○●Я親鸞仏教質問箱R(その3)●○

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269渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
>>250
> 真宗はどんな教えなのですか。

 真宗とはどんな教えなのか。真宗の教えを知ろうとするなら、その前に釈迦の教えとは何だっ
たのか。そこから考えていくべきだろう。真宗は仏教であり、仏教は釈迦に始まったのだ。

>256
>貧乏で生まれた人は、前世が金持ちだったから?金持ちで生まれた人は前世は貧乏だったから?

 ある者は貧しい家に生まれ、貧しいまま細く短い人生を終えていく人もいる。富の豊かな家に
生まれ、一生、遊んで笑って長く楽しい人生を過ごしていく人もいる。これはなぜなのか。多く
の人が素朴に持つ疑問を釈迦も抱いたようだ。
 釈迦は僕らにある仮説を提起してくれた。仏教とは、釈迦が提起してくれたその仮説に共鳴し、
賛同し、それを学ぼうとする人々の営みであると僕は考える。だからこそ、仏教者とは、困難な
自らの様々な問題解決に、釈迦の仮説を道標として挑戦してみようとする人々の集まりなんだろ
うと僕は考える。釈迦の仮説とは、全ての迷いの根本には無明があるというものだ。仏教には四
万八千の法門があると言われている。仏教には様々な法が説かれている。しかしその根本は一つ
の仮説から生まれている。迷いの根本原因は無明にあったということだ。

 人には様々な可能性がある。明るい可能性もあれば、暗い可能性もある。可能性というのは、
肉体の誕生以後に生じたものばかりではない。可能性は、肉体の誕生以前から将来の様々な
結果を潜在的に孕んでいる。
270渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/10/26(金) 10:13:34 ID:HSADX0Pt
 ある者は富みのある家に生まれた。なぜ富みのある家に生まれたのか。それは、たまたまその
ような家に生まれただけだろう。富みのある家に生まれたからと言って、富のある家に生まれよ
うとしてそのような家に生まれた者など一人もいない。貧しい家に生まれようとして貧しい家に
生まれた者も一人もいない。まさに、偶々あるものは富みのある家に生まれ、別の者は、偶々貧
しい家に生まれた。偶々富のある家に生まれた者も、貧しい家に生まれる可能性があった。偶々
貧しい家に生まれた者も、富のある家に生まれる可能性があったのだ。人々は、可能性の幅とば
らつきの中で、あるものは富のある家に生まれ、ある者は貧しい家に生まれる。
 世の中には富のある者がいる。富を持たない者もいる。そうであれば、たまたま富のある家に
生まれる者もいる。たまたま富のない家に生まれる者もいる。それは当たり前のことではないだ
ろうか。
 富があるということ。あるいは富がないと言うこと。そのことは必ずしも、人間にとって、あ
るいは社会にとって直接大きな問題ではないだろう。富のある者は、富みのある暮らしをすれば
よい。富のないものは、富のないそれなりの生き方をすればよい。人々が解決すべき問題はもっ
と外にある。
 ある者は富みのある家に生まれ、ある者は貧しい家に生まれたように、可能性には常に幅があ
る。ばらつきがある。顕在化している可能性もあれば、潜在的可能性もある。実体的可能性もあ
れば、妄想的可能性もあるだろう。可能性に対しては、取捨可能な選択肢もあり、取捨不可能な
選択肢もある。取捨可能な選択肢はほとんどの場合圧倒的に数が少なく、取捨不可能な選択肢は
膨大である。人々はその中で、一瞬一瞬に誤りのない舵取りが必要となる。この現実に、我々は
どう立ち向かっていくのか。
 僕ら仏教者は、釈迦が立てた問題意識に共鳴し、賛同し、釈迦が立てた仮設を生き方の道標と
して選択する道を選んだ。 釈迦の問題意識とは何だったのか。もう少しこれを考えていこう。