○●Я親鸞仏教質問箱R(その3)●○

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38渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
 このような、親鸞聖人の教えに照らせば「念仏称えよ、そうしたら助かる」「称名念仏はげめ
よ」なんどの教えは、如何に間違っているかゞ判るであろう。若し、このような称名正因の教え
を許すならば、真宗の信心正因の教義は、根本から転覆してしまうのだ。信心正因、称名報恩が、
真宗の正義であるから、念仏は総て信後、報謝の念仏に限るのである。いわば念仏は、信心を親
として生まれる子供であるが、称名念仏さえしていれば助かる、というのは、子供が親を生むと
いう、馬鹿げたことになる。
 我々真宗人は、親鸞聖人の『教行信証』に立ち、覚如上人の『改邪鈔』、蓮如上人の『御文
章』に一貫している信心正因、称名報恩の錦の御旗を、振りかざして進むのである。
 真実、救われる道は、この道一本キリである。これを障げる者は、何者と雖も、容赦なく斬り
捨て、踏み越えて、聖人の真意を開顕してゆくのが我らの聖使命と心得ているものである。

高森氏の提起 論点 
 「この願成就文には、称名念仏の意味が出ていない。だから、『念仏称えたら助かる』と信じ
ているのは、真宗の信心ではない。これは明白である。願成就文では、明らかに、『信ずる一
念』で信心歓喜し、助かるのだと、このように信心正因が打ち出されているのである。」
39渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/07/01(日) 13:01:40 ID:L8KWK8YK
論点 1 「白道燃ゆ」は、この「一念」に、称名念仏の意味が出ていない。
論点 2 「称名念仏」が出ていないから、「念仏称えたら助かる」と信じているのは、真宗の
信心ではない。

 「称名念仏」の意味が親鸞仏教で出ていれば、「白道燃ゆ」の思想の方が転覆する。

 本願願成就の文、経にいはく、あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一
念せん。至心に廻向したまへり。かのくにに生ぜんと願ずれば、すなはち往生をえ、不退転に住
す。ただし、五逆と誹謗正法とをばのぞく。 (岩波文庫「教行信証 信の巻」)

 「おほよそ往相回向の行信について、行にすなはち一念あり。また信に一念あり。行の一念と
言ふは、いはく称名の遍数について、選択易行の至極を顕開す。かるがゆえに大本にのたまはく、
仏、弥勒に語りたまはく、「それ、かの仏の名をきくことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんこ
とあらん。まさに知るべし、この人は大利を得とす。すなはちこれ無上の功徳を具足するなり」
と。已上
  光明寺の和尚は下至一念と云えり。また一声一念と云えり。また専心専念といへり。

 経に乃至と言い、釈に下至と曰えり。乃下そのことばは異なりといえども、その意、これ一な
り。また乃至とは、一多包容のことばなり。専念と云えるは、すなわち一行なり、二行なきこと
をあらはすなり。いま弥勒付嘱の一念はすなわちこれ一声なり、一声すなわちこれ一念なり、一
念すなわちこれ一行なり、一行すなわちこれ正行なり。正行すなわちこれ正業なり、正業すなわ
ちこれ正念なり、正念すなわちこれ念仏なり、すなわちこれ南無阿弥陀仏なり。(岩波文庫「教
行信証 行の巻」)
40渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/07/01(日) 13:03:12 ID:L8KWK8YK
 願成就文の乃至一念とは何か。乃至一念という概念を、善導は下至一念と言ったり、一声一念
と言っている。
 大無量寿経末で、釈迦は願が成就していることを二箇所で述べている。最初は阿難、最後は弥
勒である。阿難に伝え、弥勒に伝えた一念はすなわちこれ一声という意味である。これが一念で
ある。一念すなわちこれ一行なり、一行すなわちこれ正行である。


 信心のひとにおとらじと 疑心自力の行者も 如来大悲の恩をしり 称名念仏はげむべし
     (和讃 親鸞) 

 称名念仏さえしていれば助かるんだ。必ず助かる。そう教えているのが浄土真宗だ。
 
 念仏三昧は、これ真の無上深妙の門なり。〜 王いま座禅してただ当に念仏すべし(行の巻)

 念仏三昧してみなさいな。必ず結果出てくるだろう。


「称名念仏はげめよ」なんどの教えは、如何に間違っているかゞ判るであろう。若し、このよう
な称名正因の教えを許すならば、真宗の信心正因の教義は、根本から転覆してしまう。

 親鸞会の教えは転覆した教え。似非真宗。嘘・。インチキ・デタラメ・外道の教えであるとい
うことがわかるだろう。