は不明)前に阻止。
蛇は、生命の木について何の示唆もしてない。蛇は人が永遠に生きることを 期待しておらず、神の峻厳をしていた? 中央には知恵の木のみが在ったのではないだろうか。
この世界には、同じ一個は存在しない。 全ての一個は、一つとして同じモノはない。
通念として、同じ一個と認識するのはどういうことだろうか。
三位一体を思索
何もない空間に神の視点でみる 一個であるaは、其のみでは自信を一個に定義できない。 aが認識する、別の一個であるbが現れた場合、自他の区別がされるが、 b又は自身を1と認識する状態とはいえない。 更に認識できる一個cが現れて1と2の認識ができるようになる。
aとbが共通する目的(夫婦的意義で)を帯び、cも其を認識した場合、 共のabはcに対し一個
初めから3個ないと関係が成り立たないのではないだろうか。 1(初め)から3個であり2個であると。
数字の「1」とは、他と区別される、一つのカテゴライズに従った 個体又は複数個体ということか
数字としての1でなく存在としての1の定義だな… 数字そのものは存在を表すものじゃない
『私は在る』は論理で語られるダケの存在ではなく、実存を 主張しているという、聞く側の思想形態を示しているのかもしれない。
『父と私は一つ』とはどちらかの存在が消えることではなく、 音楽のハーモニ―的な、願いの発揮
日毎の糧を今日も与えてください
これこそ人がとるべき愛の応答の神髄を表した教え。
【悪】裁くな。裁く者は裁かれる 【善】求めよ。求める者は与えられる。
想像以上に「善悪」に無知・未知な事実。 アダム達は「善悪を知った」のだが、これは「善悪の(全容を)知った」 のではないかな。我々が理解し得ない善悪の全容。 キリストの必然を含めて考察。
『人の子』という表現も「善悪」が絡んでいると考えられる。
子供に「躾をする」ことができるのには、子に対し「人ではない」という 認識が働いていることによる。
「神の必要と神の弱味」の存在することが考えられる。
不思議だ。
エデンのアダムが霊と実体の存在なら、蛇も実体が在るのだろうか。 今の感覚・理解からすると実体が無いイメージがある。 エデンの主は足音(園に対する実力)をさせるのだから実体が 在るのだろう。
実力という捉え方をすると、武力・暴力のイメージにつながる。 アダムは裸というノーガード、無防備という状況を恐れ (恥に思うのではなく)、貧弱な防御を施し、主の目の前に在るという実力を 隠した(関係を避けた)と理解することができる。 アダムは何故生かされているのかという善悪の判断に疑問を覚えた故に 恐れたのではないだろうか。
何故蛇は、死ぬことはない、と言うことができたのだろうか。 論拠はなんだろう。
「直感と理解と悟り」の差を考える必要がある・・
アダムは全てを用意されていた エバとアダムは実を得るまで、理解が十分ではなかった故に即死しなかった 実を得たことにより理解し、罪により死に至る条件が整った
青銅の蛇はキリストを暗喩しているけど、同様に?(竿に架けられる迄という意味で) エバにエデンで教唆した蛇を表しているのではないだろうか。
アダムは「隠れる」という行為の時点でも理解が十分ではなかったのか。 善悪の全容を知るための条件が整っただけなのだろうか・・・
「直感」でいることは、論理的理解ができていない状態。
死に至る条件が整った、とは、木の前に斧が置かれたこと。 アダム達の幹は、実を食べる前後でどのように変わったのだろうか。
エデンに居られる条件はなんだろう。
アダムはエデンで何をすることができたのだろうか。
エデンに居られる条件と御国に居られる条件は同じなのだろうか。
____ _ ._____ ___ | \ ./ / ./__ __/ [][] ._| |_ . ̄ ̄ ̄|. .l / / / / |_ レ'~ ̄| / / / / | |___ / /| | \/ /  ̄\/\ \__| /_ / | |_ ./ / ̄\_,/ .|__| \/  ̄
「足」が有る事に何らかの意義か通念があるようだ。 足が象徴する事。
人による、人が人であるための条件は何か。
人が人ではない。とするのは何か
人は何故、愛でることができるのか。神々が何故、人愛するのか。 神の似姿。
ほしゅ
「神と人」に準えて「人と人造人間」を考えてみる。
聖書によると、人に与えられた特長として「永遠を思う心」がある。
人造人間の「永遠を思う心」は人間に付与されなければならないから コンピューターのプログラムのようなモノであり、概念を発現する機能 を持った部品が必要。
人が愛でるのは、対象を擬人化しているからか。 自分と同質・共感できる部品・機能を持った対象を愛でる。
金を愛でる者は、金の機能に共感し、金に自身と同等の価値を置く
永遠を思う心は、心単体では発現しない。
頭脳だけでは人とは言えない。 病気怪我で脳だけになった「人」は人である。 脳だけで産まれてきた人も人である。 死んで産まれてきた人も人である。 脳が無く産まれてきた人も人である。
人か否かを判断する人は人の条件を備えている必要がある。
人造人間が「永遠を思う機能」で、何故この機能が備わっているのか を考える場合、製作者は人と人造人間の違いを明確にする意図で プログラムしていると言える。
p
保守いたします。
永遠を思う心を得ている事による利害は何か。 人は常に永遠を思うわけではないから、人によっては永遠を 思う心を全く利用しない場合もありうる。
人以外のどの生き物に、永遠を思う心があるのだろうか。
.
l
保守…しときます。
「永遠を思う心」が人に特有なものであるとして、 「精神領域の新規開拓性」と考えるられるか
人が読書、TVゲーム、芸術などに寝食を削ってうちこむ事の 要素説明の一つがこれであるとして、この性質が他の生き物との 大きな差であると考える。 生存を追求する自然において、精神領域を開拓する事の必然を 説明しきれるだろうか。
新規開拓性による善悪の判断と自己正当化からの永遠思考の道理
アダムが2章に登場し「最初の人」であるのはどういうことか。 聖書にそのように記されているからであるが、アダムは「土」から つくられている。 アブラハムの子孫は石から起こされることが可能なのだ。
「求める者には与えられる」の理は、世の始まる前から有効であると 考えられるので、失楽園考察の要素にする
o
test
人の背景にある神の領域(預地)
282 :
神も仏も名無しさん :2008/05/25(日) 19:18:58 ID:Pxf/FZUY
長野県の日本ガイドポスト
衣を裂く行為の理由は、悔い改めの為に行うのが正しいと考えられる。
衣を裂く行為は、悔い改めの為であれば神の意に添うと考えられる
獣の衣を与えられた事と何故衣を裂いたのか、と問われた事。
磔刑のキリストの衣を人が分け合った事も関連しているのだろう
神領域的ジャッジシステム(偶像)と判定享受する人造人間(偽預言者) 真理にはどんな力あるのか。 真理に力が伴わないように見えるのはなぜか。 一つの要素に対して八つの思考選択
余裕がなければ永遠を思うことは難しい
「親」を考えることは「永遠」を考えることに通じるな。 人が親を想うことはどういうことだろうか。
人以外の動物は親をどう想うのか
「借りる人」は貸し主に対して「敵」の成分を帯びる。
「借りる」には、返す・返さない・の選択権がつく
永遠を想うことにおいて、親を想うことと、子を想うこととの差は何か。
神から見た真理と、人から見た真理がある。 人から見て真理であるように見えても、神から見て否である事には 人が、神存在を意識から消し去って判断していることによる。
奇蹟は真理を凌駕するのか。 奇蹟が真理であるのか。
百匹の内から迷い出た一匹を救うめに全力を尽くす神。 言い換えると 見つけられない神を探すため、障害となる99匹を捨て置く。
神を探すために、障害となる99匹への対応は捨て置く。 この理解は色々応用できるな。 あと成分を置換する手法
99匹と1匹の羊の喩えにおいては、羊は弱者であることだけの特徴。 神から見た、神と人間の関係における神の意志のみ表現し、 神の力量は表されていない。 聴く者に意外性を感じさせたい意図は何か
羊に喩えられるということは、負いきれない負債があるということか。
羊の質は問わない。生きていればいい。 神も手をこまねく、人間が持つ心の壁か。 放蕩息子の兄は家に入らなくなった。
憎むべき破壊者が…その時… 99匹と1匹の羊の喩えの鏡像反転
影と闇の違いは、鏡像と真逆の違いか。
303 :
神も仏も名無しさん :2008/07/03(木) 23:11:27 ID:Ugg3CL8l
保守
影は本体と形が相似する。神の似姿で創られた人は、この影の意義 に相当するか。
罪を犯すなら目をえぐり・・・手を両方を切り落とす・・・ 立ち位置と視線の方向による変化
なぜ神は、その存在力であるところの「強い声」で人々に示さないのか。
存在力とは、行動選択力を持つ存在に対して、その行動の推移に作用する力。
強い声とはサウロを平伏せさせた圧倒的存在力。 アダム達が主より隠れたのは、この圧倒的存在力に気付い たからだろう。 園では自由を与えられていた、それは、ほぼ完全な自由に相対し 主の存在力が弱く発揮されていたことになる。
フィレンツェの大聖堂側の、「学校銘板を」の意にキリストをみる。 これを奇に思う日本人は99匹と1匹の喩えと放蕩息子の喩えを知るべきだろう
神の栄光、と、影、の関係について
物質的攻撃と精神的(存在)攻撃による反発量の差について
ナルドの香油の事も、99匹と1匹の羊の喩えの反映
親子の愛、男女の愛、親族の愛、家族の愛、博愛。 親子の愛には、基本的な要素が多分に含まれていると考えり。 親子の愛の仕組みを考える
ナルドの香油の故事に倣いたい場合、どの成分を取り出せばよいのか。 現代において、どのような行為が妥当であるのか。
何によって人を赦すのか。人を赦す仕組みについて。
人が人を懲らしめようと思い至る道理について。
怒りの暴力は、心的(存在)怒りによるものと、肉的(秩序)怒りによるものに分けられる
怒りの暴力は、この二つ要素に起因する。 精神的怒りは、個人の判断によるもの。 肉的怒りは、明らかな物理的損益
怒りの暴力が喚起されうる事象が起きた時、怒りが然りか否かの 判断が為される。
否の場合は悲しみであり、然りの場合は苦しみ
苦しみの後に悲しみがあるな。 悲しみとは何だろうか。
キリストが、苦しみを受け、その峻厳を現さない為に、悲しむ必然があった。
物質的な怒りと、精神的な怒りとで、どちらが怒る上で優先されるかというと 、それは精神的な怒りであると言える。
存在を脅かす、と判断された怒りこそ真の怒りである。 物理的損益が存在を脅かす範囲外であれば、秩序の怒りとなる。 秩序の怒りは、存在を脅かすものに成長する可能性を有する、と判断されるもの に対する懲らしめ。
創世記で神は、アダムたちが生命の木から、永遠に生きる能力または権利、を 得る事をおそれた。 死なない神の存在を脅かすものは、永続的な損益とも考えられる。 そうであっても人は神の被造物であるから、このことから考えられるのは、 神が定義する「死」には二通りある
不正の富の応用 敵は許し難いが、仲間ならば赦し易い。 敵を身内にしてしまえば許容限度は広がる。 敵が神の知識があり、キリストの名によって赦しを請うのであれば 赦し易い。 負い目の有る者に対して、赦す事を条件に神の知識を学ぶことを 求めるのだ。
怒り→悲しみ、と選択し、その先にあるのは、 「憎しみ」と「妬み」だろうか。 「救いを求める」という選択が、人が何者であるかを物語る。
無神論と反キリストと偽の栄光
聖書に訊くうえで、基本となるキーワードは二つ。 神を愛する? 敵(隣人)を赦す(愛する)? その他の事は、全て此処から付随して説明されていくと考える
放蕩の結果は財産の浪費。財産を増やせず、助けてくれる友もない。 財産は量に限りがあった。
>>330 てか、回心と神の愛ですな
さて、神様の愛は財産なのですか?
332 :
神も仏も名無しさん :2008/08/11(月) 22:40:16 ID:FVQUgtvp
テーマが近いので「聖書を根底から学ぶスレ」の次スレが立つまでの 避難所として適していると思うのだが、どうだろうか。
>>332 新しいスレが立つまで頭を冷やしながら待ってなさいな。
>>332 これまでの経緯から、ダニエルがココで活動することは、まず無い。
一応このスレは維持されているのだから、避難所とするのは如何なものか。
財産の定義による。 この世の物は誰の物か…神の物である。 神が与える物は全て財産であるか…神は正しき親であり、人に高い価値を認める。
336 :
ID:mPaZ/nFt :2008/08/14(木) 17:45:49 ID:ZUUnvaEq
これから私が行うのは
http://life9.2ch.net/test/read.cgi/psy/1213910316/l50 で行われる、旧約聖書は「神=全存在を説く」という話への反論です。
リンク先>583
>神が「全実在」であったら、何か困ることでもあるのですかw。
「別に。ただ単に旧約聖書をそう解釈するのが誤りというだけ。」と同スレの527で書きました。
>確実に認識できる全実在を、神の化身、神の顕現、神そのものと解釈しても、ちっともおかしくない。
あなた視点の「可能性」などどうでも良い事です。「そういうメッセージが書いてある」と
読み取れる章句があれば書きこんでください。このスレに。
>原文では「殺すはずがない」ということだそうです。
ソースをお願いします。
リンク先>585
>無意味ですよ。
あちらのスレにいるのはキリスト教徒だけではありません。
KGさんのようにキリスト教に批判的な人もいます。
リンク先>586
>天体も偶像も、全実在の一部です。「一部を以って、全体と取り違えるな」という教えです。
リンク先>587
>創造とは、全実在のことです。
それを、旧約聖書本文から示してください、と言っているのです。
翻訳文の拡大解釈などでお茶を濁さないでください。
337 :
ID:mPaZ/nFt :2008/08/14(木) 18:14:27 ID:ZUUnvaEq
>聖書の「客観的研究」は、専ら無神論者によらなければなりません。 研究の是非は、本人の信仰信条ではなく、その研究の内容のみによってはかられるものです。 たとえ本人がある主義に染まっていようと、自分の思想と研究を切り離し 科学的・学問的手法によって行われていればそれでいいのです。 それが出来ているかどうかは研究の成果・論文の内容を見て判断されるのであり こいつは〜〜主義者だから、〜〜教徒だからと見る前から結果を決め込むべきではありません。 聖書の教義は信じられない、というならただ単に否定すれば いいだけの話であり、わざわざ内容を歪曲して自分に合わせようとする 意味はありません。翻訳文を別の言語の文法(?)にあわせて拡大解釈し、 本文のどこにも説かれてない価値観をはめ込む行為は到底「客観的」と呼ぶことはできません。
338 :
神も仏も名無しさん :2008/08/14(木) 18:53:52 ID:R4MkLR+c
>>337 聖書は、大昔の一握りの人間が書いた書物で、その成立や真偽さえ必ずしも
明らかではないのだから、あくまで現代人の知識と理性で解釈すべきもの。
クリスチャンは勿論のこと、聖書学者がいくら研究しても、「本当のこと」は
結局は何一つ分からないのだから。
ならば、人間とその共生にとって、どちらの解釈が「役立つ」かは、あまりに
も自明であろう。
文献学的な議論は、あまり大きな意味はないが、あなたに興味があれば、当該
部分のヘブライ語を上げて欲しい。
「I am that I am」の最後のamに相当する原語が「全存在」を意味し得るか、
「that」に相当する原語が、人と物の両方を意味し得るか、がポイントであろう。
但し、クリスチャンによる、聊かでも「護教的解釈」はお断り。
339 :
ID:mPaZ/nFt :2008/08/14(木) 19:51:58 ID:uGiuGk1q
>>338 >あくまで現代人の知識と理性で解釈すべきもの。
>>337 >翻訳文を別の言語の文法(?)にあわせて拡大解釈し、
>本文のどこにも説かれてない価値観をはめ込む行為は到底「客観的」と呼ぶことはできません。
あなたのやっている事のどこが現代的で理性的なんでしょう。
必要も無いのに、元に書かれた思想を歪曲し、矛盾点を指摘されると
延々とある宗教も矛盾しているし奴らは残虐な事をしてきたんだと
自分への追求をのらりくらりとかわそうとした。
最後には辻褄合わせに聖書の他のどこの部分にも見られない思想(586-587)を持ち出す有様。
>クリスチャンは勿論のこと、聖書学者がいくら研究しても、「本当のこと」は
>結局は何一つ分からないのだから。
>ならば、
また、それですか。創世記の資料仮説をはじめ、研究は進められてるではないですか。
まだわからないことは沢山あったとしても、未知に挑むなら踏むべき手順はあるのです。
どーせ誰にもわかんないからいーや、と適当をかましてどうするのでしょうか?
