【討論】聖句の解釈をマターリ語るスレ12 (^^)v

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933カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/05/15(火) 23:00:12 ID:xtaStypM
カトリックより、プロテスタントのほうが迷いは深いな。

君らはイエスの教えより、ルターの教えを妄信している。
934神も仏も名無しさん:2007/05/15(火) 23:23:16 ID:GkQG6Okh
初めからカトリックを選んでいればよかった。
もっと早くに貴方に出会えていたら良かったのに。
935キュロス ◆rD08MNkvxw :2007/05/16(水) 18:51:03 ID:YU2cYcbr
「新約聖書には、徳の基準、完達された律法の規準が挙げられている。だがそれは
不可能な徳の基準となる様に出来ているのである。道徳的に努力する人々は
その様な基準に直面して、自分が目標にはなを遠いと感じる。彼らは徳に絶望し
ついには慈悲ぶかいお方の胸に身を投げざる負えなくなる。

こうした結果のゆへにのみ、道徳的努力はキリスト教徒にとって、やはり価値の
あるものと見なされた。(中略)こうした努力のまた人間に「回心」や、道徳的奇蹟を
体験させるあの忘我の瞬間に招きよせるのは役だったわけである」 ニーチェ 暁日

これは マタイ福音書のいわゆる「山上の垂訓」のことを言っているのかな。
まあ 確かに「山上の垂訓」を題材とした礼拝説教を聴くと このような感想を
受けるね。

ニーチェは 牧師の息子なんだってね。
牧師の子供 っていえば アメリアカの ライスさんも プレスベテリアンの牧師の娘
なんだね。 長老教会なんだね。
936キュロス ◆rD08MNkvxw :2007/05/16(水) 19:01:57 ID:YU2cYcbr
「道徳的に努力する人々」ってのは なぜ努力するんだろうね。
「道徳的に努力する人々」と言うのは いわゆる「罪人」でなないよね。

「道徳的に努力する人々」が 収税人になるかね。
「道徳的に努力する人々」で 思いつくのは パウロであって
収税人では ないよね。

イエスは 「道徳的に努力しない人々」を 招いたんじゃないのかね。
937カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/05/17(木) 00:34:36 ID:GRAYgg7D
儀式は所詮儀式に過ぎない。
その儀式の由来する本来の意味を理解すればそれでいい。

洗礼とは、心のけじめをつける為に行うものだ。
心の割礼を行わないと、儀式に過ぎない、ただ肉を傷つけるだけの割礼意味が無いのと同じで、
教会の洗礼と言う儀式を受けた後、真の洗礼ともいえる、心の洗礼を自分自身で執り行わなければ、
教会で受けた洗礼は何の意味も無いものになる。君らプロテスタントは、洗礼に対する動機自体間違っている。
洗礼と言う ”儀式” は、それまでの利己的に生きてきた自分を改め、イエスの道を歩むという決意表明
であり、君らのような、それさえ受ければ、口先だけの信仰告白をすれば救われるからと、
洗礼と言う儀式を受けるのは、単なる利己心によるものであり、本来の洗礼の意味から、逸脱するものである。
君らは致命的な誤謬をしている。

信仰義認説を取るものは、我執の強いものであるのはよくわかっている。
ま、君らにいっても聞く耳が無いのだろうが、聞く耳のある者は、本来の洗礼の意味を取り違うことなく、
洗礼式を受ければいいだろう。己の魂の責任は、己自身にある。誰のせいにもできない性質のものだ。
938神も仏も名無しさん:2007/05/17(木) 15:21:37 ID:lfqfGrsQ
道徳的行為は、イエス・キリストが私に先立って、私達に対し
行われた故に、よろこびと共に行うことができる。
その努力というのは、身を切る事であって、端的には財産・金・時間か
939神も仏も名無しさん:2007/05/17(木) 15:37:53 ID:lfqfGrsQ
キリストが、後を追って来た聴衆に対し食事の心配をし、
食べ物を探した上で奇跡を起こすんだよな。
突然、食べ物が奇跡で出現したんじゃない。
940キュロス ◆rD08MNkvxw :2007/05/17(木) 18:59:26 ID:14j/2hnJ
ローマ 13章9節
>「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、
>「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。

