原始佛教 その21

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893名無しさん@3周年:2007/02/18(日) 08:23:14 ID:QIh5JeL4
素朴実在論をテーマにしたHPの一例
http://www.bekkoame.ne.jp/~pyonpyon/science.html
量子力学と、素朴実在論は、相反するものであるものであると確認できるでしょう。
もちろんアイシュタインは素朴実在論の立場だったということも確認できるでしょう。

縁起を説く、ゴータマ仏陀の佛教が、素朴実在論だというのはトンデモさんですね。
894名無しさん@3周年:2007/02/18(日) 08:38:49 ID:2trlKJ27
>人々は,《実在》の問題を論じるために,「あるものが存在する」という形式での解答を得ようとし,
>存在の主体として<原子>や<場>を分節してきた。しかし,実際には,
>このような存在認識を行う過程で<客体化>と呼ばれる認知的な操作が遂行されており,
>そのために,知覚その他からの情報が「存在者の存在」という形式に当てはまるように歪められている。
>したがって,この形式に則って思考する限り,《実在》について正当な判断が下されるとは期待できない。

と書かれています。
要するに、
まず「認知的な操作があり、存在するという証明を行ない、これは認識・主観から独立して実在している実在である」と帰っていくので、「《実在》について正当な判断が下されるとは期待できない。」といっているのではないのですか?

>>853
>素朴実在論とは、知覚認識が先に来るんだ。そして知覚認識があるということは外界にその事物が存在すると説く。

と同じことを言っていますよ。
895机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/02/18(日) 08:39:02 ID:ANht0snB
素朴実在論というのは、哲学とかいう程のもんでもない、
いわゆるビギナークラスの語義ですね。

ってか、電波先生は別としましても、
仏教学者と言われる者が、市井を騙くらかし著書など発行するもんですから、
高い金を払って本を購入した市井の人間が、
ますます迷うようになる。
その罪は重い。

釈尊の法は、一部学者によって捻じ曲げられる。
気を付けたし。
896名無しさん@3周年:2007/02/18(日) 08:47:38 ID:QIh5JeL4
>>894
>まず「認知的な操作があり、存在するという証明を行ない、これは認識・主観から独立して実在している実在である」と
>帰っていくので、「《実在》について正当な判断が下されるとは期待できない。」といっているのではないのですか?

誤謬です。 素朴実在論とは、誰かが認識しようとしまいが、そこにある物は、そこに”在る”というスタンスです。
主観の意識や表象はそれを模写するものにすぎないとするという考えです。
辞書でも引いて調べてみれば?

それとも、辞書などに書かれていることより、電波大先生の主張が正しいということで?
もしそうならあきれてものが言えませんな。ちゅうかあんた、電波男だし(苦笑)

ヤレヤレ。
897阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/02/18(日) 08:52:05 ID:G0jMh69b
歯車失格の失脚「出禁バカ」やら、何も読めずに虚に吠える基地外破落戸やら、スレ違い論外と虫食いだらけ。疾く疾く誘導先へ出て失せよ。
898名無しさん@3周年:2007/02/18(日) 09:00:59 ID:2trlKJ27
>>896
あのね、書き忘れましたが、>>894の引用はttp://www005.upp.so-net.ne.jp/yoshida_n/P3_con.htm
の内容ですよ。で、誤謬とは、素朴実在論の陥る罠のことなのではないですか?

辞書の内容は読みましたよ。その上で言っているのです。
>主観の意識や表象はそれを模写するものにすぎないとするという考えです
そう思います。思いますが、そこに導かれるまでには、「認知(主観の意識)の影響が端からあるのだ」
ということでしょう?

