>>251 難しい事を軽く聞くねぇw (勿論、『仏教で言う』悟りだよね?)
まず大前提を一つ。
『私はおそらく悟っていない。少なくとも涅槃を見てはいない。
もしかしたら入口から中を覗き込んでいるかもしれないが、決して中にいるわけではない。』
(※「おそらく」「少なくとも」「入口」という表現を用いたのには理由があるが、それは後述(最後に補足)する。)
つまり、以下はあくまでも想像・類推であるということ。
(→類推だから意味が無いというわけではない。 興味があるなら、
「類推でも意味がある」について別途に述べることも吝かではないが・・・。)
続いて、前提(≒定義)を幾つか。(一般的仏教辞典の語義はここでは無視する。)
イ:「悟りとは何か。どういうものか。」(とりあえず原語は bodhi とする)
1.原語の「目覚めること」という意味から敷衍し「【気づき】」「自覚」とする。(英訳のenlightenmentに近い)
2.「涅槃」と同義とみる。 → (都度更新が必要な)「【境地】」。
3.「涅槃」と同義とみる。 → 一度到達すれば、以降(多少の努力は必要かもしれないがw)「退転しない【境地】」。
4.涅槃への通過点(必要絶対条件)として、「体験を通過した上での、しっかりとした頷きのある【気づき・知識】」。
5.「智慧」と同義とみる。
→(巴英辞書で knowledge, enlightenment, the knowledge possessed by a Buddha とされるように)
「(仏教という枠内での)最高・最終の智慧」。「縁起や四諦など、仏陀の説いた教えについての【知識】」。
6.特に禅の枠の中で用いられる場合の「悟り」。 →「上記全てを包含した、体験に基づく【境地】」。
(※必ずしも、知識としての側面を必要とはしない。)
7.特に禅の枠の中で用いられる場合の「悟り」。 →「釈尊の体験・頷きの【追体験】」
(※必ずしも、知識としての側面を必要とはしない。)