十戒の後半の戒めを要約したものが 「隣人を自分のように愛しなさい」 だと言われている。

では「道徳的に努力する人々」の道徳とは 具体的に「隣人を自分のように愛しなさい」
という事だと言える。

例えば 「なぜ人を殺してはいけないのか?」 という 問いに対して
「自分が殺されたら いやだから 他人を殺してはダメなのです」という 答えがある。
これは 「隣人を 自分のように愛しなさい」という 戒めからも 納得できる答えに見える。

逆に言うと 自分が殺されても良い 人には 上記の理屈は通用しない。
つまり 自分の 命を大切にしない人は 他者の命も大切にしない といえる。

では そこでイエスが招いているだろうと予想される 「道徳的に努力しない人々」とは
「自分の命を大切にしない人々」と 言える。

つまり イエスの救いを必要としているのは「自暴自棄になった状態の人々」なんだろうね。

福音書は 「自暴自棄になった状態の人々」を 別の新しい領域に導く物語なのだろうか?
それとも 「道徳的な努力をする人々」を救いに導く物語 なのだろうか?
941キュロス ◆rD08MNkvxw :2007/05/17(木) 19:03:07 ID:14j/2hnJ
まあ 「道徳的な努力をする人々」が その目標に失敗或いは挫折して
「自暴自棄になった状態の人々」になる ってこともあるな。
942キュロス ◆rD08MNkvxw :2007/05/17(木) 19:06:13 ID:14j/2hnJ
「道徳的な努力をする人々」は 「等価交換」を狙っている様にも見えるな。
だとすれば 確実に挫折するな。
943社長:2007/05/17(木) 19:38:27 ID:TNRGOYaA
市川で白人を殺した市橋容疑者も母親の首を切って自主したガキも同じように愛しなさいと神様は言っているんだよwww
おバカさんwww
944キュロス ◆rD08MNkvxw :2007/05/17(木) 20:09:22 ID:14j/2hnJ
「道徳的な努力をする人々」とは イエスの戒めを護れないから 挫折すんだよ。
挫折して 最終的に 神の胸にすがりつくように 導くから

道徳は役に立ってる っていってるんだね。
つまり 福音書の戒めは 実行不可能な戒め だと解釈するからね。

問題は 「道徳的な努力をしない人々」のゆくへ なんだね。
つまり その彼らに 無関心な人達なんだね。
945神も仏も名無しさん:2007/05/18(金) 18:06:42 ID:YFO7zav/
掟のための努力なら偽善だろう。
掟は神でも敵でもない。

聖く身を切る事の理由は二つあるな。主の為+人の為
どちらもキリスト(的)成分が入る。
「聖く」とは特別な見返りを期待しないこと。
「特別」というのは人が御国で承ける富以外
946mono ◆HfNWSGfVro :2007/05/18(金) 18:27:59 ID:tNdhZ467
昔、家には大ばーさんがいて、和裁を教えていたの。
まず、「仕付け」って言って大雑把に縫う。
その後、チクチク本縫いをする。そうして きちんと
出来上がったら、目障りだった仕付け糸を抜く。
「躾」をしないと、美しく縫えないし出来上がらない。

「道徳的な努力」もいきなりでは難しいね。

努力をするってことも、簡単には身につかないね。

947キュロス ◆rD08MNkvxw :2007/05/18(金) 19:16:57 ID:oitmlSiI
まあ そうなんだね 師について物事を習う ことなんだろうね。
師の話しを聞く 或いは 師の教えを受ける そして
それを また伝える なんだろうね。

ルカ24章31節の「私達の心は燃えていたではないか」
人の話しを 聞けない状態が 「自暴自棄の状態」で
聖書的表現をすれば 「心が頑な状態」 なんだろうね。
948神も仏も名無しさん:2007/05/18(金) 23:17:02 ID:YFO7zav/
旧約から新約を望むか、新約から旧約を望むかで趣きが異なる。
同じ掟でもキリストの有無で重さが代ったり、行為の真実味が増すな。
これもキリストの必然なのか
949キュロス ◆rD08MNkvxw :2007/05/19(土) 21:34:57 ID:WcPanvi8
マタイ福音書  6章12節 岩波訳
>またわたしたちの〔もろもろの〕負債をお赦してください、
>わたしたちに負債あるもたちを私たちもゆるしましたよううに。

人間は 神に対して「負債」があるという事だね。つまり 人間が神に対して
返済しなかれば成らない負債があるが その負債は 返済しきれないほど
大きいのでその負債を 無かったことにしてくれ って事なんだね。

