原始佛教 その19

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317名無しさん@3周年
空と無自性と微妙に違う感じがする。

空はカラ箱、箱はある感じ。
だから、「色は無我」「色は空」は同じ事を表現している、とも見なせる。
色の中にアートマンがあると思っていたら、じつはカラだった、と。

しかし、無自性は、それ自体の存在が無い、という感じ。
水面に映った月がじつは無いものだ、というような。
318名無しさん@3周年:2006/10/27(金) 20:10:35 ID:7SM7A++9
>>311
私は深いと思います。妥協や先入観を持たない徹底的な論理思考は、仏教学・インド学の革新に留まらず、
世界的パラダイム・チェンジに至る可能性もあるとさえ思います。

ぜひ、読んでみてください。机さん。
319名無しさん@3周年:2006/10/27(金) 20:15:03 ID:7SM7A++9
>>317
無自性は、何かそれであると考えられているもの、本質がないという意味と
中観では使用され空と同義です。

色という本質、それ自体がない、それが無自性、空。
けれども縁起して色として仮設される。

320名無しさん@3周年:2006/10/27(金) 20:17:08 ID:bwwbuf3D
一つ、世俗「諦」というのだから、これも真理。尊重せねばならない。<空仮中の仮>
二つ、勝義諦では、まず、生じない、とする。よって、滅することも無い。生滅せず、となる。<空仮中の空>
三つ、中観でいう「中」と、釈尊の快楽・苦行の二辺を離れた中道と、質が異なる感じがするが、いま詳説はできない。
321名無しさん@3周年:2006/10/27(金) 20:36:11 ID:wcUeXr+4
>>319
言いたいのは、原始仏教での文脈で出てくる「空(シューニヤ)」と、中観での「空」には
意味に変遷があるのではないか、ということです。

なにせ数百年の間隔があるわけで、変化がゆっくりしていた古代だとしても、
周囲の思想状況も異なっているから、当然、意味に変化があってもおかしくはないので、
その時代状況に合わせて、中観では、「空」が「無自性」という意味で使われるようになったのではないか、という疑問です。
322名無しさん@3周年:2006/10/27(金) 21:45:49 ID:7SM7A++9
>>321
そうですね。私は説き方は変わっても、本質的意味に変わりはなかったような気がしてます。

中観と原始仏教はかなり近いと思います。
遠いのはアビダルマや唯識ではないでしょうか?

きっちり、詰めてませんので単なる印象です。

『小空経』と唯識は接近してたりしますが
323名無しさん@3周年:2006/10/27(金) 21:49:39 ID:3uz+Oi37
十大弟子の須菩提(しゅぼだい)

増一阿含經三「恆樂空定、分別空義、所謂須菩提比丘是」
  つねに空定を楽しみ、空義を分別す、いはゆる須菩提比丘これなり

また、般若経の聞き手としても登場する。「スブーティよ、・・・。スブーティよ、・・・」

北伝では解「空」第一だけど、南伝だと、解「脱」第一なのかな。
324名無しさん@3周年:2006/10/27(金) 22:06:37 ID:j9VUtY91
>>322
時代の要請に直截に対応する立場と、残された教えを墨守(悪い意味はなく)する立場とがあり得る、と思いますが、
それぞれに価値があって、相互補完の関係にあり、どちらも捨て難いものがある、と。
しかし同時に、どちらか一方の立場を極めることも有意義であると。

中観は当時の状況に思想的に対応して、ああいう形を採ったのではないか、と今のところ思っています。
当時の説一切有部などの部派にも、それ自体の価値はあったと。
また中観派の中でも、プラーサンギカ派が龍樹の思想を墨守するものとすると、自立論証派も
当時の状況の中で中観思想を展開しようとしたのではないか、という印象を持っています。
325名無しさん@3周年:2006/10/28(土) 00:19:42 ID:c1pOyGzu
中観派の場合、
縁起だから無自性である、無自性だから空である、
縁起だから空である、
という順番らしいです。
逆の説き方はしていない。
空だから無自性である、
無自性だから縁起である、
空だから縁起である、

などという言い方はしていないらしい。
326名無しさん@3周年:2006/10/28(土) 00:34:47 ID:c1pOyGzu
>>317
水は、水素と酸素がくっついたものであり、つまり縁起したものである。
だから、
水という元素それ自体は存在しない、無自性である。
したがって、水というものは
有でもなく無でもなく、しかもまた有であり無である、
つまり空である。
水は縁起である。
縁起であるので無自性である。
無自性であるので空である。

逆の順番での説明は難しい。
いきなり、水は空であるという結論からは入れない。
いきなり、水それ自体はないから水は縁起だ、なんてチンプンカンプンになる。
証拠がわかってから犯人がわかるのであり、
犯人がまずわかってから証拠がわかるのではない。