>>313 いやとっても良く、訳分かるけどな。。。永遠の生命を説いたら、無我と矛盾するのに、なんで辻褄合うのか
そっちの方が訳ワカランです。
>>316 無我とは釈迦の唯物論でした。
現代ではバラモンの唯心論に修正されております。
つまり釈迦の法は誤りでした。
318 :
名無しさん@3周年:2007/03/02(金) 12:41:41 ID:tSVp8xmT
唯物論なのかなぁ?
名称と形態(心と物質)への執着を離れれば名称と形態が消滅すると説かれます。
唯○論と呼ぶと、何かゆるぎない存在に固執してるかんじがする。
物質世界からも精神世界からも消え去るのが仏教徒の目標
320 :
名無しさん@3周年:2007/03/02(金) 17:40:45 ID:tSVp8xmT
>>319 何のせいで生きてるかといえば、業と煩悩のせいで生きているのです。
消え去りたくても、煩悩があるかぎり消え去れずに
苦しみの世界に生まれかわってしまうのです。
誰もが消え去ることができるのではないのです。
消え去るのが人生の目的とは情けない教えですね。
さすが釈迦(大川君)だけの事はあります。
自分の写真を100万で売りつけて拝ませる等、法の次元も幼稚です。
322 :
名無しさん@3周年:2007/03/02(金) 23:26:27 ID:tSVp8xmT
>>321 大川君と一緒にされても…
ブッダの生まれかわりと名乗ってる時点でおかしい。
消え去ってないやん!転生してるし!
>>322 大川君は腐っても仏陀なのです。
生まれかわらないと言いながら再誕ですから・・
324 :
名無しさん@3周年:2007/03/03(土) 09:06:55 ID:ppo0aUBS
煩悩や欲望や自己中心的想念が存続した妄念が
本来空なのであり、全く自己中心的想念が無くなると、
無我であり大我であり清浄なる真我と呼ばれるのでは?
325 :
名無しさん@3周年:2007/03/03(土) 09:09:45 ID:hZ/R6bDb
えっと、、、ここは幸福の科学スレ?
326 :
名無しさん@3周年:2007/03/03(土) 11:39:52 ID:7X9F4aOw
>>324 禅定の世界においてはそのような表現もまちがいじゃないのかも。
禅定の八段階のうち禅定の第4段階までは色界心であり、
物質と一体となっているような三昧、まだ物質がある。
さらに禅定が深まる第5禅からは物質が消える無色界心に入っていく。
5禅は空無遍処(空間が無限に広がっているという三昧)
→6禅は識無遍処(空間が消え識だけが無限に広がっている)
→7禅は無所有処(自分のものという感覚がなくなる
→第8禅は非想非非想処(想いがあるのでもなくないのでもない状態)。
そのような無色界心の禅定・三昧においては、
「真我」「大我」にたどりついたと錯覚するのでしょう。
でも、「真我」「大我」があるうちは、まだ無色界の心が存在している。
仏教の説く涅槃は、禅定の世界からもおさらばするのです。
真我・大我があるうちは、まだ無色界心の中にいる、つまり世間の中にいるのですが、
涅槃は、世間(欲界・色界・無色界の三界)から離れる滅尽なのです。
327 :
名無しさん@3周年:2007/03/03(土) 16:09:19 ID:7X9F4aOw
大パリニッバーナ経より
ついで尊師はコーティ村にとどまって、
多くの修行僧たちにこのように数多くの〈法に関する講話〉をなされた。――
「戒律とはこのようなものである。
精神統一とはこのようなものである。
智慧とはこのようなものである。
戒律とともに修養された精神統一は、
偉大な果報をもたらし、大いなる功徳がある。
精神統一とともに修養された智慧は、
偉大な果報をもたらし、大いなる功徳がある。
智慧とともに修養された心は、
諸々の汚れ、すなわち欲望の汚れ、生存の汚れ、見解の汚れ、無明の汚れから
完全に解脱する。」
328 :
無意識は一切の幸福 ◆Xt0NAispag :2007/03/11(日) 17:46:34 ID:ook1ymi1
>>305 平安の境地を体験した人もいるだろうが、言語表現できるものではない。しかし、言語表現するならば、
「何ものかを信じることなく、作られざるものを知り」平安の境地は作られたものが存在しない世界である。
「世の中を泡沫のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ」「この身を泡沫のごとしと見よ。この
身はかげろうのごとしと見よ」「過ぎ去るものは虚妄、安らぎは虚妄ならざる真理であると知る」
