301 :
神も仏も名無しさん:
自分はカトリックなのでそれらの意見には全く賛成できないし、
もし「詭弁」であるとするなら、それを証明するために相当の論拠を必要とすると思うが、
今はそれを求めない。
今気付いたが、
>>1に議論はよそでと書いてあったから。
ただ、質問したいのは、それらの解釈は個人的なものなのか、
それとも統一教会とかイスラムの信徒でそこの解釈なのか、
ぜひ教えて欲しい。
302 :
神も仏も名無しさん:2007/05/05(土) 16:23:38 ID:ObEs0u46
>>301 キリスト教教義にのっとって、納得のいく説明を求めている、ということくらいはわかるでしょ。
キリスト教の教義が間違っている可能性も残しておきます。
こちらの根拠は、イエスが用いた聖書にあります。「そして、聖書が廃れることはありえない。」から。
303 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/05/05(土) 18:07:55 ID:NVFqgJ0a
所属:カトリック 思想:グノーシス系
>>295 そこの聖句について。
神というのは、真理を悟り、この世界で、絶対なる一者に達した者をいい、
その言葉を受け、彼と同じく絶対なる一者に達した者達を神々と呼ぶ。
この世界で神と呼ばれる者は、真理の言葉を受けた、人間達の事であり、
人間である以上一者ではない。だから、神々なのだ。
そこの聖句で、イエスは神々どころか、「父」から世に使わされた。とある。
これは、人間である神々どころか、絶対なる一者から使わされたということであり、
イエスは神々以上であるということになる。
ちなみに預言者とは、神(神々)の言葉を預かる者をいい、真理ではなく、単に神(神々)
の言葉を預かっただけの預言者は、真理を知らなければ、絶対なる一者に到達する事も無い。
真理を悟らない彼らは、他者を導ける事も、できようはずもない。
真理を悟らない彼らは、御国に入ることは出来ない。
うえの聖句を字面のまま解釈するなら、一人称で呼ばれる「神」は、この世界で、
「絶対なる一者」に到達した人間であり、彼から言葉を授かった預言者は、神々と呼ばれる。
この場合、真理の言葉を授かったのではなく、単に神から言葉を預かった人間の事を、神々と呼ぶ。
でもかまわないだろう。その中で、真理を授かり、真理を悟る預言者は、もはや神々ではなく、
神であり、神は、絶対なる一者に到達した者であるから、もはや父と同じとも言え、
彼と等しい境地に達した者は父の子と呼ばれ、神の子とも呼ばれる。
イエスの言う「天の父」とは、この絶対なる一者のことをいい、
そして我々は、彼に似せて創造されたが、自らを善と悪とに識別した、人間である。
天の父は、これら善と悪を超越した存在。彼は、完全な「人」である。
神も悪魔も、人が造ったものだ。そして我々は、自らを善と悪とに識別した、人間である。
303
イエスは、「父から【聖なる者】とされて世に遣わされたわたしが」
と言っているが、イエスはただの【聖者】(人)である。終
305 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/05/05(土) 18:17:11 ID:NVFqgJ0a
皆さん回答してくれるのはありがたいが、
自分の立場を、わたしや、ココモスキー氏のように、表明してから
回答していただけないだろうか?
別に回答者は、仏教徒でもかまわないし、他の異教徒でもかまわない。
もちろん無神論者でもかまわない。教会に通っているから正しいとも限らないし、
彼らが間違っているとも限らない。ただ、自分達の意見を言う前に、
自分達の立場を表明していただければ、読むほうは、混乱せずに済み、
どこかの教会に属している人なら、自分の宗派を名乗り回答していただけると、
あらたに教会員になろうと思っている人の、教会選びに、それらの意見が、参考にもなる。
あとできれば、キリスト教に否定派の人は、否定派だと、表明してから回答していただけると、
ありがたいんですがね〜。
では仕事落ち。
306 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/05/05(土) 18:18:06 ID:NVFqgJ0a
>>304 君は私の言っている事を、全く理解していない(苦笑)
307 :
神も仏も名無しさん:2007/05/05(土) 18:30:30 ID:hhNbuy3R
>303
>神も悪魔も、人が造ったものだ。
聖書は、そういう主張をしていない。
>>306 「あなたたちは神々なのか
皆、いと高き方の子らなのか」と。
神から遣わされた「神の子ら」=「神々」
神の子供だから神なんですよ。イエスもダビデも。エロヒムですから。
309 :
ココモスキー ◆VAutiIin4w :2007/05/05(土) 19:27:52 ID:1CtQffRC
無所属:イスラム派
>>308 >「あなたたちは神々なのか皆、(いと高き方)の(子ら)なのか」と。
これは、ユダヤ教ができる前の、カァナン神話の名残なんですよ...
申命記32/8
”(いと高き神)が国々に嗣業の土地を分け、人の子らを割りふられたとき”
”(神の子ら)の数に従い、国々の境を設けられた。”
詳しくは
http://www.mars.dti.ne.jp/~fenot/jesus/cr_yhwh.html あたりを参照して欲しいんだけど、手短に説明すると
いと高き神(至高神エル)は、カァナン神話における、神々の父と言う
設定で、その子らがバール等の諸部族の神様(YHWHも含まれる)です。
詩篇における至高神エルの子らが、人間に成り下がって死んでいく様は
創世記の6章などにある、諸部族の祖の事です。
(この辺はどういう経緯でそうなったのかは判明していない。)
それで、イエスはもちろん違いますし、ダビデも預言者達も違います。
キリスト教会の考え方はテンテンバラバラでいい加減だし
お決まりのイエス・キリストに無理やりコネつける教義なので、この場合
無視しますが、ユダヤ教の時期の後半(BC2世紀)以降、神の子らの
定義がだんだん曖昧になってきて、「神の子ら」−>「神の子」で
「純粋なユダヤ人」の意味か、「預言者」の意味を持つようになってる様です。
それで、マタイ教会がなぜ詩篇から引用したかですが、マタイの旧約からの
引用は残念ながら、殆ど脈絡がない場合が多く、ユダヤ人に評判の悪い
イエス様を何とか、純粋なユダヤ人であり、ユダヤ教の継承であるかの様に
PRしてるだけじゃないかと思います。
>>307 聖書は喩えで書かれています。類推もできず、
聖書の文言の通りにしか解釈出来ない人に、
聖書の喩えを理解するのは土台無理な話しです。
因みに、カラスさんの、神も悪魔も、人が造ったものだという主張は、
聖書にははっきり書かれていませんが、グノーシス系の文書には、
そのような記述はあるようです。
ところであなた、あなたの言う聖書の中で、イエスは自分の事を、
なんて呼んでいますか?あなたに答えられますか?
311 :
神も仏も名無しさん:2007/05/05(土) 19:54:15 ID:hhNbuy3R
>310
>310、おまえが間違っている。
312 :
神も仏も名無しさん:2007/05/05(土) 19:55:04 ID:hhNbuy3R
>310
モーセに啓示した、神の名を示されている。
>>312 だから新約聖書で、イエスは、自身のことを、
なんて呼んでいたのか聞いているんですよ。答えられないのですか?
