○●Я親鸞仏教質問箱R(その2)●○

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77渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
 年齢の計算で聖書は混乱を起こしている。恐らく二つ以上の単位系が併存し、異なった単位系の数字
を、足したり割ったりして調整しているんだろうと思う。聖書から見えてくるのは、時間の計測を、日
単位でなく、10日とか、100日とか、あるまとまりをもって計算しているという事実があると言う
ことである。つまり、彼等は原始人でありながら、毎日がだらだらと流れているのでなく、時間という
ものを、他の物理的現象、諸事実と別に、独立的に思考の対象にしているのだ。そこに僕は注目したい。
また僕は、その単位が、10日と100日とが基礎になっていると仮説を立てる。
 7日創造伝説とは、アダムを共通の先祖と仰ぐユダヤ一族国家で、ある時期に新たな改革を行う上で、
王が、10日・100日体系の古い秩序を打破し、新たな秩序の定着を意図して創造した神話であると、
僕はそのように考えている。

 万物の創造神の創造者、偶像崇拝を否定する偶像崇拝教、2段階創造神、多神教を否定した多神教、
マリヤ信仰とイエス信仰、モーゼ以前のユダヤ教とエジプト的ユダヤ教、イエス有罪論、ユダ濡れ衣論、
イエス冒険主義、事故だったイエスの死、復活と勘違い、昇天と虚妄、キリスト教の救い、仏像礼拝を
勘違いして笑うキリスト偶像崇拝教、等々。キリスト教論は議論していけば話が尽きない。まあ、それ
らは別の機会にし、神の本質に関する議論は一応ここで終わっておこう。

 キリスト教の神と浄土真宗の阿弥陀とは同一ではない。一方は、時間を発見した歴史上の人物であり、
他方は釈迦をモデルに創作した架空の存在だ。この二つを同列に並べて議論することは誤りだ。また、
釈迦はソクラテスやアリストテレスと比較して議論することは意味があると思うが、冒険主義者のイエ
スと同列のテーブルには並べない。冤罪を背負わされている可能性のあるユダと、釈迦の暗殺を謀った
提婆達多とを同列のテーブルで比較することも誤りである。地理上の方位を示すエデンの東と、象徴的
意味で表現している西方極楽浄土を並べるのも誤りである。
 仏教とキリスト教で、誤った比較論をする人が少しでも少なくなることを僕は祈っている。