この期に及んでも「他の奴だって」思考を出してしまうところ、私は本当に呆れてます。
340 :
ID:mPaZ/nFt :2008/08/14(木) 19:53:12 ID:uGiuGk1q
>「I am that I am」の最後のamに相当する原語が「全存在」を意味し得るか、 >「that」に相当する原語が、人と物の両方を意味し得るか、がポイントであろう。 そのような裏づけは、主張しはじめた貴方がしておくべきだったものですよ。 >あなたに興味があれば、当該 部分のヘブライ語を上げて欲しい。 外国語板のヘブライ語のスレッドで質問することなら今すぐにでもできます。 あなたがやってはいかがでしょう。 >但し、クリスチャンによる、聊かでも「護教的解釈」はお断り。 但し、「神=全存在」説者による、聊かでも「護教的解釈」はお断り。 【大本の出現を証する】大道幸一郎【ヨハネ黙示録】スレの586-587なんて まさにソースなしの「護教的解釈」そのものでしたよ。
341 :
神も仏も名無しさん :2008/08/14(木) 20:19:56 ID:QneEZ5mL
>>339 >元に書かれた思想を歪曲し、
聖書の中の、神自身による唯一の「自己の本質の定義」としての、"I am that
I am"を、宗教による「元に書かれた思想の歪曲」がないかどうかを確認する
ために、語学的に正確に分析しているのだよ。
ヘブライ語が持ち出せないのなら、和訳の「わたしは、ある」は、そもそも
日本語として意味の通じる言葉かね。太郎さんも、花子さんも、すべての人間
は「わたしは、ある」のだから、神の性質の定義として、ナンセンスではないか。
342 :
ID:mPaZ/nFt :2008/08/14(木) 21:12:12 ID:JbSDJkxy
>>341 >ために、語学的に正確に分析しているのだよ。
原文を参照せず、翻訳文の一バージョンをこねくり回すのが「語学的に正確に分析」ですか。
とりあえず、英語において「限定語がついてなければ全体を表す」という文法について
言及のある参考書なりサイトがあれば教えてください。
>和訳の「わたしは、ある」は、そもそも日本語として意味の通じる言葉かね。
「私は、生きる」
「私は、食べる」
「私は、泳ぐ」
すると、貴方はこれらの日本語を理解できないんですか?
>神の性質の定義として、ナンセンスではないか。
ですからそもそも定義としては詳細でなさ過ぎる、と申しておりますが。
wikipediaの「定義」の項目では他のにも当てはまるような簡素な文が
定義の例としてあげられてますが、この解釈でいけば一文だけでも定義
としてやってくこともできましょう。ですが、これだと花子さんや太郎さんに
あてはまっても別に問題はないことになりますね。
ちくしょうあらしどもめ
344 :
神も仏も名無しさん :2008/08/14(木) 23:39:45 ID:gHl1ur0l
>>342 >「私は、生きる」「私は、食べる」「私は、泳ぐ」
それなら、意味が十分に判るが、「わたしは、ある」では意味不明。
それに、なぜ「わたしは、在る」としなかったのか。「存在」と解釈される
ことをひどく恐れた、意図的な小細工だろう。単に「ある」だと、在る、有る、
ある、或る、アル、とさまざまの言葉が出てきて、どれに当たるのかさえ分か
らない。
それに、「わたしは、在る」としても、ジョン君も、メアリーちゃんも、すべ
て「私は、在る」のだから、神が何を言いたいのかさっぱり分からん、ナンセ
ンスな言葉。
さらに「わたしはあるという者」「『わたしはある』というお方」などというと、
と、どんなお方だか、なおさら分からん。英訳では、「I AM(私は存在)」と
大文字になっており、意味は極めて明快である。この場合、「全存在」としな
ければ、神が、ジョン君、メアリーちゃん、その他すべての人間と同じになって
しまう。
>>344 >「わたしは、ある」
この文章における「ある」なら当てられる漢字は「在る」か「有る」であり、
どちらも存在することを差します。日本語と漢字を知る者なら一瞬でわかります。
>或る、アル、
さすがにネタが過ぎております。
>それに、なぜ「わたしは、在る」としなかったのか。「存在」と解釈される
>ことをひどく恐れた、意図的な小細工だろう。
口語訳では「有る」が使われています。単に翻訳の一バージョンです。
>さらに「わたしはあるという者」「『わたしはある』というお方」などというと、
と、どんなお方だか、なおさら分からん。
名前の意味が文章のようになっている例(ヨシュア=「神は我が救い」)をとっくに出しました。
事情に暗い日本人の目から見ると意味不明でも、異文化では普通のことです。
>その他すべての人間と同じになってしまう。
(旧約聖書の教義において)この世に存在するという点では神もその他もみな同じです。
346 :
神も仏も名無しさん :2008/08/15(金) 03:12:09 ID:ALk9/+Ab
>>345 よほど「全存在」がお嫌いなようですねw。
「全存在」との解釈も、言語上は十分に可能なのに、そう解釈しないから、
「神の名」による殺し合いが絶えないのです。宗教も、人間の生命の機能と
しての「人間の営み」の一つです。人間を軽視・否定するような解釈や宗教は、
人間の営みとして自己矛盾であり、少なくとも人間界から絶滅すべきだとは思
いませんか。例えば、キリスト教の「罪」の概念や、自爆テロリストが信じ込
まされて、自他の生命を奪い続けている「神」や「「天国」の概念です。
文章が名前になっても、元の文章の意味は残っています。逆に言えば、良い
意味が残っているからこそ、名前にするのです。
「わたしは、在る」は、すべての人間が自分について言えるのですから、すべて
の人間が、擬人化すればすべての自然が、「わたしは、在る(即ち、YHWH)」
と称することが出来るわけですね。まさに「全存在」ではありませんか。神は、
無数の「わたしは、在る」の中の一人に過ぎないことになります。
人間は、この世に実在しますが、神そのものは実在しません。人間にとって、
「ものが実在する」とは、(必要な場合には観測装置を使って)五感で知覚
できる場合に限り、そうでないものを「空想」「妄想」と言います。例外は
「皆無」です。従って、神の認識は、確実に知覚できる「実在物」を通す以
外には、方法はありません。
いずれにせよ、この問題は、クリスチャンではない古代ヘブライ語の専門家に
よって、"I am that I am"に相当するヘブライ語の本当の意味を、厳密に分析・
解明する必要があります。日本のキリスト教が、イエスの神格化の目的で、原
意を歪曲・捏造した可能性を否定することは出来ないのですから。特に、that"
が、人と物との両方を意味することはないのかという点と、二番目の"am"が
「全存在」を意味する可能性はないのか、という2点です。
神が、自分の本質を自己定義している点で、聖書の中で最も重要な言葉だと
思われる「わたしは、在る」について、クリスチャンや聖書学者が、殆ど
素通りしていることは、誠に奇異であり、意図的なもであるとの推測は、十分
に可能です。
なんだなんだ。珍しく伸びてるかとおもったら勝手に隔離スレかよ(死。 あげくヘブライ語スレ@外国板にまでバカ質問しよーとするだと? 自分でスレ建ててやれや(w せっかくマターリをワッチしてんのに
348 :
感謝、そして感謝 :2008/08/15(金) 06:15:50 ID:LJ+vt9O+
バンバレーーーー、惚れそう。
>「わたしは、在る」は、すべての人間が自分について言えるのですから、すべて >の人間が、擬人化すればすべての自然が、「わたしは、在る(即ち、YHWH)」 >と称することが出来るわけですね。まさに「全存在」ではありませんか。 自身の存在出来ることを支える力は何か?暴力か。 「永遠」を排除した考えですね。聖書は永遠を考えなければならない書物です。
>>346 >よほど「全存在」がお嫌いなようですねw。
これで3度目です。全く同じ事でこれ以上ため息をつかせないでください。
わたしは他の部分との整合性を念頭に入れているだけです。
原文でもないのに、言語上は可能というのもあきれてしまいますが……
(英語において、限定語が無ければ即、全体であるという英文法のソースをお願いします)
むしろ聞きたいのは「神=全存在」としなければならない必然性のほうです。
>「わたしは、在る」は、すべての人間が自分について言えるのですから、すべて
>の人間が、擬人化すればすべての自然が、「わたしは、在る(即ち、YHWH)」
>と称することが出来るわけですね。まさに「全存在」ではありませんか。
「わたしは小学生です」は花子さんや太郎さんやその他全国に住む何万もの子供に
あてはまりますが、だからといって小学生全体を表すでしょうか?
「これは水です」はコップの中の水にも、太平洋にもあてはまりますが、だからといって
地球上(あるいは宇宙中の)全ての水を指すことになるでしょうか?
一部にあてはまれば即全体、という日本語の文法なんてはじめて見ますよ。
>人間は、この世に実在しますが、神そのものは実在しません。人間にとって、
「神の能力をはかっている」でも「実際に世界はどうなっているか」のでもなく
単に旧約聖書の教義・世界観の話です……こう書くのは2度目になりますね。
>>347 自分のホストではしばらくスレ立ては無理みたいです。すいません。
352 :
神も仏も名無しさん :2008/08/15(金) 12:47:43 ID:pHO0XLLq
>>349 >自身の存在出来ることを支える力は何か?暴力か。
自分の存在(他者が知覚できる身体)を支える力は、身体に宿る生存本能(生
命)です。そして、その身体を支える力は、人間もその一部としての自然です。
共同体(人間を含め、すべての生物は原初から共同体です)の成員の一人ひとり
が「自分」である訳ですから、暴力によって「他の自分」の身体を犯すことは、
存在の破壊です。
>「永遠」を排除した考えですね。聖書は永遠を考えなければならない書物
>です。
個体としての生物は、必ず死にます。従って「永遠」などありません。しかし、
生命の機能としての生殖活動によって新たな生命の誕生が可能になり、生物は
種属として存続を続けることが出来ます。これが「永遠の生命」です。個体の
死がなければ、この狭い地球には古い個体があふれ、新たな生命の存在(即ち
種属としての生命)の存続は不可能になってしまいます。これが大自然(創造)
の摂理です。
353 :
神も仏も名無しさん :2008/08/15(金) 13:23:27 ID:pHO0XLLq
>>350 >原文でもないのに、
だから「私は、現代では死語である古代ヘブライ語などを学べるような
暇人ではないので、英訳に基づいて解釈する。最終的な解釈は、古代
ヘブライ語の専門家にゆだねる」という前提を置いています。
>英語において、限定語が無ければ即、全体
文法の問題というよりも、native又はnativeに近い人間による、言語感覚、
解釈能力の問題です。文法的には、「いずれでも」成立します。
>むしろ聞きたいのは「神=全存在」としなければならない必然性の
>ほうです。
人類の共生のためには、その「解釈」が不可欠であり、必然性があります。
全存在の一部だけに「最高の価値」を認めれば、他の部分の存在の軽視・
否定が、必然的に生じます。それがまさに一神教の実態です。
> 「わたしは小学生です」
「....です」という、不完全自動詞ではなく、「存在する」という完全
自動詞の話をしている。一人ひとりの小学生が、「わたしは、在る」と
言えるのですから、すべての小学生、すべての存在が、「わたしは、在る」
と言えるのです。従って、「わたしは、在る」という一般命題は、「全
存在」に適用されます。
354 :
神も仏も名無しさん :2008/08/15(金) 13:36:16 ID:pHO0XLLq
>>353 への追加
「....である」という不完全自動詞も、「存在する」という完全自動詞
から来たものです。「私は小学生です」は、「私は小学生として存在す
る」の意味であり、全存在のうちの「小学生」という限定がなされてい
ます。しかし「わたしは、在る」には、そのような限定語はありません。
しかるべき文法書など引用してください隠居
摂理はそうであってもいいけど、聖書は永遠を答えの要素にしている。
357 :
神も仏も名無しさん :2008/08/15(金) 17:23:47 ID:15gE09NX
>>356 創造の摂理は、創造時よりはるか後に書かれた新約聖書に優先する。
>>353 >暇人ではないので、英訳に基づいて解釈する。
こんなもの、言い訳以外の何にあたると思いますか?
347さんからは批判されましたが、ヘブライ語スレッドで聞いてくるしかないようですね。
ユダヤ教徒やキリスト教聖職者の方なら知っている可能性が高いでしょうが、
これまでのパターンから見てどうせ答えの中身は見ずに肩書きで陰謀論を引っぱり出してくるんでしょうし。
というか、「限定語がなければ即、全体」というルールが
英語か日本語にあるのなら参考書なりサイトなりから示してくださいと
これから何度繰り返せば良いのでしょうか?
>文法の問題というよりも、native又はnativeに近い人間による、言語感覚、
あなた個人にしか通用しないアンチnativeな俺文法でないことを証明するためにも、
355さんの言うように「しかるべき文法書から引用する」事が必要なのです。
>人類の共生のためには、その「解釈」が不可欠であり、必然性があります。
根拠抜きの動機を聞いてるんじゃないんですよ。わかります?聖書本文の記述なり価値観から
見て「そう解釈しなければ成り立たない」理由はあるのですかと聞いています。
359 :
神も仏も名無しさん :2008/08/15(金) 17:56:13 ID:15gE09NX
>>385 >というか、「限定語がなければ即、全体」というルールが
>英語か日本語にあるのなら参考書なりサイトなりから示してくださいと
あなたもかなりしつこいですね。すぐにそうやって、聖書、教典、サイトなど、
「他人の借り物の知識や見解」に飛びつくのが、思考停止した宗教信者の特徴。
nativeかnativeに近い人間の言語感覚、読解能力だと言っているでしょ。文法
とは、nativeが現に使用している言語の用法やその言語感覚、読解能力の「一部」
を記述したものに過ぎないのだよ。聖書や教典の記述が、森羅万象の一部に過ぎ
ず、「現実のすべての人間や自然」という「一大聖典」には到底及ばないこと
と同じです。
それに、大本のあなたが、聖書の神の本質にそれほど拘る理由は何ですか。
「神概念」は、ゴマンとある宗教が、それぞれ勝手にでっち上げればよいだけ
のこと。それとも、大本の神は、聖書の神の猿真似だということ?
360 :
神も仏も名無しさん :2008/08/15(金) 17:58:22 ID:Pnt8zvMO
>>359 どうしてきちんとした根拠に基づいて議論できないのですか?
>全存在の一部だけに「最高の価値」を認めれば、他の部分の存在の軽視・ >否定が、必然的に生じます。それがまさに一神教の実態です。 「一神教の聖典はこのような意味で誤っているといえる」と否定すれば いいだけの話です。他宗の歪曲なんかしなくても「神=全存在」教は説けます。 捻じ曲げ加工してまで異教の書を引き合いに出す理由なんて見当たらないんですよ。 「権威があるとみなされているものを自分の陣営に組み込みたい」という下心以外にはね。 >> 「わたしは小学生です」 >「....です」という、不完全自動詞ではなく、「存在する」という完全 >自動詞の話をしている。 私の批判のキモをわかっております?他のものにもあてはまるからといって、 あてはまる全てを指すことになりますかね、という問いだったのですけど。 「小学生として在る」にはそれ以上の限定語が無いのだから、これに当てはまる全ての人間を 指すことになっちゃうわけですが。完全自動詞なら命題的に全体を表すとか言う 文法ないしそれ以外の何かのソースを示してください。
>「他人の借り物の知識や見解」に飛びつくのが、 議論の場でそれは禁句じゃないですか?専門家でもない我々が 正解に近い答えを出していくためには、プロの専門家や学者の方の知恵や知識を 借りてくる事が必要になるのは、当たり前でしょう?違います? >nativeかnativeに近い人間の言語感覚、読解能力だと言っているでしょ。 あまりにも想像を絶する思考法だったので、つい…… 前スレの「似せられてれいば即、見分けがつかない(同じ)」とかいう飛躍ぶりの 時点でもっとすごいのが来る事を予想しておくべきだったのかもしれませんが…… >それに、大本のあなたが 私は大本の信者じゃないです。
363 :
神も仏も名無しさん :2008/08/15(金) 22:31:11 ID:1kUzLry9
364 :
神も仏も名無しさん :2008/08/16(土) 01:50:16 ID:tl+ORL3Q
>>363 ご教示有難うございました。要するに、古代ヘブライ語でも、はっきりした
ことはわからない、ということのようですね。
AM WHO AMとAM THAT AMとの両方の意味が出てくるのだから、「人と物」との
両方の意味があることには間違いない。また、「存在」という意味が中心で
あることも間違いない。しかも、神は、慎重にも「未完了形」を使っている。
言葉の時点だけではなく、「将来における存在」も考慮したのでしょう。新た
に作り出される人間にとって有用な存在」も、すべて含まれることになります。
「在る」と「成る」では、実質的な相違はないと思う。「成った結果、在る」
訳ですから。英語でも、「be動詞(am, is, are等)」には、両方の意味があ
ります。
「常に人々と共にあるもの、そしてまた人のために必要な全てのことをなし、
また必要なあらゆる物になるもの」。これってまさに「全存在」ではありませ
んか。「人と共にあるもの」「人のために最も必要なもの」は、「人間である
他者」です。そして、神は「必要な『物』」にも成れるのです。決して「観念的・
空想的概念」ではありません。そして、あくまで「人間のための実在」「人間
に奉仕する実在」です。「人間が、特に崇めるべき存在」ではないようです。
旧約の作者は、この「神の定義」だけでも、「ただ者ではない」という感じが
します。
365 :
神も仏も名無しさん :2008/08/16(土) 02:36:11 ID:tl+ORL3Q
>>364 の訂正
×「観念的・空想的概念」
○「観念的・空想的人格神概念」
定義するにあたり、個別の(聖書の)神の声を聞いてしているのだから、その「声を 発する存在はいない」とするのはダメでしょう
しかし。酷い事になってるなぁ。 議論してるらしー片方が建てられないならもう片方が建てれば良い物を。 しかも相変わらず語学スレにクダ質しよーとしてるし。 初級教科書やっててわからないんだけどー?ってな質問はよしとされても○×は何ですか?はやめてくれ 某協会サイトのBBSの運用が停止されたのもそういうバカ質問がいつまでもしつこかったからだぞ。 ホントに勘弁してくださいよorz
>>363 ご教示、ありがとうございます。
名詞エフイェに複数形を現す〜イム、〜イームが無い点も
存在するもの「全て」ではないことの裏づけになりそうですね。
>>364 >両方の意味が出てくるのだから、「人と物」との両方の意味があることには間違いない。
だから、当てはまるなら全体を指すことになるという俺文法がnativeであることを
証明してください。これ、あと何回書けばいいんでしょうかね?
