■原始仏教談話室 その5■

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930名無しさん@3周年:2007/02/25(日) 13:01:48 ID:4NRsOMoT
>>929
>左手がかゆくなったので右手で左手をかいてやった場合、
左手は右手に礼を言いますか?
食べものをもらった胃袋は口に礼を言いますか?

礼など言いません。何故言わないか、ある場合には言うことが有り得るのか、
などと言う論も無いでしょう。無記とはこう言う場合に言うものかも。

しかし胃が痛い時に口に食物を入れた場合、胃はますます悪化します。悪化するのは口に対して文句を言って居ることになら無いでしょうか?
また自殺をする場合、身体のある部分がその他の部分に敵対していると考えて良いでしょう。このように身体が一つとして機能しない場合、
をどの様に考えたら言いのでしょうか?
931名無しさん@3周年:2007/02/25(日) 13:12:18 ID:ow4FU4G1
 言 をもたない人間はどうなる?獣だとでも言うのか?言を持つ人間でさえ救われるのだから、持たない人間こそ救われるべきだろう
932カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/02/25(日) 13:13:13 ID:rpxa5fW+
>>929
>布施した人が礼を言われたいと思うのは、
>布施した側が自分の布施したものだと執着してるからでしょう。

その通りでしす。わかっているのなら、礼を言われるのが目的の者の布施など、受け取らなければいいのです。
そのような者を、導く力量があるのなら別ですが、導く力量もないのに、どうしてそのような者の布施を、
礼も言わずに受け取るのですか?そのような者から、人に施しを与えるのは当たり前のことだと、
自分は貰って当然などと思ってる者と、礼を言われるのを目的に人に施しを与える者と、一体どういう違いがあるのでしょう。
同じ穴の狢。私は、布施をする相手を間違えてはならないと言った。
このような恥知らずな者に、涅槃はないといっているのです。このような者に、布施を与えるのは
ふさわしくないでしょう。人には良心というものが、多かれ少なかれあるもの。
目の前に困っている人がいる。それを助ける者に、どれだけ、最初から礼を言われることを期待して行動する者がいる?
また逆に、自分が困ったときに助けてくれた人に対して、礼も言わず、当たり前のことだとふんぞり返っている
のなら、助けた相手はどう思うでしょう?もちろん真理を悟る者なら、別にそれはそれでいいと達観するだろうが、
ただの善意でした者なら、悲しむだろう。善意で自分を自分を助けてくれた者を、悲しませるような者は、
布施を与えるにふさわしくないといっているのです。問われているのは
布施する側だけではなく、指導者の心でもあるのです。人の善意を受け取ったとき、礼を言うのは悪いことですか?
人から善意を受け取っても、それは当然なことだと、礼もいわないことが善い事ですか?
善意で人を助けてあげるような、そのような人は、導くことも容易でしょう。
最初から見返りを期待して、布施をする者など、ただの偽善者であり、そのような者を導く力量もないのに、
他人が施しを与えるのは当然のことだと礼も言わずに受け取る者も同じく偽善者だと言っているんだよ。
わかっているのなら、礼を言われるのが目的の者の布施など、受け取らなければいいのです。
933名無しさん@3周年:2007/02/25(日) 13:17:06 ID:4NRsOMoT
>>928
布施』は誰の為に取り善行となるのでしょうか?
大乗経典では(特に般若経典)法布施(一切は空であると言う教えの流布)に比べたら、
その他の食物財宝などの布施は無意味であると言う教えがあります。
 そもそも神や仏が食物なり財宝也の布施を必要としていると考えたり、喜ばれたりされると
考えるのは、道理あるでしょうか?
934カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/02/25(日) 13:40:45 ID:rpxa5fW+
一つ言っといてやるよ。
よく宗教やってる奴は、自分の願望を満たしたいからその教団に所属し、
自分の欲望を満たしたいがため、その教団に布施をする。
また、それを食い物に、当たり前のようにそのような動機の者の布施を貰いうけ、
いけしゃぁしゃぁと、飯を食い、私腹を肥やす。
どっちも同じ穴の狢だ。本当に功徳を積みたければ、見返りを求めず、
本当に困っている人達に施してやれ。もちろん、信者達を食い物にしているどこそこの
教団の指導者共も、本当に困っているようだったら、助けてやれ。
また、施される者は、当然のことだと散漫になることなく、自分を助けてくれる者に感謝の気持ち
忘れるな。何も困っていない者に、私利私欲のため、施しを受ける者などに
施したところで、何の功徳になるのだ?そんな者達に布施をするくらいなら、ユニセフでも
寄付してやった方がよほど、功徳になるというものだ。

