原始佛教 その20

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864名無しさん@3周年:2007/01/19(金) 13:16:35 ID:VpS4Aohh
劫初より造りいとなむ殿堂に、われも黄金の釘一つうつ(与謝野晶子)

業報輪廻転生などというような検証しようもない形而上問題にこころ患わせらることなく、
修業を重ね、生命(DNA)あるがゆえの現実存苦から解脱しなさい、ということです。
そして、自己の肉体滅後にも影響・因縁は何らかの形で縁起として残るのだから、
せめてあとに続く世界のために、黄金の釘としての生き方をしませう、ということです。

これが輪廻転生「無記」の『再生』の考え方です。平凡ですが、実行するのは異常にむつかしい。

死ねば死にきり 自然は水際立っている(高村光太郎)
865机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/01/19(金) 13:36:51 ID:2VzV/pa3
>>862
>で、「輪廻の存在」を信じなければいいわけだね?仏教は・・・

君達の考えてる輪廻転生(死後の世界)のことがよくわからんのですが、
死後において意識が明確に覚醒された状態を想像してるのですか?
それとも意識が朦朧とした状態?

いずれにしても、今の自分に置き換えて想像する以外にないでしょ?
だったら「今の自分とは何だろう?」。
ってことが分らんと、死んだ先のことなんか分りようがない。

っていうか、
釈尊はそもそも四苦のテーゼにおいて本懐を遂げたのであって、
このテーマを深く洞察(開悟)すれば、おのずと輪廻転生の謎は解けるかと思いますね。
覚者は、このようにして解脱したのですから。

覚者は輪廻の循環から解脱したのではなく、
この輪廻の迷いから離れて逝ったんです。
866名無しさん@3周年:2007/01/19(金) 13:43:30 ID:VpS4Aohh
 業報輪廻転生論は、機能的には人間の我執-執着-エゴイズムを強化・刺激する方向へ働く。
エゴイズムへの強迫だからだ。ヒンドゥーのその実体はエゴイズム教なのだ。
だから、バラモン教と同構造の現代日本の葬式仏教やインチキ詐欺師(細〇数子とか・・)
にとっては、ご先祖・霊魂・輪廻転生・死後生など検証不能概念はオイシイ商売ネタだ。

無常=無我=縁起なるがゆえに「我」に執着するな、というブッダの教えとは
機能的に正反対の方向だということだけは注意しておくべきだ。
867名無しさん@3周年:2007/01/19(金) 13:49:02 ID:H/UjG1JF
>>849
電波男、むちゃくちゃだな。子供かヤクザか。
868名無しさん@3周年:2007/01/19(金) 13:50:15 ID:7pKeGlv1
ブッタとは

俺のことかと

ブッダ言いwww
869名無しさん@3周年:2007/01/19(金) 16:22:32 ID:GqzDrq7a
>>868
ブッダにブッ叩かれるぞ
870名無しさん@3周年:2007/01/19(金) 18:44:01 ID:KRQ69SAn
>>827
>所謂四句分別による表現を知らないあなたではないでしょう

《「〜がない」は絶対否定であり、「〜でない」は相対否定である》
と仮定し、それを
>…認識されるわけではない
に、そのまま適用すると、

《「〜でない」で否定しているから相対否定であり、
>「外界は無である」
と述べていることになる》

というように、一応、先の仮定に基づく論理は成立していますが…。


あとは、
>二分法が成立しないと
という、先の仮定の検討が要請されるでしょう。
871名無しさん@3周年:2007/01/19(金) 19:02:30 ID:CFNT/3Ih
「輪廻」を信じている人は十四無記をどうとらえているの?
俺はあくまでも仏教は哲学だと思っているが、本来
872名無しさん@3周年:2007/01/19(金) 20:12:38 ID:/lGV/0dJ
>外界の存在そのものが直接そのまま認識されるわけではない

この文の構造は次のように分析できるでしょう。

{外界の存在そのもの}が{直接そのまま認識される}わけではない

つまり、簡単な文構造に置き換えると、「AがBするわけではない」となります。

これは区切る場所によって二つの解釈が可能になります。

(1) 「Aが、Bするわけではない」
否定(わけではない)が「Bする」にかかっている。Aにはかかっていない。
ここから、「Aつまり外界は否定されていない。実在している、と見なしている」という解釈になる。

(2) 「AがBする、わけではない」
否定が「AがBする」にかかっている。つまり、否定は外界・認識の双方にかかっている。
したがって、外界の実在を前提にしてBを述べているのではない。

批判者は(1)で解釈し、主張者は(2)だとしているようです。これが議論が噛み合わない原因でしょう。

上記の視点は一か月ほど前に気づいていたのですが、書きそびれているうちに忘れてしまっていました。
873名無しさん@3周年:2007/01/19(金) 20:44:25 ID:J6EpXk6a
プトンの伝記に出てくることですが、西域記にもありました。

大唐西域記卷第十
T51n2087_p0929c20(05)?龍猛俳徊顧視求所絶命。以乾茅葉自刎其頸。
T51n2087_p0929c21(02)?若利劍斷割身首異處。王子見已驚奔而去。
T51n2087_p0929c22(01)?門者上白。具陳始末。王聞哀感果亦命終。

話はもっと上から続きます。
大方、外教徒による中傷デマが伝承された、といった事情とは思われますが。
俗人のとき友人たちと透明人間になって宮中に忍び込み云々、という話もかなり眉唾っぽいですし。
874名無しさん@3周年:2007/01/19(金) 21:03:45 ID:CFNT/3Ih
末法の世ですか?
下らんことであーでもないこーでもないやって、気づいたら経ろ経ろ爺さんになってました?
糞坊主とあほニートの対決ですか?
875名無しさん@3周年:2007/01/19(金) 21:59:26 ID:yglmT3C1
>>872
批判者は、おそらく意図的に気がついていないんだと思います。

>所謂四句分別による表現を知らないあなたではないでしょう
というコメントが全てを物語っているのでは?
876名無しさん@3周年:2007/01/19(金) 23:45:14 ID:0KWr/jZo
「無記相応」摘記
ケーマー経//「如来=仏陀」という感じの説明。釈尊を神秘化しているような印象も多少。

アヌラーダ経//色が如来と思うか。以下、五蘊の一々について問う。色とは別に如来があると思うか。
色は無我である云々に表現形式が酷似しているので、マハトマという語を想い起こした。
偉大なお方ガンジーであり、アートマンでもある。
上で触れられた中村元訳で「たましい」とした、というのはこのことか。

the Tathagata -- the supreme man, the superlative man, attainer of the superlative attainment --
これら如来を修飾する語は当初からあったものか。後世の挿入という可能性。

サーリプッタ・コッティタ経。モッガッラーナ経
ヴァッチャゴッタ経//the members of other sects assume form to be the self,
or the self as possessing form, or form as in the self, or the self as in form.
Tathagata, worthy and rightly self-awakened,
上の経にも同文が入っているが、ここでは自称とすれば自慢となってやや奇妙。

論義堂経(ヴァッチャゴッタ)//This contemplative Gotama
describes a disciple who has died and passed on in terms of places of rebirth:
But when the disciple is an ultimate person, a foremost person, attained to the foremost attainment,
the contemplative Gotama does not describe him, when he has died and passed on, in terms of places of rebirth:
釈尊が、弟子某はどこそこに転生した、と述べた例を

アーナンダ経//"And if I were to answer that there is no self, the bewildered Vacchagotta
would become even more bewildered: 'Does the self I used to have now not exist?'"

論義堂経(サビヤ)//ケーマー経に近いが、神秘化はない

以上、すべて対応漢訳も探して対照すべし。
877名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 00:08:14 ID:qE6Tww3W
>871
解脱者としての如来が死後どうなるかの答えが無記です。お間違いなく。>778
及び>530 >549 >790-791

>876
如来は、当時、以前からの一般的呼称で外道も使用していたことも、
釈尊が如来という言葉を一人称として用いず、常に三人称として用いていたことをアンカー先の
水野先生の論文で厳密に論証されていますので、貴方の推測は全くあてはまりません。
878名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 00:11:00 ID:qE6Tww3W
>872 >875 よく彼の発言を読んでくださいよん。

http://life.2ch.net/psy/kako/1029/10296/1029606807.html
> 218 :電波男Ψ(´д`)Ψ ◆c9KW8mn4ss :02/11/09 08:09
1 > MahAyAne " traidhAtukam vijNaptimAtram " iti vyavasthApyate
2 > 大乗では「〔われ、われが経験している〕三界とは認識された〔その内容〕に過ぎない」と言っている。
3 > とあり、「外界の存在そのものが直接そのまま認識されるわけではない」と続きます。
4 > 外界の存在否定などしてしまったら、当時の論理学的水準でも相対論に陥ってしまうため、そんなバカな事はしません。

1. が iti でテキストを「捏造」した『唯識二十論自注』還梵の引用。2.が彼の「捏造」訳。
3.が問題の文章ですが『唯識二十論自注』には見あたらない「捏造」。既に指摘したようにほぼ逆の
   tsam zhes bya ba smos pa ni don dgag pa'i phyir ro /
  mAtram ity artha-pratiSedhArthaM /
 「唯」と述べたのは、外界対象を否定するためである。
たぶんここを3.のように「捏造」したのでしょう。誤読したなら梵蔵漢の何れかが妄想レヴェル。
そして4.がつづくので、明らかに「外界の存在否定」せず、外界は直接認識されないが外界は存在すると、
述べているのは否定できないでしょう。