>ちゅうかあんた、電波男だし(苦笑)

・・・・貴方も素朴実在論者ですね。もろw
「《実在》について正当な判断が下されるとは期待できない。」w

899名無しさん@3周年:2007/02/18(日) 09:10:36 ID:2trlKJ27
電波氏も言葉が足りないようですね。

知覚認識
  ↓
 存在(知覚認識否定=>主観の意識や表象はそれを模写するものにすぎない)ですね。
900名無しさん@3周年:2007/02/18(日) 09:12:05 ID:9eMUluTr
なにか専門用語を駆使すれば自分の意見は高級なものだと勘違いしているイタい人がいるようだな。
またそれを聞いてこの人はなにかすごい人だと勘違いしているイタい人もいるようだ。
よくいるんだよ、プレゼンでやたら専門用語、誰も知らないような横文字を駆使して悦に入っている馬鹿と、
それを聞いて、意味もわからず、なんか皆が知らないような言葉を駆使するこいつは、
なにかできる奴だと聞き入り、勘違いしている馬鹿が。
しかも肝心なその専門用語が、意味違い、まるで的外れなもので、語ってる本人はそれに気づかす
そのまま得意げに語り、聞き手もその間違いに気づかず、意味も分からずに、
その専門用語に惑わされ、この人は凄いと聞き入っているなら、こりゃもうギャクだろ。どっちも同じ穴の狢。


どちらも、単に幼稚な、馬鹿なだけだよ。
901名無しさん@3周年:2007/02/18(日) 09:18:01 ID:QIh5JeL4
>>898
白いものを、詭弁、屁理屈で、黒だと”強弁”する人とは、まともに会話はできません。
902名無しさん@3周年:2007/02/18(日) 09:34:47 ID:2trlKJ27
>>901
別に屁理屈ではなく、HPの概要に書いてあったことを書いただけですが。

屁理屈?強弁?
いやあ、電波氏でない私を「電波男だし」と決め付ける貴方に言われたくないw
903名無しさん@3周年:2007/02/18(日) 09:47:07 ID:QIh5JeL4
>>897
おや、自分達の気に食わない意見のものは何処かに行けと。。

>>845さんはいいことを言っていますね。あなたもよく読まれてみてはどうでしょう。

あなたも、あなたの師匠も同じ穴の狢。どちらも我執の強い、鬼だよ。

あなた方は、ゴータマさんの佛教とは相反するものだと自覚しなさい。
佛教は学問ではないのですよ。

ところせあなた、すぐに自分達の意見にあわない者を、”外道”だと罵倒しているようですが、
六師外道の話はお知りでしょうか?もちろん原始佛教を語る(つもりにしか思えませんが)くらいなら知っていますよね?
http://www2.big.or.jp/~yba/QandA/99_03_14a.html
実は外道なのは、あなた達だということにお気付きですか?
904阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/02/18(日) 10:00:26 ID:G0jMh69b
同じ穴の狢とは、
基地外破落戸や外道「出禁バカ」の類をいいます(冷笑)。
905電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :2007/02/18(日) 10:35:55 ID:OQPG/JCp
素朴実在論の話には終止符を打ったつもりですが、理解できていない人が多いのには驚いています。

アインシュタインが素朴実在論だとまだ言ってるのですね。
素朴実在論であれば、「量子力学批判」は成立しません。

アインシュタインの立場は「科学的実在論」と言うのが正しいですね。

哲学板か化学板で「素朴実在論」のネタを振って来たらどうですか?
906阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/02/18(日) 10:50:18 ID:G0jMh69b
科学哲学関連の議論は独り言さんご紹介のスレなりで存分に。
但、荒らし迷惑行為は厳禁。
907名無しさん@3周年:2007/02/18(日) 11:03:21 ID:qa7cLyiH
>>580
>   バルトリハリ『古典インドの言語哲学 2』(平凡社)の訳注73に、2種の否定を
>   絶対否定は「?がない」、相対否定は「?ではない」としていますが、この分類は前スレ502や631と
>   同じですが、535さんは、この理解のもとで今まで論じていたのでしょうか。

当然、同じです。赤松さんはとても優秀な方なので信用できます。ご確認ください。
「?がない」は「〜がない」、「?でない」は「〜でない」の文字化けです。

>  631 +2:名無しさん@3周年 ::2007/01/09(火) 06:35:47  ID: 6cUHGzR8 (3)
>  プラサジュヤプラティシェーダ、止濫、med dgag、?がない、絶対否定
>   パリュダーサ、遮詮、ma yin dgag、?でない、相対否定
>
>   少なくとも清弁、月称以降のインド・チベット仏教は以上のようにつかってますが、
>   違うのでしたら論証してください。インドについては江島恵教『中観思想の展開』113-119が詳しく

それから論理学に関して中村元先生は信用できないというのが、常識なので
私は中村先生の論理学は全く参照してません。それが普通です。
もちろん、チベット訳や赤松さんや江島さんを始めとする一般説が、間違っている可能性もありますが、
それには論証が必要です。
908名無しさん@3周年:2007/02/18(日) 11:04:51 ID:qa7cLyiH
>>583
> この蔵語と漢語の同定には、提示されて考えている間に、疑問が生じています。

どうしてですか?

