>>776 >アホめが。言葉は識別するもの。
猿から人類に進化する過程において、人は言語を獲得しました。
いわゆる人とは、言語を話し道具を使う(人間の条件)ということになり、
また迷いも生まれるのです。
例えば狩猟をする場合には、
仲間とのコミュニケーションによって合理的な方法が見出すことが出来ますし、
狩猟方法の発達は、また高度な言語も発達してまいります。
言語発展の初期の段階では、単純な言語でよかった訳です。
ところが、人が嘘をつくことを学習した者がおったのでしょう?
で、「うそ」という言語が生まれたのです。
よって、相反する「ほんとう」の言語も同時に生まれる。
つまり、言語というのは人が思考すると同時に生まれたのです。
人類の発展は、やがて「うそ」が虚偽とか、「ほんとう」が真理とか言うようになったのです。
つまり、もともと虚偽とか真理とかなく、
また、一相とか無相とかもない訳です。
たまたま人類が高度な文化を発展させまして、
その結果として真理概念も同時に脳にインプットされちまったのです。
どうか、そこのところをお含みの上、私の書き込みを呼んで頂きたいもんですね(^o^)丿
>>704 情欲の熾盛な者には不浄観、慢心の強い者には白骨観が相応すると言いますが、
九想図のような、どぎつい方法は疑問です。
かつてオウムでは、事故死者の生々しい拡大写真を座の前に貼って観想させていたそうです。
大象跡喩経でのサーリプッタの教えのように、体内不浄観想、嫌悪そして離欲、
というプロセスの方が間違いを起こしにくいと思います。
いずれにせよ、精神的に不安定な状態の時は避けるべきでしょう。
814 :
神も仏も名無しさん :2007/03/23(金) 16:21:48 ID:ULfmuvy3
815 :
神も仏も名無しさん :2007/03/23(金) 16:35:04 ID:rJiImG4w
私は肉好きだったのですが、屠殺映像を見てから、ほとんど食べなくなりました ショックだったし二度と見たくないけど、それも、ひとつの不浄観だったのかと、よかったと思っています 経済活動も「美味しく」「栄養豊富」なんでしょうが、裏に潜む「屠殺」を知れば、 金に対する執着も軽減するのではないかと思ったのです
ドストエフスキーの罪と罰に、墓荒しの場面がありまして、 墓を掘り返して、その死体とセクスをする。というのがある。 これは九想図どころではなく、 死体そのものが良い。ってんですから、まあ、そういうのは 不浄観こそか萌えなんでしょうかね? 私にはそういう世界のことは解らんですけど。 また、同じく罪と罰に、 明日銃殺刑になる囚人の場面がある。 この囚人は銃殺の前に、池田晶子とか正岡子規のように悟ってしまう訳なんです。 禅で言いますと十牛図の八図ですね。 (池田と子規はこの段階ですから) この段階になりますと不垢不淨となりまして、不淨観はすでに俗諦となりますね。
>>810 電波男はもうコテでは書けなくなったんですよ?
コテで出て来たら訴えられるかららしいですよ?
818 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/03/23(金) 17:52:03 ID:KNqQr7HM
また性懲りも無く、セクト破落戸、致命・落命王の類が迷い出たか(冷笑)。 九相図そのものの腐瀾壊滅の様は不浄観に格好の所縁だことで(笑)。
819 :
神も仏も名無しさん :2007/03/24(土) 06:26:11 ID:CCbdCYGp
阿呆陀羅くん、君も引退したら
>>815 >私は肉好きだったのですが、屠殺映像を見てから、ほとんど食べなくなりました
>ショックだったし二度と見たくないけど、それも、ひとつの不浄観だったのかと、よかったと思っています
あれは不淨観ですかね?