>>361 等にも答えてくださいよ。
それとも何らソース・根拠を示さず、このまま「俺がそう思うなら正しい」で突っ走られますか?
>>365 わかりました。
訂正
>>365 →
>>367 私はヘブライ語スレッドに質問しにはいきません。
ユダヤ教徒やキリスト教徒聖職者の方を見ても
この方々への質問も自粛したほうがよさそうですね。
失礼しました。
>>364 追加
>「常に人々と共にあるもの、そしてまた人のために必要な全てのことをなし、また必要なあらゆる物になるもの」。
>これってまさに「全存在」ではありませんか。
>「人と共にあるもの」「人のために最も必要なもの」は、「人間である他者」です。
これは「旧約聖書での教義・世界観の話」だということをこれから何度忘れられるんでしょうか?
旧約聖書では神は人間とくにイスラエルの民とともにあり、預言や恵みや試練を与えるとされています。
イスラエルの民も苦難の中で神を求め、聞いてくれる事を願って祈りを捧げるわけです(詩篇とかみてください)。
無神論者って、信仰が無いのに信仰があるフリをしなければならないんだね。 神はイナイと思う者は、そのことを論じ始めたら負け。
371 :
神も仏も名無しさん :2008/08/16(土) 12:32:55 ID:HdEt6Y17
>>365 往生際が悪いですよ。
旧約聖書の神が、ユダヤ・キリスト・イスラム3教の「共通の神」であること
位は知ってるでしょ。
この旧約の「神自身による自己定義」に反する教典の記載は、すべて無効です。
この「自己定義」は、内容的に極めて深いから、信者が十分に理解できなった
だけの話でしょう。
ソース、ソースとうるさいから、
>>363 さんが、聖書上の「神のソース」を
ヘブライ語原文で示してくれたではありませんか。
クリスチャンは、絶えず「神」「神」とうわ言のように唱えるが、肝心の
神自身によるこの「自己定義」には目を背けていますね。キリスト教が瞬時に
崩壊する恐怖に怯えているのでしょう。
372 :
神も仏も名無しさん :2008/08/16(土) 12:59:03 ID:HdEt6Y17
>>370 無神論者は、「架空の、空想上の神」ではなく、厳然として実在するすべての
の人間と、その生命を支えてくれる自然(即ち、「全存在」)とに「最高の価
値」を認める。
従って、「神の名」で人を殺したり、争ったりすることは、絶対にしない。
この意味で、無神論者が、実は最も神に近いという「逆説」が生じる。
「本当の信仰は、無神論を経由しなければ不可能」と言った人もいる。
>>371 >この旧約の「神自身による自己定義」に反する教典の記載は、すべて無効です。
神の性質に書かれた一節は多くありますが、どれかが蔑ろにされるわけではありません。
と、以前のスレでも書きました。
>この「自己定義」は、内容的に極めて深いから、信者が十分に理解できなっただけの話でしょう。
その「自己定義」とやらは俺文法の押し付けでしかありませんでしたが。
これまであなたが反論せずに放置している問いをまた書いてあげなくてはいけませんか?
>ヘブライ語原文で示してくれたではありませんか。
出して頂いたところ「神=全存在説」を説いてないことの傍証が出たわけです。
(複数形を現す〜〜イム、〜〜イームがない)
一方あなたは俺文法と護教的解釈を持ち出すばかりです。
374 :
神も仏も名無しさん :2008/08/16(土) 13:45:47 ID:HdEt6Y17
>>373 >複数形を現す〜〜イム、〜〜イームがない
「全存在」という「全体を現す言葉(集合名詞)」は、複数にする必要はない。
英語でも、集合名詞(たとえば、「人類」を意味する'mankind"等等)は、複数
形にはなりません。
ヘブライ語の「ソース」も出していただいたのだから、議論はここでやめましょう。
あとは、キリスト教徒が、この「神の自己定義」から目を背けないことだけ
です。
>>374 最初から集合体を表す単語が複数形でないのは当然です。
たとえば日本兵がたくさんいても、「日本軍」とまとめれば単数になるわけです。
この場合、「全ての」がつかなければ日本兵=日本軍とはなりません。
でもって原文には「全ての」を表す語はない。「存在」「存在するもの」は
それ自体は「日本軍」「人類」のように集合を表す語ではない(existenceには複数形が存在する)
374は反論になってないわけです。
おっと、日本軍や人類の場合でも一定数以上いれば全体が揃っている必要はないですね。
月にNASAの宇宙飛行士チームが到着しても「人類は月に到着した」になります。
海軍だけが侵攻しても「日本軍は何々の国に侵攻した」となります。
集合名詞ではない「存在」で、集合名詞ではああだからといっても
仕方がないのは訂正しようがないですけど。
それはそうと、完全自動詞だと全体を表す(
>>353-354 )とかいう話についても
丸投げってことでよいでしょうか?
377 :
神も仏も名無しさん :2008/08/16(土) 14:30:29 ID:HdEt6Y17
>>375 「人類(mankind)」という言葉を複数にすれば、人類が複数いることに
なりますよw。「人『類』」という言葉にも矛盾します。
「日本軍」も、「日本国の軍隊全体」の意味なら、複数にはなりません。
単に「Japanese Army」で、「Japanese Armies」とは言いません。そも
そも「日本国の軍隊」が複数に分かれたら、戦争は出来ませんよ。
Existenceも、「全存在」という集合名詞や抽象名詞としては、複数形には
なりません。
わたしの反論はすべて前スレに含まれているから、それから読み取って
ください。あなたが「聖書の呪縛」から逃れることが出来れば、容易に
理解できることです。
それに、聖書より前に、英語の文法をもう少し深く勉強しなければ、大
学入試には受かりませんよ。集合名詞や抽象名詞を複数形にしたら、即
座にペケです。
摂理の範囲でも、永遠を求めて人がキリスト教を造ることは理にかなう事。 摂理は摂理は弱肉強食を否定できない。
>>377 リロードくらいしましょう。
>「人類(mankind)」という言葉を複数にすれば、人類が複数いることに
>なりますよw。「人『類』」という言葉にも矛盾します。
>>376 からして複数形にできるなんて言ってないし、むしろ
>最初から集合体を表す単語が複数形でないのは当然です。
>たとえば日本兵がたくさんいても、「日本軍」とまとめれば単数になるわけです。
と書いているのですが。私の英語力を心配してくれるのは結構ですが、
俺文法の事もありますし、わたしはあなたの現代文の成績が心配です。
>Existenceも、「全存在」という集合名詞や抽象名詞としては、
大丈夫ですか?本文には「全」であるとしなければならないという要素はなく、
そうしなければならない理由もあなたは一切示せていないんです。私があげているものは他の部分の
記述や価値観と調和しますが、あなたの場合、「理解できなかったのだろう」と
言って切り捨てなくてはならなくなります。根拠としてあげているのは俺文法ばかりです。
>わたしの反論はすべて前スレに含まれているから、それから読み取って
>ください。あなたが「聖書の呪縛」から逃れることが出来れば、容易に
>理解できることです。
貴方の、のらりくらりとした姿勢の極めつけと言える文章ですね。
俺は示してやらない。自分で探せ。見つけられないのは「呪縛」から逃れていないからだ。
……と言い逃れができるわけです。私ですら貴方に答えを求める場合は
レス番号を示すようにしてきたんですがね。
人類普遍の悟り、摂理教。
受け入れるしかないが、受け入れ難い摂理教。
この摂理教に対して聖書のもつ強みは何か。
383 :
神も仏も名無しさん :2008/08/16(土) 17:15:49 ID:GrdaAVRf
>>382 まず「罪概念」の植え付けによる「脅迫」と、「贖罪」「救い」という「甘言」
による心理操作(洗脳」でしょう。完全なマッチポンプ宗教。
パウロが編み出したこの悪質な洗脳手段は、極めて強力。
キリスト教は、専ら心理操作による、「脅迫」と「甘言」の宗教に過ぎません。
「人間そのものに対する愛」のカケラもない宗教。
384 :
383インキョ元気ですか!! :2008/08/16(土) 17:17:39 ID:CX4ErSVn
383の内容はまだまともであると認める。
摂理教は「神はいない」という前提がある。 摂理教急先鋒は、実存【個性】の神を断固否定するが、一般的な摂理教徒 は、神の実存の情報に興味がある。
386 :
神も仏も名無しさん :2008/08/16(土) 21:27:40 ID:RVZlwOkZ
信じようが信じまいが、罪の購いは完成してる 旧約時代には神の義は言葉として与えられた 新約時代には言葉が受肉して与えられた 解き明かすのは霊 聖霊を求めなさい
387 :
神も仏も名無しさん :2008/08/16(土) 21:33:06 ID:7x8eOfm5
>>386 現実上の根拠と基盤が皆無な、完全な妄想。
そもそそ、創造主は、罪人は創造しない。人間を罪人呼ばわりすること
は、その創造者を罪人視する、冒涜の行為。
388 :
神も仏も名無しさん :2008/08/16(土) 21:45:11 ID:RVZlwOkZ
神と異なる秤を持つことこそ的外れの存在である証
389 :
神も仏も名無しさん :2008/08/16(土) 21:56:41 ID:RVZlwOkZ
木に架けられてなお敵の赦しを乞う姿こそ義そのもの
390 :
神も仏も名無しさん :2008/08/16(土) 22:06:01 ID:7x8eOfm5
>>388 その秤も、「人間」が考えた秤。
>>389 イエスの言葉は、常に、「自分の気に入らない他者に対する非難」と
セットになっていることを、看破する必要がある。例えば「善きサマリア人」
の話でも、イエスの真意は、サマリア人にかこつけて、自分の気に入らない
祭司とレビ人を非難することであった。「隣人愛」とは、ほど遠い。
言い逃れ用の捨て台詞(
>>377 )で反論は以降も丸投げってことでよろしいでしょうか?
392 :
神も仏も名無しさん :2008/08/16(土) 22:27:17 ID:RVZlwOkZ
彼は祭司とレビ人、迫害する者のために祈ったことを看過してはならない 言葉通り彼は汝の敵を愛した証 彼が嫌ったのは人の心に巣食う汚れ、聖さに抗うルサンチマン
393 :
神も仏も名無しさん :2008/08/16(土) 23:50:56 ID:YwZ83JxE
>>392 イエスは、何故祭司とレビ人とを名指しで上げて、彼らを悪者にしたのかね。
単に「他の通行人たち」とするだけでよかったはず。明らかに、イエスの悪意
が窺われる。
イエスには、「祭司もレビ人も、それぞれの事情があった。かかりあいたくない
という、人間性の弱さもあったのかも知れない。彼らが、被害者のことの気に
かけていなかったわけではないことは、彼らが道の向こう側を急いで通り過ぎた
ことからも分かる」ということに思い至れなかったのか。イエス自身は、善き
サマリア人などではなかったのである。
394 :
神も仏も名無しさん :2008/08/17(日) 08:20:09 ID:jjLibo0w
嘘つき、偽り者だから
人類普遍の理想は弱肉強食のない世界。 キリスト教の御国も弱肉強食のない世界。 摂理界では実現不可能。摂理による殺しを喜ばざるを得ない。
弱肉強食を考える場合、生き残った者が最強となるが、摂理界には永遠に生きる者は いない。死ぬ者は絶えず強者に怯えなければならない。
強者に怯えることは摂理である。 人がまだ見ぬ宇宙人に怯えるのは摂理である。 その宇宙人に狩られることがあっても摂理である。 摂理教は人間が地球生命の頂点にあること前提にしている。 宇宙レベルの摂理では、滅亡を喜ばなくてはならない摂理教。
ひがむ心は直したいけど
399 :
神も仏も名無しさん :2008/08/17(日) 17:40:06 ID:4WazlhOl
>>395 >>396 >>397 弱者には、弱者は救えない。弱者を救えるのは、強者のみ。
キリスト教は、弱者の弱みに付け込んで、「猫なで声」で弱者に阿り、弱者
をさらに弱者にする、「弱肉弱食」の陰湿極まりない宗教。「弱肉強食」より
はるかに悪質。
ニーチェが痛烈に批判するところである。
もはや詭弁でしかない。摂理教は終了ダナ。
たまにでよいので神さまの心を知りたいですぅ・・
そうだね。後で振り返るといつも人間が間違ってる 少しイヤな事があるとムキになり矛盾した事したり深い意味を悟れなかったり。 ともかく人間より上だからたまには気持ちを知りたい事もあるけど アレコレ言わないで信じて任せるのが何より。「神さまの心のままに」これだね
真理は実現する。真理を知覚し求める者には必ず実現する。
知覚しきれてはいないが、キリストの言葉は全て真理だという見通しを持っている。 これは父なる神がどのような方であるか納得していることによる。
聖句の解釈は難し。日本語にした時点で本来の意味とちょっち違うもんになっとるし…
求める者には与えられる。奇蹟を見ないで信じる者は幸いである。 キリストそのものが奇蹟。
ゼロ磁場というものが話題になっているが、「愛の」ゼロ磁場というものがあると仮定して、 神の愛が強くなる、という仕組みを考えてみた。 神の愛が強くなるためのには、どの愛がゼロ磁場的になればよいのか。
相手が一心同体に近づくほど、相手の価値が上がる訳ではない。 相手が憎いほど、相手の価値は上がる。
全部にちらほらは? 出来たらメインのとこをおいて欲しいけどお任せです・・
金に代えられない思い 譲れない思い、
412 :
神も仏も名無しさん :2008/08/25(月) 08:10:11 ID:Y1/sB0j0
2ちゃん専用ブラウザのJane Styleをさいきん使いだした。こんなに便利だとは思わなかったw どこ板のスレッドでも新着やIDの違いが一目で分かるし背景が白くなくて目もつかれないです。みなさんにお奨めしとく。
専ブラはDET落ちしたお気に入りは残るがソフトを入れ替えたりトラブルと 全部なくなるから、スレの保在はITでした方がいい。今の専ブラのスレで落ちたやつはフリーソフトで ITと同じ状態に出来たはず。
パリサイ派は蝮の末なのか?
あなたは「高価で・貴い」 高価とは、憎しみ妬み 貴いとは、信念?
413ひどく誤字だらけでした。言いたい事はスレを保存するならInternet Explorerでと。 フリーソフトはDAT2HTMLです。
ちょっとだけ困ったけれど頼まれてホントに嬉しかったです。 使う時は前のに戻しますね。ホントは同じで理由で嫌なのだけど叩かれにくいのです。
神に不可能は無く、何でもできる、死ぬことも出来る、消え去ることも出来る。 神は消え去らないために、自身にルールを課している。神には目的がある。
420 :
神も仏も名無しさん :2008/08/27(水) 15:20:39 ID:AofTmp3E
↑ と、人間が言ってますよw(笑
人の書いた聖書の神論が正しいことに因る、人の思いですよ。 聖書神論は、「起」が現象界におけるなんであるのか。これが曖昧であるため、 その原理のを悟り、納得する必要がある。 聖書は現象界の「結」後に向けて語られている。
妬みとは
423 :
神も仏も名無しさん :2008/08/30(土) 13:51:59 ID:AnZyc8NI
大昔の誰が書いたか分からない本を絶対聖典として全て受け入れそれに浸り、 現代まで疑うこと無く盲信することは、ある意味、滑稽でナンセンス! カッコワルーイ! (・∀・)ノイクナイョ!!