√jJapにしても √jJA にしても rnam par rig pa/識/了 の方は使役の意味がないことは明瞭です。

> 意味としては文脈上、「使役の意味の明らかなもの」と「使役の意味の薄弱なもの」
> となると思いますが、前者に対応する漢語が「使?知」、後者には「表・教・示」などがふさわしく、
> 「表識・了別」などは「唯識派独特の用法」と見るのが自然ではないか、と思います。

そうでしょうか。「表・教・示」は使役形の名詞を漢語で訳しただけだと思います。
「識・了」は「唯識派独特の用法」でしょう。ですからそれは既に述べたように『解深密経』
『リョウガ経』に述べられていたので、そう解釈せざる得なかったと考えるのが
納得のいく解釈だと思います。
909名無しさん@3周年:2007/02/18(日) 11:05:46 ID:qa7cLyiH
>>610
平川先生が、そんな解釈をしているとは残念ですが、『唯識二十論』が外界否定なのは明らかです。
電波男は、artha を認識対象としているですが、それは全く可笑しい。
それなら『唯識二十論』の有名な原子批判は必要なくなるだろう。
認識対象を原子と見て批判するなど意味がないだろう、
外界実在論を批判するために原子論が成り立たないから、物質は成立せず、外界の対象は成立しないと
批判するのである。

また『唯識二十論』は、電波男の認識論のような経量部的「表象主義的外界実在論の批判」を行っている。
それは16偈以下の梶山先生訳に明らか。

>>584
倶舎論索引の vijJapti を見よ。
だから『解深密経』『リョウガ経』が原始仏教的「心・意・識」以外に vijJapti を使ったから、
vijJapti を「心・意・識」の同義語と言ったわけ。

>>585-586
既に示したろう。両方とも世親自身の解釈だ。過去ログを見よ。

>>588
確かに長尾先生は「表象」と訳してるが<本節の漢四訳はすべて vijJapti を「識」と訳している>
という部分を見逃しては何も分からない。
長尾先生は宇井説に従ってrnam par rig par byed pa/教/表 :vi+√jJA+Nic+ktin と読んでいるから
「表象」と訳してるが rnam par rig pa/識/了 : vi+√jJap+ktin と読むべきなのである。
その証拠が蔵訳の rnam par rig pa 漢四訳はすべての「識」という訳に他ならない。
910名無しさん@3周年:2007/02/18(日) 11:28:31 ID:qa7cLyiH
>>591
あちゃ〜、自分で素人の好事家ですって証明しちゃったね。

1.1『翻訳名義大集』は、全ての訳語を記載しているわけではないよ。 常識ですら分かると思うんだが。
1.2  rnam par rig pa/識/了/vijJaptiは前掲 『倶舎論索引』長尾訳『摂大乗論』『リョウガ経索引』
  などで簡単に確認できる。
1.3 rnam par rig par bya pa と rnam par rig pa は別の言葉。
  bya が受動 byed が能動などを意味する形態素であることはチベット語初級だよ。

2. ほとんど言いがかり的こじつけ。

3. 全く逆『摂大乘論』は、これまた前掲 のように <本節の漢四訳はすべて vijJapti を「識」と訳している>

4. これはそうだろう。ただ梶山先生は「 vijJapti 表象(認識)という術語がもっとも重要な役割をはたす。
  外界の存在(対境)を否定する主観的観念論である唯識哲学においては、すべての対象はわれわれの
  意識内容としての観念、表象にすぎない。けれども、この表象にはそれと対応する外界の対象は存在
  しない、ということを著者が論じているときには、この表象という語は認識と訳したほうがわかりよ
  い」(世界の名著2、429)で述べている。
 これは文脈からは認識だと気づいていたが、宇井説の語源分析があるため「表象」とせざるえなかった
 からであろう。 rnam par rig pa/識/了/vijJapti は唯識を解明する画期的な発見なのである。