電波男は唯識が専門だそうだが、たった四行の中に誤読と妄想が盛りだくさん、
専門分野でこうなのだから、他は全く信用できないのがよく分かるでしょう。
879電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :2007/01/20(土) 00:13:17 ID:/N7h0M9A
>>878
宿題を先ず済ませろ。
880名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 00:18:00 ID:qE6Tww3W
>856-858
いね、いね、いね〜! 貴方、行者だね。しかも結構いいんじゃない。
そうそう、無明という認識の誤りは夢のように

 >862
いや、仰るとおり。
「テキストを改変したら、単なる捏造だwww」その通り! 表現をそのように正しく改めました。

>863
ターラナータに限らず、仏伝でもそのような記述は沢山ありますよん。つまりお経を読めば出てくる話。
ただそのような記述は文献学では神格化として切り捨ててきただけの話。
仏教は凡夫の根本的認識の欠陥を、正しい認識を持ったブッダや聖者が直す方法を説いたものですが、
彼らは凡夫の基準・通俗科学で、仏教を判定する。それなら仏教は必要なく科学に従えばいいだけ。
文献学は、本来、テキストを復元し正確な読みを提示するまで、そこに現代の解釈の介入は許されない。
それは、多少意味あるが、仏教本来の意味からは遙かに低い。

ですが、ここでは文献学を用いる以外ないのです。なぜなら、物証以外信用しないだろうからです。
まあ、電波男やアホダラのように物証を突きつけられても、認めない輩もいるわけですが。

よろしくね!(ゆーとぴあ)
881名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 00:20:19 ID:qE6Tww3W
>879 既述の如くiti の誤りも認められない方とは議論できませんので、あしからず。
882電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :2007/01/20(土) 01:58:31 ID:/N7h0M9A
>>881
もう既に、議論とかの話じゃないんですよ。
理解できないのかな?

弁護士とは相談を済ませたのかな?
仏教徒である以前に、人間として最低のことをしていると他人から言われたほうがよさそうですね。
非難中傷しておいて議論できないとは、腰抜けで卑怯者であるといわざるを得ません。

”iti”で揚げ足取る前に、あんたのしでかした学問的致命傷について何の返答も無いとは情けないですね。
仏教や文献学を述べる資格はないということです。

で、物証とはなんですかぁ?何度お聞きしてもお答えくださらないのですね。絶対に無理だと思うけど。。プゲラ。
883電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :2007/01/20(土) 02:15:15 ID:/N7h0M9A
ん、、、この「輪廻転生絶対君」の学問的見地やその人間性、品格、品位などがいかに下劣であるかを少しだけ見ようか。
論理的に破綻していることもよくわかるだろう。アリストテレスを持ち出して原典云々は笑ってしまったが。。

質問形式で列挙してみよう。

原始佛教 その19
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1160400642/634 より

【輪廻転生絶対君への質問001】

・「生れ変り以外の輪廻などない」と断言する根拠はなにか?
・「最近自演がばれた電波さんも」議論とは関係のないものを持ってくるのはなぜか?
・上記、自演がばれたとする根拠が曖昧なのに、なぜ断定するのか?
・それが論点先取であって、害悪の意思表明になっていることに気づかないのか?
・議論とは関係の無い、上記発言についての責任をもてるのか?
・「その珍説に従っているわけですが、和辻以来の珍説はもう終わりにしましょうよ」と言うが、ボクのどの発言が和辻氏と同じだと言うのか?
・また、珍説と言うのであれば、その根拠を提示し、論証すべきである
・並川孝儀氏、望月海慧氏などに対する「阿諛」などとする侮辱について、責任をもてるのか?
・「どうしようもないですね」と言うのなら、論証してからにすべきじゃないのか?
・「はっきりいいますが、「生れ変りとしての輪廻」を認めないなら、一切皆苦であることを承認する仏教徒は、今すぐ自殺するしかないでしょう」と結論付ける根拠はなにか?
・前提も論証もないその結論は承認しがたい。

これはほんの一部分。気が向いたら書き足していこう。
====
で、リアル裁判とリンクしていたスレッドでのいざこざを全く関係の無いこのスレッドに持ち込んだ行為については、謝罪があっても
許されるべきものではない。折りあるごとに追求していくのでそのつもりで。このこと一つで品性下劣だということは証明されていますが、
まだ自称仏教徒だと言い続けますか?そして人の質問からは「議論したくない」で逃げ切るのですか?あるいは完全無視して
遁走ですか?
884名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 07:59:15 ID:Hzf5pt+C
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BC%AA%E5%BB%BB
ヒンドゥー教における輪廻
ヒンドゥー教では、輪廻を教義の根幹とし、信心によって次の輪廻(来世)においてカーストが上がるといわれている。
輪廻は、生き物が死して後、生前の行為つまりカルマ(karuman)の結果、次の多様な生存となって生まれ変わることである。
行為は、行われた後に、なんらかの余力を残し、それが次の生においてもその結果をもたらす。
この結果がもたらされる人生は、前世の行為にあり、行為(カルマ)輪廻の原因とされた。
生き物は、行為の結果を残さない、行為を超越する段階に達しないかぎり、永遠に生まれ変わり、生まれ変わる次の生は、
前の生の行為によって決定される。

仏教における輪廻
仏教においても、伝統的に輪廻が教義の前提となっており、輪廻を苦と捉え、輪廻から解脱することを目的とした。
ただし輪廻の主体たる常住不変の我は因縁説と矛盾しており成立しない(無我)とする点で、他のインド伝統宗教と対立してきた。
仏教者や仏教研究者のなかには、「釈迦は輪廻説を前提としておらず、インドに古代から信じられて半ば社会の常識化した輪廻を
直接的に否定することをせず、方便として是認したに過ぎない」と主張する者も少なくない。
885名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 08:18:33 ID:7cYVYxBe
>>878
>3.は、悪意をもって読むのでなければ、捏造でもなんでもなくってこの文のパラフレーズでしょうね。

>3.が問題の文章ですが『唯識二十論自注』には見あたらない「捏造」。既に指摘したようにほぼ逆の
>   tsam zhes bya ba smos pa ni don dgag pa'i phyir ro /
>  mAtram ity artha-pratiSedhArthaM /
> 「唯」と述べたのは、外界対象を否定するためである。

外界が実在することを否定する文でしょうか、それとも認識には外界に実在する対象が必要であること
を否定する文なのでしょうか。この文からはどちらとも確定できないと思いますが。
don が認識とは無関係に外界の存在を意味するのか、それとも「対象」と訳してあるような「認識の対象」
に限定された意味であるのかを確定しできないなら、あなたの主張も電波男の主張も両方とも成り立つ
と思います。

また、dgag も同じことで、存在を無条件に否定するという意味なのか、「排除」の意味なのかで文意は異
なるのではありませんか?don が認識とは無関係に存在する外界の存在を意味し、dgag が無条件に
否定するという意味ならあなたの主張は成り立ち、don が認識対象に限定された意味なら電波男の解釈
が成り立つと思います。

ちらっと見ただけでは、有部の言う「識は境に依る」という立場の否定だと読んでしまいたくなりますが。
(つまり電波男のパラフレーズが正解ではないかと思いますが)。
886名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 08:50:03 ID:qE6Tww3W
>885
すごく特殊なこと仰ってますが、一体誰が仰ってるのでしょうか?

私が知る限り貴方の説はインド、シナ、日本、チベットの伝統説と矛盾しますし、
文献学の分野でも、貴方のような説を唱えている方は知りませんが、どなたが言っているのでしょうか?

誰も言っていないのであれば、論証する必要があります。
887名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 09:31:51 ID:7cYVYxBe
>>886
どこが特殊なの?
888856:2007/01/20(土) 11:44:15 ID:ZmmunHKy
>仏教者や仏教研究者のなかには、「釈迦は輪廻説を前提としておらず、
>インドに古代から信じられて半ば社会の常識化した輪廻を
>直接的に否定することをせず、方便として是認したに過ぎない」と主張する者も少なくない。

これこそ、まさに近代科学の洗礼を受けた後の解釈。
つまり、アジアの仏教思想よりも西洋合理主義のほうが優位である
という欧米人仏教学者(かれらはクリスチャンだもんね)の説に阿るもの。
ご指摘のように近代仏教学はブッダの奇跡もすべて単なる神話比喩として切り捨ててまいりました。
その結果、インテリの間では仏教は「単なる哲学」だと思われています。
しかし、例えば輪廻は存在しない、他の生存はないと断言し、あらゆる神話は無意味
と切り捨てるなら、ジャータカなぞ、味気ない、なんの価値も無いものになってしまいます。
多くの経典がそうです。
現に研究者の多くが無視しております。

明治初年、近代科学によって否定されつつあった須弥山思想を護法精神で
何とか辻褄を合わせようとした先人の努力を忘れるべきではない。

でも文献学なら学問版でやったほうが良いんじゃないでしょうか?
ここは宗教版だから私は宗教的アプローチを取らせていただきます。
889名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 12:00:16 ID:uu0NkOhO
優位なメスと劣位なオスの歴史

生物:生活能力のあるメスが生活能力のない矮小なオスを養う関係は生態系にはいくらでもある
それで、受精卵ができて、オスの精子が必要なくなる
すると、どのオスも追い出されるか、殺されるか、
メスの体内に吸収されるかのいずれかの運命になる

