輪廻を超越したというお釈迦さまの言葉から、前世や生まれ変わりについて
考えてみましょうか。
二つのポイントを説明し、最後にその答えにアプローチします。
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(1)『縁起と無常・無我』 ― 釈迦の論理思考
釈迦は、一切のものごとは全て無常である。だから無我(非我)である。
(恒常不変の我ではない、真我ではない)と説きました。
なぜ、「一切は無常・無我(非我)」であると言えるのかというと、それは
一切が「縁起」によって成り立っているからであると説明しました。
「縁起」とは、ものごとはすべて相互依存関係で成り立っており、そのもの
単独で成り立つものはなく、一方が変化すれば、もう一方も変化する。
こうして常に一切は変化し続ける、ということです。
仏典にいわく、
「是あるに依りて彼あり、是なきに依りて彼なし」
「是生じるに依りて彼生じ、是滅するに依りて彼滅する」
という、単純明快な因果関係(相依関係)。
これが、まず第一におさえておく点。
釈迦が迷信・妄信を排するために用いた論理思考の根幹です。
(2)『すべてとは何か』 ― 釈迦がいう「一切」とは何か
また、ここで言う「一切」とは何でしょうか。
[引用]
みなさん、わたしは「一切」について話そうと思います。
よく聞いて下さい。「一切」とは、みなさん、いったい何でしょうか。
それは、眼と眼に見えるもの、耳と耳に聞こえるもの、鼻と鼻に匂うもの、
舌と舌に味わわれるもの、身体と身体に接触されるもの、心と心の作用の
ことです。
これが「一切」と呼ばれるものです。
誰かがこの「一切」を否定し、これとは別の「一切」を説こう、と主張する
とき、それは結局、言葉だけに終わらざるを得ないでしょう。さらに彼を
問い詰めると、その主張を説明できず、病に倒れてしまうかも知れません。
それは何故でしょうか。
何故なら、彼の主張が彼の知識領域を越えているからです。
「サンユッタ・ニカーヤ」 33.1.3
このように釈迦は、現実を「認識主体」と「認識対象」とにわけて、その
相互依存関係(縁起するもの)を「一切」と呼びました。
(3)『魂とはなにか』
ここで「前世」や「生まれ変わり」、そして、その主体としての「魂」に
ついて考えてみますと、「認識主体」は身体との相互依存関係で成立している
機能です。
「認識主体」としての意識を形成している、身体(現代的に言えば、脳や神経系)が
死んでしまった場合、この「認識主体」は何に依拠して成立するのでしょうか。
このような疑問がでてくるわけです。
その答えは、実は釈迦が最初に述べたこと。
(1)の中ですでに語られていると思います。