そこでだ 人間の神に対する「負債」を 「罪」と 解釈しているんだね。
そして 人間の神に対する罪を イエス・キリストが十字架刑で生贄死することで
罪が赦された ということになるんだね。

話しを 「負債」に戻すと 人間は生まれながらに「負債」を持って生まれてくる
と言うよりも 人間がこの世に命を受けて生まれた事が 神からの贈り物なんだね。
つまり 人間の命 或いは 生きている事が 神からの「借り」つまり「負債」なんだね。
950キュロス ◆rD08MNkvxw :2007/05/19(土) 21:36:31 ID:WcPanvi8
>>949
そこで その死んだイエス・キリストは誰なのか? また誰が彼を殺したのか?
が 問題に成るね。イエスの十字架上の死が 自殺 或いは 殉教死 ではないとすれば
イエスを殺したのは 父なる神  もしくは 人間 のどちらかだろうね。

父なる神 だとすれば 父なる神が 人間の負債を許す為に生贄行為をした と言うことに成る
これでは 人間の側に また負債が生じ 問題の解決にはならない。
これは 神の側のポトラッチだからね。

人間が 神から与えられた救い主を殺した つまり 人間側がイエスを 生贄として神に捧げた
とすれば 人間の側の ポトラッチだから 神に対する負債は 解消される。

その救い主が 「神」だったら これは神の側のポトラッチになり 負債の解消には成らない
もしかすると イエスの十字架上での 最後の言葉 が時代と共に変っていった 理由は
この辺にあるのかもしれない。 つまりパウロ的養子論 から 神が人に成った と変ってゆくに
したがって イエスの十字架上の死 の意味が変っていたのかな。

もし ポトラッチが解らなければ 検索してくれ。
951うきゃん君 ◆DV4hb.MG/U :2007/05/19(土) 22:13:19 ID:756wC3E2

「購(あがな)う」という言葉の意味は、「(奴隷を)買い戻す」という意味を含んでいるんだよ。

奴隷になっていたイスラエルの民をエジプトから買い戻した、という意味で、

この言い回しをいつまでも使いつづけているんだよ。
952うきゃん君 ◆DV4hb.MG/U :2007/05/19(土) 22:23:04 ID:756wC3E2

「負い目をチャラにする」ということの意味は、

神はイスラエルをエジプトから買い戻したが、

だからといってイスラエルは神に代金を弁済しろとは言われていない、

ということの意味。

だから、神に倣って人も、道を外れるような弁済の求め方をしてはならない、

ということを確認しているわけだよ。
953神も仏も名無しさん:2007/05/20(日) 12:38:43 ID:kwhFSwAo
購いきれない罪の定義から矛盾を孕んでいるからじゃないの。
954神も仏も名無しさん:2007/05/20(日) 13:58:47 ID:kwhFSwAo
とある月刊紙の記事によると、洗礼者ヨハネとイエスの
「悔い改めよ。天の国は近づいた」は全く同じ言葉でも中身が
全く違うとある。
955神も仏も名無しさん:2007/05/20(日) 17:50:30 ID:kwhFSwAo
エバがアダムの肉のうちから造られ夫婦となったことは、マリアと御子の親子関係と関連する。

アダムは塵と主の息によって造られたことも此に関連する。
さらに、神が「光あれ」と御子を創造したことも同様の関連。
956神も仏も名無しさん:2007/05/21(月) 00:13:36 ID:UQ/dKezk
>>954
洗礼者ヨハネとイエスが共に「悔い改めよ。天の国は近づいた」と
言ったと書かれてるのはマタイ3/2・4/17だけです。(マルコは
イエスだけ、ルカはどちらもこの言葉はなく、ヨハネは悔い改めそのもの
が全くない)
多分、この言葉はヨハネのものでもイエスのものでもなくて、福音書を
書いた人達が、ヨハネやイエスが言ったと創作した言葉だと思います。

それで(「悔い改めよ。天の国は近づいた」は全く同じ言葉でも中身が
全く違うとある。)と言うのは、その月刊誌を編集した人達のご意見
だろうと思います。
957うきゃん君 ◆DV4hb.MG/U :2007/05/21(月) 16:15:01 ID:v9h3a/Li
>>954