自分の願望達成(私利私欲)の為に布施をするものと、他人の好意を、なんら感謝の気持ち
も持たずに、いけしゃあしゃあとこれまた私利私欲のために受け取る者と、どういう違いがあるというのだ?
そういう連中は同じ穴の狢、偽善者と呼ぶんだよ。
本当の指導者なら、そのような者を導けるだけの力量があるのなら別だが、そうでないのなら、
そのような不純な動機の布施など、受け取らないものだ。そいつが本物だ。

なにが本物で、なにがまがいものか判断できる人を見る目がないのなら、
わけのわからない宗教団体などに布施する金があるのなら、ユニセフでも寄付してやれ。
相手が本物の指導者なら、あなたを賞賛するだろう。自分のところに布施しないで、他の慈善団体に
寄付するあなたを非難する指導者は、間違いなくまがい物だ。
何も困っていないまがい物に、布施したところで、功徳を積むどころか、悪業を積むだろう。
あのオウムの麻原にせっせと布施をしていた、オウムの信者達のようにね。
935名無しさん@3周年:2007/02/25(日) 13:58:13 ID:4NRsOMoT
>>931
やっと意味がわかりましたw。人間でもしゃべれない人や、
知的障害者などの人は、救われることを誰よりも望んでいるわけです。
昆虫は不幸である人間から比べたら、それよりも不幸であるから、人間よりも、
先に救われるべきであると言うことですね。
936名無しさん@3周年:2007/02/25(日) 14:58:26 ID:4NRsOMoT
マジックニカーヤ
p.257
戒ある者が、善き清らかな心で、行為(業)の果の巨なることを確信しながら、施すものを、法(正義)によって得て、劣戒の者たちに施すなら、その施物は、施者から清まる。
 劣戒の者が、清らかならざる心で、行為(業)の果の巨なることを確信することなく、施すものを、法(正義)ならざるによって得て、戒ある者たちに施すなら、その施物は、受者から清まる。
 劣戒の者が、清らかならざる心で、行為(業)の果の巨なることを確信することなく、施すものを、法(正義)ならざるによって得て、劣戒の者たちに施すなら、その施物は、両者からして清まることが、まさしく、ない。
 戒ある者が、善き清らかな心で、行為(業)の果の巨なることを確信しながら、施すものを、法(正義)によって得て、戒ある者たちに施すなら、まさに、〔わたしは〕その施しを「広大なる果あるもの」と説く。
 貪りを離れた者が、善き清らかな心で、行為(業)の果の巨なることを確信しながら、施すものを、法(正義)によって得て、貪りを離れた者たちに施すなら、まさに、〔わたしは〕その施しを「広大なる財施」と説く。


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937名無しさん@3周年:2007/02/25(日) 15:19:09 ID:4NRsOMoT

