○●Я親鸞仏教質問箱R(その3)●○

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280渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
 釈迦は少年期、自分が居住する自我の城を抜け出した。すると、そこで赤ん坊の誕生を目撃し
た(再生)。自我の城に戻り、その後また城を抜け出した。そこで病人を目撃した(疲弊)。三
回目に城を抜け出したとき、釈迦は老人を目撃した(彷徨)。四回目に城を抜け出したとき、死
者を目撃した(挫折)。
 自我の城で城壁に囲まれている状態の中では全てが平和に見える。そこでは何も真実が見えな
い。自我の城を出よう。自我の城を出れば真実が見えてくる。人は生老病死を免れることができな
い。人は生死生死を繰り返している。
 有頂天になったかと思ったら、次の瞬間には畜生・餓鬼・地獄の世界を彷徨う。実に悲しいこ
とではないか。大変なことではないか。輪廻を断とうじゃないか。輪廻転生を苦と考え、輪廻転
生の束縛から離れた状態を楽という。釈迦は、自我の城を抜け出したとき、生老病死の現実を目
の当たりに見、出家を決意した。
 苦のような境遇からはなんとか離れたい。そのように思った人は釈迦以前にもいたようだ。城
を出て出家した釈迦は、先人の下を尋ねる。釈迦はまず、阿羅邏迦蘭(アーラーラ・カーラー
マ)仙人の門を叩いた。アーラーラ・カーラーマは無所有処という境地を教えていた。釈迦は、
速やかにその師の教えを体得してその場を去る。
 釈迦はその次に鬱頭藍弗(ウッダカ・ラーマ・プッタ)仙人の門を叩いた。ウッダカ・ラーマ
・プッタは非想非非想処という境地を教えていた。釈迦はこの教えに飽きたらずそこを去り、や
がて一人で坐禅瞑想に向かった。
281渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/02(金) 11:04:15 ID:au9bB8nk
 中村元さんのゴータマ・ブッダを読むと、無所有処も非想非非想処も、共に無色界という境地
に属するという。無所有処とは、所有品も道具も持たないということであるという。中村元さん
といえば、既に故人となったが、自他共に認める原始仏教の大家であり、その主張に非を挟むつ
もりはない。無所有処は無色界であるという考えも古典にきちんと根拠のある定着した考えなの
だろう。ただ、僕は在野の批評家として独自の主張をさせて貰いたい。素人の譫言と思う人は無
視すればいい。 

 人はなぜ輪廻するのか。迷いを起こすのか。それは欲望があるからではないか。欲を捨てれば
いい。欲望を捨てれば間違いを起こすことはない。人はしばしば欲を捨てた理想主義を掲げる。
理想主義は、一気にバラ色の世界を描く。しかし、絵に描いた餅(色界)は腹の足しにならない。
欲を捨てただけでは何の解決もない。
 絵に描いた餅(色界)じゃ解決がない。形があることそれが悪である。こういう主張は理想を
否定する破壊主義(無政府主義)に向かう。形あるものは崩れていく(無色界)。しかし、形あ
るものを崩しても、それだけでは何ら解決がない。
 輪廻(欲)を断とうすればどうすればいいか。理想主義(色界)と破壊主義(無色界)という
二つの主張が生まれるのではないか。アーラーラ・カーラーマは理想主義、ウッダカ・ラーマは
破壊主義を主張していたのではないか。僕はそのように思うのである。
282渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/11/02(金) 11:14:27 ID:au9bB8nk
 アーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマ・プッタの考えは、大乗仏典・ブッダチャリタ
(中央公論社)13巻の方が僕には理解しやすかった。アーラーラ・カーラーマは次から次
へと捨離していく。一切を捨離しなければ完全に目的を達したことにならない(258頁5行目)。
欲を捨てていく理想主義の境地を主張している。

 ウッダカ・ラーマ・プッタは、一切を捨離する無一物の状態を脱し、その彼方にある想念あり、
想念なしの議論を超越していく(259頁4行目)。非想非非想処は想念を持たないことも想念
を持つことも無い。理想主義にはビジョンがある。計画がある。餅を描いた絵がある。これに対
し、非想非非想処は、想念を持たないのではないようだ。つまり、絵に描いただけではだめという
思いはあるようだ。その上で、想念を持つことも無い。想念を持たなければ、実体どころか、絵す
ら描けない。実体(欲)もなく、ビジョン・観念(理想)をもつことすら放棄すれば、人は真空となる。
まさに無政府状態となるのではないだろうか。

 餅を絵に描くだけの理想主義では解決がない。しかし、その絵さえ否定しても解決はない。釈
迦はやがて、輪廻の根本に無明があることを発見し、十二因縁の仮説と、四諦八正道を見いだし
ていく。     (2,3日カキコ不能)