遠ざかり離れた止滅の境地は、一切を虚妄と知る世界で、安らぎと平安のこの上なき最上の喜びの境地
(ニルヴァーナ)を知る。また、完全解脱者(仏陀)には神通力ありと知る。
この世で、
「林のほとりで楽しみ、樹の根もとで瞑想し、大いに自ら満足すべきである」
「人のいない林は楽しい」
森の中や林の中は、この世の場所で平安の境地に近く、そこで瞑想修行することは、釈尊は当然で
あると言うだろう。そこで五感も第六の思考(意向)を抑制して、精神の安定統一を目指しながら
平安の境地を目指す。
仏典どおり、ニルヴァーナに近い自然の中での瞑想で、精神の安定統一と満足しながら、究極の平安の境
地を目指すことが、真理に近づくことであり、仏教の修行方法。
329 :
無意識は一切の幸福 ◆Xt0NAispag :2007/03/11(日) 17:47:20 ID:ook1ymi1
「一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ〜一切の生きとし生けるものは、幸
せであれ。何ぴとをも他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそ
うとして怒りの想いをいだいて他人に苦痛を与えることを望んではならない〜母が己が独り子を命を賭けて
も護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対して無量の慈しみの意を起こすべし。
〜上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行うべし〜この世では、この状態を崇高な境
地と呼ぶ」
教えとして平安の境地を言語表現すると、憎しみや敵意や怨みなど一切ない。我がものという愛着もない。
〔一切が安穏で安楽で平安と安らぎに満ち、そのことに幸せを感じるような境地〕で、この世で慈しみのこ
ころづかいがその境地に近い。
自然の中での瞑想により、世と自己との迷いや悩みを取り除き、不死の境地に近づいた人は、他人に苦痛を
与えることを望まない。
330 :
無意識は一切の幸福 ◆Xt0NAispag :2007/03/11(日) 17:47:54 ID:ook1ymi1
日本の仏教も釈尊の修養方法を学んで、自然の中での瞑想修行を教えるべきだ。作られたものではない作ら
れざる境地。
無いものから有るとして作り出すのは偽りを教えることになる。このような生存状態の自己に作り出したも
のを宗教として学んでも、それは虚妄なるものを学ぶこととなる。
しかし、作られざる真実は、現在でもその現象が少しは現れている。働いて得たもので、飲み食い欲楽を楽
しむ。しかし、自然の中で安らぎを楽しむ人々もいる。それは、人の心にニルヴァーナを求めるものが少し
はあるからで、それを究極まで追い求めるのが真実に至る教え。
〔おれがおれがと言い、自分の思考は絶対で間違っておらず人にも押し付ける。敵意や怨みを抱き、また怒
り狂っている人〕安らぎから遠ざかり離れ、人に嫌われる場合だってある。
科学が人々を幸福にすると言っても、その心の中には「一切の生きとし生けるものは、幸せであれ」という
ものが働いている。
世の中と自己とを離れ、安らぎを追い求めている人々は、この世の悪を静めることもできる。貪欲を捨
てた人は、対立を好まず、相手に不愉快なことも行おうとしない。
331 :
名無しさん@3周年:2007/03/15(木) 07:52:54 ID:Ppa2Oh+H
仏界は本当にある?
332 :
名無しさん@3周年:2007/03/15(木) 12:47:36 ID:Mpl6kzXZ
「仏界」という言葉自体よくわからない。
一部の宗派でしか言わない概念でしょうね。
創価学会の人は仏界とが十界互具とか好きなイメージがあります。
仏(悟った人)の心の境地を仏界と呼ぶならば、
悟って仏となった人の心には仏界があるのかも。
333 :
名無しさん@3周年:2007/03/15(木) 21:57:10 ID:T8HphIbh
瞑想といっても集中するものと拡散するものがあるそうだね
で集中は得意だけど拡散が苦手な人と、その反対に拡散しっぱなし
(ADDの俺とか・・・)の人とかに大まかに分かれるらしい
農耕民族の末裔は集中型で狩猟系は拡散だそうだ
でそれぞれ苦手なものに惹かれるらしい、だからおれは集中型の念仏や
一点を見つめる瞑想がすきなのかもしれない
334 :
名無しさん@3周年:2007/03/17(土) 23:33:10 ID:0NxBb9DM
釈迦が念仏を唱えていたデータは?
