105 :
ぼらさんに疑問:
>もし、親鸞聖人に全く彼の回心体験を否定するような根拠があるのならば、
>きれいさっぱり決別できるという期待とが、織り交ざっている、
>それが回りくどい質問文となってあらわれた、な〜んて邪推やねw。
いえいえ、邪推どころか、そのとおりです。私が知りたいのは、端的に「親鸞
会は誤っている」という根拠です。そしてそれはぼらさんの仰るとおり、「き
れいさっぱり決別」したいからに他なりません。かなり私も激しく活動した身
です。もう親鸞会を離れて随分でして、かなり相対化してきたのですが、やは
り他の宗教団体と異なる特徴を親鸞会はもっていたと思うのです。それは「信
の一念」ということで、たとえ会員であれ、講師であれ、この体験がなければ
地獄に堕ちるという凄まじく妥協のない教義でした。これは、ぼらさんが「で
きもしない体験」と仰ったものですが、その「できもしなさ」、難中の難を高
森氏は正面切って認めていました。
親鸞会をカルトと呼ぶのは2chの通り相場で、実際通例のカルトと傍目から
は同じに見えますが(私はこれを全く否定しません)、しかし、彼らの精神態
度はカルトと随分異なっていることも私は証言しなければなりません。という
のは、彼らは少しも熱狂的ではないからです。熱狂的に見えますが、逆に熱狂
的であろうと涙ぐましい努力をしているようです。みんな醒めてました。彼ら
は阿弥陀仏すら信じていないことをよく自覚しています(現会員から反論があ
るかもしれませんが)。信じても無駄だという「信仰」への深い脱力があり、
これが彼らと一般のカルトとを区別する精神態度だと私には思われるのです。
106 :
ぼらさんに疑問:2007/04/22(日) 19:51:54 ID:MD29I+3O
こういったわけで、ぼらさんの私に対する診断はよくあたっております。まだ
どこかで「決別」できていないのでしょう。ただこのことは「回りくどさ」と
は少しも関係がないことは注意してください。定義を厳密にしなければ、私と
ぼらさんが同じ語を別の意味で使う危険性があり、不毛な水掛け論に終ってし
まうためです。
>疑問さんの正直なとこを出せば、質問文自体もっと明瞭になるんではなかろかな
正直なところを上に出したのですが、質問文はやはり同じでした(笑)。申し
訳ありません。
■質問■
「自力がまじわらぬが三業に現れた」現象を「体験」と呼んだとして、絶対的
超越的「体験」が、浄土真宗の「体験」ではないことの、解釈の余地を容れな
い根拠を提出してください。根拠の提出は、親鸞の言葉でお願いしたいと思います。