【浄土の真宗】がんばれ親鸞会

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346渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
>345
>なんの為に念仏をするのですか?

 無明長夜の燈炬なり 智眼くらしと悲しむな 生死大海の船筏なり 罪障重しと嘆かざれ
 念仏は闇夜を照らすたいまつである。目の前が暗いことを悲しむことはない。念仏は、再起
(生)挫折(死)再起(生)挫折(死)、生死(まよい)を繰り返す荒海を渡らせてくれる船で
ある。自分は罪の重い存在であることも悲しむ必要はない。

 「なんの為に念仏をするのですか?」は、近眼の人に「どうしてめがねをかけるのですか」と
いう質問とよく似ています。近眼の人は先がよく見えない。しかし、めがねを知っている人は、
目がよく見えないことを悲しむことはない。なぜなら、先を見えるようにしてくれるたいまつを
知っているからです。
 道を歩けば車が走っている。電柱もあり。石も転がっている。目がよく見えなければ、危なく
て外も歩けない。しかし、めがねはそんな危険地帯を安全に歩かせてくれる。頼もしい船のよう
なものだ。確実に安全に我々を誘導してくれる。目がよく見えなくても、目が悪いことを決して
嘆く必要はない。

 念仏はめがねのようなものです。座禅して、親鸞が勧めている五会念仏を称えていくと、今ま
で忘れていた情報を思い出す。歪んだ思いこみで間違った考えをしていたことも気づくことがあ
る。だからこそ、我々は、親鸞聖人の勧める念仏三昧、五会念仏を称えるわけです。
347渡海 難  ◆Fe19/y1.mI :2008/03/24(月) 01:01:29 ID:hXIeq1+Q
> 念仏をすれば阿弥陀仏から信心をもらえるんですか?


 称名念仏は、信心を得ることを直接の目的とはしません。めがねをかけると言うことは、めが
ねを作ってくれた人の心を知ったり、めがねを作ってくれた人に感謝するということが目的では
ありません。そうではなく、安全な生活、幸福な生活を得るためにめがねをかけます。

 念仏は、人生のめがねとして、先の見えにくい日々、少し先を見えやすくし、安全な生活や幸
福な生活を得ようとするものです。

 しかし、めがねを作ってくれた人から、めがねを作ってくれた人のその心をいただくというこ
とは、めがねを使わせて貰う身にとってはとても大事なことでしょう。めがねを作ってくれた人
の心をしみじみと感じられるようになり、めがねを作ってくれて届けてくれた人に、心から「安
全をありがとう」と感謝する心は、めがねを使わせて貰う限り大事にしたいものです。
 めがねを作ってくれて届けてくれた人に「ありがとう」と感謝すると心は、行動で表現したい
ものです。それは、近眼で目が不便な場合、めがね大事に使わせて貰うということに他なりませ
ん。めがねを作ってくれた有り難いその恩に報いようとすれば、近眼で不自由な目にめがねをか
けさせて貰うということしかありません。近眼の人がめがねを使うと言うことこそ、めがねを作
ってくれた人の喜びとするところでしょう。めがねを使う人は、めがねを使うと言うことが恩に
報いるつまり報恩ということです。

 念仏をしっかり、大事に使いこなしていくと言うこと、信心というものは、念仏を使いこなし
ていくそこにあるものだろうと思います。