424 :
神も仏も名無しさん :2008/08/30(土) 14:47:12 ID:uz+OsT8+
423 伝統の宗教としての、理解なき信仰が気に入らないってことですね。 多くの日本人のなんちゃって信仰はナンセンスでかっこやるい
今日はナンカとても嬉しい事があった。ここは終わりの日までいます
427 :
神も仏も名無しさん :2008/08/30(土) 20:45:08 ID:iMNdxl33
天国・地獄・永遠の命・神の殺人命令・・・等の観念で洗脳し宗教紛争・自爆テロ やカルト被害を招き、<社会に害毒を撒き散らす>ことは、充分『批判の対象』となる。 ★ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、「同じ架空の神」 、即ちアブラハムの神 を信じる「啓典の民」なのである。即ち、同じ穴のムジナ。★ 尊大で独善的・狂信的・脅迫的な一神教は怖〜くて暴力的でナンセンス! カッコワルーイ! (・∀・)ノイクナイ!!
何らかの反一神教勢力による宣伝活動ですね。
429 :
神も仏も名無しさん :2008/08/31(日) 07:09:05 ID:XV0B1LKx
石原都知事と意を同じくする思想勢力、による喧伝活動ですね。よく分かりました。
431 :
神も仏も名無しさん :2008/08/31(日) 16:01:37 ID:UTGeNfUL
>>430 相変わらず痛くも痒くもない無反応レス、何も分かっていませんね。(笑
>>425 >>428 >>430 氏の返レスは、現実の悲惨な事実を理性で自ら直視・分析出来ずに、
只、感情論にすり替え逃げたい・安易に信じたい、スガリタイ・ヒタリタイ・・だけの
現実逃避のマイコン・洗脳信者の証明となり、もはや現代でそれは通用しないでしょう。
もう信じてるから
ココに書き込む意図が不鮮明なんだよね。 このスレに盲信する人はいないと思うし。
別に喧嘩売ってるわけじゃないよ。 まあ、攻撃的にならず落ちつきましょう。
435 :
神も仏も名無しさん :2008/08/31(日) 20:29:50 ID:4N/2z28B
勝手に君が感情的被害妄想〜、おかしいから批判してるだけ、
文章読解力あるの?。。。。。
神の御心は測り知れないと言うかと思えば →
>>419 >>419 を証明して下さい。言葉だけなら誰でも簡単に言えます。↓
>>419 :神も仏も名無しさん:2008/08/27(水) 09:09:18 ID:0HU/6wpO
神に不可能は無く、何でもできる、死ぬことも出来る、消え去ることも出来る。
神は消え去らないために、自身にルールを課している。神には目的がある。
436 :
神も仏も名無しさん :2008/08/31(日) 21:31:07 ID:0ONI5IlM
自分が人間であるこを忘れて、「神になった積りで饒舌に神を語る」宗教者の 滑稽な姿を自覚されたし。 神とは、「人間には図り知れない存在」のはずではないのか。
神の御心は測り知れない とは言った覚えはないけれど、実際計り知れませんね。 身近な人でさえ、実際のところ何を考えているのかは分かりませんからね。 裁判で、殺人被告の殺意があるかないかの判断はどうやって判定してるのかな。
>>431 現実の悲惨な事実に目を奪われて、理性で自ら直視・分析出来ずに、
只、感情論にすり替え逃げたい・安易に喧伝したい、ヤツアタリしたい?
論理逃避の反一神教短絡者の証明となり、って感じ?
人の限られた意識で相手を思いやることの難しさ。 神は人の想っていることを一方的に知ることができる。しかし、園で主はアダムの 行為に対しその意図を測りかねているようだ。 人の考えることは脳の物理的作用であるから、神はもとより人が人を知ることも可能か。
440 :
神も仏も名無しさん :2008/09/01(月) 12:21:26 ID:riMwH+01
はだかでボクと踊りませんか…
441 :
神も仏も名無しさん :2008/09/01(月) 16:04:51 ID:Rew9qBXt
>>372 イタ〜ク同感!! ここ↓ が非常に大切で、重要なこと! o(^-^)o
☆ 従って、「神の名」で人を殺したり、争ったりすることは、絶対にしない。☆
この意味で、無神論者が、実は最も神に近いという「逆説」が生じる。
☆「本当の信仰は、無神論を経由しなければ不可能」と言った人もいる。☆
カルネアデスの板でないけど、生存の危機という緊急状態で殺人を犯す場合、 最高価値である「全存在」からはどう合理的に説明がつくの?ヨシュアの聖戦 もある意味喰うか喰われるかの情況で「神の名」で行われた殺人もあったと思 うけど、それとどう違うの?
443 :
神も仏も名無しさん :2008/09/01(月) 20:02:55 ID:tbUwVuJC
>>432 >もう信じてるから
信じることは又、裏切られることも当然あるでしょう。
信じることに溺れている事は、正しく良いことなのですか?
>>437-439 これも又、又、残〜念! 回答になっていませんでした。(笑
↓ の具体的説明キボーン、 ルール・目的とは?
>神は消え去らないために、自身にルールを課している。神には目的がある。(
>>419 )
444 :
神も仏も名無しさん :2008/09/01(月) 20:48:59 ID:eTpDRtKg
>>442 幼稚な質問。自己の生命を奪われようとする場合、生命を護るのは同然のこと。
相手もそれを知っているから、他者の生命を奪うことはしない。共同体において
は、その成員の一人ひとりが「自己」なのである。
「架空の神のために」他者の生命を奪うのは、人間の生存には一切関係のない、
如何なる正当化も許されない行為である。
445 :
神も仏も名無しさん :2008/09/01(月) 21:08:57 ID:eTpDRtKg
>>442 助かるべき一枚の板しかない場合、「自分」が助かることが、正常な
生存本能の命じるところである。そうしたからといって、別に非難され
るべきことではなく、そうしなかったからといって別に賞賛されること
ではない。人を助けても自分が死ねば、身近な者たちを悲しみのどん底
に陥れることは、同じだからである。この意味で、「架空の神」の観念を
捨てきれず、自分の宗教的満足のために命を捨てたキリスト教の「殉教者」
は、最も非難されるべき人々。
三浦綾子の「石狩川(?)」の話は、むしろ誤り。それが、自分の自然の感情
からではなく、神や聖書の「命令」によって行った行為なら、それは
「偽善」に過ぎない。自分が「死後救われる」ための行為なら、それは
「エゴの行為」以外の何物でもない。
446 :
神も仏も名無しさん :2008/09/01(月) 21:19:32 ID:eTpDRtKg
「自分の観念」に過ぎない神を捨てきれずに、生命を失ったキリスト教 の殉教者の場合、本当の神なら、「私を捨てて生き延びよ」と言った はずである。殉教者には、その神の声が聞こえなかっただけである。 殉教者は、「自分の」宗教的満足のために、身近な者たちを悲しみと苦しみ のどん底に陥れることは考えなかったのか。これこそ「エゴの極致」の 行為であり、「最も神に反した」ことではなかろうか。
現実の悲惨な事実に目を奪われて、理性で自ら直視・分析出来ずに、 只、感情論にすり替え逃げたい・安易に喧伝したい、とにかく壊滅させたい、 論理逃避の反一神教短絡者の証明となる。 ☆ 納得できる定義が用意できても、論理逃避されるのであれば無駄となる ☆
448 :
サロメおたぁ ◆wHb3.gs/E2 :2008/09/02(火) 03:09:14 ID:A5q6ufke
>>445 ですから隠居は愛がわからないのです
肉体に固執するからです
449 :
神も仏も名無しさん :2008/09/02(火) 03:35:13 ID:RgFsLpmY
>「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。 >人は肉にすぎないのだから。」こうして、人の一生は百二年となった。 いい言葉だね。「神の霊」とは、実は「人間の肉体的生命」のこと。だから、 「肉体が滅びれば、神の霊(生命)も、肉体には留まらない」。 サロメを初め、すべてのクリスチャンは、誤解しまくりw。
450 :
神も仏も名無しさん :2008/09/02(火) 16:55:57 ID:Fu9XEcH5
451 :
神も仏も名無しさん :2008/09/02(火) 17:03:51 ID:Fu9XEcH5
>>446 >本当の神なら、「私を捨てて生き延びよ」と言ったはずである。殉教者には、
その神の声が聞こえなかっただけである。
全く、仰るとおり。聖書・教義でマイコン・洗脳され本来の『命』の声が
遮断されてしまった。(ノ_<。) ↓
☆★ 神仏 = 命 = 人間 = 自然 ☆★
>殉教者は、「自分の」宗教的満足のために、身近な者たちを悲しみと苦しみ
のどん底に陥れることは考えなかったのか。
キリスト教の指導者は、自殺者を偉そうに説教などとても出来ませんね。↓
>これこそ「エゴの極致」の行為であり、「最も神に反した」ことではなかろうか。
そうは言っても指摘通りだしな、論じるための前提をつくりたいな。
しあわせ
神には、目的がある。 これに対し異論はないだろう。
神とは、万物の創造をした存在・概念である。
456 :
神も仏も名無しさん :2008/09/02(火) 21:35:57 ID:p664J/n6
>>454 >>455 人間が神を思考する限り、それはどこまで行っても、人間の生命の機能をして
の観念作用・空想作用の産物。死者には、神を思考・空想・崇拝することは
不可能。従って、人間の生命は、すべての神概念に優先する。
457 :
神も仏も名無しさん :2008/09/02(火) 21:39:03 ID:p664J/n6
それは、私が神を論じる時、あなたが怒りを発したい場面では、 あなたの喧伝が優先されるということですね。
459 :
神も仏も名無しさん :2008/09/02(火) 21:59:19 ID:p664J/n6
クリスチャンは、自分でも意味の判らない「愛」という言葉を、浅薄に 口にし過ぎる。「愛」とは「行動」ですから、口にするものではなく、 国にした途端に、その実質が失われて破壊され、偽善となります。 仏教では、「愛」とは、「愛欲」「欲望」のことで、「他者に対する思 いやり」を表わすときは、「慈悲」という言葉を使います。 イエスが「口にした」愛(アガペー)は、ギリシャ哲学の観念の産物と しての「特殊概念」の猿真似に過ぎず、それは「愛」ではありません。 クリスチャンは、愛という言葉は一切口にせず、相手が土壇場になる までとっておくこと。さもなければ、単なる「自己満足」「自己陶酔」 「エゴの押し付け」で、相手にとっては「ありがた迷惑」以外の何物で もありません。
460 :
神も仏も名無しさん :2008/09/02(火) 22:19:14 ID:p664J/n6
>>458 あなたが「神」という言葉を、ぺらぺらと浅薄に口にするのが間違っている
のだよ。それは、どこまで行っても、「人間」としてのあなたの観念に過ぎない
ことに気付いて欲しい。「神」とは無関係である。
「人間にあらざる神」は、「人間には計り知れない存在」であるはずではない
のかね。
短絡的であるね。 土俵を間違えてるので、ただの喧伝活動でしかありませんね。 顔文字使う人はどうなのか判らないけども。
永遠を考える時、神が想定に加わることになる。
463 :
独り言(ー◇ー) ◆E09AdS.3fQ :2008/09/03(水) 00:20:59 ID:lxz2SSCX
マターリ語ってるのか?
464 :
サロメおたぁ ◆wHb3.gs/E2 :2008/09/03(水) 01:22:31 ID:5fpifaxx
>>445 アナタのような人間が特攻隊を嘲笑うのですね
465 :
神も仏も名無しさん :2008/09/03(水) 09:40:02 ID:FxMV/+wr
>>464 特攻隊は、実質は、家族、同胞、国民という「人間」を守るために死んだのだよ。
キリスト教殉教者のような「架空の、空想上の神」のためではない。勘違いし
ないように。
いわゆる「天皇制」は、キリスト教国の「武力」による威圧から日本を守る
ために、キリスト教を真似たものに過ぎない。しかし、キリスト教徒は異なり、
「天皇制」による国民の洗脳は、終戦と共に、殆ど一夜にして覚めた。日本人
の賢明さを、如実に証明するものである。キリスト教は、2000年経っても
洗脳から目覚めない。
天皇制による国民の戦争遂行洗脳は、天皇制の洗脳効果による戦争遂行解除命令及び 人間宣言により開放されたのだ。 そこで、反一神教勢力であるあなたは、虚構的汎神制(実際のところ一神教)により 全民族を再洗脳し永遠の滅亡プログラムを遂行させようとしている。
467 :
神も仏も名無しさん :2008/09/03(水) 12:59:22 ID:BpM0hkuz
>>466 人間界において、「すべての現実の人間の生命」に最大の価値を置くことは、
いかなる意味でも、洗脳や宗教ではない。人間界で共生する成員一人一人の
「至上の義務」である。
科学について無知蒙昧であった古代人の空想から発生した「架空の神概念」か
ら、「すべての現実の人間とその生存を支える自然」への、パラダイムの大転換
を行うことこそ、現代人の喫緊の課題である。
弱肉強食の世界では、人はいつか狩られる。神をおいてこそ真の平和が得られる。
469 :
神も仏も名無しさん :2008/09/03(水) 17:09:49 ID:7p30APjq
>>468 又又、一神教が一番宗教戦争・紛争で現代まで絶え間なく争っているというのに・・
自爆テロばかり、、、どこに神がいるの?・・・それが問題!