5. 「表象」でなく「認識、知覚」と理解した方が理解できるのである。それは上のように
  梶山先生のお考えでもある。 「認識、知覚」だけなら分かるが、「表象」だけでは意味が分からない。

以上、電波の文献学がお話にならない好事家レヴェルだということがハッキリした。
911名無しさん@3周年:2007/02/18(日) 11:30:15 ID:qa7cLyiH
今度は、素朴実在論でも珍説を披露。これは一般的なことだから誰でも分かるでしょう。
電波の仏教論は、この素朴実在論と同じレヴェル、ウソがウソを呼ぶ。
電波が >>7-14に全く反論できてないことも再確認されたし。

「ウソを呼ぶデンパー」と呼ばれるべきか?

脳科学の本に高次機能障害になったある患者についてこのように述べている

  どうしようもなく頑固になるくせに、気分が変わりやすく、いざとなると二の足を踏む。
  将来の計画をいろいろ立てるが、変更をくりかえして結局お流れにしてしまう.....
  知的能力や感情面は子どもだが、動物的な性欲という意味では成人男子だった

このような兆候のあらわな電波くんは、機能障害かもしれないから哀れんで優しく扱わなければ
ならないのかもしれない。またその下品な言動はトゥレット症候群かもしれない。

>>590
ダーツパータを見れば意味は分かると思うが。
912阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/02/18(日) 11:35:42 ID:G0jMh69b
ドグマタルチュフ・破落戸セクト奴婢は実に判りやすい、いやまったく(冷笑)。
913名無しさん@3周年:2007/02/18(日) 11:45:50 ID:uLaTA0oE
「素朴実在論」と「科学的実在論」はどちらが正しいのですか?
914阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/02/18(日) 11:46:46 ID:G0jMh69b
かの破落戸は、さしずめ辺執見をそのままに佛教学をかじったジョーユーといったところか(冷笑)。
915机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/02/18(日) 12:23:31 ID:ANht0snB
このまま1000まで逝けば「素朴実在論」で脳破壊。

破貝され、はじめて分る貝のよさ。

                 <森女>
916机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/02/18(日) 12:26:02 ID:ANht0snB
>>913
そもそも仏教は、インド哲学ですから素朴実在論は無縁です。
917阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/02/18(日) 13:28:44 ID:G0jMh69b
粘着壁蝨は、55やらコテハンやら色々名乗ってたが一々面倒なので、今後はかのドグマタルチュフ・セクト奴婢を

「破落戸ジョーユー」

とでも呼び慣らわすとしようか(嗤)。
918阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/02/18(日) 15:22:31 ID:G0jMh69b
新スレッド
「原始佛教 その22」
建てておきました。
919名無しさん@3周年:2007/02/18(日) 15:56:21 ID:gl3Xxs+m
電波男=霊能者バスターズが訳の分からんことをしています。
最悪板電波スレを覗いてくださいw

フシアナをするのは、IPで脅すのが通用すると思っているオカシナ人がいるからです。

電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9kを叩き潰すスッドレ 3
http://tmp6.2ch.net/test/read.cgi/tubo/1161279511/

私と波男のやり取りは、619くらいからですかね。
920名無しさん@3周年:2007/02/18(日) 16:29:47 ID:qa7cLyiH
面白いことに>>626以降、こいつが出現してこない。
本体も忙しく、分身も色々出現してるから、やっぱり出ないんだろう。
921阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/02/18(日) 16:48:41 ID:G0jMh69b
敗訴バカの類友は

「致命王」

とでも呼んでやろうか(嗤)。
922名無しさん@3周年:2007/02/18(日) 17:57:46 ID:0r1HtcYH
>>907
>外境がなく、
>つまり 外境を相対否定して
これだと、相対否定が「絶対の非存在を表すもの」と捉えているように思いますが、

訳注での記述、
>絶対否定は「〜がない」、相対否定は「〜ではない」
>絶対否定を「存在に関わる否定」「絶対の非存在を表すもの」としています
との整合性が取れていないように思いますが。


