【宗教】信仰問答【哲学】part8

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141名無しさん@3周年
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1164354187/242
> 批判のカテゴリーは下記の分類がメインだと思います。
>
> 1:仏教徒の人間性。
> 2:現存する仏教集団と国家社会との関係。
> 3:仏教理論
>
> そして、最後は
> 4:開祖釈迦の方法論、および行動への批判です。
>
> 対機説法の不確定性。臨機応変は伝承可能か?
> 伝えられないものを、伝えようとしていなかったか?などですかね。
1421/6 素人:2007/02/06(火) 22:52:10 ID:89jhCfIL
>>140
> 1-1・仏教の教義は誤りである。
> 1-2・
>(イ)仮に教義が正しいとしても、あなた方は守っていないではないか。
>(ロ)そもそも守れない無茶な教えなのでは?

1-1に関する疑義については、当然あってもいい形。(各論に入って細部の検討にならざるを得ないと思うが。)

1-2に関しては、少し問いの立て方がアバウトに思える。
たとえ大きな括りとして最初に設定される土俵だとしても、対象が不鮮明。
(ロ)の文は、1-1と同じ疑義となっている。1-1の各論と位置づけるべきではないか?
また、(イ)についても、『教義を守る』という記述は今一つしっくりこない。
その内容によっては、『守る守らない』という括りとは別次元のことになる場合があるからだ。特に仏教に於いては・・。
また、上の批判・問いに於けるように、『教義』を
「理論(法・経)」と「実践の方法(行・修道論)」と「行動規範等(律・戒・その他)」
などを含んだものとするなら、ざっくり行き過ぎではなかろうか・・?
また、(ロ)に関連して「実践する人(比丘・サンガ)」「参考にする人(在家者・他宗者)」「伝承する人」
(さらに細かい区分も可能だろうが・・)などがありうるとするなら、
1-2の問いに一つの答えというわけにはいかないだろう。
また、「辞書的解説も許されない」ことが意味されているのかどうかもポイントではなかろうか?

(ロ)に関しては、興味深いポイントだと思われるし、一通り種々の部分が確定された後、
「さあどうだろうか」と再度問われるべきかと思う。その教義や実践方法の内容によって変わってくるだろうから。
(勿論、「守る」という表現が妥当かどうかという点は吟味されねばならないが・・。)
1432/6 素人:2007/02/06(火) 22:54:31 ID:89jhCfIL
>>140
> 1-2が主に仏教側に人格批判ととられてしまう。
> 宗教学者の立場であれば1-1だけ言えばいいのですが、宗教者であると宣言されると1-2は含まざるを得ません。
> 教義だけでは宗教としては意味がないからです。
> よって1-2も含んだ上で批判しますがそれでよろしいですか?

これは、以下の貴方の提起の仕方(「仏教徒」という括り方)とも関連するが、仏教に触れた者には、
学者と宗教者しか居ないのでしょうか? もし、その他にも存在しうるとすれば、
1-2における[あなた方は]という謂いが、最初からある意図の下に問題を限定していることになる。
ここでも、「辞書的解説も許されない」ことが意味されているのかどうか・・・?
フーテン氏がhttp://life8.2ch.net/test/read.cgi/psy/1168693403/630で呟いたように・・・。

勿論、理と行とが不可分であるという理想は私も持っている。
しかし、考察や情報の提示などに関しては、その制限から一歩外すことも可能ではないかと思っている。
だから、ピュアな(信仰面を削ぎ落とした)学問が成立するのだと思う。
(もっとも、信仰やプラス評価を完全に削ぎ落とすことはできないだろうが・・・)
1443/6 素人:2007/02/06(火) 22:55:24 ID:89jhCfIL
>>141
> 批判のカテゴリーは下記の分類がメインだと思います。
>
> 2-1:仏教徒の人間性。
> 2-2:現存する仏教集団と国家社会との関係。
> 2-3:仏教理論