314 :
神も仏も名無しさん:2007/05/05(土) 20:55:41 ID:tokW0+UB
ルーテルってすごい損してるよね。リベラル宗派なのに、自称福音派(あくまでカトリックと違うプロテスタントという意味)と公言してるらしい。別の意味のアンチリベラル派の原理危険宗派の福音派と誤解されてるよ。
315 :
神も仏も名無しさん:2007/05/05(土) 20:59:08 ID:tokW0+UB
スレ違いごめんなさい。福音派はキリスト教じゃないスレと勘違いしました。
316 :
うきゃん君 ◆DV4hb.MG/U :2007/05/05(土) 21:00:07 ID:hxhR3Q9G
318 :
神も仏も名無しさん:2007/05/05(土) 22:24:34 ID:IuyHJ6/a
>313
食事、風呂、で席をはずし、ゆっくりしてた。
>312に書いたことは、ヨハネ8:24、ヨハネ8:58にある。
これは、出エジプト3:14でモーセに啓示された神の名。
わたしはあるという者である、との自己認識を主イエスは示された。
また、神の子であり、キリストであるとの自己認識も示されている。
(マタイ 26:63-64、ルカ 22:70、ルカ24:25-27、ルカ24:44-49、ヨハネ 5:25、ヨハネ 10:36、ヨハネ 11:4)
多くの箇所で神を父と呼び、自身を人の子とも呼び、人としての身体を持たれ受肉されていることも示されている。
たとえによる教えを含め、良き羊飼い、門、道、真理、いのち、パンなど多様な表現をもされている。
主イエスのたとえによる自己表現の中には旧約のメシア預言と通じる表現が多々ある。
>>317 どうしてそんな意地悪な言い方するの?
読んでて、悲しくなりました。
>>319 たぶん、うきゃん君の答えが期待どおりじゃなかったからスネてるんじゃないですか?
321 :
ココモスキー ◆VAutiIin4w :2007/05/06(日) 01:22:03 ID:qgkb9exj
>>318 >また、神の子であり、キリストであるとの自己認識も示されている。
>(マタイ 26:63-64、ルカ 22:70、ルカ24:25-27、ルカ24:44-49、ヨハネ 5:25、ヨハネ 10:36、ヨハネ 11:4)
>多くの箇所で神を父と呼び、自身を人の子とも呼び、人としての身体を持たれ受肉されていることも示されている。
この辺を調べた事があるけど、殆どが3〜5世紀の改竄だと思います。
322 :
ココモスキー ◆VAutiIin4w :2007/05/06(日) 01:48:28 ID:qgkb9exj
>>318 >「わたしはあるという者」である、との自己認識を主イエスは示された。
なんで、これがもっと前のマルコやマタイになくて、イエスが死んでから
60年以上後で、しかもユダヤ国家が崩壊した後の
ヨハネ福音書に書かれてるかと言う事に疑問を持たないんですか?
本当にイエスが主張した事なら何でマルコにないんですか?
なんでパウロがそんな重要な事を聞いてないんですか?
これは、60年(「私はある」を書いたのは80年位後或いは
もっと後の編者)以上後のヨハネの編者になって、初めて出て
きた主張なんですよ
ヘブライ語で「私はある」を口にするのは、現代でもご法度です。
ヨハネ福音書の編者が敢えて、コイネ語だと思いますが「私はある」
を書いたのは、大変な覚悟の上なんですね...それで多分ユダヤ人
達と大変な問題になったと思います。(ユダヤ人にとってはご禁制の
言葉なので)....あまりくどくどと書きたくないんだけど
そこがヨハネ福音書のすごさなんだけどね...
323 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/05/06(日) 02:57:09 ID:QhTNwz4z
所属:カトリック 思想:グノーシス系
>イエスは彼らに言われた。「あなたたちは下のものに属しているが、
>わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、
>わたしはこの世に属していない。 だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、
>わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、
>あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」〜ヨハネ8:23〜24
ここは非常に仏教的な表現である。
ここで下と表現されているこの世界は縁起で成り立つ、
無自性なものであり、何一つ恒常普遍のものは無い、無常なものである。
この世界に、『私は在る』という存在は無く、(一切法無我)
『私は在る』とは、上の者に属している(一切以外)、者だということを言っている。
そして自らの罪により、下(この世)に属している我々は、
自らの罪により、死ぬことになると言っている。
これは原罪の本当の意味を悟る人には、よく理解できる道理であり、この聖句は
非常に良く出来た、喩えであることに気付くだろう。
盲人達は、ただ、字面を追って、文字通りの理解しかできない。
彼らに、聖書の筆者達が本当に伝えたかったメッセージを読み解く事はできないし、
彼らに、本当のキリスト教を理解するのは無理だと思う。
イエスは、「わたしは真理について証しをするために生まれ、
そのためにこの世に来た。」と言っている。
既存の宗教を伝えに来たのではない。真理に属する人は皆、彼の声を聞く。
だが真理に属さない者は、決して聞こうとしないだろう。彼らは豚(獣)のままである。
塵から生まれた者は、塵に帰るだけなのだ。獣は生きない。
324 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/05/06(日) 03:09:24 ID:QhTNwz4z
ここで誤解してはいけないのは、
あの世の事を言っているのではない。
内側の話をしている。外があれば内があり、内があるから外がある。
これらは表裏一体なのだ。皆が思っているような、あの世だの、
天国、地獄と言うようなものは無い。
あるのは外側と、内側である。つまり、一切以外は無いのだ。
面前にあるものを認識したとき、あなたは御国を見出すだろう。
我々は子宮を外側に向けているが、内側に向けたとき、
再び元の花婿と結ばれ、一つの命となるだろう。
325 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/05/06(日) 03:32:42 ID:QhTNwz4z
所属:カトリック 思想:グノーシス系
イエスは自らを、『人の子』と、呼んだ。
私は在る。私は在りて在る者。というのは、あくまで
その者の有様を言っているわけで、名前ではない。これを名前だと言うものは、
全て誤謬している。
イエスが父と呼んだ、絶対なる一者とは、名前の無いものだ。
なぜなら名前は識別するものであり、識別されたものは全て相対で成り立つ
ものであり、それは絶対では無くなるからだ。あるのは子の名前だけである。
なぜなら父に似せて創造された子は、父と同一であるからである。
なぜなら完全な者が、自分に似せて創造された者であるから、子も完全なものである。
完全であれば、相対する者は無く、相対するものが無ければ、彼らは絶対であり、
絶対であるからには、彼らは一つである。
父は子に名前を与えた。名前を与えたというのは、父の御心(ハート)である。
名前は「言」によって成り、「言」によって成り立たない名前は、何一つ無い。
父と、その御心(ハート)。これもまた一つである。父の御心とは、聖霊とも呼ばれる。
彼女は子を生んだ。彼女は ”他者” と交わる事の無い、処女である。
なぜなら父の御心である彼女は、父と一つであるから、他者と交わることはない。
父と聖なる母は、子に名前を与えた。子の名は、父の名となる。
なぜなら二人は一つだからである。
子とは、父に似せて創造された者である。父に似せて創造されたものの名。
その名は、『人』という。
326 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/05/06(日) 03:41:38 ID:QhTNwz4z
マリア崇敬は、聖霊に対するイミテーション。
肉の母マリアには、さして重要でもないし、崇敬の対象にもならない。
マリアの処女受胎は、『人の子』は、処女から生まれたと言う話の喩え。
ほら、聖書にも書いてるだろ。彼は、聖霊により生まれたってさ。
マリアの処女受胎の喩えを悟る者は、幸いだ。
そして、自分が何者かを悟る者は、幸いである。
327 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/05/06(日) 05:03:54 ID:QhTNwz4z
中道について。
人は睡眠が無ければ生きていけない。
では熟睡しているときに、その人の意識は無いのだろうか?在るのだろうか?