〔天の神々たちが言った〕「あるいは、物惜しみのゆえに、あるいは、怠り(不放逸)のゆえに、このように、布施は施されない。功徳を望んでいる者によって、
〔法を〕識知している者によって、施さるべき〔施物〕と成る。
 物惜しみの者が、まさしく、それがために恐怖して施さないなら、
それこそが、施さない者にとっての恐怖である。それがために物惜しみの者が恐怖する、
飢えと渇きとがあり、それこそが、この世と他〔世〕において、愚者に触れる。
それゆえに、物惜しみ〔の思い〕を取り除くように。〔世俗の〕垢を征服する者となり、
布施を施すように。諸々の功徳は、他世において、生あるものたちの依拠するところと成る。
 諸々の道を共に行く者であるかのように、少ないなかで献じ捧げる者たち――
彼らは、死せる者たちのなかにあって、死ぬことがない――これは、永遠の法(真理)である。
或る者たちは、少ないなかから献じ捧げ、或る者たちは、多いなかから施そうとしない。
少ないなかから施された施物は、千に等しいものと量られた。
938名無しさん@3周年:2007/02/25(日) 15:21:16 ID:4NRsOMoT
施し難きを施し、為し難き行為(業)を為す者たちにたいし、
正からざる者たちは、従うことができない(正しくある者たちの真似はできない)。
正しくある者たちの法(教え)は、捉えどころなきもの。それゆえに、正しくある者たちと、
正からざる者たちとでは、この〔世界〕から赴く所(他世)は、種々なるものと成る。
正からざる者たちは地獄に行き、正しくある者たちは、天上を行き着く所とする」〔と〕。
〔世尊は言った〕「落穂を拾って〔世を〕歩む者――
あるいは、妻を〔養い〕人に〔仕えながら〕少ないなかで施す者――
〔彼は〕法(正義)を行じおこなうであろう。千の祭祀をする者の百千の、
それら〔の祭祀〕は、そのような類〔の施し〕の、〔十六分の〕一にさえも値しない」〔と〕。
〔天の神が尋ねた〕「どうして、これらの者たちの、
広大で、大いなる価値ある祭祀は、
正しい者によって施された〔施物〕の価値に至らないのですか。
千の祭祀をする者の百千の、それら〔の祭祀〕は、そのような類[たぐい]〔の施し〕の、
〔十六分の〕一にさえも値しないのですか」〔と〕。
〔世尊は答えた〕「或る者たちは、正しからざることに固着して施します――
〔生き物たちを〕切り、打ち、しかして、憂い悲しませて。
その施物は、涙の顔をした、棒(暴力)を有するもの、正しい者によって施された〔施物〕の価値には至らないのです。
このように、千の祭祀をする者の千の、それら〔の祭祀〕は、
そのような類〔の施し〕の、〔十六分の〕一にさえも値しないのです」
〔と〕。
939名無しさん@3周年:2007/02/25(日) 15:27:13 ID:4NRsOMoT
サンユッタニカーヤ
尊師よ、まさに、布施は、善きかな。少ないなかの布施もまた、善きかな。
信による布施もまた、善きかな。法(正義)によって得たものからの布施もまた、善きかな。
弁別しての布施もまた、善きかな。さらにまた、生き物たちにたいし、自制ある者もまた、善きかな。
生き物と成ったものたちを傷つけずに歩み、他者の悪態ゆえに、悪を為さない者――
〔人々は〕恐怖ある者を賞賛する。まさに、そこにおいて、〔恐怖なき〕勇士を〔賞賛し〕ない。
まさに、恐怖ゆえに、正しくある者たちは、悪を為さない」〔と〕。
〔世尊は言った〕「布施は、諸々の信によって、多種多様に賞賛された。
しかしながら、布施よりも、まさに、法(真理)の句こそが、より勝っている。
まさに、正しくある者たちは、まさしく、過去において、まさしく、さらなる過去において、知慧を有する者となり、
まさしく、涅槃に到達した」〔と〕。
pp.22-3
〔天の神々たちが言った〕「人間たちにおける、諸々の欲望〔の対象〕は、常住のものとして存在しない。
この〔世には〕、〔迷いの者によって〕欲せられるべき諸々のものが存在する
940名無しさん@3周年:2007/02/25(日) 17:12:41 ID:4NRsOMoT
941名無しさん@3周年:2007/02/25(日) 18:16:26 ID:4NRsOMoT
>>940
以上には、布施の功徳が説かれているが、その原因は説かれていない。原因と言うのはどのような理屈で、
布施と言う行為が発生するのかと言うことである。
 ここに言われる布施、は現代における慈善の寄付のことと理解すべきものだろうか?
現代日本は概ね民主主義体制である。税金から憲法で保障された最低生活の為の資金が支出される。
世界の中の貧窮の国に対しては、国連を通して援助がされるような体制になっている。
 この原始経典のままを現代に適用しようとすれば、賄賂の供与をすることになら無いだろうか?
942名無しさん@3周年:2007/02/25(日) 19:52:14 ID:4NRsOMoT
いかにインドと言う文明国家であったとしても、現代の様に公平な税制があったとは思えない。
聞いたことが無い。
943名無しさん@3周年:2007/02/25(日) 20:40:46 ID:JERsaxjf
>>932 布施を承けとる人がいなければ布施する側は布施できない。
執着や貪欲を捨てるトレーニングのひとつと考えれば、
最初は礼を言われたいと思いながら布施してた人も、
だんだん執着なく布施するようになっていくのでは?
大乗の六波羅蜜にも、布施と忍辱が入れられてますね。
布施は貪りを捨てる訓練で、忍辱は怒りを捨てる訓練ではないでしょうか。
訓練だから、最初から完璧にできないのが当然で、
反復練習によって身についてくるものなのでは?
944名無しさん@3周年:2007/02/25(日) 20:48:54 ID:JERsaxjf
あと、布施や寄付に感謝したり、
その布施した人の善行(訓練が進んだこと)を喜んだりするのはいいと思います。
しかし、布施や寄付をもらったと意識しすぎると、「借りができた」みたいな引け目みたいな感覚になると思います。