私はどちらかというと人間への嫌悪感のようなものを感じましたけど。
人間の嫌悪。ってのは、つまり自己への嫌悪なんですけど。
人類は最初、狩猟において獲物を捕獲していたけど、それじゃあまり不合理だ、
ってんで家畜を始めた。
家畜を育てる時は家族同様に育て、やがて屠殺の時期を迎える。
家畜は合理的であるにせよ、結果的な屠殺という理不尽がある。
ここになんとも言えない虚しさがあるのかも知れませね。
わたしは歎異抄(親鸞)の一節を思い出したのですが、
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」。の、
この悪人というのは自分自身な訳ですね。
所詮人間が「善」とか「悪」とか言うても、
やはり家畜とかの命を頂いて生きておるんですから、
これは既に善悪以前。ということになる。
これが大慈・大悲なんでしょうね。
>>817 いろいろ忙しいだけだ。ボケ。
サル?あいつが訴えると言ってるのか?ばっかでー。
暫く忙殺されています。皆様ごめんなさい。
822 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/03/24(土) 10:19:57 ID:baO3AGX/
いずれにせよ… 破落戸ジョーユーやサイコパス外道、致命・落命王類といった沙婆 世間の壁蝨どもが、駆除淘汰される眺めは結構なものだ(嗤)。
>>791 >仏教は真にその姿を顕すことになるのです。
そういうことは無い訳です。
仏教が姿を顕すことはないですね。
では、一例をもって話します。
ある不妊治療をしておった御婦人がおりまして、子供がほすくてたまらんかったそうです。
しかしながら長年の治療も虚しく、ついに子宝を諦めたそうです。
そして、
諦めてしばらくしたら、自然懐妊したそうです。
この時は、子供を諦めた訳ですから、どうしても産む気になれず堕胎したそうです。
人間の心は揺れ動くもんです。
向井亜紀(42歳)も、この方も癌で子宮を取ったら、急に子供がほすくなったそうです。
(この方は、仕事に忙殺している時は子供のことは考えなかったそうです)
人間は、無くなれば不可能を可能にしたい欲求が出でてきます。
真理とは、個別性の次元である。というのは私が前記しましたけど、
その時に子供がほすいのは、それが真理であり、
また、子供がほすくなくなったのも、その時の真理であります。
諸行無常であり、仏教が姿を顕すことはなく、
全てが、そのように心が生起(生じる)しているに過ぎんのです。
真理もまた、表れてはそのまま消えて逝く儚いものです。
824 :
素人 :2007/03/24(土) 12:08:33 ID:fIGg5XpC
825 :
神も仏も名無しさん :2007/03/24(土) 19:26:53 ID:afThDpsN
826 :
神も仏も名無しさん :2007/03/24(土) 20:22:10 ID:JYRaX1fS
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」 善人というのは決められたレールの上を決められた速度で決められた時間に走る列車のようなものかと 悪人というのは道なき道を気まぐれで走る壊れたダンプカーのようなものかと で、悪人のほうが視野が広くなり、悟る場合が多い、という解釈はだめですかね?
仏教は自身に対する勧善懲悪を前提とする。 ただ、人間とは善業だと信じてサリンを撒くことが出来る動物だ。 親鸞さんは、人間という存在の宿業を、悪人正機という観点から見据え続けた稀有の人でもある。 八正道を行じて解脱に至る善人の方法論を廃して、 阿弥陀一仏の他力本願に己が宿業を預けることで善悪を超克した。 その時、念仏とは一心に履物を磨き続ける行為に等しい。
>>827 これさっぱり訳のわからない話ですねえ
まあ仏教の在家五戒を考えてみて 仏教の「ぶ」の字もしらず宗教に
全然関心のない人で見事に守れてる人がいるとしましょう
その人はやはり心が安定して幸福な環境にいる人と予想できるのではないですか
観念的にこの戒律が「神様」からでたものだとか
「解脱」を目指すためためのものだとか考えると 神を認めないと殺してしまえとかいう
本末顛倒の話になるのです
「浄土に行くために百人殺せ」と言われたとしましょう
気持ち悪くてできませんよね 履物より現実感覚を磨くことです
>>826 社会秩序は、社会規範という共同認識において保持されている訳ですから、
人はなるべくなら、ここより逸脱しないように生きていくのが普通ですね。
人類が創生において、共同体を形成するようになってから、
この暗黙のルールは継承されてきた訳です。
これある故に人類は進歩を遂げた。とも言える訳ですが。
>悪人のほうが視野が広くなり、悟る場合が多い、という解釈はだめですかね?