それは在るともいえるし、無いとも言える。
なぜなら完全に無いものとするなら、彼は再び目覚めることは無いからだ。
でも意識活動の無い熟睡状態の時は、彼の意識は無いとも言える。
一切、つまり五感から知覚できる世界、この世界は無常であり、実体といえる我というものは無い。
恒常不変の実体といえるものは、この一切以外にある。
なぜなら相対で成り立つこの世界に絶対と言うものはないからである。
それは内側にあり、内側があるから、外側の五感からの認識があるものである。
また五感からの認識を止滅させるのも、この内側である。
一切とは五感から得られる内側が認識するものであり、それは外側ともいえるし、
内側であるともいえる。
328 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/05/06(日) 05:06:57 ID:QhTNwz4z
>彼らがあなたがたに[あなたがた
>の中にあるあなたがたの父の徴は何か]と尋ねるならば、
>[それは運動と休息である]と彼らに言いなさい”。〜トマス
>>327 続き
安息日とは全て停止した状態の事である。これは涅槃とも言われる。永遠とはそこに在る。
だがこれも、形あるものはなく、全てが停止した状態なので、在るともいえるし、無いともいえる。
これらを在ると言い切れば、断見になり、無いと言い切れば、常見になる。
熟睡の例を出したが、それは正確に言うと、在るとも言えるし、無いとも言えるものだ。
外側が在るから内側があり、”それ” は一切にあるともいえるし、一切には無いともいえる。
なぜなら外側があるから、内側があるからである。
中道とはそういうことだ。だがjこの表現は、皆に誤解を招きやすく、邪見を多く生むだろう。
ついでにいうと、”それ” は言葉では正確には言い表せないものである。
なぜなら、「善」があれば「悪」があるように、「絶対」と言う言葉は「相対」という言葉があれば
成り立つものであり、言葉は相対を生むものであるから、「絶対」とは、言葉では正確に言い表せないものである。
それは「一」についてもおなじことである。それを「一」と表現すれば、「他」という相対する言葉が生まれ。
「他」があればこそ、「一」も存在するからである。
と知るべし。このことを踏まえたうえで、それはあるでもなし、ないでもなしと、中道的な、難解で、
他人を煙に巻いた表現で言い表さなくとも、イエスのようなわかりやすい言葉で、”表現” すればいいのである。
そしてこの意味を悟る者は、ヨハネの福音書の冒頭部分の意味を悟るだろう。
「言は」識別するものであり、この世界は相対で成り立つ世界である。そして「言」は、”人” の心にある。
心は外側の内側にあり、内側が在るから外側があり、外側があるから内側がある。
全ては表裏一体であり、二つに見えているものは実は一つであり、存在するのは言葉で表現すると、「一」だけである。
329 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/05/06(日) 05:15:41 ID:QhTNwz4z
いかん、少し酔っ払って何書いてるのかわからんようになってきた。
スレ違いの内容なら失礼。
しかしここで、質問に答えても、豚に真珠を投げているだけのような気がして、
なにげに空しい気分になる。
復活とは、元から在った自分自身を、再び受け取る事だ。
肉の復活などない。
兄弟よ。肉の復活なんてのは無いよ。残念だったね。
肉の復活を待ち望む者は、単に今の自分。自我を愛していることに他ならない。
自我を形成する、今の自分とはどういう存在なのかも知らないで、気の毒な人達だ。
自我を愛する者は生きない。死人のままだ。
もう寝るわ。お休み、アホ共。
いくら勉強して知恵つけても
こんな性格になったんじゃ元も子もないなあ
331 :
うきゃん君 ◆DV4hb.MG/U :2007/05/06(日) 08:07:38 ID:YQnz8iGS
神の言葉を利用して他人にアホバカ呼ばわりするなんて、世の中にこれより醜悪なものは無いと思うよ。
332 :
神も仏も名無しさん:2007/05/06(日) 10:25:45 ID:TvC+Q7sl
>>309 なるほど。どう考えても聖書は多神教。
父なる神エリ(創造主)と、その子である預言者エロヒムたち(各国天皇)
は別人。
一神教徒はエリよりも一神教徒の主「先祖ヤハウェ」に服従するようだ。
しかしキリスト教では、
父エリと、その子である預言者イエスと、信者自身の背後霊との
共同作業による信仰生活を提唱している。
333 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/05/06(日) 12:10:22 ID:QhTNwz4z
>彼の弟子たちは彼に言った。”24人の預言者がイスラエルの中で語りました。
>そして、彼らのすべてのがあなたにあって語りました”。彼は彼らに言われた。
>”あなたがたはあなたがたの面前で生きている者を捨て、死んでいる者たちについて語った”。
〜トマス
イエスと他の預言者達を同列に扱っているものは愚かだ。
これは、釈迦と、その辺の凡夫を、同列に扱っているのに等しい。
イエスは真理に達した人であり、釈迦も同じくである。彼らはもはや死人ではない。
一方、モーセや、ムハンマドなどの、他の預言者は、単に神の言葉を預かっただけであり、
彼らは真理を悟っていない。それは彼らの残した言行録、生き様をみれば
明らかである。彼らは生きない。死人のままである。
神と呼ばれる者には、限界がある。だが真理に達した彼は、もはや死人ではなく、生きるだろう。
根源は、善と悪、神と悪魔。それらを超えている存在なのだ。
面前にあるものを認識せよ。
そうすれば、今まで隠されていたものは全て明らかになり、あなたは天地万物を支配するだろう。
334 :
NURSE蟻の町のマリア宮崎希美 ◆55nynIr58w :2007/05/06(日) 12:10:23 ID:9bmotcjX
>>305 所属:2ちゃん病院・医者板
思想:2ちゃん心と宗教板
335 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/05/06(日) 12:46:13 ID:QhTNwz4z
ま、ムハンマドや、モーゼに言葉を預けた彼らが神と呼ぶものは
グノーシスで言うところの、アルコーンでしかないけどな。
彼らの神は、己のエゴである。
神も悪魔も、自分の内にあると知るべし。
>>334 あなたの笑顔で、病める人に癒しと安らぎを与えてくださいね
337 :
神も仏も名無しさん:2007/05/06(日) 14:12:45 ID:TvC+Q7sl
もしもココモスキー氏が言われるように、『神々』(エロヒム)がただの先祖のことだったら
マタイ10のイエスは詭弁。
もしもイエスは詭弁など言っていないと主張するならば、『神々』とは預言者だ、ということになる。
最初に国境の元となったヤハウェたち神々もまた預言者でもあったと思われるし、
イエスやダビデと同じく神から派遣されたものは、だから神々とされている預言者(エロヒム)。
338 :
神も仏も名無しさん:2007/05/06(日) 17:44:36 ID:OQxdFMde
天草四郎はどうしてサーカスみたいな格好なんですか
>>336 はぁ〜ぃ♪笑顔で親切ぅ〜♪
(^O^)v
340 :
ココモスキー ◆VAutiIin4w :2007/05/06(日) 19:44:43 ID:qgkb9exj
>>338 >天草四郎はどうしてサーカスみたいな格好なんですか
ネットで調べてみたけど、原城跡にある益田四郎の像は当時の
普通の武士の格好ですが...アニメか何かの天草四郎なら
そのアニメを製作している人がフィクションしたものですよ...