さらには、沢山布施できるお金持ちに、
より沢山の「借り」があるような感覚になってしまいます。
でも、それはおかしいでしょう。
まったく布施する余裕がない人もいるだろうけど、
そんな人でも内心布施したいという気持ちがあるなら、
いっぱい布施しているお金持ちと同じレベルなはず。
それなのに僧侶が金持ちにだけヘーコラするなら、それは間違いだと思います。
布施しない人も、本当は布施したいけどサイフの事情で布施できないだけかもしれない、
と思うべきでしょう。
945名無しさん@3周年:2007/02/25(日) 21:46:14 ID:4NRsOMoT
やはり布施の完成の原理は知恵の完成であるといわなければならないと思いますね。
相手、全ての対境は、自分の身体と同じもの、即ち、「一」であると言う理由により、
布施は行われなければならないと言う道理になると思います。
 色と言うと自分の身体に対して存在するものすなわち対境と言われるもの、と考えるならば、
どうも道理がある展開にならないのですが、色というものを、自分の身体をも含めてのもので、
それと区別できるものは、心しかない、と言う一応の判断の故に、生ずる概念と考えねばならないと思います。
相すると自分の身体も目に見える一切の物は色に相当するのであり、それが縁起物であるから、速やかに空相無層一相と
思うことが出来る。次ぎに、残るところの心は、これも縁起ものと見なすに困難は無いから、
一切は空であり、無相であり、一相であるとして、差別の思いがある場合その差別の思いを打破する為に、
布施の行為をする必要が、修行者にはあるのである。差別感情をかもし出すケースは修行者に取り歓迎すべきものとなるのでは
無いだろうか?(思いのままに書いた)
946カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/02/25(日) 22:33:00 ID:rpxa5fW+
>>944
自分の働きに応じた報酬をえるのはなにも間違いではない。
当然のことだ。なにゆえ、そのような者が施しを受けたからと、どうして
引け目を感じる必要があるのだろうか。
布施をしてもらった人を、正しく導いたのなら、その働きに応じた報酬を受け取るのは
当然のことであり、また、真理を悟る者なら、なんの利益を当てにすることなく、
法を説くものだ。布施を当てにし、法を説く者など、堕落しており、彼は真理を悟っていない。
そのような者は、施しを与えるのに値しない。が、このような愚か者でも、本当に困っているのなら、
助けてやれ。それが本当の布施というものだ。
相手に対して、なにもしてやれない者が、他人に施しを受けたのなら、引け目を感じるのは当たり前のことだろう。
せめて感謝の気持ちくらい持て。なにもしてやれなくせに、自分は施しを受けるのは当然だと
いけしゃぁしゃぁと、感謝の気持ちもなく、遠慮なくいただいてる御仁は、単なる厚顔無恥な、愚か者である。
そのような者に布施など与えるに値しない。ただそのような愚か者でも、本当に困っていたのなら、何の見返りも
期待せず助けてやれ。それが布施というものだ。布施を与えることで、返って相手に悪業を積ます結果になるのなら、
最初から、布施など与えない方が良いものである。人を己のエゴの為殺そうとしている者達がいるとする。
そのような者たちに布施を与えるのは善業にはならない。布施を与える相手を間違えているといっているのだよ。
947カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/02/25(日) 22:35:04 ID:rpxa5fW+
布施を当てに法を説く者など、全てまがいものである。
無所有が良いことだと、自分達はむしょゆうをつらぬく傍ら、在家には所有させ、
在家の所有物から飲み食いするのが良いことだという道理はない。
真理を悟るものなら、自分達の食いぶちは、自分達でなんとかすればどうだ。
僧団なら尚のこと、農業でもやり、自給自足すればいい。そして必要な人がいれば、
自分達の食い物を、分け与えてやればいい。ならば畑などの所有物も、所有物とならず、
清い心の持つ者の所有物は、汚れることなく清められる。法を説く者なら、まず自分達の方から、
他人に分け与えることをすればどうだ。布施を当てに法を説いたところで、何の益があろうか。
ただ自分達の所有物に執着し、それをおびやかす者と争う心が芽生えたところに、堕落が始まる。
執着するなとは、そういうことなのだ。
多くの宗教団体の布施に対するアプローチは間違っていると思っている。
彼らの思想のベースは、仏教から来ている。釈迦の残した僧団、サンガは発展するどころか、
滅亡してしまった。それが全てを物語っている。
948カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/02/25(日) 22:40:55 ID:rpxa5fW+
自分の働きに応じた報酬を得ることは何も悪いことではない。
何の引け目も感じることなく、受け取ればいいだろう。
だが、よこしまの気持ちで、他人に施しを与える偽善者がいる。
彼らを導く能力もない、またはなから導くつもりもない者が、他人に施しを与える
ことは当たり前だと、いけしゃぁしゃあと、受け取るのは、単なる不正である。
949名無しさん@3周年:2007/02/25(日) 22:44:13 ID:JERsaxjf
>>946 布施をもらったら感謝しろと言う裏側には、
布施をくれない人には感謝しなくていいという、
くれる人とくれない人にとの差別があるのでは?
くれる人にもくれない人にも感謝するという平等か、
もしくはどちらにも感謝しないという平等でいいのでは?
950カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/02/25(日) 23:05:17 ID:rpxa5fW+
>>949
屁の理屈。