少しもあなたには、客観的視野・自省がありません〜(笑)
470 :
神も仏も名無しさん :2008/09/03(水) 17:16:08 ID:7p30APjq
>>449 >「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。
>人は肉にすぎないのだから。」こうして、人の一生は百二年となった。
>いい言葉だね。「神の霊」とは、実は「人間の肉体的生命」のこと。だから、
「肉体が滅びれば、神の霊(生命)も、肉体には留まらない」。
ホント、素晴らしい洞察力!( ・∀・ )ノ
■ 「神の霊」= 「人間の肉体的生命」 ■
ご隠居氏の着眼は、誰にも真似出来ない斬新で教えられることばかり!!o(^-^o)(o^-^)o
☆「肉体が滅びれば、神の霊(生命)も、肉体には留まらない」。☆
471 :
キララ☆ :2008/09/03(水) 17:19:19 ID:+BaB2D1t
ステキー、インキョ様のお言葉に発情しちゃう。
472 :
神も仏も名無しさん :2008/09/03(水) 17:57:44 ID:qwja1qPE
>>468 >神をおいてこそ真の平和が得られる。
神概念も教義も、人間である特定個人の観念の産物であり、他の人間を自由に
操るための手段。
ユダヤ、キリスト、イスラム3教の「聖地」であるはずの、パレスチナの惨状
を見よ。
特に、人類のすべての大虐殺・大戦争の陰には、イエスの「教え」がある。
マルクス、ヒットラー、スターリン、アフリカの大虐殺の主導者たちも、
すべてクリスチャン。
5000万人の犠牲者を出したといわれる中国の太平天国の乱もキリスト教。
「暴力」で、「神の国」を築こうとしたのである。
人間にとって最も有害な思想は、現実と人間を忘却した、イエスの「神の国」
思想であることを、認識しなかればならない。イエスで狂わされた人間たちは、
100%の善意で、良心の呵責なく、人を殺すことができるようになるので
ある。
嬉しかった
その虚構的汎神論も、人間である特定個人の観念の産物であり、他の人間を 自由に操るための手段。 何を信奉していようが悪を自覚・自制しないものは悪を行う。
戦争をするための建前は、ヒューマニズム。人権至上主義により法の実行で人を殺すのである。
戦争はキリストの教えるものではない。
478 :
神も仏も名無しさん :2008/09/04(木) 08:32:07 ID:g0JqO5di
>>477 イエスのすべての言葉が、戦争・紛争の原因を作り出している。聖書を「批判
的に」読め。常に「自分の気に入らない他者に対する非難」が含まれえいるで
はないか。
イエスの「我のみ良しの思い上がった独善性」と「あるがままの人間そのもの
に対する愛の欠如と人間差別」が原因である。
イエスは、その狂信と精神病の症状としての「誇大妄想」から、「何が何でも、
自分が神になりたかっただけ」の単純な話。
479 :
神も仏も名無しさん :2008/09/04(木) 08:42:12 ID:g0JqO5di
イエス(パウロ)で狂わされた者たちは、「暴力」で「神の国」「愛の 国」を作ろうとする。「愛」を唱えて人を殺す。これほどの矛盾はない。 すべては、キリスト教の「血塗られた歴史と現状」で、明白に証明され ているではないか。生来善である人間が、イエス(パウロ)を信じた だけでこのようになってしまったという恐ろしい効果と結果に、目を背 けてはならない。クリスチャンは、イエス(パウロ)の狂気の感染に よる痛ましい犠牲者なのである。
480 :
神も仏も名無しさん :2008/09/04(木) 08:55:23 ID:g0JqO5di
「人間が、自然状態を離れて、善悪の『観念』を作り上げることが原罪」 と喝破した、旧約聖書の物凄い真理を理解すべきである。創造主の命令 に機械的に反した(木の実を1個だけ食べた)のが原罪ではなく、その 禁止命令の「内容」に反したことが原罪なのである。 その意味で、人間を「善と悪」に区別したイエスこそ、原罪の権化なの である。 「人間の生存を助ける行為が『善』、害する行為が『悪』」。イエスに は、「善悪」のこの具体的意味が理解できなかった。単に「善悪」とい う抽象語・観念語を唱えて「自己陶酔」していただけである。
我々は聖書を批判的によんでいる。 あなたのそれは、否定的【全否定的】読み方である。
穏健派は目立たないから自分で調べようとしない人の目にはとまらず理解もされないわけだな。
483 :
神も仏も名無しさん :2008/09/04(木) 11:01:52 ID:/3hEnoMa
>>481 イエスの「中心思想」を把握・批判すれば、「全否定的」にならざるを得ない
のでは。
「中間的な読み方」とは、一体何?「肯定」が残っているということではない
のか。
批判的に追究して正論であれば肯定する。その正論に関わるであろう箇所は肯定的に追究できる。 一部のみを見て最終回答が全否定というのは脳回路が短絡しているのかと。
485 :
神も仏も名無しさん :2008/09/04(木) 19:42:10 ID:PkwGRMEa
>>485 論じるための前提を明確にしたい。
@神には目的がある
487 :
神も仏も名無しさん :2008/09/04(木) 22:04:41 ID:ZbkmkpdT
480 :神も仏も名無しさん:2008/09/04(木) 08:55:23 ID:g0JqO5di
488 :
キララ☆ :2008/09/04(木) 22:05:30 ID:ZbkmkpdT
480 :神も仏も名無しさん:2008/09/04(木) 08:55:23 ID:g0JqO5di は愛しのインキョ様。 インキョ様のお言葉は神の言葉、絶対です。
>>485 論じるための前提を明確にしたい。
A神とは、万物の創造をした存在・概念である。
490 :
神も仏も名無しさん :2008/09/05(金) 02:02:44 ID:u4nPIpe/
>>484 イエスの中心思想、思想基盤が間違っていれば、それから生じる「正論」も
結局は「原理的に」誤っていることになる。
それともイエス(パウロ)は二重人格かw。
>>486 >>489 その「前提」も、「人間」の考え。神とは関係ない。神とは「人間には図り
知れない存在」。人間がその身のほどを忘れて、「神になった積りで」「神
」など思考・解釈することを、「冒涜の行為」「原罪」と呼ぶ。
そもそも、創られた人間のちっぽけな脳みそで、「創った者」が判る訳がない
だろう。創造主は、被造物から自分の正体を暴かれるような「愚か者」では
ないはず。
創造主(神)とは、「人間が神という仮構に頼らずに、人間として自主的に生
きて行くことを可能にしてくれている存在」なのである。それが創造の「目的」
である。
創造主は、創造後の世界は、すべてその被造物である自然と人間に任せたの
である。自己の被造物に対する大いなる信頼と愛である。創造主が創造後も
世界に居座ることは、創造が不完全だったことになる。創造とは、「創造の
時点」で完成しているのである。
古事記の「造化3神」は、創造後、直ちに身を隠していなくなった。これが
正しい。
>>490 神は測り知れない→創造者の存在は認めるのですね?
どうしてそのように思い込むことが可能なんですか?論理矛盾していますよ?
493 :
神も仏も名無しさん :2008/09/05(金) 03:34:01 ID:u4nPIpe/
>>492 存在するもしないも、人間が百万年考えても分からんということだよ。
神と言う言葉が大好きな宗教信者にサービスしてあげているだけ。
論理などない宗教信者が「論理矛盾」などという言葉は使わないほうがよい。
あなたがインキョサマですね。 あなたの類似品へのレスに割り込まないで下さい。
>古事記の「造化3神」は、創造後、直ちに身を隠していなくなった。これが 正しい。 高御産巣日神はその後もちょくちょく現われてはいろいろやってます。 神皇産霊神にも子供ができてます。
496 :
神も仏も名無しさん :2008/09/05(金) 14:16:39 ID:I7Pu5nVk
>>486 >論じるための前提を明確にしたい。
@ 神には目的がある
前提とは?・・
@の意味を
>>443 で具体的説明を希望してますが。
497 :
神も仏も名無しさん :2008/09/05(金) 14:42:35 ID:BWbUktjw
>>489 >論じるための前提を明確にしたい。
A神とは、万物の創造をした存在・概念である。
前提ではなくAの証明をドゾー
498 :
神も仏も名無しさん :2008/09/05(金) 14:49:02 ID:BWbUktjw
>>493 >存在するもしないも、人間が百万年考えても分からんということだよ。
同意。
PCの状態が悪いので、レスが遅れる可能性あります。m(_ _)m
類似品君はどう思っているのかと。 インキョサマに同意してたな。
生命全体を神に比定していただろう?
ヒューマニズム。愛することが神の意図なんだろう。
502 :
神も仏も名無しさん :2008/09/05(金) 16:25:57 ID:eXbjgpxN
>>499-501 それが
>>496-497 の答えと何か関係が?
ほんとに、ぶれて書き込みにくくどうしようもないので、困ってま〜す。
もう、寿命みたいで・・・キリスト教は、全てご隠居氏が論破されてる通り。
PC駄目なら、代レス、御隠居氏にお任せしますのでヨロシクm(_ _)m
503 :
神も仏も名無しさん :2008/09/05(金) 16:35:01 ID:GWYmZQbp
創造主の「意図」があるとすれば、それは、人間が、人間にあらざる神などに 依存しないで、「人間として」自主的に生きることである。 神は、創造に際して、人間にすべてを与えたのだから(即ち、創造は完全である)、 後は神など不要のはずである。すべての責任は、人間が負っているのである。 十戒の言葉、例えば「殺してはならない」も、その原語の意味は、「神の被造 物だから『殺すはずがない』」である。自らの創造物に対する、神の大いなる 信頼と愛を示すものである。その人間を「罪人視」するイエス(パウロ)こそ、 創造主の信頼と愛に、真っ向から反するものである。
既に応えているのだが、君の理解力が及ばないのかとぼけているのか 遠回しに詰めていってる。
505 :
神も仏も名無しさん :2008/09/05(金) 17:01:39 ID:GWYmZQbp
>>504 君は、創造(人間と自然)の見地からは、一体何を「理解」しているのかね。
創造の結果としてのこの世界は、ちっぽけな聖書1冊などに納まりきれる
ものではないことは自明だろう。「現実のすべての人間とその生命を支える
自然」という「一大聖書」からこそ、学ぶべきではないのか。
507 :
神も仏も名無しさん :2008/09/05(金) 19:31:25 ID:JLbLUV7q
508 :
神も仏も名無しさん :2008/09/05(金) 19:31:59 ID:r8zvoPRF
>>506 まともに回答もしないで相手だけは批判できる滑稽さ!クリは幼稚〜(笑
ご隠居氏の清さと比べて下さ〜い。宗教に嵌るとこうなる見本!!
509 :
神も仏も名無しさん :2008/09/05(金) 19:50:56 ID:r8zvoPRF
◆ この世の支配者=サタンと、クリは言う。◆ ≪お金は魔物≫≪権力は魔物≫≪言葉は魔物≫ を巧みに 使い世界最大宗教にまでのし上がったのは、『キリスト教』 (#^.^#) 【支配者 = サタン = キリスト教】 という構図が自然に出来上がるのですが。
なんか解釈って相手が一番都合の良いようにとって欲しいです それが変わる事のない自分の気持ちだから・・ これからもっと気をつけますが印象が悪く感じる解釈は本意ではないですね。 解らない時はとりあえず保留でお願いします。今週は懺悔します。
>>508 大事な師匠だものね。麗しき師弟愛。師弟愛だけは素晴らしい。
>>508 批判力云々は君らの力説するところだろうw
513 :
神も仏も名無しさん :2008/09/05(金) 21:20:41 ID:mQSk1uzR
>>512 >
>443
>>497 >>498 の回答は?
くだらないレスつける暇あったら質問にちゃんと答えてねン!
偉そうに信徒には、お説教できるのだからw(笑
514 :
神も仏も名無しさん :2008/09/05(金) 21:23:28 ID:mQSk1uzR
>「殺してはならない」も、その原語の意味は、「神の被造物だから『殺すはずがない』」である
検索してみたところ、出典はナッシュ・パピルス(Nash Papyrus)というもののようです。
ウィキペディアからのリンク先には、英訳が載っているページがありました。
ヘブライ語原文も載っているので、素人でも時間をかければよく知られたヘブライ聖書と比較ができないこともありません。
さて、これをもって「原文の意味」とするためには、この文が一般的であったことを示さなくてはなりません。
例えば、獣の数字が616という古い黙示録の写本があり一時、話題となりましたが、
それにより即、616が本来のものなのだ、という事にはなりませんでした。
ちなみに
ttp://www.seinan-gu.ac.jp/rad/museump10.html によると「このパピルスの十戒とシュマの連続的併置という状況から見て、
これは聖書からの直接書写ではなく、典礼用、または教育用資料からの書写と思われる。」
とのことです。
>>513 既に応えているのだが、君の理解力が及ばないのかとぼけているのか
遠回しに詰めていってる。
>>513 499 :神も仏も名無しさん:2008/09/05(金) 15:06:01 ID:cjU1/i1S
類似品君はどう思っているのかと。
インキョサマに同意してたな。
500 :神も仏も名無しさん:2008/09/05(金) 15:15:46 ID:cjU1/i1S
生命全体を神に比定していただろう?
501 :神も仏も名無しさん:2008/09/05(金) 15:19:57 ID:cjU1/i1S
ヒューマニズム。愛することが神の意図なんだろう。
ヒューマニズムはどこからくるのか。 公平であることをだれが証明するのか。
519 :
神も仏も名無しさん :2008/09/06(土) 09:22:14 ID:lMSAX+3A
要するにキリスト教の独善性・排他性でしょう。オウムと一緒w オウム事件の時も、記者の質問に信者は「教本を読んで下さい。読めば分かります。」 の一点張り。教義にマイコン・洗脳されていることを、自ら証明している。(笑 外部の現実社会の基盤からは遊離・無視した特殊な世界の人達。 『井の中の蛙』で、教本を読んだだけの人達に通用する小さな世界・物語の証明。 外部の大きな現実社会・世界から現実逃避し、妄想を重ね、通用しません。 勝手にロリッテいて下さ〜いな!(・∀・)ノ
否。どちらかというと君が洗脳信者でゴインキョサマがアサハラ
弱肉強食との兼ね合いは矛盾を孕むのだ。 君らの依って建つ処の柱が、ゴインキョサマの独善妄想による対水性鉄筋コンクリート。 ヒューマニズムについて考えようか。
522 :
神も仏も名無しさん :2008/09/06(土) 14:12:19 ID:YGYH8xDU
>>510 >なんか解釈って相手が一番都合の良いようにとって欲しいです
信教の自由はあるのでしょうが、それは宗教戦争・紛争・教義(自爆テロ・聖戦・
聖絶・ポア・宗教犯罪・・・・・)等で社会に迷惑をかけないという義務もある筈。
キリスト教をはじめとする一神教は、この意味で批判される現状があります。
その原因はどこからくるのかをご隠居氏は、キリスト教批判で明確にされてます。
解釈云々の話ではありません。
523 :
神も仏も名無しさん :2008/09/06(土) 14:16:55 ID:YGYH8xDU
神にとっては、地の物質は物質としての価値しかない、塵は塵でしかない。 神に高い価値があるものは、神に物申す者と秩序あるもの。
ホントにつらい時は何度もお願いしますのでハッキリと分かった時でいいです。 でも常に気にかけてくれる、お気持ちそのものはスゴく嬉しいです ただ無理はしないでください。それは望まない事ですから。何度もごめんなさい
>>524 愛念だけが価値がありますね
目に見えないものこそが大事ということですね
神によって掬われるべき、点・核が、人にはあるのだろう。 この点は神による霊
この核点は神のものであり、神の覚え
対する人間の核心は、塵である体と、核点と共に過ごした時間・歴史。
点と称したのは実体が無いと考える。タグ、一個を表すシンボル、命の書の文字
神は、塵でもなく記録でもなく、生きる塵に高い価値をおいている。
そしてどの様に生きているかが問われる、
神の救いの所作には、人の善悪は関係しない。 人の善悪によって救われるのではない
神のための善行は対価が支払われる、。
神と人との関係は? なぜ悪いことをできるのか? なにがいけないのことなのだろう。明日はまたあるのだろう
神が、人を救いたいと想う価値観は、人の善行為の価値を凌駕する。 そこに善悪の差は無い。 だから救われる者は、自身の善行と他人の悪行の差をを考える必要は無く、 他人の悪行を赦さねばならない。 人の善行為は、その人による対価が神より与えられる。
神による、人の善悪行為の対価の付与と救いは、分けて考えなければならない ことが解った。救いの価値は測り知れない。
>>298 をぐるぐる考えてきて一つの理解を得たわけだな。
去年の6月には
>>8 こんな理解をしていたわけか・・・
本当は嫌われない程度に接してほしいのだけど つられて少しひどい書き方になってるし・・それが一番つらいし残念です
特にあの二人に対してだけど本音を言えば誰ともあまり親しくはなってほしくない
エバとアダムは実を得るまで、理解が十分ではなかった故に即死しなかった 実を得たことにより理解し、罪により死に至る条件が整
永遠の死の条件と執行の判断。 ノアの時まで捨ておかれていたが、その意図はなんだろうか。
キリストの肉と血の(と言葉)理解をアダムに応用すると、
ルカ福音書 2章8節 岩波訳 >さて、その地方に、羊飼いたちが野宿しながら自分たちの羊の群れを夜もすがら見張っていた この場面なんだけどね。これ新共同や新改訳では 羊飼いが誰の羊の群れを見張っているかが 解らないんだね。 岩波訳では それがわかるんだね。 見張っているのは 羊が逃げるからでしょうか? それとも 羊に危害を加えるもの あるいは 羊(家畜)盗人からの被害から 見守っている のでしょうか? どちらにしても 尋常ではないですね。 つまり 柵を廻らした場所に入れていても その被害に会う可能性が有るからでしょうね。 平和な状態ではないですね。 ところで ダビデ等の話しで解るように 羊飼いは羊を護るために 武装しているんですね。 そして いざとなれば 兵士にもなるのだそうです。 そこで このルカの場面なんですがこれは 辛い仕事をしている人に福音を告げる と言うよりも 戦いの日々を送っている人達に平和を告げる知らせ って側面の方が大きいのかもしれない。
キュロスさんこんにちわ^^ その恐れた羊飼いは悔い改めるべき祭司のように思える。
ユダヤを表しているのだろう
来ないとどこも盛り上がらないね。 明日はあってほしいです
ユダとイエスは 本来は敵と違う
身動きも出来ずただ泣いてた、あの時のなんかも自分だったと想います
あそこのスレ全部見てるのかな?メインはそこにするの? ていうかもう、どうでもいいよ・・気が合わないみたい。ご自由にどうぞ
色々思い至ったのだが、書こうとすると消えてしまうのはなぜだ。
キリストの教えを理解していても、瞬間的な怒りにより消えてしまうのはなぜか。
>551での、百人隊長のとった「みる」という行為はどういうことだろうか。 アダムを「みて」おられた、主とアダムの関係表現を考える。
怒りで論理霧消するのは弱肉強食の論理を肉以外に適用している。 思考回路の様々な前提となる所の論理を理解し、弱肉強食を解除 しなければ怒りをコントロールできないのだろう。
察知する神の声が理論でなく、具体的なモノ(奇蹟)であったなら 容易に篤くなれそうだ
558 :
神も仏も名無しさん :2008/09/24(水) 21:53:47 ID:18EOpo68
キュロスどこ行った?
竿に付けられた青銅の蛇を「みる」ことにより癒された。 十字架のイエスは、左右の罪人を連れて行ったのだろうか。 どちらの罪人もイエスをみていた。
キリスト教に迫害されて殺された者の方がはるかに多いのだから いるよりはいないほうが人類と愛のためにはよいのだが。
あそこばかりいるから一番に書いてほしいスレ(そこでなく本スレ。口論してたから?)にも一言でも 書いて欲しくて他で催促したのだけどうまく伝わらなかったかも知れません(催促した関連は今ままでも今後も5箇所) それであのレスを見たから「それならどうでも好きにすれば?」てヤケになった。 本スレより重視する気なら合わないと思ったのです。単にレスだけで判断した事など反省してます 知人に聞いた方法で書きました。でも大変な作業でうまくいっても5分くらい。 解除されるまで(たぶん1週間から2週間)は無理ですね。そちらはどうなのかなぁ? 一緒に休んでほしいけど本当なら心配です。答えもレスも今はいらないですが。とりあえず効かなくとも祈っておきますね
幸いなるかな、聖書を所有している者は! さらに幸いなるかな、それを読んでいる者は! 何よりも幸いなるかな、それを読むだけでなく、それに従い、それを自分の信仰と行為の基準としている者は!
