原始佛教 その23

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217神も仏も名無しさん
>>188
ttp://www.cbeta.org/result/normal/T22/1428_032.htm
CBETA T22 No. 1428《四分律》卷32
色無我。
若色是我者。色不揄v。而我受苦。
若色是我者。應得自在。欲得如是色不用如是色。
以色無我故。
而色搨キ。故受諸苦。
亦不能得隨意欲得如是色便得。不用如是色便不得。

この漢訳は、パーリ文英訳および下に引用するパーリ文和訳と同じ趣旨ですね。
> 色は無我である。
> 若し色が我であるならば、この色は病ともならず、
> また色について「わが色はかくあれ」とか、「わが色はかくあること勿れ」とかいうことができるであろう。
> 然し色は無我である。
> 故に色は病にもなり、
> また色について「わが色はかくあれ」とか、「わが色はかくあること勿れ」とかいうことができないのである。

また、以下の佛説五蘊皆空經の趣旨も、丁寧に読んでみるとパーリ文と同じ内容のようです。

汝等當知。色不是我。若是我者。色不應病及受苦惱。我欲如是色。我不欲如是色。既不如是。隨情所欲。是故當知。色不是我。
〔汝ら當に知るべし、色は是れ我ならず、と。若し是れ我ならば、色は應に病み及び苦惱を受くべからず、
我れ是くの如くの色を欲し、我れ是くの如くの色を欲せざらんに、既に是くの如くには、情の欲する所に隨はず。
是の故に當に知るべし、色は是れ我ならず、と。〕

漢訳の四分律と五蘊皆空經およびパーリ文が同趣旨であり、雑阿含経巻2所収の2経だけが
異なるので、これらは錯簡や誤写などにより意味が逆転してしまったもののようです。
したがって、>>175の「実我があれば変化し得ない、させ得ない」は雑阿含経に引きずられた誤読となると
思われるので、それを理由としての説明はひとまず撤回させていただき、改めて考えてみたいと思います。