>>257 >類推無ければ近づけないとも
賢明だねw
(哲学や認識論的に言えば、「対象そのものを知ることは不可能」という極論も成り立つわけだしw)
>悟りと覚りのちがいも
区別されることもあるし、区別なく使われることもある。
>>254※印中の文のように、大きなラベルとして用いられる時は区別ないだろうし、
文脈上差異化を図りたい・微妙なニュアンスの違いを表したい
(→漢字が違うことの意義をきちんとしたい)等の時はこだわって使う人もいるだろう。
>>253中の区分を利用すれば、「悟り」は「1〜7」、「覚り」は「1・4・5」となろう。
少しく喩えを用いるなら、「ご飯」「ごはん」「飯(めし)」「メシ」等が解り易いかもしれない。
厳密に言えば「ご飯」は米を炊いたものであるべきだろうが、普通に「食事」や「食事をとること」も指す。
「ちょっとご飯食べてくる。一時間くらいで戻るよ」とか「よお、メシくいに行こうぜ。」とか。
この時食べるのがラーメンでもスパゲッティでもサンドイッチでも、やっぱり「ご飯」「飯(めし)」だよねw
これは、『栄養を摂取する、主要な補給物』『主食』という意味合いが拡大したものと見ていいだろう。
こだわる人は「ごはん」としたら「食事」「ご飯」としたら「米」とするかもしれない。(尤も、音では一緒なワケだがw)
こうした、語義の幅(拡大)があるという理解でいいんじゃないかな。
>日常的に知ることと別の次元にあるのかどうか ・・・・・ イメージ。
253の1で言えば、広義に於いて様々な「あ、そうかっ!」だと見做すことも勿論可能。
ただ、(古来インドに於いても)やはり宗教的領域について言われるものであろうと思われるし、
「一般的気づき」と「宗教的核(コア)との出会い」と、二通りの語義を把握していればいいんじゃないかな。
両親の想いに気付き、親孝行を決心した反抗期の青年が
「俺、親子関係について悟っちゃったかもwww」なんて会話を友人とするのもありだろ?w
(ま、もともとは、「宗教的気づき」が原点であろうが、
こうした語義の拡大は、上記「ご飯」同様、頻繁に見られることだと思う。)