福音は全地に伝えられる。キリスト以前に眠りについた者にも伝えられるのだろう。 アダムに伝えられる方策としては、セカンドチャンス、輪廻転生、輪廻転生のような事象、この三つか。 輪廻が御国観に問題が無いことが解ったが、「輪廻転生のような事象」という福音伝授の可能性が目新しい。 端的にいうと、福音を聞いた「他者(霊記録)との融合」がありうる
百人隊長は、メシアをどのように定義していたのだろうか。 マルコ福音書ではメシアである条件をイエスが満たすかを観察していたとも思える。 目の前で起こった事をみると、海綿のブドウ酒を飲まずに死んでしまったことが大きな条件 であったようにみえる。 これはだけでは飛躍しすぎだろうと思うので、併せて何か(奇蹟)を見る恩恵に与かったの だろう。 キリストの完成に伴い、終末のイメージをみたのではないかな。
「まもなく私がこの世で神の御心を成す。 律法の前には罪人とされる全ての人の身代わりとなって死に父なる神とあなた方との執り成しをする」
人間イエスの生きた軌跡、が人に付与されるのだろうか。
あれはね、自分のは晒す以上フリーにしなきゃいけないし薦めたのは気遣いからです。 いつか使いたくなった時は何でもいいのであのアドにくれると嬉しいです・・
聖書には、神を愛する人々が役立たせることのできる、いかに尊い約束がふくまれていることか! ほぼあらゆる緊急事態や状況に対して、聖書には、何らかの「時宜にかなったことば」がふくまれている。
エバが実をとるための動機はもっと細密に考察できそうだ。
571 :
神も仏も名無しさん :2008/10/06(月) 09:02:00 ID:BShc1syZ
キリスト教信仰において、祈りの次に重要なのは、聖書を読むことにほかならない。
572 :
神も仏も名無しさん :2008/10/06(月) 10:59:41 ID:iwdmAwiN
愛の実践は何番目か?
キリストを知る者の祈りには、神への愛と他者への愛が含まれている。 愛の実践は信仰に依らなくとも行われるべきものだからじゃないの?
神は自身にルールを課している。 そのルールの展開されたものの一つと思われるのが、 【我々の形に似せて人を創る】
人が似姿でなければ神は妬んだり苦悩することはないのだろう。
似姿であることは価値観・感覚が似ているということ。 人は神を信頼でき、神は信頼に応える根拠となる。
信頼とは何だろうか。
疑わないことではないでしょうか?
信頼する、ということはなんらかの関与行動が伴う。 信頼を持って挑んでも裏切られ「ああ、やっぱり」という場合もある。 疑念の中に信頼があるようだよ? ということは、園での主とアダムの関係は疑念の中に在ったのか
信頼ではなく期待をしているのかな。 相手の行動を予測し、選択肢の中から好ましい結果を期待する
エリエリレマサバクタニとは何だったのだろう
エコエコアザラクなら知ってるが…
この叫びは、人々に向けて「みよ、わたしは天に見捨てられたのだ」と言って もよいと思われるが、なぜ天に向けられたのか。
ぶどう園の喩え話と失楽園の主張は、一連する原風景を基に語ら れているようだ
比較して納得する補完関係なのか
586 :
神も仏も名無しさん :2008/10/15(水) 12:35:56 ID:sJV7+w9Y
関係ありますね
聖杯のぶどう酒の取り扱われ方とキリストの証になっているな。
皆に自由が得られたとして、最後の財産となるのは固有の命。 命とは何か。
おかしいな…
逆に、死ぬという事、は実現する御国に於いて罪ではなく、 後に思い起こされることもなく忘れ去られる、満ち足りた事 による永遠の死。 御国では死の意義も変わると思う。
天国への道は狭い
たとえ違うとしても今は嬉しい・・まぁ本物ですよね 休み休みでもありがたいです
その教理の両方とも正しいことがありえない以上 その両方をみことばによってためされなくてはならない。
神さま相手だからこっちは最初からあきらめモードはあるのです。 でもまだ夢のつづき、下のレスを信じてみます。今後、感じるレスが無かったら勝手に醒めます。 その時は仕方ないです
ぶどうの木は、男女の関係でいうと男が幹で女が枝で、実が子供。 我々が枝であるならば、豊かな実りは主との関係に因るもの。 幹から得られる滋養に個人差があるのかな。
自然の作りからすると、実を造るのは枝と枝の関係なのだ。 共に祈ると云うのはこの事だろうか。すると、蜂が働いて実ができる。 幹からは絶えることの無い滋養が供給される。
神さまが好きだから同情でも何でも文句を言える立場じゃないのだよなぁ。 怒る事をやめたい、それと共に常に冷静になってよく理解するように努めます。すみませんでした
分かればいいんだよ。以後、気を付けるように^^
木の枝は、幹の下の枝ほど太く長く古く、幹の末端は細く短く若くなっている。 多く実を付けるのはやはり大きい枝だろう。 横たわるようなぶどうの木を用いた譬えが指示しているのはなにか。
果樹の背が高くならないのは、実を活かして地に落とすためか。
601 :
神も仏も名無しさん :2008/10/28(火) 12:28:40 ID:teMbB/9K
あげ
ぶどうの木は接ぎ木というのも一般的なんだね。 キリストが接ぎ木されたということか。 つまりキリストにより捌かれているという比喩。
今、根元の幹からは、肉に因る幹と接ぎ木された霊に因る幹 の二本の幹が伸びているのな。 ぶどう故に双方の勢力にり蔓のように絡まるイメージもする。 賢く生き残る蛇。
人の世に安楽する死に際より、人の世に苦しむ中での死に際の 方が幸せではないだろうか。
生きた事への満足 生きる事からの解放
ぶどうの幹に接ぎ木される枝、これに稔るモノはぶどうに限らない。
マナは何故、地表に薄く落とされたのだろうか。
聖書は、「人に知恵を与えてキリスト・イエス に対する信仰による救いを受けさせることができる」*(IIテモ3:15)。
続編物語の醍醐味は「縁故」の楽しみである。
「求める者には与えられる」は園の中央の木の故事に係っている。
エバが蛇に拐かされる前に、主に中央にある木の実の解毒を求めた場合 どの様な処遇が与えられるだろうか。
要求は聞かれるが、事の可否としては、何らかの条件を満たすこと で解毒を許される旨を提示されると考えられる。
ここが何処か知りたい。通常この場合、ここの対称は自分 として考える。 ここ(世界)が何処か、となると、自身は世界に取り込まれる。
世界が秘密めくことがあるのは 光が運ぶ夢のせい 知識は断片を照らすのだけど 謎は謎へと誘う ここがどこか知りたい 遠くでは君が時間という概念に手を振って笑っている 確かに僕は不思議を見つめてる 【ヒカシュー・不思議を見つめて】
615 :
神も仏も名無しさん :2008/11/13(木) 22:31:17 ID:Io6wNMsn
幸いなるかな、聖書を所有している者は! さらに幸いなるかな、それを読んでいる者は! 何よりも幸いなるかな、それを読むだけでなく、それに従い、それを自分の信仰と行為の基準としている者は!
616 :
神も仏も名無しさん :2008/11/26(水) 09:04:03 ID:fclHu+iA
聖書は、「人に知恵を与えてキリスト・イエス に対する信仰による救いを受けさせることができる」*(IIテモ3:15)。
人は、無いモノ、を怖れる性質がある。 この性質は、他の動物には無い、人の特質であると思う。 何故怖れるのか。
無いモノ、とは端的には妄想のこと。 訪れが、不確実に予想される不幸、に対して実際に怖れる事態。 エサウを怖れたヤコブ。ヤコブは策をろうすることで怖れを和らげ 前進した。
幸福の妄想と不幸の妄想
ヨナタンが魚の中にいた3日間の、不幸から幸福への変化。 実存の影響下でも妄想は抱いたはず。ヨナタンは何を思ったのだろうか。
荒波の最中の舟にいた弟子 水面を歩きかけて怖れた弟子
理屈じゃない怒り。こういう怒りの感情表現もある。 この怒り感情の域に達すると、論理性で抑えることが困難になる。 この理屈じゃない怒りは、どのように判定されているのだろうか。
憤り。憤っている時は、理屈じゃない怒りであるが我に返った時には 論理性で抑えている。
人は自由である。神より「与えられた環境の限り」に自由に振る舞う事ができる。 富むのも貧しくなるのも、与えるのも奪うのも、触れるのも避けるのも、自由。 しかし、自由にして善いことが限定的であることが「与えられた環境に限り」 にかかっている。
他人に関わりたい時の手段には、直接・間接・省みる、の3つがある。
省みる行為を出来ることが、真の人であることの証の一つであるといえる。
省みる行為を出来ることが、正しい人であるための要素の一つであるといえる。
ここでの省みる行為は「同情」→「祈り」のこと。 金持ちはラザロに対し省みることもしなかった。
「与えられた環境」は、住む時空・人的関係・社会情勢・身体
最初の与えられた環境は、エデンの園。 園のどの木からも実を取って食べてよいが、中央の木からは禁止された。
省みる→同情・祈りとなるのは、聖書に因る自身の省みがあるから。 金持ちは自由を行っている。 **持つ者はさらに与えられ、無い者は無いところから取られる
存在する事が信用の理由となる場合。 信用の形、信用の結晶。
633 :
神も仏も名無しさん :2008/12/14(日) 21:54:03 ID:sypr7SB9
幸いなるかな、聖書を所有している者は! さらに幸いなるかな、それを読んでいる者は!
634 :
なみたん :2008/12/16(火) 09:38:25 ID:ce76wylI
635 :
なみたん :2008/12/16(火) 10:54:49 ID:ce76wylI
良い実とは 目に見える地位や経済や学歴などなのでしょうか? 何も持たずとも目に見えない「良い実」とは、御霊の実、 平安・感謝・喜び・柔和・自制のことかと。 ちょっと不安になりますね。 「良い実」を作るために何かしら社会的に認められなくちゃとか、そのような脅迫的な観念は。 そのような所からまず解放されてから、私は何がしたいのか、その結果自分らしいと感じることが道なのかと。
私的に良い実とは 献身する者〜神の栄光を現す者
人の怒りには、神に向けられた怒りと、人に向けられた怒りの二つ
神には何でも申し上げなさいと言われますよね また人への怒りは正しくないと
瞬間的な怒り・憤り、という状態→奪い返したい思いに満たされた状態
怒りが殺人と言われる由縁ですね 自分自身に内在するものとしても怖いです
殺しの種類 傷害意−殺意無き殺しー殺意と傷害意の狭間の殺しー意中の殺しー無邪気の殺し。
高慢を避けるには、自慢しないとか自分は何も出来ないと諦めることなのか、神からの自信と自尊心のバランスはどのようなものでしょう。
>>642 皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。
というデナリオン銀貨の逸話が、一つの指針となる?気がします。
神と人との線引きを見定める為の目の資質は、学んで養っていくしかないんですよね・・
カインがアベルを殺した心中と、エバが薗の中央の木から実を取った心中
>>643 富と神を見分けるということですよね
そして真実もって神に仕えるということが大切だと思いますが意識してすることでしょうか?
動機について吟味するとやはり隠れた善に真理があるように思います。
>>644 カインが神様から認められる?目に留まるようにするには、どの様な態度や心持ちでお捧げしたら良かったのか?気になるところです。
無意識で悪を行わないために、人間は無意識を制御する必要がある、と思う。
ここで言う無意識とは、当然ながら植物状態の人間の無意識とは異なる。
無意識を照らし出すのは完全には無理ではないでしょうか? 人間には他人も自分も分からない未知の部分があると言ってました そこが可能性(神様)かと思います
箴言に出てくる賄賂ですが(17:8)→(18:16)なぜ(17:8)では賄賂としたのでしょう。 贈り物とは両方ならなかったのかと。 賄賂は良い意味では使われませんよね。
未知の部分→意識外で働く機能→聖霊 人に聖霊の働きがあることは確かだと思います。聖霊に示された道を「選択する力」 が要ると思うんです。 エバは、園の禁じられた実を手にしてしまいましたから。
652 :
なみたん :2008/12/25(木) 07:34:45 ID:phsiYc7P
>>651 > 人に聖霊の働きがあることは確かだと思います。聖霊に示された道を「選択する力」が要ると思うんです。
祈りと悔い改め
後確信と良心にそった選択でしょうか
根源的な選択力とは何か。
なぜ選択があるのか
増えよ、満ちよ。ノア一家に告げられた祝福として知られる。 しかし、同時に呪いの言葉でもあるようだ。
幸せ一定量の法則
キリスト信徒にとっての、幸せの質と量、はどのように量るのだろうか。
宝くじで一等+前後賞が当選すれば、大概の難題は片付き当人はハッピーになる。 これは日本人の標準的な感覚であろうと思う。そして、難題となっていた事象は 金銭的なものに止まらず、「人間関係においても解消されてしまう」とされてい るのである。
人間関係の難題から逃れる為、二度と顔を会わさない地への絶縁的な移住。
死の運命以外で満足いくものではあるが、このHAPPYは全員に得られるも のではない。 難題の他人にHAPPYが及べば同様に移住してくれて1つの解決となる。 難題の全員にHAPPYが及べば同様に移住してくれて一通りの解決となる。
>>659 人それぞれなのでは
要するに最終的に神様に感謝できたらいいのではないかと。
罪にならないように大事なところだけ押さえて、他者に干渉しすぎないのが熟練されたキリスト者の良いところではないかと思います。
664 :
神も仏も名無しさん :2009/01/04(日) 11:36:50 ID:4A6aEpUr
幸いなるかな、聖書を所有している者は! さらに幸いなるかな、それを読んでいる者は! 何よりも幸いなるかな、それを読むだけでなく、それに従い、それを自分の信仰と行為の基準としている者は!
「幸せ」には、「物質と心」の関係要素がある。 物質面のみの幸せ、物質に支配された心の幸せ、心のみの幸せ、心に支配された物質の幸せ。
カインが求めた幸せは何だろうか。
人が実行支配できる領域は、宇宙が無限であるとしても、光速度不変によ る限りがある。 永遠の命があったとしても同様。
幸せによる選択と痛みによる選択、失楽園との関係
カネに支配された心 カネを支配する心 食物に支配された心 食物を支配する心 薬に支配された心 薬を支配する心 人に支配された心 人を支配する心 命に支配された心 命を支配する心 飾に支配された心 飾を支配する心 家に支配された心 家を支配する心 神に支配された心 神を支配する心
乏しい記憶から好き勝手に考えてきたが、検め聖書を読むとそれまで見えなかった 部分が多いことに気が付く。 聖書の食べ方が様々あるのはなぜだろう。
神様は一人一人をユニークな存在として造られました。
ユニークとはなんだろうか。
かけがえがない あなたの代わりはないかと
かけがえがない、はアナタのどの成分をいっているのだろう。 時空に在って素粒子の1つとして同じモノはない。 人間の性格・気質も何種類かの要素の組み合わせであり大差はない。 普遍的なユニーク、素粒子の位置が異なる程度のユニーク。 ということは、アナタのユニークとは環境に影響された結果の状態。
自然に在っては神との関係、社会に在っては人との関係、文化との関係。
>>674 >人間の性格・気質も何種類かの要素の組み合わせであり大差はない。
同じ組み合わせは皆無だというこではないかと
クローンは神に反する
人間の性格・気質の配分はそんなに幅はないと思う。性格占いが出来る程に。 そこに同じ組み合わせになりにくい環境の要素に影響されることで人の考える ユニークとなる。 クローンであっても環境により個性がつくのだとおもいます。
人の、容姿・才能・家柄・時代・世相 (環境)
このユニークについて論じ合ったところ、聖書に基き、根源・広範に及ぶ深い テーマであると思った。 痛み・幸せ・ユニーク・人
全てを益となさる神 心の貧しい者は幸いである 悲しむ者は幸いである 何という恵み深い神様でしょう
根本的に経済を変える。というと、マナを手本にするのはどうだろうか。 等しく食べられ、必要以上の蓄積のできない食べ物。これを給与通貨に応用する。 条件によらず皆同じ給与で、有効期限付き。
御国に入るには告白だけで済むのだろうか 罪を清めるには 頑なな魂を悔い改めに導くには何が必要なのだろうか
信じる心
父なる神に対しては感謝の言葉。 子なる神に対しては感謝の行動。 そんな気がする。
「私はキリストを知らない」と言う者には、キリストから「私は貴方を知らない」 と言われる。これが道理。 小さい者に対する、奉公・仕打ちが、知る・知らないを決定付ける一つの要素?
