277 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :
人には意思がある。行動がある。
けだものの心でけだものの行為をする者をけだものという。けだものは、欲はあっても全く知
恵がない。知恵のない愚かな欲望に促され、実に知恵のない行動を行う者、これをけだものとい
う。
ライオンでも、満腹になる一瞬がある。その瞬間は行動が止まる。けだものにも休息がある。
行動を停止するときがある。しかし、知恵のない行動に止まることがない愚か者もいる。こうい
う愚か者は、欲望が満たされることがなく、際限なく愚かな行動を連続していく。これを餓鬼と
いう。餓鬼とは、飢えた鬼、飢えた化け物という意味だ。
飢えた鬼にもやがて行動が止まることがある。知恵のない欲望は、紅蓮の炎のように燃えさか
り、その炎は全体が厚い南極の氷に封印され、身動き一つできなくなっている。これを地の獄舎、
地獄という。
人はしばしばけだものとなり、餓鬼となり、地獄にも堕ち、また有頂天となって舞い上がる。
有頂天の時は、全ての物事が期待通りに進行する。有頂天の意思には知恵があり、有頂天の意思
は、実現する行動に妨げがない。意思の知恵はほとんど完璧に実現されていく。しかし、その意
思はなお欲を孕んでおり、やがて欲は知恵の判断を狂わせていく。知恵は現実との狂いを拡大し、
有頂天は必ず持続不可能な時期を迎える。
昨日まで有頂天でいたものが、今日はけだものとなり、あるいは地獄の底で塗炭の苦しみを受
けることもある。馬鹿だっだった。馬鹿だった。自らの行為を心底悔い、真人間になって生まれ
変わることを固く誓った人物が、舌の根も乾かない内に再び餓鬼の手先となり、地獄の底に舞い
戻ることも決して少なくない。
278 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2007/10/28(日) 11:08:02 ID:hlxupyRW
意思と行動が変われば人格が変わる。人格が変わればその節々で古い人格が死に、新たな人格
が誕生する。挫折(死)があり、再起(生)がある。
中途半端に再起(生)すれば、意思は持続していても行動は再起の時の意思の実現に向かわな
くなる。人は彷徨う(病)。行動は惰性で持続していても、再起の時の意思は放棄される。人は
疲弊(老)する。人が、意思も放棄し、行動も放棄すれば、人は挫折する(死)。人はこのよう
にして、生(再起)・老(疲弊)・病(彷徨)・死(挫折)を経験する。中途半端に再起し、中
途半端に挫折する。生(再起)・死(挫折)・生・死を繰り返す。これを迷いという。人は、地
獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天の六つの世界を巡っていく。
今日の私の生老病死は、私の肉体の誕生で始めて発生したものではない。私の肉体の消滅で修
了するものではない。今日の私の生老病死は、過去、無数の人々が繰り返し繰り返し経験してき
た無数の生老病死といささかの相違もない。今日の私の生老病死は、今後も無数の人々が繰り返
していくだろう無数の生老病死といささかの相違もない。実に全く同一の生老病死が、無限の過
去から無限の未来に向かって連続している。今日の私の生老病死は、その無限の過去から無限の
未来に向かって連続している生老病死の単なる一つに過ぎない。これを輪廻という。
釈迦は、このように無限の過去(前世)から、無限の未来(来世)へと、三世に連続する輪廻
の連続を断とうと提案している。輪廻は、現在(現世)でいまここで断てば再び連続することは
ないだろう。釈迦はそう言う。輪廻を断ち、二度と輪廻しなくなったときのことを、釈迦は滅と
呼ぶ。ろうそくの火を吹き消せば、再びどこからか新たな火を持ってこない限り、蝋燭は自力で
火をともすことがない。滅とはろうそくを吹き消した状態であり、これを涅槃という。
輪廻を断とう。仏教とは釈迦のこの提案に賛同し、釈迦がライフワークとして提案した仮説を実践
することを決意した運動体である。