人類:人間も古代ではメスが優位
一例:アマゾンは狩猟民族で、狩猟の女神アルテミスを信仰していた
女のみの部族であるため子孫を残すためには男が必要である
このため時折捕虜として男を連れ帰ることがあった
捕虜となった男は全裸にされ手枷、足枷がつけられ子作りの道具として多数のアマゾンによって嬲られ精を搾られた
その結果、すぐに発狂するか廃人同然となり、男性機能が役に立たなくなった者から順に絞め殺された
男児が生まれた場合は即、生き埋めにして殺すか、不具として奴隷とする
女児の場合はそのまま戦士に育てた
こうしたメス優位な社会が古代ではごく当たり前であり、男は女に約5500万年間虐げられてきました
メス優位社会は母なる大地(女神崇拝)、自然崇拝が基本です

メス優位がオス優位?になったのは、キリストや仏陀や孔子などの男尊女卑思想登場前後からです
オス優位?社会は父なる天を崇拝、文明マンセーが基本です

ところが、昨今はフェミニスト(女尊男卑思想)によりまたメス優位となってきました
それにつれてメス本来の凶悪性が出てきました(オス優位?な時代ではおとなしくしていただけ、殴られちゃうからね
これらは、妻の夫殺しが年々ハイスピードで激増している事からも分かります
鬼嫁、熟年離婚、女だけ過剰な保護、貢ぐ君、不幸で悲惨な結婚生活、女子にのみ甘い判決、豪華な女子刑務所、金銭搾取、女優遇マスコミ、他多数

女の子は優しい?か弱い?(笑)メスは本来凶悪です。今後、更に男性差別が激しくなっていくでしょう。最終的にオスはメスの奴隷になります
オス優位な仕事場も、今後はどんどんメスに奪われていくでしょう(3k労働や兵役は残してくれるでしょうが・・・
こうして地位も経済力も生活力もやる気も無くしたオスをメスがどのように扱うかは上記を見れば分かります。
男性諸君!恋愛(避妊SEX)は楽しみつつ、不幸で悲惨な結婚生活は回避し、約5500万年間の恨みを晴らそう!
890856:2007/01/20(土) 12:01:31 ID:ZmmunHKy
それにしても「輪廻は存在しないという説を非難」すると
どうして「輪廻転生絶対君」になるのでしょう?これは「常見」のことですか?
それなら「輪廻は存在しないと主張すれば即、断見という」おなじ過ちになりますよ?

確かに釈尊は輪廻を積極的にお説きにはなっていません。
しかしそれは常見、断見から離れるためでしょう。
私はそうしたprapancaを否定しているわけで・・・
「ある」「ない」は決してdesanaじゃありませんよね?

まあ無我説と輪廻説をどう折り合いつけるかが、インド仏教の歴史でもあり
研究の醍醐味でもありますけど・・・
これはもう行じて自分で確かめるしかない。



891阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/01/20(土) 12:03:18 ID:I/GSY7jd
迷子石 濱の真砂は尽くるとも 世にタルチュフの 種は尽きまじ
892856:2007/01/20(土) 12:06:33 ID:ZmmunHKy
長々駄文を書き連ね申し訳ありませんが
「修道」の立場から申しますと、他の有、生存がないと
四向四果も嘘になってしまい困りますね。
極七辺生とかどう解釈して良いやら・・・
アビダンマもこれじゃ成り立ちません。

893864:2007/01/20(土) 12:24:13 ID:HxoFQCcj
>>888
何回言ったらわかってもらえるのやら・・・
>業報輪廻転生などというような検証しようもない形而上問題にこころ患わせらることなく、
>修業を重ね、生命(DNA)あるがゆえの現実存苦から解脱しなさい、ということです。

だいたい、検証できない業報輪廻転生なんか問題にする事自体が迷妄の証拠。
無記とは拒否以上の拒否、問題にさえしない事だ。修業の妨げになり、本来目的を達成できないからだ。
いっそのこと、ヒンドゥに転向したら?インド国民の85%を占めるお馬鹿な
不可触民として歓迎されるだろう。

ブッダの教えは「現在の生存において」の苦を征服することだよ(増谷文雄『仏教の根本聖典』238頁)。


894机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/01/20(土) 12:47:14 ID:WnOqDfHs
>>889
>ところが、昨今はフェミニスト(女尊男卑思想)によりまたメス優位となってきました

その時代に形成される世相は、バックボーンに生物学があります。
少子化社会ですと、種の保存のために女性優位の思想になりやすい。

人間の原型はメスです。
ですからオスは生物学的には弱い。
よって、オスの方が出生率は高く、死亡率も高い。

近年はどういうわけか、オスの出生率が低くなってきてるんです。
(メスの生誕が多い)

これは生物学でいうたら、どういう意味なのか?
わたくしはそれなりの分析はしちょりまふ。
895電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :2007/01/20(土) 13:08:50 ID:/N7h0M9A
輪廻に対する基本的立場を何度もご説明してきましたが、再度簡潔に申し上げます。

1 仏教で言う【輪廻】とはこの生存において、「おこない」とその「報いが」繰り返してとどめの無い生存(=苦)のことを言う
2 その連鎖を断ち切り、苦からの開放を目指すために、苦の原因を知り、おこなわないようにする
3 具体的には五戒を保つなど、止悪から始まり、執着の環境を作っていくためにも善いことをおこなう
4 これらは経験的に確認できるものであり、実践徳目でもある
5 これらに対して、確認も経験も出来ない創造神の存在や【輪廻転生】に関わる有無の断定に始まる執着は迷信として排除すべきである
6 また、世俗諦や勝義諦で原始仏教を考察し、それを文献学だという人もいるが、先入観だと考える
7 「輪廻転生が勝義諦では存在しないで、世俗諦として存在する」など飛躍も甚だしい
8 この三界における真実で、認識の領域あるいは明確な推論の元で検証されるものを超えたところに求めれば、迷妄となる
7 原始仏典で「釈尊が輪廻転生を解いているから輪廻転生がある」と無批判に受容するのなら、議論の必要は無くなる
8 釈尊の思想とされるものの中で、死後輪廻(輪廻転生)はつじつまが合わないから、その体系の中で解きほぐす作業が必要になる
10 つじつまが合わないというのも断定ではなく、蓋然性のあるものだから、まだまだ明らかにする必要があるだろう

====
あと、何回も説明しているのですが、「認識は外界を根拠にしない」というのが「外界の否定である」*と言う論点先取の上で
攻撃してくる輩がいますが、この論の飛躍による粘着をどうも意図してではなく、本当にわかっていないようですね。
多くの方がご指摘されているのに、有見によって目が曇っているのでしょうか。

*「外界の否定をするのが目的ではなく、認識の根拠として外界を主張するのは間違いであり、認識の根拠としての外界を遮止する」
と言う主張にたいしても「唯識は外界を認めるの言うのか!!」などの攻撃を加えます。輪廻転生を批判すると、「断見論者」という
レッテルを貼るのと同じですね。さすがにアリストテレスを貼り付けて「原典だぁ」と言うだけの事はあります。
896名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 14:40:06 ID:ZmmunHKy
>893
>無記とは拒否以上の拒否、問題にさえしない事だ。
>修業の妨げになり、本来目的を達成できないからだ。
毒矢の喩えは存じてますが、貴説を有難う。
一切知者である釈迦ムニブッタは生命をDNAであると喝破されていたのですね?

>検証できない業報輪廻転生なんか
何によって検証できないと言うのでしょう?科学でしょうか?
つまりあなたの意見は、科学によって仏教を検証し、検証できないものは仏教でない。
科学優位思想なんですね。了解しました。
でもレッテル貼りですか?
差別意識丸出しの意見ですね?ブッタはカーストを否定したというのに
あなたはその否定さるべきカーストで人を愚弄する。

で、増谷大先生は今どうしてんですか?この生存を終えられて涅槃ですか?
897856:2007/01/20(土) 15:02:38 ID:ZmmunHKy
>896
ご意見頂戴いたしました。
やはりと申しますか、私の考えとも大体において一致しております。
まずは
1 仏教で言う【輪廻】とはこの生存において、「おこない」とその「報いが」繰り返してとどめの無い生存(=苦)のことを言う
これも肯んずべきでありましょう。
なぜなら前世の記憶を持たない私にとって、個々の生存は「常に」最初で最後の一回きりだからです。
そして、これっきりと思いつつ、期せずして生存を繰り返すを輪廻と申します。
何事も「次があるさ」と思っていては成就しません。今生で悟ることこそ目的です。

2諦についてはあえて申しません。

大事なのは「有無の断定」からいかに逃れるか・・・あなたは否定からそこに
いたろうとし、私は肯定からそこにいたろうとする。その違いです。

でも私は一切知者ではありませんからわずかばかりの自身の経験で
「確認も経験も出来ない」から「迷信、迷妄」だとは、おこがましくていえません。
どうも認識手段の違いがあるようですね。私は伝統的解釈に従い科学を持ち込むつもりは
ありません。

