|†| キリスト教@質問箱158 |†|

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158名無しさん@3周年
>>155
あなたがもしイエス・キリストの救いにあずかりたい、と願っておられるなら、
プロテスタント教会のほうがよいでしょう。

イエス・キリストさまの救いのまえに、いっさいの差別、へだてはありません。
イエス・キリストさまの救いは完全で欠けたるところがないのです。
イエス・キリストさまは世の終わりの最後の瞬間まで、救いにあずかろうとするすべての者を、
神の国へまねいてくださろうとしています
「信じる者」をわけへだてなくすべての人をお救いくださるのがイエス・キリストさまなのです。
「ゆるし」はイエス・キリストさまの救いを信じる「信仰」によって、
あたえられています。
「告解」は救いを信じて受け入れていない「ノンクリスチャン」の方々にとっては、
必要なものなのかもしれませんね。
159ignis ◆lux./oYs9M :2006/11/17(金) 11:08:51 ID:+K4VK/4s
>「告解」は救いを信じて受け入れていない「ノンクリスチャン」の方々にとっては、
>必要なものなのかもしれませんね。

告解について誤解されていると思うです

なぜ 罪を犯すたびに神と和解することが クリスチャンにとって必要でないのですか
プロテスタンとの方だって なにか悪いことをしてしまったら 神さまに許してくださいと祈ったりするんではないのですか
信じても洗礼を受けても クリスチャンは人間の弱さを持っています 告解は必要です
160名無しさん@3周年:2006/11/17(金) 11:27:05 ID:XEo9clYW
>>159
罪を赦してくださるのは人なのですか?それとも神なのですか?
人の前に犯した罪なら、その人の前に赦しをこうべきでありましょうし、
神の前に犯したのなら、神の前に赦しをこうべきではなのですか?
いずれにしろ、神は聖書の御言葉にもあるように祈りをとおして、
わたしたち人間と語らってくださるのですから、
あいだに人間の仲介を置く意味は、少なくと聖書的にはなんらありません。
少なくとも信仰によって歩むプロテスタント信仰者はみな、
罪を犯そうが犯すまいが普段から、聖書の御言葉をとおして、
神と語り合うひとときをもつようにしています。
それが「信じて救われる」ということです。
161名無しさん@3周年:2006/11/17(金) 11:28:53 ID:XEo9clYW
>>159
罪を赦してくださるのは人なのですか?それとも神なのですか?
人の前に犯した罪なら、その人の前に赦しをこうべきでありましょうし、
神の前に犯したのなら、神の前に赦しをこうべきではないのですか?
いずれにしろ、神は聖書の御言葉にもあるように祈りをとおして、
わたしたち人間と語らってくださるのですから、
少なくと聖書的にはなんら、あいだに人間の仲介を置く意味はありません。
少なくとも信仰によって歩むプロテスタント信仰者はみな、
罪を犯そうが犯すまいが普段から、聖書の御言葉をとおして、
神と語り合うひとときをもつようにしています。
それが「信じて救われる」ということです。
162ignis ◆lux./oYs9M :2006/11/17(金) 11:34:33 ID:+K4VK/4s
>>161
告解(ゆるしの秘跡)はひとつの秘跡であって つまり神さまのなさることのあとかたです
罪を犯すのはわれわれ ゆるしてクダサルのは神さまです
163サロメおたぁ ◆wHb3.gs/E2 :2006/11/17(金) 11:37:35 ID:XMJ8z3gS
>>161
兄弟で祈りあうって意味わかってっか?
164名無しさん@3周年:2006/11/17(金) 11:45:34 ID:XEo9clYW
>>162
>罪を犯すのはわれわれ ゆるしてクダサルのは神さまです。
よくわかってらっしゃるじゃないですか?
だから信じて救われているのですよ。
信じて救われることに人間の仲介が必要なのでしょうか?
神父の取次ぎがなければ、赦しの願いも聞き入れないとしたなら、
イエス・キリストの救いは少なくとも完全ではありません。
しかし幸いながら、神はわれわれ信じて救われた者の祈りの声を、
もれなく聞きいれてくださるのです。
それゆえわたしたちは、少なくとも信仰によって歩むプロテスタント信仰者はみな、
罪を犯そうが犯すまいが普段から、聖書の御言葉をとおして、
神と語り合うひとときをもつようにしているのですよ。
わかりますか?
165サロメおたぁ ◆wHb3.gs/E2 :2006/11/17(金) 11:55:59 ID:XMJ8z3gS
>>164
じゃあ
洗礼も聖餐もいらねーじゃんw
一人でシャワーでも浴びて パンかじればOK?w

教会も礼拝もイラねーなぁw
166ignis ◆lux./oYs9M :2006/11/17(金) 11:57:34 ID:+K4VK/4s
>>164
プロテスタンとのカタノおかんがえはよくわかりましたです どうも

