なにがなんでも親鸞会

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368渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
>>319
 親鸞会に誘われている大学一年生の諸君へ。 カルトに嵌るなよ。

 阿弥陀仏は自然を知らせん料なりという意味を説明しよう。

 イソップは、冬になってキリギリスが蟻の家に物乞いに行ったと言う話をしている。蟻が必死
に働いていた秋、キリギリスは蟻を馬鹿にして笑っていた。キリギリスが笑っても、蟻はそんな
ことにおかまいなしに働いていた。結果は冬に出た。
 蟻を笑うキリギリスがいると思うか?。そんなキリギリスはいないのだ。蟻に物乞いに行くキ
リギリスがいるか。そんな蟻はいないのだ。そんなことを聞けば、三歳の子でも笑うだろう。体
が弱って蟻の巣に近づけば、キリギリスは蟻の餌食になるだろう。

 蟻というのは、「勤勉に働くことは大切なことだ」という自然の道理を人々に知らせるための
資料なのだ。キリギリスは「怠惰な生活をしてはいけない」という自然の道理を人々に知らせる
ための資料なのだ。大事なことは、キリギリスを祀ることでもなく、蟻を信仰することでもない。
カルトに嵌るとこういう話がとんでもないことになる。カルトは、キリギリスを祀ったり、 蟻
を信仰したりしかねない。キリギリスに救われました。ノータリンのカルト信者は、「蟻に救わ
れました。キリギリスに救われました」という馬鹿話を他人に聞かせたくなる。

 <御仏壇の「ランカン」の角で、銀の棒が五分間置きにキラキラ光り輝いて下さった不思議な
る体験を、ハッキリさせて頂きました>。
 <「救われた瞬間、その体験をさせて下さった方(実際の蟻)と、それまで言葉の上で聴いて
イメージしていた「蟻」とがあまりに違いすぎて、頭の中ですぐには結び付かなかった」という
意味だそうです>。
 こんな馬鹿な話があると思うか。
369渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/07/13(金) 09:40:29 ID:oS8HIqJy
 蟻とキリギリスは、子供達に話して聞かせる童話だ。蟻に救って貰おう。キリギリスに救って
貰おうなどと、そんなことを子供達に話してはいけない。蟻は何者も救わない。キリギリスは何
者も救わない。蟻に救われることが必要ではない。キリギリスに救われることは必要ではない。
蟻に象徴化し、キリギリスに象徴化したイソップ先生の知恵を頼みとし、象徴化した知恵を頼み、
として子供達に勤労の大切さを伝えることが大事なのだ。

 阿弥陀仏に救われるという概念は、浄土真宗にはない。阿弥陀仏に頼むという考えもない。蓮
如は、阿弥陀仏を頼みとするという言い方をする。阿弥陀仏という架空の仏に象徴化してある知
恵を他力とし、阿弥陀仏をよりどころとし、阿弥陀仏を補助線にして自然の道理を速やかに学ぶ
ことが大事なのだ。

 自然の道理を学ぶとは、自然の道理が訴えている真理観、認識観を共有すると言うことだ。同
じ世界観に立つということだ。自然の道理を知らなかった世界観から、道理の分かった新たな世
界観に往き、新たな世界観に基づいた生き方を始めようじゃないか(往生)。蟻・キリギリスに
象徴化してイソップが描いているイソップの世界観を共有することが大事なのだ。

 イソップ先生は勤勉になろうと教えている。仏教の先人は、「我が御身の料は、覚し召さずと
も、朝家の御ため国民のために、念仏申し合わせ給い候らわば、めでとう候べし」という。自分
の都合ということを考えないでも、国家のため、国民のために念仏を称え合ったら素晴らしいこ
とでしょう。そのように教えてくれている。先人のその世界観世界に往き、新たな世界観に基づ
いた生き方を始めようじゃないか。
370渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2007/07/13(金) 09:48:04 ID:oS8HIqJy
 阿弥陀仏に救われると思うな。阿弥陀仏は道具だ。補助線だ。南無阿弥陀仏が素晴らしいんだ。
さあ、互いに念仏を称え合おう。阿弥陀仏という架空の仏に象徴化してある先人の知恵をよりどこ
ろとし、南無阿弥陀仏の自然の道理を学び、専一に実践しよう。親鸞は、そう教えてくれている。
カルトに嵌る前、健康な常識を持っている間に、親鸞の真意を間違えないでほしいものだ。

 道元禅師は、只管打坐、余念を交えず、ひたすら座れと教える。親鸞は歎異抄で「ただ念仏し
て」と教える。なぜなら、念仏三昧は、これ真の無上深妙の<禅>門なり。是を以て如来常に三
昧海の中において、網綿の手を挙げて謂く、父の王に曰く、王今坐禅してただ当に念仏すべし(教
行信証 行の巻)、と教えている。


註 無常深妙の門なり(教行信証 愚禿釈親鸞集 行の巻 報恩寺 宗祖真筆本)。
  無上深妙の禅門なり(五会法事讃略抄 愚禿親鸞見聞集 伊勢専修寺蔵宗祖真筆本)。
  禅門とは、中国の達磨大師に起源をもつ北宗禅の流れを汲むという意味だ。
  北宗禅は、比叡山の円仁大師が、遣唐使で中国に留学し、日本に持ち帰った五会念仏(教行
信証 行の巻)を中核とする。