バルトリハリ自体の理解がそうなのか、それとも訳者だけの理解なのかは、
本文では不明だし、訳注の説明も短いので判断が困難ですが、
(否定対象が名辞か命題かなどにも触れられていないし)
いずれにせよ、絶対否定の解釈が、アチャラの述べたこととは明確に違いますね。

また、バルトリハリの立場はたしかヴェーダーンタ派ではなかったかと思いますが、
仏書を解釈するのにふさわしいかどうかにも疑問は感じます。
923名無しさん@3周年:2007/02/18(日) 18:27:09 ID:qa7cLyiH
>>922
いえいえ バルトリハリは、明確に文法学派ですよ。赤松さんの解説をみてください。
プラサジュヤプラティシェーダ/パリュダーサというのは、元々文法学派の術語です。
それを清弁あたりから仏教の解釈でも用いるようになったものです。
前掲の江島本やアビヤンカルの文法学辞典を参照してみてください。

名辞か命題かというのは、インド論理学を西洋古典論理学で解釈しようとしていた時代の用語で、
現在、そのような用語を用いるのは、譬喩は別として参照すべき学者ではないでしょう。

インド文法学の知識は、古くは辻直四郎先生、大地原豊先生あたり以外は日本で知られていないもので、
現在でも知らない人が多いのです。かくいう私もたいして知りませんが、そのアチャルタの論文を
書いている人が、信じられないだけだと、私は考えます。つまり当然 アチャルタも同じ意味で使っていたと思います。

インド文法学の知識は、Cardona の Panini をお勧めします。これは素晴らしい本です。

信じられる学者と信じられない学者を早く見分けるようにしましょう。
924名無しさん@3周年:2007/02/18(日) 18:37:17 ID:qa7cLyiH
それから絶対否定「〜がない」、相対否定「〜ではない」というのは、
チベット語の med dgag/ma yin dgag を意識していると思われます。
チベット語を直訳すると、「がない否定」「でない否定」となるからです。
チベット語は、仏教での用例に基づいて作られましたから、
インド仏教でも絶対否定「〜がない」、相対否定「〜ではない」という意味で
プラサジュヤプラティシェーダ/パリュダーサを用いていたことが分かるのです。
925名無しさん@3周年:2007/02/18(日) 19:50:26 ID:c054Vk4M
仏教用語としての「相対」とは、本来の文字では「相待(そうだい)」と書きます。
相待つ、もちつもたれつの相互依存関係。あいかたがあって初めて成り立つ関係。
『阿含経』で葦束の譬えによって表されているもので、『中論』の根本的な立場にもなっています。

で、相待を遮り絶するのが「絶待」。これも現代文では「絶対」と書かれることが多い。
「相待関係を絶する」ということ。他を想定することのないこと。


だから、「絶対否定」と書かれていても、絶対的な否定、という意味ではなく、
「相待関係を絶する」という意味での否定であり、まさしく、他をまったく想定しない、
という形での否定、ということになります。

それに対して、「相対否定」とは、「相待」としての否定、つまり、一方の否定と同時に、
他方の肯定を含意し、しかも、否定は背景にあるだけで、肯定が主意となります。
926お休み処 一休:2007/02/18(日) 20:26:46 ID:GcwJZIgC
>>915
*美人の陰に水仙花の香有り
 楚台応に望むべし 更に擧るべし
 半夜玉床 愁夢の間
 花は綻ぶ 一茎梅樹の下
 凌波の仙子 腰間をめぐる
*淫水
 夢に上苑美人の森に迷うて
 枕上の梅花 花信の心
 満口の清淺の水
 黄昏の月色 奈んが新吟せん
   ・・・・・・・・・
一休さん 幸せそう、確かに『死にとむない』やろなあ 

良寛さんと貞心尼さんは???????←すんません、下司の勘ぐりです
927阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/02/18(日) 22:51:57 ID:oQUHkjo8
次スレ 「出禁外道」以外は三々五々お移り下さい。
http://life8.2ch.net/test/read.cgi/psy/1171778595/
928名無しさん@3周年:2007/02/19(月) 07:26:49 ID:OK0Du0CG
ん?こっちは廃棄?
929阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/02/19(月) 07:50:59 ID:n+JDSpcK
いや、仕舞までどうぞ。
930机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/02/19(月) 07:55:03 ID:SCqTR/Gs
>>926
一休は、大陸文化的な大らかさがありますね。
もともと南禅というのは、こういった自由な気風があったのかと思います。
馬祖などよく特徴が表れている。