意味は同じだよね。違う意味が出てこないもんね。

同じことを言ったんだけど、言った人の役割が違うんだよ。

ヨハネはあくまで「旧約の人」であって、予告をする人、としての発言、

イエス様は「新約を携えもたらす人」であって、実現をする人、としての発言

という差があるわけね。まあ、そういう意味で「違う」といえば違うけど、

何を言っているかといえば同じことだね。
958神も仏も名無しさん:2007/05/21(月) 21:03:54 ID:GCTbxtA/
紙面を紛失した…
覚えでは
当時のユダヤの人々は、天の国の
到来即ち審判の時であり、罪を裁かれる事を怖れていた。
その意味でヨハネの洗礼が存在した。

イエスの場合は安心して悔い改めよという意味で逆であるという。
959mono ◆HfNWSGfVro :2007/05/21(月) 21:28:32 ID:btABJgCe
>>935
> ニーチェは 牧師の息子なんだってね。
> 牧師の子供 っていえば アメリアカの ライスさんも プレスベテリアンの牧師の娘
> なんだね。 長老教会なんだね。

いい年しても、未陪餐会員の人もいるし、違うところに行っちゃった人もいて
牧師の子供は大変。でもおもしろい人もいるね 野宿は得意とか。

幼い頃から理想の子供像を、なんとなく押し付けられてお気の毒だと思う。
友達は犬を飼いたかったと言っていた。
960956:2007/05/21(月) 21:40:39 ID:UQ/dKezk
>>958
やっぱり、月刊誌の編集者達のご意見ですね
>当時のユダヤの人々は、天の国の
>到来即ち審判の時であり、罪を裁かれる事を怖れていた。
>その意味でヨハネの洗礼が存在した。
ヨハネの洗礼は、長年の修行により身が清められた事を神に示す為の
祭儀であって、天の国や審判などとは何の関係もありません。
またユダヤ人にとっての神の国はユダヤそのものであること。
ユダヤ人は、人によってはゾロアスターの審判を信じていた人もいた
らしいが、ユダヤ教徒は基本的に審判などと言うものは信じていない。
罪が裁かれるなどと言う考えもない。
>イエスの場合は安心して悔い改めよという意味で逆であるという。
これも殆ど根拠がないと思います。イエスが誰に悔い改めよと
言ったのでしょうか? ユダヤ民衆? ユダヤ教徒? 律法学者?
 ローマ人? サドカイ派の人?
961神も仏も名無しさん:2007/05/21(月) 22:10:17 ID:GCTbxtA/
マタ4・16かな
962神も仏も名無しさん:2007/05/22(火) 20:15:19 ID:PLNfs7Me
父なる神に御子は創造された、と理解することは、三位一体を
否定することにはならない。これは重用な仕組みな気がしている。
963神も仏も名無しさん:2007/05/22(火) 20:31:52 ID:PLNfs7Me
偶然気が付き拾ったピースから始まるジグソーパズルだが、
枠を獲ていることが大切だな。ボンヤリした枠とピースではあるが。
964神も仏も名無しさん:2007/05/22(火) 20:52:29 ID:PLNfs7Me
今死の境地にいて眼は霞んでいるが、次第に健康になり聡明になる様。
わたしは未だ真に眼を病んでいる。
好い香りに惹かれるか、嫌な香りに惹かれるのか。
好い香りに惹かれる者は枠を見つける。
枠をなんと喩えようか。
965mono ◆HfNWSGfVro :2007/05/23(水) 19:25:44 ID:y2lGGK+h
ちょっとお尋ねします。
950超えたんですけど、次スレは立つのでしょうか?

このスレ いつパンクするかわからないので、
もし立たないようでしたら、ちょっとお礼をね と思いまして。


すごく勉強になり、おもしろくて良かったですよ ありがと。
966神も仏も名無しさん:2007/05/25(金) 18:32:39 ID:t9dd5SWm
イエス様、次スレが起てられません\(^o^)/
しかし御心のままに。
967神も仏も名無しさん:2007/06/01(金) 09:48:00 ID:cmkQDZVd
主と人の関係を、結婚という形で表すのならば、離婚という形を
表したものもある。
として、主の離婚はありうるのか?
968キュロス ◆rD08MNkvxw :2007/06/03(日) 15:48:39 ID:07K35FtD
マタイ福音書 新改訳 7章28節〜29節
>イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。
>というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。

