293 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :
釈迦仏教論に戻ります。
無明とは何か。知恵がないということだろう。言い換えれば、知恵があれば人は迷わない。再
起・挫折・再起・挫折を繰り返すことはない。
このように言うと、それはおかしいという意見も出る。六道の内、地獄界・餓鬼界・畜生界には
確かに知恵がない。これを三悪道という。しかし、少なくとも人界には知恵がある。十分とは言
えないが、あるか、ないかと言えば知恵はある。人は、知恵を失うと三悪道に転落する。だから
こそ、人は知恵を持たないといけない。三悪道の人が真人間に戻るというのは、知恵があって
始めて可能となる。輪廻の人界に知恵がないというのは言い過ぎではないか。人界だけではな
い、天界にも知恵がある。むしろ天界は圧倒的に豊富な知恵で溢れている。天界は、圧倒的に
豊富な知恵と行動力を持ち、他が真似できない実力で自らの意思を実現する。問題だったのは、
天界・人界さえ輪廻から免れられないという事実ではなかったか。
仏伝によれば、釈迦が悟りを開くと、帝釈天・梵天が直ちに天から下りてきて釈迦に教えを請
う。帝釈天・梵天ともなると、ずば抜けた能力を持つ。帝釈天・梵天などは、どこかで誰かが悟
りを開いたということは、直ちに察知できる。
帝釈天や梵天は、釈迦から何を学ぼうというのか。一介の僧より、帝釈天や梵天の方が遙かに
様々なことを知っている。ずば抜けた行動力もある。その帝釈天や梵天が、釈迦から何を学ぼう
というのか。
294 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/11/10(土) 10:49:10 ID:dPlOSCo5
帝釈天・梵天は釈迦にあらゆる点で勝っていたはずだ。ただし、一点を除いてである。帝釈天
・梵天は、圧倒的に釈迦に勝っていた。しかし一点において釈迦に叶わなかった。この一点によ
って、帝釈天・梵天は釈迦に完全に敗北していた。帝釈天・梵天は釈迦に圧倒的に勝っていたが、
一点において叶わないことがあったため、地にひれ伏して教えを請うことになる。その一点とは
何か。自分は何一つ分かっていないという一点である。
帝釈天・梵天はあらゆることを知っていた。他と比べものにならない圧倒的な実力を持ってい
る。その帝釈天・梵天が、唯一釈迦に叶わなかった点、それは、自分は何も分かってないという
そのことを知らなかったと言うことだろう。この一点で帝釈天・梵天は、釈迦に対し、教えを請
うた。あらゆることを知り、圧倒的な実力を持っているものが持っていない唯一の知、それは無
知の知である。それが釈迦の悟りだったと思う。無知の知が無い。それが無明ということだろう。
釈迦から無知の知を教わった帝釈天・梵天は、その後眷属を引き連れて釈迦の守護神となった。
釈迦の無知の知は、分析論と方法論とを切り分けたということだろうと思う。分析論を悪因悪
果という。方法論を善因善果という。釈迦以前にも知恵はあった。しかし現状分析論と方法論と
の切り分けがない。両者は渾然一体化し、まだら模様化している。これではうまく行くときは成
功するが、やがて必ず行き詰まる。
295 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/11/10(土) 10:52:10 ID:dPlOSCo5
分析論だけではだめであり、相応しい正しい方法論が備わっていなければならない。方法論は、
正しい分析論を合わせよう。釈迦はそういう提案をしている。こういう知恵は、東洋では釈迦が
最初に抱いた。世界にはもう一人いると僕は考えている。それはソクラテスだ。
釈迦とソクラテスは洋の東西でほとんど同時期に誕生し、両者は全く出会うことはなかった。
しかし二人は人類の発展に不可欠の要素をもたらした。釈迦は祇園精舎を建設し、ソクラテスか
らはその弟子であるプラトンが、アカデミヤを建設し、世界の学校の原点になった。二人の共通
点は、教育ということだ。
議論を教育論に飛ばす前に、もう少し釈迦の悟りを考えてみる。ここは親鸞仏教の重要な原点
だからだ。