戦国時代になりますと、利休の出現で多少日本ナイズされていく。
江戸期になると、これがが段々と形骸化されていく過程じゃないか?
白隠は、この形骸化途上の人物やにおもう。
(中興の祖)

ということは、
今はもうドンドン形骸化されているわけで→(既存宗派)
龍樹が原点回帰を謳うように、
やはり禅は中国に回帰すべきかと思うね。
931机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/02/19(月) 08:03:01 ID:SCqTR/Gs
ここで私のことを「出禁」とかなんとか言う輩がおりますが、
これはあまりにも器が小さい。

ある程度の大らかさがないと眼は開かんですね。
(これは農耕民族の特徴)


932名無しさん@3周年:2007/02/19(月) 09:04:55 ID:bEm60Lfw
ナミオ、どうした〜
933 ◆FfAvc/LNDk :2007/02/19(月) 19:10:39 ID:iZIuUIic
下らないので、完全無視して下さい
934アイ〜ンシュタ院:2007/02/20(火) 03:55:13 ID:cnGVZRW1
シクエ
935名無しさん@3周年:2007/02/20(火) 10:38:28 ID:pJHYXLXt
>923
バルトリハリを持ち出さなくてもユガ行派は三性説など同じ理論を持っています。
三空性もそうです。
『大乗荘厳経論』には
「存在しないという空性(abhava-sunyata)」
「このように、あるいはそのようには存在しないという空性
(tathata-bhava,tathata-abhava-sunyata)」
「本性としての空性(prakrti-sunyata)」
の三つの空性が説かれる。それぞれ三性説に対応します。
936名無しさん@3周年:2007/02/20(火) 12:47:29 ID:BEJy3/xM
>>923 昨夜書いた後、アップするのを忘れていました。

ここ数日、実在論の論議があったのでインド哲学史を調べていたので、『全哲学説綱要』の著者
マーダヴァとバルトリハリと記憶が混同していたようです。一読直後にレスを書いたので資料で確認できず、
的外れな表現となりました。要するに、外教と仏教では同じ用語を微妙に異なる意味で使うことが
よくある、という点の指摘が意図でした。

江島氏もprasajya-pratiSedhaを「【何の定立をも含意しない】非定立的否定」としていて、
清弁も『般若燈論』(『世界の名著 2 大乗仏典』 p.321)で次のように言っているので、明らかに、
否定だけでは非存在を主張していることにはならないと思いますが。
> (中観者は)その教えを説くときにも、存在を【ただ否認するだけ】であって、
> 【無存在を(積極的に)肯定することはしない】

>名辞か命題か  陳那の「(共相はなく)自相のみ」という見解もあることから、
「概念」や「名辞」という語の使用は慎重にした方がよい、また、東西で語の意味範囲が異なるので
そのまま適用すると誤解を招きかねない、ということは分かっていたのですが、分かりやすくしたいと思い、
もともと付いていた「いわゆる」という言葉も付加せず単純化して表現しました。

前掲書では、アルチャタ(別名ダルマーカラダッタ)のprasajya-pratiSedhaの定義として
(1) 主たる目的は否定である。/(2) 肯定的含意が理解されるとしても、それはあくまで二次的なものである。
(3) 否定の対象は、たとえば「太陽を見ない」における太陽は、それ自身の名前によって指示されている。
(4) 「太陽を見る」と「太陽を見ない」という二つは別個な文章であって、一方がただちに他方を
同時的に意味するわけではない。

となっています。とくに誤訳・誤解しているとも思えないのですが。また、上記『大乗仏典』
pp.286, 461, 487, 519にある長尾雅人、梶山雄一両氏の註でも同様の解釈です。

>Cardona の Panini  ご紹介ありがとうございます。
彼の Panini という題の本には副題が A Survey of Research と His Works and its Tradition の
2種類あるようですが、どちらになるでしょうか。
937名無しさん@3周年:2007/02/20(火) 19:27:18 ID:nF6rLQc9
出典は『NHKアインシュタイン・ロマン 3 光と闇の迷宮 量子力学のミステリー』1991