2-1:>>140で触れたように、[『仏教徒』として括られるのはどのような人達なのか?]
 が定義されないと先へ進めないと思う。
 また、上記140のように、或いは宗教は人格を更生する、という定義を用いるなら、
 この2-1の前に、1-1が、ある程度固められている必要があろう。
 1-1が、どこまで人格形成に関わるのか、1-1のみに起因する事柄なのか、と・・・。

2-2:日本仏教史は勿論のこと、南方上座部、特にスリランカの歴史を押さえなければならなくなると思う。
 サンプルとしてこれ以上のものはない。
 (過去の歴史性を排除し現状のみを語るなら別であろうが・・。)
 そして、現存する仏教集団の多様性を考慮すれば、多岐にわたる話題となろう。
 また、北伝仏教が、南方のように王権・為政者との「明確な」結びつきを持たなかった点は興味深いと思う。

2-3:これは1-1と同じであろうが、これについて語る時は、
 1-2及び2-1には原則触れずに進める必要がある筈だ。
 逐一寄り道をしていては骨格のアウトラインがぼやけることもあろう。
1454/6 素人:2007/02/06(火) 22:56:55 ID:89jhCfIL
>>141
> 2-4:開祖釈迦の方法論、および行動への批判です。
> 2-5:対機説法の不確定性。臨機応変は伝承可能か?
> 2-6:伝えられないものを、伝えようとしていなかったか?

2-4:ここで言う「方法論」とは何を指すのでしょう?
 説き方?理論の解説の仕方?修行の仕方?仏教という一つの思想を拡げるための政治的手法?
 膨れ上がり拡がった(社会集団として確立した)サンガの維持について?
 比丘と比丘尼とを明確に分けたこと?出家と在家を明確に分けたこと?
 また「行動」とは、(上記と被る部分での)説き方?釈尊自身の行履?
 サンガという組織を認めそれを維持しようとしたこと? 最初期は誰彼構わず受け入れたこと?
 為政者・富裕層と接点をもったこと?
 初期の頃は積極的伝道(→半ば強引な出家・パトロンの確保等)の姿勢があったこと?
 語りに於いて、(ある意味冷酷とも言うべき)厳格さ・ストレートな部分があったかもしれないこと?
 2-5にも関わることだが、その説き方に場当たり的な面(→解釈の幅を許す面)があったこと?

2-5:この問いはそのまま使用できるでしょう。

2-6:1-2の(ロ)と、ほぼ同質の問いとなるだろう。  また、1-1と密接に繋がり、
 「何が伝承されてきたのか。」
 「何が(変わらず)伝承されるべきことなのか。(≒変わってもいい部分はどこか。)」
 「伝承の方法、或いは在り様として如何なるものが歴史的にあったのか。」
 「伝承の方法、或いは在り様として如何なるものが今後想定できるのか。」
 「たとえ、核(コア)を保持しつつ伝承するのでなく、とことんイイトコ採りでエッセンスを抽出するにしても、
  そこにおける取捨選択はなされるわけで・・。(そのためには功罪共に把握される必要もあろう)」
 等を踏まえた上で、核となる部分が伝達可能なものかどうかを吟味することになろう。
 ※またこの問いは、『仏教は「体験」「神秘体験」や「感覚的知覚」を骨格としている』
   という前提からスタートしてはいないだろうか?
   (袴谷・松本に組するわけではないが、私は、『仏教の骨格は理である』と見ている。)
146あとがき 5/6:2007/02/06(火) 22:58:23 ID:89jhCfIL
暇な時に少しずつ作文していたものだが、
書き込んだら、また続けなければならなくなるし、
カテゴライズの代案の提示も義務付けられそうなので、メモパッドのまま眠らせていた。
また、その他にも幾つか返した方が良さげなレスはあるのだが、まだ手をつけていない。すまん。