335 :
神も仏も名無しさん:2007/03/18(日) 19:16:08 ID:TXcEoOcv
優等生の釈迦の弟子たちの修行と、神々を念じる庶民のための信仰が仏教。
釈迦の教えは学んだ後に捨て去らねばならぬから、離欲と瞑想により悟りの究極まで達しない庶民は信じることで煩悩を少なくする。
336 :
神も仏も名無しさん:2007/03/18(日) 19:51:21 ID:OiMJb/t9
釈尊の教えといっても、修行僧への修行の指導と、
多くの人々に通じる教えもあり、無慈悲・冷酷・残忍を戒め、
貪欲から離れ、神々の世界を思わせることにより、この世を
耐え、老いと死の苦悩の解決をさせる意図がある。
多くの人々には、修行より信仰により、それらを達成させる
意図がある。
337 :
A:2007/03/22(木) 15:39:05 ID:TasHVW6H
南無妙法蓮華経のお題目を唱えることは仏のお心に近づくということでよい事である。
338 :
金有財:2007/03/22(木) 22:05:42 ID:WFkzfja5
南無阿弥陀仏のお念仏を唱えることも仏のお心に近づくということでよい事である。
>>337 その根拠は?仏の心とはどういう心?なぜ唱えたら近づく??
検証もせずに、いい加減なこと言うな!
340 :
神も仏も名無しさん:2007/03/23(金) 12:34:41 ID:z1mdh0v2
身体のない彼岸は、様々な欲求を抑制しないとちかづくことができず、
大衆は信じる利益を願い、宗教活動を方便的な行いとした。
341 :
神も仏も名無しさん:2007/03/24(土) 08:05:58 ID:GGU7uryj
彼岸とか永遠の命はあるのか?
342 :
無意識は一切の幸福 ◆Xt0NAispag :2007/03/24(土) 12:57:08 ID:BDPkk1r0
五感も思考も及ばぬ永遠の世界はあるのか。自己(身体)に囚われない無意識になる世界はあるのかという
証明として。
「人のいない林は楽しい〜かれらは快楽を求めないからである」
生産と消費を当然として生きる。しかし、自然を楽しむ行動も人にはある。人は無意識に安らぎを求め
ている。
「軽安=身心をかろやかに快適にすること」「長寿」
病気は気からとも言われ、病気をしたら安静にすること。人は無意識に永遠を益としている。
「慈しみの心づかいをしっかりとたもて。この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ」
「一切の生きとし生ける者をあわれむ修行完成者・ブッダに罪過は存在しない」
病気をした人も、慈しみのこころづかいのある人々に助けられ、〔安穏でない人を安穏に、安楽でない
人を安楽に〕を無意識に行う医者などに助けられる。
「一切の生きとし生けるものは幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ」
人は無意識に安穏と安楽、平安な世を、争いや暴力のある世より喜んでいる。
「苛酷なることなく、貪欲なることなく、動揺して煩悩に悩まされることなく、万物に対して平等である」
「貧しきを憂わず、平等ならざることを憂う」
人は自分の欲得のことのみにあくせくせず、無意識に平等を思い、格差是正のことも考える。
343 :
無意識は一切の幸福 ◆Xt0NAispag :2007/03/24(土) 12:57:55 ID:BDPkk1r0
「欲情は邪道である」「わが心は従順であり、解脱している」
牛飼いダニヤのように、「わが妻は従順であり、貪ることがない〜わが意に適っている」という人より
も、人を欲情の対象としない。他人を自分の意向に適しているものだという人よりも、相手の意向や考
えを聞いてあげられる人のほうが、その人に受け入れられる。
「他人の過失を探し求め、つねに他人を見下して思う人は、卑しい性質が増大する」
他人の過失を探し、他人を見下している人を、無意識にある永遠が快く思わない。その人の過失を責め
立てることなく、「上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行う」人、失敗などを
現実の行為でカバーしてやれる人は好まれる。
「過ぎ去ったことを思い出して悲しむこともないし、未来のことにあくせくすることもなく、ただ現在のこ
とだけで暮らしている」「過ぎ去るものは虚妄」
過ぎ去ったことを虚妄として忘れ去ってしまう。
「思考の及ばない静かな境地は、苦しみのことがらの止滅であり、つくるはたらきの静まった安楽である」
妄執という一つのものに従属した世の人々が妄執によって悩まされ、五感も第六の思考も及ばない境地から、
人にある煩悩を戒める釈尊の教え。つくられざる世界は人の内に宿り、無意識に現れる場合がある。