しかし、欲界の住人が、どうやって三界の実存を認識し体験できるのでしょう?
898893:2007/01/20(土) 15:07:06 ID:HxoFQCcj
わたしが白丸=〇だよと言っても、>>896は私が黒三角=▲と言った、と捻じ曲げて
揚げ足取り風にトンチンカンに非難する。
 生産的な成果が期待できないので以降>>896の無明生は無視します。
899856:2007/01/20(土) 15:23:02 ID:ZmmunHKy
誤解もあると思いますが、かくも「輪廻はある」と思っている私も
何も見もしない過去世や来世にこころ奪われているわけでは
ありません。
私の本有は生苦と死苦にはさまれて、行くもかなわず戻るもかなわぬ状況ですから。
今生こそが唯一の解脱の機会だと思っております。
ただ私は認識手段としてsabdaを認める立場ですから・・・
この輪廻に浮沈しながらやっと縁あって人間となり縁あって仏教に出会えた。
このように考えるからこそ、今生がいとおしくかけがえのないものに思われます。

余談ですが、年間3万人を超す日本の自殺者
彼らは死ねば全ての苦しみから逃れられると思い自殺したのではないでしょうか?
彼らには「人生一回きりだから死ぬな」と言ってもかれらは人生を「一回きり」にしたくて
自殺するわけで・・・
彼らに輪廻説が有効かどうかは疑問ですが、
かといって「一回きりの人生」だけでも救えない気がします。
900856:2007/01/20(土) 15:29:40 ID:ZmmunHKy
トンチンカン・・・
なんか懐かしい響きですね。
最後に
ブッダの教えは「現在の生存において」の苦を征服することだよ
その通りです。
でも今生で苦を乗り越えられなかったらどうするの?と言う話です。
負け犬ですか?
出家できない身障者、ライ病患者も負け犬、
苦しんで死になさいでしょうか?
901856:2007/01/20(土) 15:39:43 ID:ZmmunHKy
若くて元気な人は良いでしょう。
しかし病者や高齢者で自ら修行できない方
また死を目前にした人々、その方々に「今生のみ」と言うのは無慈悲な
気がします。
タイのエイズ患者のターミナルケアの現場を見たことがあります。
その場合も来世を説いていたと思います。
これは極論かもしれませんが、条件は様々
だからブッタは対機説法されたわけで8万4千の法門が存在する。
902名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 21:01:34 ID:Uc9xAB+Z
>>878
1 >外界の存在否定・・・はしません

2 >外界は存在すると、述べている
3 >「唯」と述べたのは、外界対象を否定するためである


「『外界は存在する』を否定する」
「『外界は存在しない』を否定する」・・・1の見解
「『外界は存在する』を肯定する」・・・2の見解
「『外界は存在しない』を肯定する」・・・3の見解


「外界の存在そのものが直接そのまま認識されるわけではない」は、
「外界を直接に認識できるわけではない」ということから、
「したがって、有部のように外界の実在を主張することはできない」という主旨となれば、
「『外界は存在する』を否定する」に相当するだろう。
903机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/01/21(日) 07:42:53 ID:efzJ1TEO
物理学の分野においては、同一対象物が”状況”において存在する場合と消滅する場合がある。
動体観測と静体観測の違いで、いわゆるマクロの相対性理論です。

ミクロですと、可視・不可視の”状況”の違いで対象物が存在する場合と消滅する場合がある。

インド哲学は、この”状況”を第一義とするため、存在・非存在の二項には属さない。
904名無しさん@3周年:2007/01/21(日) 09:23:28 ID:Gxpcey4u
出禁バカ

断末魔にも

嘘を吐き
905名無しさん@3周年:2007/01/21(日) 10:17:07 ID:VX/gW2a9
割り込んで恐縮ですが、56億7千万年後に弥勒菩薩が降臨して衆生を済度する、というのがありますが、
それは太陽の余命と一致します
太陽は太陽系における「煩悩」の源と考えられます
偶然の一致なのでしょうか?
906名無しさん@3周年:2007/01/21(日) 10:42:40 ID:Gxpcey4u
天文も

物理も蛇足

スレ違い
907机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/01/21(日) 11:16:57 ID:efzJ1TEO
宇宙には陽因子と陰因子が等数あって、それが互いに合体すると因子は消滅します。
つまり数理的には宇宙が存在していないことになります。
しかしどういうわけか、計算上はありえない「物質世界がある」。
というのが、先ずもって謎なのであります。

この宇宙は、数理的には若干陽因子が陰因子より多いようです。→これが謎
で、そおいう理由により宇宙は誕生した。
と考えられております。
つまり宇宙の存在そのものは、アンバランスな状態である。→ユラギ
というのは宇宙物理学においては定説であります。

恒星どころか、宇宙そのものが消滅する。
と考えられています。
この消滅した世界が、一応は安定した宇宙というのが定説です。
安定から→ビックバン→膨張→収縮→消滅→ビックバン・・・・→∞
と繰り返す。

まあ、マクロの観点でしたら、、あの世を語ちる場合じゃないですね(^^ゞ
908名無しさん@3周年:2007/01/21(日) 11:20:10 ID:Gxpcey4u
出禁バカ

スレ沙婆ともに

居場所なしwww
909机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/01/21(日) 11:21:34 ID:efzJ1TEO
>太陽は太陽系における「煩悩」の源と考えられます
>偶然の一致なのでしょうか?

よくは分りませんが、
物理学が発展することにより、仏教にピタリ一致するとこがあります。


910机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/01/21(日) 11:25:50 ID:efzJ1TEO
×  この宇宙は、数理的には若干陽因子が陰因子より多いようです。→これが謎
〇  この宇宙は、数理的には陽因子だけが残存している状態。→これが謎
911名無しさん@3周年:2007/01/21(日) 11:58:54 ID:Gxpcey4u
トンデモで

総身が腐乱

出禁バカwww


存在が

罪業と知れ

出禁バカ
912名無しさん@3周年:2007/01/21(日) 12:06:06 ID:VX/gW2a9
太陽はやがて赤色矮星となり10億年以内に地球は燃え尽きるそうですね
輪廻転生があるとして、11億年後にはどこに生まれ変わったら良いのでしょうか?
地球以外に生まれ変わるのですか?
そこはどこですか?
そこもやがて「諸行無常」の法により朽ち果てるのではないですか?
また別のどこかを探さなくてはならないのですか?
それって苦しくありませんか?
913名無しさん@3周年:2007/01/21(日) 12:22:51 ID:XaJ76sVO
仏教の宇宙論は、そんなに射程が狭くないですよ。
ビックバン以前から輪廻していることになっています。
宇宙も生命もすべて無常です。
別に自分の意志で、日本に生まれてきた訳ではないでしょう。
それと同じように行・カルマの力で生まれてしまうのです。

その輪廻の生き死にを続けること、すべてが苦でありので一切皆苦なんです。
その輪廻から抜け出すには行をして解脱するしかないのです。
まず輪廻にいるという現状認識を行い、その輪廻一切は苦であるとはっきり認識するのが苦諦です。
その苦がどのように縁起するかが集諦で、それらが消滅した状態だけが楽であるというのが滅諦です。
そこに至るための道を示すのが道諦です。
914電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :2007/01/21(日) 12:27:35 ID:FxG6HALI
【認識の根拠について】
よく、「説一切有部などのバイバーシカは外界の存在を積極的に説く」と言う意見を聞きますが、
実在論として外界を説明したのではなく、認識の根拠として説明したものだとボクは考えます。
その意味で有部などは「素朴実在論」と言ってもよいのかもしれませんが、これは論主世親によって
批判されてしまいます。
    〔素朴実在論として〕認識の根拠を外界を認めてしまえば、不合理なことが沢山生じてしまう
と展開していきます。

【有無の両辺から脱却できない人】
輪廻転生について「有」を主張する人がいます。
そのことを不合理であると批判すると、「断見」であると断定した非難返しがきます。
「常見」論者にとっては、断見論者との両極しか見えないのでしょう。
検証、確認できないことや経験できないこと(科学分野を持ち出す必要は無い)について、
詮索を加えることや、判断を下すことは、材料が無いので不可能です。
だから言及を避けるのですが、このことは原始仏教の精神であるとボクは確信します。
これに対して、原始仏典に記述があることだけを根拠とし、輪廻転生を主張する人がいます。
そして、その常見を批判されると勝義諦と世俗諦という別判断基準を導入してきます。
原始仏教の文脈でこの二諦説という別基準を用いること自体、詭弁であり、不誠実さを表明していることに他ありません。
また、世俗諦は輪廻転生を肯定する常見であり、勝義諦で空として否定されるという珍説を披露してくれます
中観の入門もわかっていない発言を繰り返しているのですね。
辻先生や山口瑞鳳、並川先生などを偉そうに批判する資格はありません。
論理矛盾を指摘したときに、アリストテレスを紹介し、原典がどうのこうのというトンチンカンがこれ以上原始仏教スレを
荒らすことの無いように。チベット語スレでも論破されて怨霊化しているのでしょうかね。
怨霊退散させるのには、まだまだある質問項目、矛盾項目、道徳的有責性をも含めて箇条書き列挙すれば好いのかな?