別に無理にわかってくれなくていいよ。
聞く耳のない人に、どんなに話したところで曲解、
相手の真意を捻じ曲げ、揚げ足取りなどで、相手の真意を理解しようとはしないものだ。
951名無しさん@3周年:2007/02/25(日) 23:12:01 ID:4NRsOMoT
>>947
>釈迦の残した僧団、サンガは発展するどころか、
滅亡してしまった。それが全てを物語っている。

仏教は救いの原理を尊重したのだ。その原理に基づいた教団は大変高度な団体であろう。
しかし、イスラムやキリスト教の様に、救いの原理を強調しないで、一つの心の集団とその拡大を求める者には、
人々は加入しやすいのではないだろうか?今の創価もその類の一つでは?しかし、哲学のない集団は、
内部問題に対処する智慧を持たず、発揮できないのだ。キリスト教内部の戦争、今のイラク内部での戦争がそれを証明していると思う。
所が、仏教内部での戦争とは未だ無いのではないだろうか?聞いたことが無いのだ。それは哲学があるからではないだろうか。
インドでは仏教はほとんど無いに等しくなったが、東洋に於いて生き残ったではないか。
日蓮は仏教を誤解して、哲学を廃した為に、今度の大戦争に影響を与えたといわれている。
仏教は智慧の宗教なんだな。欲の宗教ではないのだ。欲を満足させる智慧ではなく、平安に導く智慧である。
この相違がなかなか理解されず実行できないのでは?
952カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/02/25(日) 23:47:12 ID:rpxa5fW+
>>951
おや自分の信仰する仏教を貶すキリスト教徒の私に腹を立てるか?
その心はどこから来る?自分の宗教に執着する者、この世のものに執着する者。
彼らはその執着する心ゆえ、自分の価値観のあわない者と争う。
執着する心は、エゴを生み、エゴは、私とあなたを分かつだろう。
だからこの世のもの全てのものに対し執着するな。執着はあなたと他人が争う心を生むのだ。

一神教はあれはあれでいいのだよ。
今の一神教は、真の一神教のイミテーション。あれはあれで意味がある。
聖書の預言とは、言葉を預けるものである。みよ、世はまさに、預言の通りに進んでいる。
中東の出来事は、何も偶然なものではないのだよ。
執着する心の無くなった者、本当に心が解脱した者に、もはや戒律は必要ない。
次の時代、今の一神教は言うに及ばず、既存の宗教は全て姿を消すだろう。
偽預言者共は、全て封印されるのだ。
その時代に人々は初めて、今まで受け入れなかった真理を受け入れ、自分自身を知るだろう。
だが、その前に、大いなる苦しみが待っている。それは生みの苦しみなのだ。
そして神との新しい契約、新約は成就される。

キリスト教が優れている。いや、仏教の方が優れている。
イエスは釈迦より偉大だ。なにを言う、イエスなど釈迦の足元にも及ばない。
こんなことは愚か者の言うことだ。キリスト教がどうだの、仏教がどうだの、そんなことはどうでもいい。
真理は一つだ。我々を救うのは、何々教ではなく、元からある、永遠不変の真理だけなのだよ。
953名無しさん@3周年:2007/02/26(月) 00:04:22 ID:RAO/JOPQ
うん、同意。
954名無しさん@3周年:2007/02/26(月) 00:23:17 ID:RAO/JOPQ
>>952
>聖書の預言とは、言葉を預けるものである

これの説明を求む。
955カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/02/26(月) 02:14:52 ID:4wFYmuwS
>>954
黙示録などは預言の最たるものだ。
預言とは言葉を預けるものである。つまり計画書のようなものだ。
旧約は、イエスの十字架により成就された。
旧約の詩篇と、新約のイエスの十字架のエピソードなどは、その象徴的なものだ。
あれは後の者が、旧約の預言の成就の為に編集されたものなのだろう。
預言とはそういうものだ。予言とは違う。

そして、世は新約の通りに動く。これは今も綿々と真の一神教が生きている証拠であり、
真のキリスト教が生きている証拠である。今表立ってあるキリスト教などはイミテーション。
真のキリスト教は、表に出ることなく、今も裏で綿々と息づいている。そして新約は成就される。
イエスの十字架により、旧約が成就されたようにね。

俺の言っていることがトンデモなのか、真なのか、後の歴史が証明するだろう。
執着する心の無くなった者、本当に心が解脱した者に、もはや戒律は必要ない。
人々に意識革命を起こさせるほどの、大いなる苦しみがこの先に待っている。これは生みの苦しみ。
これこそ大乗であり、全世界を巻き込むスケールの大きな真の大乗。新約は必ず成就されるよ。必ずね。
956名無しさん@3周年:2007/02/26(月) 04:14:43 ID:+alT+EyY
>>955
変な新興宗教止めた方がいいよ。マジで・・
957名無しさん@3周年:2007/02/26(月) 15:32:44 ID:BfcFhI5Z
真実のキリスト教の歴史は血塗られた歴史だ、殺しと侵略が本質だ。