悪人というのは極論ですが、
「悟り」というのは、前記・共同認識とは全く別もんですね。
(つづく)
例えばですが、 自分が失敗をやらかしたとします。 こういう場合は誰でも「いい訳」ってのを考えますね。 その「いい訳」の前程になるのが社会規範です。 失敗は、社会規範に繋げて自己の正当性を主張する。 これは、無意識のうちに人間が生活において学習してきたものです。 (論理の整合性とは、この構築をいう) 釈尊の成道とは、前記ベクトルには全く組みしないもんですね。
831 :
神も仏も名無しさん :2007/03/25(日) 09:21:01 ID:5rpWhs05
八正道を実践すれば悟れるというよりも、悟れば八正道になるということではないでしょうか?
共同認識は、共通認識において成されますが、
共通認識の方法として、人類は言語を獲得しました。
つまり言語とは、共同体を形成するには有効である。ということで発展してきた。
ということを、先ず自覚する必要がありますね。
石飛道子という論理学者は「ブッタ論理学5つの難問」において、
この上記・論理のベクトルで著書を出版しましたが、
これだと釈尊の法は台無しになるんです。
私が「自覚する必要がある」というのは・・・
この自覚なんです。
八正道とは、上記・自覚(気づき)と、それによる自己変容においての正道です。
これなくして本義には至らんですね。
>>831 そういうことです。
>>828 あなたの話のほうが意味不明です。
在家五戒が神様からでたものという主張は初耳です。
またそれがどうして
>神を認めないと殺してしまえとかいう
>本末顛倒の話になるのです
という結論になるのかわかりません。
>「浄土に行くために百人殺せ」と言われたとしましょう
>気持ち悪くてできませんよね
それをしたのがオームでしょ。
オームを別世界の絵空事にしている現実感覚のほうが問題でしょう。
>>827 >その時、念仏とは一心に履物を磨き続ける行為に等しい。
そうそう、ただ行じるだけですね。
全て如来にオマカセして作為から離れる。
禅門においては「瓦を磨いても仏にはならぬ」。ってのがありますが、
浄土門の「磨く」とはえらい違い。
しかしながら、これは肯定も否定もまったく同義ですね。
言語は手段に過ぎなくて、
その意とするところは同義なり。
<机龍之介・花押>
>>716 これについては自己解決しました。
平川彰「原始仏教の認識論」(講座仏教思想 2) pp.41-42 によると、『相応部』のヴァジラー尼の
偈に「車という名称(sammuti、共通の理解・常識)」という用例があるが、(世界の名著1 p.544にも掲出)
>世俗諦・勝義諦(第一諦)という言葉は、原始仏教にはまだ現れないが、
>しかしすでに『ミリンダ王問経』には見出される。
とのことです。ミリンダ経での語形は sammuti-sacca (俗諦)。
ミリンダ王は前150年ごろの人。経自体の成立は後1世紀ごろまで。
ちなみに
>>712 に触れられた言語論関係では、同頁に「仮」の原語プラジュニャプティ (prajJapti) のパーリ語形の
>パンニャッティは「知らしめる」(パンニャーペーティ paJJApeti) という動詞から派生した
>過去受動分詞で、「知らしめられたもの・現象したもの」の意味である。
と書かれていました。斯学の泰斗による過去受動分詞という解釈もあったのですね。(
>>5 の4参照。
ちなみに自説は辻p.214の9ですが、語根に関しては後続研究の発表を待つことにします。
芳村博実「VijJaptiについての一考察(1)(2)」『仏教学研究』という論文もあるようです)
なお、『佛教語大辞典』には、
>「表業」知らしめる行為の意。vijJapta
>「表示」おもてにあらわし示すこと。vijJapti
