>>319 親鸞会に誘われている大学一年生の諸君へ。 カルトに嵌るなよ。
阿弥陀仏は自然を知らせん料なりという意味を説明しよう。
イソップは、冬になってキリギリスが蟻の家に物乞いに行ったと言う話をしている。蟻が必死
に働いていた秋、キリギリスは蟻を馬鹿にして笑っていた。キリギリスが笑っても、蟻はそんな
ことにおかまいなしに働いていた。結果は冬に出た。
蟻を笑うキリギリスがいると思うか?。そんなキリギリスはいないのだ。蟻に物乞いに行くキ
リギリスがいるか。そんな蟻はいないのだ。そんなことを聞けば、三歳の子でも笑うだろう。体
が弱って蟻の巣に近づけば、キリギリスは蟻の餌食になるだろう。
蟻というのは、「勤勉に働くことは大切なことだ」という自然の道理を人々に知らせるための
資料なのだ。キリギリスは「怠惰な生活をしてはいけない」という自然の道理を人々に知らせる
ための資料なのだ。大事なことは、キリギリスを祀ることでもなく、蟻を信仰することでもない。
カルトに嵌るとこういう話がとんでもないことになる。カルトは、キリギリスを祀ったり、 蟻
を信仰したりしかねない。キリギリスに救われました。ノータリンのカルト信者は、「蟻に救わ
れました。キリギリスに救われました」という馬鹿話を他人に聞かせたくなる。
<御仏壇の「ランカン」の角で、銀の棒が五分間置きにキラキラ光り輝いて下さった不思議な
る体験を、ハッキリさせて頂きました>。
<「救われた瞬間、その体験をさせて下さった方(実際の蟻)と、それまで言葉の上で聴いて
イメージしていた「蟻」とがあまりに違いすぎて、頭の中ですぐには結び付かなかった」という
意味だそうです>。
こんな馬鹿な話があると思うか。