さらば 親鸞会

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135渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
>>110
>凡夫が「方便」を使えないという教学的根拠を述べていただけますか?

 凡夫がだめと言うんじゃないんだよ。親鸞会の講師は信心の話をしてはだめなんだ。

大津近松殿に対しましまして、仰せられ候う。「信心をよく決定して、ひとにもとらせよ」と、
仰せそうらいき。(蓮如)

 蓮如上人は言った。まず自分が信心決定して、それから他人にも信心を勧めなさい。(自分が
信心決定してなくて、どうして他人に信心を勧められるんですか。そんなことあるわけがないで
しょう)。
 
 教化するひと、まず信心をよく決定して、そのうえにて聖教をよみかたらば、きくひとも信を
とるべし。(蓮如)

 他人に他力信心を教えようとする人は、まず自分が信心を決定させなさい。その上で他人に聖
教を読み聞かせれば、聞いた人も信心を得るでしょう。(自分が信心を決定してないのに、聖教
を読み聞かせて他人が信心を得るはずがないでしょう。それで他人が信心を得るならば、読み聞
かせた人はとっくに信心を決定しているはずだ。読み聞かせた人が信心を決定してないのは、そ
の読み方がインチキだと言うことだ。聖教のインチキで他人が信心決定するわけがない)

明応五年、正月二十三日に、富田殿より御上洛ありて、仰せに、「当年より、いよいよ、信心
なきひとには、御あいあるまじき」と、かたく仰せ候うなり。(蓮如)

  明応五年、正月二十三日、富田殿より京都に来て仰せになった。今年からは、信心のない人
には会わないようにしなさい。厳しくそのように仰った(例えば親鸞会の講師のように信心が微
塵もない人に会えば、人生は無茶苦茶になる。蓮如上人はそのように厳しく仰った。)