と書かれていて、vijJapta の ta は ti の誤植かと思っていましたが、
モニエルで vijJapta の項のもとに vijJapti が入れられていること、平川氏の文と合わせ考えると、
もしかしてそういう用例があるのかも知れません。この点、更なる調査を要します。
ついでに白四羯磨と表業の関係なども書こうと思ったのですが、うまくまとまらなかったので、いずれ。
一つ、疑問が湧きました。 十無記で、死後のありようを問うとき(タターガタ=如来とすると) 「阿羅漢は」と言ったら良さそうなものを、なぜ「如来は」と言ったのか。 如来1人だけの死後が不可思議ってことはなく、阿羅漢全員も同じはず。 もう一点の疑問は、過去ログからの引用ですが、 > 業報輪廻、梵我一如思想が 古代インドの「強固な社会通念」だというのは、誤読である。 > 当時から、業報輪廻が一般には受け入れられてなかったと考えた方が分かる。 > 輪廻を受け入れるのは、解脱を目指すもので、解脱を目指さない一般社会では、 > 見えない体験できない輪廻が非常識だったことは諸文献にも現れております。 仏伝やインド哲学史などの本の記述によると、ブッダ当時の輪廻思想の一般社会への普及に関して 曖昧な記述のものと、ブッダ当時すでに普及していた、とするものを見かけます。 たしかにウパニシャッドには、業報輪廻説は秘密の教えとされていますが、ジャイナ教や アージーヴィカ教は輪廻を説き、また死後生はないと逆の立場で言及した六師外道の1人もいますが、 これら沙門たちの活動していた時代になっても、まだ沙門・婆羅門だけの秘密の教えで 一般社会には普及していなかったというのは、どういう文献に出てくるのでしょうか。
838 :
神も仏も名無しさん :2007/03/25(日) 20:11:43 ID:5rpWhs05
「ミリンダ王の問い」は仏典ではなく、準仏典でしかなく理論もおかしい、と何かに書いてあったような・・・
839 :
神も仏も名無しさん :2007/03/25(日) 23:43:12 ID:YzQfE4Vz
ブッダの仏教(情けない事に、ゲテモノがはびこっている故に、マルクスのマルクス主義と同様の言い回しが必要) にとって、誤りの始まりが『ミリンダ』だ。もう、イヤ。不貞寝する。
840 :
839 :2007/03/25(日) 23:59:17 ID:YzQfE4Vz
おーい! 阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ よ。 シニカルな冷笑・愚痴ばっか出さずに、『ミリンダ・パンハ』を全面批判しろよ! おまいの実力をみるにふさわしいテーマだろ?てめーの頭で自力で考えやがれ! ヘマなことやりやがったら、嘲笑、あざけり笑いしてやるぜ! 「仏教」における救済主義とは何か?
841 :
神も仏も名無しさん :2007/03/26(月) 07:14:28 ID:RMPtqc5a
>>837 >十無記で、死後のありようを問うとき(タターガタ=如来とすると)
>「阿羅漢は」と言ったら良さそうなものを、なぜ「如来は」と言ったのか。
>如来1人だけの死後が不可思議ってことはなく、阿羅漢全員も同じはず。
例えばですが、茶席においては「粗茶ですが・・云々」と言う言い方をする。
実際は粗茶ではないとしても、立場上において視座を変える。
粗茶じゃないなら高級茶なのか?ってのも、これも視座による。
>> 輪廻を受け入れるのは、解脱を目指すもので、解脱を目指さない一般社会では、
>> 見えない体験できない輪廻が非常識だったことは諸文献にも現れております。
これなんかもいい例ですね。
社会通念上においての解脱というのは、ある状況からある状況へと主体(本体)が移動することですね?
