原始佛教 その23

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992神も仏も名無しさん
>>986-988
sam を無視したわけではなくて、「関係」というあっさりした意味だけではなく、「縛る」という
意味合いも含まれている点にも留意されたし、ということで bandh の意味を付記したものです。
逆に sam(共に)の付加で、bandha だけから想起される「縛る」という重い意味を緩和し、また、
因・果という2者の関係、結び付きであることを示しているのではないでしょうか。

hetuphala-sambandha の六合釈はどうなんでしょう。前分と後分は主語・術語というより、
前分「因と果」の内部構造の説明が、後分でされているように思います。
ですから「という」でよろしいかと。

次に漢語の「因果応報」の語順についてですが、これは「東奔西走」と同じような構造だろうと思います。
つまり、東西に奔走する、を東奔西走と分割表記して、一字ずつ飛び越して結び付く、という修辞法ですね。
略して「果報」という表現もあるように、原因に対応して結果としての報いがある、ということだと思います。

因果まさに報ずべし、と訓じるのは少し苦しいかな、と。因が報じるとなって変です。
ただ応報だけで使われる場合もあるので、その場合には、まさに報ずべし、と訓じて、
当然むくいるべきだ、むくわれて当然だ、相応のむくいだ、といったニュアンスも生じると思います。