まあ 次レスは 次レスに考えてもらうとして。
この箇所は いわゆる「山上の説教」の終りの様子なんだね。
「山上の説教」の始まりの様子は 5章1節に記述が有るのだけど
そこでは イエスの話しを 弟子達は聞こうと 積極的にイエスに近づいてくるけど
群衆のことは 詳しい記述がないんだね。

そして 「山上の説教」が終わると 群衆はイエスの話しに驚き イエスが権威ある者
のようだ と思うんだね。 5章以前の 病の癒し等では 群衆はイエスが権威ある者
だとは 思わないんだね。

このあたりの事情は エマオの話しと 同じなんだね イエスの話しを 聞く事によって
イエスが何者 なのかが解るだね。つまり ありがたい「神の子イエスの救いに与る」ために
群衆が イエスの話しを聞きに集まる のではなく イエスの話しを 聞く事によって群衆は
新しいイエス観 つまり イエスが何者かが 解るんだね。

解るとは 人間が変る つまり 解る以前の人間とは違う人間になる ことだって
テレビ宣伝があったけど。 イエスの話しを 聞く事によって 群衆はそれ以前とは
違った群衆に成った ってことよね。

変ったから イエスの権威が 理解できるんだね。

良い絵画を 沢山見ることによって 最初は解らなかった芸術が解るようになるのと
同様に イエスの話しを 聞く事によって 群衆は 最初は解らなかったイエスの教えが
解るように成るんだね。
969mono ◆HfNWSGfVro :2007/06/08(金) 18:09:55 ID:O7fIZnj5
>>967
妻のことを考えているんでしょうけど、それを上手に表すことができず、
退職金もらった途端、離婚されちゃう夫っているらしいね。
不便に気づいても、双方歩み寄ろうとしないですむってことは問題だな。

神に共にいて下さいと願うだけじゃなく、自分も神から離れないように
しないと駄目だよね。
970mono ◆HfNWSGfVro :2007/06/11(月) 17:33:19 ID:EBOUJMej
相変わらず、変わった打ち方をする人だなぁ。

イエスの話を何度も聞いていると、分かってくると同時に
うかがい知れないのも増えてきて、もっともっと知りたくなる。
ぢつは教会行くのが好きなんだなぁ。
971キュロス ◆rD08MNkvxw :2007/06/11(月) 21:34:16 ID:nH13aMCJ
ネタがないんだよね。

ところで 時間なんだけどね。
マタイ福音書の編者は マルコ福音書を 知っていた とすれば
マタイ福音書の編者は マルコ福音書4章26節〜29節を 自福音書に採用してないんだね。
この喩えは そん人がなんだか良く解らないうちに神の国に成ってしまった って話しだよね。

それと 種を播く人の喩えの説明で マタイ福音書(13章18節〜23節)では 「悟り」という
言葉を使っているけど マルコ福音書(4章13節〜20節)では 「受け入れる」に成っているのね。

「受け入れる」は 「悟る」と比べて なんだか良く解らないけど 取り合えずやって見るか
って感じがかな(かなり強引な解釈?) 

その マルコ福音書は 人がなんだか良く解らないけど取り合えずイエスの話しを聞いていれば
そこが「神の国」成ってしまった って感じがするね。
972キュロス ◆rD08MNkvxw :2007/06/11(月) 21:50:05 ID:nH13aMCJ
>>971 時間ってのを 言いかえれば 「道」なんだろうね。
門 をくぐると直ぐに目的の宮殿なり神殿があるわけではなく
そこへ至る道があるんだね。

聖書 あるいは イエスと言う名の道 を歩くとこが 「神の国」 なんだろうね。

伝統宗教には 答え は無いんだと思うよ。有るのは 問い なんだね。
聖書の中に 問い があるだけで 答え はないんだと思うよ。
973神も仏も名無しさん:2007/06/11(月) 23:48:16 ID:D8miTnds
アダムは広義では土から創られた男女を含む人類一般を指し、
狭義では神に選ばれた民イスラエルを指す
あばら骨の意味が解ればエバの役割がより明確になるのだが...
エバはアダムの一部属性を受け継いだかたちで生まれる
エバはアダムに服従し彼を通してのみ神と繋がる
蛇とは直接対話をし、アダムに死をもたらす手引きを為す
アダムはまたイエス・キリストの象徴でもある
アダムは額に汗して日々の糧を得、エバは産みの苦しみを
経て子を増やす
クリスチャンは男女を問わず花嫁と呼ばれる
ユダヤ教の儀式における家畜のあばら骨の意味とは...?

