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渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :
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>なんの為に念仏をするのですか?
無明長夜の燈炬なり 智眼くらしと悲しむな 生死大海の船筏なり 罪障重しと嘆かざれ
念仏は闇夜を照らすたいまつである。目の前が暗いことを悲しむことはない。念仏は、再起
(生)挫折(死)再起(生)挫折(死)、生死(まよい)を繰り返す荒海を渡らせてくれる船で
ある。自分は罪の重い存在であることも悲しむ必要はない。
「なんの為に念仏をするのですか?」は、近眼の人に「どうしてめがねをかけるのですか」と
いう質問とよく似ています。近眼の人は先がよく見えない。しかし、めがねを知っている人は、
目がよく見えないことを悲しむことはない。なぜなら、先を見えるようにしてくれるたいまつを
知っているからです。
道を歩けば車が走っている。電柱もあり。石も転がっている。目がよく見えなければ、危なく
て外も歩けない。しかし、めがねはそんな危険地帯を安全に歩かせてくれる。頼もしい船のよう
なものだ。確実に安全に我々を誘導してくれる。目がよく見えなくても、目が悪いことを決して
嘆く必要はない。
念仏はめがねのようなものです。座禅して、親鸞が勧めている五会念仏を称えていくと、今ま
で忘れていた情報を思い出す。歪んだ思いこみで間違った考えをしていたことも気づくことがあ
る。だからこそ、我々は、親鸞聖人の勧める念仏三昧、五会念仏を称えるわけです。