>>255 > そして、現に矛盾が有るのなら、
大アリですねw
てか、「矛盾めいている」「<ある視点・立場>を取ることで解消する矛盾点」 は山ほどあります。
この<ある視点・立場>を、受け入れずとも理解できるかどうかが鍵となるでしょう。
この<ある視点・立場>というのは、「悟りの立場から見れば・・・」というものであろうし、
「勝義に於いて・・・」と言われる際のものであろう。
てか、これも、あなた方が提示を迫るもののひとつだと思われる。
(これは、いみじくも>225>227に関連する、聖と俗という二つの側面に依拠するわけだが・・・)
当然視点が異なれば矛盾に見えて当たり前でしょう。
しかし、ある基準なしに、何がしかの選択判断なぞできるものであろうか?
仏教(釈尊が示したところのもの)が根幹としたのは、
「涅槃に資するかどうか(→自身の苦悩の解消に役立つかどうか)」であった筈なのだ。
そのための理となるのが、縁起であり四諦であったのではないか。
(或いは、無常・五蘊・無我であったのではないか。)
そこに、取捨選択、正邪の別が設けられなかったとしたら、
修道論の構築が設けられなかったとしたら、
出家行者という在り様が当時のありふれた風景でなかったなら、
仏教は、拡散する前に消滅していたろう。