勝ちの住人か負けの住人か、勝ちでも負けでもない住人か。 勝ち組、負け組。 負け犬、勝ち犬? 勝ちでもなく負けでもない犬。お利口な犬。
アダムに帰す中立性はイエスさまの似姿なのかもしれません
688 :
神も仏も名無しさん :2009/02/01(日) 20:33:16 ID:BT6qxiNR
『キリスト教』 (#^.^#)
勝ち・負け、ではない視点は、主人(神)の視点。 この世の勝ち負け→この世の弱肉強食、は、この世の理。 サタンはエバに勝ち負けの要素を教唆。エバは実が美味しそうであったこと もあり手を出してしまう?
知っている・思う・行う 知っている、と、思う、の違いは何か。
「知っている」とは、一端の真理 「思う」とは、神の真理・自分の真理
「知っている」とは、一端の真理 「思う」とは、(神の)摂理の認識・(自分の真理による)摂理の認識
見えないのに「見えている」と言ってしまう、罪の仕組みか。 >692の 自然啓示と神 7・罪人と神 こういう真の捉え方もあるんだな。 神の形を示し表すは形態は一つではないようだ。生物形体としても真がありそう。 自分が考えているのは精神形になるのかな
おいしそうな善悪を知る実の味はどうだったのだろう。 この場合の、(表面的)表現することと、(真実)知ること、の違いは何か。 アダムは創られたエバを表現し、エバを知ったのは園の外である。
なにかとお世話になる栄えていたエジプトは主の園と同様に潤っている。 主なる神の顔を避けたアダム。 その日風の吹く頃→周期? 太陽、月は人が名付け、水、海は神が名付けた? 箱舟を造るとはどういうことか?
見る事、と、聞く事、の違いは何だろうか。
イライラ・焦燥。 自分の持つ時間に対して、不要と判断される事象が関わり入ってくる場合に起こる感覚。
名を付ける、という、限定された言葉の創造行為は何を意味するのか。
人が地に満ちる、という祝福には、呪いの成分は無いと判断した。 呪われているのは土である。土が呪われていなければ人が増えても、その 住む場所に困ることは無いであろう。
憲法9条は、今現在この国に住まうキリスト信徒にとって絶妙な存在だと思う。 先の戦争は自衛戦争。自衛に侵略の要素が有るのは、外に出て行って戦うから。 支配された諸国の中に侵略と映る人がいるのはおかしいことではない。 日本人が全てキリスト信徒になった場合、日本の戦力はゼロにされるべきだろう。 害意ある襲来があった場合にとられる策は、敵の欲するものを差し出す、逃げる の2択だろう。 日本人成人の5〜9割がキリスト信徒となった場合、キリスト教として政権をとる べきではないのだろう。
手に取る、とは。
取って食べてはいけない→触れてもいけない 取って食べなさい
人生とは、鍵の開いた迷路のようなものであるな。 蛇は象徴的に迷路を表していると感じた。
デモ・街宣活動は、市民に許される合法的暴力行為、の要素がある。 なぜこれは存在するのか。 キリストの行ったデモ・街宣活動について。
心に相応しい肉 肉に相応しい心 エデンから出される人に相応しかったのは獣の衣。 地に在る他の衣との差は何か。
手に取る 人の赤ちゃんは霊長類の中でも最も無力な状態で生まれてくる。動けないということは 興味の対象を手に取ることができない。いわば見る(長く見つめる)ということは、手に 取ることの代理の行為としてあるのだろう。手に取って触れたいという欲望を視線で表 すのだ。人は生まれながらに、その意味、価値、可能性、を発見しようとするかのよう に 選好注視法
人が自然に生きるためには、寒さや暑さなどの環境に耐えるための衣類が必要だ。 一年を通して寒くなく、日陰のある地域では、衣類がなくても一義的に生きることが可能。
神様から賜った獣の衣には、生きるための技術→文化、という要素が含まれるのだろう。 地上の技術。エデンの園では動物を食べることもなかったから、衣類は植物を使うしか なかったんだろうな。
人が帯び現す情報の種類 動く心と身体〜性格・装飾の関係
重く動かない心、と身体 行動する心、と身体 心、と重く動かない身体心、と行動する身体
712 :
神も仏も名無しさん :2009/03/19(木) 21:00:06 ID:laVSTYfG
神にとっては、地の物質は物質としての価値しかない、塵は塵でしかない。
反面教師とは、 自分が他人のする悪行を観て善悪を悟り学んべたことにより、その他人の価値を示し た尊称。
教師がキリストであるなら反面教師とされるモノは何だろうか。
反面教師を反面であるとする理由には何があるか。
>>715 キリストが教師なら反面は自分じゃないの?キリストはわたし達の罪を背負った、と言っているのだから。
>>717 これを切り口に「真の自分」が何であるかを考えようと思った。
肉と霊と魂。
>716で人間(の魂)はなぜ変革しなければならないのかと思った次第。
(特定)への悪口 (特定)系圧力の内の、汚いやり口に繋がる、性癖・精神構造・集団性に対する批判。 (特定)圧力に耐えかねた人の、(内的)変革を求めるシュプレヒコール。
社会的関係において、人の生き方には4つの要素がある。 憎まれて生きる 憎んで生きる 感謝されて生きる 感謝して生きる
自由という言葉には、何某かの行動する権利、が含まれているような錯覚がある。
肉体の充足は自身への関与によりなされる。 心の充足は自他への関与によりなされる。
平和を実現する者・平和の大きさについて。
「あなたは高価で貴い」は何かに相対する価値を言っているのだろうか。
4/11に蕨市でカルデロン一家問題に対するデモ活動が行われた。 このデモに対し左翼は「人道無視・人権無視・ファシスト」と騒ぎ、デモに対する抗議活動をしている。 カルデロンの娘ノリコは、蕨市に在住し地元中学校に通っており、この地でのデモがノリコに対する行き 過ぎたイジメであると非難している。 市民団体によるデモは、「かわいそう」のペテンに騙されるな!不法滞在者の国外退去は法治国家の任務 、という横断幕を掲げ、カルデロン擁護をする犯罪助長メディアに対する批判をしている。
ノリコの希望に反し帰国を迫られるのを、かわいそうと思う事は正しい。 「かわいそう」で法を曲げることは正しくない。 この苦しみは、ノリコが帯びるユニークである。
728 :
神も仏も名無しさん :2009/04/29(水) 08:10:48 ID:lgvcfKZr
家に支配された心 家を支配する心 神に支配された心 神を支配する心
日本人の日本国民であるキリスト者はどのようにどのように生きればよいのだろうか。 キリスト者は日本国民でありながら居留者なんだ。我々には住む所が天以外には無い。 どうあっても怨念に巻き込まれる。争は避けられない。
人が周囲から感じ取る情報・量・について考えてみた。
731 :
神も仏も名無しさん :2009/05/02(土) 16:19:42 ID:P551ZAel
人が平然とした野原で佇む時に受ける情報。 人がループコースター(絶叫マシン)に搭乗している時に受ける情報。 人が、人の溢れるライブ会場で受ける情報。 人が大都市を俯瞰できる場所で受ける情報。 これらの差から考察する
>>732 日本人の日本国民です。朝鮮半島が祖国ではないです。
キリスト的立場にあっては真の意味で日本国民ではないのかもしれない。
国とは何か。 人のために国があるのか、国のために人があるのか、人と国の関係を考えてみる。
平然とした野原に佇む場合に認知する取る情報は 見える範囲・聞こえる範囲・目的の範囲、の限られた単調な情報領域。 野原にある要素は太陽・空・土・草花・生物・自身
ちゃんと祖国があるんだから帰らせてあげなさい。
キリスト信徒であっても、その所属する国の法律に遵う。 人間の技である、今の日本の法律での最善の対応は、国に御帰り戴くこと。 と判断しています。 しかし、彼等は道理の通らない理屈で日本の法律を変えようとしています。
キリスト活動は人間から視ると改革派で、神から視ると保守派となる。
御国が来ますように。 まず求めるべきは御国の到来。人の技では平和は実現できない。 キリスト信徒が他人をかわいそうに思うのであれば、人の技ではなく、神の技で助けるべきだ。
740 :
神も仏も名無しさん :2009/05/16(土) 18:15:56 ID:y1d/24Mq
キリスト教に限らず、救いの神(仏)を信じるのであれば、神の技で人を憐れむべきであろう。
人が行う神の技は人の肉体が行う。故にその技が為に戦争が起こる。
無限量から無限量を取っても無限量残る。 無限量から無限を取ると有限量になる。
エデンの園は、園という有限を示しているが、与えられる権能として御子と人との関連を考えると 園(という象徴)に制約された無限量が与えられていると考えられる。
746 :
ココモスキー ◆VAutiIin4w :2009/05/30(土) 00:34:16 ID:NwwASqs1
>>743 >エデンの園は、園という有限を示しているが、与えられる権能として御子と人との関連を考えると
>園(という象徴)に制約された無限量が与えられていると考えられる。
キリスト教徒が勝手に、その様に考えてるだけです。
もともとの神の園エデンは、ダビデ王朝のイスラエルの事ですよ
エゼキエル31章、列王記、イザヤ書など参照の事。
キリスト教徒が如何に勝手に物事を考える人達か判る。
747 :
神も仏も名無しさん :2009/05/30(土) 01:54:21 ID:I8bYAY8N
無割礼のぺリシテ人のごう慢は少年のはなった石つぶてによって粉砕された。 サム17-36 石つぶてとは神の言葉である。
748 :
神も仏も名無しさん :2009/05/30(土) 02:12:32 ID:I8bYAY8N
わたしはサタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。〜敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに与えた。〜あなたがたの名が天に書き記されている事を喜びなさい。〜ルカ10-17〜72人帰ってくる。
是非は兎も角として妄想の続き。 園の恵みに架せられた制約は何か。端的には時間。与えられた物を消費する時間。主の意思。 禁断の木の実を考える糸口になるかな。
無限量的にあるイスラエル人が、高価で貴いとはどういう事だろうか。
イスラエル人はどの様な希少性を有しているのだろうか。
イスラエル人は何と比較されているのか。 神・御子・神の子・天使・サタン・悪霊・死者・他の人・ネピリウム・動物・植物・雀
日本な国土は価値が高い。外国人が住みたがる国である。 大きな理由として、社会インフラの充実。経済的な豊かさ。 国土の価値は国を愛する質量。
>>753 社会インフラの充実はいいけど、だれが維持するんですか。
経済的な豊かさは国土に依存しませんけど。じっさい、日本の領土・領海で
なんか資源が採掘できましたっけ。
人的インフラ、文化的インフラ。
ダイヤモンドが無尽蔵に採掘できる国へ移住しても、そこが何のインフラのない月面だとしたら。 インフラが無いのでダイヤモンドを採るぐらいしかやることは無いから移住したくないが、 ダイヤモンドは魅力的なので採掘して働いて満足したら国へ帰る。
>>755 優秀で教育水準の高い民族は統治しにくいよ。
思索の仔細は省く。 「人間が人間の価値を高める」判断をするのは、聖書を愛する質量。
759 :
神も仏も名無しさん :2009/06/19(金) 19:21:20 ID:2TzHY3s6
人間という関係性において、「人」とは「他人」のことである。 アダムは人である。 アダムの一部から創られたエバは「人」では無く「エバ」。
神からみてアダムは「人」である。
最後の晩餐でキリストが、パンとブドウ酒を体の一部の象徴として弟子に与えている。
婚宴では瓶の水が良いブドウ酒に変わっている。 パンくずがたくさんのパンに増えている。
763 :
神も仏も名無しさん :2009/06/21(日) 19:39:32 ID:yFodBwxj
キリストの再臨は間近なのだろうか?印は「稲光の様」に示されると聞いたのですが・・・
「主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである」 「しかし、水が地下から湧き出て、土の面を全て潤した」 [神]と[主なる神]の二つの影を見ることが出来る箇所である。 水が地下から湧き出ることを決められたのは[神]
善悪を知る実を食べた事により、何が変化し、どの様なプロセスで後の判断事象に繋がったのか。
死の定義が必要だ。
むむ、間違えました。エバと名付けるのは実を食べた後だ。大失態。 考え直そう。
768 :
神も仏も名無しさん :2009/06/26(金) 20:15:50 ID:OQBTU9pn
凡夫の知恵で、ああでもないこうでもないと、いくら主のみことばや、 創世記の内容を理解しようと思っても、畢竟、分かるものではありません。 それどころか、文字上の意味のみで考えれば、聖書自体が誤っていると 言うようになります。 創世記第3章は、最古代の人たちやその教会がテーマになります。 ここでは、エゴ proprium を恋憧れ、愛するようになります。 感覚で把握するもの、自己愛とエゴで把握する以外は、今や何も信じなくなりました。 「ヘビ」は感覚を表象し、「女」は自己愛(エゴの愛)を表象し、「男」は 合理性を表象します。 こうして、ヘビすなわち感覚は、女を説得して、主への信仰にかんする事柄を調べる よう促します。それが「善悪の知識の木から取って食べる」の意味です。 「男も取って食べた」(3-6)は、人の合理性もそれに同意したことを意味します。 ところがかれらは、悪に踏み込んだと感じとりました。それは感知力の残りを意味します。 同時に、「かれらの目が開けた」、「神の音を聞いた」「イチジクの葉をつづり合わせて 腰に巻いた」となり、恥ずかしくなり園の木の中に隠れた(8-9)悪を認めて告白(10-13) するなどによって、自然的な善が残っていたことを知ります。
凡夫なりの追求の仕方があるんですよ。凡夫は物分かりが悪いんです。 高級な鍵の鍵穴を見つけることが難しいのです。
女にエバと名付けた事は善悪を知った故だと考えられる。
園の全ての木の実を食べることが可能である。 生命の実を食べることは許可されている。 知恵の実を食べることは禁止されている。
人が善悪を知る事により、生命の木の実の存在は不安定になった。 何故ここに至るまで人は生命の実に手を伸ばさなかったのか。
アダムは鼻から命の息を吹き入れられて生きる者となったのだが、 これは神の視点であり、当のアダムには生きている認識が無かったのではないだろうか。
知恵が着き、死を間近に感じられるようになった故に、裸を恥じ隠れた。 死、故の生命への執着。これを主は許さない。産みの苦しみを増し、額に汗して青草を得るようにされた。 「痛み」だな。死を覚えることが生命の木を探す動機になる。
神は、生命の木と実の存在を人に伝えていない。 中央にある事は記されているが、隠されているのか、手の届かない高い所に実があるのだろう。 人は死を覚え、防御し、足掻き、更に生き延びる知恵を着けるために知恵の実を刈り尽くし、 最後には生命の実を手に入れるはずだ。
人は産まれながらに罪人なのだろうか。 ここまでの理解から人の幼い頃以前には罪が無い。成長せずに赤子のままならば罪人にならない。
主なる神は言われた。人は我々の一人のように善悪を知る者となった。 これは人に対して言われたのではないようだ。 アダム達との、何らかが同様?、に善悪を知った一人の神の存在が示唆されている。
「我々の」の意図と範囲を考える。
覚悟無く病で死に至る場合、心は体を呪う。 体は心に求め訴える。 死の痛みが入った事により、心と体は分かれた?