普通は大体、そんなふうな理解が一般的かと思います。
俗諦においては論理矛盾はないにしても、
やはり視座の変化で矛盾はどうしても避けられない訳です。
ある意味、その矛盾を黙殺することにおいて、かろうじて論理の整合性が保てる。
ってことはありますが、それなら一般的な哲学理解と同じことです。
如来にしても、解脱にしても、その意とすることよりも、
それ以前にもはや論理矛盾があるかと思いますがね。
843 :
神も仏も名無しさん :2007/03/26(月) 09:56:19 ID:Ro630/xU
/ /二__,--、r'"___、 ヾト、.ヽ レ'"~,-,、 ! ! ' '" ̄ .ノ\ヾ:、 K/ー'~^~_/ ヽミ:ー‐‐'" ヽ i !〉ー―'"( o ⊂! ' ヽ ∪ Y」_ / i ∪ ,.:::二二ニ:::.、. l | うわあ~ ! :r'エ┴┴'ーダ ∪ !< .i、 . ヾ=、__./ ト | 俺をいじめるな~ 天下御免の阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ
845 :
阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/03/26(月) 10:35:11 ID:itsnLW5X
>>836 「假設」や「世俗の言語慣習」について、原始佛典に遡って考察するのも興味深いと思います。
『ミリンダパンハ』における教証引用関係についても同様でしょう。
ttp://www.accesstoinsight.org/tipitaka/sn/sn12/sn12.017.than.html アチェーラ経 (SN 12.17)
'The one who acts is the one who experiences [the result of the act]' amounts to
the eternalist statement, 'Existing from the very beginning, stress is self-made.'
「(因業を)行う者と(その果報を)受ける者は同じである」とすると、
「原初より存在して、苦は自分で作ったものである」という常見に至ってしまう。
'The one who acts is someone other than the one who experiences' amounts to
the annihilationist statement, 'For one existing harassed by feeling, stress is other-made.'
「行う者と受ける者は異なる」とすると、「感受に悩まされて存在している者にとって、
苦は他者の作ったものである」という断見に至ってしまう。(註)
註 This statement is annihilationist in implying that personal identity is simply a series of
radically different persons, one disappearing to be replaced by another repeatedly throughout time.
この断見が意味するのは、アートマンは根本的に異なる者の連続、つまり、
繰返しずうっと、消えては他者に置き換えられる者に過ぎない、ということだ。
In other words, the X who did the action whose fruit X is now experiencing is a radically
different X from the X who is now experiencing it.
言い替えれば、X2が今その行為の果報を感受しているわけだが、<その行為をしたX1>は、
<今感受しているX2>とは根本的に異なる。
That first X has disappeared and has been replaced by a different one.
その最初のX1は消え、別のX2に置き換えられている。
The Buddha avoids this error -- and the eternalist error of self-causation --
by refusing to get entangled in questions of personal identity.