ナザレ村のイエスと同じで、殆ど資料らしき物がないので、イマジ
ネーションの好きな人が好きな様に創作してるんだと思いますよ
341 :
ルー:2007/05/06(日) 20:16:36 ID:1s44GWcr
質問なんですが、ユダヤ教徒のタルムード「口伝律法」は旧約聖書とは違うのでしょうか?
wikipediaで調べたらこんなことが書かれてました。
現代のユダヤ教の主要教派のほとんどが聖典として認めており、ユダヤ教徒の生活、信仰の
基となっているといわれている。ただし、聖典として認められるのは、あくまでヘブライ語
で記述されたもののみであり、他の言語に翻訳されたものについては、意味を正確に伝えて
いない可能性があるとして、聖典とはみなされない。
342 :
我羅捨:2007/05/06(日) 20:18:40 ID:f0jkUhBt
所属 : この世(自分)
思想 : 混沌
カラスさんへ質問
原始仏教スレはお世話になりました。
カラスさんは元々はカトリックの影響を受けているんですよね?最初からグノーシス派というわけではないと思うんですが。
私は、仏教徒でもなくキリスト教徒でもなく、かといって、仏教もキリスト教も否定する者でもありません。
むしろ、その両者の共通部分が「真理」であると思っています。共通部分とは、それぞれに独特の言い回し
(言葉による表現)は違っても「核心部分」は同じということです。
ただ、その「真理」を求めるために、仏教、キリスト教、いずれから入るにしてもそれは各自の「好み」の違いだと思います。
前置きが長くなりましたが、現在のカトリック教会でカラスさんのような聖書解釈をしている教会、
または司祭というのはいるものなのでしょうか?
個人的には、プロテスタントは聖書を各人(各派)がそれぞれに都合よく解釈しているようで統一がないように思います。
また、神というものが自分の外部にあるものとして捉えています。(カトリック信者の多くもそうかもしれませんが。)
あちらのスレで、カラスさんのキリスト教(聖書)の本質についての説明を聞いて、
もし、既存のカトリック教会がそこまで「本質的なこと」を教えてくれるのなら勉強しに行って見たいんですが。
343 :
蟻の町のマリア宮崎希美 ◆55nynIr58w :2007/05/06(日) 20:50:33 ID:9bmotcjX
所属:病院・医者板
思想:心と宗教板
>>341 トーラーなどは旧約聖書だけど、タルムードやミシュナーは、ラビに伝えられた口伝。
344 :
ココモスキー ◆VAutiIin4w :2007/05/06(日) 21:13:18 ID:qgkb9exj
345 :
神も仏も名無しさん:2007/05/06(日) 21:22:02 ID:QfI2RjRO
静岡県浜松市、ハレルヤコミュニティーチャーチ(HCC)浜松教会の主任牧師、榊山清志。
彼がその他にもいくつも抱えている訴訟の日程が静岡地裁浜松支部・民事部にてわかったのでご紹介しておきたい。
だれでも自由にこれら口頭弁論や訴訟の様子を傍聴することができる。憲法で定められた公開裁判の原則による。
榊山らから暴行、傷害行為を受けたとして被害者とされる元信徒たちが榊山らを訴え、
そしてまた、反対に榊山らが「名誉毀損」として逆提訴したことで2つの裁判を併合して行なっているのが
ゆうきの会 vs ハレルヤコミュニティーチャーチ(HCC)裁判
であるが、今回、榊山清志ら本人も法廷に足を運び、証人尋問が予定。
原告と被告とが、被害者側、榊山・HCC側とで相互に入れ替わるが、「傷害事件」と「名誉毀損事件」とについての尋問。
5月14日 月曜 13時10分〜
静岡地裁・浜松支部 (浜松駅北口 歩8分)
主な出廷人物、証人ら:
榊山清志 (HCC浜松教会牧師) 他、HCCの関係 穐近祈 (イエス福音教団牧師)
346 :
我羅捨:2007/05/06(日) 21:30:15 ID:f0jkUhBt
所属 : この世(自分)
思想 : 混沌
>>344 お調べいただき、ありがとうございます。(すみません、リンク先が開きませんでしたが・・・・。)
いきなりカトリック教会に「神は自分の内部にある。」とかいったら、門前払いされそうなので、
予備知識を得てからと思いカラスさんに質問しました。
347 :
我羅捨:2007/05/06(日) 21:31:04 ID:f0jkUhBt
所属 : この世(自分)
思想 : 混沌
再び、カラスさんへ
>>246で“永遠の命とは何の喩えか?”とどなたかに訊ねられていますが、私の解釈はこうです。
永遠の命とは、仏教でいうなら涅槃、涅槃とは静寂(悟り)=迷いのない安楽の境地かと思います。
迷いのない安楽の境地とは、自分の「本質」で生きらる(生かされる)状態。
それは、「1」になった状態。外部と内部の区別(差)がない状態。
自分の無意識が解放される(自覚する)状態。
ん〜、旨く説明できませんが・・・・・・・・・・。
間違いを指摘していただくと同時に、「永遠の命」の喩えの意味を教えていただければ幸いです。
348 :
ダニエル ◆o31oshrvYE :2007/05/06(日) 22:06:05 ID:L6uo0+/J
>>341 >質問なんですが、ユダヤ教徒のタルムード「口伝律法」は旧約聖書とは違うのでしょうか?