建前は何とでもいえる。処女を装う売春婦だ。

ブッダの不殺生戒などクスリにもしたくないだろう。
958名無しさん@3周年:2007/02/26(月) 17:23:43 ID:RAO/JOPQ
>>957
>真実のキリスト教の歴史は血塗られた歴史だ、殺しと侵略が本質だ。

十字軍と三十年戦争、他にどんなものがありましたか?
959名無しさん@3周年:2007/02/26(月) 18:27:17 ID:RAO/JOPQ
>>957
>建前は何とでもいえる。処女を装う売春婦だ。
ブッダの不殺生戒などクスリにもしたくないだろう。

これ等は重要な教義とすると重大な問題が生じるが、イエスは重要な教義としていない。
「神のみ心を行うものが私の父母兄弟である。」とか、「私は立法を排するために来たのではなく、立法を確立するために来たのである。」
今は教義に付いて話している。信者がどの様に教義を実行したかではなく。
960名無しさん@3周年:2007/02/26(月) 18:30:22 ID:RAO/JOPQ
>>959訂正 立法→律法
 他に論理的に瑕疵があるが、ま、いいかw。
961名無しさん@3周年:2007/02/26(月) 18:37:09 ID:DI73r8kY
魔女裁判
カタリ派大虐殺
聖バルテルミーの大虐殺
スペインによる中南米侵略
マウンテンメドウの大虐殺〜ユタ戦争
北アイルランドのカトリック・プロテスタント抗争

キリスト教&虐殺でぐぐるとたくさんでてくる
962名無しさん@3周年:2007/02/26(月) 18:39:41 ID:BfcFhI5Z
真実のキリスト教は「聖書」の中にはなく、
真実の仏教は「大乗」の中にはない。

売春婦が処女であることを前提に語っても無効=欺瞞でしかない。
963名無しさん@3周年:2007/02/26(月) 19:12:44 ID:xN149wLy
聖書の中でイエスの言葉のみは価値がありそうに感じる。
で、イエスのセリフ「右の頬を打たれたら左を差し出せ」
「コートが2枚あれば、1枚は持ってない人にあげなさい」
これは「怒るな」「貪るな」という「貪瞋癡」のうち2つ。
これがキリスト教のコア、仏教と共通する真理と思う。
964名無しさん@3周年:2007/02/26(月) 19:18:29 ID:RAO/JOPQ
>>962
>売春婦が処女であることを

マリアがどうして売春婦か?
965名無しさん@3周年:2007/02/26(月) 19:55:13 ID:DI73r8kY
マグダラのマリアと間違えてるんだろ
966名無しさん@3周年:2007/02/26(月) 20:05:32 ID:RAO/JOPQ
>>962
詳しく隠れている真実を両者とも開陳してください。
967名無しさん@3周年:2007/02/26(月) 22:19:02 ID:RAO/JOPQ
真実が「一」であるのと関係して一子児思想というんが菩薩の十地にあるのだが。
一子児と言う表現は間違っているかもしれない。
968カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/02/26(月) 23:01:02 ID:4wFYmuwS
キリスト教は君ら仏教徒にとっては馬鹿馬鹿しいものだと感じるだろう。
実はさ、本当のキリスト教は、表立ってはでてきていないんだよ。
世間に表だって出ている今のキリスト教は、本物のキリスト教のイミテーションなのさ。
ほら、マリアの処女受胎があるだろ。もちろんあんなのは嘘さ。
肉の姿をしたイエスという男は、もちろん処女から生まれたのではない。
処女から生まれたのは、「人の子」なのだ。人の子は処女から生まれ、聖霊から生まれた。
これを、聖書では、肉の姿をしたイエスの誕生を、マリアの処女受胎に喩えたのさ。
それを、今、表に出ているイミテーションでしかないまがいもののキリスト教会は、その聖書文言のまま、
自分達の教義にしているのさ。カトリックにはマリア崇敬というものがある。
これも、本当の聖母崇敬のイミテーション。はっきり言って、イエスという名の男の肉の母、マリアには
何の価値も無い。聖母崇敬の本当の意味は、知恵の女神、ソフィアに対する崇敬のイミテーションなんだよ。
もちろん女神とは、君らが思うような存在ではない。彼女は知恵の象徴。
人の知恵は「言」によって成る。「言」は識別するもの。この世は相対世界。「言」は万物の母である。
「言」による知恵は、私とあなたを分け、「人」を殺したが、「言」による知恵が再び我々を一つにし、
「人」を再び生ける存在にするだろう。
969名無しさん@3周年:2007/02/26(月) 23:05:39 ID:RAO/JOPQ
>>968
キリスト教の話になると俄然と非論理的になるね。