>罪を犯そうが犯すまいが普段から

こちらからプロテスタンとの方に質問させていただけるならば
罪を犯すたびにそれを痛悔して ふたたびそれをやらないようにする という祈りはしないのかな という点が不思議です
167サロメおたぁ ◆wHb3.gs/E2 :2006/11/17(金) 12:01:09 ID:XMJ8z3gS
御言葉を通して祈るだけでいいなら
なんでプロの教職は按手が必要なんだい?w
信じるだけでOKなはずだろ?w
人の仲介なんていらないじゃんw
聖書から聖霊が来るんじゃねーの?w
168名無しさん@3周年:2006/11/17(金) 12:23:12 ID:XEo9clYW
>>165
そうですよ、ですからプロテスタントの信徒は聖書一冊あればどこへいっても、
聖書の御言葉と祈りをとおして神と交わっていくことができるのです。
神さまとの交わりのひとときを信徒みんなでもつことと、
聖書の御言葉をとおして神さまと1対1の関係で交わるひとときが、
どうもあなたの心のうちでは対立しているようですね、それはほんと不思議。
しかし、どうであれ信仰はあくまで神さまとその人とのあいだにあるものであって、
第三者がとやかく口出しできるような性質の事柄ではない。
あなたがどの程度の信仰をおもちなのか知りませんが、
すくなくとも信仰に対するその程度の認識はおもちなのでしょう?
わたしがいつ洗礼や聖餐の意義を否定しましたか?
それらは聖書の御言葉にもあるようにイエスさまご自身がお定めになったことです。
よほど聖書の御言葉をとおして祈り神と語らいのひとときをもてるという、
信徒にとってはあたりまえのことが、あなたにとっては気がさわったようですね。
もっとも正統な信仰を継承するプロテスタント信仰者にとっては、
日常的なあたりまえのことでもカトリック教徒の方にとってはめずらしいのかもしれませんが。
169名無しさん@3周年:2006/11/17(金) 12:42:17 ID:+9pHZk1i
サロメとかいう人はなぜカトのふりをしてるんだ
170名無しさん@3周年:2006/11/17(金) 12:45:32 ID:XEo9clYW
>>166
イエス・キリストさまの救いに信じてあずかった人が、
どうして「ふたたびそれを」やってやろうなどと祈ったりするものなのでしょうか?
それは祈りをするしない以前の問題ではありませんか。
もっともほんとうに信じて救いにあずかっている信仰者なら、少なくとも、
プロテスタント信仰者にとってはあたりまえのことですが、
この罪を犯している、あの罪を犯しているという具体的な認識があろうがあるまいが、
神のまえには数多くの罪を犯してきている、これからも犯すかもしれないだろうという、
謙虚な認識はもっているものではないですか?
それはつまり神のまえに犯してある罪とは、道徳や法律の内容とは違うからです。
カトリック教では違うのでしょうか?
あなた自身で認識できる、あるいはしている罪だけが、
おそらく神のまえに罪なわけではない。
あなたがもし自分で罪を犯した、と認識したときにのみ、
その犯した罪に対して赦しを乞うというのであれば、
それはあまりにも浅はかな考え方ではないでしょうか?
それゆえ、わたしたち「信じて救われた」プロテスタント信仰者は、
聖書の御言葉と祈りをおとして、神との語らいのひとときをもつこと、
交わりをなにより大切にしているのです。
171サロメおたぁ ◆wHb3.gs/E2 :2006/11/17(金) 12:48:28 ID:XMJ8z3gS
>>168
でちゅくさいw

じゃあ使徒の定めは無視なさるんですか?w
172名無しさん@3周年:2006/11/17(金) 12:49:23 ID:XEo9clYW
>>170で「下部」消えている部分です
それゆえ、わたしたち「信じて救われた」プロテスタント信仰者は、
聖書の御言葉と祈りをとおとして、神との語らいのひとときをもつこと、
交わりをなにより大切にしているのです。
173名無しさん@3周年:2006/11/17(金) 12:54:11 ID:hrwMYNoR
お答え

プロテスタントといっても一様ではありません
174名無しさん@3周年:2006/11/17(金) 13:03:12 ID:XEo9clYW
>>170で「下部」消えている部分です
それゆえ、わたしたち「信じて救われた」プロテスタント信仰者は、
聖書の御言葉と祈りをとおして、神との語らいのひとときをもつこと、
交わりをなにより大切にしているのです。
>>171 でちゅであってもなくてもさして意味はないでしょう。
こういう掲示板では「誰が書いたか」ではなく、
その「書かれてある内容」こそが読む人にとってはもちろん、
書いた当人にとってももっとも意味をもつのではないですか?
誰が書いていたとしてもさして大きな意味はない。
読んでもらえたならそれでいい、ということではないですか。
ハンドルネームをつけるのは主張や意見の一貫性を読む人に理解していただくため、
あなたは違うのですか?
質問に対する答え
あなたの「信仰」があなたを「救う」のですよ、わかりましたか?