で、念のためですが、断見も常見と同じくボクは批判の対象とします。
この有無の両辺を遮することで原始仏教の本質を探れると確信しております。
915名無しさん@3周年:2007/01/21(日) 12:29:12 ID:BKIw/zRw
>>908
お前はストーカーだ。少し増しなことを言う様にしろよ。
916名無しさん@3周年:2007/01/21(日) 12:50:12 ID:XaJ76sVO
>914
というのが唯の断見なんですが、辞書でも経典でもみればすぐわかる。

常見というのはアートマンやブラフマン、原子やスポータなど永遠不滅の実体を想定することで輪廻とは関係ありません。

仏教の輪廻は、実体が輪廻するのではなく、縁起して輪廻するので実体は立てないのです。
まあ、仏教内部でもそれが理解できず輪廻を主体をいろいろ設定したのですが、
原始仏教や中観はそうで、主体は識や心相続などと仮設されて呼称されますが、
もちろん実体ではありません。
917電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :2007/01/21(日) 13:41:30 ID:FxG6HALI
>>916
その常見の説明は中村元『佛教大辞典』P.756 を根拠にしているのですね?

輪廻転生に関して、肯定するのが常見、否定するのが断見であるということを批判するには材料不足ですよ。
常見は断見とセットでかたられ、それは輪廻転生についての議論になります。つまり、現世限りか、来世に転生
して行くかの議論です。雜阿含經では頻出です。

勿論、バラモン思想の梵我なども常見の一つですが、それのみを対象として考察し、限定するのは作業的に不適切です。
だから、実体云々はここでは関係ありません。また、検証、確認できない事柄を縁起して輪廻すると言うのは迷信に属します。
原始仏教で、輪廻の主体が識や心相続などとする見解は阿含宗の捏造邪義です。かなり昔に阿含宗が経典捏造したこと
を指摘したのですが。。。

以下、蛇足です。

中村元訳『真理のことば』410,411、解説部分
> 仏教は、われわれの陥り易い誤ったものの見方に常見と断見があるという。前者は、東洋によく見られるもので、
> 人は死んでも魂(私)は不滅であって、永劫回帰などをいう。一方、後者は、人の命はこの世限りのもので、死
> ねばすべては滅び、死後の世界はもちろん、因果の法則もないというものだ。因みに、もしあなたが虚心に自ら
> を顧みれば、自覚の有無はともかく、このどちらかに基づいて人生を歩んでいるはずだ。
> 最近では、臨死体験者の報告などから、人間は死んでも終わりではないのかと思い、常見に飛び付く人々がいる。
> しかし、殆どの人は肉体が滅びればすべては終わりという断見に傾いていよう。常見を採る人々は輪廻転生を言
> い、死後の世界を説くことが人間の秘密を解き明かすかのように錯覚し、一方、断見は、私利私欲に走る世相が
> よく表しているように、浅はかな現世至上主義になり易い。しかし釈尊は、どちらの立場もとらないというので、
> 現世を望まず、来世を望まずと言ったのだ。なぜなら、現世と来世、いずれも超えた生と死の彼方にある「不死
> の境地」を目指しているのが仏教であり、そこに到達した人を彼はバラモンと呼ぶ。
918机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/01/21(日) 13:55:13 ID:efzJ1TEO
>913
>ビックバン以前から輪廻していることになっています。

ビックバン以前というのは、時空がない。ということです。
したがって「輪廻している」というような時間経過そのものもない。
ってことです。

空間と時間は切り離せないのです。
919名無しさん@3周年:2007/01/21(日) 14:44:40 ID:kmvWDYrX
 まもなく梅が咲き、桜が咲く。
桜はいずれ散る、だから桜のような形あるものに執着してはいけない、
これがブッダのの無常=無我=縁起だ。
 日本では、桜は散るからこそ尊くいとおしいと論理構成が逆転してしまう。
「空」による否定を通じた世界の甦りの論理は、
日本で、はかない現実存のそのままでの肯定へと横滑りしてしまっている。

そのあいだで、揺れ動き、迷いの花園を楽しむ俺。いろんな奴がいて、面白い。

輪廻は肉体がある以上、経験できないから、くたばった後のお楽しみということにしよう。

人生は、謎があるから面白い。全部わかったら、退屈やろね。

 
920名無しさん@3周年:2007/01/21(日) 15:12:22 ID:Hqjq3Dzt
>>917
>釈尊は、どちらの立場もとらないというので、
> 現世を望まず、来世を望まずと言ったのだ。

結局、来世があるないとかは語ってないことか。

921名無しさん@3周年:2007/01/21(日) 16:31:37 ID:VX/gW2a9
【十四無記】異教徒の提出した形而上学的な問題に対して、釈尊がイエスともノーとも答えなかった十四の問題点。
「世界は(1)常であるか、
(2)無常であるか、
(3)常かつ無常であるか、
(4)常でも無常でもないか、

これと「諸行無常」は矛盾するのですか?しないのですか?
「世界」は「諸行」に含まれないのですか?
922机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/01/21(日) 20:36:39 ID:efzJ1TEO
>「世界」は「諸行」に含まれないのですか?

「諸行」というのは一切のことですから、一切は世界のことですよね。
つまり世界というのは対象化できない。
一切は自分のことですから。
これが世界でもある。

つまり釈尊は、すでに相対性理論の域にまで達観しちゃってる訳です。
当時の民衆に相対性理論が理解できますか?
物理の専門家でも、相対性理論は難しい。つうのに・・・
923名無しさん@3周年:2007/01/22(月) 00:14:14 ID:q+aNCh/3
>887 どこが特殊なのって >885の言い訳こじつけ全体がそうですが、特に主張と思われる
  「つまり電波男のパラフレーズが正解ではないかと思いますが」ですね。
ということは「外界の存在そのものが直接そのまま認識されるわけではない」が、
tsam zhes bya ba smos pa ni don dgag pa'i phyir ro / を噛み砕いて分かり易く言い換えたということですね。

それは先ずテキストからしてありえません。これに関しては全テキストが一致しているので玄奘訳でみてみます。
1. 安立大乗三界唯識。= 主張:大乗では三界は識のみであると設定する。
2. 以契經説三界唯心。= 根拠:なぜなら『十地経』で「三界は心のみ」であると説かれるから。
3. 心意識了名之差別。此中説心意兼心所。= 注釈:『十地経』の「心」も識も同じと言って経証を補強。
4. 唯遮外境不遣相應。= 注釈:「のみ」というのは外界対象を否定するためである。

これを「外界の存在そのものが直接そのまま認識されるわけではない」と読み込んでは、
1.の主張も2.の根拠も台無しである。ありえない捏造読みであるとしか考えられない。

そして「外界の存在そのものが直接そのまま認識されるわけではない」では経量部の見解であって、
唯識の特性とは私が知る限りありえない。以下、インド、シナ、日本、チベット、現代文献学者が
みな一致して唯識は外界の存在を認めないとしていることを引用してみます。
924名無しさん@3周年:2007/01/22(月) 00:14:56 ID:q+aNCh/3
アドヴァヤヴァジュラ『タットヴァラトナーヴァリー』宇井伯寿訳『大乗仏教の研究』33-4
経量部は外境を認めるが、唯識は外境を認めないことが説かれている。

モークシャーカラグプタ『論理のことば』梶山雄一訳135-6
 説一切有部の思想では、原子は直接知覚される対象である。
 経量部の意見によれば、これらの原子はそれ自身の形象を投げ込むだけのものである。
 ところが、唯識派の思想では、これらの原子も存在しない。(外界は存在しない)

基『成唯識論述記』T43n1830_p0230b
名成唯識。故此即以唯識爲宗。識有非空。境無非有。以爲宗也。

凝然『八宗綱要』鎌田茂雄訳256
 此の宗の本意は、只唯識を明す。一切の諸法は皆是れ唯識にして、都べて一法として心外にあることなし。

クンチョク・ジクメ・ワンポ『ドゥプター・リンポチェ・テンワ』ダラムサラ本45
 phyi don khas mi len zhing gzhan dbang bden grub tu 'dod pa'i nang pa'i grub mtha' smra ba'i gang zag te/
 sems tsam pa'i mtshan nyid do//
 外界対象を認めず依他実在と主張する仏教宗義を述べる人が、唯識者の定義である。
925名無しさん@3周年:2007/01/22(月) 00:16:02 ID:q+aNCh/3
オットー・シュトラウス『インド哲学』293  仏教的観念論者= 唯識者
 仏教的観念論者の見解によれば、ブッダは若干の弟子たちの性向を快く受け入れるために、外界の実在
 について語っただけであり、実際にはただある蘊、すなわち識が存在するにすぎないというのが、
 ブッダの真意であった。認識手段、認識対象および認識の結果を包括する過程は純粋に精神的であり、
 完全に内面的である。外界は存在しない。

ヤン・ゴンタ『インド思想史』中公文庫125 
 唯識派が外界に客観的実在性を認めず、

中村元『インド思想史』第二版175 
 万有は識によって顕現したものにほかならぬといって、唯識の説を主張する。
 あたかも夢の中で経験することと同様に、外界の対象は実在しないものであるが、
 識の分別のはたらきによって仮に現し出されたものである。

平川彰『インド仏教史』下巻120
 唯識の「唯」とは、凡夫が実在と考えている「認識の対象」を否定する意味で、「ただ識のみ」という
 のである。外界の対象であると思っているものが、実には識(心)に他ならないと悟るのが唯識である。
926名無しさん@3周年:2007/01/22(月) 00:19:03 ID:q+aNCh/3
高崎直道 他『インド思想史』83
 瑜伽行派の、外界の諸対象は空で、認識主体たる心のみが実有であるという説
 経量部の外界の諸対象はただ推知されうるものとみる説

沖和史「唯識」『岩波講座 東洋思想 インド仏教1』288 
 唯識は「すべてこの世界はただ心像のみにすぎない」ことを意味することばである。
 つまり、あらゆる存在は認識された姿として立ち現れているだけであって、
 実体的に存在する何かが認識された姿の背後にあると予想してはならない、
 ということがこのことばによって主張されている。

服部正明『認識と超越』角川文庫版76以下
 外界実在論批判として長い論が展開されている。

すべて一致しています。
特に沖和史の説き方が、電波男説の全く逆を述べていることがハッキリ分かります。
そしてモークシャーカラグプタ、高崎直道により電波説が経量部に一致する珍説だと分かるでしょう。
これでも電波珍説、唯識有境説を支持する人はいるんでしょうか?