 今日は今から寝る、お先に。
970カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/02/26(月) 23:08:36 ID:4wFYmuwS
「言」を持たない獣は、悲しいかな、悟りを得ることはない。
「言」による知恵は時に聖霊ともなるが、「言」による知恵は、時に悪霊となる。。二つは表裏一体なのだ。
聖霊による知恵は「人」を生かすが、悪霊による知恵は、「人」を殺す。
聖霊は処女のままであり、彼女は「人の子」を生んだ。マリアの処女受胎の話は、これの喩えだ。
反して、悪霊とは姦淫の子供を生み、姦淫により出来た子供は全て呪われる。その報いは、死だ。我々は
姦淫で出来た子なのだよ。イエスという肉の姿をした男はさして重要ではない。重要なのは、彼の言葉だ。
死んでいる者達は、死んでいるものを食べ、死んでいるもの、つまりこの身体を生かす。
だが生きている者は、生きている者を食べ、自ら生ける存在となるだろう。イエスの言葉は、生けるパンである。
人の心は「言」によって成る。言葉は、人の心を生かしもするが、殺しもする。
彼の言葉は、聖霊であり、聖霊は彼を生んだ。聖霊とは父の御心。彼女は父の内にあり、子も父の内に在る。
父とは、絶対なる存在、「一」である。

イエスの道は、己のエゴを滅ぼす道。
イエスという名の男は、十字架のによる御業により、自らを男性にした。そして彼は再び命を得た。

女は男を求め、二人は一体となる。
971カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/02/26(月) 23:34:26 ID:4wFYmuwS
>>969
>キリスト教の話になると俄然と非論理的になるね。

それは君の固定観念。別に非論理的な話をしているわけではない。
ま、無理にわかってくれとは言わないが。
キリスト教=非論理的という固定観念に凝り固まっている人にはなにを言っても無駄だろう。
はなから聞く耳のない人に、なにを言っても無駄だということはよくわかっている。
同じ思考実験のレベルでの話をしていても、仏教思想による、仏教用語による説明なら受け入れられるが、
他の思想による、思考実験レベルの話は受け入れられないというのは、その人の執着によるものである。
仏教という宗教のね。なんにせよ執着は、己の心にエゴを生む。悲しいかな、盲人は、盲人のままである。

スッタニパータ
>〔世尊は答えた〕「アジタさん、〔あなたが〕尋ねたこの問いについて、それを、あなたに説きましょう。
>名前(名)と形態(色)とが残りなく消滅する所とは、識別作用(識:認識作用一般、
>自己と他者を識別する働き)の止滅によって、この〔名前と形態〕が消滅する、〔ほかならぬ、いま〕この場のことです」〔と〕。

名称は何によってなる?ここで釈迦はないを言いたいのか?簡単な話だ。
名称は「言」によってなる。名づけられたものは、全て相対する縁起を生むだろう。
この世界は縁起によってなる。この世界の創造主は誰か?智慧のある人ならすぐに気付くだろう。
972カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/02/26(月) 23:39:23 ID:4wFYmuwS
もちろんここでいう名称は、たとえばここにビルがある。
このビルを、六本木ヒルズと名づけよう。というレベルの話をしているのではない。
私は、「人」の知恵の話をしている。「言」は人の心にしか持ち得ない。
言葉は識別するもの。そして言葉は、善と悪を分ける知恵を、「人」にもたらした。
この世界は、縁起の支配する、相対世界である。
973名無しさん@3周年:2007/02/26(月) 23:39:51 ID:YZoOLoY5
>>971
>名称は「言」によってなる。名づけられたものは、全て相対する縁起を生むだろう。
>この世界は縁起によってなる。この世界の創造主は誰か?智慧のある人ならすぐに気付くだろう。

>この世界の創造主は誰か?

唯識?
974カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2007/02/26(月) 23:55:49 ID:4wFYmuwS
>>973
唯識の思想は大変興味がある。だが、
大乗思想から生まれた唯識は、空の思想の呪縛から解けずに、
自性を認めない。縁起=無自性=空。などというのは、この幻影でしかない
この世界の説明をしているに過ぎない。
釈迦は輪廻からの解脱を説いた。なのに輪廻の主体ともいえる、縁起にいつまでも囚われて、
どういうことか。この世界は縁起で成り立つ無自性な、空である。

完全な無からは何も生まれないし、何も存在できない。
それはこの幻影でしかない、この世界しかり。
完全な無からは、幻影ですら生まれ得ないのだよ。だが幻影でしかないこの世界でさえ、
”今ここ” には存在している。