欲望を喜び、妄執に従っていることのほうが多い人々もいる。
344 :
無意識は一切の幸福 ◆Xt0NAispag :2007/03/24(土) 12:58:44 ID:BDPkk1r0
「世間は妄執によって導かれる。世間は妄執によって悩まされる。妄執という一つのものに、一切のものが
従属した」「妄執が人を生まれさせる〜生存するものが輪廻に堕している」
五感も思考も抑制して、瞑想修行により、静けさと安らぎを楽しみ、生まれないことを目指す仏教。
「安らぎは虚妄ならざる真理」安らぎの世界より、欲望とか煩悩の汚れが妄執となって生まれさせる。
「かれらが老齢となり、眉に皺がより、頭が白くなったのを見て〜『すべての存在は水の泡か陽炎のごとし、
速やかに一切の存在に対し嫌悪を抱け』」
「死ぬよりも前に、妄執を離れ、過去にこだわることなく、現在においてもくよくよと思いめぐらさないな
らば」「かれには、生存のための妄執も、生存の断滅のための妄執も存在しない」
無明が原因で生活活動をしないと生きて行けない人々は、老齢となり「さとり」の境地に目覚めさせる教
えもある。この世を厭い離れた境地、〔世の中は泡沫のごとく、この身は泡沫のごとく、一切は虚妄〕と
常に観じて生活活動ができるわけではない。
「人がこの世でなす善と悪との両者は、その人の所有するものであり、人はそれを身につけておもむく」
「業のいかんにしたがっておもむき、それぞれ善と悪との報いを受けるであろう」
「信仰心あり、学び修めた賢明な人は〜心に喜んで、撒き散らし、「与えよ」「与えよ」と語る〜その豊か
な功徳の流れは、施しを与える人に、降り注ぐ」
修行僧のように、瞑想修行により妄執を乗り越えることができない人々は、善業を身につける。
人々が「一切の生きとし生けるものは幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ」に反し、自分の欲望のため
に他人の不幸を厭わず、人々の安穏や安楽を奪う人々が増えると、世間は悩みが多くなる。
345 :
神も仏も名無しさん:2007/03/24(土) 14:17:11 ID:GGU7uryj
永遠の命が無意識にある?
346 :
神も仏も名無しさん:2007/03/25(日) 10:42:37 ID:uL31JCkA
>>345 煩悩が存在せず永遠の安らぎだから、人の煩悩を戒めて安穏にする教えだろう。
人間にも動物のように得ようという行為があるから、人間が互いに与えるという
行為をすれば幸福になるとか。
世間から貪ろうとする人間より、何か提供する人間が多いほうが人が幸福になる
確立は高い。
347 :
神も仏も名無しさん:2007/03/25(日) 22:26:53 ID:Mn/lPzy0
お釈迦様の教えは、離欲を目指す弟子たちは別格として、世の中の現象を
説いているわけだから、本来の仏教(真理に基づく教え)は誰でも正しい
としないといけない教え。
たとえば地震が起きて動揺しうろたえる、或いは財産を失ったことへの失望
ではなくて、正しい思慮ある行為、人間が互いに助けるということにより、
他人の不幸を取り除こうとする教え。
348 :
神も仏も名無しさん:2007/03/26(月) 01:50:09 ID:oMCC/jOg
今の先進国は、途上国の
犠牲の上に成り立っているから、
みんな狂うし、死ぬ人も増える。
それが嫌なら、先進国は真剣協議して
今までのあり方を変えないといけない。
349 :
神も仏も名無しさん:2007/03/27(火) 20:21:23 ID:EDONSnd4
普通凡人が協議したって、物・豊かさを追い求めることから離れようとしないから、根本的な解決にならないと思う。
(1)貪欲の慎み
(2)勤勉に働き飢えの解決
(3)分かち与える
飢えなどを解決するために勤勉に働くことをその時代の人々に教えた釈迦。
飢えることを知らない人々は、貪欲を慎む。職を失う人がでてくるかもしれないから、仕事を分かち与える。
経済は低下してもよい。先進国は金儲けと豊かさを追い求めるから、誰かを犠牲にすると思う。
350 :
A:2007/04/01(日) 00:32:42 ID:7C4SOWMV
念仏は方便である
351 :
神も仏も名無しさん:2007/04/03(火) 21:16:20 ID:EuMJ9/ax
≪或る人々が「最高の教えだ」と称するものを、他の人々は「下劣なものである」
と称する。これらのうちで、どれが真実の説であるのか?・・・・・
賢者は一切の事物に対して敵対することがない・・・・・・
修行者は心の内が平安となれ。外に静穏を求めてはならない。内的に平安となっ
た人には取り上げられるものは存在しない・・・・・≫