インドの詩人・哲学者タゴールとの対話(ソースは米国の雑誌記事、1930) p.151
ア「実在(reality)が心の外に、我々とは無関係に存在することがわかります。
家に誰一人いなくても、机はその場所に存在しています。」
タ「机は個人の心の外にありますが、全ての人の心の外側にある訳ではないのです。
机は我々に共通する意識によって知覚されるのです。
客観的に見える机も単に現象にすぎない事を科学は証明しました。
つまり、人間が机だと思うものは、もしその意識がなくなれば存在しないのです。」

パイス元教授の話(取材) p.105
「(彼が)『君は本当に自分で月を見る時だけ、月が存在すると信じているのかい』と尋ねるのです。
私は『それは"存在する"という言葉の意味次第だよ。』と答えました。もちろん、月はあります。
…量子論によれば、…無限の正確さで決定することはできないのです。
…物体が大きくなれば、この影響は非常に小さくなります。」

そもそも、存在論とか認識論の話を、その道の専門家に聞かず、
相対性理論の創始者に聞くというのもナンだが(′∇`)

要は、その理論の有効範囲は、対象としてるもののスケールに関係するってこと。
ニュートン力学も、相対性理論も、量子力学も、それぞれ、現在も有効。
938名無しさん@3周年:2007/02/20(火) 21:26:00 ID:E/eaToVU
>>935
>「存在しないという空性(abhava-sunyata)」

この場合の a-bhAva は sva-bhAva (自-性)の bhAva と同じ「性」という意味ではないでしょうか。
「三空」の漢訳語でも「性」と訳してるみたいですし。

"mahAyAnasUtrAlaMkAra"
abhAvazUnyatAyAM jJAtvA tathAbhAvasya zUnyatAM /
prakRtyA zUnyatAM jJAtvA zUnyajJa iti kathyate // 14.34
939名無しさん@3周年:2007/02/20(火) 21:53:22 ID:WPKeBSIs
>>908
>rnam par rig pa/識/了 の方は使役の意味がないことは明瞭です。
唯識術語としての特殊な意味を帯びたrnam par rig pa(この蔵訳は、見分・相分と二つに見るか、
見分だけと見るかの立場の相違にも関わってくるのではないか、と思いますが、詳細には立ち入りません。
以下は唯識術語でなく一般的用法の話になります)のrig
(繁雑になるのでvi-/rnam paの意味合いは除外して話を進めます)という蔵訳を元にして、

「『知らしめる』から使役の意味がなくなると、『知る』になる」と考えられているようですが、
私は「使役の意味合いが完全に失われることはない」と考えます。
「(知ら)しめる」と「教える、示す、表す」は同じ者(主客の主)の行為ですが、「知る」だけでは
使役の対象、つまり別の者(主客の客)の行為になってしまうからです。
「示す」などは「知ら+しめる」という2段構えでの明確な使役の意味ではなくなりますが、主客の立場は不変です。

>「表・教・示」は使役形の名詞を漢語で訳しただけだと思います。
「令◯知」と「表・教・示」とを比較してみると、前者には明瞭に「◯をして知ら令(し)む」と
使役の「令」がありますが、後者にはありません。漢訳の「示」などに明瞭な使役の意味があるとは
言えないと思います。(玄奘訳で「表示令他了知」というように、「表示」は「令」の影響外にあります)

また、もし「示」が使役形「示させる」だと仮定すると、関係者が増えて三者になってしまいます。
示される者A、Aに示す者B、Bに示させる者C。

これに対して、ふつうに「示す」というように使役の意味のない形と見れば、本来の使役の意味の
ある形「知らしめる」と変わらず、関係者は二者のままです。
知る者A、知らしめる者B。//示される者A、示す者B。
(「示す」には使役「…させる/しめる」という表現がないことに注目してください)