>885さん、証拠だしてみてください! またチベット語 「二表現位相存在語彙」君や
「補語は形容詞」君みたいに強弁した結果、間違いも認めず失踪でしょうか?
また>872 >875 のお二人は、電波男の「外界の存在そのものが直接そのまま認識されるわけではない」が
外界存在を経量部みたいに認めているということに納得していただけたのでしょうか?
927名無しさん@3周年:2007/01/22(月) 00:34:03 ID:q+aNCh/3
>895
iti 誤りを認めないのか? ここまで無茶苦茶なの論証されて、仲間以外は信じないだろう。
相変わらすハッタリ主張のみで根拠なしだな。
ちゃんと学問やってないだろ、主張するには論証手続きがいる、証拠がいるんだよん。

>914
> よく、「説一切有部などのバイバーシカは外界の存在を積極的に説く」と言う意見を聞きますが、
> 実在論として外界を説明したのではなく、認識の根拠として説明したものだとボクは考えます。

考えるのは勝手だが、これまた論証手続きがいるんだよ。自分の珍説に合わせて勝手に読み替えないように。

ここは所信表明、信仰告白を聞く場ではないんです。文献的裏付けがない勝手な常識への迎合は止めて。

私は、原始仏教解釈に二諦を用いたことはないよ。中観派が輪廻否定という珍説の誤解を解く場合に
テクストに添って勝義諦では輪廻に限らず一切法が空、世俗諦では輪廻も含む一切法が縁起するというだけ。

私は、 辻先生を批判したことはないよ。尊敬してあまりある日本のインド学を変えた50年進んでいた先生でしょう。
辻先生の諸著は素晴らしく、賞賛するのみ。

山口瑞鳳はチベット語スレで明解に論証した。あれはここで『十地経』の混入と並んで結構よくできた。
山口文法は酷い、細部は合ってるが、根本「二表現位相」が間違ってる。
928名無しさん@3周年:2007/01/22(月) 00:34:51 ID:q+aNCh/3
並川さんの可笑しさは、経典を最古層と古層に分け、最古層より古層が輪廻に対して積極的だということから、
釈尊が最古層より輪廻に対して消極的で「あくまで現世に力点を置くという態度を強く示していた
のではないかと推定できる」としてるが、その根拠である最古層が輪廻に対して否定的表現をとる
から消極的というのは、他生や再生が望まれないことを指していること。

なぜなら他生や再生、つまり輪廻を厭う、否定的であるというのは通仏教的なものであり、
特殊な表現ではなく、古層が輪廻に対して積極的というのは、輪廻の中で良い生まれを望むことを
指している。これも特殊な表現ではなく通仏教的なもの。これは生天と言われ解脱に向かわない人への
方便としての教えで本来、否定されますが、悪趣に行くよりはマシといった内容。

つまり「資料に対して一貫した姿勢で臨み、それに基づく研究が徹底され」ているのではなく、
釈尊は「現世に力点を置く」としたいために意図的に最古層が輪廻に対して消極的だと解釈しているのです。
このような研究はまったく支持できない。

チベット語スレでも論破されたって、それはありえないだろう「二表現位相存在語彙」君は、
私に感謝すべきだよ。なんたって「二表現位相存在語彙」を用いてインド・テキストを分析しようとしてたんだから。

>917 原始仏教で、輪廻の主体が識や心相続などとする見解は阿含宗の捏造邪義です。
>530 識は出てくるよ。相変わらず。ウソばっかりだな。

私がこのように書いているのは君がウソばっかり、自分の面子や営業のために書いているからだよ。
ほら、またウソに欺されてる人が出てる。
929電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :2007/01/22(月) 07:46:40 ID:Raj/C9m/
似非学問的手続き、ご苦労さん。
論理的手続きがすっ飛ばされているから、あんたの主張はすべてアウトだね。
まだ「外界の存在を否定」と「外界を認識の根拠とすることの否定」の区別が出来ていない。
原典云々と言うのであれば、後世の解釈を援用(まちがっているが)しないで、原文で示してみたら?
930名無しさん@3周年:2007/01/22(月) 09:54:16 ID:hZPDoUdT
>926
>検証、確認できないことや経験できないこと(科学分野を持ち出す必要は無い)について、
>詮索を加えることや、判断を下すことは、材料が無いので不可能です。
>また、検証、確認できない事柄を縁起して輪廻すると言うのは迷信に属します。

この場合「検証、確認できない」と言いますが、主語は誰ですか?
電波さん自身ですか?
どうも議論がかみ合いませんね?物指しが違うのでしょうか?
仏教では「正しい知は正しい認識手段によってのみ得られる」とします。
あなたの言うところの検証云々はいかなる認識手段によるものでしょうか?
因明はご存知ですよね?

>原始仏教で、輪廻の主体が識や心相続などとする見解は阿含宗の捏造邪義です。かなり昔に阿含宗が経典捏造したこと
>を指摘したのですが。。。
これは誤謬ですね。原始仏教だけでなく仏教史全体の流れを把握してみてください。

931名無しさん@3周年:2007/01/22(月) 10:09:00 ID:hZPDoUdT
>輪廻転生について「有」を主張する人がいます。
>そのことを不合理であると批判すると、「断見」であると断定した非難返しがきます。
>「常見」論者にとっては、断見論者との両極しか見えないのでしょう。

まさにその通りです。そしてあなたも「有無の二極を離れる」と言いながらも
同じ過ちを繰り返す。
いかにこの二辺を超えることが難しいことか

>輪廻転生について「無」を主張する人がいます。
>そのことを不合理であると批判すると、「常見」であると断定した非難返しがきます。
>「断見」論者にとっては、常見論者との両極しか見えないのでしょう。

あなたは、輪廻が有るという我々も「輪廻を厭うていること」を意図的に無視してますね?
だれも輪廻を肯定的に捉えている人なんて誰もいないことは知ってますよね?

もし、あなたが本当に「有無の二辺」を離れているならば為すべき行動は
ただ一つです。
でも、それが出来ないところが、この2ちゃんに住するものたちの性、業www

でもまあ、本気で解脱するつもりは誰もいないでしょうから、
ここは文献学的探求に限定しましょう。
932名無しさん@3周年:2007/01/22(月) 10:14:50 ID:hZPDoUdT
>原始仏教で、輪廻の主体が識や心相続などとする見解は阿含宗の捏造邪義です。かなり昔に阿含宗が経典捏造したこと
>を指摘したのですが。。。
これは誤謬ですね。原始仏教だけでなく仏教史全体の流れを把握してみてください。

これはわたしの誤謬でした。確かにアゴンの捏造です。
失礼しました。
933阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/01/22(月) 10:23:48 ID:vWCinLiX
そもそも「厭い」却下すべきなのは、あらゆる循環論・不当前提・複問虚偽(→多問虚偽)の類です。
934名無しさん@3周年:2007/01/22(月) 10:24:57 ID:wux6YpV1
電波男がいう印象操作、論点先取、なんとか虚偽すべて自分がやっている。
ハッタリと自演と嘘と強弁とほんのちょっとの不正確な専門用語、
それが電波男クオリティ!

七誌の電波擁護は自演として、アホダラは他人のようだからなんでこんなヤツ擁護するんだ。

それと輪廻を認めない人たちは、それじゃ仏教必要ないでしょう。
現代の科学と倫理に従って生きればいいじゃない。仏教はあなた達には関係ないよ。
935名無しさん@3周年:2007/01/22(月) 10:27:47 ID:hZPDoUdT
私は輪廻は有ると思うが、同時に無自性であり実体がないとも
思っております。
如来は如来ならざるが故に如来と呼ばれる。
即非の理論じゃなくてね。
936阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/01/22(月) 10:47:21 ID:vWCinLiX
ちなみにドグマタルチュフ・紐付き神学屋、宗義ゴロ・セクト奴婢の類もお払い箱・門前払いにすべきで、決して
敷居を跨がさぬよう要注意です。
937名無しさん@3周年:2007/01/22(月) 10:50:24 ID:wux6YpV1
電波男と阿呆陀羅經がいなくなった方がいいと思うが
938机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/01/22(月) 11:55:28 ID:MaYDzi7M
>>934
>それと輪廻を認めない人たちは、それじゃ仏教必要ないでしょう。

あのね、それじゃ〜わたくしが正直にカキコします。

人生にはいろんなことがありますから、
わたくしは仏教で随分救われてます。

今日、救われています。→Tommorow is Another day
これで充分かと思います。

しかし、君達は何で死んだ先のことを心配するのか分らんのです。
つまり現世は住みにくい。
ってことですか?
だから来世とかに夢を賭けるとか?