イエスの処刑に裏切りは重要な要素
ユダは欠かすことのできないキーマン
ゆえにその役を負わされた不幸を思えばこそ「生まれなければ
よかった」とされた
エバに通ずるものがある
銀貨と引き換えに売り渡したもの・失った代償が命
神は死ぬべきアダムとエバのために獣の衣を与えた
974神も仏も名無しさん:2007/06/12(火) 00:09:36 ID:YzVF08iD
【討論】聖句の解釈をマターリ語るスレ13 (^^)v
http://life8.2ch.net/test/read.cgi/psy/1181574490/

立てますた。
975神も仏も名無しさん:2007/06/12(火) 00:51:01 ID:29zHaOWe
ヘブライ語ではあばら骨というよりわき腹全体を指すようだ
生贄の儀式では命の源である心臓や他の内臓を取り出すには
それらを覆っている肋骨を裂く必要があるみたい
ちなみにあばら骨付近の肉は少ないが美味いとか
そりゃカルビですから
わき腹を刺すと水が流れた、なんてのもあったな
976神も仏も名無しさん:2007/06/12(火) 01:13:50 ID:29zHaOWe
創世記の楽園追放の物語にはいくつもの象徴が
織り込まれている、と勝手に解釈をしてだ、
わき腹を刺したりあばら骨を取ったりするのは
『命』を落したり、分け与えることだと考えて、
アダムは命を与え、糧を作り、花嫁が苦しんで
子を産む様を表しているのだ、と
977神も仏も名無しさん:2007/06/12(火) 10:27:07 ID:29zHaOWe
ゴーレムと知恵の実(自由意志)の問題

アダム エバ 蛇
イエス 使徒 ユダ

神は全ての責任をゴーレムであるアダムに帰した...
と、これが聖書のテーマかつ福音・良き知らせ


978うきゃん君 ◆DV4hb.MG/U :2007/06/13(水) 21:30:11 ID:Bk5IaQac

別にそんなに聖書には暗喩や暗号が必ずある、と疑いながら読む必要ないと思うよ。

書いてあることを、書いてあるままにそのまま読めばいいんじゃないですかね。

暗喩がたくさんあるのは「黙示文学」という分類に入る巻だけだと考えればいいと思います。

旧約ではミカ書、エゼキエル書、イザヤ書、ダニエル書。

新約ではヨハネ黙示。
979神も仏も名無しさん:2007/06/13(水) 22:41:02 ID:OaAPJ9do
 
980神も仏も名無しさん:2007/06/13(水) 22:42:32 ID:OaAPJ9do
980
981神も仏も名無しさん:2007/06/14(木) 02:00:40 ID:4Te4r4+R
人によって詠み方はいろいろだからね
他の解釈とつき合わせて修正すればいいんじゃないですか?
ただユダヤの慣習や時代背景が理解できないと意味が全く
わからないことも多いんだ
畑仕事をするようになってね、聖書の読み方がだいぶ変わったよ
家畜を飼うとまた違うんだろうね
ユダヤ人は旧約から全く違うものを読み取っているのかもしれない
ちなみに何度読んでもダニエル、黙示録には全然興味が湧かないんだよね
982うきゃん君 ◆DV4hb.MG/U
>>981

まさに生きている聖書が生き生きと働いているわけですね!

黙示録ですが、なぜわかりにくいあのようなものが書かれたのかといいますと、

新約聖書ではローマの圧制下(旧約の場合はバビロニア)で、理解し合えるもの同士が、

今、どのような希望を持てばいいのか、ということを伝えて励ましあうための暗号で

つづられた文章だということです。

ローマの官憲に文書を見つけられても、「これは方言で書かれた詩歌ですよ」といって見せれば、

キリスト教を伺わせる単語が見つからないので咎められることが無かった、というわけです。

たとえば666ですが、数字7は完全数で完全数に1不足の6という数字は不完全なものの象徴です。

不完全な数字を3回(十分に)繰り返すことで不完全の統帥、皇帝ネロを象徴しています。

また、「獣」はローマ帝国の意味です。

このような感じですが、意味が分からなくなってしまった暗号もあるようですね。

このように、黙示録というのは、その内容がどうか、ということより、このようなものを書かなくてはならなかった、

ということを記念するために聖書に加えられている、ということの意味合いがあって大きいのっではないかと

思います。