この世に、無、はあるのだろうか。無とは何か。
【無】と表現する状態 用意する器に、想定される有るはずの、数値の物が無い状態。
宇宙空間のある真空範囲を指定して、「この空間は無である」と言う場合 、この空間は【一個の無】が在ることになる。
器を測る物が、この【無】の中に在ると言える。 【想定されない器】が在るとすると、それはどの様な器だろうか。
測る物、関与する者。 関与する者の密度変化。稀薄化により、無に近似する? 全くの隔絶は有り得ないが、無に近い物にブラックホール。ブラックホール自体には物が詰まっている。
事実とは何か
786 :
神も仏も名無しさん :2009/08/28(金) 14:47:49 ID:HWPFhi7T
人の、物への愛について。 神と人との違いを考える。
母マリアとニコデモの共通性
物を愛する事の是非、擬人化。 身体の延長である、裂かれる衣類。壁
愛される従順な道具。 金、カネとは何か。
テスト
792 :
神も仏も名無しさん :2009/10/07(水) 14:18:04 ID:F0mphlyn
で パウロとは ラテン語で 小さい 取るに足らない と言う意味なんだそうだ
793 :
神も仏も名無しさん :2009/10/08(木) 08:57:11 ID:KLtY9Jtt
サウロとは 王の名です 使徒 イエスの復活の証言者 とは 神の子イエスが最も惨めに 死んだ様に 神によって取るに足らない者にされること その 捨てられた者が 教会の親石 基礎になる 村上春樹的に言えば 壁たっだものが 卵 にされる サウロは パウロにされることによって 救われた 壁には 救いは無く 救いは 卵に
人が就寝した時にみる夢。預言との係わりで考える。 割と?鮮明に記憶(体験)される夢と記憶されない夢。 思い出そうとすると忘れてしまう夢。 何らかの行動を即す夢。 現実生活での記憶要素と現実生活に関係ない要素である地形の要素。 日常であるテレビを視る夢を見ないのは何故か。 幼少にみる夢。人の妄想する成分。 睡眠時間と夢の量。 記憶の領域と意識の領域。
実感とは何か。 実感でき、た 実感できない
恐怖とは何か
恐怖の前に暴力(狂気)がある。それは人間に備わる本能。 相手を殺すまで止まない究極の交わり。 闇の中に光があるのではなく、光の中に闇がある。 恐怖(狂気)とパニックの違い→闇と混沌の違い、の同義成分は何か
光とは(混沌に)秩序(をもたらすもの)、付価するもの、
隙間への関心。 恐怖と興味、隙間から覗かせる闇と光について。
キリ番ゲト
『人は神の形に似せて創造された』 これは大変な庇護を受けられる可能性を秘めている宣言だと気がついた。
802 :
神も仏も名無しさん :2009/12/26(土) 21:34:22 ID:VX7LEWx2
これがほんとの神スレ
目には目を、歯には歯を 罪を犯す目をえぐり出す の関連について
人を木の要素に譬えると「幹根・枝葉の各細胞」であろう。 同視点でキリストを譬えた場合、「果実」に相当すると考えられる。
キリストを果実に譬えるとしたらイチジク。果実の出来ない木に与えられた果実、イチジク。 結実しない枯らされるべき木に宿った果実。 生命の木の果実(結果)は自身で造るべきものであったのだろうか。 アダム達はイチジクの葉を綴り腰蓑を造ってしまった。
イチジクは無花果。見かけ、花が無く実る。隠れた所にある花により実る。 キリストの降誕も再臨も、隠れた所の花の働きが要なのであろう。 枯れる木に付いた、枯れない木の果実。
再び想う。エデンの園にあった「生命の木と果実」は何だったのだろうか。 知恵をつけたアダム等が生命の木を見つけるのは時間の問題であった。 生命の木を探す動機には「命」を実感する必要がある。
808 :
神も仏も名無しさん :2010/03/28(日) 18:36:45 ID:3a2yKIuT
創世記は、相応と表象で書かれていますので、文字上の意味からではなく 霊的意味によらなければ、神が言われた本当の意味はわかりません。 人間が、肉体と霊魂でなっているように、み言葉(聖書)も、文字上の意味 と霊的な意味でなっています。 (み言葉)で、「エデンの園」とは、庭園のことではなく、理知のこと、 「木」は、樹木ではなく、人間のことです。「生命の木」とは、(人間のうちにある主)、 (主のうちにある人間)のことです。 「善悪と知識の木」とは、主のうちにはなく、エゴのうちにある人間で、 万事を自分の力で、善さえも自分の力で、行うものと信じている人です。 この木からとって「食べる」とは、悪を自分のものとして同化させることです。 その結果、感覚で把握するもの、人知(自己愛とエゴ)で把握するもの意外は、 今や信じなくなりました。 「蛇」は人間の感覚を表象し、「女」は自己愛、すなわちエゴの愛を表象し、 「男」は、人の合理性(理性)を表象します。 こうして、蛇すなわち感覚は、女を説得して、神への信仰にかんする事柄を 調べるように促します。 「男も取って食べた」とは、人の合理性も同意したことを意味します。 アダムが堕落していったとはこのような意味です。
>相応と表象で書かれています 表も裏も同様に霊により語られていると考えてる。 聖書を高く買っているので、創世記は表面的にもおとぎ話ではなく、何らかの事象的事実 であるという前提で探究しているし、「追究できている」と感じてる。
なぜ悪いものが存在するのか。 エデンの園に悪いものが存在するのだろうか。 知恵の木の果実は「悪いもの」なのだろうか。
神様は意地が悪いよね でもゲームとかしてると何でも思い通りに行くのも案外面白くないので 神様もそんな気持ちになったのかも知れないと思ってみたり
思想(価値観)を共有すると、特定の苦楽を共有する事となる。 人の根源的な思想について、失楽園前後の差を考える。
共に、主イエスとヨブは御神の信頼を得ていた。 聖書の言わんとする、隠された違いは何だろうか。 アダムはどの様な信頼をされていたのだろうか。
選ばれた人だけが復活させられるのですか? 選ばれない人も復活させられて裁かれるのですか? イエスが復活について語っているところを読むと、 「生きている者」だけが選ばれて天使のような者として復活すると書いてありますが、 2ちゃんかどこかで聞いた話では、死者が全員墓から復活して裁かれるとのことでした。
815 :
神も仏も名無しさん :2010/08/03(火) 20:24:08 ID:rT6P93hN
>>814 >2ちゃんかどこかで聞いた話では、死者が全員墓から復活して裁かれるとのことでした。
正教会ではそういう感じで死者が復活するようです。
だからお亡くなりになったとき「永眠」(永く眠る)を使います。
『敵を愛し、自分を迫害する者の為に祈りなさい』 これは創造の御業に属する行為ではないだろうか。
カルマ、業。 神の視点から見る、避けられない人の関係性。 聖書で云うと愛であろうか。 精神行動の原動力であり、強弱の幅がある。 創世記でカルマについて描写されている。『人は一人でいるのはよくない』『アダムの選び』
創世記で神と人との関わりが描かれているのだが、他に二種のカルマが読める。 天と地のカルマと、地上のカルマと、天のカルマ。 人から見て、エデンの園を天に属するものとする。
カルマがエゴを加速させる。 平坦であったアダムの自我は、強いカルマであるエバの創造により喚起された。 エバは蛇のエゴに喚起されて実を手にした?エゴというカルマ? カルマとエゴの関係。
820 :
神も仏も名無しさん :2010/10/20(水) 19:37:45 ID:w16B3KQR
善いカルマ、悪いカルマ、当然のカルマ。 善い行動、悪い
善いカルマ、悪いカルマ、当然のカルマ。 善い行動、悪い行動、当然の行動。 キリスト的行動、逆キリスト的行動、見返りある行動。 偽善
無償の愛と無償の悪 これまで無償の愛は理論上のモノであると考えてきたが、考え直すに至った。 これまで無償の悪を考えたくなかったのだ。 人間である故に、全ての行動に善悪が着いてくる事が避けられない。 人間である神の子イエスも同様に避けられない。
善悪を弁えた人間において、無償の愛は無償の悪と共にある。 聖書における無償の悪、有償の悪とは何か。 人の心の声を認知した主、人の鈍さを示唆する主。 次第に深化していく心の悪。
エデンの園にてエバに現れたヘビは何故ヘビに喩えられているのか。
人生の圧迫(否全能)、世の暗黒(謎)に身を包まれ、光明を見たいともがき足掻く。 母胎に喩えると、子宮がエデンの園。産道が追い出された今の住処。
主により産みの苦しみが強くされた事と額に汗をして食べ物を得る事は同じか。 終わりの時前の産みの苦しみ、は光を求めない者、満足している者に光明わ見せるための闇。 主の再臨で、楽園にいた十字架の友、が如く悔い改めた罪人は新たに生まれ落ち 産声と涙を流すのだろう。
聖書は、ヘビのどこを指して野の生き物の内で最も賢いとしているのか。 何故ヘビが喩えだと思うのか 主と人とヘビ以外の生き物が能動的に会話できた様子は描かれていない。
このヘビの全要素が喩えであるとは考えない。 ヘビと喩えられる本体・本質。 ヘビの名称によるイメージ。
平和を実現する者は神の子… 人間観に於いて核兵器(大量破壊兵器)の抑止力に因る平和には満足できない。 抑止力とは何か。
キングコブラの様な一毒必殺の同士争いでは毒牙は使わない。 核兵器では必殺(全体の死)にはならない。又は死なば諸共である。 戦略体系でエラーする畏れがある。 生き延びる為の戦略である故の弱みが不安である。
一発で全人類が確実に死滅する爆弾があった場合、これの存在理由は何か。 人は即全体死は怖れるが部分的な死や致死を怖れない。
全体の怖れと全体の幸福、共通の価値観。 最終最悪の爆弾と宗教(救いの真理)。 キリスト教に全体性がなければ平和は実現できない。
833 :
神も仏も名無しさん :2010/12/31(金) 04:31:04 ID:RH1v0yVD
「美しい」とは、端的に言うと「真理の表れ」である。 美の要素は、有意味→善→整然。 無意味な(と、捉えられる)羅列は美ではない。無意味なノイズは美ではない。 無意味な雑念は美ではない。有意味な雑念は美である。 シンプルなものはシンプルな美である。単純な美→純粋美→清浄→善(悪) 複雑で(と、捉えられる)有意味なものはシンプルな美である。 色即是空、空即是色 無意味な(ただ雑な)ものを美しいと表し用いる事は美の本質を用いた表現ではない。
天地創造の有意味
アダムとエバが実を食べたくなった餓えには、論理を悪用したヘビの要素がある。 実を食べる直前きは、アダム達はヘビになりたい、という心理があった。 制度の悪用
目には目を歯には歯を 地で神を信じる者同士であれば通用する理。 キリスト信徒は天に属するので適用されない。
837 :
神も仏も名無しさん :2011/02/19(土) 18:47:36 ID:4RrEdv4e
ダニエルっていうコテハンのスレはもう立ってないのかね?
世を呪う、世を憎む、とはどういう事か。 アダムの得た知恵について
歌いたい 笑顔のためなら 届けたい どんな時も 目と目が合って 交わす微笑み 中略 『幸せだから 笑うんじゃなくて』 『笑ってるから 幸せになれる』 あなたが笑顔でいられるように みんなが笑顔でいられるように 賜物について
出口・備えある逃げ道・ なぜ出口が有るのか。産まれ出てくるのはなぜか。 園から出たいという要素
841 :
谷口雅宣 :2011/03/24(木) 13:19:33.22 ID:xYPQlLbb
『生命は「生長」するためにある』 生命の生長は毎日行なわれるということを知らなければならない。 それは毎日生長するのだ。 今日発達すべきはずの生長を明日に延ばすならば、 生長はそれだけ遅れる。 一分一秒でも生命の生長をおくらすことをするな。 せっかくきざしている生命のエネルギーを無駄に放散さすな。 世界人類が平和でありますように 日本が平和でありますように 私達の天命が完うされますように 守護霊様有難うございます 守護神様有難うございます 天皇陛下有難うございます
ヘビは二本に割れた舌先を使い、伝わって来た獲物の匂いを感知し、左右の匂いの濃度差で、来た場所を特定する。 創世記のヘビ→サタンであるなら、ヘビは風がどこから来るのか、が判るのだろう。 サタンは風がどこへ行くのかについては判らないのかもしれない。 サタンは水と霊によって産まれたのだろうか。創世記のヘビは何者か。
843 :
五井昌宏 :2011/04/06(水) 12:33:20.08 ID:UCyp83hm
『人は愛によって甦(よみがえ)り、無限の能力を伸ばすことが出来る』 人間は愛によってよみがえるのです。 愛が人間をして本当の人間たらしめるのであります。 愛がない時、人間はイビツに成長する。 それは丁度(ちょうど)石の下にしいられた花のようなものです。 私達がその石をとりのけ、「愛」をふりそそぐならば、 やがて立派な実を結ぶことが出来るのであります。 世界人類が平和でありますように 日本が平和でありますように 私達の天命が完うされますように 守護霊様有難うございます 守護神様有難うございます 天皇陛下有難うございます ー生長の花ー
844 :
五井昌宏 :2011/04/06(水) 17:15:11.07 ID:UCyp83hm
『人は愛によって甦(よみがえ)り、無限の能力を伸ばすことが出来る』 人間は愛によってよみがえるのです。 愛が人間をして本当の人間たらしめるのであります。 愛がない時、人間はイビツに成長する。 それは丁度(ちょうど)石の下にしいられた花のようなものです。 私達がその石をとりのけ、「愛」をふりそそぐならば、 やがて立派な実を結ぶことが出来るのであります。 世界人類が平和でありますように 日本が平和でありますように 私達の天命が完うされますように 守護霊様有難うございます 守護神様有難うございます 天皇陛下有難うございます ー生長の花ー
目の中の丸太→梁→柱に対する横木→くびき→見えないのに見えると言う罪→ 暗闇→光を怖れる→一人闇夜の祈り→入口の岩→求める者には与えられる→ ヨナの三日間→復活の主が解らない仕組み アダムが隠れた事と何が見えるのかについて
人は、『梁』と喩えられる暗闇の中に居る、光を見ようとしない者。 身に降りかかった不幸により光を閉ざす者。 知恵の明るさを頼りにする者。 闇夜より覗き窺い、手をだしたならば力強く引き開けてもらえる者。
はじめに神は天地を創造された 天地→柱(一つの極論) 神は言われた光あれ 言われた光→最初の言葉と光の関係 天地創造の神ならこその自明。混沌に漂う様子は箱船に通じる。 箱船と目の中の梁は、性質が異なるが同じ構造か。この差は何か。
^^
849 :
谷内雅春 :2011/06/01(水) 19:32:58.89 ID:L+3ahFxJ
『あらゆる困難に打ち克(か)つ力を養うことが教育である』 どんな困難にも、打克ち得る力を養うのが教育なのです。 親自身が困難を避けてラクな道を歩もうとするようであれば、 子供は親の心の影であるから、ラクな道を歩んで行こうと 云(い)う心の傾向を持つものなのです。親たる貴方(あなた)自身が、 くらりと転回しなければならないと思います。 世界人類が平和でありますように 日本が平和でありますように 私達の天命が完うされますように 守護霊様有難うございます 守護神様有難うございます 天皇陛下有難うございます
『目の中の梁』では、目の中が液体である事が意図されていると予想できる。 『見えなかったのであれば罪は無かった』 『二人の目は開け、自分達が裸である事を知り、無花果の葉を』 入水自殺を実行するに至るヨナ。
目の中の梁と命の木の実との関連付けについて考える。 蛇無しに、何時から、人が命の木の実を求めるようになったと考えられるか。
知恵と命は神より賜るもの。 「聖書が解りにくい」事の所以は失楽園にあった。この鍵から多くの発見に繋がるだろう。
853 :
黒住忠宗 :2011/07/28(木) 15:59:56.93 ID:fISMoaZr
『如何(いか)なる時も神の御胸(みむね)に抱かれている 』 私たちの周囲の万物はすべて私たちを祝福し、祝福の讃歌を歌って くれていることを、私たちは魂の耳をもって聞くことができるのである。 私たちは、神に祝福され、神に愛され、神の愛に 囲繞(とりま)かれ護(まも)られているのである。 何時(いつ)如何(いか)なる時にも神の護りから 外(はず)れるということはないのである。 世界人類が平和でありますように
然り、然り、否、否 正しいモノは正しい。悪いモノは悪い。 反古する言い訳は悪い所から出てくる。 「然り」としながらも「しかし」、「否」としながらも「しかし」 論理・言葉の悪用→ヘビから受け継いだモノ。
国際宇宙ステーションの存在理由に、宗教的意義は排除されているのだろうか。 バベルの塔と重なる要素が気になる。 人権という権威の無い宗教擬きで、世界秩序を再構築する動きの要素が同様に気になる。
親子である事実ではなく、親である事の意義は何か。 親になる資格。善悪との関係。子に信頼される要素。
良い蔵と悪い蔵。主の蔵と畑。然り否の所とそれ以外の悪い所。
『不思議』についての考察。 『不思議』と『気付き』、隠された要素。
859 :
神も仏も名無しさん :2011/11/05(土) 20:39:23.88 ID:ADAx78PL
『われは光なり、わが向う処暗黒は必ず消える』 私の魂の内には永遠に消えない光が宿っているのである。 それは神から来たれる光である。如何(いか)なる暗黒なる時にも、 その光に照らされて進んで行けば、私たちは決して道に迷うことはない。 すでに神の生命(いのち)の光が私の内に輝き出したのである。 わが全身は生命力にみちあふれ、溌剌(はつらつ)としているのである。 世界人類が平和でありますように
(人の)『肉体』の必然要素を考察。 対する『(神の)仮現体』の必然要素との差異からの考察。
動物は、真理を用いるが、悟らない(→悟らない様に見える故)。 動植物は真理の中に生きるが悟らない。 総体的に、動植物は善でなく悪でもない。 動物が悟らない様に見えるのは、文化的な応用(悪用)が無い為。 悟りと善悪との関係、悟らない事を悟る。茨
とある構造体に因んだ類推。 明るい道→難を避ける道→風の、在る場(通る道)→(揺れる)舟→波(追っ手)