あまり心配なら、阿弥陀如来に全てオマカセするのがベターです。→南無阿弥陀仏
これなら心配だけは消える。
ひとつの「生きる智慧」です。




939名無しさん@3周年:2007/01/22(月) 12:04:01 ID:9FNtEcA0
行くところ

すべて地獄の

出禁バカwww
940名無しさん@3周年:2007/01/22(月) 12:18:46 ID:wux6YpV1
>>938
それって別に仏教じゃなくてもいいんじゃないですか?
私は〜に救われた。〜が偶然、仏教だったわけで。
941電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :2007/01/22(月) 12:54:24 ID:Raj/C9m/
>>930
議論が噛みあわないといわれても、貴方が誰だか知らないし、これまでどこでお話したかも覚えがありません。

>この場合「検証、確認できない」と言いますが、主語は誰ですか?
主語はボクをはじめとする大勢の人。輪廻転生を如実に経験できると主張する特殊な人は除外します。
なぜなら、一般に輪廻転生を事実として提示することに成功していないから。つまり、検証できないことですね。

で、貴方の言う、正しい認識手段とは何ですか?それによって、輪廻転生が客観的に確認できるのですか?

> あなたは、輪廻が有るという我々も「輪廻を厭うていること」を意図的に無視してますね?
> だれも輪廻を肯定的に捉えている人なんて誰もいないことは知ってますよね?
輪廻を厭うことと、輪廻転生を否定することとは違うことがらです。
同時に輪廻を甘んじることと、輪廻転生を肯定することとは違うと考えます。

おこないによって、様々な生存の繰り返しを余儀なくされている苦しみを厭わない人はこのスレッドには居ないでしょう。
その生存のあり方が、死を機軸として実際に転生すると考えるか、日常のあり方として考えるかの違いがあるだけですね。

>原始仏教で、輪廻の主体が識や心相続などとする見解は阿含宗の捏造邪義です。かなり昔に阿含宗が経典捏造したこと
>を指摘したのですが。。。
このことについてのご訂正には敬意を表します。誰かと違って一切の間違いを認めず、人に間違いの謝罪を迫り続け、
ボロばかり出す人とは別人ですね。これは過去ログをあたられたのでしょうか?
942電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :2007/01/22(月) 13:07:28 ID:Raj/C9m/
>>928
> 私がこのように書いているのは君がウソばっかり、自分の面子や営業のために書いているからだよ。
> ほら、またウソに欺されてる人が出てる。

心して返事しろ。営業のため?証拠を出しなさい。その阿含宗の捏造は文献で指摘済みなのですよ。
精査してからコメントしろ。
943机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/01/22(月) 13:48:58 ID:MaYDzi7M
>>940
自灯明・法灯明だから、仏教というのは「回答」ではなくて「方法」。
この方法として”計らいを捨てる”という手段こそ(阿弥陀信仰など)
いわゆり仏教のテーゼかと思いますね。
(釈尊の我見と信仰を離れる)

阿弥陀信仰は、求める信仰ではなく捨てる信仰です。

仏教じゃなくても別にいいかと思います。
釈尊は、贅沢とか苦行とか両極を経験して初めて中道を悟ったわけですから、
なるべくだったら、やはり現世においては思い残しがないことが一番いいかと思います。
さすれば来世などに迷うこともあるまい。

一休は、いい坊主でしたね)^o^(
944名無しさん@3周年:2007/01/22(月) 14:32:33 ID:kFj3VtGw
十四無記もたとえ話に過ぎず、論争に暇と労力をかけるより、他にやるべきことがあるだろう衆生たちよ、という
釈尊の有難き警鐘だととらえるのはいかがでしょうか?
945名無しさん@3周年:2007/01/22(月) 14:48:40 ID:wux6YpV1
>942
自分が文献を精査してからコメントすべきじゃない?

>943
レーベンのジャータカ的解釈(笑)ってご存知?
仏教徒は釈尊が過去世の功徳によって悟ったと考えてますよ。

>944
おっしゃるとおりです。ただあまりにウソばっかの電波男はひどいでしょ。
946阿呆陀羅經 ◆JQPgxhpHHQ :2007/01/22(月) 14:55:07 ID:vWCinLiX
そういえば、
佛典を「ドイツ観念論(シェリングあたり)」なる我論の一種にこと寄せるトンデモ説があったようですな(苦笑)。
947電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :2007/01/22(月) 15:44:00 ID:Raj/C9m/
>>923
あんまりだから少し説明しておこう。

> それは先ずテキストからしてありえません。これに関しては全テキストが一致しているので玄奘訳でみてみます。
また詭弁ですか?唯識二十論では外界の存在を否定しているということは記述されていないと主張する文脈であって、
そのことが記述されていると主張しているのではありません。

> 1. 安立大乗三界唯識。= 主張:大乗では三界は識のみであると設定する。
> 2. 以契經説三界唯心。= 根拠:なぜなら『十地経』で「三界は心のみ」であると説かれるから。
> 3. 心意識了名之差別。此中説心意兼心所。= 注釈:『十地経』の「心」も識も同じと言って経証を補強。
> 4. 唯遮外境不遣相應。= 注釈:「のみ」というのは外界対象を否定するためである。

もう滅茶苦茶ですね。

1 三界とは認識内容そのものだけであり、それ以外には存在しない
2 三界唯心
3 三界唯心という「心」とは「心所(精神作用)」を含んだものとして意図されており、心意識〔というこれまでの心の異門に加え、これ〕
  と認識内容である表の4つのことである
4 ヴィニータ・デーヴァの注釈ですか?そこに外界の存在が否定されているとは記述されているのですか?ボクの眼が悪いのかな?w

> これを「外界の存在そのものが直接そのまま認識されるわけではない」と読み込んでは、
> 1.の主張も2.の根拠も台無しである。ありえない捏造読みであるとしか考えられない。
これは先ほど説明済み。外界の存在を否定したという珍説にたいする言論。
上記、3について、あんたは文献から何も読み込めていない。4の注釈も捏造。いい加減にしてくれないかな。。
948名無しさん@3周年:2007/01/22(月) 15:53:15 ID:wux6YpV1
>>947
ぷっ。ついでに原始経典では輪廻の主体として識を説かないことも説明したら。
949電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :2007/01/22(月) 15:56:20 ID:Raj/C9m/
>>924

> モークシャーカラグプタ『論理のことば』梶山雄一訳135-6
>  説一切有部の思想では、原子は直接知覚される対象である。
>  経量部の意見によれば、これらの原子はそれ自身の形象を投げ込むだけのものである。
>  ところが、唯識派の思想では、これらの原子も存在しない。(外界は存在しない)
唯識二十論とほぼ変わらない内容ですが、外界は存在しないなど()付きで捏造しないでくれ。

> 有部などの極微説が妥当で、それが認識根拠となるのなら、不合理が生じる。認識の根拠と言うのであれば、
> 極微と定義づけた以上、それ以上分割されないはずなのに、6面6方向という分割要素があるじゃないか。
> よって、外界が認識の根拠であるというのは不合理であり、否定される。
というのが唯識二十論の内容だろ。「説一切有部の思想では、原子は直接知覚される対象である。」←を否定してるんだよ。
解らないかな。。

> 基『成唯識論述記』T43n1830_p0230b
> 名成唯識。故此即以唯識爲宗。識有非空。境無非有。以爲宗也。
それが何か?護法流であり、「識有非空」などという曖昧な記述の内容を根拠にする理由は?

> 凝然『八宗綱要』鎌田茂雄訳256
>  此の宗の本意は、只唯識を明す。一切の諸法は皆是れ唯識にして、都べて一法として心外にあることなし。
その通りですが?批判になっていない。外界の存在を否定していますか?一切諸法は「表」を心に取り入れることにより、
心になってしまいますよ。

> クンチョク・ジクメ・ワンポ『ドゥプター・リンポチェ・テンワ』ダラムサラ本45
>  phyi don khas mi len zhing gzhan dbang bden grub tu 'dod pa'i nang pa'i grub mtha' smra ba'i gang zag te/
>  sems tsam pa'i mtshan nyid do//
>  外界対象を認めず依他実在と主張する仏教宗義を述べる人が、唯識者の定義である。
「外界に対象を認めず」その通りですね。なにか問題でも?

あんたの瑕疵は論理的な手続きを経ていないことです。
950930:2007/01/22(月) 16:05:34 ID:hZPDoUdT
意見がかみ合わない、つまり物指しが違うと思い、質問してみましたが
さて
>この場合「検証、確認できない」と言いますが、主語は誰ですか?
主語はボクをはじめとする大勢の人。
輪廻転生を如実に経験できると主張する特殊な人は除外します。

主語には大勢の人が含まれるのですね?
つまり、一般論、常識と言う奴ですね。
その常識は一体何を根拠にしているのでしょう?どこからもたらされるのでしょうか?
常識は時代、地域によって変化します。正に無常です。
ブッタの生きた時代と現代日本では無論違います。
したがって単なる日常経験、常識、一般論は「正しい認識手段(pramana)」たりえません。



951電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :2007/01/22(月) 16:06:07 ID:Raj/C9m/
>>925
> オットー・シュトラウス『インド哲学』293  仏教的観念論者= 唯識者
>  仏教的観念論者の見解によれば、ブッダは若干の弟子たちの性向を快く受け入れるために、外界の実在
>  について語っただけであり、実際にはただある蘊、すなわち識が存在するにすぎないというのが、
>  ブッダの真意であった。認識手段、認識対象および認識の結果を包括する過程は純粋に精神的であり、
>  完全に内面的である。外界は存在しない。
唯識二十論との関係は?ま、好いでしょう。これも問題ありませんね。外界の存在を否定していますか?