ブッダは、アートマンの論争点に巻き込まれることを拒むことで、これらの誤りを避ける。
>>846 そこに記述してあるのは、つまり論理構築の無効性について説明してある訳ですね。
共同体は、相互に共有しあう論理規範において護持されるが、
仏陀の成道とは、これから全く離れている。
松岡子規は、共同体の価値基準から全く断絶した状況におりましたし、
この状況を作為的に作りだすのが「犀の如く歩む」。
これが先ずスタート地点かと思いますね。
スタート地点以前について論じていても、それまでにいつかは寿命が尽きる訳で、
せっかく仏縁に触れたのなら、やはり成道してもらいたいもんです。
× 「犀の如く歩む」。 〇 「犀の角の如く歩む」。
無我ということ
「アートマン」には、形而上学でいう「実我」と、普通に言う「自己」という両様の意味がある。
仏教で言うのは後者である。
実我とは常・一・主・宰の実在とされるが、仏教では、そもそも「実我が存在する・しない」
という見解には立脚していない。決着のつかない実我の有無論争という形而上学の問題には
関わらない、というスタンスだ。
(したがって、厳密に言うと、無我を「実我ではない」または「実我が存在しない」と訳すのは
適訳ではない、ということになるだろう。)
そうかと言って、自己が存在しない、と言っているわけでもない。
色(1)、受・想・行・識の個々(2)、また五蘊個々の総体(3)が、自己なのではなく、また、
それらを離れて(4)自己があるわけでもなく、(以上は、四句分別を用いて分析されている)
それら五蘊が和合して自己を成り立たせている、とする見解である。
二重の意味を兼ねる「アートマン」という語を用いた意図は、
>>686 で言及された「密意」と
いうことにも関わってくるだろう。(『真理のことば 感興のことば』383ページ参照)
(この点、
>>845 で触れられた仮名、施設、「世俗の言語慣習」や勝義諦などとも関連していて、
ウパニシャッドで実我概念に高められた言葉を、再び世俗の意味に引き戻した上で、真理を述べる、
という仏教での術語の用い方の一端が伺える。)
以上は根本仏教での話であり、三法印の「諸法無我」という言い方には、体系化に伴う、実我的な
ニュアンスがあるだろう。上記の点を理解した上で用いる分には、問題ないだろうが。
sabbe dhammA anattA. (ダンマパダ 279) 一切のものは実我でない。
850 :
神も仏も名無しさん :2007/03/26(月) 21:56:11 ID:RMPtqc5a
こらっ 阿呆陀羅經っ 南無妙法蓮華経に帰依しなさい。
852 :
神も仏も名無しさん :2007/03/26(月) 23:30:02 ID:2TWOw49I
>>851 お前は強いものにこびへつらう性質の人間に過ぎないじゃないか!
アホダラがさんがお前に見習うなどと思うな!
>>396 悟りは要領 讃江
> 哲の女、哲学の巫女らしく生死一如、みごとというしかありません。
> ソクラテスとハイデガーを媒介としてほとんど仏教的悟りにまで
> 入っておられたような・・
「それ」に仏教的も非仏教的もありません。
仏教ではそれを悟りと呼ぶというのならまだしも。
孔子なら「知道」、ソクラテス-プラトンなら「イデア認識」とでも
呼ぶでしょうか。
(でもセム圏でいう「回心」とはさすがにちょっと違うようですが。)
虚構の戯言を吐かしてないでおのれの生活態度を反省しなさい。 そして黙ってトイレ掃除をしてなさい。それが佛道である。
>>842 のつづき
>例えばですが、茶席においては「粗茶ですが・・云々」と言う言い方をする。
ここにおいて、粗茶とはどいう性質のものか?を論考するのは愚です。
粗茶の意とするところは相互の暗黙の了解があることを前程としての「粗茶」です。
語義そのものよりも、相互了解が第一義となる。
(これは文化として人類が学習した一例です)
これに類似する手法が仏典にありまして、
ある言語を提示することにおいて(俗諦)、その語義そのものを否定する(方便・手段)。
相互了解にまで昇華することにおいて帰結となす(真諦)。
(この場合は文意解釈よりも、直覚的感得が第一義となる)