また、少しチラ裏をしてみれば、
私はこのメンバーで(というか2ch内でと言ってもいいくらいだが)、
まだ仏教の"ぶ"の字程度しか語っていない筈だ。(私個人の仏教観については尚更・・・w)
延々書き連ねたのは、てすとのツッコミやりょんの疑問、昆布のイヤミに絡んで、
仏教に相対する時のスタンス・姿勢の一例が主となっていたと思う。(或いは信仰告白めいてもいたか?・・・w)
『私が』現世否定? 現実否定? 俗世否定?  私の様々な書き込みの、どこをどう読んでいたのか?w(>>大王)

私は、初期仏教において「逃避」や「寄生」、「外野の視点」という要素があることを認めるし、
現代日本仏教に対しても、「祭祀宗教」或いは「葬祭業」という要素があることを認める。
良し悪しはともかく、現状認識として忘れてはいけない点だと思っている。
が、だからと言って即座に「現状追認」或いは「原点回帰」へと直結するのは如何なものかと思う。
2500年の間、先人達が伝えてきたエッセンス・核の部分をはっきりさせ、摺り合わせる作業なしには、
次の一歩はない。その作業がなかったら、(単純な継ぎ接ぎでは)、数ある新興宗教と変わりはない。
同じ轍を踏むだけだ。「仏教」という看板を護持するならば、避けられない作業であろう。
また、よしんば、座右の銘として、人生観・処世訓として用いるにしても、
現在の乱用に対し、しっかりと対論は掲げられねばならない。(どれが正しいとかベストであるとかはひとまず措く。)
また、種々為される批判・疑問へ回答をするならば、押さえるべきポイントは押さえられねばならないし、
そのためには、棚上げという批判も覚悟の上で
「何が中心とされるべきか、主となるべきか」の考察が必要だろうと思うのだ。

最悪言ってみれば、今存在するのは学者だけでもいい。
そこに何か、次代の萌芽を残せるのであれば・・・。
147あとがき 6/6:2007/02/06(火) 22:59:43 ID:89jhCfIL
座右の銘として、人生訓として、視点のとり方として、
仏教を(仏教的エッセンスを)採用することを否定し妨げるものではない。
また、現代日本仏教の抱える諸問題をないがしろにするつもりもない。
無常を標榜する以上、仏教を巡る在り様も変わってもいい。
ただし、『仏教』というラベルを用い続けるならそこには、
外してはならないポイントがあるであろうということだ。
そして、その部分を批判されれば反駁せねばなるまいし、
過去昔日の評価される部分を批判されれば、それもまた反論せねばなるまい。
イイトコ採りをするにしても、過去の評価すべき点は評価すべき点として俎板に乗せられるべきだろう。
その上で、現代の世相・行政も視野に入れ、どのような在り方が考えられるのかへと向かうことができる。
勿論、一通りではないだろう(→>>143のように・・)。
仏教が解体され、何か新しい価値体系が構築されるならば、それもまた良し。
それが、より万人に益するものであるなら、その方がいいかもしれない。
(ただ、こうした事象は、単に理論が整備されれば済むことでなく、
 文化として社会との関わりの中にある物である以上、
 コンセンサスというか、社会的に認知されるという要素が不可欠であろう。
 青島刑事ではないが、「宗教は文字の中にあるのじゃない。現場で起きている。」と・・・。
 その現場も、国とか地球規模とかでなく、地域社会や「家庭」であったりするのではなかろうか・・・。)
ただ、りょんには申し訳ないがw、仏教に惚れた者としては
「仏教というラベル」と「核(コア)とその周縁」くらいは護持してゆければ・・と思うのだ。
たとえ、その担い手が自分ではなかったとしても・・、自分が担えなかったとしても・・・。


結局、全てがチラシの裏的なレスになってしまったが、てすと氏にはきちんと返答していなかったので、
とりあえずのレスを返す。 不十分で納得いかないものではあろうが、一旦御容赦願いたい。
私の引き出しで足りる程度のことなら、軽い返答くらいは出来るだろうが、
ひとまずこの辺で・・・・。
また機会があれば(ハイテンションにでもなれば、あるいは酔っ払いでもしたらw)喧嘩しましょうw

ノシ