>wikipediaで調べたらこんなことが書かれてました。
タルムードと口伝律法とは別のものですよ。
口伝律法というのは、口伝のトーラーのことです。
トーラーというのは、モーセ五書といいまして、
「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」の総称です。
349 :
ダニエル ◆o31oshrvYE :2007/05/06(日) 22:08:34 ID:L6uo0+/J
トーラー(モーセ五書)とは、ユダヤ人がバビロニアに捕囚されていた時代、
信仰によりひとつにまとまっている必要により、記述されたものです。
これに対して、「口伝のトーラー」とは、聖書として記述されないまま
口伝えでユダヤ人に伝わっていた教えのことです。
トーラーも、この「口伝のトーラー」も、モーセが神から授かったものと
されています。
350 :
ダニエル ◆o31oshrvYE :2007/05/06(日) 22:10:39 ID:L6uo0+/J
このトーラーを、日本語の聖書では『律法』と訳していますが、
これはあまり良い訳ではないと思われます。
新約聖書で『律法と預言者』という言い方があるのですが、
これは、トーラーと、預言書(イザヤ書、ダニエル書など)を
総称した言い方です。
351 :
ルー:2007/05/06(日) 22:14:12 ID:1s44GWcr
>>343 という事は、タルムードやミシュナーはトーラー(旧約聖書)とは内容が違うという事
ですか?
旧約聖書と偽典、外典は死海文書の一部ではあるが、タルムードやミシュナーはサドガイ派が作ったという事ですか?
ファリサイ派に関しては、時の律法学者が規範としているモーセ五書を頑なに守っていてタルムードやミシュナーは
認めていないという事ですか?
352 :
ダニエル ◆o31oshrvYE :2007/05/06(日) 22:14:59 ID:L6uo0+/J
「タルムード」というのは、それよりずっと年代が新しいものです。
イエスキリスト以降、エルサレムの第二神殿がローマによって滅ぼされ、
ユダヤ教ファリサイ派の人たちは「口伝のトーラー」を喪失してしまう
危機感を感じて、これを書き残すことにしたのです。
これが、「ミシュナ」です。
そして、この「ミシュナ」について、ユダヤ教のラビ(学者)たちの
見解や解釈が「ゲマラ」というものです。
タルムードとは、「ミシュナ」と「ゲマラ」をひとつにまとめたものです。
353 :
ダニエル ◆o31oshrvYE :2007/05/06(日) 22:18:49 ID:L6uo0+/J
>>351 >という事は、タルムードやミシュナーはトーラー(旧約聖書)とは内容が違うという事
ですか?
もちろん違います。
>旧約聖書と偽典、外典は死海文書の一部ではあるが、
>タルムードやミシュナーはサドガイ派が作ったという事ですか?
え〜、申し訳ないのですが、それは全く違います。。。
タルムードやミシュナーはファリサイ派が作成したのです。
サドカイ派というのは、第二神殿崩壊以降に滅びましたから。
354 :
ダニエル ◆o31oshrvYE :2007/05/06(日) 22:21:44 ID:L6uo0+/J
サドカイ派という人たちは、神殿を中心とした祭司職を
おこなっていた人たちです。ですから、神殿が崩壊すると自然に
崩壊していったのです。
ファリサイ派という人たちは、学者のような人たちであって
トーラ−についての解釈や学説をあれこれとまとめていた人たちです。
これが多くの場合、人間的な解釈になっていたため、イエスに批判されて
いたことは、新約聖書にもはっきりと書かれています。
355 :
ルー:2007/05/06(日) 22:24:27 ID:1s44GWcr
>>353 ではサドガイ派は何を経典としてたのですか?
356 :
蟻の町のマリア宮崎希美 ◆55nynIr58w :2007/05/06(日) 22:26:08 ID:9bmotcjX
357 :
ダニエル ◆o31oshrvYE :2007/05/06(日) 22:26:40 ID:L6uo0+/J
>>341 >現代のユダヤ教の主要教派のほとんどが聖典として認めており、ユダヤ教徒の生活、信仰の
>基となっているといわれている。ただし、聖典として認められるのは、あくまでヘブライ語
>で記述されたもののみであり、他の言語に翻訳されたものについては、意味を正確に伝えて
>いない可能性があるとして、聖典とはみなされない。
この解説は深いです。色々と説明したいところではあります。
もし興味がありましたら、メシアニック・ジューのスレッドに来てください。
ちなみに、タルムードをさして重要とは認めないユダヤ教の宗派もあります。
358 :
ダニエル ◆o31oshrvYE :2007/05/06(日) 22:28:57 ID:L6uo0+/J
>>355 >ではサドガイ派は何を経典としてたのですか?
サドカイ派というのは、神殿に依存して生活していました。
その思想は、超現実主義であって、来世なども信じないものであり
もちろん復活についても信仰がありませんでした。
彼らが求めていたのは現実生活の向上です。そしてお金です。
359 :
ルー:2007/05/06(日) 22:32:01 ID:1s44GWcr
>>358 ということは信仰を傘に権力に走ったという事ですね。
360 :
ダニエル ◆o31oshrvYE :2007/05/06(日) 22:35:10 ID:L6uo0+/J
まあ、サドカイ派が権力志向だったのは間違いないです。
彼らはローマともうまくやっていたようです。
イエスの死刑を命じたサンヘドリン(議会)はサドカイ派の大祭司
が中心となっていたのです。
361 :
ルー:2007/05/06(日) 22:42:02 ID:1s44GWcr
>>360 あれ、それカイファじゃなかったけ?
カイファはファイサイ派の大祭司じゃなかったけ?
362 :
ルー:2007/05/06(日) 22:50:22 ID:1s44GWcr
>>361 失礼 カイアファはサドガイ派でした。
wikipediaに載ってました。基本的な事ですね。
363 :
ココモスキー ◆VAutiIin4w :2007/05/06(日) 23:11:29 ID:qgkb9exj
>>360 >イエスの死刑を命じたサンヘドリン(議会)はサドカイ派の大祭司
>が中心となっていたのです。
パウロさんの裁判の時はサドカイ派とファリサイ派が同じ位の数が
いたみたいですね...使徒言行録23/6〜10
イエスの時も同じだと思いますが...
364 :
ダニエル ◆o31oshrvYE :2007/05/06(日) 23:13:10 ID:L6uo0+/J
>>363 >パウロさんの裁判の時はサドカイ派とファリサイ派が同じ位の数が
>いたみたいですね...
サンヘドリンはユダヤ人の議会というか、裁判所というか、
まあ、そんなものなので、ファリサイ派の人がいたとしても
おかしくありません。
第二神殿崩壊後のサンヘドリンは、完全にファリサイ派に
乗っ取られたようです。
365 :
ダニエル ◆o31oshrvYE :2007/05/06(日) 23:31:52 ID:L6uo0+/J
あ、回答者は身分を明かさないといけないんでしたっけ。
所属:カトリック教会 思想:メシアニック・ジュー
です。
366 :
ココモスキー ◆VAutiIin4w :2007/05/06(日) 23:53:02 ID:qgkb9exj
無所属:イスラム派
>>364 そう言う事ではなくて、貴殿が
>イエスの死刑を命じたサンヘドリン(議会)はサドカイ派の大祭司
>が中心となっていたのです。
と言ってるにも拘わらず、パウロの裁判の時の記事では、ファリサイが
相当強く発言していて、大論争になって紛糾して、ローマの隊長がパウロを
救出したという話ですよ...