『大毘婆沙論』巻23に出てくる4種類の縁起のうちの「刹那縁起」が、 中観派で多用する、(同時同処の)相互依存性としての縁起解釈につながったのではないか。 〔刹那縁起とは、一刹那に同時に各支が関係するものであり、 他の3つの、時間的に前後する解釈とは異なる。〕 また、本来、縁起の発見が、以下のような「(四諦の)集諦、苦の原因」探求に始まるものだったとすれば、 順をおって原因をさかのぼってゆくものであり、同時発生的なものとは言えないと思う。 kiM-paccayA jarAmaraNaM. 何に縁(よ)って老死が(あるのか)。 jAti-paccayA jarAmaraNaM. 生に縁って老死が(ある)。 (出)生を生起、老・死を衰・滅、つまり、生・異・滅の三相、と解釈することで、 存在論上の分析にも縁起を用いるようになるが、 これも、成道直後の期間に想定された縁起の本義ではないと思われる。
いささか古いファイルですが、<2001.6.6
原始仏教に関連する写本もかなり発見されているようですね。
ttp://www.classics.jp/Contents/Assets/publication/NLpdf/NL07/NL07Mats.pdf バーミヤン渓谷から現れた仏教写本の諸相 松田和信
ガンダーラ語の『大般涅槃経』(2世紀)の断簡
いずれの漢訳にも一致しない未知のヴァージョン
散文で因縁物語のついた『法句経』の断簡
阿含,律,阿毘達磨の三蔵文献の断簡も数多く
パーリ中部経典の第95経に対応するもの
漢訳阿含には見い出されない経典
説一切有部『長阿含』のギルギット写本
漢訳大蔵経に残る『長阿含』は法蔵部教団が伝えたものであり,
説一切有部のそれは漢訳されていない。
『四衆経(Catusparisatsutra)』の中程(Waldschmidt ed.,§27a)から最後まで,
『大本経(Mahavadanasutra)』のほぼ全文
859 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/03/28(水) 07:15:55 ID:E4DfUXAp
>>857 論題とすると非常に優れてますね。
私は、こういうテーマでレスポンするのは好きです。
いろいろ書きたいことがありますが、しかし、
わたくしが書いてしまっては、アホダラ氏の出番がなくなりますので、
ここは師に、いろいろと教示を賜りたいですね)^o^(
だがしかし
>>845 の如く、意味のない書き込みは遠慮願いたい。
860 :
神も仏も名無しさん :2007/03/28(水) 08:35:28 ID:V9GVMJ0r
>>853 ,:'/ ヽ、 ゙、\
{,:' , , ,',' l , ゙、 ゙、 ヽ
/ / ,' l|{ | ',', , , ', ', ゙、
{ ! { ノl|゙、 ゙、','\ ',', ',| | }
| l { _ゝー"~ ̄ ̄~゙二゙ヽ、',', |! | |
', ',、ィ'゙ ,;'''テ、 "{(゙フヾ、 ヽ,' ,'| | |
'´ ',ッ'{ー'.:} |.:.:.:.:} ,' ,'-'、 l ,' 花のいのちは短くて
{} ゝ-' ゙ー" ,' ,'、) } ,' ,' 苦しきことのみ
゙'l 丶 ,' ,'ノ_ノ ,' ,:' 多かりき
ノ人 ⌒ || 7 /_/
/,:' ゙ヽ、 , |h,ヽ、 ノ
// ゙ヽ、__、、- ' |、 ', ヽ
( ( | 〉冖7‐''" ゙、} } お父様、晶子は寂しいより、悔しい。
ヾ'、 ノ/ / /彡-' "ノ ノ
ヾ, _, -'/ / / ノ/ \ この世では知りえない、あるがままを知りたいわ。
_ノ / (ノ / _,, - '' " ゙、
あなたは、お知りになったの? この世の存在の神秘を。
そして、私は知りました 全ての存在の神秘を!
一切行無常 一切法無我 一切皆苦 涅槃寂静
861 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :
2007/03/28(水) 12:45:31 ID:E4DfUXAp >>857 >存在論上の分析にも縁起を用いるようになるが、
これは十二支縁起で、釈尊成道とは直接関係ないのですが、
これを論法的にアタマをゴチャ混ぜにして、掲示板に書き込みしておる某コテハンがおりますね。
わたしは何度もそれを指摘したことがありますが、
全く意味が解らんようです。
>これも、成道直後の期間に想定された縁起の本義ではないと思われる。
勿論そうです。
本義じゃないです。
>『大毘婆沙論』巻23に出てくる4種類の縁起のうちの「刹那縁起」が、
>中観派で多用する、(同時同処の)相互依存性としての縁起解釈につながったのではないか。
これなどは実にいいモチーフですね。
自性における縁起は理論上は簡単です。自性があるんだから。
果たして無自性の縁起とは?
これですね。比較検討が一番わかり易い。