352 :
神も仏も名無しさん:2007/04/05(木) 12:28:43 ID:2Qpn9F/1
最高の教えと称しないと方便にならない事情もあり、最高の教えと称しないと、衆生は煩悩に押し流される。
どんなに正しい理法でも、ただ聞いただけで終わる。
353 :
神も仏も名無しさん:2007/04/05(木) 18:46:10 ID:kgFrj5+0
お釈迦様の教えは地味だから、信じて益を思わせる信仰は継続しやすい。
354 :
神も仏も名無しさん:2007/04/06(金) 19:44:09 ID:/f6/20Sf
>>348 離欲を善とする仏教は、地球環境にも先見性があった教えだ。
もちろん、飢えた人々へのわかち与えも大切な教えだと説かれている。
355 :
神も仏も名無しさん:2007/04/14(土) 10:04:07 ID:G/05Pcak
「これぞ清らかになる道である」として信仰を確実にするために最高を言う。
「ブッダの教えが最も勝れている」と。
>>351
356 :
神も仏も名無しさん:2007/04/14(土) 10:33:44 ID:i1f2lGFg
[梵天]
ゴータマよ。われら七十二人は、功徳の業によって、生と老いとを超えて、世の統治者となった。
[ゴータマ・ブッダいわく]
多くの人々が渇に苦しめられ、暑熱に悩まされれいたときに、そなたはかれらに水を飲ませた。
眠りから目ざめたばかり者のように、わたしは想い起こす。エーニー河の岸辺で人々が捕らえられ
ていたのを解放し、捕虜を逃がしてやった。
わたしはむかしそなたの弟子でカッパという名の者であった。
[梵天]
あなたはわたしのこの寿命の長さを明らかに知っておられるのです。
そうだからこそ、あなたのこの輝く威力は、梵天の世界を照らしておられるのです。
禁誓と戒めより、慈しみのこころづかい(仏ごころ)は全てを照らす。仏の寿命の長さは
梵天よりも長い。
357 :
神も仏も名無しさん :2007/04/14(土) 10:35:16 ID:OWDbTc85
358 :
神も仏も名無しさん:2007/04/14(土) 14:37:13 ID:lDU3hJbH
色かたちと、音声と、味と、香りと、触れられるものと、ひとえに思考の対象たる
ものと、――― これは世人をおびきよせる恐ろしい罠である。
仏の教えが滅んだ世は悪魔の領域しか存在しなくなる。
色かたちと、感受作用と、表象作用と、識別作用と、形成されたものと、―――
わたしはこれではない。またこれは、わたしに属するものではない。
人々が自己と感じているものは滅び去り、本当の自身ではない。
快く感ぜられる色かたち、音声、味、香り、触れられるもの、――― 破滅をもた
らすものよ。
かけ廻るこころは、破滅をもたらす者(悪魔)の罠によって縛られている。
わたしは、一切の生きとし生けるものを憐れんで、人里はなれた休憩所に、ひとり
臥すのである。
人々は自己が自分自身だと思っているから、世の人々は破滅する人々であると
正しく見ることが肝心。世と自己とは我ならざるものである。
修行者は心の内が平安となれ。外に静穏を求めてはならない。内的に平安となった
人々には取り上げられるものは存在しない。
359 :
神も仏も名無しさん:2007/04/14(土) 20:33:00 ID:t9t8sbLT
「南無 阿弥陀仏は、公案の一種である」
鈴木大拙
360 :
神も仏も名無しさん:2007/04/14(土) 23:06:29 ID:IJh+TRXY
お釈迦様の教えは大衆にとって方便。
お釈迦様も梵天に加護を懇願した。
しかし、梵天はお釈迦様に梵天をも超える人間の知者としての立場を示すよう
仏の道を説けと。
智慧ある人とは過去世も天上も知る人であり、正しい勝れた人とは自己に克ち、
無所有で歩む人。清浄な人とは五欲に打ち克った人。
大衆は、貪欲・愚痴・瞋恚を廃し、現世安穏の加護を諸天に常々懇願するため
に信仰を保つ。
自分を愚かと認めない人こそ実に愚人であるとお釈迦様は説いている。
361 :
神も仏も名無しさん:2007/04/21(土) 23:05:14 ID:YxoiiZDH
保守
362 :
神も仏も名無しさん:2007/05/04(金) 18:01:04 ID:rl9GYuaT
読んでもできない経典。
363 :
金有財:2007/05/12(土) 17:36:35 ID:vNfxub3O
むずかしいことは言わずに、
なむあみだぶつ
南無妙法蓮華経。
364 :
神も仏も名無しさん:
むずかしくしているのは、南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経。
違うものを唱えたら仏教じゃないのか。
釈迦はそんなことを教えていたのか。