「サンヘドリンはサドカイ派が牛耳ってる」なんて言うのは、キリスト教徒
がお得意のご都合筋書きだと言いたいんですがね...
>>361 >>362 ルー殿
以前タルムードの英語版webを読んだ事があるんだけど
何処だか忘れてしまって...探したんですがよく判りませんでした
Talmud で検索してみてください。
英語版なら、大分いい加減ですが、Yahooやエキサイトで翻訳
してくれますので、参考になると思います。
367 :
ダニエル ◆o31oshrvYE :2007/05/07(月) 00:17:19 ID:pLg2cENW
>>366 >と言ってるにも拘わらず、パウロの裁判の時の記事では、ファリサイが
>相当強く発言していて、大論争になって紛糾して、ローマの隊長がパウロを
>救出したという話ですよ...
サンヘドリンというのは裁判所でもありますから、ファリサイ派の人が
強い発言をしたからといって、何か不思議なことがありますか?
僕は、サンヘドリンというのは大祭司が中心になっていた、と書いたのであって
牛耳っていたとか書いていませんよ。
何をわけのわからないことを書いているのですか?
368 :
ダニエル ◆o31oshrvYE :2007/05/07(月) 00:19:32 ID:pLg2cENW
ココモスキーさんは、自分以外の人が何かを説明していることが
お気に召さないご様子ですね。
宮崎という人も、同じ症状をきたしていますね。
自負心とプライド、そして自己顕示欲が強いのでしょう。
369 :
ダニエル ◆o31oshrvYE :2007/05/07(月) 00:26:38 ID:pLg2cENW
ただ、僕の投稿の書き方も、あまりよくなかったようです。
別に、サンヘドリンは宗派に縛られている組織ではないので
「大祭司が中心」と書いた記述は、誤解されても仕方ないものでした。
サンヘドリンにおいては、司法に長けていたファリサイ派の方に力が
あったようですね。これについては、誤りを認めて謝罪いたします。
■参考URL
http://ncode.syosetu.com/n1181a/122.html
サドカイ派はむしろ野党勢力だからね。
おっと所属書くんだっけ?
プロテスタント:無宗教派
>>368 少なからず自らの中にあるものを他人の中に投影して批判いるという事はありませんか
自分の中に全く無いものは人の中にも見ないものですから
私も気をつけたい事です
373 :
ダニエル ◆o31oshrvYE :2007/05/07(月) 00:40:43 ID:pLg2cENW
>>372 >少なからず自らの中にあるものを他人の中に投影して批判いるという事はありませんか
>自分の中に全く無いものは人の中にも見ないものですから
>私も気をつけたい事です
ならば、あなたも偉そうなことを書かないほうがよいのではないでしょうか。
最後に「私も気をつけたい事です」と、言い訳のように書くのであればね。
他人を批判することは悪いことではありませんよ。
自分の中にも同じような気持ちがあることも悪いことではありません。
それは、当たり前のことなのです。
大切なことは、そうした気持ちを治めることが出来るかどうかなのです。
374 :
ダニエル ◆o31oshrvYE :2007/05/07(月) 00:42:17 ID:pLg2cENW
>>265 受胎告知なら知っておるが堕胎告知は知らんな。
産婦人科じゃないかな・・
376 :
ダニエル ◆o31oshrvYE :2007/05/07(月) 00:44:26 ID:pLg2cENW
>>372 へ
自分は質問に答えるでもなく、人のあらさがしをするためにだけ
投稿するような下種な人間とは、あなたのような人のことだ。
380 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/05/07(月) 02:22:06 ID:hbst/nN0
>>342 >現在のカトリック教会でカラスさんのような聖書解釈をしている教会、
>または司祭というのはいるものなのでしょうか?
いや、ないと思う。
彼らは、外に神という存在を求め、信者に御伽噺を教えている。
今のキリスト教会のやっている事は、単なる礼拝宗教であり、君や、
仏教徒達が、教会に足を運び 、司祭の話を聞いても、失望するだけだろう。
グノーシスは、イエスが十字架に掛けられたあと、比較的早くに成立した思想であり、
もっとも古いキリスト教の宗派の一つとされる。
現在に残るキリスト教会から異端とされ、排斥された思想の一つであるが、
じゃぁ、今のキリスト教徒である彼らがグノーシスを知っているかと聞けば、
彼らのグノーシスに対する知識は皆無である。
彼らの生活様式は、非常に禁欲的で、まるでサンガのようだったと聞くし、
その思想は、仏教に相通じるものが多い。
僕は、実は今の正統派とされるキリスト教会より、彼らから異端だと排斥されたこのグノーシス
の方が、比較的正確に、イエスの教えを引き継いでいたと、考えている。
智慧のある人が読めば、残されたグノーシス系の文献の内容は、
新約聖書となんら矛盾するものは無いと気付くだろう。グノーシスは、かなり難しいけどね。
司祭や牧師に。永遠の命とはなんですか?と聞いてごらん。
彼らは何も知らないから。答えてもせいぜい御伽噺を聞かされるのが関の山。
個人的には、真理を求めるのを目的で、教会に行ってみようと思っているのなら、お勧めしない。
381 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/05/07(月) 02:24:50 ID:hbst/nN0
>>346 >いきなりカトリック教会に「神は自分の内部にある。」とかいったら、門前払いされそうなので、
そう。門前払いされるだろうね(苦笑)
382 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/05/07(月) 02:32:13 ID:hbst/nN0
>>347 最初に言っておくが、僕は全てを知っているわけではない。
そこのところを誤解しないで欲しい。
またたとえ、僕が全てを知っていると言ったところで、それを鵜呑みにして、
僕の言う事を盲信するべきではないし、他人が、私は全てを知っている。と話したところで
同じくそれを盲信するべきではない。
なぜなら、”それ” は、自分自身で確かめるしかなく、自分自身でしか確かめられないからだ。
先にも言ったが、僕はその辺の人より知っているが、まだ全てを知っているわけではない。
だから間違いもあるかもしれない。それを踏まえたうえで、僕の話を聞いて欲しい。
383 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/05/07(月) 02:48:32 ID:hbst/nN0
>イエスは言われた。”日で満ちた老人は生命の場所について
>7日の幼な子に問うことを躊躇してはならない。
>そうすれば彼は生きるであろう。多くの最初の者は最後となり、
>そして彼らは単独者となるであろうから”。〜トマス
>彼女がわたしに教えてくれたとおりの、彼女の法(教え)を聞いて、わたしは、
>七〔日〕のあいだ、喜と楽〔の境地〕に引き渡された者として、独り、結跏し、坐した。
>第八〔日〕に、〔両の〕足を伸ばした−−闇の集塊[かたまり]を破って。〜テーリガータ
>しかして、そのとき、〔瞑想の境地がもたらす〕喜と楽によって身体を満たして住した。第七〔日〕に、
>〔両の〕足を伸ばす−−闇の集塊を破って。ヴィジャヤーは〔語った〕。〜テーリガータ