相対性理論から導かれるもので、特異点というものがある。
今現在は、宇宙は膨張しているそうだが、時間をさかのぼっていけば、宇宙はどんどん小さくなり、ついには点。
いや、物理的には、完全な無になるそうだ。物理的にはね。だがその状態のとき、エネルギーは∞、無限大にある。
これは理論的に証明されているものだ。これは完全な無ではない。あくまで物質的には、ゼロだが、
エネルギーは無限大に在る。私はその存在のことを言っているんだよ。
975悟りは要領:2007/02/27(火) 01:14:22 ID:e1Mz6vqx
キリスト教は、パウロというウデのいい脚本家が、
「神の子の死」という逆説のパズルを、贖罪→復活→再臨というスタイルで演出したことに始る。本質はパウロのフィクション教だ。
しかし、死の間際に“エリ、エリ、ラマ、サバクタニ”と叫ぶ男が、自らの死と復活を予言し、その宗教的説明をあらかじめ説示していたとするのは無理がある。
パウロの演出過剰だ。

 だけど、一休の『死にとむない』(本阿弥行状記)とともに、人間としての遺偈として秀逸であることは確かだ。

>>964  比喩をトンチンカンに実体化するなよ。

大乗仏典も全て、パウロの演出と同じく「如是我聞」を付けたフィクションだ。
ブッダの不妄語戒に反する事はいうまでもない。
976名無しさん@3周年:2007/02/27(火) 12:19:56 ID:guxyuTA+
>>971 創造主が初めに造った二人の人間は、男女のカップルでした。
なぜなら、言葉による分別を覚えて世界を創造していく赤ちゃんが
最初に認識する人間とは、
両親だからです。
なぜ人間は神に似せられて造られたのか。
両親をはじめとする人間は
赤ちゃんにとって自分に似た存在だからです。

さて、赤ちゃんが認識世界を創造蓄積していくわけですが、
赤ちゃん自体は縁にしたがって言葉や認識を学んでいくわけだから、
赤ちゃんという創造主の背後には縁起があるともいえますね。
聖書は発達心理学なのか?
977名無しさん@3周年:2007/02/27(火) 12:25:38 ID:guxyuTA+
>>974 唯識が自性を認めないという意見には疑問を感じます。
識それ自体の自性は認めてるのでは?
「円成実自性」とか言いますし。
978名無しさん@3周年:2007/02/27(火) 18:43:06 ID:GwMGjbqy
>>976
聖書の天地創造説は、人々を神に導くための、モーゼの方便であると考えるべきです。
したがってそこには、モーゼの認識した世界があるのであり、モーセ以外の人の認識とは
は交えていない。しかし、モーゼの認識は、他者との認識と概ね一致したものでした。
そこにはたいがいの人が持つ間違いも、不可解に思っている不思議も、すばらしいと思っている事象も、
問題も、解決も、希望も、みんな含んでいるので、他の人にも理解できるのだと思います。
しかしモーゼほど、すべてを網羅した世界を神の創造に帰した人はいないんじゃないでしょうか?
日本神話でも重なるところがあるでしょう、しかしモーゼの世界ほど完全ではないのでは?
 もーぜははじめに神は天と地を創造したとしていますよね。天だけを創造しその次に地を創造したのではないのです。
一対のものとして天と地を創造したのです。ここに縁起があるというべきです。
これに拘束されてその他ものが順次創造されていくと言うべきであり、ここにモーゼの認識が顔を出しているのであると思います。
方便の仕方を決定するモーゼ個人の認識です。
979名無しさん@3周年
そうそうギリシャ神話の天地創造も、同じものとして解釈すべきである。
 法華経は、全てのものが仏となれることを驚くべきこととして解き明かしているが、
原始経典で、修行を完成させて涅槃に入った人は、釈尊と同様のものとしていると思う。
シャーリプトラは釈尊から全服の賞賛を受け、自分の亡き後はシャーリプトラが法輪を回す人であると、
他の人に話している。また、釈尊は自分には「師の握りこぶしはない」と言明している。
全てを教え、シャーリプトラを称賛しているのであるから、彼が未だ学ぶところが残っている有学の人、
智慧の完成を達成していない人と観ていると、考えるのは間違っていると思う。
 それじゃ何故大乗仏教で、仮にも、シャーリプトラが声門であると貶され、その様に描かれた
般若経典などがあるのかと言う疑問が生じるが、それは、部派仏教に対する牽制である、と見なすのが相当であると思う。
それを法華経に置いて訂正せざるを得なかったのである。そんなわけもあって、法華経は経典としては、
失敗作であるといわれるほどの、経典となっているのである。それから、このようにシャーリプトラを声門と貶した罰として
法華経と言う失敗経典を作ることになったのは、大乗の自業自得というべきである。そして、大乗派は
これでも足りないと観じて、涅槃経を作ることになった。ここにおいては、原始経典の忠実な解説及び、原始経典擁護の
教説をなすことになったのである。涅槃経典が法華経の後に出来たものであることは、史実と言うことである。