> ヤン・ゴンタ『インド思想史』中公文庫125
>  唯識派が外界に客観的実在性を認めず、
これもそうですね。外界に客観的実在性は認められません。認識の根拠として否定するのですから。
で、外界の存在を否定していますか?

> 中村元『インド思想史』第二版175
>  万有は識によって顕現したものにほかならぬといって、唯識の説を主張する。
>  あたかも夢の中で経験することと同様に、外界の対象は実在しないものであるが、
>  識の分別のはたらきによって仮に現し出されたものである。
そうですよ。
viJnaptimAtram eva-idam artha-avabhAsanAt /1ab/
そのままじゃん。なにか問題でも?外界の存在を否定してるだけじゃないでしょ?
認識内容が外界の存在であると思い込むことを否定している。以下も同じ

> 平川彰『インド仏教史』下巻120
>  唯識の「唯」とは、凡夫が実在と考えている「認識の対象」を否定する意味で、「ただ識のみ」という
>  のである。外界の対象であると思っているものが、実には識(心)に他ならないと悟るのが唯識である。
952机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/01/22(月) 16:06:43 ID:MaYDzi7M
>>945
>レーベンのジャータカ的解釈(笑)ってご存知?

ドイツ観念論で十無記を解釈するのは簡単です。
しかしながら論理(つまり話しの筋道)が全くインド哲学とは違います。
観念論は先ず経験則から論を立てます。→観念第一義

仏教というのは、この観念破壊なのであります。→簡単にいうなら。

数十年、同じ経験を積んできまして、ある日失敗をしたとする。
この失敗を契機として新たな発見をする。
(キューリー夫人などの発見もそうです、経験というより偶然)
なにかの非日常的な事象により発見する場合が多い。

仏教の悟りとは、この非日常に依存する。
953電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :2007/01/22(月) 16:09:25 ID:Raj/C9m/
>>926
> 高崎直道 他『インド思想史』83
>  瑜伽行派の、外界の諸対象は空で、認識主体たる心のみが実有であるという説
>  経量部の外界の諸対象はただ推知されうるものとみる説
それが何か?外界の対象が推知されうるのもだと唯識二十論に関してボクが主張しましたか?
以下の沖先生や服部先生も同じ。

> 特に沖和史の説き方が、電波男説の全く逆を述べていることがハッキリ分かります。
読解力と論理能力の無さを証明してしまいましたね。
954930:2007/01/22(月) 16:13:43 ID:hZPDoUdT
正しい認識手段とは仏教では直接知覚と推論の二つです。
さて、あなたは「輪廻の否定」の根拠として「検証、確認できない」こと
を揚げておりますが、これは正しくない。
なぜならブッタは「一切知者」であるから。そういう意味でもブッタは特殊な人ですね。
ブッタは輪廻を如実に知見して「無記」とされました。
私はブッタのように輪廻を直接知覚することはできませんが
推論は出来ます。
例えばダルマキールティは『プラマーナヴァールッティカ』
第四章でローカーヤタを相手に心相続を論証しています。

それにしても「輪廻の否定」とは「輪廻の無」のことではないのですね?
955電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :2007/01/22(月) 16:17:11 ID:Raj/C9m/
>>950
そうですよ。一般論、常識です。その意味は客観性があり、再生産、つまり再現性可能ということです。
万人に示すべき真理として提示するのなら、これらが必要だということですね。出来ないのであれば、
釈尊在世と同じ、迷信として遮止されます。

ところで、あなたのいう「正しい認識手段」とは何ですか?それを示さない限り話は進みませんよ。
因みに、私も行中には身体浮遊感をはじめ、佛菩薩をリアルに観じ、人の心が手に取るように理解でき、
思った場所、時代の風景や人の有様をリアルに見ることが出来、穢れたものから完全に開放される方途を見出し、
自分や他人の生まれ変わり、死に変わりを完全に知ることができました、できると思いました。
しかし、それらはすべて幻覚や思い込み、妄想だったのです。

もしかして、貴方はその域から脱していないのでは?
956電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :2007/01/22(月) 16:25:07 ID:Raj/C9m/
>>954
「輪廻の否定」とは輪廻転生が実際にリアルに存在し、業報輪廻が跨り、それに制約されているという考え方の否定です。
今おこなった悪業が結果苦として生じる。そしてその複合が終わりなき輪廻として繰り返され、心安穏になることが無い
と言う意味の輪廻は妥当だと考えます。

だからこの意味と分けるために輪廻と輪廻転生とを分けてボクは言ってるのですが、この生は死を以って断滅するという考えも
否定します。検証、確認できないことに対して回答を与えること自体、愚かなことだと考えますからね。

だから、「輪廻転生は無い」とも言いません。決して不可知論ではありませんよ。検証、確認などの手続きに耐えうるものは
認めざるを得ませんからね。検証の中には勿論推論も含まれますよ。
957机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/01/22(月) 16:38:56 ID:MaYDzi7M
観念論は、現状認識の延長で十無記などを考えますが、
例えば、有無の二項のどちらかを選択しても論理矛盾はおこります。
論理的には無理だから、
だから十無記なんだ。ってのは稚拙な論法ですね。

十無記をこのように理解している人は多いですが、
仏教は、もっと深いですよ。
958電波男Ψ(´д`)Ψ ◆RHudQb4c9k :2007/01/22(月) 17:10:54 ID:Raj/C9m/
経量部、経量部と言うが、経量部でも様々な考えがあったことは、特に『成業論』などを読めばよくわかる。
一概に、「推論によって外界の存在を実有として認める」と定義付けるのは乱暴すぎる。
事実、一切種子を阿羅耶識として主張する世親が「自分はある経量部の人だ」と言ってるのだから。

偉そうに文献学や学問だと言うのなら、もう少し精度を上げて欲しいな。

「外界の存在を否定しているのではない」→「外界の存在を肯定している」と短絡する論理脳では無理かもしれんが。。
959ベロ ◆eOod7XM/js :2007/01/22(月) 17:15:14 ID:TLCHNJR5
次スレ 原始佛教 その21を立てました
http://life8.2ch.net/test/read.cgi/psy/1169453597/
960名無しさん@3周年:2007/01/22(月) 17:30:51 ID:vlZHZ16s
>>921
いい着眼点でしたね。
「世界は常であるか」や「諸行無常」のポイントは「世界」や「諸行」の方ではなく、
「無常」の方にあると思います。その「常」という見方を否定した「無」の部分。

言いかえると、「世界は常住である」という見解に対して、「そうではない」と言うものです。
「諸行は常住である」に対しても同様に「そうではない」と。

このようにして、四句分別のすべてに対して「そうではない」というものです。


これで、「世界は常であるか」に対する答え方と「諸行無常」とが矛盾しないことが
分かると思います。
961名無しさん@3周年:2007/01/22(月) 17:48:55 ID:2WvjD6Jy
三法印のような定型句を釈尊が使ったのかどうか少し疑問。
とくに「諸行は」とか「諸法は」という括り方をしてたのか。
単に「色は・・・」「受は・・・」しか言わなかったのじゃないかなと。
962机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2007/01/22(月) 19:03:06 ID:MaYDzi7M
>>961
三法印は、当時の思想(バラモン教)のアンチテーゼとして、あえて強調したものかと思いますね。
釈尊成道はまさに画期的なものだったんでしょう。

今でいうコペルニクス的大転換というべきですね。

ガリレオが、地球は太陽を廻っている。などと言うようなもんです。

963名無しさん@3周年
>932
原始仏教で輪廻の主体が識とされることはありますよ。既にに指摘済み>530

より詳しく説きましょう「病あつきヴァッカリ」です。中公の世界の名著1、451-456

状況を要約します。病の床についたヴァッカリ尊者のもとへ釈尊がいらして、語りかけます。
釈尊:悩みや後悔がないか?
ヴァッカリ尊者:ある
釈尊:では戒律は清浄だったか?
ヴァッカリ尊者:清浄
釈尊:清浄なら悩みや後悔などないではないか!
ヴァッカリ尊者:釈尊にお目にかかる体力がないこと 以下引用、

  「ヴァッカリよ、もうそういうことはよしなさい。おまえが、(わたしのやがては)腐敗してゆく
  この肉身を見たからといって、それがいったい何になろう。ヴァッカリよ、ものごとの理法を
  正しく見る者は、わたしを見るのであり、わたしを見る者は、ものごとの理法を正しく見ること
  になるのです。ヴァッカリよ、ものごとの理法を正しく見ている者は、(結局その理法にほかな
  らない、この)わたしを見ていることになり、わたしを見ている者は、(結局のところ)もの
  ごとの理法を正しく見ていることになるからです。
   ヴァッカリよ、ものは、永遠に不変のものなのか、それとも無常なのか、
  おまえはこのことをどう考えるか」
 「師よ、無常です」
 「感受、想念、因果的存在、心は永遠に不変なのか、それとも無常なのか」
 「師よ、(それらはすべて)無常なものです」
 「こういうわけだから、このように(すべてのものが無常であることを)みて、再びこの(苦の)
  世界に生をうけることはないと知るのである」

この後ヴァッカリ尊者は無常を覚り、自殺する。すると悪魔がヴァッカリ尊者の魂を探すが、
魂は止まることなく涅槃したことを釈尊がみなに告げる。