384 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/05/07(月) 03:36:26 ID:hbst/nN0
所属:カトリック 思想:グノーシス
釈迦は、七日七夜座禅瞑想した後、ついに悟りの道を会得したと聞く。
もちろんこれは何かの喩えだ。実際に飲まず食わずに、七日間座禅を組んでいたと言うわけではない。
創造は7という数字と密接に関係している。
創造は、7つの周期と、7つの時代を得て全てを創造する。
その一つに安息の日がある。これは全てが停止した状態の事である。
この間、創造は、何も無く、その一者以外なにもなくなる。
いや正確に言うと、その一者すらないとも言える状態である。
再び目覚めた創造は、活動を初め、創造をはじめる。
創造は、初めに光と闇を分けることから始まり、そして自分に似せて造られる、人間の創造で終わり、
再び、安息の中にまどろむ。そして再び目覚め、創造を始める。
かれと一体になれるのは、第六の日に創造された、人間だけであり、
自身に目覚めた人間は、創造と一体となる。創造自体は、安息の中にあり、
人間が、彼と一体となるには、安息の中でだけである。
なぜなら肉を持ったままでは、一元には戻れないからである。
形あるものは全て相対で成り立つ、二元世界の産物だからである。
385 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/05/07(月) 03:37:00 ID:hbst/nN0
>>384 続き
全てが停止した状態では、相対する者も無く、何も無い状態とも言える。
安息日とは、全てが停止した状態。全てが停止した状態では、煩悩もなにも、思考すら無いものである。
安息日を仏教的に表現すると、涅槃である。
永遠の命とはこの安息日の主になることである。彼は創造主となり、天地万物を支配する。
「一」を取り戻した彼は、もはや死ぬ事は無い。
創造の過程を得て、最終的に生まれた人間は、知恵により再び創造の元に帰り、創造は拡大を続ける。
この場合の知恵とは、「言」によって成る。
彼は、人食いである。こうして創造は、拡大を続けていく。彼が創造をやめる日は無い。
天の御国を何に喩えようか。
それは天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。
これ、この通りである。
天の御国を何に喩えようか。
天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、
どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。
これ、この通りである。
パン種とは、言葉(による知恵)のことであり、同じく、からし種も、言葉(による知恵)のことである。
我々人間は、「言」を持ち、相対する知恵は、この言によって成るものであり、人間だけが、創造を成すものである。
「言」による知恵は、我々をこの二元世界に落としたが、言による知恵が再び我々を、父の元に返すだろう。
だが悲しいかな全ての人がと言うわけでもないようだ。言葉を聞いても、目覚めない哀れな魂は、時が終わるとき、
帰るところがなく、消えていく。これは完全な無だ。これを第二の死と呼ぶ。完全な死だ。
収穫の時が終わり、良い麦を懐に入れ膨れ上がった創造は、再び目覚め、また、創造を始める。
彼が創造をやめる事は無い。プレーローマ。それは命の充満である。
私の話を理解する者は、
>>383のトマスの聖句の意味や、釈迦の尼弟子である彼女達の言葉や、
釈迦の、7日間座を組んだと言う話の意味を、理解するだろう。
386 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/05/07(月) 03:51:05 ID:hbst/nN0
>イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、
>たとえを用いないでは何も語られなかった。
>それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
>「わたしは口を開いてたとえを用い、天地創造の時から隠されていたことを告げる。」
〜マタイ13:34〜35
最初、創世記の冒頭部分を読んだときは、
正直、アホかと思ったが、あれには深い意味がある事を知ったときには
驚いたものだ。創造は、光と闇を分けたこと(二元世界の誕生)から始まり、
進化の過程を得て、最終的に、人間と言うものを生み出し、
安息のまどろみにはいる。こうして彼は、命の拡大を続けていく。
創世記の冒頭部分は、よく出来た話なんだよ。ま、アホにはいくら言っても理解できんだろうが。
387 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/05/07(月) 03:54:19 ID:hbst/nN0
出所はかなり怪しい文書だが、内容は大変興味深いものなので、
ここに紹介する。これはイスカリオテのユダが書いたとされる福音書の、一節である。
イエスは力強く言った。「創造は、人と神と全てのものの、上にある。
人間の理解出来る所から見れば、創造は完全なものに見えるが、そうではない。
創造は霊であり、生きている。創造も、無限に進歩しなければならない。
創造は、それ自体で一体であり、創造それ自体で、新しい霊の誕生と創造により、完全なものになる。
新しく生まれた霊は、創造自身の一部であるが、自らを詳しくは知らない。
新しい霊が生み出されると、それはまだ無知のまま、人間の身体の中に生き、学び始める。
無知の霊は人々には愚かに見え、そして、この人間は間違っていると言う。
しかし、霊は決してそうではない。何故なら彼は、今は知らないだけで、知識と知恵が不足しているだけなのである。
この新しい霊は、人間としての一生を生きて知識を集める。
この霊が死後の世界に行くと、初めの時のような、無知ではなくなる。
この世に再び戻って来て、人間として生きると、初めの時のように無知ではない。
彼は再び学び、広い知識と新しい知恵を身につけ、彼はもはや無知ではなくなる。
多くの転生の時を持つと、人間はこうした霊を得て、正しく間違いのない者になっていく。
しかし、霊とその成就には終わりがない。彼は、今や偉大な知恵を探し求めていく。
388 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/05/07(月) 03:55:28 ID:hbst/nN0
人が、自ら創造的発達を遂げるに従って、その人は完全な者になっていく。
最後には、初めから定められた通りに、創造と一体になる。
創造は、新しい霊を造り出し、霊は、人間の肉体の中で完全なものにされる。
完全なものになった霊は、創造に帰り、創造と一体化し、
創造自体が完全なものになっていく。創造は、知識と知恵そのものだからである。
よく言っておく。創造が新しい霊を造り、自らを拡大するのを、やめる日はやってこない。
創造は平穏を必要とする。その時には眠り、創造をしない。生きとし生けるもの全てがそうであるように。
人間の生活には昼と夜がある。働いたり、休んだりする。創造も同じである。
創造の周期は、人間の周期とは違っている。その掟は霊の掟である。
人間の掟は、物質生活の掟である。
物質生活には限りがある。霊の生活に終わりはない。
創造は、自ら創造している、全ての始まりの原初創造の掟に、基づいている。
創造の神秘は計り知れない。その秘密は7という数にある。
これは、この神秘と掟に属するものであるが、それは人間が完成に近付いて、初めて理解される。
生命の掟は、その有様を隠してはいない。人はそれを認識し、追従出来る。
