○●Я親鸞仏教質問箱R(その2)●○

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455渡海 難  ◆Fe19/y1.mI
 広く三経の光沢を蒙りて、特に一心の華文を開く。しばらく疑問を至してついに明証を出だす。
誠に仏恩の深重なるを念じて、人倫の哢言を恥じず。浄邦を欣う徒衆、穢域を厭う庶類、取捨を
加うといえども、疑謗を生ずることなかれ、と。

 自分は、大無量寿経・阿弥陀経・観無量寿経という三つの経典を教わり、そこかに「一心」と
いうキーワードを発見した。一心というこのキーワードの意味に自分はしばらく苦しみ、そして
やがてその本当の意味に気がついた。この言葉の中には、先人達の深い心が込められている。こ
れは、法然上人にはなかった自分のオリジナルの主張である。今まで誰も主張した者はいない。
私の主張を聞けば「そんな馬鹿なことがあるか。お前の考えは間違っている。とんでもない奴
だ」と、このように誹謗するかもしれない。自分は、こうした誹謗、中傷があれば、それは甘ん
じて受けよう。しかし、極楽浄土を願う人々よ。今生の迷いの世界からの脱出を求める人々よ。
仮に、何かの考えを加え、あるいはまた何かを削除することはあっても、疑惑と謗りとを生じて
はならない。
 話を聞くだけで深く考えないということがあってはいけない。自分勝手に考えているが、人の
話をほとんど聞かないということがあってはいけない。方法論はあると信じながら、その方法論
を実践している人がいるということを信じないことではいけない。実践している人がいると知り
ながら、その人の方法論には関心をもたないということではいけない。これらは全て信不具足と
いう。これが疑惑である。疑惑の心を持って真実を中傷してはいけない。さあ、一心の意味を考
えていこうじゃないか。
 三経の一心とは何か。それは、阿弥陀経に出てくる。「一心にして乱れざれば、その人、命終
の時に臨みて、阿弥陀仏、もろもろの聖衆と、現じてその前にましまさん」。一心不乱に名号を
執持つまり南無阿弥陀仏を一心不乱に称えれば、絶体絶命の時であっても、阿弥陀仏はもろもろ
の聖衆共に救いにやってくるという。