以上をまとめると、三種類の語義になると思います。
(1) 本来の意味は「知ら+しめる」。漢訳例、令他知/令他了知。蔵訳例、rnam par rig par byed (pa)
(2) 使役の意味合いが失われた「示す、教える、表す」など。漢訳例、表業
(3) 唯識術語。見分に相当する。漢訳例、識。蔵訳例、rnam par rig pa
940名無しさん@3周年:2007/02/20(火) 22:06:56 ID:0cHEnrZT
>>939
表業という場合の vijJapti は、「他に知らせるから」表であるという定義があります(倶舎論など)。
ですので、(2)は(1)に含まれます。
その他については同意します。
941名無しさん@3周年:2007/02/20(火) 22:46:39 ID:xt3d3hPd
>>909
>平川先生が、そんな解釈をしているとは残念です

参考までに、長尾雅人氏もそう解釈しています。つまり、「無存在」といったことでなく
「実在でない」という表現です。(前出『大乗仏典』p.403 註2, 4)

> 唯識の意味は、「対象が実在でないから、識も存在しない」のであり、
> 『二十詩篇の唯識論』では、外界の分析とその非実在の証明によって、唯識を定立することになる
(この「識も存在しない」という表現も、識が無存在だ、と言っているのではないでしょう)

ちなみに、表識が表業などと相関関係にあるのではないか、ということの考察は近いうちに
書きたいと思っています。(すでに考えはまとまっています)

>artha を認識対象としているですが、それは全く可笑しい。

一般読者への参考までに、
artha の原義は「求められるもの」、語根 arth (求める)から派生した語。
aim, purpose; cause, motive, reason
thing, object; object of the senses; substance,
sense, meaning, notion
など多義語です。
バーヒヤールタ(bAhyArtha)で「外のartha」(外境)。

>外界実在論を批判するために原子論が成り立たないから、
中論が三時という時間に分割して実有説を批判したのに対して、
二十論は原子という空間に分割しての実有批判に相当するのであって、

両者とも、「実有」説の「不成立」であることを言い立てただけで、
「実無」といったようなことを主張しているわけではないでしょう。
つまり、「実無」の立証をしているのではなく、「実有」の立証を崩しているだけです。
942名無しさん@3周年
>>940 paraM na vijJApayatIty avijJaptiH
これですね。これは無表業の方で、paraM vijJApayati (1.他をして知らしめる/2.他に示す)
の否定文に当たりますが。このことも1の漢訳例を引用した際に考えたのですが、

あの分類の方針は、教義的な分類でなく、梵文法としての意味の違いを反映させることが目的で、
つまり仏教辞典の形態でなく、国語辞典の形態で考えたもので、1と2が基本になっています。
3は独特な、唯識術語としての付足しの項目です。なので、1と2の分類は、どうしても
残さなければならないのです。

で、問題点は上の梵文の解釈になりますが、確かに蔵訳では vijJApayati も avijJapti も
byed を入れて1に訳していますね。
が、玄弉訳では「表示・令他了知」とわざわざ両義を併記して訳しています。
これは、無教・無表の教・表ということが、文字の簡略表記のためばかりでなく、
梵語における両義性をも反映させているからではないか、と考えました。(スレ20の282も参照されたい)

つまり、漢訳では蔵訳とは異なり、使役の意味のない語として表業と訳しているのではないか、と。
これには表業の解釈をめぐる漢訳者たちの思想的背景も関わってくるのかも知れませんが、
いずれにせよ、vijJApayati を1と理解しても、avijJapti の語義を完全には拘束できないのではないか、
少なくとも玄弉が表示という語を加えた意味合いは、その辺にあったのではないか、との思いです。
そこで2の漢訳例の方に表業を入れてみたのです。

眞諦譯「不如有ヘ色可令他知。故名無ヘ。」玄弉譯「非表示令他了知。故名無表。」

なお、蔵訳の取扱いについて付言すれば、rnam par rig paは唯識派の特殊な用法の蔵訳であり、
教義的な解釈が色濃く入っている語なので、
これを一つとする蔵訳の2パターンから、一般的な梵文法での使役の意味に関する2パターンを
推し量ろうとすると、梵蔵の両者の間で意味合いがずれてくるのではないか、と思います。

教義上の区分と文法上の区分は異なります。
まず梵語の本義を考え、その後で蔵漢訳を当てはめてゆくという手順を踏むべきだと考えます。