賢い者は、原初の創造の秘密が、7という数にあることを知っている。そして、その人は次の知識に達し、それを所有する。
創造も、働いたり休んだりする時を持ち、7という数に従っている。
7つの偉大な時代を、創造はまどろみの懐で休む。そして、宇宙も何も存在しない。
創造は自らの内に、ただまどろみ、何の創造もしなかった。
7つの偉大な時、7つの偉大な周期を経て、創造はまどろみから目覚め、創造物と全てを造り始めた。
そして次に、創造は7つの時代と7つの周期を休息し、続いて、創造は7つの時代と7つの周期に、全てのものを創造する。
創造が再び休んでまどろみに入るまで、別の7つの時代と7つの周期の為に、すべてのものを創造するのだ。
しかし、再び休み、まどろみ、創造以外に何も生み出さなくなる。
全ての創造物も、もはや存在しない。
389 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/05/07(月) 03:56:25 ID:hbst/nN0
創造自身は、この7つの偉大なる時代と、7つの周期の間存在している。再び目覚めて、
新しいものを創造するまでの長い間、休みまどろんでいるからである。
創造は、それ自体と一体になっており、全てのものがこれと一体である。
人間、全ての植物、全ての動物は、創造と一体である。これは創造の掟である。
全てが創造と分離していると思うかも知れないが、そうではない。全てが一体だからである。
人間が分離していると信じているものは、一つなのである。人間は一つのものを二つにしているのである。
人の霊は、創造の一部分なのであり、人は創造と一体であり、別のものではない。
又、個人の肉体は、物質形態をとる霊の一部分である。従って彼は、その霊と一体であり、二つのものではない。
この教えは一元であり、他の形に二元されるものではない。
二元である、と思っている人は正しくない。その非論理思考は、人間の知恵でしかないからである。
霊の知識で考えれば、掟に基づく論理が発見出来る。
人間の思考のみが間違いを犯すのであり、創造の掟は、間違えることはしない。
全てのものは一つから発生し、二つと見えるものは、見せかけでしかない。不純な考えからでは、それを理解出来ない。
全ては一元性であり、全ては、その中から出てくる。二元性のものは存在しない。つまり、
それは創造の掟に違反するからである。
人間は、この二つのものを一つにし、創造の掟に従って、考え、行動しなければならない。
無理解によって、人間は二元性を作り出し、創造の掟に背いている。
しかし、全てのものを一元に正し、全てのものを一体となせば、人が山に向かって、「そこをどきなさい」と言えば、山は動く。
全てが創造と一体で、その掟に従い、創造物や物質と一体であれば、決して誤ることはない。
390 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/05/07(月) 03:57:22 ID:hbst/nN0
賢者は常に、ものが二つあり、二つが一緒になって、一つになっていると思っている。
一つのものが一緒になって、二つになっていると思うのは、見せかけに過ぎない。
他が善であると、一方は悪であると言い、他が悪であると、一方は善であると言うが、善と悪は一体である。
それらが引き裂かれて、一つとなっても一体であり、又、裂かれないままでも、
一つであって一体である。何故ならそれが、創造の掟なのである。
見せかけ上、二つの部分があることになるが、それ自体としては一つであり、又、引き裂かれないままでも、一つである。
人間は、三元のものもあるという。それは間違った礼拝と、間違った教えと考えによって、自分の心を混乱させているからである。
一元のものが、それ自身一つのものを、二つにされたのであり、その二元性は見せかけである。
人間は、二つの部分に分かれた、一元である。霊は、二つの部分に分かれた一元である。お互いに集まって一つになっている。
肉体は、霊無しでは生きられない。その逆もしかりである。二元に見えても、霊と肉体は一元である。
霊は掟に従って生きる。霊は、それ自体で二つの部分になっており、各々の部分は一つであるから、霊自身も一つである。
霊の二つの部分とは、知恵と力である。
霊の知恵の部分無しには、力は出てこない。霊の力無しには、知恵は成立しない。
故に、それ自体一元である二元が必要とされる。一元は一元の中にあり、二元の中にあるのではない。
人間は、それ自身一元であり、一元のものは、分割されないというのが掟である。
人間における二つの部分は、お互いに一元であり、肉体と霊である。
人間は三元で生きていると、律法学者によって教えられているが、これは偽りである。
創造の掟は、そのように教えていないからである」
391 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/05/07(月) 04:00:54 ID:hbst/nN0
どう?仏教、顔負けだろ。
俺も最初読んだときは、大変驚いた。
出所は大変怪しいけどな(苦笑)
だがそんなことはどうでもいい。問題なのは、書かれている内容なのだ。
392 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/05/07(月) 04:11:11 ID:hbst/nN0
>>344 >ボロが出そう...楽しみ...
なにがボロが出そうなんだ?バカモスキー。
俺は所属はカトリックだが、それは単に所属しているところはカトリックなだけで、
思想は、グノーシスに近いと、言っているだろう。おまえは本当に馬鹿だな。
所属している教会なんてどうでもいいんだよ。幸いカトリックは、おまえ達イスラムとは違い、
自由にさせてくれるしな。カトリックに籍を置いているのは、ただなんとなくだ。
クリスマスの行事や、復活祭、など、気分的に出席したいなと思っているだけだ。
なきゃないで、それはどうでもいい。
別にそれは俺の勝手だろ?俺はカトリックの教えを語っているのではない。
思想は、グノーシスだと言っているんだよ。本当におまえは馬鹿だな。
てか、おまえ、本当は女じゃねぇだろうな?
なんかおまえの思考回路見てると、理論的に考えるんじゃなく、子宮でものを考えているように
思えてならねぇんだよな。ホントニ。。
本当におまえは馬鹿だよ。
ユダに福音書を書く時があったとは思えないのですが
394 :
カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/05/07(月) 04:21:07 ID:hbst/nN0
>>393 その文書によると、イエスを売り渡したのは、別のユダ。
彼は汚名を着せられた事になっている。
ま、ユダが二人いたとすると、新約の首を吊ったユダと、別のユダがいたと言う矛盾は
解決すると言えば、解決する。
使徒タダイもユダと呼ばれていたそうですが、
『神の使者』という本には、
タダイとトマスが現れて教えを語っていますよ。
396 :
クロスライト ◆u1GT1B7v6Q :2007/05/07(月) 14:43:45 ID:NZnuEhAC
偏見かもしんないけど、女性牧師って口だけ善人で行動力のない方が多くない?
人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。
398 :
神も仏も名無しさん:2007/05/07(月) 16:58:25 ID:SQlRGNwK
使途からの権威がカトリックには継承されているがプロテスタントにはない。
400 :
うきゃん君 ◆DV4hb.MG/U :2007/05/07(月) 17:01:15 ID:9P7LqJyu
400ゲロッ!